旧満州で犯した謀略と虐殺

1.田中義一内閣の金融恐慌対策

若槻礼次郎憲政会内閣の片岡直温大蔵大臣が衆議院予算委員会で「渡辺銀行が到頭破綻を致しました」という失言から取り付け騒ぎ起こり、多くの銀行が休業を余儀なくされた。震災手形二法案の成立と日本銀行の非常貸出でパニックが下火になったが、台湾銀行の鈴木商店への回収不能な乱脈融資が発覚した。若槻内閣は台湾銀行救済緊急勅令で台湾銀行の救済をはかるが、枢密院の平沼一郎や伊東巳代治らは中国への不干渉主義の外務大臣幣原喜重郎の協調外交を軟弱外交と非難攻撃し、緊急勅令案は否決し倒閣に動いた。若槻内閣は総辞職した。1927年陸軍大将田中義一立憲政友会総裁が首相外相を兼任した。田中首相は当時74歳だった高橋是清に蔵相就任を要請するが、高齢を理由に3~40日限定ということで就任した。3週間の支払猶予令、すなわちモラトリアムの緊急勅令案を上奏、枢密院は可決した。高橋は三井銀行の池田成彬と三菱銀行の串田万蔵を招いて民間銀行に二日間の自発的休業を要請、全国一斉休業を実施した。非常貸出のために大量の紙幣の印刷が間に合わず、俗に裏白と呼ばれる二百円札を発行した。普通銀行への巨額の特別融資で銀行のカウンターには紙幣が山のように積み上げられた。台湾銀行には政府補償の二億円融資で金融恐慌を鎮静化させた。高橋はわずか42日間で大蔵大臣をやめた。高橋の後は政友会の三土忠造が蔵相に就任した。政府は最低資本金100万円、東京・大阪に支店を有するものは200万円とする銀行法を成立させ、弱小銀行・不良銀行の合同を推し進めた。その一方で、三井・三菱・住友・安田・第一などの財閥系都市銀行が金融界の覇権を確立した。

田中大将像。山口県萩市に建つ田中義一の銅像。1864年呉服町で出生。長州閥の寵児として、山県有朋の懐刀。日露戦争では満州軍参謀として出征、1921年陸軍大将。1927年内閣総理大臣。武力外交の急先鋒。1998年撮影。

小白宮野村一郎の設計で建てられた石造りの樟脳倉庫。台湾銀行は産業育成する中で、樟脳取引を介して鈴木商店との関係を深めた。現在は多目的ホールとして利用。2023年撮影。

日本銀行館。旧館の後ろの10階建ての白い建物が新館。1973年竣工。

台湾銀行本店。1895年に日本政府の国策で紙幣発行権をもつ特殊銀行として設立された。鈴木商店への融資を足がかりとして経営を広げた。戦後不況で鈴木商店の経営悪化で台湾銀行の経営危機に瀕した。2023年撮影。

鈴木商店本社。1906ミカドホテル新館を取得して本店とした。1927年台湾銀行の震災手形の7割が鈴木商店のもので、鈴木商店への新規融資は打ち切られた。系列化していた第六十五銀行も資金調達は不可能となり、事業停止・倒産に追い込まれた。2023年撮影。

日本銀行旧館。1882年日本銀行条例により設立され日本の中央銀行。辰野金吾が設計し1896年に竣工。関東大震災でもびくともしなかった。2014年撮影。

2.田中内閣の山東出兵と弾圧の嵐

田中義一内閣の最大の課題は中国問題であった。対中強硬派森格を外務政務次官に抜擢、満鉄社長に政友会幹事長山本条太郎をすえた。田中は対中国外交の根本的転換をはかることが自己の使命と考えていた。「満州を中国の一部と見るか、中国本土とは区別した『特殊地域』と認めるか」(中村政則『昭和の歴史2』小学館)が幣原と田中の違いであり、満蒙分離政策に繋がる。1924年、第一次国共合作の名で中国国民党と中国共産党が提携した。国民革命軍は反帝・反軍閥をかかげて、北京政府や北洋軍閥を打倒して全国統一を目指す北伐を開始する。中国統一は蒋介石に任せ、張作霖を使って北伐軍の影響が満州に及ばないようすることが中国政策の基本となった。1927年、北伐軍が華北の徐州を占領すると、田中内閣は第一次山東出兵を決定し青島に派兵する。居留民の保護と治安維持が理由だが、満州・華北に革命が波及することを防ぐためだった。日本国内では労働農民党中心に中国革命を支援する対支非干渉運動が起こる。1928年に第二次山東出兵、済南事件の発生により第三次山東出兵が行われ、田中内閣は一斉捜査し、三・一五事件、1929年の四・一六事件で日本共産党と支持者を検挙し致命的な打撃を与え、全面戦争への道を開いた。2006年撮影。

