般若心経


          背景 「玉泉院丸庭園(ぎょくせんいんまるていえん)」(令和2年7月20日 撮影)

第1回 「般若心経に親しむ」

平成29年9月9日 更新

第1回 「般若心経に親しむ」

仏教に関心がある人はもちろん、ない人でも、「般若心経」というお経があることは、ご存知ではないかと思います。般若心経は曹洞宗などの禅宗各宗派はじめ、天台宗や真言宗の密教系宗派で唱えられます。また、写経をされたことがある方は、一度は般若心経を写経した経験がおありなのではないかと思います。


お正月などのご祈祷で、お坊さんが太い経本を左右にバラバラと扇子を広げるようにしているのをご覧になったことがある方もいらっしゃるかと思いますが、あれは「転読(てんどく)」と申しまして、600巻もの長大な経典を転がすかのようにして、全て読んだことを意味しています。


この600巻の経典は「大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみったきょう)(大般若経【だいはんにゃきょう】)」と申します。それを古代インドのサンスクリット語から漢語に翻訳し、262字にまとめたのが、般若心経です。実際、262文字については、末尾の「般若心経」という言葉を入れるかどうか、また、お経のタイトルを入れるかどうかで、文字数が変わるため、様々な解釈が存在しており、文字数に関するはっきりとした定説があるわけではありませんが、だいたい260字程度のお経だと解釈をしておけばよろしいかと思います。


この般若心経を漢訳した人物の一人が中国・唐代の大経訳家の玄奘(げんじょう)(602~664)です。あの「西遊記」に出てくる三蔵法師さんぞうほうしというお

坊さんとして有名ですね。ちなみに三蔵法師とは仏教の「経蔵」・「律蔵」・「論蔵」の三蔵に精通した訳経僧を指し、玄奘は多くの三蔵法師の中の一人です。(他に玄奘以前の訳経僧で、最初に般若心経を漢訳した鳩摩羅什【くまらじゅう】も三蔵法師のお一人である)


そんな般若心経が説くみ教えとはいったいどんなものなのでしょうか?


それは、「諸行無常」の現実を受け止め、少しでも仏様のお悟りに近づいていくことです。


「諸行無常」というと、特に私たち日本人は「平家物語」の冒頭にある「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり」という一句を思い浮かべるからか、何だか寂しい印象を持ってしまいがちです。最愛の人との別れ。大切にしていた思い出の品々との別れ。諸行無常という言葉には、そうした決別とか最後(最期)という意味が込められているような気がして、どこか寂しさを感じずにはいられません。


しかし、この世で、永遠不滅のものはあるのでしょうか?いのちあるものは、この世に誕生したら、少しずつ、老いていき、そして、必ずや最期をむかえるのです。今、新築した家も、何十年か建ったときには、建て替えときがやってきます。それが諸行無常という「この世の道理(この世のしくみ)」なのです。そうした道理を受け止め(認め)、少しでも心安らかに、生き生きと毎日を過ごし、仏の悟りに近づいていくことが「般若心経」に込められた願いなのです。


また、諸行無常とは「万事が変化する」ということです。変化とは、決別のような寂しさを伴うものばかりではありません。成長のように喜びを伴う変化もあります。大切なことは自分だけの見方で変化を捉えないということです。すなわち、自分の都合や好みだけで、変化を選り好みせず、どんな変化も受け止めていくことが仏の悟りだということです。


諸行無常であるという日常を生かされている我々が、どのような生き方を目指していけばいいのか―?それが般若心経の約260字の世界の中には、凝縮され描かれているのです。 

第2回 「観音様のお悟り―“無常”を観ずる―」

平成29年9月19日 更新

観自在菩薩(かんじざいぼさつ)行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにゃはらみったじ)照見五蘊皆空(しょうけんごおんかいくう)度一切苦厄(どいっさいくやく)

今回から、実際に、般若心経の内容を味わっていきたいと思います。最初に、冒頭の一節をご紹介いたします。


近年(平成29年)は、“御朱印ブーム”だと言われております。確かに、以前から見ると、御朱印帳を持ってお寺にお参りにいらっしゃる方が増えたように思います。


そもそも金沢では、平成17年に北陸や西国に倣い、「金沢三十三観音巡り」が始まり、霊場となっているお寺で御朱印を書く習慣が誕生しました。「金沢~」は宗派を問わず、観音様をご本尊様に祀ってある市内三十三ヶ所のお寺が霊場となっていて、高源院も第29番霊場となっております。


こうした御朱印帳を持参してお寺巡りをする方の応対をさせていただく中で感じることは、“ご朱印集めのスタンプラリー”で終わっているようではもったいないということです。御朱印を通じてお寺や仏のみ教えに触れ、日常を仏と共に生きるきっかけとなってほしいというのが「金沢三十三観音霊場」の一つであるお寺をお預かりする私の願いです。


それはどういうことなのか・・・?


