甘露門


背景 五箇山(富山県)

第1回「施食会(せじきえ) ―あらゆる精霊に“食じきを施す”仏行―」

令和3年6月12日 更新

曹洞宗門始め、ほとんどの宗派で営まれるご法要に、「施食会(せじきえ)」があります。「“食”を“施す”」とあるように、亡きご先祖様の魂をお呼びし、お供え物を捧げて(食を施す)、ご供養させていただくというのが、施食会です。


この「施食会」には、様々な名称があります。「施餓鬼会(せがきえ)」や「水陸会(すいりくえ)」など、地域や時代の流れの中で、呼び名は異なれども、為されることは同じです。仏教の伝説によれば、中国の梁(りょう)の武帝(ぶてい)(502-549)の時代に、初めて「水陸会」が行われたとのことで、以降、日本に仏教が伝来した際にも、真言宗の開祖・弘法大師こと空海(774-835)によって、施食会関係の経典類が中国からもたらされたとのことです。以来、今日まで、「施食会」は、主にお盆(盂蘭盆会【うらぼんえ】)やお彼岸の時期に営まれるという形で、その法灯ほうとうが絶やされることなく、続いています。


様々な名称が用いられているという点では、曹洞宗では近年、「施食会」という呼び名が一般化しており、「施餓鬼会」という言葉が用いられることが少なくなりました。そもそも「餓鬼」というのは、私たち人間が自らの行いによって赴くとされる六つの世界(六道ろくどう)の一つで、常に飢渇に苦しむ世界であると言われています。そうした餓鬼に赴き、空腹に苦しむ者たちに対して、食を施すことで、飢えの苦しみから救うことを願うのが「施餓鬼会」なのです。


そうやって、「施餓鬼」という言葉の字義や内容に忠実に捉えてみると、一つの疑問が生じます。「施餓鬼会は、餓鬼界に趣きし者を供養する法会であるというが、お盆やお彼岸のご法要の目的(あらゆる精霊に供養の意を捧げること)と矛盾するのではないか」という疑問です。そもそも、曹洞宗の葬儀では、亡き人に仏弟子としてのお名前(戒名)をお授けし、仏の世界へとお導きします。たとえ生前の行いが悪しきものであったとしても、葬儀式の冒頭で、懺悔さんげ(生前の罪過を悔い改め、二度と繰り返さないことを誓う)がなされるため、亡き人々は全て仏に成った(成仏)と捉え、六道世界のいずれかに赴くとは考えません。それゆえに、仏に食を施して供養するという意味で、「施食会」という呼び名が妥当であるということになります。そんな「施食会」を、今・ここに生かされる我々は、仏への供養を通じて、普段の生活を見つめなおし、仏に近づく機会として捉えていけばいいということになります。


今回より読み味わわせていただく「甘露門(かんろもん)」という経典は、「施食会」において読誦されます。「甘露」とは、「涅槃」を指します。すなわち、「仏のみ教えへの入り口」というのが、「甘露門」です。その内容は、和文・漢文・真言と変化に富んだ構成になっています。また、お経を聞いてみると、リズミカルでテンポもよく、耳障りがいいと感じる方もいらっしゃるのではないでしょうか。


それでは次回より、「奉請三宝(ぶしょうさんぼう)」という冒頭の個所から読み味わっていきたいと思います。

第2回「奉請三宝(ぶしょうさんぼう)」

令和3年6月1日 更新

南無十方仏(なむじっぽうぶつ)。南無十方法(なむじっぽうほう)。南無十方僧(なむじっぽうそう)。南無本師釈迦牟尼仏(なむほんししゃかむにぶつ)。南無大慈大悲救苦観世音菩薩(なむだいずだいひきゅうくかんぜおんぼさつ)。南無啓教阿難尊者(なむけいきょうあなんそんじゃ)。


今回提示させていただく箇所は、「甘露門」の冒頭で、「奉請三宝(ぶしょうさんぼう)」と呼ばれる個所です。「奉請」とは、「敬意を以てお呼び申し上げること」で、これから読経供養させていただく場に仏法僧の三宝をお招きして、み教えを請うというのが、「奉請三宝」です。


前回、「施食会(せじきえ)」というご法要について触れさせていただきましたが、「奉請三宝」には、鼓鈸三通(くはつさんつう)を鳴らしながら、亡きご先祖様の魂をお呼びして読経供養を捧げるのに際し、仏法僧の三宝もお招きして、亡き人々が仏のみ教えと触れる機会を設けようという願いも込められているのでしょう。これは亡き人々に対して、御仏の教えを供養させていただくということでもあります。


そうやって「奉請」された存在を下記の一覧表にまとめてみました。それぞれに「南無」という言葉が付されていますが、これは「帰依(きえ)」という、相手に我が身を全て委ね、お任せしていくことでした。それから「十方」とあるのは、「東西南北・四維(東南・東北・西南・西北)・上下」の「全ての方角」を意味しています。そして、阿難尊者様に付されている「啓教」というのは、「啓発」という言葉があるように、「教えを起こし、人々を導いていく」ということを指します。


南無十方仏(なむじっぽうぶつ) 自分が帰依しているあらゆる仏様

南無十方法(なむじっぽうほう) 自分が帰依する八万四千とも言われる仏法

南無十方僧(なむじっぽうそう) 自分が帰依する仏教の祖師方や仏道修行者

南無本師釈迦牟尼仏(なむほんししゃかむにぶつ) 本師(仏教の開祖)として帰依しているお釈迦様

南無大慈大悲救苦観世音菩薩(なむだいずだいひきゅうくかんぜおんぼさつ) 自分が帰依する大慈大悲(人々から苦悩を除き、楽を与えること)を自らの役目とする観世音菩薩様

南無啓教阿難尊者(なむけいきょうあなんそんじゃ) 自分が帰依するお釈迦様のみ教えを後世にお伝えしていくのに大きな役割を果たした高弟・阿難尊者様


仏教徒として自らが帰依する仏法僧全ての存在をお招きし、これから仏縁が育まれていこうとしているのです。それが「甘露門」の導入部となる「奉請三宝」の役目なのです。

第3回「是諸衆等(ぜしょしゅとう)―“発心(ほっしん)”して一器の浄食を奉持する生き方を―」

令和3年6月26日 更新

是諸衆等(ぜしょしゅとう) 発心(ほっしん)して一器の浄食(じょうじき)を奉持(ぶじ)して。普(あまね)く十方窮尽虚空(じっぽうぐうじんこくう)。周遍法界微塵刹中(しゅうへんほっかいみじんせっちゅう)。所有国土(しょうこくど)の一切の餓鬼(がき)に施す。

これより始まりますのは、「招請発願(ちょうしょうほつがん)」と呼ばれる箇所で、和文で表記されています。前段の「奉請三宝(ぶしょうさんぼう)」において、お釈迦様や観音様、阿難尊者(あなんそんじゃ)様(お釈迦様の高弟のお一人)といった、仏法僧の三宝を道場にお招きし、そのみ教えを請うことを願いました。ここには亡き人々にお招きした仏のみ教えを供養することによって、あらゆる世界(十方世界・尽虚空界)に存在する全てのいのち(存者も死者も)が仏縁を育むと共に、彼らを余すところなく救っていきたいという強い願いが込められています。


そうした自分のみならず、周囲に対しても広い視野を以て、救いの手を差し伸べていくことを誓願するのが「発心」(心を発おこす)です。これは、今までも他の経典にも登場しましたが、「仏のみ教えに従って日々を過ごす決意をすること」です。その具体的な内容は多岐に渡りますが、一つには、今、提示されている「自分の周囲に存在するあらゆるいのちに目配り、心配りをして、支え合い、助け合っていくこと」であると言えるでしょう。


次に「一器の浄食を奉持する」ということについて触れてみます。ここでは「食(じき)」(あらゆるいのちを生かし、救う存在)を仏のみ教えにたとえ、「浄食」と表現されています。そんな「浄食」を器一個分程度の分量でいいから、確実に周囲に施すことを意識していこうという声を発しているのが、「一器の浄食を奉持する」です。こうした甘露門における「招請発願」の冒頭の一句に触れるとき、是非、我々も発心して、自分と周囲のつながりを再確認し、支え合い・助け合いの心を以て、周囲と関わっていきたいものです。


そんな浄食を「普く十方窮尽虚空。周遍法界微塵刹中。所有国土の一切の餓鬼に施す」、すなわち、この世の全ての存在に目を向けながら、誰一人として取り残されることなく施してみようと呼びかけているのです。「餓鬼」という言葉が使われていますが、これは、「前世の行いによって、餓鬼道という苦しみの世界に至った者」という通例の解釈をそのまま当てはめるよりも、誰しも大なり小なり過ちを犯したことがあることを踏まえた上で、「自分の過去の行いによって今がある全てのいのちある存在」という形で捉え、それらに浄食を施すと解釈していけばよろしいかと思います。大切なことは、「餓鬼」という言葉が指し示しているのが、限定的な別の世界や他者のことを言っているのではなく、“自分のこと”であると、謙虚に受け止め、仏縁を育みながら、仏に近づいていく姿勢を持つことなのです。


そのことをしっかりと踏まえながら本文を読み味わってみますと、ここでは「あらゆる世界の亡き人も生きている人と同じように、人間も動物も小さな虫も一輪の花も、ほんの一個のコップや、道端の石ころに対してでさえも、全ていのちを有した存在として、〝承認〟していきましょう」と声を発していることに気づかされます。これは「教授戒文」において学ばせていただいた“周囲と同ひとつになる”ということにも通じます。すなわち、“自分と相手と一体化して、どんな存在とも差別なく、大切に関わっていく”ということが説き示されているのです。この点を、今一度、自分たちの日常を振り返りながら、少しでも毎日の生活に反映させていけたらと願うところです。


ちなみに、冒頭の「是諸衆等」は「全ての存在へ」という解釈でよろしいかと思います。「是諸衆等」に対して、「発心して、一器の浄食を奉持する生き方」を願っているのが、今回の一句なのです。 

第4回「悲愍(ひみん) ―“普(あまね)く”汝に食を施すことを心がけて―」

令和3年日 更新

先亡久遠山川地主乃至曠野(せんもうくおんさんせんぢしゅなししこう)やの諸鬼神等(しょきじんとう)、請(こう)来って此(ここ)に集まれ、我れいま悲愍(ひみん)して普く汝に食(じき)を施す。

今回は「久遠(遠い遠い過去、永遠)なる先亡(既に亡きいのち)や、山や川を始め、この娑婆世界におけるあらゆる場所(地主乃至嚝野)に存在する諸々の鬼神たちに対して、この道場(私たちが読経供養をつとめさせていただいている場)に集まれ」という声かけがなされています。久遠なる時から存在している亡きいのちとは、私たちのご先祖様を指します。修証義第1章において、自分という存在から先祖を遡っていくとき、10代遡って、2046人のご先祖様の存在によって、今の自分が生かされていることを学ばせていただきました。そんな先祖代々を意味しているのが「先亡」なのです。


