反帝国主義運動と上海事変

1.租界時代の高層建築を残す上海バンド

上海は別名「滬(こ)」という。川の水が海に流れ込む地帯のことである。1842年のアヘン戦争で敗北した清国はイギリスと南京条約を結んだ。条約により開港した上海には外国人居留地として租界が設定された。当初、1845年にイギリスは黄浦江西岸に広がる湿地帯を造成して、商館や住居を建設してイギリス租界が成立した。外灘あるいはバンドと呼ばれた。1848年にアメリカ租界が建設され、1863年に英米が合併し共同租界となった。1849年に共同租界の南にフランス租界が設定された。これらの租界を総称して上海租界という。20世紀に欧米列強各国が管理する共同租界は金融のハブとなった。両租界は第二次世界大戦終結まで、中国の警察権力の及ばない外国人居留区として存続した。租界時代のアールデコ調の高層建築が建ち並ぶバンドエリアは上海を象徴する場所であり、上海最大の観光スポットになった。 

左が旧香港上海銀行上海支店ビル。1923年に竣工した6階建ての建物。現在は上海浦東発展銀行。右が江海関。1927年に建てられた8階建ての税関の建物。現在は中華人民共和国海関総署の上海海関事務所。ともにバンドエリアのシンボル的な建物。1984年撮影。

上海博物館。1952年に設立され、1959年に旧中下会ビルに移転した。1階から3階が陳列室になっていて、青銅器、陶磁器、絵画など膨大なコレクション。博物館前では朝の太極拳。1984年撮影。

同じ場所を違う角度から撮影。左から旧香港上海銀行上海支店ビル、江海関、右に2002年にオープンしたクラウン型が目印の50階建ての外灘中心が建っている。バンドエリアにある5つ星ホテル。新しい大きなビルが立ち並び、変化の速さに驚く。2002年撮影。

2002年の上海博物館。1996年に人民広場にオープンした。全く新しい博物館になっていた。4階建ての建物の中には貴重な文物が展示され、中国を代表する近代的な総合博物館。2002年撮影。

2.上海城市歴史陳列館で苦難の歴史を体感

バンドエリアと黄浦江をはさんで対岸にある浦東エリアは、上海市が最も力を入れて開発しているエリア。この地域の開発を象徴するのが、当時アジア一高いテレビ塔といわれた東方明珠塔。この塔の1階に上海城市歴史陳列館がある。当時の街並みや人々の暮らしを体感できるようになっている。ろう人形や模型、3Dホログラフィを駆使して、わかりやすく且つ視覚的にも楽しめるように再現している。 写真は2002年撮影。

東方明珠塔。263mと350mに展望台があり、バンドエリアを一望できる。

第一館は旧市街の特徴。鍛冶屋、酒屋などを再現し清代の日常生活を紹介している。

会審公。「上海開港後、列強は租界の行政と司法管理権の一部を審議した。会審公廨とは中国政府が租界に設置した中外判事からなる司法機構である。租界司法権の喪失は上海における都市の半植民地化を示す重要な印であった」と記されている。

アヘン戦争後、上海にはいたるところに 「花煙間」 と呼ばれるアヘン館があった。租界はそれぞれの国が警察権を持っていたので取り締まりは徹底されなかった。 

上海城市歴史陳列館。2001年にオープン。東方明珠塔の1階に口がある。

序館は上海における乗り物の変遷が紹介されている。手押し車、馬車、路面電車、乗合いバス、現代的な自動車も展示。

租界柵門。第二館は租界と石庫門建築で、租界の出入口の柵を再現している。

アームストロング砲。元江南製造局のもので貴重な展示品。

公共租界石。上海の共同租界の境界線に建てられた境界石。

3.魯迅公園から上海の日本租界を歩く

1895年以降に共同租界の一角に日本租界を形成した。蘇州河の北に広がるエリアで、1930~40年代に多くの日本人が北四川路地区周辺に住み、日本租界と呼ばれた。魯迅公園から四川北路を南に行って蘇州河までのエリアで、現在の虹口エリアになる。租界は、当初の条約を無視して中国側に無断で拡張され続け、租界から外側へと延長された越界路が建設された。中国側の許可を得ずに日本を含む列強諸国が無断で敷設し不法占拠した。2006年に上海と西塘を旅した時に、戦前に日本租界であった場所を歩いた。写真は2006年撮影。

旧虹口公園。現在魯迅公園1905年に共同租界によって造られ、第一次上海事変が始まった閘北の東の旧北四川路に公園はあった。公園近くの山陰路は日本人の高級住宅街だった。左の建物は魯迅記念館。

魯迅公園の南に多倫路文化名人街の門が見える。多倫路はイギリス人宣教師ダロック・ジョンによって命名された。門をくぐると石畳の道が続き、中国の左翼知識人が最も活躍した場所。戦後日本人がしばらく住んだ3階建ての永安里アパートがある。

さらに南に行くと、横浜路という日本の名前のような通りがある。1915年に開通し、かつて横浜と呼ばれていた。

魯迅記念館。魯迅公園の中にあり、上海滞在時代の遺品が数多く展示されている。魯迅逝去20周年の1956年に魯迅故居から魯迅公園内に移され、1999年に新館がオープンした。近くに魯迅の墓もある。

鸿徳堂キリスト教会。1928年竣工。 現在、上海に残る唯一の中洋折衷の建物。教会全体の外観は中国風で、入り口には四角形の鐘楼があり、その屋根の軒は重なり合っていて先は尖っている。門の前には二頭立ての漢白玉の石獅子が置かれている。 

