政財界の要人を襲う右翼テロ

1.英米に依存する軍事大国“大日本帝国”の矛盾

1920年代から30年代の日本は米英への依存と対抗という2つの側面を持っていた。経済的には外貨獲得の最大の手段は低賃金の女子労働によって生産された生糸をアメリカに、綿布は英領植民地への輸出によっていた。日本の自前の輸出品は生糸だけで、約95~85%がアメリカ向けだった。それと引き換えに、綿布の原料である綿花や重化学工業の原料の石油・機械・屑鉄などを輸入するというのが日本の貿易の基本構造で、英米に深く依存していた。日露戦争などの戦費も外債で賄われており、財政的にも米英に援助を仰ぐ非常に弱い立場にあった。一方、米英に次ぐ海軍兵力を保持し、東アジアでは軍事大国として君臨していた。前者の立場はベルサイユ=ワシントン体制に順応し、米英との摩擦を生じない経済進出に重きをおいて協調する幣原喜重郎らの外務省主流、井上準之助、高橋是清ら財政家、憲政会の立場であった。後者は米英と対決してでも依存を克服するためにアジアで自給自足圏を建設するという陸軍を中心として、民間右翼、政友会の立場であった。

富岡製糸場。1872年に明治政府が日本の近代化のために設立した模範器械製糸場。政府は外貨獲得のため、生糸の品質改善・生産向上、技術指導者を育成のため、洋式の繰糸器械を導入。現在までほぼ変わらぬ姿で残されている。1992年撮影。 

工女宿宝来屋。製糸業が盛んだった明治・大正時代に飛騨高山方面から長野県、特に現在の岡谷・諏訪地方へ製糸労働のため往来した工女の宿を長野県松本市に復元。木造平屋一部2階建、切妻造、屋根は板葺 。1993年撮影。 

東田第一高炉史跡。日清戦争を契機に近代洋式製鉄所設立の機運が高まり、1897月、八幡村に官営製鐵所が開庁。1901年に東田第一高炉に火入され、公称能力900トンを誇る日本最初の高圧高炉として建設、1972年まで操業した。1996年撮影。

近代紡績工場発祥の地。渋沢栄一や藤田伝三郎らが出資して 1882年に 大阪紡績会社が設立され、三軒家工場が建設された。紡績機械はイギリスから輸入し、 レンガ造りの近代的な工場として創業を開始。三軒家村は古くから船着場として賑わい、石炭や原料の綿花の搬入や製品の運搬に便利な場所だった。1945年、空襲で工場は焼失した。  2006年撮影。

片倉館。シルクエンペラーと称された片倉財閥が地域住民に厚生と社交の場を供するために1928年に長野県諏訪市に建設。森山松太郎がゴシックリバイバル様式で設計。日本最大の製糸会社であった片倉製糸紡績株式会社は1939年に株式会社富岡製糸所を合併。2003年撮影。

