台湾に残された植民地化の跡を辿る

私が最初に台湾に行ったのは1998年だった。台北を中心に巡った。2001年に台湾南部に行った。日本最初の海外派兵である台湾出兵の場所と台南の城を見学したいと思った。同じ年に台北から霧社に行った。霧社事件の場所を見たかったからだ。その後、友達や家族と数回台湾に行った。

1.オランダ統治時代から鄭氏政権時代の台湾

15世紀から16世紀にかけてヨーロッパの大航海時代を迎え、16世紀中頃にポルトガル船が台湾近海を通過し、台湾を「フォルモサ」と名付けてヨーロッパに紹介した。1622年にオランダ東インド会社が明の支配下にあった澎湖諸島を占拠し、明軍と戦闘となるが両国の和議が成立。1624年に台湾南部の地域を制圧し要塞を築いた。フィリピンルソン島を拠点としていたスペインが台湾進出を試み、1626年に台湾北部を占拠し要塞を築いた。1642年にオランダは台湾北部の鶏龍に艦隊を派遣してスペインを台湾から駆逐した。1644年、明が滅亡し、満州民族の清国が建国された。1661年、明朝の皇族・遺臣たちは南明朝を興すが滅亡させられる。鄭成功は「反清復明」を唱え、清への反攻の拠点を確保するため台湾のオランダ東インド会社を攻撃し、1662年に最後の本拠地であるゼーランディア城を陥落させオランダ勢を台湾から駆逐し「東都」と改名した。現在の台南市周辺を根拠地として台湾開発を進めた。以下の写真は200年に撮影。

アムステルダム号。1602年に設立された世界初の株式会社オランダ東インド会社によって1748年に建造。翌年、オランダ領東インドの首都バタビアへの処女航海の途中イギリス海峡で難破した。1969年に発見され、イギリスの難破船博物館に保管された。難破船を基に復元されたレプリカがアムステルダム海洋博物館にある。2013年撮影。

安平古堡。台湾最古の城堡でゼーランディア城、安平城、台湾城ともいわれる。1624年に明軍と衝突。講和で台湾進出が認められ築城された。 

ゼーランディア城。オランダ統治時代にオランダ東インド会社台湾統治の中心地として現在の台南に建てられている。

淡水紅毛城碑。オランダと対立したスペインは台湾北部を拠点として1628年に淡水に城砦を建設。サント・ドミンゴ城、アントニー要塞とも呼ばれている。2003年撮影。

赤崁樓  プロヴィンティア城、紅毛城などの異名を持つ。ゼーランディア城の対岸の赤崁の土地をシヤラ人から購入して、1653年に植民地行政の中心として建てられた。これが台南の街の始まり

大天后宮。鄭成功の長男鄭経は1664年に赤崁樓の横に明朝王族の末裔寧靖王朱術桂の王宮とし建てられた。2015年撮影。

延平郡王祠。1662年に鄭成功はオランダ人を台湾から駆逐したが、その年のうちに病死。彼に感謝して、民衆の手で建てられた。開山王府の別名を持ち、赤を主体とした福州式建築。

長崎出島のヘトル部屋。ヘトルはオランダ商館長次席のことで、漆喰の白壁とブルーの窓枠が印象的な建物で2000年に復元された。1609年に徳川幕府の貿易許可により平戸オランダ商館が設置された。1636年に徳川幕府は長崎に日本初の本格的人工島である出島を築造し、1641年に平戸からオランダ商館を移転した。2001年撮影