たとえば、観音霊場となっているお寺をお参りしたとして、御朱印が出来上がるのを待つ間に観音様に触れ、そのみ教えを味わうひとときがあってもいいのではないかということです。観音様とはどんな仏様なのか・・・?それを知り、そのみ教えを大切にしながら、これからの毎日を過ごしてみるということです。


そんな日常を考える上で、今回、提示させていただいた般若心経の冒頭にある一句は何かしらのヒントとなるでしょう。まず、「観自在菩薩」とありますが、これは観音様のことです。観音様は正式には、「観世音菩薩」と申します。世音、すなわち、私たちの日常生活の中で生ずる様々な音を観る菩薩(仏様)が観音様なのです。世音を具体的に申し上げるならば、たとえば私たちが日常生活の中で発する言葉であったり、心の底の声であったりと、この世のあらゆる音のことです。


次に、観は「見る」ということですが、見るだけでも大まかに6種類存在します。“見”、“診”、“看“、“視”、“覧“、“観”―紙面の都合上、細かい意味は説明できませんが、それぞれに異なる意味があります。中でも観音様の観は「広く見渡す、深く見通す」という意味があります。そこから解釈していくと、観音様は世音を広く、深く聞き取るはたらきを有した仏様であり、だからこそ、人びとの苦しみを取り除き、安楽を与えてくれる偉大な存在であることに気づかされます。観音様は常に世音を注視しながら、私たちに救いの手を差し伸べ、苦悩を取り除こうとしていらっしゃるのです。まさに「抜苦与楽」の仏様なのです。そんな観音様だからこそ、我々は感謝の意を表するべく、手を合わせるのです。三十三観音巡りは、そうした願いを持って行わるべきものなのです。


そんな我々の苦しみを取り除いてくださる観自在菩薩(観世音菩薩)様が、日頃のご修行で深い悟りの世界に達したとき、我々が体験するこの世のすべてには、実体がないということを見極められたというのです。それが「行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空」の意味するところです。


冒頭から、やや難しい言葉が出てきていますが、要するに、観音様は、この世の全てが「無常むじょう」であるということをお悟りになったというのです。つまり、ご自分の身の回りの何を見ても、永遠に存在し続けるものはないということに気づかれたということです。


きれいに咲き誇っている花も、いつかは散ってしまう。やっとの思いで新築した家も、月日が建てば、だんだん古くなり、いつかまた、立て直すときが来る。どんなに若さを保とうとしても、年を重ねれば、肉体は衰える。どんなに生きていたいと願っても、必ず死がやってくる。自分も含め、周囲の全てが、平等に変化していくのです。それが「諸行無常(しょぎょうむじょう)」というこの世の道理なのです。


そんな無常を全身で感じることが「無常観」といいますが、観音様が「無常観」を体得されたとき、心の中のあらゆる苦悩から救われたというのが「度一切苦厄」の意味するところです。「度」という文字は、頻繁に経典で使われる文字なので、ぜひ、知っておきたい言葉です。これは「渡る」を意味し、私たちが彼岸(悟りの岸)に渡って、心の苦悩から救われることを意味しています。観音様は何ごとも変化するという事実を知ったとき、今まで抱えていた苦しみから開放され、安楽を得たというのです。


観音様が抱えておられた苦しみとは何だったのでしょうか?それは、年をとりたくないとか、美しいままでいたいとか、死にたくないという「変化を望まぬこと」だったのです。誰しもそうした不変を望む気持ちはあります。しかし、そんな私たちの願いを叶えてくれるものは、何一つとして存在しません。そんな誰もどうしようもできないことを何とかしたいと願うから、苦しむのです。観音様は、そのことに気づいたのです。そして、「諸行無常」というこの世の道理をすんなりと受け止めることができたから、苦悩から解放されたというのです。


この冒頭部から学ぶことは、諸行無常を体得できれば、我々が抱える苦しみの多くがなくなっていくということです。無常を受け入れる中で、真実の生き方に気づいていきたいものです。

第3回 「観世音菩薩の語らい ―“中道”を歩む―」

平成29年10月1日 更新

色不異空(しきふいくう)空不異色(くうふいしき)色即是空(しきそくぜくう)空即是色(くうそくぜしき)受想行識(じゅそうぎょうしき)亦復如是(やくぶにょぜ)

高源院の住職を拝命したばかりの頃です。あるお檀家さんから「お経はその内容がわからないと、なかなかありがたみが感じられない」と言われたことがあります。その言葉がきっかけとなり、私は経典に目を通すようになりました。とてもありがたいことだと今も感謝しております。


このお檀家さん始め、人々の宗教に対する見方は常に変化しております。その中でも「わかりやすさ」を求める声は近年、大きくなっているように思います。たとえば、法要儀式において、解説(司会進行)をさせていただくことがありますが、一般には何をやっているかわからない法要所作の意味を端的に解説していくと、参詣者が喜んでくださいます。参詣者の知りたいという願いに応じることも、布教であり、救いの手を差し伸べることにもつながっていくと思います。


とは言え、「普勧坐禅儀」の中にもありましたが、人間の生き方を説く宗教には言葉だけでは語れないものがあります。その点も押さえた上で、お経の意味を知り、ありがたみを実感できるようになれたらと願うのです。


前置きが長くなってしまいましたが、前段において、観世音菩薩様はこの世が「諸行無常」であることをお悟りになりました。その上で、観音様は冒頭にある「舎利子(しゃりし)」に語りかけるのが、今回の箇所です。「舎利子」とはお釈迦様の十代弟子のお一人である「シャーリプトラ」のことです。釈尊亡き後には後継者になるだろうと言われた人物で、特に「智慧第一」と言われました。そんな「舎利子」でしたが、お釈迦様の死期が迫ったのを知り、没後の寂しさを思うと耐え切れず、自没してしまいます。師匠であるお釈迦様より先にいのちを落としてしまったのです。後継者が自分より先に逝ってしまうという辛い経験をなさったお釈迦様は悲しみに暮れながらも、お弟子様たちに「いのちあることのありがたさ」を説かれました。


観自在菩薩様は舎利子に語りかけます。「色不異空(しきふいくう)」―この世に存在するすべてのものが絶えず変化する実体のないものだと。そして、「空不異色くうふいしき」とあります。実体がないということがこの世なのだと仰るのです。