2.「大正維新」を唱え、一人一殺の先駆け朝日平吾

「1930年代の日本の激動の根底には、米英に依存する軍事大国という“大日本帝国”の矛盾にみちた二面的現実が横たわっていた」(江口圭一『昭和の歴史4』小学館)。この二つの立場の衝突として激動の時代は展開する。この時期、元老・財閥・政党人を標的にしたテロや軍部によるクーデターが頻発する。北一輝の『日本改造法案大綱』の思想の影響による首相暗殺などのテロや血盟団の「一人一殺」より前に考え実行していた人物がいた。朝日平吾である。1921年9月27日、安田善次郎刺殺事件を起こした。安田善次郎は安田財閥の祖。乾物と両替を商う安田商店を開業し、後に安田銀行(現みずほ銀行)を設立。北海道で釧路鉄道を設、硫黄鉱山経営と輸出で財閥の基礎を築く。神奈川県大磯にある安田善郎の別邸に行き弁護士風間力衛を名乗って面会を求めるも断られるが、財界長老渋沢栄一と警視総監督岡喜七郎の紹介状を持っていたので応接室に通された。しばらすると、悲鳴が聞こえ、男安田善次郎を短刀で刺し殺し、西洋剃刀で自分の頸部を切って自殺した。北一輝・田良平にあてた遺書、斬状、「死ノ叫声」と題する長文の檄を下宿に残していた。朝日は「一人一殺」方式による「大正維新」を考えつき実行した。「このテロリズムは北一輝と国家社会主義思想の影響による初めてのものであり、また三井・三菱・住友と並ぶ安田の当主を殺したという意味でも、新しい右翼運動の出現を暗示するものであった」(大野達三『「昭和維新」と右翼テロ』新日本出版社)。平民社会党や神州義団をつくって大勢の同志や部下がいるように装い、「死ノ叫声」で「第二第三ノ予幾十度モ出没シテ予ノ希望ヲ貫徹シ予等ガ渇望セル社会ヲ実現」すると記したが、朝日は一匹狼で中岡艮一以外には後に続く者はいなく、テロで社会は変わらなかった。「資本家階級は、右翼の寄附金募集をテロリズムを恐れて、出すようになったからである。左翼運動の激化につれて、右翼のテロリズム利用をはじめた財閥と右翼は、こうして密接に結びつ」(森川哲郎『日本史暗殺100選』秋田書店)くことになり、これがこの事件の果たした役割だった。朝日平吾の葬儀には千人余りの会葬者が列をなしたと伝えられる。強引に財をなした安田善次郎に対する世間の風評は冷たく、350万円を投じて日比谷公会堂を建て、東京帝国大学の大講堂建設に100万円の寄附した。これが現在の安田講堂である。安田善次郎殺害事件の1か月後、11月4日に内閣総理大臣原敬が東京駅乗車口で刺殺された。十九歳の大塚駅運轍手中岡艮一の犯行だった。立憲政友会京都大会に行くために丸の内南口の改札口に向かっている時に短刀で右胸を刺された。駅長室に運ばれたがほぼ即死状態だった。逮捕された中岡は、死刑を求刑されたが東京地裁では無期懲役の判決を受けた。調書もほとんど残されていない謎の多い裁判である。3度も減刑され、1934年に釈放された。

硫黄山。アイヌ語で「アトサヌプリ」と呼ばれ、噴気孔近くでは硫黄の結晶が見られる。1887年から安田善次郎が採掘権を取得。釧路集治監の囚人を使って、1891年に釧路鉄道を建設し硫黄を運んだ。2022年撮影。

東京大学安田講堂。内田祥三の設計で本郷キャンパスに塔屋付き鉄筋コンクリート造4階建で1925年竣工。1968年の東大紛争で全学共闘会議が占拠したが、機動隊によって強制排除された。投石の痕や落書きが残り、大規模な5回の修理が行われた。2023年撮影。

