軍事クーデターから準戦時体制へ

1.政党内閣を否認した五・一五事件

血盟団は検挙されたが、事件はこれで終わらなかった。井上日召と提携していた海軍急進派の藤井斉中尉は上海で戦死したため、古賀清志中尉、中村義雄中尉らを中心に決起の準備が進められていた。水戸郊外で大地主義・兄弟主義・勤労主義を柱とする農本主義を唱える愛郷塾の橘孝三郎に参加を求めた。橘は塾生7名による農民決死隊を編成して参加した。陸軍青年将校にも決起を呼びかけたが、応じなかった。血盟団の残党4名、大川周明も協力し資金も提供した。1932年5月15日の午後5時半を期して、首相官邸・内大臣官邸・警視庁・政友会本部・三菱銀行を襲撃し、変電所も襲って東京を暗黒にして国会改造を実行する計画だった。第一組は首相官邸の表門と裏門の二手に分かれて邸内に侵入した。犬養は「話せばわかる」言ったが、山岸宏中尉は「問答無用、撃て」と叫び、黒岩勇予備役少尉と三上卓中尉が犬養の頭部にピストルの弾丸を撃ち込み、同日の夜半に犬養は絶命した。警視庁のガラス戸を蹴破り、日本銀行の玄関に手榴弾を投げ込み東京憲兵隊に自首した。第二組の古賀中尉らと第三組の中村中尉らは内大臣官邸・政友会本部に手榴弾を投げ込み、檄文をまいたり、警視庁に手榴弾を投げ込み憲兵隊に自首した。川崎長光は計画を妨害したとして西田税を訪問して重傷を負わせた。農民決死隊は変電所六ケ所襲撃したほとんど損傷を与えることができず、帝都を暗黒にすることはできなかった。事件前日には喜劇王チャーリー・チャップリンが神戸に入港し、特急燕でその日の夜に東京駅に到着した。東京駅には4万人もの群衆が押し寄せた。青年将校たちは5月15日に首相官邸で行われる歓迎会にチャップリンが出席するので暗殺しようと計画していた。チャップリンは予定を延期して両国国技館に出かけ相撲見学をして事なきを得た。

旧首相官邸大蔵省営繕管財局工務部技官の下元連 が設計し、1929年に竣工。5・15事件、2・26事件で青年将校の襲撃を受け、使いものにならないほど荒らされた。旧官邸を曳家・改修したもので、2005年より公邸として使用されている。主要部分は鉄筋コンクリート2階建。 2023年撮影。 

旧東京憲兵隊本部跡。1881年に東京憲兵隊本部が設置された。写真右に日本生命丸の内ガーデンタワー、左がパレスホテル東京で、その跡地になっている。2023年撮影。

旧三菱銀行本店。1879年に開業した第百十九国立銀行が本店を置いた現在の東京都千代田区丸の内に、その後身として1919年に三菱銀行は発足した。血盟団残党の明治大学生奥田秀夫が同銀行の構内に手榴弾を投げ込んだ。写真右側に1980年に開業した5階建ての現在の三菱UFJ銀行本店がある。は東京駅丸の内駅前広場から見たもの。 2016年撮影。

旧帝国ホテル。初代帝国ホテルは外国人の接遇所を兼ねた国を代表する大型ホテルとして渡辺譲が設計し1890年に開業。1932年にチャップリンが宿泊し、1936年に来日した時もここに宿泊した。マリリン・モンローやベーブ・ルースも宿泊している。写真は帝国ホテル東京新本館で高橋太郎が設計し、地上17階建てで1970年に開業。2016年撮影。

2.民衆闘争の展開と弾圧の強化

都市でも農村でも民衆の生活は窮迫していた。1927年に上野と浅草を結ぶ日本最初の地下鉄が開通したが、従業員の労働条件は劣悪で各駅には便所もなかった。日本共産党と日本労働組合全国協議会の指導で、1932年に浅草で電車4台を止めた従業員150名が出征兵士の給料全額支給、主要駅に便所設置など27項目のを要求してストを行った。1934年に釈放された。1932年には米価が上昇に窮迫する都市下層民を中心に米よこせ運動が広がった。買上米の処置に困った政府が海外に安売りしようとしている情報を知った共産党指導下の関東消費組合連盟は政府米獲得請願運動を行った。東京市内各所に米よこせ会を組織し、8月1日に三百数十名が農林省に押しかけた。話し合いの結果、1か月6000俵ずつの払い下げを回答した。東京地下鉄ストや米よこせ運動を通して活動を強化した共産党は機関誌『赤旗』も7000部を発行した。日本プロレタリア文化連盟のもとに、日本プロレタリア作家同盟・プロレタリア科学研究所などの文化活動も活発に行われ、青年や学生の心をとらえた。軍隊内部で反戦闘争をした元水兵坂口喜一郎・平原甚松らは『聳えるマスト』を1932年2月から発行し海軍を追放された。11月初めに坂口ら18名が検挙され、海軍内でも6名が検挙された。坂口は翌年広島刑務所で獄死した。1932年に特別高等警察(特高)から送り込まれたスパイ松村昇(本名飯塚盈延)は川崎第百銀行大森支店を襲った銀行ギャング事件や共産党全国代表者会議の特高の襲撃、中央委員岩田義道逮捕などの手引きした。翌年2月20日、小林多喜二もスパイ三船留吉の策略により張り込んでいた特高によって逮捕され、築地署内で拷問により絶命した。「川柳界の小林多喜二」といわれた反戦川柳家鶴彬は1930年に金沢第7連隊に入営し、翌年『無産青年』を勧めた赤化事件で軍法会議にかけられ大阪の衛戍監獄に1年8か月収監された。1933年に除隊し、東京に出て積極的に執筆活動を行った。同じ川柳仲間の三味線草の密告により、1937年に治安維持法違反の疑いで特高に検挙され、東京市中野区野方警察署に留置された。翌年、野方署留置場で赤痢に罹り、東京市立豊多摩病院へ監視付きで入院した。9月14日午後3時40分頃に29歳の若さで死去。唐突な死に対して、官憲による赤痢菌注射説も疑われている。1937年28歳の時に「 屍のゐないニュース映画で勇ましい」(『川柳人』28号)という作品を発表している。現在のマスコミ批判にも通じる興味ある作品である。同年に「 万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た 」(『川柳人』281号)という作品を発表され、どの書籍でもこの様に書かれている。しかし、初出雑誌では「大陸において来た」と書かれていることが指摘されている。