虹口区は日本租界地域。横浜路には二階建ての日本家屋があり、私が行った時は当時の面影が残っていた。

4.上海における反帝国主義運動の盛り上がり

上海は1920年代から1930年代にかけて、中国で最大の都市に発展した。上海の繁栄は民族資本家の台頭をもたらし、労総運動も盛んになった。1921年には中国共産党第一次全国代表大会も上海で開催され、中国共産党の設立会議となった。このとき全国の党員数はわずか57名だった。第二次全国代表大会では帝国主義と封建主義に反対する民主革命の綱領を提唱した。中国国民党や中国共産党の反帝国主義運動が活発化していく中で、 1925年に日系資本の内外綿株式会社の第8工場で劣悪な労働条件に対する不満から暴動が発生し、工場側当事者の発砲で死者が出た。抗議するデモ隊に上海共同租界警察が発砲し13人の学生・労働者が射殺され、40人余りの負傷者を出した。これが五・三〇事件で全市規模のゼネストに発展した。五・三〇事件は中国の民衆運動が五四運動から次の時代・段階に入ったことを示す画期的な事件といわれている。以下の写真は2006年撮影。

中国共産党第一次全国代表大会址。旧フランス租界に建てられた石庫門建築。大会当時に上海代表だった李漢俊とその兄の自宅だった。1952年に革命の聖地として記念館に改修された。現在の新天地にある。

上海烈士資料陳列館。上海龍華殉教者墓地 の中に建てられ、1997年に開館。「英雄の街は英雄を育て、英雄的な精神は未来の世代を鼓舞する」と言うテーマで257人の英雄の事績を展示している。

油絵「南京路五・三十大虐殺」。泉山石の作品で、上海の南京路で起こった衝撃的な事件を再現している。イギリスの上海共同租界警察の虐殺をリアルに描いている。

上海市龍華烈士陵園 。1950年に龍華地区で殉教者の遺骨が発掘された。殉教者を慰めるために、この場所に上海龍華殉教者墓地が1995年に建設され、一般公開された。写真は無名戦士の彫刻。

「革命の手先ー鄒栄」趙奇の作品で、1911年の辛亥革命の先駆者である鄒栄を描いた。魯迅は革命軍の手先と称賛した。

油絵「左翼同盟の殉教者と処刑場に行く人々」。王少倫の作品、1931年2月7日、上海の国民党松湖警察本部留置所で5人の左翼進歩派作家と19人の革命家が密かに射殺され、壮絶な死を遂げた。国民党反動派による残忍な犯罪を暴露している。

5.またしても謀略で起こした第一次上海事変

 柳条湖事件直後から上海は抗日運動の最大の中心地となっていた。上海には共同租界を中心に2万5650人の日本人が居留し、険悪な空気になっていた。1932年1月28日日本海軍と中華民国十九路軍が上海共同租界周辺で衝突した第一次上海事変が勃発。中国では一・二八事変と呼んでいる。上海事変の引き金にな2つ事件が起こるが、上海公使館付陸軍武官補佐官田中隆吉少佐は「1931年10月初旬板垣関東軍参謀から、満州の独立させるため、上海で事をおこして列国の注意をそらしてほしいと依頼され、中国人を買収して、日蓮宗僧侶を襲撃させたこと、また三友実業者襲撃」(江口圭一『昭和の歴史』小学館)を行ったことを告白している。謀略によって起こされた事件で日本人居留民は陸海軍派遣と自衛権発動を求め暴動を起こした。日本政府は十数隻の艦隊と陸戦隊を派遣して上海市長に4項目の要求迫った。要求は承認されたにもかかわらず、陸戦隊は租界外の中国領である北四川路西側の閘北を編入するために通告なしに 出動し、中国軍と戦闘になった。陸軍も派兵し、3月3日に何とか中国軍は退却し、戦闘は中止された。満州事変で人気を高めた陸軍に対するねたみから、負けない戦功をと挑発的になった戦いだった。満州事変で高まった排外熱・軍国熱は上海事変でさらに高められ、破壊筒を抱いて自爆した肉弾三勇士はマスコミでセンセーショナルに取り上げられ、軍国美談として熱狂的な反響を呼んだ。実際には「おなじ隊にいた兵卒の書いた文書は、導火線が30センチばかり短く切られたこと。三人は途中で倒れ、間に合わないので引き返そうとしたが、上官がどなりつけて突入を命じたことなどを伝えていた。また導火線の長さではなく、種類を間違えたため、予定より早く燃えて爆発したという説」(江口圭一『前掲書』)もあり、覚悟の自爆という陸軍の発表には無理がある。国内の熱狂とは裏腹に、2月19日の国際連盟理事会では日本は孤立無援となり、列強の圧力と国際的孤立に日本政府は深い憂慮をいだいた。

旧呉鎮守府司令長官官舎。1889年に洋風2階建て軍政会議所兼水交社が建てられた。第一次上海事変では呉と佐世保から2700名の陸戦隊が派兵された。現在は入船山記念館。2014年撮影。

青松寺。東京都港区にある曹洞宗の寺院。1934年、全国からの寄金で昭和になって最初の軍神として「肉弾三勇士」の銅像が門前に建てられた。銅像の中には三勇士の遺骨が納められ、墓になっている。2023年撮影。

旧佐世保鎮守府武庫倉庫群。1888年に弾庫、小銃庫、1913年に弾薬庫が完成した。艦隊への補給が重要な任務だった。現在は海上自衛隊佐世保造修補給所の立神倉庫群。2019年撮影。

肉弾三勇士像。作江伊之助、北川丞、江下武二の三名の一等兵が約3mの破壊筒を抱いて敵陣の鉄条網に突入、自爆した。 戦後、占領軍を恐れたのか、像は撤去された。現在は石碑と江下一等兵の像が墓として残されている。2023年撮影。