十五年戦争始まりの現場に立つ

明治維新を経て主権国家としての地位を確立した日本は戦争を繰り返し、日本の「本土」を中心として同心円的に支配領域を拡大してき「本土の外郭に『皇民化』朝鮮・台湾などの直轄植民地をもつ日本帝国が、その外縁に帝国日本を中心とする『文化ノ融合』した『日満華』結合の旧帝国的文明圏の性格を残す『東亜新秩序』を建設し、さらにその外周に『東亜新秩序』を経済的にささえる近代帝国主義の植民地支配圏である『資源圏』としての『大東亜共栄圏』をかたちづくり、できればその外延として『補給圏』を従属させる」(大江志乃夫「東アジア新旧帝国の交替」『岩波講座 近代日本と植民地1』)ことを構想していた。日本の無謀な十五年戦争開始の地である柳条湖事件から話を始めたい

1.ビザが無いので香港から中国に入国

アジアの国で私が最初に行ったのは中国だった。1982年3月から中国の自由旅行が可能になり、『地球の歩き方」を出版しているダイアモンド・ビッグ社が1983年に日本で初めての中国自由旅行であるダイアモンド・スチューデント・ツアー(DST)を企画し発表した。その翌年の1984年の夏に『地球の歩き方』を片手に中国旅行をした。この時は入国にビザが必要だったが、日本の大使館で自由旅行の個人ビザを取得するのは非常に難しい。高価なパック旅行が優先で、貧乏な自由旅行は歓迎されていない。香港までの航空券と香港のホテル代、中国に入国して広州まで行ける香港スチューデント・ツアーというのがあったので、これに参加した。7月28日に大韓航空機で午後4時30分に伊丹空港を出発。台北経由で香港の午後10時に啓徳空港に到着して尖沙咀にあるインペリアル・ホテルにチェックイン。翌日は自由行動だったので、香港、マカオを観光した。次の日の朝ホテルのロビーに集合し、ガイドの案内で九龍駅から香港側国境の羅湖駅に行く。多くの華僑に混じって香港側イミグレーションに入り出国手続きをして国境を越える。中国側イミグレーションに入ると、中国側のガイドの案内で入国手続きをして、無事入国完了。中国側国境の駅が深圳駅。ここから列車で広州に行き、中国の自由旅行開始。以下の写真は1984年に撮影。

7月28日の夜に香港到着。ホテルにチェックインして、翌日は観光。

7月30日、入国手続きを済ませて、深圳駅から広州に向かう。

2.1980年代の中国は不思議の国だった

この頃の中国は驚くべき世界だった。広州を走っているバスは日本の地方の路線図が貼られたままの日本の中古品、喧噪の街には生きた蛙や鳥など食品の材料が売られ、露店が立ち並ぶ。物価は驚くほど安い。川では裸の子どもが泳いでいる。20~30年前の日本を見るような感じだ。通貨は中国人が使う中国人民銀行発行の人民幣と外国人が円やドルと交換できる中国銀行発行の外貨兌換券の2種類がある。中国国内には人民料金とその1.75倍の外国人料金の制度がある。列車の切符を買う場合、長距離列車は予約制で座席指定になっている。切符には列車番号、車種、座席番号が書かれた小さな「紙」が切符に貼られている。これがないと乗車できない。オンラインのシステムが無いので、列車の切符1枚買うのに長時間並ぶ覚悟がいる。中国には開放都市準開放都市があり、自由旅行できるのはこのエリアだけ。広州から桂林西安を回って北京に到着した。今回の旅行の目的の一つが旧満州を見ることだったので、北京から長春、哈爾濱、瀋陽を巡った。北京駅には外国人用の売場があり割高だが、短時間で帰るので、ここで切符を購入した。

「食在広州」と言うだけに、街の中には露店が並び様々な食材が売られている。

駅の中はいつもこのような状態。切符を買うのも必死のを覚悟が必要。

なぜ柳条湖で事件が起こったのか

8月12日に柳条湖事件の現場に行った。ここはどうしても行きたい場所だった。これまで柳条溝と呼ばれていたが、柳条溝は事件現場から北北東に約25㎞離れた事件とは関係のない地名だった。柳条湖が正しい。1931年9月18日に当時奉天と呼ばれていた瀋陽の郊外柳条湖で南満州鉄道爆破事件が起こった。中国軍のしわざとして、武力攻撃を開始したが事件の首謀者は関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐であった。関東軍が始めた十五年戦争の第一段階が満州事変だった。「柳条湖付近は奉天城の死命を制する要地であり、だから奉天城を本拠とする張政権はこの地に北大営を置いた」ので、「関東軍にとって、この地点で謀略を作為することによって、北大営攻撃による中国軍を駆逐するだけでなく、奉天城の張政権の中枢を麻痺させることができる地点であった。」(大江志之夫『昭和の歴史3』小学館)