さらに読み進めると、「色即是空(しきそくぜくう)。空即是色(くうそくぜしき)」と続きます。ここでは、目の前にあるすべてのものには永遠に存在するものがなく、そうした永遠に存在しないものが目の前にあるとおっしゃっています。


人間は自分の都合のいいようにものごとを考えます。愛しいものや大切なものは永遠に残しておきたい。死にたくない。いつまでも美しくいたい。いつまでも若さを保ちたい。そうした思いは誰しも持っています。現実には、それが叶うことは、不可能であるということがわかっているのに・・・。


そんな人間に対して、この世の道理(本来のあるべき現実の姿)を示しているのが、「色即是空。空即是色」という部分です。不可能なことを可能にしようとするから、人間は不要な苦しみを感じるのです。「諸行無常(万事が変化する)」という、この世のしくみを受け止めた上で、何ごとにも捉われない、執着しない生き方を心がけていきたいものです。


続いて、「受想行識(じゅそうぎょうしき)。亦復如是(やくぶにょぜ)。」とあります。「受」とは受け入れること、「想」とは目や耳で感じ取ること、「行」とは感じて反応すること、「識」とは反応して判断することです。人間の感覚によって得られたものもまた、「空」、つまり絶えず変化するというのです。これは言い換えるならば、万事が無限の可能性を秘めているということです。一面的なものの見方や耳の傾け方をやめて、常に多面的に見たり聞いたりすれば、物事の価値に気づくというのです。そうした多面的で偏らない観方で人生を歩むことを「中道ちゅうどう」と申します。中道を意識しながら、明るく健やかに生きる道を歩くことになるのです。

第4回 「“比較”をやめてみる」

平成29年10月25日 更新

舎利子(しゃりし)是諸法空相(ぜしょほうくうそう)不生不滅(ふしょうふめつ)不垢不浄(ふくふじょう)不増不減(ふぞうふげん)是故空中(ぜこくうちゅう)

「きれい⇔きたない」、「多い⇔少ない」、「簡単⇔難しい」


こうした対の意味をなす言葉を「対義語(たいぎご)」として、学生時代に勉強なさった記憶があるのではないかと思います。我々が住む世界には、こうした対の関係があまた存在しており、それゆえ、我々は無意識のうちに、こうした比較を行ってしまうのです。


しかし、そうした比較によって、もし、救われるものとそうでないものが出たり、認められるものとそうでないものが出たりすれば、一体、その比較に何の意味があるのでしょうか・・・?


お釈迦様はこの世のあまたの存在に対して、私たちが比較をすることを「分別(ぶんべつ)」と捉えられました。そして、分別したものに対して、自分の好みで好悪や善し悪し等の差をつけることを「差別」と捉え、厳しく戒められました。なぜならば、この世のあらゆる存在には全て「たったひとつしかない」尊いものであり、比較して一方だけに価値をつけられるものではないからです。


比較することに関して、具体的にこんな場面を考えてみたいと思います。たとえば、「AはBよりも賢い」という比較の場合、賢さという一面のみで両者を比べ、「A>B」という図式が成立します。これはAがBを見下すと共に、Bは自分の存在を否定し、自分を卑下することにもなりかねません。


この事例は、ある一面のみで双方を比較することによって、無益な結果しかもたらさないものです。そんな無益な「比較」はやめて、物事を多面的に見つめ、みんなのいいところを探し、心安らかに生きていくことを、舎利子しゃりし(シャーリプトラ)に説くのが、この一説です。


人間は、それぞれ個性を持っています。誰一人として、同じ人はいません。ですから、人それぞれに強みもあれば、弱みもあり、優れた面もあれば僧でない部分もあるのです。ある一部分だけを取り上げて、双方を比べ、一喜一憂するのではなく、「自分のよさや相手のよさを、いろんな角度から見て、みんなの価値や存在意義を見つけ出していってほしい」というのが、般若心経が我々に発する願いなのです。 

第5回 「執着心を捨てれば・・・」

平成29年1日 更新

無色無受想行識(むしきむじゅそうぎょうしき)無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんに)無色声香味蝕法(むしきしょうこうみそくほう)無眼界(むげんかい)乃至無意識界(ないしむいしきかい)

前回は無益な比較は慎み、各々の優れた部分を認め、受け止めていく生き方を学ばせていただきました。

 

さらにみ教えは続きます。この世は観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)様が舎利子(しゃりし)に語ったように「諸行無常(しょぎょうむじょう)」であるということを覚ったとき、そこに存在する全てのものは形を変えて、必ず変化していくことに気づかされます。ということは、形あるもの(色しき)というのは、本当は存在しないということに気づかされるのです。たとえば、今、我々の眼前に存在しているコップも、今はコップとして存在していても、もし、数分後、割ってしまったとすれば、ただのガラス片となってしまうのです。

 

こうしたコップのように、この世の全ての存在は変化していきます。そのことに気づくと、受【じゅ】(ものを知覚する)・想【そう】(ものを印象づけたり想像したりする)・行【ぎょう】(ものが変化してしまうことで、あれこれ思い悩む)・識【しき】(ものを認識する)の必要性がなくなっていくのです。

 

今回の一句は、我々人間に一つの問いを投げかけています。それは、「我々が変化していくもの対して、無変化を望むという無理な、矛盾した願望を持っていないか?」という問いです。それは無変化を望むことに対する執着とも表現できるでしょう。

 