そんな「先亡」と共に道場にお呼びしている「鬼神」という存在ですが、梵天(ぼんてん)や帝釈天(たいしゃくてん)のように仏法をお護りする善鬼神や、羅刹(らせつ)のような人畜の血肉を好む悪鬼神など、多種多様です。


そうした鬼神衆も含め、この世のあらゆる存在に招集をかけ、誰一人として残すことなく“食(じき)”を施すことを願うのが、今回の一句です。甘露門における“食”は、“あらゆるいのちを生かし、救う存在”で、“仏法”を意味するものでした。それを善悪や良し悪し等、相手が発する表面的な見た目の違いに捉われることなく、どんな存在に対しても、取り残すことなく、普く平等に声をかけ、仏法を施しながら、救いの手を差し伸べていこうというのが、今回の一句が指し示す内容であり、目指すところです。


ここで、「普く」という言葉に注目しておきます。「普遍」という言葉があるように、「差別意識による取り残しのない、全ての存在」を意味するのが、「普く」です。ここには自分の好みだとか、価値観を最優先して、救う人と救わない人を分別しようとするような捉え方は一切ありません。そうした差別的な捉え方をしないよう留意していく上で、ポイントとなる心がけが「悲愍」です。これは、「慈悲じひ」とほぼ同義の意味を持った言葉として捉えておけばよろしいかと思います。すなわち、相手の苦悩を取り除き、安楽を与えんと願って発せられる言動ということです。


我が身を最優先にし、自分だけが救われればいいと考えている限りは何事もうまくいかないのは自明のことです。いかに周囲に目を向け、心を配りながら、言動を発していくことができるか―そうやって、自他共に救われ、私たちが生かされている娑婆世界は円滑に動いていくのです。どうか「悲愍」という心遣いを意識しながら、普く存在に目線を向けていけるよう、願うばかりです。 

第5回「普(あまね)く有情(うじょう)の飽満(ほうまん)を願って -“SDGs”と“甘露門”-」

令和3年7月11日 更新

願(ねが)わくは汝各々(なんじかっかく)。我(わ)が此(こ)の食(じき)を受けて転じ将(もっ)て。尽虚空界(じんこくうかい)の諸仏及聖(しょぶつぎゅうしょう)。一切(いっさい)の有情(うじょう)に供養して、汝(なんじ)と有情と普(あまね)く皆飽満(みなぼうまん)せんことを。

「悲愍(ひみん)」という心遣いを意識して毎日を過ごすということは、周囲に目を向け、周囲に心を配りながら、言動を発していくことでした。こうした生き方を心がけていくならば、「自分さえ救われればいい」という考え方は否定されていくことでしょう。と言うよりはむしろ、そうした考え方を持っていることに、恥ずかしさを覚えるのではないかという気さえします。自分だけが満たされることを願うのではなく、「汝と有情と普く皆飽満せんことを。」とあるように、普く全てのいのちが救われ、“食(じき)”たる仏法をいただいて満たされることを願うのが、「甘露門」です。今一度、“皆”を意味する“普く”に重点を置き、周囲の普くいのち(有情)に目を向けていくことを意識しながら、「甘露門」を読み味わっていきたいものです。


こうした「汝と有情と普く皆飽満せんことを。」を願い、「悲愍」の心遣いを以て生きていく上で、もう一点、大切なことは、“転じ将って”という視点を併せ持つことです。これは自分だけが抱え込んだり、独り占めしたりするのではなく、どんどん周囲に施し、与えていこうという視点です。


我々の日常生活に目を向ければ、毎日、様々な出来事が起こりますが、喜びも苦しみも皆で分かち合っていくならば、お互いに支え合い、助け合っていけるのは言うまでもありません。特に、空腹の苦しみを満たす食のごとき仏法は、自分だけがいただいて、自分さえ救われればいいというものではありません。それでは皆が幸せになることができないばかりか、周囲との支え合いや助け合いなどにもつながっていくはずがありません。普くいのちを救い、喜びを与え、身心に安心(あんじん)をもたらすものならば、どんどん「転じ将って」、周囲に施していくことで、人虚空界(この世の全体)がよくなっていくことを再確認し、日々の生活の中で心がけていきたいところです。そして、そうした心がけを以て、毎日を過ごすことが、悟りを得た仏の生き方であることをも、併せて、確認しておきたいものです。


近年、「SDGs」という言葉を耳にする機会が増えてきました。「持続可能な開発目標」を謳う「SDGs」は今や、企業や学校での子どもたちの教育の場でも取り上げられるようになりました。我が曹洞宗でも例外ではなく、昨年度から「曹洞宗布教教化方針」にも掲げられるようになりました(詳しくはこちらをご覧ください)。


2015年(平成27年)の国連サミットにおいて、全会一致で採択された「SDGs」が掲げる17個の目標に共通するものは、「甘露門」において幾度も登場する“普く”です。すなわち、「甘露門」を始めとする仏教のみ教えと、誰一人として取り残すことなく救い上げるという、現代社会が推奨する全世界的な取り組みたる「SDGs」の目標が合致していることを、私たちは知っておくべきなのです。


「甘露門」が指し示すお釈迦様のみ教えと共に日々を過ごすことは、「SDGs」が掲げる目標と共に生きていくことにもつながります。私たちが現代社会に生かされている人間の一人として「SDGs」を意識しながら、普く有情の飽満を願って、毎日を過ごしていきたいものです。

第6回「自他共に作佛(さぶつ)していく ―持続可能な仏の道を歩む―」

令和3年7月1日 更新

亦願(またねがわ)くは汝が身。此(こ)の呪食(しゅじき)に乘(じょう)じて、苦を離れて解脱(げだつ)し、天に生じて楽を受け、十方の浄土も意(こころ)に随って遊往(ゆおう)し、菩提心を発し菩提道を行し、當来(とうらい)に作佛(さぶつ)して、永(なが)く退転(たいてん)なく前(さき)に道(どう)を得(う)る者は誓って相度脱(あいどだっ)せんことを。


前回、「持続可能な開発目標」を謳う「SDGs」について触れました。2015年(平成27年)の国連サミットにおいて、全会一致で採択された「SDGs」が掲げる17の目標の根底には、“誰一人として取り残すことがないように”という誓願が流れています。この誓願とお釈迦様のみ教えはピッタリと合致しており、「甘露門」を読み進めていく中でも、前回の“普あまねく皆飽満せんことを”など、「SDGs」との共通点に気づかされます。


そうした「SDGs」にも相通ずるみ教えが、今回の一句においても引き続き提示されています。まず、冒頭の「呪食」から読み進めてみます。これは「食物の功徳」のことです。「甘露門」では、“食=仏法”という図式が存在していることは、すでに確認済みです。これは、飢えの苦しみから人々を救い、人々の身心の健康を養う“食”は、我々人間が抱える人生の様々な苦悩を解決してくれる“仏法”のごとき存在であるという解釈です。それを呪食という言葉で捉えているわけですが、我が身が仏法たる呪食によって、「苦を離れて解脱し(あらゆる苦悩から離れると共に、仏に近づくこと)」、仏と成って、仏の日常を過ごしていくことができるというのです。それが「天に生じて楽を受け、十方の浄土も意に随って遊往し」の意味するところです。


そうした仏の日常を過ごすことができる者にとって、その心がけは「菩提心」であり、その生き様は「菩提道」ということになるでしょう。これは、仏の心遣いと仏のモノの見方・考え方による仏の生き方ということです。それらが身についていれば、當来(将来・未来永劫)も仏なのです。「作佛」というのは、「佛と作る」ということで、「成仏」を意味しています。


こうした成仏(作佛)について申し上げるならば、常に仏であることを心がけ、仏が指し示した道を同じように歩んでこそ、仏として存在し続けられることは、言うまでもありません。こうした一生涯に渡って、怠けることなく、仏の生き方を心がけていくことを言い表している言葉が「退転なく」です。「不退転(ふたいてん)」という禅語がありますが、それと同じです。そんな「不退転」を心がけていくと、「度脱せん」とあるように、度脱(煩悩を断つこと)につながっていくというのです。


ここで注目しておきたいのが、「相度脱」の「相」です。三毒煩悩の調整ができるようになることを意味する「度脱」という言葉に、「自他共に」とか、「お互いに」ということを意味する「相」という文字が付されているわけですが、これは何を意味しているのでしょうか。それは仏法によって、苦悩から救われ、仏に近づいていくことを心がけていくとき、自分だけが楽を受けるようなことは慎むことを説いているのです。“普く皆飽満”が指し示すように、皆が救われ、皆が作佛できるよう、仏の生き方を持続していくことが「甘露門」を始めとする仏教の誓願なのです。その誓願が誰一人として取り残されることないよう、全てのいのちに伝え、シェア(共有)していくことよって、自他共に作佛していくことができるのです。


そんな仏教の誓願が「SDGs」が謳う「持続可能」という言葉とつながっていけるよう取り計らっていくのが、私たち宗教者の役目であることは言うまでもありません。また、皆が“自分たちのできる範囲で(持続可能な範囲で)”、仏のみ教えと共に生きる道を歩み続けていけるよう留意しておくことも、自明のことであります。

第7回「晝夜恒常(ちゅうやごうじょう)に ―東京2020オリンピックに学ぶ“不退転の生き方”―」

令和3年7月25日 更新

又願わくは汝等(なんじら)。晝夜恒常(ちゅうやごうじょう)に我を擁護して我が所願(しょがん)を満ぜんことを。


今、「甘露門」を読経している道場に、ご先祖様を始めとする亡きいのちを始め、十方世界の諸鬼神等をお呼びして、食を供養し、作佛(さぶつ)(仏と成ること)していただくことによって、仏の功徳力がもたらされるのを願うと共に、読経する者たちも、自ら作佛することを心に誓います。すなわち、自他共に作佛していくことが「甘露門」における大きなテーマの一つなのです。


ですから、昼夜問わず、不退転の心を以て、仏道を精進していくことが求められていくわけですが、それが、「晝夜恒常」の意味するところです。自らそうした不退転の決意を以て、常に仏道を歩み続けつつ、仏と成った存在に対して、自らの苦悩を救済していただくことを冀こいねがうのが、「我を擁護して我が所願を満ぜんことを」です。すなわち、今回の一句では、「自他の作佛」と「仏の擁護(救済)」ということを、たとえ、どんな状況下にあっても、意識しながら日々を過ごしていくことの大切さを説いているのです。