台湾城に残された城壁。現存する城壁の赤レンガはバタビアから運ばれてきたもので、オランダ東インド会社の兵士が築いた。

鄭成功像。大陸を追われ新たな拠点を台湾に構築するため、ゼーランディア城を攻撃しオランダ勢を一掃し鄭成功は漢人政権を樹立した。城内に像が建っている。

淡水紅毛城。スペイン人を撃退したオランダ人は、その城跡に城砦を築いた。当時の台湾住民から紅毛城と呼ばれた。2003年撮影。

オランダ軍の降伏。1661年、鄭成功はプロビデンシャル城を攻略し、東都明京と定め、承天府を設置した。ゼーランディア城も攻略しオランダ統治を終わらせた。

媽祖像。1683年に清軍の攻撃を受けて降伏し、鄭政権は崩壊。王府は媽祖廟に改造され、大天后宮と名を変えた。大殿内には金色の巨大な媽祖像が祀られている。2015年撮影。

台湾祀典武廟。鄭経が台湾の守りを固めるために1665年に建設した。関羽が祀られていて台湾唯一の国家管理の武廟。

2.大清帝国統治時代と日本の台湾侵略

1683年清朝攻撃を受け降伏し、鄭氏一族による台湾統治は終了した。清朝は台湾を制圧したが、当初は台湾の領有には消極的だったが、軍事上の観点から領有を決定した。清は台湾を皇帝の支配する領地ではない「化外の地」として放置し、福建省に編入した。台湾の対岸の福建省、広東省から多くの漢民族が移住し、開発地を拡大していった。19世紀半ばに、ヨーロッパ列強が中国に進出し、台湾にも影響が及んできた。清国は1856年のアロー戦争で英仏軍に敗れ天津条約を結び、台湾の港も追加され安平、淡水を開港することになったが、条約批准されなかったため、1860年の北京条約によって開港された。その後、副港として基隆と打狗(現在の高雄港)も開港され、税関が置かれた。1871年に宮古島島民が那覇に年貢を納めた帰りに台風で難破し台湾南部に上陸し、54名が台湾原住民に殺害された。日本政府は清国政府に厳重に抗議したが、台湾原住民は化外の民と返答し、責任を回避した。1874年、明治政府は日本で初の海外派兵である台湾出兵を行った。陸軍中将西郷従道を台湾蛮地事務都督に任命し軍事行動の準備に入った。政府内部や米英公使の反対意見もあったが、西郷従道は独断で征討軍を率いて出兵を強行した。台湾南部に上陸して、原住民を制圧した。日本の侵略を恐れ、1875年から台湾最南端に恒春県城、1882年から台北府城の建設を始めた。1885年の清仏戦争の際にフランスが台湾北部を攻略しようとしたことで、清国は台湾防備の重要性を認識し、福建省から分離して福建台湾省を新設した。1887年に基隆と台北の間に鉄道を敷設して近代化政策を採り始めた。1893年公布の戦時大本営条例によって1894年6月5日に大本営は設置され、9月15日に広島に移された。10月5日、大日本帝国憲法第14条の戒厳大権の基づいて日本で最初の戦時戒厳が宣告された。1894年に日清戦争が始まり、24万人以上の常備兵役にあった兵士だけで戦った戦争だった。兵卒死者および廃兵は出征兵士の1割強で、82%は疾病によるもので、戦闘による死者は少なかった。単発小銃という旧式装備の常備軍だけで戦われた世界で最後の戦いだった。清が敗北し1895年に下関条約が締結された。台湾、遼東半島、澎湖諸島が日本に割譲させ、巨額の賠償金を獲得した。フランス、ドイツ、ロシアによる三国干渉で日本遼東半島を中国に返還しので、台湾、澎湖諸島が最初の海外領土となった。

台湾府城大南門址。かつて中国の町は周囲を城壁で囲まれていた。台南にあった14の城門のひとつ。1723年に城壁の建造が始まり、1725年に正門として大南門は特に大きく立派に造られた。4つの門が現存する。

大日本琉球藩民五十四名墓。1871年11月宮古島の島民69名が年貢を納めて那覇からの帰途、台風で南台湾の八瑶湾、牡丹社近くに漂着した 54名が牡丹社のパイワン族に殺害され、12名が漢族系有力者に助けられた。宮古島島民遭難事件と呼ばれている。