青島港。1927年5月30日、第一次山東出兵で大連から歩兵第33旅団を青島に派遣した。

東亜建設之碑。青島市博物館の野外展示にあった。1938年1月、板垣征四郎率いる日本軍第5師団は山東省を掃討し、青島に侵入。1941年に青島の日本人が板垣兵団の功績を刻んで碑を建てた。1983年に公園付近の地下から掘り出された。

青島駅。ドイツ人が設計し、1899年に建造。1914年に日本が青島を占領し、膠州鉄道を強制的に管理した。

中国海軍の潜水艦「長城号」。駆逐艦「鞍山号」も停泊していた。潜水艦は艦内を見学することができた。青島は中国有数の海軍基地であり、軍事教育の中心地。

青島山砲台遺址展覧館。青島山砲台に関連する展示を行っている。清末からの欧米列強や日本の侵略に対する闘いを写真やパネルで紹介し、実物の大砲や機関銃などを展示している。

元帥楼。1929年に建てられた和洋折衷の建物 関東軍の幹部が別荘として利用した。市の東部、八大関景区にある。

3.関東軍の暴走の前触れ張作霖爆殺事件

1919年の五四運動を契機に、民族解放をめざす運動が強力に成長してきた。それまで満州支配の手先の役目を果たしてきた奉天軍閥の張作霖は日本に対する自立と反抗の動きを強めた。張は日本軍部にとって利用価値がなくなったとして、関東軍高級参謀河本大作大佐は張の暗殺を関東軍の武力行使に結びつけようと計画した。1928年、張作霖は蔣介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げた。京奉鉄道の北京駅に待機している22両編成の特別列車で瀋陽に向かった。奉天駅近くには京奉鉄道と満鉄線が立体交差する場所がある。京奉鉄道をオーバークロスする満鉄線の築堤によって前方の見通しがきかない場所の橋脚に爆弾が仕掛けらた。見通しがきかないので、かなり速度を落とした列車は轟音とともに大破炎上し鉄橋も崩落した。たまたま近くを走っていた自動車を張作霖の側近は停めて、乗っていた人を追い出して大帥府に運んだ。重傷の張作霖は翌日死亡した。日本側の警察が逮捕した三人の麻薬中毒の中国人を殺して、現場近くに並べ国民革命軍の仕業に見せようとしたが、一人が逃亡して張学良のもとに駆け付け事情を話し事件の真相が中国側に伝わった。事件当日、張学良は「北京から河北省の州に行き、軍隊を撤退させる任務を遂行しまし た。その仕事が完了したときに、部下がやっと 父が死んだことを教えてくれたのです。……事 件が関東軍の仕業だということは、誰でも知っ ていました。それは公然の秘密でした」(NHK 取材班・臼井勝美『張学良の昭和史最後の証 言』角川書店)と語っている 。また、張作霖が死んだ「翌日棺桶に入れ、 蓋をしたんですが、一週間後に兄が家に戻って 」 (『産経新聞』1992年5月28日付)来たと、張学良の5番目の弟張学森が証言している 。 河本らは「爆薬と爆破スイッチをむすぶ電線の撤去を忘れ、その電線が橋台からすこしはなれた日本軍の鉄道監視所に引きこまれてい」(大江志乃夫『張作霖爆殺』中公新書)るという決定的証拠を残した。奉天軍と武力衝突が起これば、証拠隠滅の必要がないと考えていたが、奉天軍が抑制したことで武力衝突は起こらなかった。国民革命軍は北京に入り北伐は完了した。張学良は父の死が関東軍によるものだと知って、父から引き継いだ中国東北の支配権を放棄して、国民政府の支配下に入る「易幟」を決意した。張作霖の死によって、中国東北地方の政治状況は大きく変化した。田中首相は事件の真相が知れ渡ると、曖昧な対応しかできず、天皇の不信をかって引責辞任した。関東軍が暴走する前触れだった張作霖爆殺事件を曖昧な形で処理した政府は暴走を押さえられなくなる写真は2005年撮影。

