ピリフィアー暦2100年頃までのファイクレオネ世界における記述が行われているのは、リパラオネ人とラネーメ人の住む地域に限定されている。
これは、リパラオネ人とラネーメ人がそれ以前には残りの地域に到達していないためであり、この「ピリフィアー暦2100年頃までに知られている地域」を指して悠里ではウンデスタン(undestan)と呼ぶ。
まず、undestanの外の地域からundestanへと人類が到達し、定着した。のちにundestanと外部の間で人類が往来するのは難しくなる。
ファイクレオネの先史時代は、「ラネーメ表意文字」と総称される文字が出土し始める紀元前5500年頃までを言う。
しかし少なくとも紀元前7500年頃にはクワイエ島周辺とラネーメ湾に人類が定着していたことが確認されており、それぞれの地域にいた集団を祖とする民族が伝統的に「リパラオネ人」「ラネーメ人」と呼称される。
undestanの打製石器は広く出土しているが、これらの出土品は年代の勾配がはっきりせず、どういった経路で広がったものかは不明である。このため、undestanにおける人類のたどった道のりは詳しくは分かっていない。
代表的なものとしては***遺跡の黒曜石製ナイフや、***川流域の骨製の釣り針などがある。
紀元前75世紀頃、リパラオネ人がクワイエ島周辺でカーイハエ文化と呼ばれる新石器文化を興す。磨製石器の使用によってカーイハエ文化は各地に伝わり、人類に土器や農耕、定住集落の形成や戦争といった概念を広めた。体系的な宗教や神話といったものが形成され、織物が生まれたのもこの時期である。
クワイエ島周辺に残ったリパラオネ人らは、遅くとも前70世紀頃には一神教のリパラオネ教を興し、リパラオネ教は周辺の神をその教義に取り込みつつ徐々に広まっていった。おなじく前70世紀頃に絹の生産が始まり、純白の絹布を象徴とするリパラオネ教勢力によって養蚕が広められ、紡績という概念が生まれた。
北方に位置していた人々はノースンセダーと呼ばれる集団を形成していたが、リパラオネ人によって新石器文化をはじめとする各種の概念がもたらされると、やがてリパラオネ教を受容し、レアディオという地域を中心にしたレアディオ圏を形成する。当時のレアディオ圏は寒冷で痩せた土地であったことから、農耕による食料の生産は行われてはいたが、生活の中心は狩猟採集であり続けた。
レアディオとクワイエは、物資や文化のやり取りも多いことから、次に述べるラネーメおよびクレオスと比較するときにレオクワとまとめて呼ばれることもある。
内陸の乾燥した草原地帯に進出した集団は、野生の穀物の採集や動物の狩猟を行って暮らしていた。やがて新石器文化の受容に伴ってウマやヒツジの家畜化に成功したことで遊牧民族となって移動生活を営むようになり、周囲のラネーメやクワイエといった地域が都市国家を形成すると、それらとの交易を通じた異なる文化圏の間の交流が促進されるようになった。特に農耕社会化したラネーメ勢力が内陸に進出するとクレオスとの争いが増え、その後の歴史においてもこの二者間の関わりは重要なものとなっていく。
ラネーメ湾沿岸部で漁撈を中心に木の実や根菜を採集して暮らしていたラネーメ人は紀元前80世紀頃には定着し、やがて農耕社会へと移行した。ラネーメ湾にそそぐ河川は水量が多く穏やかであったことや流域が肥沃で穀物の栽培に適していたことなどの条件が重なったことで、農耕社会化したラネーメ人は内陸へ急速に勢力を拡大した。
ラネーメ人の手により多くの都市国家が成立し、やがてデヘーンハに都市が築かれると、デヘーンハで人類初の青銅器が使われ始め、デヘーンハ文明が栄えることとなる。
ラネーメはかつてはクワイエで興った新石器文化が伝播して農耕が始まったという考えが主流であったが、それ以前から煮炊きが必要な木の実や根菜を食べていたことが明らかになったことで、少なくともこの頃からすでに土器は作られていたと見られようになった。これに伴いラネーメの新石器革命がクワイエを源とするのかに疑問が呈されている。研磨された石製の刃物(=石包丁)が土器とともに見つかっていない理由については学界でも意見が割れており、リアティヴォ近郊から発掘された楕円形の端が薄くなった木製を物証とする、ラネーメにおいては石包丁の代わりに黒檀や樫のような堅い木材を研いで刃をつけた木包丁が主流であったという説(木包丁説;カジカ・メコイタ)、当時の地表が礫岩や黒曜石などの地層であり研磨による刃物の製作に適さなかった(材質説;リヴェア・クロン・マータチェジヤ)、剥片石器で十分に用が足りたため石包丁が開発されなかった(磨製石器不要説;フィレナ・クワイ・モナ)などの説が存在する。
しかしながら、農耕文化の始まる以前のラネーメにすでに煮炊きが存在したという合意に学界が至るのは『大移動』発生の30年ほど前であり、現代では『大移動』に伴う混乱によっておびただしい数の史料が失われたことや発掘による実態調査が行えないことなども相まって、こうした各種の説は(そもそも磨製石器が登場していなかったのかという問題も含めて)現代では検証不可能となっている。