悠里世界における現代は、ピリフィアー暦2000年頃から2040年ごろまでを指す時代である。ファイクレオネでは2000年に感染症であるエルフ熱のパンデミックが発生し、そしてそれと同時期に発生したモンスターの襲来によってファイクレオネの人類がそれまでの生活圏を追われ、現在のPMCFとユエスレオネの領域に生活の場を移した。
ファイクレオネでは上に述べたように人類史上でもまれな生活圏の変動が発生したが、他の悠里世界でも大きな区切りとなる出来事が起こった。アレークウィは生活圏の縮小により他の世界に活路を求めてウェールフープで移動してきたユエスレオネ人の注目を浴びた結果、現在のdyin地域にユエスレオネ連邦、xelken.valtoal、先住民たちの間での戦乱が巻き起こった。カラムディアもハタ王国がxelken.valtoalによる自国民の拉致被害を止めるためにユエスレオネ連邦に連絡を行い同盟を結んだことで、経済や軍事の部分に大きな変化がもたらされることとなる。
リパラオネ連邦、レアディオ王国、デーノ、クワイエ共和国の四ヵ国が対立と和平を繰り返していたファイクレオネにエルフ熱の猛威が吹き荒れ、治療法を探っている時期にモンスターが襲来し、人類を駆逐し始めた。追われた人間の一部はリパラオネ連邦が建設していた「空中要塞ユエスレオネ」に乗り込み上空に逃れることがかなったが、残された人類は大陸の端、現在のPMCFが位置する島嶼部に逃げ込んでモンスターと戦うことを余儀なくされ、水際戦術による撃退でかろうじて生き延びていた。
こうして島嶼部に集まった人々は、一番大きい島である母島(manmana)周辺にアイル人、パイグ人などをはじめとするラネーメ系の民族が、2番目に大きい島である新島(kawakija)周辺にヴェフィス系の民族が、3番目に大きい島である大月島(kamut)周辺にはリナエスト系の民族に大きく分かれて国を建てた。それぞれがアイル共和国、ヴェフィス共和国、リナエスト・オルス共和国として国家を作り上げた後、この三国は連合して東諸島共和国連合(PMCF)を形成した。
一方上空に飛び立ったユエスレオネでは空中に適応したモンスターが襲来してきたことで鳥戦争が発生する。もともと要塞であったことから装備は地上に比べると充実していたが、離陸当時のユエスレオネには4億から5億の人間が避難をしており、食糧事情に深刻な危機が生じていた。この食糧事情は改善されることはなく、鳥戦争の始まったピリフィアー暦2002年には餓死者は3億人を数えていたとされる。
ユエスレオネは離陸して以来、フェーユ・シェユ、クワク・シェユ、アル・シェユという三国の連合共同体によって構成されていた。この共和制政府(ユエスレオネ革命後は旧政府とも呼ばれる)は、リパラオネ連邦をはじめとする四ヵ国で権力を握っていた貴族階級出身の政治家たちによって運営されていた。
当時のユエスレオネは深刻な食糧事情や劣悪な衛生環境に直面し、また戦っている相手がモンスターであることにより講和が不可能であった。そうした中でも政府は統治を継続し、2002年の11月頃にモンスターの襲撃が終息したことを契機として、国家再建に向けた準備を進めていた。しかし、建設計画の段階で各政治家が自派の利益を優先し、互いに牽制しあう事態となった。
政治家たちが争う一方で、鳥戦争終結後も国民の生活は改善されず、飢餓と将来への不安が続いていた。こうした社会的不満の広がりを背景として、ターフ・ヴィール・イェスカはユエスレオネ共産党を結成する。反シェユ政府・反資本主義・反封建主義を掲げた社会主義国家の建国を目指しユエスレオネ革命を開始した。
共産党はシェユ政府の弾圧を受けながらも、工作員の破壊工作や遊説での人民の教化などを通して賛同者を増やし、革命を成功させた。ピリフィアー暦2002年12月8日にはユエスレオネ全域が共産党の支配下に入り、2003年1月3日にユエスレオネ・ユエスレオネ社会主義人民シェユ連邦の建国が宣言、憲法が発布された。
