盧溝橋事件から日中全面戦争へ

1.華北分離工作と抗日運動の広がり

「満州国」という傀儡国家をつくり上げた関東軍は熱河に侵攻を開始する。熱河には中国本土と満州の境界線としての万里の長城がある。山海関は万里の長城の東端に位置し、西側が「関内」、東側の満州を「関東」もしくは「関外」と称していた。1932年から日本軍と中国軍の小競り合いが繰り返された。1933年に山海関を攻撃し、長城以南に侵攻し戦闘が始まり、日本軍は山海関内城を占拠した。政府の許可を得た関東軍は熱河作戦を発動し、朝陽、承徳を占領し、長城を越えて河北省まで進撃した。日本軍の飛行機は長城を越えて中国軍を爆撃し、長城抗戦は続く。1933年に塘沽で停戦協定が結ばれ長城抗戦は終結する、塘沽停戦協定と呼ばれるが、長城以南を非武装地帯として関東軍の駐留を強引に認めさせた。1935年から36年にかけて満州に隣接する河北省には支那駐屯軍、チャハル省には関東軍武力進出し、華北5省を中国から切り離し第二の「満州国」化を狙った華北分離工作が強行された。「対ソ戦にそなえて背後の安全をはかり、満州における抗日闘争の震源地をなくし、あわせて軍需資源の確保をはかるため、華北を中国政府の支配から切り離」(今井清一「日中戦争論」『体系・日本現代史2』日本評論社)すことが目的だった。1935年6月には国民党政府機関の閉鎖、河北省からの中国軍撤退、排日の禁止などを要求し 、梅津・何応欽協定を結んだ。華北分離工作を主導した土肥原賢二は土肥原・秦徳純協定を結び、国民党機関の撤退を要求してチャハル省を勢力下においた。華北分離工作は中国軍の立ち入りを禁止した河北省東部の非武装地帯を拠点に展開される。河北で地方自治を求める民衆の運動が起こり、停戦地区の行政督察専員の親日派の殷汝耕は関東軍の後押しで、国民政府から分離して冀東防共自治委員会を名乗り、後に冀東防共自治政府に改称した。さらに国民政府の統治下の冀察綏靖主任で西北軍閥の首領宋哲元を主席とする冀察政務委員会を設置しようとした。冀察が第二の冀東化するのを防ぐため、12月9日に北平の学生は反対する請願デモを組織し、12・9運動と呼ばれる大規模な抗日救国運動が起こった。翌日には杭州、広州、武漢、南京、上海、長沙、太原、桂林、重慶、西安、開封、南昌、香港 でもデモや集会が行われ、この運動は中国全土に広がった。12月16日には北平市で1万人を越える大規模な学生のデモが行われた。                                                                        

八達嶺長城の城門。北京市北部約70kmにあり西の城門で「門鎖鑰」の字が彫られている。ここから東側にある羅文渓、古北口、南天門、喜峰口で戦闘があった。194年撮影。

大沽口砲台遺跡。天津の河口部の大沽口に築かれた砲台で、19世紀の欧米列強の侵略に備えるために建設された。広東省の珠江河口の虎門の要塞とともに「南に虎門あり、北に塘沽あり」と称えられた。1840年の阿片戦争から4回も列強に占領された。2004年撮影。

天安門広場の前の長安街。1935年12月9日午前10時30分に北平の学生約5000人が冀察政権樹立に反対する請願デモを行い、西単から長安東街を通過した時に警官隊と衝突して100人以上が負傷し、30人以上が逮捕された2004年撮影。

万里の長城。総延長約6000kmの城壁。日本軍は熱河作戦で長城を越えて河北省まで進撃した。古北口や南天門では激しい戦闘が繰り返され、現在でも長城周辺では戦死者の人骨なども発見される。1984年撮影。

塘沽。天津の外港として発展し、李鴻章はここに「大沽造船所」をつくり、中国最初の近代大工場の基礎が築かれた。1933年に塘沽停戦協定が結ばれた。2004年撮影。

正陽門箭楼。12月16日は冀察政務委員会成立予定日だった。宋哲元は警察、軍隊を大量動員して弾圧するが、再び北平の学生1万人余りが抗日救国デモを行った。写真の建物が建つ前門外広場でも市民へ抗日を呼びかける宣伝行動が行われ、政務委員会の成立は18日に延期され密かな形で行われた。204年撮影。

