ADLP時代は、リパラオネ民族至上主義団体のADLPによってレアディオ・クワイエ・ラネーメが統治された紀元前1998年からピリフィアー暦560年を指す。
リパライン語やピリフィアー暦といった概念がこの時代に定められた他、シェルケンやリパラオネ優生思想といった現代にまで続く問題もこの時代に起源を持つことが多い。
アレス第*王朝の*帝は、紀元前2264年のベクスプラの戦いでクレオスに敗れ、捕虜となった。この敗北に伴う軍事力の低下と、多額の身代金や貢物によって王朝の威信は失われ、衰退期に突入する。紀元前2163年に**帝は***制を開始し、有力な貴族を各地に封じて統治を任せた。***制はADLPにより第*王朝が滅ぼされる紀元前1999年まで続いた。
レアディオの中部では伝統的な農耕・漁労・遊牧を組み合わせた生活が営まれ、北部の永久凍土では完全な遊牧生活が営まれていた。しかし南部では、クワイエから流入したリパラオネ民族との混交が進んだことや比較的農耕に適した土地であったこともあって定住化が進んでいた。レアディオ南部はクワイエ勢力の支配を受けることもあった。
紀元前2185年にゼリヤ朝の君主が跡継ぎを残さないまま臣下に殺されて分裂し、分裂した国家たちもさらなる分裂を繰り返した。これによりクワイエの統一勢力が完全に失われた結果、紀元前21世紀のクワイエにはリパラオネ人を中心とする小国家が点在していた。これらの多くは豪族と、その支配下にある一つ以上の村や都市からなる国であり、それぞれがバラバラに同盟や争いを行っていた。
紀元前21世紀のクレオスは、砂漠と草原の東側を支配するチャーダ・イラー国と、ラネーメ方面に進出したチャーダ・アルセラン国によって支配されていた。
ADLP (akademice lineparine)は、紀元前2008年に成立した、戦闘能力をもつリパラオネ人ら数人を中心とする小規模な私設軍隊である。設立の中心となったのはファフス・ザシミをはじめとするアレス王朝の貴族の子息や、アレス・レヴィアをはじめとするフィシャ・フォン・フィアンシャンの聖職者を含むアロアイェールと呼ばれる幹部集団であった。設立当初のADLPは、アレス第*王朝に封じられたエスボケイムが覇権を取って世界を支配することを目指す組織であり、政治によって変革をもたらそうと試みていた。
しかし、この試みはエスボケイムの支配層に受け入れられず、これを不満に思ったファフス・ザシミは紀元前2000年頃に、目標を「リパラオネ人による支配」へと切り替える。アロアイェールは非常に精強な訓練された部隊である不死隊を擁しており、この力を用いての恐怖政治を行った。まずエスボケイムの反対派を処刑・弾圧することで支配権を握り、次いでフィシャ・フォン・フィアンシャンをも乗っ取った。こうして聖俗両方に地盤を作ったADLPは王朝内の他国、自分たちに敵対するヴェフィサイト氏族などを滅ぼし、クレオス勢力をラネーメ平原から駆逐して紀元前1999年にリパラオネ教世界を統一した。ラネーメ・レアディオ・クワイエ・クレオスの四地域にまたがる大きな版図を1年という極めて短い期間で手に入れた。
この功績をたたえて、ADLPの長は代々fafs.sashimiを名乗りに加えることとなった。
ADLPが征服したこれらの地域は広大であり、すべてに通用するような言語・規格・度量衡・暦などの基準が存在しなかった。これにより生ずる統治の困難を解決すべく、ADLPがエスボケイムやフィシャ・フォン・フィアンシャンの人材を用いて初めに取り組んだ事業は、こうした各種の尺度を統一することであった。
度量衡として長さのlorex、体積のdysost、重さのstysienなどが定められた。これらの単位の多くは一旦は廃れたが、後世のユエスレオネ革命において再定義されて復活した。
言語については、クワイエとラネーメで主流だったリパラオネ人による古ユナ語がつかわれていた他には、レアディオの先住民族によるノースンセダー系の言語やヴェフィサイトらによるヴェフィス語やリナエスト語といった様々な言語があった。これらは相互理解も困難であり、話される地域もバラバラであった。そこで、これらの問題を解決するため、ADLPは支配域にリパライン語を使用させた。これはリパラオネ人の口語である古ユナ語をベースに作られた新しい共通語であり、リパラオネ人による統治を強調するためのものだった。