―令和3年7月23日(金)―

新型コロナウイルスの感染拡大によって、一年間に渡る延期の措置が取られていた「東京2020オリンピック」が、緊急事態宣言真っ只中の状況下において、無観客という形で開幕となりました。コロナ禍の中での開催の是非や、関係者の不祥事による解任問題等、オリンピックにまつわる様々な出来事が発生しましたが、いざ、始まってみますと、この日のために必死に鍛錬を重ねてきたアスリートたちの活躍に心打たれ、元気づけられている毎日です。特に無観客という状況下においても、観客の有無に関係なく、自分たちの力を存分に発揮する姿は、「晝夜恒常に」道と向き合ってきた人間だからこそのものではないかと感じます。まさに昼夜問わず、道を歩む者ゆえに生み出されるものなのです。こうしたアスリートたちの姿は、まさに「不退転の姿」そのものです。


自分たちを元気づけてくれる観客の声援があろうがなかろうが、今の自分が置かれている状況の良し悪しに捉われることなく、真剣に仏の道に向き合っていくのが、仏法僧の僧たる“仏道修行者”たちなのでしょう。彼らが法と共に毎日を生きていくときに、仏のお悟りに近づいていったということなのです。是非是非、私たちも見習っていきたいものです。

第8回「法の廻施(えせ)・法のシェア」

令和3年日 更新

願(ねがわ)くは此食(このじき)を施す、所生(しょしょう)の功徳。普く以って法界の有情に廻施(えせ)して、諸(もろもろ)の有情と平等共有(びょうどうぐう)ならん。


これまで「甘露門」では、私たち一人一人が“仏のみ教えに従って、仏の道を歩んでいくという「不退転(ふたいてん)」の生き方”によって、自分も周囲も共に仏に近づいていけるようにしてくことが大切であるということが説き示されてきました。


この“自他共に仏に近づく”ということを、前段では“自他共に作佛(さぶつ)する”という言葉で表現されていましたが、それを今回の一句では、「諸の有情と平等共有ならん」という言葉で言い表されています。仏の生き方を修行し続けていくことによって体得した食(=法)の功徳というものは、自分だけで独り占めするのではなく、さらに周囲に廻施(施し廻めぐらせていくこと)して、皆で平等に共有していこうというのです。すなわち、自らが体得した法は、たとえほんのわずかな量であったとしても、周囲に施していく方法を模索し、心がけていくことによって、普く一切全ての存在が共有していくことが大切であるということなのです。まさに法は施し合い、シェア(共有)しあうものだというのです。


その理由は何なのでしょうか。それは、法の世界において、そこに存在する全てが「平等」であるからに他ならないからです。法の世界には競争がありません。そこでは、周囲と闘いながら、少しでも多く法を体得したものが勝利を得るという図式など存在しません。なぜならば、よいものを自分だけのものにしていても、周囲が救われることがないからです。よいものは周囲に平等に分け与え、シェアしていくのが仏の世界なのです。それはあたかも、飢えに苦しむ人々が等分された食料を口にして、皆が空腹の苦悩から救われるようなものなのです。


そんな仏の世界に対して、私たちの生かされている娑婆世界では競争や差別が存在し、勝者と敗者、救われるものとそうでないものが生じてしまいます。だから、仏の世界を見習って、少しでも近づいていけるようにしていくことを目指すのです。


周囲に平等に分け与え、シェア(共有)してこそ、競争や差別が存在する娑婆世界が仏の世界へと近づいていくのです。そして、そうした「差別なく平等に共有する」ということは、これまで触れてまいりました「SDGs」が謳う「誰一人として取り残されることのない」という理念・思想とも合致しています。そんな「法の廻施・法のシェア」を意識しながら、仏のみ教えに従って、毎日を過ごしていきたいものです。

第9回「好悪の分別を断つ」

令和3年8月日 更新

諸(もろもろ)の有情と共に、同じく此の福を将(もっ)て、尽く将(もっ)て真如法界(しんにょほっかい)、無上菩提(むじょうぼだい)、一切智々(いっさいちち)に廻向(えこう)して。


仏法の廻施(仏法のシェア)によって、有情(あらゆるいのち)に救いの手を差し伸べ、誰一人として取り残されることなく仏の世界にお導きすることが仏教の誓願であり、「甘露門」の目指すところです。「諸の有情と共に、同じく此の福を将って、尽く将って」とあるのは、そうした仏教の誓願や福徳というものを、どんなときも忘れずに掲げ持(将)って、有情と共に仏の生き方を行じていくことを意味しています。


そうすることによって、一切有情、自他共に仏の智慧を開くことを願うことを意味しているのが、「真如法界、無上菩提、一切智々に廻向して」です。「真如」は、「かくの如き真実」ということで、「真如法界」となって、「法界(この世の一切の世界)における、ありとあらゆる真実の姿」ということを指します。


真如法界が指し示す‟真実の姿”とは、どういったものなのでしょうか。それは、それぞれが絶対の存在価値を有した、たった一つのかけがえのない存在であるということです。自分たちの周囲に存在している有情の全てがたった一つしかない、尊い存在であることは否定のしようがない事実です。それなのに、私たちは、そんな有情に対して、自分の好みで関わろうしてしまいます。そのために、ついつい自分の好みに左右されて、好悪の分別を以て関ってしまうのです。すなわち、好きと捉えた有情とは大切に関わるのに、嫌いと認識した有情に対しては、ぞんざいな態度で接してしまうという、相手を見て、差別的な関わり方をしてしまうのです。


しかし、どんなに自分が苦手としている存在であれ、自分が嫌っている存在であれ、その存在に救われ、救われている者もいます。すなわち、自分にとっては無価値に見えるものも、他者にとっては自分を救い、支えてくれる尊い存在であるということが起こり得るのが、この娑婆世界なのです。


たとえば、会社では嫌味で部下に煙たがられているような上司でも、家に帰れば父親として、妻子を養い、その存在によって、家庭が成り立ち、子どもたちは適切な教育を受け、家族が平穏に暮らしていけるという事例もあります。部下にとっては嫌な上司でも、家庭では、その上司を父親として求める家族がいるのです。これと同じように、ある場面においては、嫌な存在も、別の場面では大切な存在であるということは、随所にありえます。ですから、どんな存在であっても、好悪の情を排して、平等な視点を以て、大切に関わっていくことを意識して毎日を過ごしていくことが仏教では求められていくのであり、それが「真如法界」における生き方なのです。そして、そうした仏の最上の悟りやみ教えということを意味する言葉が、「無上菩提(最上のお悟り)」であり、「一切智々(一切の智慧の中でも最上の智慧)」です。


私自身、多少なりとも、好悪の分別を以て有情と関わっている面があることは認めざるを得ませんが、「真如法界、無常菩提、一切智智に廻向する」ことを意識しながら、好悪の分別を断ち、万事に価値を認めていけるように精進していきたいものです。自分が好悪の分別を引き起こさないようにするのはもちろんのこと、たとえ、相手が自分に対して、好悪の分別を以って関わってきたとしても、そのことを恨んだり、腹を立てたりするのは慎みたいものです。それはバカバカしいことであり、何の利益もないことです。自分自身が好悪の分別を断って毎日を過ごすことによって、少しでも仏に近づいていくことを目指していきたいものです。

第10回「成仏(じょうぶつ) ―有情の課題―」

令和3年8月15日 更新

願わくは速やかに成仏して余果(よか)を招くこと勿らん。法界(ほっかい)の含識(がんじき)。


仏法の廻施(えせ)(仏法のシェア)によって、私たちが「悲愍(ひみん)を以て周囲と関わること」を心がけたり、「不退転(ふたいてん)の生き方」(仏に近づくことを目標に毎日を過ごすこと)を行じたり、「好悪の分別を断つ」ことを意識して日々を過ごしたりしていくうちに、私たちはお釈迦様のような人間になっていきます。これが「成仏」ということです。


「成仏」は「仏に成る」ということで、一般的には死後の世界のことだと捉えがちです。確かに、曹洞宗の葬儀では、亡き人を仏様にして、仏界へとお送りしますので、それを思えば、決して、「成仏=死後の世界」という考え方は間違いではありませんが、成仏は死後の世界だけを指しているのではありません。生きている今における、私たち全ての人間の生きていく上での共通の課題でもあるのです。すなわち、私たちが仏様を目標に毎日を過ごしていくことが「成仏」なのです。「成仏」は、まさに「有情の課題」とも言えるでしょう。


「甘露門」では、人々にそうした「成仏」を生きている今のうちに果たすことを願うと共に、「余果を招くこと勿れ」と戒めます。これは、仏の道から外れてはならないということです。仏の道以外のものというと、たとえば、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・天上・人間)というのが仏教では示されています(詳しくはこちらをご覧ください)。これらは私たちが日常の中で、言葉の発し方や行動の出し方を誤れば、たちまち赴くことになる喧嘩などの争いに満ちた苦悩の世界を指します。甘露門を始めとする私たちが目指すべき仏の道を「仏果(ぶっか)」と申しますが、それに対する道という意味で、「余果」という言葉が用いられているのです。


そうした「余果」に陥ることがないよう、我が言動を仏様のごとく穏やかで柔軟なものになるよう調えることの大切さを、すべてのいのちに向かって強く訴えるべく、「法界の含識」という言葉が使用されています。これは「有情」とほぼ同義の言葉で、「この世のすべてのいのちある存在」という意味を持った言葉です。この言葉で文末を閉めることによって、衆生に対して、「成仏」を強く願っていることが伺えます。それほどまでに「成仏」が私たちの生きる課題として、重要なものだということです。


そのことを今一度、しっかりと踏まえ、毎日の言動に心を配り、丁寧且つ穏やかなものを提示しながら、成仏していきたいものです。

第11回「“疾(と)く成仏”を心がけて-年齢と人生経験を積み重ねていく-」

令和3年8月22日 更新

願わくは此(こ)の法に乗じて疾(と)く成仏することを得ん。


「お釈迦様のみ教えを意識しながら、少しでも早く成仏(仏に成れる)ように」というのが今回の一句の意味するところです。これぞ仏教の願いを一言で表現したものであり、是非、しっかりと心に留めて、毎日を過ごしていきたいものです。


とは言え、「疾く成仏」というのは、今日意識して、明日すぐにできるものではありません。仏道修行を根底に置きつつ、様々な経験を積み、年齢を重ねながら、私たちは仏のみ教えを理解・体得していけるように思います。


昨日(8月21日)は私の長男(小学校5年生)の11歳の誕生日でした。普段から、些細なことで姉や弟と喧嘩になることが多い長男。「せめて今日の誕生日くらいは喧嘩はやめよう」と3人に言いました。その結果、いつもから見れば、喧嘩する場面は激減したのはよかったのですが、いつもの習慣ゆえか、言い争いに発展する場面が一、二度、ありました。