そうした執着の原因が、「六根(ろっこん)」によって生ずると説かれています。眼・耳・鼻・舌・身で得られる感覚を一般的には「五感」という言葉で表しますが、仏教ではそこに意(こころ)をも加え、六根とします。五感はすべてつながっていますが、五感から得られた感覚は、我々の心につながり、行動へとつながります。ですから、六根どうしは皆、つながっていて、お互いに関わり合って働くのです。六根を通じて得られる様々な感覚によって、我々は様々な感情を表出させますが、これは変化せざるを得ないものに対して、一喜一憂しているだけにすぎないのです。そして、何ものも変化する状況の中で、六境(ろっきょう)(色・声・香・味・触・法)という六根によって得られた感覚に対しても、我々は同様に「無変化を期待しない。無変化に執着しない。」という意識を持って関わっていけばよいというのです。

 

要するに、「常に変化して実体がないということは、形も感覚もないものだから、それを悟り、いつまでも執着しない。」ということなのです。執着心を捨てることが安楽につながる道なのです。この世は「諸行無常」ゆえに、全てが変化し、いつ何が起きて、どうなるかわかりません。にも関わらず、人間はそうした変化するものに対して、いつまでも自分にとって都合がいいように、変化を望むものには変化を望み、無変化であってほしいと願うものには無変化であることを望むのです。そうした人間の執着と、そこに生ずる矛盾が人々に苦しみを与えるのです。

 

諸行無常であることに目覚めるとき、実は、執着やこだわりが自分を苦しめていたことに気づかされます。執着からの解放が自己の安楽につながることをここでは押さえておきたいものです。

第6回 「今を大切に ―諸行無常のいのち、どう生きる?―」

平成29年11月16日 更新

無無明(むむみょう)亦無無明尽(むむみょうじん)乃至無老死(ないしむろうし)亦無老死尽(やくむろうしじん)

「諸行無常(しょぎょうむじょう)(万事が絶えず変化する)」という道理があるにも関わらず、自分の考えにとらわれ、無変化を望むこと―そうした我々がこの世の道理に対して暗い(道理を認めようとしない)ことを「無明(むみょう)」と申します。私たちが少しでも万物が変化することを自分の考えに左右されずに受け止めていければ、心が迷いやこだわりのない自由な状態となっていくのです。そうした心が晴れ晴れとしている状態を「無無明(むむみょう)」というのです。

 

「諸行無常」の原因は、この世に永遠不滅のものがないからです。般若心経では、それを「空(くう)」と表現しています。空であるが故に、固定された変化しないものは存在しません。それゆえ、「万事は実体がない」という解釈につながっていくのですが、だから、「生もなければ、滅もない。垢つかず浄からず。増さず、減らず」という考え方が提示されるのです。

 

それを踏まえた上で、「無無明尽(むむみょうじん)」を味わっていきます。無常を観じ取っている限り、「無明」という、心が晴れ晴れとした状態が維持されるのですが、そういう状態は決して、最初から身についているものではありません。仏道修行によって身につくものです。もし、最初から身についていれば、諸行無常ゆえに変化するとか、実体がないということを、敢えて説明する必要はありません。諸行無常ゆえに、精進すれば成長という変化が起こるわけです。ですから、無明を断ち切ったからといって、必要以上に肯定されたり、無明だからといって、むやみに批判されたりするものでもないということで、それが「無無明尽」の意味するところなのです。

 

さらに、「無老死(むろうし)」、「無老死尽(むろうしじん)」へと展開しますが、一度、「生老病死」を押さえておきたいと思います。

 

生  苦悩から逃れることのできぬ人間世界にいのちをいただいた苦しみ。

老  諸行無常という道理の中で老いていく苦しみ。

病  病を受け入れていかなければならぬ苦しみ。

死  いつかは死を迎えるという現実を受け止めていかねばならぬ苦しみ。

 

こうした「生老病死」のみ教えを踏まえた上で、「無老死」や「無老死尽」を味わっていくと、一つにはこの世の道理に対して、あれこれ拘らずに、受け止めていってほしいという積極的な願いが込められているように感じます。その反面で、いつの時代も人間は「生老病死」に悩み、苦しみながら生きているという現実も受け止めていきたいという願いも感じ取れます。すべては「空(実体がない)」であるがゆえに、そうした多面的な観方につながっていくような気がします。そして、そのいずれかを限定的に正解とする捉え方をするのではなく、全てが正しいという多面的な捉え方をしていく必要性があるように思います。

 

そうした、いつ何が起こり、どうなるかわからない「諸行無常のいのち」を生かされている私たちが、その事実をどう捉え、どうやって毎日を過ごしていけばいいのでしょうか。その解答として、「今を精一杯、生きていこう」と捉えて過ごしていくことを提示させていただきます。「いつか必ず老いや死といった苦しみが訪れるのなら、元気な今、できることを精一杯やっておこう」という積極的な姿勢で生きていくことが大切だということです。

 

「今を大切に生きる」ことで、いざ“老”や“死”を迎えるときが来ても、多少は苦しみを和らげることができると考えます。それは、今という与えられた時間を無駄に浪費せず、大切に生かして使うということなのです。

第7回「執着の戒め ―道は無数にあり―」

平成29年1月1日 更新

無苦集滅道(むくしゅうめつどう)

今回の一句も含め、これまでも般若心経中には「無」という言葉が頻繁に出てまいりました。「無」は、一般的な「ある・なし」の範疇ではなく、この世に存在するものは、何ごとも変化を繰り返す実体なきものであることを意味しています。それゆえに、どんなに美しさや若さを保とうとしても、いつかは老いていきます。また、どんなに最愛の人といっしょにいたいと願っても、いつかは別れが訪れます。我々の不変や無変化を願う気持ちは叶うものではありません。そして、そのことをいつまでも願っていても、苦しみが深まっていくのです。どうか、そのことに目覚めたいものです。