原敬首相遭難現場。現在の東京駅丸の内南口の壁に事件の概要が書かれたプレートがある。2016年撮影。

安田善次郎別邸寿樂庵。1918年、大磯建てられた別邸で暗殺事件が起きた。広大な敷地には持仏堂もある。202年撮影。

日比谷公会堂。市政会館と一体になった建物で1928年に竣工。エレベーターやメールシュート、給湯設備もあった。2023年撮影。

東京駅南北ドーム。戦災復興工事によって設置されたドーム天井裏に、創建当初のレリーフが一部に取り付けられている。2016年撮影。

3.関東大震災を契機に重苦しい不安と抗争の時代へ

1923年9月1日午前11時58分、相模湾西北部を震源地とするマグニチュード7.9の関東大地震が発生した。東京湾沿いの地盤の弱い埋め立て地で、食事の支度をする昼食時近い時間だったので火災に繋がり、死者・行方不明者14万3千人、全半壊流失焼失家屋82万7千戸という大惨事となった。本所横網町の陸軍被服廠跡の空き地に避難した人々は突風で火はつむじ風となり3万8千人が死亡した。8月24日に首相加藤友三郎が死去し、8月28日に海軍大将山本権兵衛に大命降下されたが内閣は成立せず、内田康哉を臨時首相代理にした。最悪の自然災害を契機に「不詳事変」を恐れ、警視総監赤池濃は皇居に参内し内務省警保局長後藤文夫と内務大臣水野錬太郎と出会い、最初の会合が行われ、戒厳令施行以外にないと見解が一致した。戒厳令は「戦時」か「内乱」を対象とした非常立法である。日比谷焼き事件に次いで2度目の行政戒厳が枢密院の諮詢を受けずに緊急勅令で宣告に踏み切った。散発的に報告された「朝鮮人放火説」の真否を確認せず、水野は意図的にデマ宣伝を流し、戒厳令強行のための名分にした。9月2日、戒厳令が発令され、警視庁は全国に「不逞鮮人取締」と井戸水に毒を投げ込んだとして「五人組」などで自衛するよう指示した。関東地方一円で3689の自衛組織がつくられたといわれ、通行人を検問し朝鮮人くさいと思うと叩きのめし、虐殺した。自警団によって6千人以上の朝鮮人や朝鮮人と間違われた人が犠牲になったといわれている。逮捕され「下層細民」に属する人々で、「裁判はいずれも自警団の要求『自警団の傷害罪は悉く之を免ずること』『過失により犯した自警団の殺人罪は悉く異例の恩典に浴せしめること』を容れた猿芝居に終わり、ほとんど全員無罪または執行猶予付き」(姜徳相『関東大震災』中公新書)となった。3日夜、南葛労働組合本部理事の河合義虎ら8名が亀戸署に検束され、5日に惨殺された。16日にはアナーキストの大杉栄と妻伊藤野枝、甥の橘宗一が東京憲兵隊本部の一室で憲兵大尉甘粕正彦によって殺害され、近くの古井戸に捨てられた。11月16日、政府は「国民精神作興ニ関スル証書」が発布され、震災天罰論に立って国民の思想の引き締めにかかった。1924年には清浦奎吾内閣が成立し、「国民思想の善導」を声高に叫んだ。『中央公論』編集者木佐木勝は「大正12年は混迷の中に暗い幕を下ろそうとしている」と日記に記した。「混迷のなかでの暗い幕、この表現こそ、震災を契機に時代が大きく転換し、重苦しい不安と、抗争の波がおとずれることを予測させるにふさわしいことばであった」(江口圭一『昭和の歴史4』小学館)と戦争に突き進む暗い時代を表現している。

東京都慰霊堂。東京都墨田区の横綱公園内にある。関東大震災による約5万8千人の遭難者の御遺骨を納めるための霊堂として、東京市内で最も被害の大きかった旧陸軍被服廠跡に、震災7年後の1930年に完成。1996年撮影。

関東大震災の殉難者を慰霊する観音像。東京都台東区の𠮷原弁財天の中にある。関東大震災では遊女をはじめ多くの人々が池に逃れ、490人が溺死する悲劇が起こった。この観音像は溺死した人々の供養のために1926年に造立された。 2017年撮影。

関東大震災殉難朝鮮人慰霊之碑。横浜市西区の久保山墓地に1974年に建てられたもの。隣に円墳と卒塔婆がある合祀る霊場がある。横浜市の死者は2万3440人。2023年撮影。

東京都復興記念館。関東大震災の惨禍を永く後世に伝え、官民協力して首都東京を復興させた当時の大事業を、永久に記念するため、震災記念堂(現慰霊堂)の附帯施設として、1931年に建てられた。 館内には遭難者の遺品、被害品及び絵画、写真等をはじめ、復興事業に関する資料を保存展示。1996年撮影。

震災イチョウ。東京都千代田区の江戸城跡の北東角にある。樹齢150年以上といわれるイチョウは関東大震災で焼け野原となった東京の都心に奇跡的で生き残り、この樹の緑は当時の人々の復興への希望を与えた。復興事業に伴い、この樹が切り倒されることにり、当時の中央気象台長岡田竹松が帝都復興局長官清野長太郎に樹を残すよう申し入れ、文部省敷地からこの場所に移植された。1996年撮影。