そんな子どもたちの喧嘩を、自身の経験も踏まえながら考えてみたとき、喧嘩(争い)が発生するのは、自分の利益のみを優先し、相手に対する配慮がないのが最大の原因のように思います。そうした争いというものに対して、仏教では周囲とのつながりを意識し、周囲に配慮した言動の提示を説きます(【例】布施《ふせ》・愛語《あいご》・利行《りぎょう》・同事《どうじ》の「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」など)。そんなみ教えを心に留めながら毎日を過ごしていくことが「成仏」につながっていくのです。そして、そうやって、次第に争いのない穏やかな日常生活というものが実現できるようになっていくのです。


今は喧嘩が絶えぬ子どもたちも、大人になるにつれて様々な人生経験を積み重ねながら成長していきます。そうした成長過程の中で、たとえ年齢を重ね、他者が経験しないような貴重な人生経験を重ねた人間であっても、周囲の不幸を願い、争いを仕掛けるような言動を取っているようでは、「成仏」とは言えません。年齢や経験を重ねながら、仏に近づき、仏のごとき言動を提示できるようになっていくのが、「成仏」なのです。


先日、インターネットの「文春オンライン」で俳優・柴田恭兵さんの素晴らしい記事が出ていました(下記URL参照)。恭平さんはテレビドラマ・「あぶない刑事」の大下勇次役で著名な名優です。


https://news.yahoo.co.jp/articles/35e1791f7a680ad88ba986803fd0663d28908d56?page=1


恭平さんは去る8月18日に70歳のお誕生日をお迎えになったとのことです。そんな恭平さんが55歳のときに肺がんを患い、療養生活に入られました。術後の経過がよかったことで、2ヶ月での復帰を果たした恭平さんは、「どんな芝居をしても「これが柴田恭兵であり、それ以上でも、それ以下でもない。とにかく全部出し切ろう。」と思って演じるようになったと当時を振り返っていらっしゃいます。


また、2013年(平成25年)、62歳を迎えようとしていた恭平さんはインタビューで、『60代となって、いい意味で肩の力が抜けて、おもしろくなってきた。昔ならば、若い共演者たちの前でカッコをつけて、どうだと言わんばかりの演技をしていたと思うが、今は「こんな感じですが、いかがでしょうか」といった感じで、ありのままの自分を楽しめるようになった。』とおっしゃっています。


こうした心境の変化というものが、成仏にも通ずると共に、自らの道を成就していく過程において芽生えてくるものなのでしょう。恭平さんの若き日々の考え方は、誰しも経験する(あるいは経験のある)ことで、共感を覚えます。私自身も、30代の半ば、布教の場が増え、多少は自分の布教活動が評価されてきたかなと感じたときに、カッコをつけて、これでもかという布教をするようになっていた時期がありました。そんな布教の場もコロナ禍によって激減した今、恭平さんがおっしゃるような、「自分の持てるすべてをさらけ出し、『こんな感じでいかかがでしょうか。』という姿勢を以て臨ませていただくことの大切さ」をヒシヒシと感じています。


新型コロナウイルス第5波真っ只中の今、これから布教の場がどうなるのかは全く見通しが立たない状況が続いていますが、それでも「疾く成仏」を心がけながら、謙虚な気持ちで年齢と人生経験を積み重ねながら、少しずつ仏の生き方を身につけていきたいものです。

第12回「雲集鬼神招請陀羅尼(うんしゅうきじんちょうしょうだらに) ―“離執(りしゅう)”の生き方を目指して―」

令和3年8月2日 更新

曩謨歩布哩(のうぼぼほり) 迦哩多哩(ぎゃりたり) 怛他蘖多也(たたーぎゃたや)


これまで「和文」の形態で示されてきた「甘露門」ですが、ここからは「真言(しんごん)」に変わります。「真言」とは、「咒(じゅ)」と訳し、「〝悪を断ち、善を修する〟ことを説いた真実の言葉」を指します。この真言の中でも、比較的長文のものが「陀羅尼(だらに)」と呼ばれ、曹洞宗では一般的な読経供養において、「大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)」が読誦されたり、御祈祷(ごきとう)において、「消災妙吉祥陀羅尼(しょうさいみょうきちじょうだらに)」といった陀羅尼が読まれたりします。


「甘露門」において、和文から真言に変化していくのは、耳で聞いていると、非常にリズミカルで、テンポもよく、まるで場面の変化に富んだ演劇のような印象を覚えます。こうした変化に富んでいるところが「甘露門」の特徴であり、魅力的な面でもあるとも思っています。


そんな「甘露門」で初登場となる今回の真言には、「雲集鬼神招請陀羅尼」というタイトルが付されています。これには「あちこちに散り散りになって存在している鬼神たちを、雲を集めるがごとく道場に呼び集め、仏のみ教えを説いて、供養する」という意味があります。


そんな陀羅尼の内容が「曩謨歩布哩 迦哩多哩 怛他蘗多也」です。これは「帰命(きみょう)・離執(りしゅう)・如来(にょらい)」と訳し、「あらゆるものに対する我執を離れた如来(お釈迦様)に帰依することができるならば、慈悲心が生ずる」という意味があります。すなわち、各種鬼神たち始め、人々に「離執」という生き方を勧めると共に、そうした生き方を指し示すお釈迦様への帰依を願うのが、「雲集鬼神招請陀羅尼」なのです。


我々の日常生活の中には様々な苦悩があります。職場や家庭など、様々な場において、人間関係などの問題で苦悩する人々のお話をお聞きすることがありますが、総じて、苦悩を生み出す原因となっているのが「我執」です。たとえば、相手を悪しき存在と決めつけ、攻撃のターゲットにしている人がいます。この“ターゲットにする”というのが、“自分が発する執着”、すなわち、「我執」なのです。こうした我執がある限り、いつまでも相手を憎しみの目で捉え、その見方が変わることはありません。すなわち、我執から離れ、捨て去ることがない限り、いつまでも悟りへの道を妨げるだけなのです。


それを踏まえ、「雲集鬼神招請陀羅尼」を通じて、自分自身の我執というものについて、よくよく振り返り、如来(仏様)とのご縁を深めながら、「離執」の日々を目指していきたいものです。

第13回「破地獄門開咽喉陀羅尼(はじごくもんかいいんこうだらに)―我が身心に救いの仏法を!―」

令和3年日 更新

唵歩布帝哩(おんぼほていり) 迦哩多哩(ぎゃりたり) 怛他蘖多也(たたーぎゃたや)


「甘露門」に登場する二つ目の“陀羅尼”となるのが、「破地獄門開咽喉陀羅尼」です。この陀羅尼には、「地獄の苦しみを破る利益(りやく)がある」とされています。


「地獄」と言えば、仏教に造詣のある方ならば、「六道(ろくどう)」を思い浮かべるのではないかと思います。私たちが日頃の行いによって赴くとされる(輪廻【りんね】)六つの世界を「六道」と申しますが、その中でも最も苦悩に満ちた世界が「地獄」と言われ、そこに赴くことがないよう、願いを込めて唱えられるのが、「破地獄門開咽喉陀羅尼」です。


苦悩というと、私たちの周りには様々な苦悩があります。最愛の人との別れがもたらす苦悩、会いたくない人とも会わなくてはならない苦悩、年を取って身体が思うように動かない苦悩に、病気の苦悩、考えてみただけでも色々な苦悩が思い浮かべられます。そうした苦悩を抱えながら、私たちは毎日を過ごしているわけですが、少し視点や考え方を変えることによって、次第に状況が変化し、苦悩が軽減したり、解消されたりしていくことがあります。ところが、いつまでもマイナス思考のままでいるなどして、何か一点に捉われているようなモノの見方・考え方をしているようでは、中々、状況が変化することがなく、いつまでも苦悩を抱えた状況だけが続いていくことになるのです。


そういう状況が続くことは、仏のお悟りに向かって真っ直ぐにつながっている道に何らかの障害をもたらすだけで、何もいいことはありません。自分に苦悩をもたらす原因を突き止め、そこに執着すること(立ち止まること)がないようにしていく「離執」という生き方によって、人々は苦悩から解放されていくのです。それが「破地獄門」ということなのです。


「甘露門」には、「食=法」という観点が示されていました。この「法」というのが、言うまでもなく、私たちを苦悩から救ってくださるお釈迦様のみ教えです。食によって、肉体を健やかに養うと共に、明日へのいのちをつなぎながら毎日を過ごす私たちですが、そんな食が一切与えられず、空腹で過ごすこともまた、私たちにとって耐えがたい苦悩の一つです。


そうした私たちが生きていく上で欠かせない重要な存在である食は、私たちの口から喉を通って、体内に吸収されていきます。「咽喉」という「のど」を意味する言葉が登場する理由はここにあるのでしょう。「咽喉」は私たちが生きていく上で欠かせぬ大切な存在であり、まさに、急所そのものです。そうした咽喉を開き、私たちの救いとなる食(=法)を注入し、地獄への道を閉ざす経文となるのが、「破地獄門開咽喉陀羅尼」なのです。この陀羅尼を我が身に念じ込み、地獄に輪廻することがないよう、我が身心を仏法によって調えながら、毎日を過ごしていきたいものです。 

第14回「無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼(むりょういとくじざいこうみょうかじおんじきだらに)―“加持(かじ)”を意識して―」

令和3年9月12日 更新

曩莫(のうまく) 薩嚩(さらば) 怛他蘖多(たたーぎゃた) 嚩嚕吉帝(ばろきてい) 唵三婆羅(おんさんばら) 三婆羅吽(さんばらうん)


今回は「甘露門」における三つ目の“陀羅尼”・「無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼」について触れさせていただきます。「加持」とありますが、これは仏教信者(仏に帰依する者)が仏の加護を受けることによって、仏の慈悲と衆生(人々)の信心が通じ合った「感応道交(かんのうどうこう)」の状態になることを指しています。


修証義第一章・「總序(そうじょ)」において、私たちはご先祖様からつながる先祖代々のいのちをいただいて生かされていることが説かれています。そんな“いただきもののいのち”を仏のみ教えに従って調えながら、正しく生かしていくことが、私たちに与えられた使命であるわけですが、その使命を実現していく上で、私たちが仏様を始めとする仏法僧の三宝に帰依し、三宝と心を通じ合わせていくことが必須であることを押さえておきたいものです。すなわち、「加持」ということが、私たちの日常生活において実現されるようにしていくことが大切であるということです。


そのためにも「仏法」を「一杯のお椀に盛られた飲食物」のごとくにいただき、仏の加護を頂戴すると共に、我が身心を仏のごとく調えていくことを誓い、「無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼」に触れていくことが大切です。「無量」は「この上ない」とか、「最上」ということであり、「威徳」は「勝れた仏のお力・お徳」を指します。「自在」は、「自由自在」という言葉がありますが、「一切の束縛から離れた自由の境地」、すなわち、「仏のお悟り」を意味しています。そして、「光明」は、そんな仏が常時発する光のことで、救いを求める人々に利益(りやく)を与えてくれるものです。「無量威徳自在光明」というのは、言ってみるならば、「悟りを得た仏のみ教え」ということに集約することができるでしょう。