.第二次国共合作盧溝橋事件の勃発

1936年7月23日、コミンテルン執行委員会書記局で中国問題会議が開かれ、ディミトロフは中国共産党に国民党と統一戦線を結成することを促した。毛沢東らは、蒋介石から紅軍討伐を命ぜられていた西北軍の楊虎城、東北軍の張学良を懐柔に努め、相互不可侵関係を築いた。蔣は西安に入っ共産党殲滅作戦を命じるが、張は国共内戦の停止と抗日のための統一戦線を解くが蒋は拒否した。12月12日早朝、西安事件は開始された。張学良の衛兵は蔣介石の駐屯地である華清池に到着し銃撃戦になった。蔣裏山の驪山に逃れるが逮捕・監禁され、楊虎城も西安市を制圧し蒋の衛兵を武装解除した。1937年7月7日、北京城の西南約6kmの永定河に架かる古い石橋盧溝橋で事件が起こった。12世紀の金の時代に架けられた橋で、元の時代にマルコポーロが渡ったことからマルコポーロ橋の異名がある。日本軍の支那駐屯軍歩兵第1連隊第3大隊第8中隊は盧溝橋の北側にある京漢鉄道の鉄橋に北側の砂礫地で演習していた。夏は高粱が茂り、見通しがきかないので格好の演習場所になった。盧溝橋の東に苑平県城があり、城内には第2軍37師が駐屯し、対岸の町にも中国軍が駐屯していた。中隊長清水節郎大尉の指揮で夜間演習が行われ、中国軍の不法射撃と1名の日本兵が行方不明になったことを契機に日中両軍の小衝突が起こった。行方不明の兵は29分後に発見されたが、北京の連隊本部に報告されず、事態は重大化した。7月11日、現地で停戦協定が成立したが、近衛文麿内閣は華北への派兵を声明した。日本軍増援部隊が到着すると戦争は本格化していった。7月28日早朝から総攻撃が開始され、北京・天津と永定河左岸地区は日本軍に占領された。盧溝橋事件勃発後の9月23日に第二次国共合作は成立した。盧溝橋事件が起こると、海軍は上海・青島への兵力増強を準備し、陸戦隊も増強した。8月9日に上海の租界外で海軍陸戦隊大山勇夫中尉と水兵1名が中国の保安隊員に射殺される大山事件が起こり、陸軍も上海に派遣され日中全面戦争に発展していった。

華清池西安市内の東30kmにあり、西安事件の舞台となった場所。後ろにある驪山に蔣介石は逃げて行って逮捕された 。1984年撮影。

盧溝橋。 北京市西南豊台区にあり、全長260m、幅93m。橋脚部に11のアーチをもつ石橋。2004年撮影。

盧溝橋の獅子像。橋は1192年に完成し、欄干に柱頭にはさまざまな姿をした492の石の獅子が彫られている。1984年撮影。

盧溝橋の床石。 橋の床石は張り替えられているが、真ん中の部分には創建当時の床石が残されている。2004年撮影。

立ち入り禁止の看板。盧溝橋を渡った橋のたもとに人民解放軍兵士の見張所があり、ここから先は特別な許可がない外国人は立ち入り禁止となっている。1984年撮影

天津古文化街。7月30日、天津が陥落し、日本軍が天津市内を行進した。2004年撮影。

蒋介石が使用した風呂。蔣介石は逮捕され華清池の五間庁に監禁されていた。ここで第二次国共合作が成立した。1984年撮影。

盧溝橋。永定河に架かる橋でマルコポーロ橋と呼ばれていた。この時は誰でも自由に通行でき入場料無料だった。1984年撮影。

京漢鉄道の鉄橋。盧溝橋の北側に北京・豊台と漢口を結ぶ京漢鉄道が走っている。鉄橋線路の北側一帯は砂礫地で日本軍は演習場として使っていた。2004年撮影。

蘆溝暁月』の石碑。清の乾隆帝直筆の石碑が盧溝橋の東側に建っていることは有名で、燕京八景の一つになっている名所。橋の入口には柵がつくられていて、入場料は6元を払わなければ入れない。2004年撮影。