億載金城。二鯤鯓砲台 とも呼ばれ、1876年に竣工。牡丹社事件のような侵略を防ぐために清朝が台湾防衛のため台南に造らせた要塞。

億載金城の砲台。清朝末期に抗日戦用の要塞として建てられた台湾初の洋式砲台。

恒春県城南門。台湾南端の恒春にあり、牡丹社事件を受けて南の守備を固めるため、1875年から建設が始められ、1879年に完成。

恒春県城。都市を囲んでいる城壁は約2.6km、幅約6m、高さ約4.4m。東西南北につの城門が建設されている。台湾で唯一軍事目的のためにつくられた防御都市。

台北府城東門1879年から1884年にかけて建設。台湾北部の重要港基隆に通じる門として特に力を入れて建設された。現存しているのは北門、南門、小南門、東門だが、北門以外は第二次世界大戦後に建て替えられて当初の姿を留めていない。2005年撮影。

淡水紅毛城。淡水が開港されてイギリス人は紅毛城を英国領事館として使用した。領事官邸が建てられると紅毛城は各国人士の社交の場となった。元は灰色の建物だったが、イギリス人が赤色に塗った。200年撮影。

淡水英国領事官邸。淡水が条約港として1860年に開港。淡水紅毛城の東側に領事館が1891年に建てられた。赤レンガとアーケードのある2階建ての洋館建築。2003年撮影。

基隆港淡水港の副港として186に開港し、税関が置かれた。2005年撮影。

現在の広島大本営跡。この碑は広島城内にあり「明治二十七八年戦役廣島大本營」と記されている。2014年撮影。

館内のホールでは黄海海戦の模様を短い映画にして上映している。2006年撮影。

春帆楼。1881年頃に中津奥平藩の御殿医藤野玄洋が下関廃寺となった阿弥陀寺の方丈を買い取り医院を開業。彼の没後に医院を改装して、割烹旅館を開業した。1996年撮影。

講和会議場。春帆楼の2階の大広間が会場。日清講和会議場が再現されている。現在は日清講和会議記念館になっている。1996年撮影。

安平小砲台。アヘン戦争の勃発で、清国政府がイギリス軍の台湾に侵攻に対応するために1844年に安平港の海防施設として建設された。

安平小砲台。砲台の主体は護城石堤から成り、花崗岩を積み上げ造られている。清代早期の中国式砲台として保存されている。台湾沿岸防衛を強化するため17の港に要塞が設置された。

石門古戦場碑誌。台湾原住民が琉球島民を殺害したことを理由に、1874年に西郷従道の率いる征討軍は台湾南部に上陸した。日本軍は牡丹社や高士仏社などの原住民と戦闘の末、制圧した。台湾出兵は征台の役、台湾事件や牡丹社事件とも呼ばれている。

蕃社保護旗第53号。清国は牡丹社事件での日本の派兵を「人民を守るための正義の行為」と認めた。中山の崙南社の指導者芭諾仔に「この旗を授けた者は我が帝国の天の力への服従のしるしである。これを汚すな」と書かれ、左下に降伏券が貼られた旗を授けた。53番目の降伏旗。国立台湾博物館に展示2023年撮影

石門古戦場記念碑。西郷従道が建てた石碑で、原名は「西郷都督遺跡記念碑」。1953年に屏東県政府によって「澄清海宇環我河山」と書き換えられた。日本の植民地支配の事実を台湾人の記憶から消し去るためだった。

台北府城北門。台北府城には5つの門のうちのひとつ。1882年に着工1884年に完成した。日本統治下で台北府城の市壁は上下水道を整備するための資材に転用され、門だけが残った。他の4つの門は撤去され、北門だけが往時の姿を留めている。2005年撮影。