日頃から、何かと苦悩を抱えながら生かされている私たちですが、仏法僧の三宝に救いを求め、そのみ教えに随いながら我が身心を調えていくことによって、あらゆる苦悩から解放されていきます。しかし、一方的に仏に救いだけを求めていても、救われることはありません。救いを願う以上は、自分自身も、それに応じた行いを提示していくことが欠かせないということです。すなわち、仏法僧の三宝と心を通じ合わせながら生きていく「加持」ということを意識しながら日々の生活を送ることが大切なのです。

第15回「蒙甘露法味陀羅尼(もうかんろほうみだらに)―あらゆるいのちに救いの手を―」

令和3年9月1日 更新

曩莫(のうまく) 蘇嚕頗也(そろばや) 怛他蘖多也(たたーぎゃたや) 怛儞也佗(たにゃた) 唵蘇嚕蘇嚕(おんそろそろ) 鉢羅蘇嚕(はらそろ) 鉢羅蘇嚕(はらそろ)娑嚩賀(そわか)


「甘露門」における四つ目の“陀羅尼”として登場するのが、今回の「蒙甘露法味陀羅尼(もうかんろほうみだらに)」です。

「甘露」については、第1回「施食会(せじきえ) ―あらゆる精霊に“食じきを施す”仏行―」の中で触れさせていただきましたが、「仏のみ教え」を意味するもので、お釈迦様の時代以前(ヴェーダ時代)から神(諸天)が不死を得る飲料水として存在していました。


そうした「甘露」がお釈迦様の時代に入り、悟りを得たお釈迦様のみ教えである仏法と同義の言葉として用いられるようになったわけですが、その「甘露」が悟りの味わいである「妙味」を有したものであるということを意味するのが、「法味」です。仏教の世界では、しばしば“妙”という言葉が登場しますが、これは「この上ない美しさや奥深さ」といったものを表現する際に用いられます。世間では“奇妙”という言葉にあるような“普通でない”とか、“変な”という意味合いで使用されることが多いですが、仏教においては、むしろ、そうした意味合いは薄く、言葉で言い尽くせぬ境地を表現していると捉えてしかるべきです。まさに、お釈迦様のお悟りであり、そのみ教えというものが、“妙”なるものであるということなのです。


そうした“妙”に加えて、もう一つ、抑えておきたいのが、“蒙もう”です。“蒙”を用いた言葉として、多くの方が思い浮かべるのは“蒙古襲来(もうこしゅうらい)(元寇【げんこう】)”ではないでしょうか。これは鎌倉時代中期、東アジアと北アジアを支配していた元朝(モンゴル帝国)が二度に渡って、日本に侵攻してきたものの、暴風雨のために撤退を余儀なくされたという、日本の歴史に名を残した出来事です。この“蒙”という言葉には、“被る”とか“受ける”といった意味の他に、“道理に暗い愚かな者”だとか、“乱す”、“騙す”といった意味、“混じる”という意味もあります。ここでは、「法味」を持ち味とした「甘露(仏法)」という解釈で、“混じる”という意味を採用していきたいと思います。


そうした「甘露」を「一椀の水」のごとく、周囲のあらゆるいのちに施し、身心の渇き(飢え)の苦しみを癒し、安心を与えていこうと願うのが、「蒙甘露法味陀羅尼」です。前回の「無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼(むりょういとくじざいこうみょうかじおんじきだらに)」が一杯のお椀に盛られた飲食物を苦悩に満ちたいのちに施し、利益を与えていくことを願ってお唱えされるのと同様に、今回もお釈迦様の願い、仏教の目指すところが陀羅尼を通じて示されているのです。


そうした陀羅尼に込められた願いを受け止め、お盆の施食会法要の際には、正面に祀られた祭壇(施食棚【せじきだな】)には、正面に一椀のご飯が、その右隣には浄水がお供えされ、法要中、導師(法要執行者)は、「甘露門」に提示されている各種陀羅尼をお唱えしながら、施食棚に進み寄り、食や水を周囲に振り撒いて(仕草のみ)、あらゆるいのちの苦悩を救済することをお誓いするのです。こうした仏教の願いを今一度、皆で共有しておきたいところです。

第16回「毘盧舎那一字心水輪観陀羅尼(びるしゃないちじしんすいりんかんだらに)―“誰一人として取り残されることがないこと”を願って―」

令和3年9月26日 更新

曩莫(のうまく) 三満多(さんまんだ) 没多南鑁(ぼだなんばん)


一杯の茶碗に盛られた飲食物や一椀の水を、空腹に苦しむ人々に差し上げて、飢渇の苦悩を救うように、日常生活の中で様々な苦悩を抱える人々に、お釈迦様のみ教えを施すことによって、その身心を救うことが仏教の悲願であり、この「甘露門」の目指すところです。今回、登場する五つ目の“陀羅尼”である「毘盧遮那一字心水輪観陀羅尼」もまた、そうした願いを込めて唱えられる陀羅尼です。ここには、一椀の飲食物や水を、あたかも仏のみ教えの如く捉えながら、苦悩に満ちた人々に施し、その苦悩を取り除こうとする心持ちが込められています。これは、言わば、周囲の全てのいのちに対して、「誰一人として取り残すことなく救い上げる」ということでありましょう。そういう意味では、この陀羅尼は、かの「SDGs」にも通ずるみ教えでもあるとも言えるのです。


「毘盧遮那」とあるのは、葬儀においてお唱えする「十仏名(じゅうぶつみょう)」にも登場する仏様で(詳しくはこちらをご覧ください)、華厳宗がご本尊として信仰する無垢清浄なる仏様のことです。毘盧遮那仏の解釈は諸説があるため、一定してはいませんが、その役割が、あらゆる場所にあって、そこに存在するいのちに仏法を説いて、苦悩を救うことであるという点においては、皆の心の支えとなる仏様であると捉えることができるでしょう。


次に「一字」とありますが、これは、単なる一文字ということを言っているのではありません。たった一文字であっても、その背景に、この世に存在している全てのいのちやモノなどがあると共に、仏の悟りや禅の境地といったものまでもが含まれた非常に広大で深遠なる一文字であると捉えていくべきでありましょう。まさに毘盧遮那仏が発する仏のみ教えが込められた悟りの言葉であり、禅のみ教えなのです。


そして、「心水輪観」とあります。これは、あらゆるいのちに空腹の苦悩から救われる飲食物を施し、皆の飽満を観想することを意味しています。


こうやって仏教を学ばせていただく中で、私たちがいかに日常生活の中で、周囲のいのちに対して、自分の好悪の念に捉われて差別的な関わり方をしていくことが、残念かつ無益な行いであるかということを思わずにはいられません。誰に対しても、分け隔てなく、皆が幸せに暮らせることを願って言葉や行いを発していくことは、もはや理想論ではなく、現実の中で実践していくべきことになってきているのです。


そして、こうした考え方は、今や世界的に主流となりつつある「SDGs」の思想にも相通ずるものです。そのことを押さえ、皆が救われるように、皆が気持ちよく、楽しく過せることを願って、自身が発する言葉や行いを調え、磨いていく必要性を感じずにはいられません。


近年、コロナ禍を受けて、Zoomを用いたリモート会議の機会が増えてきていますが、先日参加させていただいたあるリモート会議において、進行役が参加者全員の意見を求めたにも関わらず、一人の参加者から意見徴収をするのを忘れるというアクシデントが発生してしまいました。会議の進行役はそのことに気づくことなく、淡々と会議を進行していたのですが、参加者の一人からそのことを指摘され、平謝りをしながら、当該者の発言を求め、その場を収めました。進行役は悪気があって、意図的にその参加者の意見を聞かなかったのか、あるいは、最初から悪気などなく、単に忘れていただけなのか、真相を追求するほどのことではないにしろ、もし、進行役のどこかに当該者に対する好悪の念があり、それが働いたがゆえの結果だったとすれば、「甘露門」における陀羅尼が指し示す「誰一人として取り残すことなく」を意識して、言葉や行いを発していくことを願うばかりです。


勿論、それは今回の事例となった進行役の人間のみならず、私も含め、全ての人に対する願いでもあります。

第17回「五如来宝号招請陀羅尼(ごにょらいほうごうちょうしょうだらに)①―多宝如来(たほうにょらい)(宝勝如来【ほうしょうにょらい】)―」

令和3年10日 更新

南無多宝如来(なむたほうにょらい)。曩謨薄伽筏帝(のうぼばぎゃばてい)。鉢羅歩多(はらぼた)。阿羅怛曩也(あらたんのうや)。怛他蘗他也(たたーぎゃたや)。

除慳貪業福智圓満(じょけんとんごうふくちえんまん)。


「五如来宝号招請陀羅尼」は、「五如来(ごにょらい)(五佛)」と申します「施食会のご本尊とされる五体の仏様」を招請(こちらからお願いしてお招きすること)し、そのみ教えを請うものです。下記に五如来について、簡単に触れさせていただきます。


多宝如来(宝勝如来) 三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)を取り除いてくれる仏様

妙色身如来(みょうしきしんよらい) 人々の表情を穏やかにしてくれる仏様

甘露王如来(かんろおうにょらい) 人々に安楽を与えてくれる仏様

広博身如来(こうはくしんにょらい) 人々に飲食の楽しみを与えてくれる仏様

離怖畏如来(りふいにょらい) 人々を浄土や悟りの世界に導いてくれる仏様


それぞれの詳細な説明は次回以降、「甘露門」を読み味わいながら、順次、行わせていただきますが、今回は「多宝如来(たほうにょらい)(宝勝如来【ほうしょうにょらい】

)」について触れてみたいと思います。


多宝如来様は法華経「見宝塔品(けんほうとうぼん)」に登場します。お釈迦様がお弟子様たちに「あなた方は将来、仏になれる」という内容の説法をなさっていたときのことです。説法が終わると、地面から宝塔(ほうとう)(宝石や花で飾られた塔)が湧き出てきて、霊鷲山りょうじゅせん上にそびえ立ちました。この宝塔の中にいらっしゃったのが、多宝如来(宝勝如来)様で、お釈迦様のために座席を半分空けて坐っていらっしゃったというのです。ここにお釈迦様が入られ、多宝如来様と共に二体の仏様が同座したわけですが、こうして地中から仏様がいらっしゃる塔が湧き出てきたというのは、仏のみ教えの絶対性を証明するという意味があります。


すなわち、この世の人々が抱えている苦悩というものは、人間の心の底の底から湧き出てくるもので、そうした中々、見えにくく、感じ取りにくいところにこそ、真実があるということを意味しているのです。多宝如来様が宝塔と共に地から湧き出てきたということは、地中から地上のお釈迦様に対する共感の意の表明なのです。こうして、お釈迦様のみ教えは絶対的な真実であり、間違いのない、確固たるものであることを証明しているのです。