 

今回の「無苦集滅道」は、「苦集滅道(くじゅうめつどう)」が「無」であるとあります。この「苦集滅道」とは、「四諦(したい)(四聖諦【ししょうたい】)」と申します。お釈迦様がインドの六大都市の一つであった波羅奈国(はらなこく)(鹿野苑【ろくやおん】)において、お悟りをお開きになった直後、初めて説法されたみ教えです。

 

ここで「苦集滅道」を下記にまとめてみます。

 

苦 現実世界に生きていく上で、苦しみから逃れることはできない

集 苦しみの原因は人間の心の中に巣くう「三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)である

滅 三毒煩悩を滅すれば、我々は悟りの世界に入ることができる

道 我々が悟りの世界にいたるための道(修行)が8本ある

 

こうした「苦集滅道」が「無」だというのですが、それは一体、何を意味しているのでしょうか?解釈によっては、何だかお釈迦様のみ教えが否定されているような印象さえ覚えます。

 

しかし、これは、決して、お釈迦様を否定しているわけではありません。「無苦集滅道」は「成道得道(じょうぶつとくどう)(悟り)への道が四諦のみではない」ということを意味しているのです。つまり、「四諦」だけが悟りや救いへの道だと思い込み、そこに「執着してはいけない」ということなのです。

 

「無」という言葉を用いることで、万事が実体がないということが説かれていますが、それは見方を変えれば、一つのことに一点集中しない、すなわち、我々の執着を戒めていることにも気づかされます。ですから、苦しみから逃れ、悟りの道に進むのであれば、お釈迦様の最初の説法のみならず、その他のみ教えにも眼を向け、お釈迦様を全体的に捉えて、様々な修行をやってみることが大切だというのです。

 

悟りの世界に入るための八つの道を「八正道(はっしょうどう)」と申しますが、それだけが悟りの世界への入口ではありません。「坐禅」はもちろんのこと、お釈迦様の最期のみ教えである「八大人覚(はちだいにんがく)」だってそうです。すなわち、日常の様々な場所にお釈迦様がお示しになった悟りの世界が存在しているのです。そんな悟りの世界への入口は広大で、いつでも我々を誘い入れようと、その門戸を大きく開いています。ところが、中々、仏さまとのご縁が結ばれない・・・。どうやら、我々の方がそれに気づかずに、徒に毎日を過ごしているようです。

 

悟りの世界への道が無数に存在するように、何事においても、目標や目的を達成するための方法はいくつもあります。私たちはついつい一つの道に捉われ、それだけが正しいと声高に主張してしまいますが、どうか一つの方法だけに捉われ、自分の意見や考えだけを主張することがないよう、他の様々な道を受け止め、視野を広げながら、毎日を過ごしていくことの大切さを、「無苦集滅道」から学び取っていきたいものです。

第8回 「善行一筋に生きる ―見返りを期待しない―」

平成30年2月日 更新

無智亦無得(むちやくむとく)以無所得故(いむしょとくこ)

今回も、これまで同様、「無」という言葉が登場します。般若心経における「無」とは、万事が変化していく実体なきものであるが故に、「執着してはいけない」という意味を持った言葉でした。

 

ここでは、「無智」であり、亦(また)、「無得」とあります。「智」とは「智慧」のことで、真実を見抜く力のことです。「智慧」と同じ意味を持つ仏教用語が「般若」です。智慧始め、此岸(しがん)(この世)に生きる我々が、少しでも彼岸(ひがん)(仏さまのお悟りの世界)を見習い、此岸で彼岸を実現していく6つの修行方法があります。それを「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と呼ばれています。

 

下記に六波羅蜜をまとめてみました。

 

布施(ふせ)

周囲の存在に対して、皆が安心し、喜べるような言葉や行いをやり取りしていくこと

持戒(じかい)

お釈迦様のみ教えに従って、毎日を過ごすこと

忍辱(にんにく)

我が身に降りかかるご縁や周囲の存在に対して、自分の好悪で関わり方を変えるのではなく、すべてを受け入れていくこと

禅定(ぜんじょう)

自分の心が乱れそうになったら、つとめて安定させるように心がけること

精進(しょうじん)

悪を断ち、善を修することを生涯に渡って続けていくこと

智慧(ちえ)

仏さまの悟りの眼で物事を見ること

 

これら6つはどれも関連しあっています。たとえば、お釈迦様のみ教えに従って毎日を過ごす(持戒)ことは、悪を断ち、善を修して生涯を過ごすこと(精進)でもあります。ですから、どれか一つを修行すれば、自然と他の行を修することになっていくのです。

 

言うまでもなく、六波羅蜜だけで仏さまのお悟りの世界を捉え尽くすことはできません。もちろん、六波羅蜜はお釈迦様から伝わる正しいみ教えであることには変わりありませんが、お釈迦様の数あるみ教えの一つであり、そこに踏みとどまってはいけない。一本の道に捉われないというのが、「無智」・「無得」の意味するところです。

 

次に「無所得」に触れておきたいと思います。得るものがないということなのですが、「見返りを期待しても、自分の思うような期待は得られない」という意味で捉えておくとよろしいかと思います。

 

般若心経の中で「無」と同じ意味で用いられているのが「空」です。空は「無常」を意味し、万事が絶えず変化を繰り返していくはかない存在であるということを意味しています。すべてが「空」であるならば、当然、修行の結果も「空」となります。ですから、何か我が身にいいことが起きるのを期待して修行に励んでも、自分の期待通りにはなりません。それが「以無所得故」が指し示すことです。

