ファイクレオネにおける古代とは、「ラネーメ表意文字」と総称される文字が出土し始める紀元前5500年頃から、ADLPが全土を統一した紀元前1998年までのおよそ3500年間を指す。
この時代は金属器文明の興った時代であり、石器から青銅器、青銅器から鉄器への転換が起こった。さらに文字の出現、それらのアレス王朝による燐帝字母の統一やヴェフィサイト制度の確立、リパラオネ圏に初めて統一権力をもたらしたADLPの成立と統治・崩壊、それに伴い発生した現代にも残る各種派閥の誕生やリパラオネ教勢力の拡大といった出来事が存在した。
肥沃なラネーメ湾内陸部の耕作によって勢力を増したラネーメ人たちは次々と都市国家を築き、undestanにおける一大勢力となった。その中でもデヘーンハは近郊のブラウェザに存在した自然銅に近い豊富な銅鉱脈を用いた青銅器文明を発達させ、周囲の都市を従えてデヘーンハ文明が栄えた。デヘーンハからはラネーメ表意文字の刻まれた陶片や石板が発掘され、時代が下ると青銅の板や刀剣、皿などが出土する。
デヘーンハ文明の繁栄によってラネーメ人はさらに勢力圏を広げたが、草原部に勢力を持っていたクレオスとの接触が発生し、ラネーメとクレオスの長きにわたる争いが始まることとなる。
遊牧民となったクレオスは部族ごとにまとまった父系社会集団を築き、大陸内部の草原や砂漠に広がっていた。前53世紀末に高原部の有力氏族だったタリ氏族の長リュドムが周辺の氏族を糾合、服属させて高原部に統一勢力を形成する。やがてリュドムは病没するが、長男のテーが跡を継ぐとリュドム以上に優れた指導力を発揮し、西の砂漠部に広がっていたウォブロやカンチャエを滅ぼす。カンチャエを滅ぼして砂漠部を勢力圏に収めたテーは前5173年、カンチャエの氏族長の娘ペナジと結婚し、クレオスを国号として建国を宣言する。
即位したテーは腹心らに服属させた土地を分け与えることで国の安定と統治の普及を図り、また指揮系統や恩賞制度の構築による軍の組織化に努めた。その結果クレオスは強大な軍事力を手に入れ、ラネーメとクワイエの略奪に乗り出す。
文明を成立させたことで文字や青銅器、優れた建築といった利器を享受していたラネーメ圏の国々であったが、テーに率いられ強大化したクレオスの略奪に晒されることとなる。この状況を打破すべく、当時のラネーメでも特に武力に秀でていたライのアタツァニ・アター王が前5151年に周囲の国家に呼び掛け、ララウで王たちが会合を行いアターを盟主とするアレス同盟が成立する。アター王の優れた指揮力によってクレオスの脅威を繰り返し退けることに成功したアレス同盟の国々はライへの服属を強めることとなり、前5142年、アター王は皇帝に即位してアレス・アタツァニ・アターを名乗る。アレス王朝の始まりである。
初めのアレス王朝は皇帝のもとに集まった都市国家の連合であり、皇帝の役割は「王のなかの王」であった。アターの時代にはこれらの連合はそれぞれの都市が比較的独立を保っていたが、その息子のリンが即位して文化政策を始めると、王朝内の諸都市の結びつきはますます密接になり、やがて一つの地域としてまとまることになる。
アレス・リンは、クレオスとの戦で傷を負い亡くなった父王の跡を継いで紀元前5122年に第二代皇帝として即位した。リンは内政に力を発揮し、**や***をはじめとする名臣を手に入れて土地の開墾を進め、ライは反乱や後継者問題などで内紛を抱えていた他の都市を圧倒する力を持つようになった。こうした背景をもとに、紀元前5***年、アレス・リンは王朝内における文字の統一を行った。この文字が燐帝字母と呼ばれるのは、リンによって制定されたことに由来している。リンは文字とともに字音も制定したと言われているが、こちらは定着することなく忘れられた。
文字の統一による支配力の強化を行うとともに、リンは軍事的な増強もまた進めていた。そのうちの一つが、ヴェフィサイトと呼ばれるヴェフィス人による職業戦士制の導入である。これははじめ皇帝を警護する親衛隊として取り入れられたが、時代が下るとその忠誠心の高さや戦士としての優秀さが認められ、各都市国家が封建化した藩国で用いられるようになった。
先ほど述べたように、アレス王朝はその当初は都市国家の連合であり、皇帝もそれらを取りまとめる「王のなかの王」であった。しかし、第二代皇帝のリンによる安定した統治を経験したことで、リンの治めるライはその他の都市を服属させられる力を持つようになった。そして紀元前50**年、第四代皇帝の***が各地の王に爵位を与え、領地を安堵して藩国として成立させる。この頃にはライはラネーメと呼ばれるようになっており、封建化したこの時代からのアレス王朝をラネーメ王朝と呼ぶこともある。
ラネーメ王朝の爵位は初めは大王・王・将の三つ(日本語では公・侯・伯の三爵として訳される)があり、藩国の王が王(侯爵)、王のうち格式が高いものが大王(公爵)と呼ばれ、藩国の中で一族や家臣で領土を受けたものが将(伯爵)と呼ばれた。
紀元前23世紀のはじめにクドム・パーミデーが王になると、チャーダ・クドモ国は躍進を遂げる。アレス第*王朝や後パルバス朝を破り、一大版図を築き上げた。クドムが没するとその子孫が版図を分割して継承し、長男ジュパのチャーダ・ジュパー国(クワイエ方面)、三男イラのチャーダ・イラー国(クレオス内陸部)、四男アルセルのチャーダ・アルセラン国(ラネーメ方面)に分かれた(次男は当時すでに死亡していた)。
ジュパとイラは母親同士が正室と側室の立場で対立していた影響で仲が悪く、チャーダ・ジュパー国がゼリヤ朝に負けて大幅に押し戻されると、チャーダ・イラー国はチャーダ・ジュパー国を吸収した。イラとアルセルは同母兄弟であったこともあり仲は良好であり、チャーダ・アルセラン国はチャーダ・イラー国を宗主としてパーミディ氏族のクレオスとしての一体性を保った。
チャーダ・アルセラン国はアレス第*王朝にたびたび侵攻を行ったが、現地のラネーメ人を登用し、識庁や文庁が置かれるなど学問や文化振興にも積極的であった。『ウルド・エヌマ・ロ・キルミス』や『ウェルジ・トゥーリン』をはじめとするクレオス文学が書かれたのも、この時期である。
アレークウィにおける古代とは、デュインの位置する大陸の南部から人類がやってきてイェテザル山脈周辺に定着した、ピリフィアー暦でいえばおよそ紀元前1000年頃以降からを指す。