そんな多宝如来様に帰依することを願うのが今回の一句なのですが、なぜ、多宝如来様への帰依を願うのかと言えば、「除慳貪業福智圓満」とあるように、多宝如来様が三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)という、誰しもが有する自他共々の身心を乱すものを取り除き、人々に福徳をもたらし、智慧(仏のモノの見方・考え方)を育ませてくれる仏様だからに他ならないからです。


ちなみに、五如来様と関係が深いものの一つに、「五色(ごしき)」【黄・青(緑)赤・白・黒(紫)】があります。お寺の本堂に五色の幕が掲げられていることが多いですが、これは中国の思想に基づくもので、五色それぞれが仏教のみ教えと関連すると共に、五如来様とも通じています。


そうしたことも、追々と仏教の豆知識的に学ばせていただきたいと思います。

第18回「五如来宝号招請陀羅尼(ごにょらいほうごうちょうしょうだらに)②―妙色身如来(みょうしきしんにょらい)―」

令和3年10月10日 更新

南無妙色身如来(なむみょうしきしんにょらい)。曩謨薄伽筏帝(のうぼばぎゃばてい)。蘇嚕波耶(そろばや)。怛他蘗他也(たたーぎゃたや)。破醜陋形圓満相好(はしゅうろうぎょうえんまんそうこう)。


「五如来宝号招請陀羅尼」において、二つ目の如来(仏様)として登場するのが、「妙色身如来」です。この「妙色身如来」に帰依することによって、自分の中に生じた醜いものを取り除き、清浄な状態を保つことを願います。それが「破醜陋形圓満相好」の意味するところです。


自分の中に生じた醜いものというのは何でしょうか。それは、三毒煩悩(貪り・瞋いかり・愚かさ)に満ちた言葉や行いを発し続けることによって、いつしか作り上げられてしまった悪しき自分です。すなわち、自分を顧みて、問題点等を改善することなく、仏のみ教えから外れた言葉や行いを提示し続けることによって、身心共々に汚れた姿になってしまった我が身です。それが「醜陋」の意味するところです。「陋」には、「品が悪い」とか、「粗悪である」という意味があります。これは決して、身長の高低とか、ルックスの良し悪しといった見た目の情報で感覚的に好悪を分別して捉えるような次元のものではありません。あくまで三毒煩悩によって発生する共に、懺悔さんげの修行を怠ったがゆえに生じてしまったものなのです。そうした「醜陋」を打ち破り(破醜陋)、自分自身の姿形が「圓満相好」(身も心も尊貴であること)になることを目指し、妙色身如来への帰依を誓うのです。


ちなみに、「妙」という言葉が用いられていますが、これは、仏教の世界ではしばしば目にする言葉で、「言葉では表現し尽くすことのできぬほどに勝れたもの」という意味があります。まさに悟りを得たお釈迦様を始めとする仏様という存在を端的に言い表すならば、「妙」という一文字で言い尽くされているでしょう。色身(姿形)から妙なるものがにじみ出ている仏様に我が身の全てを委ね、身心共々に清浄であることを目指し、我が発する言葉や行いを調えていきたいものです。


新型コロナウイルスの第5波がピークアウトし、感染状況が落ち着きつつある今日この頃ですが(令和3年10月現在)、街中は自粛生活をじっと耐えてきた人々で賑わっています。また、お寺の世界に目を向けてみると、コロナ禍で中止や自粛を余儀なくされてきた法要が少しずつ再開し始めています。そんな中で、数ヵ月ぶり(中には数年ぶりという方もいらっしゃいます)にお会いする方もいらっしゃいました。そうした方々と接してく中で、特に「破醜陋形圓満相好」を心がけていきたいと感じます。久しぶりにお会いする方だからこそ、特に心を配り、穏やかな顔・温かい言葉で接していく意識を持つことが大切だということです。


果たして、第六波が到来するのか、「コロナ禍」の行く末は全く読めませんが、コロナ禍だからこそ、「破醜陋形圓満相好」を意識しながら、特に念入りに自分の身心の調整に留意すると共に、コロナが収まってからも、十分に我が身心に念じておきたいものです。

第19回「五如来宝号招請陀羅尼(ごにょらいほうごうちょうしょうだらに)③―甘露王如来(かんろおうにょらい)―」

令和3年10月1日 更新

南無甘露王如来(なむかんろおうにょらい)。曩謨薄伽筏帝(のうぼばぎゃばてい)。阿蜜帝(あみリてい)。怛他蘗他也(たたーぎゃたや)。灌法身心令受快楽(かんぼうしんじんりょうじゅけらく)。


「五如来宝号招請陀羅尼」の三つ目に登場する如来(仏様)が、「甘露王如来」です。「甘露王」は「阿弥陀如来(あみだにょらい)」のことで、甘露王(阿弥陀如来)に帰依することによって、不死を叶え、苦悩を除滅させてくれる甘露(仏のみ教え)が自分たちの身心全体に注ぎ込まれ、この上ない安心あんじんがもたらされるというのです。それが「灌法身心令受快楽」の意味するところです。


阿弥陀如来というと、浄土真宗のご本尊様として帰依されている仏様として知られています。それゆえ、曹洞宗とはあまり関係がないような印象が強いかもしれませんが、阿弥陀様をお祀りする禅宗寺院も実在します。ちなみに、浄土(仏菩薩が存在する清浄なる極楽の地)について、曹洞宗では浄土は他にあるのではなく、我々人間の心の持ち方ひとつで、どこにでも現れるものであるという立場を取ります。


そうした浄土が我が身・我が心に浸透していくことができれば、自分が浄土となり、仏菩薩になっていくのであり、これが仏教の目指すところでもあります。ちなみに、これを「成仏じょうぶつ」と申します。「成仏」というと、死後の世界のことと捉えられがちですが、それだけではありません。むしろ、いのちをいただいて生かされている今こそ、私たち一人一人に求められている「人間性の完成」という、私たちの生きる課題なのです。成仏は、私たちが生涯に渡って、仏法と共に生きていくことができたときに成し遂げられていくのです。


日頃の日常生活を振り返るに、何かと小さなことでも動揺したり、冷静さを欠いた言動を発してみたりと、身も心も十分に調っていない自分の姿を目の当たりにして、反省させられます。そんな我が身に法を灌(そそ)ぎ、浄土の体(てい)が完成できるよう、「成仏」を生きる課題として意識しながら、日々を過ごしていきたいものです。

第20回「五如来宝号招請陀羅尼(ごにょらいほうごうちょうしょうだらに)④―広博身如来(こうはくしんにょらい)―」

令和3年10月24日 更新

南無広博身如来(なむこうはくしんにょらい)。曩謨薄伽筏帝(のうぼばぎゃばてい)。尾布邏蘗怛羅耶(びほらぎゃたらや)。怛他蘗他也(たたーぎゃたや)。咽喉広大飲食充飽(いんこうこうだいおんじきじゅうぼう)。


「五如来宝号招請陀羅尼」における四体目の如来(仏様)となるのが、「広博身如来」です。広博身如来は、真言密教のご本尊様である「大日如来(だいにちにょらい)」のことでもあります。


これまで登場した多宝如来(たほうにょらい)や甘露王如来(かんろおうにょらい)には、人々が帰依することによってもたらされる功徳がありましたが、広博身如来を拝むことによってもたらされる功徳とは何なのでしょうか。それを表しているのが「咽喉広大飲食充飽」です。「咽喉」は「のど」のことで、私たちの喉を、あらゆる飲食物が通っていくように、大きく広げ、満足感をもたらしてくれるのが、広博身如来であると説くのです。


そもそも、「甘露門」には、「食=法」という視点が盛り込まれていました。日常生活の中で様々な苦悩を抱え、仏に救いを求めるものに対して、仏は法を施し、誰一人として取り残されることなく救い上げる存在であります。そうした仏の使命を全うし、救いを求める人々が身心共々に充満されることを願うのが広博身如来(大日如来)なのです。


前回の甘露王如来(阿弥陀如来)同様、広博身如来(大日如来)も曹洞宗では、ご本尊様として捉えていないため、曹洞宗の経典である「甘露門」に登場するのは、場違いのような印象を覚える方もいらっしゃるかもしれません。しかし、どの如来様もお釈迦様が源流であり、そこから姿形を変えて、我々の眼前に現れた存在ばかりです。ということは、どの如来様もお釈迦様につながっていて、どの仏様を拝むこともお釈迦様に帰依する仏教徒の姿として否定すべきものではないということになるのです。


ですから、現実には阿弥陀如来は主に浄土真宗が、大日如来は真言宗が主としてご本尊として拝みますが、自分の宗派の仏だから敬い、そうでなければ敬わないという考え方は慎むべきものです。何よりも自分の宗派の仏様に帰依する姿勢を大切にしながら、それ以外の仏様にも分け隔てなく帰依していけばいいのです。そうする中で、身心が調い、穏やかな毎日を過ごせるようになっていくのです。それが、我々が仏に救われたということなのです。

第21回「五如来宝号招請陀羅尼(ごにょらいほうごうちょうしょうだらに)⑤―離怖畏如来(りふいにょらい)―」

令和3年10月31日 更新

南無離怖畏如来(なむりふいにょらい)。曩謨薄伽筏帝(のうぼばぎゃばてい)。阿婆演(あばえん)。迦羅耶(ぎゃらや)。怛他蘗他也(たたーぎゃたや)。恐怖悉除(くうふしつじょ)。離餓鬼趣(りがきしゅ)。


今回登場する「離怖畏如来」は、「五如来宝号招請陀羅尼」における最後の如来で、五体目となる仏様です。その名が指し示すように、人々が抱える恐怖(畏れ)や不安といったものを取り除く(離)仏様が「離怖畏如来」であり、その功徳は「恐怖悉除。離餓鬼趣」とあるように、「たとえ六道世界の地獄や餓鬼等の苦しみの世界に赴くようなことになっても、どんな恐怖や不安も悉く取り除くことである」と示されています。


恐怖や不安について、私たちは日常生活の中で、どんなことに対して感じるものでしょうか?たとえば、地震や暴風雨などの自然災害がそうです。その規模が甚大であればあるほど人々の不安は大きくなっていきます。石川県内では奥能登を震源とする震度1~3程度の小さな地震が今年に入ってから頻発しています。北國新聞社の発表では、今年に入って51回目(令和3年10月31日現在)とのことで、その被害を受けている珠洲(すず)市の方々が口々に不安を訴えているのを耳にします。また、今夏に静岡県の熱海市で発生した「令和3年7月伊豆山土砂災害」を引き起こした豪雨も記憶に新しいところです。過去を振り返れば、いつの時代も大自然の猛威がもたらす恐怖に人々は晒されてきました。また、自然災害以外にも暴漢や戦争、テロといった存在にも恐怖を覚えます。人々のいのちを奪い、遺された方々の平穏な生活を破壊していく現実を目の当たりにするとき、胸を締め付けられるような心境になります。