旧打狗港台南の安平港が1860年に開港した時に、副港として1864年に開港し、税関が置かれた。2015年撮影。

打狗英国領事館。1858年、清朝とイギリスの間で天津条約が締結され、打狗港が開港された。1865年にマックフェイル商会が建てた赤レンガの社屋をイギリスが借り上げて領事館とした。2015年撮影

淡水港。淡水川の河口港で、1862年に開港し台湾で最初の税関が開設。005年撮影。

旧全台鉄路商務総局跡。台湾巡撫として赴任した劉銘伝は1887年に台北駅を設置し、1891年に基隆と台北間が全通する。1893年には台北と新竹間も開業。日本統治時代には台湾総督府が経営。台北の国立台湾博物館鉄道部の敷地内に清朝時代の機械局の遺構が残されている。2023年撮影。

甲午海戦演示館。威海市の東の劉公島は清国の北洋艦隊の基地あった所。2006年撮影。 

清国の戦艦定遠の内部を再現している。ドイツのフルカン社に発注して建造した。クルップ式30サンチの回転砲と十数㎝超の甲板をもった当時東洋一の戦艦だった。2006年撮影。

旗頂山砲台 。劉公島の153mの高台に建てられた砲台。1890年に建設された。前方に黄海が見える。2006年撮影。

日本全権像。1895年に日清講和会議が開かれ講和条約が結ばれた。春帆楼の入口に日清講和会議の全権である首相伊藤博文と外務大臣陸奥宗光の像が設置されている。清国全権は李鴻章だった。1996年撮影。

3.日清戦争後の日本統治時代の始まり

日本統治の初期段階は1895年から1915年の西来庵事件までの特別統治主義の時代が第1期。台湾では日本領有阻止運動がおこり、1895年に唐景崧を総統とする台湾民主国の建国を宣言したが、日本軍の圧倒的な兵力の前に大陸へ逃亡した。抗日戦争はその後も全島で続けられた。同年に台湾総督府が設置され台湾統治が開始された。樺山資紀が初代総督を務め、清国の行政庁舎の巡撫衙門や布政使司衙門を使用していた。日本の植民地支配の特異性は「台湾総督府官制が、戦地占領地軍政にあたる『軍衙』の組織をそのまま継承したかたちで制定され」(大江志乃夫『徴兵制』岩波新書)た。台湾北部で清国への復帰を目指す抗日軍が蜂起した。第2代総督桂太郎、第3代総督乃木希典の時期を通じて、武力討伐を余儀なくされた。1898年に児玉源太郎が第4代総督に就任。抗日運動に対しては匪徒刑罰令を発布して容易に死刑が行われるようにし、大規模な討伐を開始し武力鎮圧したが、民政政策を充実させる硬軟合わせた政策を実施した。民政長官に抜擢された後藤新平は台湾を植民地として、内地とは別の統治制度を適用する特別統治主義を採用した。台湾経済の資本主義化のために度量衡の統一、中央銀行の設立、貨幣制度の統一が進められた。1908年に後藤新庁舎の建設を提唱し、設計は日本最初のコンペという形で実施された。農業振興政策を採用し、1899年から食塩や樟脳、煙草などの専売制が開始された。日本の台湾占領後、日本陸軍の臨時台湾鉄道隊が1895年に軍用列車の運転を開始した。後藤民政長官は鉄道国有化を進め、台湾総督府鉄道部によって鉄道をはじめとする交通網の整備が行われた。阿里山森林鉄道1914年に全線開通し、阿里山の台湾紅檜などの豊富な森林資源が輸送可能になった。製糖業などの産業育成により近代化を推進した。大規模水利事業による電気水道供給施設、情報施設などを整備、アヘン患者の撲滅、学校教育の普及が行われた。抗日武装運動は一旦平定されたが、1907年の北埔事件が発生し、その後も十数件の抗日武装運動が発生した。1907年に台湾歩兵二個連隊が設置された。イギリス、フランスの植民地常駐兵力は志願兵および植民地原住民傭兵に依存していた。日本の植民地常駐軍隊は植民地の被支配住民を軍隊に編成せず、徴兵による現役兵によった。