 

そうは言いながら、我々はいいことをしたら、自分の評価が上がらないかとか、周囲に誉められないかなどと、ついつい何かいいことが起こることを期待してしまいます。しかし、そんな願いは叶うものではありません。そもそも善行というのは、そうした期待感を持って行うものではありません。なぜなら、善行そのものが尊いものなのです。それなのに、何をそれ以上に期待することがあるのでしょうか・・・!見返りを求めようと、余計な期待を持つから、評価が上がらないとか、周りから褒められないなどと、自分の中で勝手なマイナス物語を作り上げては、苦しまなければならなくなるのです。

 

余計な見返りを求めずに、目の前のご縁を大切にしながら、善行一筋に生きていけばいいのです。

第9回 『「到彼岸」への道しるべ』

令和元年9月22日 更新

菩提薩埵(ぼだいさった)依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ)心無罣礙(しんむけいげ)無罣礙故(むけいげこ)無有恐怖(むうくふ)遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)究竟涅槃(くぎょうねはん)三世諸仏(さんぜしょぶつ)依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ)得阿褥多羅三貘三菩提(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)

今回は、やや長い引用となってしまいましたが、一つ一つ丁寧に読み味わってまいりたいと思います。

 

冒頭の「菩提薩埵」は「菩薩(ぼさつ)」のことです。悟りを求め、日々、修行に励む者を意味しています。身近なところに目を向けると、「菩薩」と呼ばれる仏様が幾多もおいでることに気づかされます。たとえば、観音様は正式には「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」と申します。また、お地蔵様は「地蔵菩薩(じぞうぼさつ)」です。

 

先日、NHKの「さし旅」という番組で、アイドルの指原莉乃さんが仏像巡りをしながら、僧侶から仏教に関する知識を教えていただいておりました。その番組の中で僧侶が指原さんら出演者に「菩薩というのはアイドルでいうところの研修生です」と説明する場面がありました。非常にわかりやすい説明ではないかと思います。

 

こうした菩薩様に対して、「如来」とは、悟りの世界に到達し、悟りを完成させた仏様のことを指します。いわば、彼岸(ひがん)の地に到った、「到彼岸(とうひがん)」した仏様のことです。そうした如来として知られるのがお釈迦様(釈迦無尼如来)や阿弥陀様(阿弥陀如来)です。

 

本文に戻ります。そうした「『菩薩』たちが『般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)』に依っている故に」とあります。「般若波羅蜜」とは、「到彼岸できる力」のことです。つまり、悟りの世界に到達できる力のことです。

 

日々、修行に励む菩薩たちは、そうした力を持っているから、「心無罣礙、無罣礙」だと言います。ここに出てまいります「罣(けい)」とは「傷」のことです。「礙(げ)」とは「引っ掛かり」、つまり、「執着」を意味します。到彼岸の力を有した菩薩は心を束縛し、人間を真実の道から遠ざける執着心がないというのです。さらに「無有恐怖」とあるように、恐れるものすらないのです。何に対しても執着心がないということは、自分をかわいがろうという気持ちが起こりません。さらに自分よりも他人を優先したからといって、損したような気持ちも起こりません。ですから、いくらでも他に救いの手を差し伸べることができるのです。また、世の無常もよく悟っておいでますから、いつか我が身に訪れる死に対する恐怖もないというのです。いくら修行の身とは言え、「到彼岸」の力を有した菩薩の力とは、簡単には測り知ることのできない、偉大なものだということに気づかされます。

 

次に、「遠離一切?倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)」とあります。迷いや執着に惑わされやすい現実世界「此岸(しがん)」から「彼岸」へと遠く離れ(遠離【おんり】)、今まで此岸で培ってきた価値観を一度、逆から見つめなおしてみることをお示しになられています。そして、それを通じて、「到彼岸」の道しるべをお示しになっております。何かと自分を惑わす日常の喧騒から遠く離れて、自己を見つめなおす・・・。言わば、今までの習慣やものの見方・考え方という自分のメガネを外して、仏様のメガネをかけて、周囲を見渡してみるのです。そうした行を通じて、「此岸」から「彼岸」へ渡ることができるというのです。「究竟涅槃」とは、悟りの世界に完全に到達し、永遠にそこに入ったことを言います。

 

「到彼岸」できるのは何も「菩薩」だけではありません。「三世諸仏(さんぜしょぶつ)」もまた、そうした力を有しているのです。「三世」とは、「過去・現在・未来」のことを言います。そこに現れる全ての仏様が「三世諸仏」なのです。そんな「三世諸仏」もまた、悟りの世界に入っているのです。

 

常軌を逸した殺人事件や、近年、世間を賑わせている“あおり運転”の問題等、我々が過ごす此岸には、彼岸の「菩薩」や「三世諸仏」とは逆の道を歩む「執着心が強い、自己中心的な人」がたくさんいます。だから此岸は荒れるのです。こうした現状に心痛めるならば、少しでも「菩薩」や「三世諸仏」を見習っていくことが必要ではないかと感じるところです。

第10回 「仏のメガネをかける」

令和元年10日 更新

故知般若波羅蜜多(こちはんにゃはらみった)是大神呪(ぜだいじんしゅ)是大明呪(ぜだいみょうしゅ)是無上呪(ぜむじょうしゅ)是無等等呪(ぜむとうどうしゅ)能除一切苦(のうじょいっさいく)真実不虚故(しんじつふこ)

今回もやや長い引用となりましたが、一語一句味わってまいりたいと思います。まずは、冒頭の「故知般若波羅蜜多(こちはんにゃはらみった)」を読み味わってみましょう。

 