張氏帥府。大帥府又は小帥府と呼ばれ、北洋軍閥の張作霖学良父子の官邸兼私邸であった。現在は張学良旧居陳列館。

調理場。張家と一部のスタッフに食事を提供した。張家には等級によって各々の食事をして、調理場から食事を各部屋に運んだ。中院にある伝統風格の三進四合院の建物が連なる。

垂花礼典門。木製の垂花付の扉がある。張作霖が重要な客と外国使節を招待する場合にまずここで儀式をしたので礼典門と呼ばれた。門の中は中庭をロ字形に建てた中国の伝統的な建築様式の四合院である。

大青楼。1918年から1922年に建てられた。東院にある高さ37mの三階建ての西洋風の建築。耐火青煉瓦を主体に建造されたので大青楼という名前になった。 

関帝廟。張作霖の位牌が置かれている。

張氏帥府の入口。同じ格好の入口が奥まで続いている。1914年創建。敷地面積は2万9146㎡、敷地内は東院、西院、中院の3院に分かられる。

承転処。文職受付官と武職受付官を配置している。帥府に来訪した人たちを張作霖の所まで案内した。

復元された張作霖の執務室。秘書とスタッフの事務室であり、張作霖のために文書を起草し、日常の事務を処理した。

老虎庁。1929年、張学良が張作霖の部下で野心家であった楊宇 と黒龍江省省長の常蔭塊を処刑した楊常事件はここで起こった。

小青楼。1918年に建てられ、中国と西洋、両方の特徴を備えた2階建ての耐火煉瓦建築。1928年の爆殺事件で重傷を負った張作霖はこの建物に運ばれ、客間で最後の時間を過ごした。

.柳条湖事件後、政府の不拡大方針を無視

柳条湖事件後、奉天を占領した関東軍は満州占領計画を達成するためには兵力増援が必要だと考えた。事件の翌9月19日、日本政府は緊急閣議を開き、幣原喜重郎外務大臣は関東軍の謀略を示す情報を披露したので、南次郎陸軍大臣は関東軍の増援を提案できず、拡大しない方針を決定した。関東軍幕僚は吉林特務機関の大迫通真中佐や甘粕正彦らに謀略で不穏な状態をつくりだし、吉林への進攻の口実にした。21日、林銑十郎朝鮮軍司令官は不拡大方針を無視して、独断越境し関東軍の指揮下に入った。林は「越境将軍」と呼ばれたが、実際は越境を決意するまで40数時間かかり、越境命令を出しても参謀総長の追認の電報が来るまで飯も食えずにふるえていたという小心者だった。関東軍参謀は自衛のためと称して戦線を拡大した。1931年10月、張学良は奉天を放棄し錦州に政府を設けて東北に対する支配を維持しようとした。関東軍参謀石原莞爾中佐は自ら参加して爆撃機による錦州爆撃を行った。爆弾投下装置がなく、窓から手で落としたともいわれている。第一次世界大戦以来初めての都市爆撃で、世界にショックを与えた。

石原莞爾生誕之地碑。1889年山形県西田川郡鶴岡に生まれる。鶴岡市の鶴岡公園の中にある鶴岡護国神社の片隅に写真の碑がある。碑には「永久平和の先駆」と書かれているが、石原莞爾は関東軍参謀として柳条湖事件や満州事変、錦州爆撃の首謀者であった。ヨーロッパにおける戦史の研究と熱烈な日蓮信仰の基盤の上に立って世界最終戦の構想を描いた。彼の著書『世界最終戦論』では東洋文明の代表日本と西洋文明の代表アメリカとの戦争を最終戦と位置付け、その前提として満州事変をきっかけに満州国を建国し、満蒙領有により日米決戦に備えるための第一段階した。東条英機と対立したことから東京裁判では戦犯指定を免れた。2023年撮影。