呉港。坂口喜一郎らが上海事変下で反戦を訴え呉軍港の海軍内でガリ版刷り4ページの反戦新聞『聳えるマスト』を配布した。同紙は6号まで発行された。2014年撮影。

鶴彬生家跡碑。1909年1月1日、石川県河北郡高松町に竹細工職人の喜多松太郎とスズの次男として生まれる 。翌年、叔父の喜多弁太郎の養子 となる。本名喜多一二。2023年撮影。

「可憐なる母が私を生みました」の句碑。生家跡の庭に置かれている。1925年『影像』23号に掲載したもので、鶴16歳の時の作品。 2023年撮影。

「暁をいだいて闇にゐる蕾」の句碑。金沢市の東にある卯辰山公園に置かれている。1936年『蒼空』第4号に掲載したもので、鶴27歳の時の作品。2023年撮影。

「胎内の動きを知るころ骨がつき」の句碑。石川県河北郡高松町の浄寺の境内に置かれている。193年『川柳人』281号に掲載したもので、鶴歳の作品。2023年撮影。

坂口喜一郎顕彰碑。大阪府和泉市の碑は「当市黒島町に生まれ、志を立てて海軍に入る。中国との侵略戦争と、多くの兵士の戦死に戦争への疑念をいだき、反戦運動に立ち上がり海軍から追放される。ひるまず活動を続け憲兵隊に捕らえられ、広島刑務所で獄死する。享年31歳。君の真の愛国心を伝えたく50年目の命日に建碑する。」と説明されている。

金沢第7連隊碑。金沢城内にあった第7連隊に鶴彬は1930年21歳で入営。3月1日の陸軍記念日連隊長の訓辞に疑問を抱いて質問したことで重営倉に入れ られたり、翌年には赤化事件を起こした。2023年撮影。

鶴彬墓碑。鶴彬の死後、遺骨は岩手盛岡市に住む兄のもとに引き取られ、光照寺に墓がつくられた。鶴の没後80年を記念して、「鶴彬を顕彰する会」が親族に分骨を願い出て、2018年命日に当たる9月14日に高松町の浄専寺に墓碑がつくられた。2023年撮影。