暦はアレス王朝期から用いられていた太陽太陰暦(ラネーメ暦)が引き続き使われたが、他の暦の使用や祭日が禁止されたわけではなかった。
四地域の国々を服属させたアロアイェールたちであったが、支配領域の統治の方法を巡る分断が発生していた。すべての地域にリパラオネ人による統治機関を置くことで直接支配を行うべきだというファフス・ザシミの派閥と、服属させた地域の政府や豪族を利用しての間接統治を主張するスカースナ・ラッセの派閥である。この対立は、リパラオネ人の人材がそろっていないという現実的な問題からスカースナ・ラッセ派の主張する間接統治が採用され、この代償としてファフス・ザシミは言語に関する統治政策の権限を全面的に得ることとなった。
ADLPによる間接統治は、ラネーメ・レアディオ・クワイエ・クレオスの四地域に建てられたそれぞれのフィアンシャを拠点として、各地域の政府を監督する形で行われた。各地域は内部でさらに郡にわけられ、郡の政府もやはりその土地の豪族が地域政府から派遣されたリパラオネ人の監督のもとで運営された。こうしてフィシャ・フォン・フィアンシャと大きなフィアンシャはその活動のうちに占める宗教的意味を大きく薄れさせて統治機関の一部となった。ADLPはアロアイェールが多大な関心をリパライン語に寄せていたこともあって、リパラオネ教の活動への積極的な支援をすることがなかった。
前16世紀に入ると、undestanは「前16世紀の危機」と呼ばれる混乱を経験する。この混乱は、クワイエやレアディオの気候が寒冷化したことで食糧生産が落ち込み、飢饉が立て続けに起こったことで始まった。ADLPの総本山であるフィシャ・フォン・フィアンシャが位置していたラネーメは飢饉の影響が比較的小さかったこともあって、当時ADLPを率いていた20代目fafs.sashimiのヴィヨック・ラヴュールは積極的に対策を行わなかった。この結果トーガード、プラニュイユ、フォートゥガルドといった北部の各地で反乱が起こり、地方政府は反乱と飢饉の両方に対して各自で対応することを迫られた。こうした無責任な統治のため、ADLPは政治的な威信を失い始め、リパライン語の統制や学術研究を行う機関としての性格を強めるようになる。地方政府はフィシャ・フォン・フィアンシャから政治的に独立を強めることになった。しかしながら、依然として地方政府の公用語はリパライン語であり続け、租税や法の支配も変わらず行われており、スキュリオーティエ期ほどの独立を得ていたわけではない。
前16世紀後半からは、クレオスの遊牧民の侵攻が再び活発化した。この頃には不死隊はただの権力と威信の象徴となっており、クワイエとラネーメの両地域にクレオスの侵略を許してしまい、ADLPの支配域はクワイエはエバ川西岸、ラネーメはニスプラにまで後退した。
前1519年に、スカースナ・アラツが24代目fafs.sashimiとして就任する。彼はそれまでのfafs.sashimiの治世に強い不満を抱いており、再びADLPの栄光を取り戻そうと試みていた。アラツは腹心のスカーナ・アモナフィスとフィシャ・リーダの助けを得て軍事力の増強を図り、前1513年にクレオスへの反攻を行った。この結果、翌年に結ばれた講和で失地をすべて取り戻すことに成功した。内政面ではアラツは食糧の増産のための農業研究などにも力を入れ、凶作への対策を行った。これらの施策により、ADLPの威信は大きく回復し、彼は中興の祖と称えられるようになる。前1489年にラネーメ一帯に流行した疫病が原因でアラツは翌年に命を落としたが、彼を含めた7代、すなわち30代目fafs.sashimiまでは安定した世相が保たれ、中興期と呼ばれる。
この時期は、イェクト・アッリヤの『問答集』や、サレフ大フィアンシャのような建築に代表される古典文化が花開いた。