はじめに「故」という「それゆえに」という意味を持つ文字があります。ここでは、前段のみ教えを受けて、更に展開していると捉えるべきでしょう。前段のみ教えとは、第9回『「到彼岸」への道しるべ』で触れた内容です。悟りを得た仏様のメガネをかけてみることで、これまでの凡夫としてのものの見方や考え方から離れることができれば、「到彼岸」(仏様のお悟りの世界に入ること)ができるということでした。ですから、ここでは「仏のものの見方(般若波羅蜜)」の習得によって、私たちは此岸から彼岸に至ることができると明示しているのです。

 

次に目をやりますと、「呪」という文字が多用されていることに気づきます。この文字は「呪文」という言葉から想像できますように、「祈る」とか「まじなう」という意味を持った文字です。試しに漢和辞典を見ると、同字として「咒」という文字も出ています。

 

毎月28日とお正月、高源院の前を通る馬坂(うまざか)の中途にある馬坂不動尊で御祈祷を行います。その際、般若心経と「消災妙吉祥陀羅尼(しょうさいみょうきちじょうだらに)」というお経をお唱えします。このお経は、各種災難等を除くことを願うお経です。密教では「咒」という一文字は、厄除けによって、いいことが起こるのを願うという意味があるそうです。ちなみに、咒が長文となったものが「陀羅尼(だらに)」です。とどのつまり、「呪=咒」とは災難を除き、いいことが起こるようにと祈り、まじなうという意味を持った言葉なのです。

 

もう一点、押さえておきたいのが「大」という文字です。これまで述べてきましたように、仏教では比較して、嫌いなものは避け、好きな方を選ぶというのではなく、双方のよさを受け入れていくという、広大な視野を持つことの大切さが説かれています。それが仏のものの見方なのです。ですから、ここでの「大」とは、「大か小か」といった比較を越えた、限りなく広大で奥が深いということを意味しているのです。仏のものの見方を身につけることは、決して、容易いことではありません。しかし、諦めずに、仏のお悟りに向かって地道に精進すれば、必ず到彼岸できるのです。それを説いているのが、「是無等等呪(ぜむとうどうしゅ)」です。皆が到彼岸できることを保障しているのです。我々凡夫は、自分の考え(私見【しけん】)が正しいと思いがちです。そんな自分の照準を仏様に合わせると共に、自分の中に秘められた力を信じて、彼岸への道を歩んでいきたいものです。

 

そうした般若波羅蜜というみ教えと共に生きていくならば、一切の苦しみが取り除かれるということを「能除一切苦(のうじょいっさいく)」が指し示しています。周囲の変化の影響を受け、戸惑ったり苦しんだりする我々凡夫ですが、仏のものの見方を身につけ、あらゆる苦悩を取り除いていきたいものです。

 

もう一点、押さえておきたいのは、万事が変化していくことを説く「諸行無常」ということです。いつか訪れるであろう死を恐れてみたり、大切なものを永遠に失いたくないと願ったりする気持ちは誰しも持っています。しかし、この世には時間という存在があります。万事が時間と関わっているがゆえに、変化していくというのが、この世の真実の姿です。虚無の姿に捉われることなく、真実を受け止められるようになりたいものです。

 

変化を繰り返す虚無の存在ばかりの中で、お釈迦様のお悟りだけは、唯一絶対のものであるということを説いているのが「真実不虚」です。どうか我々、凡夫が仏のメガネをかけ、少しでも仏の生き方を此岸で実現できることを願うばかりです。 

第11回 「彼岸到(ひがんとう) -彼岸は此処にあり―」

令和元年10月16日 更新

説般若波羅蜜多呪(せつはんにゃはらみったしゅ)即説呪曰(そくせつしゅわつ)羯諦羯諦(ぎゃあていぎゃあてい)波羅羯諦(はらぎゃあてい)波羅僧羯諦(はらそうぎゃあてぃ)菩提薩婆訶(ぼじそわか)般若心経(はんにゃしんぎょう)

いよいよ最後までやってきました。早速、本題に入ります。

 

前回は「仏のメガネをかける」という演題で、我々凡夫が悟りを得た仏のものの見方を身につけるならば、日常生活のあらゆる苦しみが取り除かれるというお話をさせていただきました。

 

そうした私たちが仏として生きていくことを自らに誓う「呪(まじないの言葉)」が今回、提示されている「羯諦羯諦(ぎゃあていぎゃあてい) 波羅羯諦(はらぎゃあてい) 波羅僧羯諦(はらそうぎゃあてぃ)」です。これが意味するものは「往(い)ける者よ、往(い)ける者よ、(みんなで手を取り合って)彼岸の地へ行こう」というものです。

 

私は、この真言に触れるたびに、若かりし頃の自分の愚かさを思い出しては、反省しております。

 

平成17年(2005年)3月、私は住職をつとめる高源院の本寺(ほんじ)・石川県羽咋(はくい)市の永光寺(ようこうじ)様でお世話になっていました。ある日、海外からの留学生が数名、日本の文化を体験するということで、永光寺へ坐禅と写経の体験にいらっしゃることになり、その応対をさせていただきました。写経を行うに当たって、私は「般若心経」をお手本に選びました。しかし、経典に使われる難しい漢字は日本人でも書き取りに四苦八苦するものばかりで、生まれも育った環境も異なる留学生が書くのは大変ではないかと思った私は、終わりの部分だけを書くことにしました。それがこの「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦(ぎゃあていぎゃあていはらぎゃあていはらそうぎゃあてぃ)」でした。

 