アイル、ヴェフィス、リナエストの三地域はピリフィアー暦2000年に相次いで人類が入植したが、アイル共和国、ヴェフィス共和国、リナエスト共和国の三国として落ち着いた2020年までの間に、三国すべてが一度以上の内乱を経験している。
人類が最も早くに到達したヴェフィス地域では、リパラオネ人のターフ・クリェーギヤを首相とする暫定政府が樹立され、土地の開発や産業の奨励が進められた。この施策は国民生活の安定を図り、新たな土地に国家としての基礎を築くことを目的としたもので、一定の成果を上げるものと予想された。
しかしピリフィアー暦2000年1月、クリェーギヤは国家運営の効率化を掲げ、軍の縮小や、スキュリオーティエ家をはじめとする貴族の所領として割り当てられた土地の返還を求めた。これに対して貴族階級や軍部は強く反発し、加えて政策の成功によってクリェーギヤがスキュリオーティエ家を上回る国民からの支持を得ることを警戒したため、2001年2月18日にクーデターを実行した(2.18クーデター)。
このクーデターでヴェフィスの政体はスキュリオーティエ家当主ジア・ド・スキュリオーティエを国家元首とする立憲君主制へと移行し、3月12日にはヴェフィス共和国が正式に成立した。
続いて、2002年3月15日にはアイルにおいてアイル共和国が成立した。もともとPMCF諸島域は2000年の時点ではヴェフィス暫定政府の管轄下にあり、アイルの統治はヴェルガナ・トゥワイ・ズュザを首班とする地域政府に委ねられていた。
ズュザは、土地の開発や産業振興に加え、鉄道・港湾・水道などのインフラ整備や機械部品等に関する規格の統一を推進した。こうした政策が円満に実現された背景には、アイルの国土がヴェフィスに比べて平地が多い開発に適したものだったこと、また地域政府の職員が概ねズュザの方針に協力的であったことが挙げられる。
2001年の2.18クーデターによりヴェフィス共和国が成立すると、新政府の実権を握る貴族と軍部による恣意的な政治運営が行われ、アイルもその影響を受け始める。こうした状況の中、ヴェフィスから亡命してきたターフ・クリェーギヤを秘密裏に受け入れたアイルは国家建設をより加速させる。一方で、ヴェフィス政府からの度重なる要請は地域政府と住民の両方にヴェフィス政府への不満を生んだ。
翌2002年、天候不順に由来する食糧不足を背景に、ヴェフィス政府はアイルに穀物の納入を指示する。これに対してズュザ率いるアイル地域政府は3つの条件を提示した:
アイル地域政府が、ヴェフィス共和国と対等なアイル共和国として独立すること
アイル共和国とヴェフィス共和国が対等な連合として連邦を形成すること
上記連邦における物資や人員の移動は交易とみなすこと
この要求に対して、ヴェフィス側では一部に反発もあったが、当時のアイルとヴェフィスの間ではすでに農業工業の両面で生産力に大きな差が生まれており、最終的にヴェフィスは全面的に要求を受け入れた。
こうして2002年3月15日、アイル共和国が正式に成立し、ヴェフィス共和国とともにPMCFを形成した。
アイルの独立後、ヴェフィス共和国政府では統治体制を見直す必要に迫られ、リナエスト地域の統治継続の是非が議論された。
リナエストは国土の大部分がモンスターに占拠されているほか、暖流と貿易風の影響で塩害が頻発し、農業には不向きな土地であった。加えて潟湖や海岸林が発達しているため疫病を媒介する虫害の発生も問題視されていた。