3.軍ファシズム体制の画期としての2・26事件

国際連盟脱退通告から2年を経た1935年は連盟と正式断絶となり、ワシントン・ロンドン両軍縮会議の期限満了を迎え、第二次軍縮会議に臨まねばならない年であった。米英に比べて日本の海軍力がもっとも不利におちいることや第二次五か年計画によりソ連の軍事力が強化されることなどから、日本の軍部は「1935,6年の危機」を言い始め、荒木貞夫陸相の要求で首・外・陸・海・蔵の五相会議が5回開催され軍部の発言権が強化された危機の強調によって国民の結束を固めるために思想統制の強化をはかった。1932年に東京地裁判事尾崎陞が共産党員として逮捕される司法赤化事件、翌年には長野県下で 多くの小中学校教員の共産党員・シンパが検挙される教員赤化事件などが起こり大きな衝撃を与え、思想問題は大きな問題となった。1933年の滝川事件ではマルクス主義だけでなく、自由主義的学説までも禁圧され、大学の自治と学問の自由も侵害され。同年、5・15事件の報道が解禁され、荒木陸相や大角岑生海相は被告への同情を示し、陸海軍の援助のもと減刑嘆願署名運動が全国に広がった。ゴー・ストップ事件など軍部の横暴は目に余るものとなった。五相会議を開かせた荒木は海軍に主導権を奪われ、予算まで譲らされ、政治的手腕の欠如を暴露した。荒木は1934年に陸軍大臣を辞任し皇道派が没落し、林銑十郎を就任し統制派が進出するきっかけとなった1935年には美濃部達吉の天皇機関説排撃運動が起こり、自自由主義的な思想は反国体として排除された。同年7月には皇道派の重鎮である教育総監真崎甚三郎に辞職勧告が行われ、8月には陸軍内で皇道派の陸軍中佐相沢三郎が統制派の主導者永田鉄山陸軍軍務局長を殺害する相沢事件が起こった。斎藤内閣や陸軍首脳らは皇道派将校が多く所属する第一師団の満州派遣を決定した。皇道派青年将校たちは満州派遣前の1936年2月26日早暁、部下の下士官1483名を率いて決起した。首相官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。斎藤内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監らは即死、鈴木貫太郎侍従長は重症を負った。首相官邸では岡田啓介首相と間違えて義弟で秘書官の松尾伝蔵が射殺された。湯河原では静養していた牧野伸顕前内大臣も青年将校の別動隊に襲撃されたが難を逃れた。クーデターは政府首脳や宮廷グループの重要人物を襲撃、政治と軍事の中枢を制圧し、川島義之陸相に面会を強要し「決起趣意書」を読み上げ要望事項を提出した。川島は天皇に上奏したが、天皇は速やかに事件を鎮定すべしとし、27日に日比谷焼事件、関東大震災に次ぐ3度目の行政戒厳が宣告され、反乱鎮圧の方向に向かった。岡田首相、斎藤内大臣、鈴木侍従長という3人の海軍大将を殺傷された海軍は断固鎮圧の方針をとった。28日奉勅命令が交付され、戒厳司令部は29日朝、攻撃態勢をとって反乱軍に帰順を呼びかけ、無血鎮圧された。皇道派青年将校の理論的指導者であった北一輝、西田税らも逮捕された。反乱鎮定後、軍部は戒厳をカウンター・クーデターの武器として濫用する。広田弘毅に後継内閣の大命が下ると、陸軍は新閣僚の選任や軍の対外政策、軍備充実のための財政的配慮などを約束させた。2・26事件を画期として軍ファシズム体制は成立し、ファッショ化は進行していく。                                                                          

近衛師団司令部庁舎。現在は東京国立近代美術館分室。2・26事件のクーデター部隊の中心は近衛師団歩兵第3連隊と第1師団歩兵第1連隊、歩兵第3連隊だった。近衛師団司令部と近衛歩兵第1連隊、第2連隊は北の丸公園にあり、第3連隊は赤坂パークビルの建っている場所にあった。2023年撮影。

高橋是清邸。 赤坂表町3丁目丹波篠山藩青山家の中屋敷を購入。2000坪の広大な敷地に建てられた邸宅は良質の栂を化粧材として使った総栂普請。1階の仏間は格天井上部が花のような形をした花灯窓がある。現在は江戸東京たてもの園に移築。1994年撮影。

高橋是清邸の書斎紙の障子ではなく、当時は高価だったガラス障子。ガラスは熟練の職人による手吹き円筒法でつくられた。 仏間を除くすべての部屋に床の間を配し、床洋間の床は寄木張り。1994年撮影。

首相公邸。2・26事件当時の首相官邸で、栗原安秀中将率いる約300名の部隊が殺到し、岡田啓介首相を襲撃したが、女中部屋の押し入れに隠れ、翌日救出された。2023年撮影。

光風荘。神奈川県の湯河原温泉にある伊藤屋旅館の別館光風荘で静養中の元内大臣牧野伸顕が河野壽大尉の率いる別働隊7名に襲われた。駆け付けた地元消防団員によって牧野とその家族は救出され難を逃れた。2023年撮影。

軍人会館。2・26事件で戒厳令が施行されて、ここに戒厳司令部が設置された。現在の九段会館2023年撮影。

旧山王ホテル跡地。2・26事件でクーデター部隊に占拠され司令部となったホテルが建っていた場所。ホテルは1983年に閉鎖され、しばらく更地だったが、2000年に山王パークタワーとして竣工。2023年撮影。

高橋是清邸の寝室。2階は書斎や寝室として使われ中橋基明中尉が約140名を率い襲撃した。十畳間の寝室が2・26事件の現場で、寝巻のままで凶弾に倒れた。殺害時に「天誅」と叫んだとされている。1994年撮影。

海軍省跡、軍令部跡の碑。厚生労働省の敷地内にある。海軍省は事件発生1週間前にはクーデター部隊の名簿と襲撃対象をつかんでいて、クーデター部隊に対する徹底抗戦を発令し、臨戦態勢をとった。2023年撮影。

北一輝の生家。1883年、新潟県佐渡郡両津湊町に生まれる。戦前の社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件の皇道派青年将校の理論的指導として逮捕され、軍法裁判で死刑判決を受け刑死した。 2012年撮影。

2・26事件慰霊像。クーデター部隊の陸軍将校16名は1936年7月12日に東京陸軍刑務所刑場で処刑された。刑場跡に犠牲者と処刑者を弔うために、1965年2月26日に観音像が建立された。2023年撮影。