これを留学生たちに提示して、書いていただきました。留学生たちは思ったよりも四苦八苦することもなく、丁寧に書いておられました。

 

そんな中で、お一人、男性の留学生で、早く書き上げた方がおいでました。そして、彼は他の留学生たちが丁寧に写経に励む傍らで、私に質問を投げかけてきたのです。

 

「今書いたお経は、どんな意味なのですか?」

 

私はそれまで永光寺で留学生と共に写経を行った経験が何度かありました。たいていは時間内にかきあげるのに精一杯で、留学生から質問を受けたことはありませんでした。おそらく今回もそうなるだろうと思い込んでいた私にとって、質問が出てくることなど、想定外でした。

 

そんな私ですから、当然彼の質問に答えられるだけの準備もしておらず、驚くと同時に、どう答えていいかわからず、戸惑ってしまったのです。

 

結局、私は「わからない」としか言えませんでした。そんな私に彼は、それ以上何も問いかけてくることはありませんでした。彼にとって、日本で経験する色々なことが珍しくて興味深いものだったに違いありません。きっといろんなことを学びたいという気持ちが強かったのではないかと思います。しかし、そんな彼の気持ちに私は何も答えることができませんでした。せっかく日本の文化に興味を持ち、積極的に学ぼうとしている彼に、私は何もできなかったのです。

 

この経験は私にとって、これからの僧侶としての生き方を考えさせてくれるよききっかけとなりました。僧侶として、また、三宝に帰依し、仏道を行ずる者の一人として、どんな質問を受けても、しっかりと答えられるように、普段から準備(修行)しておくこと。そして、絶対に相手を失望させるようなことがないようにすること。この二つを誓ったのです。一人の留学生とのやり取りは、私に自戒を促し、私を目覚めさせてくれました。私にとって、そうした思い入れのある真言です。

 

そんな真言を唱えながら、彼岸の世界(悟りの世界)へ皆で向かおうではないかというわけですが、彼岸は決して遠い世界でも、非現実的な世界でもありません。実は、我々がいのちをいただいていかされている此岸こそ、実は彼岸なのです。

 

道元禅師様は「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」とお示しになりました。この世に存在する誰もが仏性(仏のお悟りに近づける性質)を持っているというのです。誰もが皆、仏性を有するのですが、凡夫ゆえに、ついつい周囲の誘惑に負けて、仏の道から逸脱するのです。

 

そんな私たちでも、常に自分を省みながら、自分の中に眠る仏性を磨き続けていけば、凡夫の此岸から仏の彼岸へと近づいていくのです。すなわち、此岸において、彼岸に到るのです。実は娑婆世界こそが彼岸だった―それが「彼岸到」ということです。要は我々の過ごし方一つで、「今、ここ」が彼岸になるということです。様々な問題を抱えた娑婆世界ですが、それを住みよいものにするかどうかは、そこに住む我々次第ということなのです。

 

本文の最後は「般若心経」と結んでいます。この経典のタイトルです。これは、この経典が悟りの地に行くための方法が記されたものであるということを意味しています。万物はすべて変化し、形なきものでした。形があると思い込んでいるのは人間の勝手な考えなのです。

 

そんな実体なき存在を、自分のものの見方や考え方だけで、比較して、良し悪しを判断したり、好みのものだけを大切にして、嫌いなものは遠ざけようとしたりするのが私たち凡夫です。何かに執着するのをやめてみたら、段々、此岸が彼岸の地に見えてくると同時に、自分の中の仏性に気づけるのです。

 

そして、それが般若心経の約270文字が指し示すみ教えなのです。

最終回 「般若心経が目指す生き方」

令和元年10月1日 更新

人間には欲がある。

欲はときに人を育てる。

その反面で、欲は執着を生み出す。

悲しいかな

後者の欲はよく働き、我々凡夫が苦しむ原因となる。

お釈迦様には、そのことがよーくわかっていらっしゃった!

だから、我々人間に欲望を調整することをお示しになりました。

お釈迦様のみ教えは「安楽のみ教え」です!!

そして、その一つが「般若心経」なのです!!!

 

観音様は厳しい修行に励んだ結果、この世の全ての存在が実体なきものであることをお悟りになりました。

 

「実体がない」というのは、「この世の全ての存在は変化するはかないものである」ということです。変化して常住不変のものはないというのが、「諸行無常」というこの世の道理です。

 

しかし、我々凡夫は人間の力では如何し難い「諸行無常」という道理を頭ではわかっていても、なかなか認めることができません。最愛の人が亡くなれば、悲しみます。無理だとわかっていても、もう一度逢いたくなるものです。そんな不可能な願いを叶えようとするから苦しんでしまうのが我々凡夫なのでしょう。

 

この「諸行無常」という道理を多面的に見ることができたらいいと思います。たとえば、変化するということは、可能性がたくさんあるということと捉えることができます。すなわち、人間はどんな形にでも変化できます。描いた夢も切実な願いも、自分の努力次第で必ず叶えることができるということです。いろんな見方があって、いろんな人がいるから、救われることができるのです。

 

「悪い部分」ばかりにとらわれず、「いい部分」にも目を向け、多面的にものごとを見る視野を育てたいものです。そうやって、我々凡夫は「到彼岸」、悟りの世界に到達できるのです。「到彼岸」したとき、ハッとします。この此岸こそ彼岸だったと―それが「彼岸到」なのです。

 

それは特別な人だけができることではありません。皆できることなのです。ただ、それは簡単なことではありません。難しいことではありますが、「彼岸を目指していけば、必ず救われる」とお釈迦様は、般若心経を通じて、我々にお示しになっているのです。       完