こうした地理的・衛生的条件を踏まえ、ヴェフィス政府は2002年4月15日にリナエスト地域政府を自国の保護下から除外し、同地域をリナエスト・オルス共和国として独立させた。これによってPMCFの加盟国は三か国となり、現代まで続く体制が確立された。PMCFの本部はリナエストの首都ズィンシュヒウに置かれたが、これはアイル、ヴェフィスの両国が本部を相手国に置くことを避けたためである。
ヴェフィスから独立して対等な政府となり、亡命していたターフ・クリェーギヤを経済省大臣に任命したことで、ズュザ率いるアイルはさらなる成長を目指していた。しかしズュザ政権の施策は国民の衣食住などのための基盤を整備することを優先したため、民を強制的に移動させて居住・労働を行わせたり、行政手続きの書類をアイル語と燐文しか用意せず他のラネーメ系言語や東島通商語は補助的な応対にしか採用しなかったりといった欠点があった。農地や工場の稼働が本格的になったことで、飢餓や寒さの心配をせずに済むようになった国民は、生活の質の向上をも求めるようになり、こうした欠点に対する不満が少しづつ溜まるようになっていった。
特に2002年末からはユエスレオネにおける内戦で多数のリパラオネ人を中心とする難民が流入し、リパラオネ人たちが待遇改善を主張したことで国内に対立が生じた。武力で勝るユエスレオネ連邦に対する取引材料とするためにPMCF全体の意思として難民を受け入れはしたものの、当時のアイルではヴェフィス新政府発足以来の支配に対する不満から反ヴェフィス=反リパラオネの潮流が存在していた。ズュザ政権は難民たちに最低限の生活環境は用意したものの、難民たちのためにリパライン語の地位を高めたり特別に仕事を斡旋したりといったことはせず、首都マカティの難民キャンプのようなスラム街が形成された。
この事態を重く見た、中道派で文化省大臣のタカマ・ソラナは開発の優先度を下げて国民の権利尊重と難民の包摂を行うようズュザに訴えたが、ズュザは国土開発と政府機構の整備こそが国民の生活向上につながるとしてこれを拒んだ。
2004年の夏ごろからはリパラオネ難民によるデモ活動が行われ始める。デモには穏健なものもあったが、参加者の一部が暴徒化して店舗や役場を襲い、鎮圧されるようなこともあった。この「暴徒化したリパラオネ難民」という評判はやがてアイル国内の反リパラオネ的な潮流の中で拡張され、対立が激化する一因となった。
2005年8月21日には難民によるアイル共和国議会の占拠が行われ、ズュザがアイル共和国軍による制圧を命じたことで多数の死傷者が生じた。これに対して難民らは反発してデモや暴動が相次ぎ、またこの制圧を弾圧と捉えた非アイル語話者の国民らもズュザの退陣を求めるようになった。この反ズュザの旗頭となったのがタカマであり、賛同する行政職員によるストライキや難民らへの支援を行った。
10月8日にはタカマ政権を傀儡化する思惑を持ったユエスレオネ連邦が特殊部隊を投入し、同日にPMCF議会においてPMCF軍による介入が決議される。十月八日事件という名称はこの日付に起因するが、アイル側ではこの日付をもって一連の出来事を指すことは通常行われず、対外戦争の始まりという位置づけで「某事件」と呼ばれるのみである(一連の出来事は「内戦」と呼ばれる)。
ユエスレオネの特殊部隊はタカマ政権を傀儡化することおよびアイルに消耗を引き起こすことを目的に各地で作戦行動を行った。傀儡化には失敗したが、各地での行動はアイルにかなりの消耗を引き起こすことに成功した。
12月15日にはヴェフィス軍の部隊がズュザをはじめとする閣僚らを捕らえ、タカマが政権を掌握して内戦が終結する。タカマはそれまでのアイル共和国の方針を転換して多文化主義を打ち出し、インフラや農業工業のような物質面から教育や法整備といった仕組み面へと重点を移した。ズュザはインフラや産業が自律的に成長していける程度の建設を就任から内戦発生までの5年弱で終えていたため、アイルはハードパワーソフトパワーともに成長することになった。