亀戸事件犠牲者之碑。東京都江東区の浄寺に境内にある。碑には犠牲になった労働運動家9人の名が刻まれている。2023年撮影。

.「昭和維新」の開幕を告げる浜口雄幸暗殺事件

1930年11月14日、内閣総理大臣浜口雄幸が岡山県下の陸軍特別大演習参観のために東京駅を乗車ホームを歩いている時、わずか3mの距離から狙い撃たれた。23歳の右翼団体愛国社社員佐郷屋留雄の犯行だった。弾丸は下腹部に命中したが一命をとりとめた。浜口は民政党内の事情で辞任もできず、野党政友会の執拗な登壇要求で、無理をして登院したが倒れ、4月13日辞任、8月に死去した。恐慌の深化と軍縮政策を統帥権干犯として右翼や軍部の標的にされた。佐郷屋の犯罪を右翼や軍部は「昭和維新」の開幕ともてはやした。安田善次郎や原敬へのテロと違って、この事件は「軍部が統帥権を“錦の御旗”として、つよく政治に介入しはじめたことを意味し、これ以後の日本の右翼運動は、軍部がその拡大・膨張と権限強化のために右翼運動のヘゲモニーをとりはじめたことを」(大野達三『前掲書』)示すものであった。佐郷屋は満州で生まれ、岩田愛之助の主宰する愛国社の同人となった。満蒙独立運動にも加わり、典型的な大陸浪人だった。この事件の主犯は岩田で、佐郷屋に拳銃を持てせ浜口を撃たせた。「浜口を殺害することは全右翼と軍部内の極右派全体の意志であった」(大野達三前掲書)。逮捕された佐郷屋の裁判は物議をかもした。浜口の死亡は事件から10か月後だった。裁判所は軍人や右翼の反対運動にもかかわらず殺人未遂罪ではなく、検察側の主張通り殺人罪を適用して死刑を宣告した。控訴審でも死刑判決を受けたが恩赦で無期懲役に減刑され、1940年には仮出所している。共犯の松木良勝は懲役13年、岩田も逮捕され懲役4か月の判決を受けている。浜口首相暗殺の前年に、労働農民党の山本宣治が暗殺された。1828年の第1回普通選挙で京都2区から立候補して当選した。翌年、治安維持法改悪に対して第56国会の予算委員会で反対の発言をし、全国農民組合の大会でも反対の演説をした。東京市会議員選挙応援演説に出かけ、宿泊していた神田の旅館光榮館で休んでいる時に、黒田保久二と名乗る男が面会を求めて来た。男は「七生義団」の団員と告げ、「自決勧告書」を突き付けた。一瞬の隙に短刀で頸動脈を切られたが、組み付いて二人は階段を転げ落ちた。玄関で山本宣治は息絶えた。事件後、犯人の黒田は警視庁の有松特別捜査課長と個人的関係があり、大抵のことをしても大丈夫と語ったという。「このテロは、いわゆる『昭和維新』をめざす他のテロリズムと性格を異にし、反動勢力が右翼をつかった」(大野達三『前掲書』)殺人であった。以下の写真は2016年撮影。

浜口雄幸。高知県高知市に生まれる。高知市立自由民権記念館の展示。その風貌からライオン宰相と呼ばれた。1999年撮影。

浜口雄幸の書と写真。高知県立歴史民俗資料館は上の浜口雄幸書簡と右下の浜口雄幸と高知新聞社幹部の写真を展示。1999年撮影。

光榮館の跡地。東京都千代田区の東京メトロ神保町駅のすぐ近くにある跡地には写真の東京パークタワーが建っている。 2023年撮影。

山本宣治資料展示室。1901年に神戸中学校に入学したが、体が弱く中退した両親は彼のために宇治川河畔に別荘を建てて養育した これが現在の料理旅館「花やしき浮舟園」に繋がる。敷地内にある展示室に山宣関連の資料やデスマスクが展示されている。2023年撮影。