こうして見ていきますと、私たちの日常生活には様々な恐怖が存在し、それらと関わりながら生きていかなくてはならないという現実に気づかされます。しかし、「甘露門」では、そうした不安を覚える存在に対して、お釈迦様がお示しになった正法しょうぼう(正しいみ教え)を以て向き合っていくならば、幾分も恐怖や不安を和らげていくことができると説くのです。とりわけ、五如来様に対して帰依の念を以て、日常生活を過ごすならば、私たちは不安を和らげ、穏やかな気持ちで過ごすことができるというのです。


しかしながら、いざ、3.11大震災のような大災害で被災したり、凶悪な犯罪の被害者になったり、あるいは、戦禍を被るようなことが起ったりしたとき、私たちは本当に不安を和らげ、穏やかな気持ちで生きていくことができるのでしょうか。ある曹洞宗の僧侶で、3.11大震災が発生した当時、宮城県や福島県といった東北の被災地に曹洞宗管長猊下の命を受け、特別派遣布教に赴かれた方がいらっしゃいました。後日、その方は「被災地の方々に歯が立たなかった」とおっしゃいました。大災害によって被災した現場で生きる人々の苦悩は想像を絶するものであり、その苦しみや悲しみは経験したものでなくては掴み切れないものがあること。また、同じ経験をした者が発する言葉でなくては、中々、届かないものがあるということ、私は、この二つをその方の言葉から感じました。


確かに苦悩に直面しなければわからないことはたくさんあります。我が人生を振り返ってみたとき、大震災のような想像を絶するほどの苦しみから見れば、小さな苦しみばかりが思い出されますが、そうした苦悩に直面したときに、仏のみ教えと共に生きているならば、仏のモノの見方・考え方によって、幾分にも苦悩を和らげ、多少は心穏やかに過ごせたことがあったことが思い出されます。


ここ最近、私は自分の言動が周囲の人々のお役に立てているだろうかと悩み続けていました。ところが、あるとき、「明珠在掌(みょうじゅたなごころにあり)」(誰もがかけがえのない貴い珠を持っている)という禅語に出会ったことがきっかけとなって、自分を尊重する感情(自尊心)が沸き起こり、自信を持って言動を提示できるようになってきたのです。すると、周囲との会話がスムーズに進むようになるなどして、たちまち、抱えていた不安や恐怖が小さくなっていったのです。これが「離怖畏如来」の功徳なのでしょう。


ちなみに、「離怖畏如来」は「お釈迦様」のことでもあります。お釈迦様のみ教えを信じ、それを日常生活の中で意識して過ごしていくことが、恐怖や不安を取り除き、心穏やかに過ごしていくことにつながっていくのは確かです。今一度、確認しておきたい点です。

第22回「発菩提心陀羅尼(ほつぼだいしんだらに) ―菩提心を発(はっ)すべき事―」

令和3年114日 更新

唵(おん)。 冐地即多(ぼうじしった)。母陀(ぼだ)。波多野迷(はだやみ)。 


施食会におけるご本尊様・「五如来様」を招請(ちょうしょう)(こちらからお願いしてお招きすること)し、そのみ教えを請う「五如来宝号招請陀羅尼(ごにょらいほうごうちょうしょうだらに)」をお唱えして、五如来様がそれぞれ提示する仏のみ教えに触れることができました。これによって、私たちが仏のみ教えに従い、仏と共に生きる道を歩んでいくことが決意できたとすれば、それが「発菩提心(ほつぼだいしん)(発心【ほっしん】)」ということなのです。これは端的に申し上げるならば、「自分たちの日常生活において、常に仏を敬い(帰依すること)、仏に教えを請いながら、我が身心を調えていく習慣をつける決意をすること」でありますが、これは「甘露門」の冒頭始め、修証義第4章等、様々な経典で触れられており、仏教(仏道)を歩む上で欠かせぬ行いであると捉えられています。言ってみれば、発心なくしては仏道を歩むことができず、仏道を歩んでいく上での大切な第一歩となるのが、発菩提心(発心)なのです。


そうした決意の表明としてお唱えされる陀羅尼が「発菩提心陀羅尼」となるわけですが、今まで同様、口先だけのお唱えとなることがないよう、自らの確固たる決意として、お唱えしていくことが大切であることは、もはや言うまでもありません。


「発菩提心」について、今回は曹洞宗の大本山・永平寺をお開きになった高祖道元禅師(こうそどうげんぜんじ)様が初心の仏道修行者に向けて、仏道修行(学道)に関する用心(心構え)等をお示しになった「永平高祖学道用心集(えいへいこうそがくどうようじんしゅう)」のみ教えから考えてみたいと思います。これは「菩提心を発すべき事」から始まる全十則から成る祖録です。この中で、道元禅師様はこの世の無常(万事が変化すること)を観ずることによって、菩提心が沸き起こってくるとお示しになっています。


発菩提心や諸行無常というのは、これまで様々な経典で味わってきた仏教の代表的な思想ですが、どちらも頭の中で理解するのは簡単そうに見えますが、いざ我が事として捉えていくとなると、中々、受け止めてくのが難しいことに気づかされるのではないかという気がします。ここ数日の間に、瀬戸内寂聴さんや細木数子さんといった著名な方が相次いで鬼籍に入られましたが、たとえば、こうした突然に最愛の人との別れが訪れたとき、その現実を我が事として受け止めていけるかと問われれば、決して、容易いことではないことに気づかされるでしょう。


寂聴さんや細木さんが他界された頃、私は同じように急逝なさったお檀家さんの通夜・葬儀を勤めさせていただいておりました。突然の悲しい現実を受け止めなくてはならないご遺族の心情を慮ると、辛いものがありましたが、法要や通夜説教を修行させていただき、ご遺族の皆様との対話を繰り返していく中で、次第に、ご遺族の方々が「いのちある者は、皆、いつか死ぬときが来る」ということを言葉にして発するようになっていきました。これぞ、「諸行無常」の理を我が事として受け止めるということであり、「無常を観ずる」ということなのです。そして、こうした出来事がきっかけとなって、今まであまり意識していなかったかもしれない仏のみ教えに目が向き、仏縁が育まれていくのです。それが「発菩提心」となのです。


思えば、お釈迦様も道元禅師様も菩提心を発したのは、一つには、実の父親や母親との避けられぬ悲しい別れを体験なさったことが根底にあるように思います。生まれたいのちは、ぐんぐん成長し、立派な大人になります。そして、いつかは老い、病気になり、死を迎えます。成長も老病死の現実も共に「諸行無常」の理が為す現実です。こうして私たちの周りでは、刻一刻と時間が流れ、気づかぬうちに万事が変化しています。この変化というものについて、自分の好みで分別することなく、どんな変化も厭わず、我が事として受け止めていけるようになれば、私たちは仏に近づき、人間としての器を完成させていくのです。

第23回「授菩薩三摩耶戒陀羅尼(じゅぼさつさんまやかいだらに) -“PDCAサイクル”と仏道-」

令和3年11月21日 更新

唵(おん)。 三摩耶薩坦鑁(さんまやさとばん)。 


仏と共に生きていく(仏のみ教えに従って生きていく)ことを決意する「発菩提心(ほつぼだいしん)(発心【ほっしん】)」によって、私たちは仏に近づいていきます。そうやって私たちが仏としての日常生活を送るようになることを「授戒じゅかい」と申します。「戒」も仏教の世界における代表的な思想の一つとして、当HPでも仏教講座における「修証義第3章」や「教授戒文(きょうじゅかいもん)」コーナーや、曹洞宗の通夜・葬儀といった法要儀式を通じて触れてまいりました。端的に申し上げるならば、「仏の生き方」が「戒」なのです。すなわち、歴代の仏と呼ばれてきた方々の修行を自らの日常生活の中で体現しながら、自分が発する言葉や行いを調えていくことが、「戒」の指し示すところなのです。


そうした発菩提心(発心)によって、戒を授かった者が、仏の御子(みこ)(弟子)となり、仏の世界の仲間入りを果たしたことを宣言しているのが、「授菩薩三摩耶戒陀羅尼」なのです。


「煩悩(ぼんのう)の塊(かたまり)」という言葉があります。日頃、煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)に満ち、我が身心を調えることを怠りがちな私たちですが、それゆえに、仏教では死を迎えたとき、生前の煩悩を断ち切って、身心を調え、仏の世界の一員として、あの世に旅立っていくと説く一面があるのでしょう。ところが、そこだけに着目すると、戒を授かり、仏の生き方を行じていくのは死んでからのことでいいのだという解釈が成立することにもなりかねません。


大切なことは、「生きている間に、いかに自分の身心を調え、仏に近づくか」ということなのです。自分の死を待ってから仏に近づく(成仏する)のではなく、いのちある今こそ、「成仏の機縁」と捉えながら、毎日を過ごしていくことなのです。この点については、これまで幾度も提示させていただいたことですが、今一度、今回の陀羅尼を通じて、check(チェック・確認)しておきたいものです。


「PDCAサイクル」という言葉をお聞きになったことがある方もいらっしゃるかとは思いますが、plan(プラン・計画)・do(ドゥー・実行)・check(チェック・確認)・action(アクション・改善)という4つの行いを、あたかも円を描くがごとく、繰り返し繰り返し続けながら、事を進めていくことです。そうすると、どんどんどんどん、いい方向に向かって進んでいくというのです。このサイクルにおいて、一つ一つの過程が大切であり、何か一つでも抜けることがないように留意していくことが欠かせません。


この「PDCAサイクル」、「仏」の世界にも通じます。今回の一句を通じて、「PDCAサイクル」を描きながら、仏道を歩んでいきたいものです。

第24回「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼(だいほうろうかくぜんじゅうひみつこんぽんだらに)-“大法楼閣”を目指して-」

令和3年11月2日 更新

曩莫(のうまく)。薩羅嚩(さらば)。多他蘗多南(たたーぎゃたなん)。唵(おん)。尾補羅(びほら)。蘗羅陛(ぎゃらべい)。麼抳鉢羅陛(まにはらべい)。多佗多尼多捨寧(たたたにたしゃに)。麼尼麼尼(まにまに)。蘇鉢羅陛(そはらべい)。尾麼黎娑蘗羅(びばれいしゃぎゃら)。儼鼻(げんび)レイ(※1)。吽吽入縛羅(うんぬんじんばら)。入縛羅(じんばら)。没駄(ぼだ)。尾廬枳帝(びろきてい)。麌(く)ギ(※2)夜(や)。地瑟恥多蘗羅陛(ちしゅったぎゃらべい)。娑縛訶(そはか)。唵麼尼縛日哩吽(おんまにばじれいうん)。唵麼尼駄哩(おんまにだれい)。吽泮(うんばっ)タ(※3)