.満州国承認の第一日目に起きた平頂山事件

斎藤実内閣が「満州国承認に関する帝国政府声明」を発表した1932年9月15日夜、撫順炭鉱を抗日ゲリラ部隊が襲撃した。4カ所の事務所が焼かれ、日本人社員数名が殺害された。炭鉱は独立守備歩兵第二大隊第二中隊が警備していが、不覚をとった思った井上清一中尉は平頂山部落の住民がゲリラと通じているとみなし、16日早朝日本軍は部落を包囲し住民を家から追い出し、崖下に追いつめた。機関銃や銃剣、日本刀で片っ端から虐殺し、死体はガソリンで焼いたうえ、ダイナマイトで崖を壊して埋めた。3000人の住民が抹殺された。日本が承認した満州国の第一日目に起こった事件だった。この事件は敗戦後まで秘密にされたが、本多勝一『中国の旅』一般に広く知られるようになった。同書では中国側の調査で虐殺を指揮した責任者を事件前日不在とされている警備隊長川上精一陸軍大尉、憲兵隊分隊長小川准尉、前田警察署長、久保孚炭鉱長としている。戦後の瀋陽裁判でも虐殺の主導者を川上としている。軍上層部に事件の責任が及ばないように、井上中尉に責任を押し付けたとみている。ほとんどの中国人研究者は川上大尉主導説をとっている。軍関係者は終戦までの間に逃げ去った。戦後、戦犯容疑がかけられた川上は服毒自殺、井上は川上からの命令の有無について最後まで沈黙した。瀋陽裁判で久保ら7人の民間人に死刑判決が下され、『中国の旅』では3人の中国人生存者の生々しい体験談が語られているが、今の時代にこのような戦争の惨禍を二度と繰り返して欲しくないという思いを強めた。2005年撮影。

撫順市博物館。平頂山の麓の大虐殺の跡地に1973年に設立された博物館。博物館の敷地は11万5000㎡の面積がある。

平頂山惨案遺址念館。最も多くの人が殺された場所に建てられた。800柱余りの遺体が集中している。

平頂山殉難同胞紀念碑。虐殺現場の崖の上に1951年設立、1971年再建。

平頂山殉難同胞紀念碑の紹介文。

館内に入るとおびただしい数の遺骨が並ぶ。

たくさんの遺骨の中に子どもの遺骨が見える。

折り重なるように体の遺骨。右上にガソリン桶。

6.七三一部隊の残虐行為と罪状を物語る遺跡

2005年、中国東北地方の旅で哈爾浜に行った。哈爾浜市街地の南へ約20㎞離れた平房区へはバスで1時間以上かかる。ここには侵華日軍第七三一部隊遺址がある。第七三一部隊は通称で、正式名称は関東軍防疫給水部で日本軍特殊部隊の本部が置かれていた。1932年8月に陸軍医学校防疫部の下に石井四郎ら5人の軍医で防疫研究室が設立された。1933年には哈爾浜の東南70㎞の背陰河で研究が開始された。1936年に関東軍防疫部が新設され、1940年に平房に新施設が完成し、関東軍防疫給水部に改編された。兵士の感染症予防と衛生的な給水体制の研究を主任務とする表の顔と、細菌戦のための生物兵器の研究や開発を行う裏の顔があった。1939年から1945年までの間に「マルタ」と呼ばれた約3000人の中国人やロシア人を人体実験のため虐殺した。1945年のソ連対日参戦により、隠蔽工作のため主要な建築物を破壊し、膨大な機密資料を焼却した。敗戦直後、ソ連のハバロフスクの極東軍事裁判を免れた七三一部隊の軍医たちは実験データをアメリカに引き渡すことで戦犯として訴追されなかった。日本では森村誠一の著書『悪魔の飽食』で七三一部隊の残虐行為が広く知られるようになった。2005年撮影。

侵華日軍第七三一部隊遺址の入口。哈爾浜市平房区にある戦争祈念施設。第七三一部隊の罪状を一般公開する陳列館。

本部大楼は陳列館になっていて、1階と2階に展示室がある

陶器製細菌爆弾と濾過器の複製品。石井四郎が発明した陶器の爆弾。細菌の生存率を高めるために陶器で爆弾の外郭を作った。

殉難者名簿。人体実験で虐殺された中国人やロシア人の殉難者を慰霊している。殉難者で名前が分かっている者は300人ほどしかいない。

動力班鍋炉房残迹。1938に建設され、水、電気、熱を集中した供給する場所だった。1945年、敗走前に爆破。破壊されたがボイラー棟の残骸は残った。

四方楼細菌中心基址。コンクリート混合構造で“ロ”の字形の建物が四方楼。細菌の研究・生産・試験センターだった。

本部大楼旧址。関東軍防疫給水部本部。従来あった110㎡の展示室と10㎡の倉庫を拡張して1985年に正式に開館した。

生体実験の様子を人形を使って再現。

凍傷の実験に使用された感凍計、湿度計。

煉瓦門と書かれた建物。本部大楼旧址の裏側にある。

ボイラー棟の巨大な煙突。煙突は3本あったが真ん中の1本は残っていない。

七三一部隊専用鉄路線。平房駅から本部に特別運送したことがある。