浜口雄幸首相遭難現場。襲撃場所は東京駅の現10番線で、東海道本線ホーム8番乗り場付近だが、ホームには目印はなく、真下に当たる中央通路に事件の概要を記したプレートと床面に印が埋め込まれている。2016年撮影。

山本宣治終焉の地(光榮館跡)。写真は「まちの記憶」といわれるプレートで、「軍国主義の時代国民弾圧の治安維持法に反対した唯一の代議士。1929年(昭和4年)3月5日夜、定宿の光榮館があったこの地で右翼暴漢の凶刃により、39歳の生涯を閉じる」と記されている。 2023年撮影。

花屋敷山本宣治之墓。死後、日本共産党員に加えられた。墓碑は墓ではなく記念碑であるとして建立が許された。碑文についてもセメントで塗るつぶすように命じられたり、遺族は敗戦まで警察の干渉に悩まされた。戦後、セメントが取り外された。 2023年撮影。

5.国家改造を目指す軍部のクーデター計画と血盟団事件

陸軍将校は国家改造を企図して1927年に木曜会、29年に二葉会、両会員が合流して一夕会を結成された。30年には橋本欣五郎中佐を中心に軍事クーデターによる国家改造を目指す桜会が結成された。参謀本部第五課長重藤千秋大佐を中心に右翼や無産団体と連携してクーデターで内閣を総辞職させ、宇垣一成内閣を樹立しようとした。計画を知った陸軍省の中堅層は時期尚早として反対し、クーデターは実行されなかったが、後に三月事件として政界に伝えられ、大きな衝撃を与えた。柳条湖事件が起こされ、軍中央は不拡大方針を出したが、桜会の橋本中佐は関東軍に私物暗号電報を送って軍事行動をけし掛けた。満州事変を遂行するために、クーデター計画を進めた。桜会の将校が近衛師団・第一師団を引率し、大川周明や北一輝・西田税、井上日召一派が参加し10月24日に決行が予定された。士気を鼓舞するために、度々芸妓を侍らせて青年将校を集めて宴会を開いた。政界上層部や新聞社ではクーデターの噂が出回り、10月16日陸軍首脳が会合して収集を図り、10月事件は不発に終わった。政府は責任を追及せず、事件の報道も禁止された。10月事件の挫折で、井上日召は海軍急進派将校藤井斉中尉らと提携して、自分たちだけで決起することにした。井上を中心とする血盟団は一人一殺で国家改造を目指した。2月9日、民政党の前蔵相井上準之助は総選挙の応援演説で行った本郷追分町の駒本小学校の通用門近くで、小沼正に背後からピストルで射殺された。3月5日には三井財閥の最高責任者団琢磨が二人のボディーガードに挟まれ三井本館の表玄関の階段を上っている時に、背後から追い越した菱沼五郎にピストルで射殺された。二人とも暗殺現場で逮捕された。警察は暗殺組織の存在に気づき一味の検挙に動く。3月11日に井上日召が自首して、事件は落着した。この二件のテロ事件は政財界に大きな衝撃を与えた。

旧横浜正金銀行本店本館。巨大なドームが特徴のネオ・ゴシック様式の建物。井上準之助はこの銀行に1911年に入行し、1919年に日銀総裁になる。1929年浜口雄幸内閣の蔵相として金解禁を実施する。現在は神奈川県立歴史博物館。 2017年撮影。

駒本小学校。井上準之助が暗殺された駒本小学校は現在の都立向丘高校付近にあり、空襲で焼失した。同名の駒本小学校は1954年に新設校として開校した2023年撮影。

三井本館。設計はアメリカのトローブリッジ & リヴィングストン事務所。かつて三井財閥の本拠として三井銀行本店、三井物産本社、三井鉱山本店として使われていた。1909年に三井合名会社が設立され、団琢磨が理事長に就任した。 オフィスビルとして初めて国の重要文化財に指定された。2014年撮影。

三井本館表玄関の階段。団の乗った車が三井本館南側の三越寄りの玄関に着き、階段を上った所で襲われた。2014年撮影。