(※1)レイは「口」に「隷」

(※2)ギは「口」に「四」

(※3)タは「口」に「乇」 


今回の真言は曹洞宗の葬儀においてもお唱えされます。真言では、菩提心(ぼだいしん)を発おこし、仏のみ教えによって、しっかりと身心を調えることができたならば、「大宝楼閣(だいほうろうかく)(仏のお悟りを意味する高い建物)」に登り詰めることができるということが説かれます。大法楼閣は深遠なるみ教え(秘密)に満ちた善住(善なる場所)であり、そこを目指して、日々、仏のみ教えに従いながら、我が身心を調えていくことを甘露門始めとする仏教の各種経典は説きます。言ってみるならば、「大法楼閣」は我々凡夫にとって目指すべき場所だということなのです。


ここで気をつけておきたいのは、あくまで「大法楼閣」は仏のお悟りの世界であって、何かに比して上下があるということを言っているのではないということです。確かに我々が過ごす娑婆世界には、比較があり、上下や良し悪しといった概念が存在します。


しかし、仏教の世界では、そうした対立概念に捉われることなく、対立を超えて、それぞれの存在が有する絶対の価値に着目します。すなわち、何事にもそれ自体が有する価値があり、そこに着目し、認め、受け止めていくのが仏教の立場なのです。こうした視点を持つことができるならば、私たちは随分と視野が拡がり、心穏やかに過ごすことができるようになっていくのです。


その点に留意しながら、自分自身を調えていく仏の世界である「大法楼閣」を目指して、日々を過ごしていきたいものです。

第25回「諸佛光明真言灌頂陀羅尼(しょうぶつこうみょうしんごんかんちょうだらに)-諸佛の光明に包まれた日常を!-」

令和3年112日 更新

唵(おん)。阿暮伽(あぼぎゃ)。廢嚕者娜(べいろしゃのう)。摩訶畝陀羅(まかぼだら)。麼尼盤頭麼(まにはんどま)。入縛囉(じんばら)。跛囉婆利(はらばり)。嚲野吽(たやうん)。


間もなく令和3年も終わりを告げようとしています。コロナ禍で人と人との対面接触を回避しようとする動きが出てくるようになって2年。新たな「オミクロン株」なる変異ウイルスへの懸念が拭えないものの、当石川県では感染者ゼロという状況が2週間近く続いており、心配と安心が入り混じった不思議な感覚を抱えながらの師走を迎えています。


そんな中、昨日、一昨日と相次いで、人様と対面する機縁をいただきました。対面接触もあれば、ZOOMを用いたリモートでの接触もありましたが、そのいずれもが貴重かつ素晴らしい触れ合いであり、随分と身心が穏やかに調っていくのを感じました。人と人との接触というのが、いかに私たち人間が生きていく上で大切なものか。今はまだ、心配と安心が入り混じっていますが、来年はその心配が拭い去られることを切に願っています。


一昨日は遠く関東からお檀家さんをお迎えいたしました。昨年、ご両親の年回忌に当たっており、生まれたばかりのお孫さんを連れて、ご供養させていただく予定でしたが、コロナ禍で一年延期となりました。ご仏前で「修証義」を共にお唱えさせていただきながら、次世代の人々が日常生活の中で、この素晴らしい仏のみ教えの存在に気づき、救いを求めるようになるような工夫の必要性を、久方ぶりの再会に弾む会話の中で確認し合いました。


また、その夜は一念発起して仏門に身を投じた方と語らい合いました。今の仏教界における現状把握に、これからの仏教界の在り方と、話題は尽きることなく、続きは来月に持ち越し。やはり次世代を担う僧侶たちが夢を持ち、明るく、楽しく、安心して寺院運営に携われる環境づくりが必要であるという見解で双方が一致しました。難しい課題ではありますが、明るくて楽しい未来を思い描くことが、人間を生き生きとさせてくれることを再確認できました。


そして、昨日は、50年近く前に高源院を間借りして生活していらっしゃったという方とZOOMにて、しばし歓談させていただきました。約2年ぶりの再会は、本当は高源院でなされる予定でしたが、先方のお仕事の都合で急遽、来寺が叶わなくなり、ZOOMでの再会となりました。コロナ禍で注目を集めるようになったZOOMですが、少しずつ使い方にも慣れ、新たなコミュニケーション手段として、活用していきたいものです。その方とは禅寺におけるお茶や食事のことについて語らい合いました。ご本山における自分たちの修行が、世間の人々にどう映るのか、そして、我々の仏道修行が、人々が日常生活を過ごしていく上で、どんなヒントを与えられるか、色々と考えさせられると共に、我が身が引き締まるような感覚を覚え、次の再会が待ち遠しくさえなりました。


私たちは日々、様々な方と触れ合いますが、そんな中で大切なことは、まずは自分自身が身心を調えておくことです。それはお釈迦様が坐禅修行に身を投じてきたように、姿勢を調え、心静かに過ごすことを習慣づけることです。計らずも、私たちの周りには自分の身心を脅かし、乱す存在もあります。私自身、そうした存在に出会ったときに、身心を乱してしまい、あとから後悔と反省を促された経験は多々あります。そんな経験を踏まえ、少しでも身心の調整を意識しようと、たとえ、我が身に不安をもたらす存在と出くわしても、我が身が乱れることがないように留意しています。


そうした仏のみ教えに従って、穏やかで安定した身心を留意していくとき、私たちが生かされている娑婆世界が仏の世界に近づいていくのです。仏の世界を「大宝楼閣(だいほうろうかく)」と申します。「大宝楼閣」に生かされていくとき、我が身心が調うばかりか、自分の周りに身心が調った仏様(諸佛)たちが集うようになるのです。


そして、諸佛は仏のみ教えを以て、穏やかな光(光明)を発してくれます。この光明によって、私たちは仏に近づくと共に、私たちの過ごす娑婆世界は大宝楼閣へと近づいていきます。それを願ってお唱えするのが「諸佛光明真言灌頂陀羅尼」なのです。


私にとっての昨日、一昨日は、そんな諸佛とご縁をいただいた2日間でした。

第26回(最終回)「回向 ―仏道を拓(ひら)く―」

令和3年12月26日 更新

以此修行衆善根(いすしゅうあんしゅうせんげん)。報答父母劬労徳(ほうとうぶもきろて)。存者福楽壽無窮(そんしゃふらじゅうぶきゅう)。亡者離苦生安養(もうしゃりくさんなんよう)。四恩三有諸含識(すいんさんゆうしいあんしい)。三途八難苦衆生(さんずはなんくしゅうさん)。倶蒙悔過洗瑕疵(きゅうもうくいこうせんなんすう)。盡出輪回生浄土(じんしゅうりんぬいさんじんず)。


―令和3年12月25日―クリスマスのこの日、北陸地方は強い寒気が流れ込み、午後から降雪。金沢市内も一晩で一面の銀世界となりました。金沢地方気象台によれば、28日頃までは大雪に警戒が必要とのことです。


今日は檀家参りの合間を縫うようにして、早朝から高源院と松山寺の除雪作業を行いました。まだ人が通っていない雪を踏みしめると、雪が押しつぶされ、道ができていきます。それと同じように、仏道というものも、仏のみ教えを日常生活の中で実践していく中で、切り拓かれ、道となっていくことを、「甘露門」の最後となる「回向」を読み味わっていく前に押さえておきたいものです。


「回向」については、以前、こちらでもご紹介させていただいておりますが、善行の功徳を周囲に巡らせ、仏とのご縁を深める行いを意味しています。


この定義に従うならば、「甘露門」における「回向」は、これまで示されてきたみ教えの功徳を周囲に巡らせる役割を担っていることに気づかされます。言わば、「甘露門」に帰依し、その一字一句を大切にしながら日々を過ごす者に対して、さらに自らの身心を調え、仏縁を深めていくことを願うのが「回向」なのです。


回向の冒頭に「以此修行衆善根」とあります。『これまでお示ししてきた「甘露門」のみ教えを修行した功徳を』ということですが、それを「報答父母劬労徳」とあるように、父母の苦労や徳に対して、巡らせていこうと示されています。「劬労」という言葉が使われていますが、これは「一生懸命に骨を折る」という意味があります。今日まで自分を育ててきてくれた父母に対する計り知れない労苦に思いを馳せ、そのご恩に報いるべく、「甘露門」を読経し、その功徳を差し上げていこうということなのです。こうした「父母の劬労に報いる」ことを誓うことによって、自分自身の日常を見つめ直す仏縁が育まれ、次第に仏へと近づいていくのでしょう。


そうやって、「存者福楽壽無窮」・「亡者離苦生安養」が実現していくのです。前者は「存者(生きている者」に対して、後者は「亡者(亡くなった方)」に対するものです。私たちが「甘露門」のみ教えに生きていくことによって、生きている者は福楽かつ壽(幸せ)が尽きることがなく、亡き人々は苦しみを離れ、心安らかに身を調えることができる場所に落ち着くことができるというのです。曹洞宗では亡き人を仏のお弟子様として、仏の世界にお送りしますが、「安養」というのは、まさに仏の世界のことであり、そこに趣きし者たちは、安らかに自らの身心を養っていくことができるのです。


次に「四恩三有」とあります。「四恩」は「父母恩・衆生恩・国王恩・三宝恩」の4つを、「三有」は「三界(さんがい)」を指しています。これは「欲界(よっかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)」とされ、私たちが生かされている世界を3つに分類したものです。すなわち、含識(人間始め生きとし生ける全てのいのち)が存在する全ての世界は勿論のこと、三途八難(亡き者の世界や六道などの仏とのご縁が薄い世界)の存在も含め、「倶蒙悔過洗瑕疵」(皆が自らの過失を悔い改めること)によって、「盡出輪回生浄土」(浄土に赴くことができる)というのです。


こうして26回に渡り「甘露門」のみ教えに触れてまいりましたが、やはり「甘露門」においても、仏のみ教えに生きる者は身心が調い、日々の様々な苦悩から解放されていくことが説き示されています。すなわち、「甘露門」の結論は仏教の指し示すところと何ら変わりなく、同じ方向を向いているのです。


たとえ平易な言葉で示された理解が容易なみ教えであったとしても、それを我が事として受け止め、日常生活の中で実行していくことは容易いことではありません。「仏教徒は何か」と問う唐代の詩人・白楽天(はくらくてん)に対して、道林(どうりん)和尚が「3歳の子どもでも理解できる教えであっても、80歳の老人でも実行するのは難しい」とお示しになった問答がありますが、教えを自らの身心で実践し続けることによって、道が開けていくのです。そうやって出来上がっていく道が「仏道」であるということを最後に抑え、私たちそれぞれが「仏道」を拓きながら、日々を過ごしていくことを確認し、「甘露門」の解説を終わらせていただきます。長きに亘り、お付き合いいただき、ありがとうございました。