宛平県城。苑平県庁の所在地で盧溝橋の東側に城壁に囲まれた市街地がある。城内には中国軍の第29軍37師の1営’1大隊)が駐屯している。日本軍が最初に占領した城である。城壁はほぼ当時の姿で残され、日本軍の砲弾の跡も残されている。2004年撮影。

正陽門。北京城内の中国軍は、古都を戦禍から守るため撤退したので日本軍は無血入城した。前門大街を行進した日本軍は正陽門のやぐらに登り歓声をあげた。2004年撮影。

3.大本営設置問題と南京大虐殺

近代日本の最初の本格的対外戦争は1894年の日清戦争だった。1893年に戦時大本営条例が公布され、陸軍と海軍の統帥を一元化して戦略の統一性を確立するために大本営が設置された。戦時の日本軍の最高統帥機関として天皇のもとに設置された。宣戦布告後の大本営会議には伊藤博文首相が列席し、戦争指導の拠点を広島に置き、大本営も広島に移った。「日清戦争の戦争指導では大本営の戦略は、政府の政略に従属し」(大江志乃夫『日本の参謀本部』中公新書)ていた。宣戦布告をせず戦争と認めていない日中戦争に際して、近衛文麿首相は大本営設置を提起した。政府の知らぬ間に軍の行動が進められることに不満を持ち「大本営を設置し、首相が構成員となって、国務と戦略との一致をはかろうと」(藤原彰『昭和の歴史5』小学館)して陸海軍に申し入れたが、「陸軍も海軍も、統帥権独立のたてまえを固守し、首相の参加する大本営には反対」(藤原彰『前掲書』)した。政府との間には大本営政府連絡会議を設けることで調整した。1937年11月18日に戦時大本営条例が廃止され大本営令が制定された。事変に際しても大本営の設置を可能にし、「大本営の構成員から首相が排除され戦略決定への関与はもちろん戦略情報の入手さえ不可能」(大江志乃夫『御前会議』中公新書)であった。この間、華中方面への戦線は急速に展開した。上海派遣軍の目的は居留民保護から戦局の勝利を目指すものに変わり、南京を攻略すべきという意見具申が出された。現地軍に引きずられる形で、12月1日に大本営は南京攻略作戦を松井石根大将に命じた。南京占領にあたり、中国兵30万人が殺傷され、大量の非戦闘員や捕虜が虐殺され、「南京アトロシティ」として世界を震撼させた。中国民衆には忘れ去ることのできな強い怒りと恨みを残した。

広島大本営跡。1893年に東京の参謀本部内に大本営は設置されたが、皇居内に移された。山陽鉄道の西端で、大型船を運用できる宇品港があることから前線に向かう兵站基地となる広島城内に大本営は設置された。その後、大本営跡として残されたが、原爆により倒壊し、今は基礎石のみがのこされている。2014年撮影。

犠牲者同胞遺骨陳列室。南京大虐殺の犠牲者の遺骨が保管・展示されている。記念館の建設工事中に1984年に敷地内で発見された収集された南京大虐殺の犠牲者の遺骨。

南京江東門万人坑。南京大学現代分析センターと南京鼓楼病院などによる詳しい調査により60年前に埋められた 南京大虐殺の犠牲者の遺骨であることが分かった。

墓地広場。記念館の中央部にあり、右に家族を探し求める母をモデルとした「母の叫び」という4mの像が建っている。左の建物は犠牲者同胞遺骨陳列室、中央“万人坑”遺跡保存館。

南京大虐殺記念館の入口。正式には侵華日軍南京大屠󠄀殺遇難同胞紀念館。巨大な十字架には事件があった「1937.12.13ー1938.1」と記されている。以下は2002年に撮影したもの。

記念館の壁には中国語、英語、日本語で30万人の被害者が表示されている。1985年に鄧小平の指示の下で建設された。

“万人坑”遺物陳列。万人坑は中国人の犠牲者を捨てた場所のことで、南京江東門万人坑と呼ばれている。中国軍兵士を江東門へ連行して集団虐殺した。1998年に犠牲者同胞遺骨陳列室の北側で4体の遺骨が発見され、調査を進めると208体の遺骨が確認された。

記念館の中には犠牲者の慰霊のための千羽鶴が飾られている。修学旅行なのか、日本の学校からのものもあった。