旧満州鉄道で瀋陽に向かう途中で見かけた円形倉庫。列車の座席は軟座、硬座、寝台はコンパートメントで軟臥、硬臥がある。

奉天城の西側を大きく弧をえがいて迂回し、柳条湖付近で直線となる。事件が起こった頃の情景が残されている

4.歴史的証人、炸弾碑について

柳条湖事件の現場近くの線路脇に炸弾碑が置かれている。満州事変の記念碑として、爆破の瞬間をかたどったものというが、引き倒されている。説明板には「1931年9月18日夜10時20分、中国東北地方に陣取った日本の関東軍は占領している‟南満州鉄道"の柳条湖附近の線路の一部を自ら爆破し、中国軍の仕業とした。そのことを口実に北大営守備隊と瀋陽城に奇襲攻撃を仕掛けた。蒋介石の無抵抗命令により、中国の守備隊は城外に撤退した。1932年3月までに遼寧、吉林、黒竜江、熱河四省全土が陥落した。これが中国と世界に衝撃を与えた九・一八事変だ。それ以来、北東部は1945年8月の日本の敗戦と降伏まで、日本の軍国主義による血なまぐさい植民地支配が行われた」と記されている。爆破されたということを記憶にとどめるために爆破地点に建てられた。しかし、今こうして横倒しされた炸弾碑は、逆に、日本による謀略であることを知らせるために置かれている。 

上の写真の石碑については「当時、日本の軍国主義者たちは、いわゆる輝かしい軍事的功績を誇示するために、爆破の跡地に木製の碑を建て、1938年に炸爆弾形をしたセメントの碑建てた」と記され、横倒しにされたままで残っている。

この碑は「日本の軍国主義が中国に対して侵略戦争を開始し、凶悪な犯罪を行った歴史的証人と」して置かれている。爆破地点はここから北へ約200mの場所で、当初はそこに碑が建てられていたが、その後、の場所に移された。

爆破の後、現地に駆け付けた保安区の電気・通信施設担当者は線路の破損はなかったと証言している。爆破直後に長春発大連行急行第14列車が午後10時40分に奉天に到着している。「柳条湖事件の実際は満鉄線爆破というよりは、爆音による行動開始の合図」(江口圭一『昭和の歴史』小学館)だった。 事件現場には写真の列車が通過していた。事件の時もこのような列車が走っていたのかと思った。

5.2005年に再度柳条湖へ

2005年に中国東北地方を旅行した。2003年から滞在日数15日以内はビザ免除となったので旅行はしやすくなった。この時は中国の変化の大きさに驚かされた。1984年に行った時には、柳条湖事件の現場には田畑が広がっていて建物などは何もなかった。しかし、同じ場所には 「九・一八事変歴史博物館」が建設された。周囲には大きな建物が建ち並び、田舎の風景はなくなっていた。この博物館は九・一八事変の60周年に際して建てられ、1999年8月18日に正式オープンした。敷地面積31000㎡、建築面積12600㎡、展覧面積9180㎡に及ぶ広大な敷地内には九・一八事変残歴碑、警示鐘亭、勝利記念碑などが建てられている。本館内には多数の貴重な歴史写真、文物、資料が展示され、映像や地形模型、蝋人形による「蒋介石・張学良の会談」、日本軍によって占領された瀋陽西城門が再現されている。以下の写真は2005年に撮影したもの。

写真は1991年に建立された九・一八事変残歴碑。1931年9月18日のカレンダーの形をしていて、その象徴的な形から紹介の写真に使われるが、現在は旧館として閉鎖されている。1984年当時と違って、事件の現場の情景を感じさせるものは全く残っていなかった。

線路脇にあった炸弾碑は九・一八歴史博物館の敷地内に置かれていた。

1999年に完成した新館。壁に描かれたレリーフが印象的。