旧布政使衙門。1889年に清朝が台北城西門内に建設し、台湾の民政を担った。1895年に下関条約によって日本が接収し、1919年に台湾総督府が完成するまで、台湾総督府庁舎として使用。1931年台北公会堂建設に伴い台北市立植物園に移転。2023年撮影。

旧児玉総督後藤民政長官記念館。1908年、台湾総督児玉源太郎と民政長官後藤新平を記念するために建てられた。1909年に台湾総督府博物館と改称された。現在のギリシャ風列柱が目立つルネッサンス様式の建物は野村一郎の設計で1915年に完成した。現在は国立台湾博物館本館として使われている。2023年撮影。

台湾銀行本店。1897年に「台湾銀行法」を公布し、1899年に営業開始。台湾の貨幣の発行権を持つ特殊銀行であり、最大の商業銀行であった。1937年に台湾銀行本店が竣工。つては中央銀行だったが、その役割は中華民国中央銀行が担っている。2023年撮影。

台北水道。1895年、台湾統治における戦死者154人に対し、疫病による死者が4000人に達した。後藤民政長官は衛生環境を守るため上下水道整備を最優先にすることを要求した。1903年に公館観音山山麓に取水口を設けた。現在は公館浄水場。2023年撮影。

旧台湾総督府専売局台北南門工場樟脳倉庫。日本統治時代に専売事業を行った建築群。899建設の南門工場は、主に樟脳の抽出加工と阿片製造を行っていた。1914年に赤レンガと鉄筋コンクリートの組み合わせで建設され、紅楼と呼ばれ樟脳倉庫として使われた。現在は国立台湾博物館南門。2023年撮影。

旧台北帝国大学医学部付属病院。1897年に木造の台北病院が建設され、1912年に近藤十郎の設計で現在の病院が建設された。1924年に竣工し、台北帝国大学医学部の管轄下に入った。赤レンガ造りのルネッサンス様式の近代洋風建築。現在は台湾大学医学部附属病院となっている。2023年撮影。

旧国語学校第四附属学校増設尋常中等科。189年に創立された台湾最古の公立男子校。日本統治時代には「台北一中」の略称で、台湾で筆頭の中学校。赤レンガが印象的な校舎は日本統治時代の建物が残っている。現在は台北市立建國高級中学。2023年撮影。

旧台湾総督府国語学校第三附属学校。1904年創立の名門女子校。現在の鉄筋コンクリート製の校舎は1932年に建てられた。現在は台北市立第一女子高級中学。2023年撮影。

西門紅楼。1908年に近藤十郎の設計で台湾初の公営の市場として建てられた。八角形のレンガ造りの建物。2023年撮影。

梅屋敷。1900年に設立さた日本式の高級旅館。辛亥革命の指導者孫文が、日本統治時代の1913年と1914年に台湾を訪問した時に宿泊した逸仙公園に移築して、現在は国父史蹟記念館に転用されている。公園の名称は孫文の号、逸仙に由来している。2011年撮影。

台南駅。1900年に打狗と結ぶ台湾総督府鉄道の開業により初代駅舎が設置される。1936年に2代目駅舎として現台南駅が竣工。2階に鉄道ホテルとレストランが営業していた。日本統治時代に製糖業の発展に伴い台湾糖業鉄道関廟線も接続していた。

旧台南公会堂。日本統治時代に当時の台南庁が市民の集会場として、1911年に呉園の一角に建設された。マンサード屋根、イオニア式の柱で構成され、石積みとアーチ窓のバロック様式を模して建てた台湾で初めての公会堂。後に中山堂、社教館などに転用され、修復され現在は呉園文芸館となった。2015年撮影。

鶯料理。日本統治時代の1912年に創業した高級料亭。湯徳章紀念公園の近くに建てられた日本式木造建築で内部は一般公開している。当時の政財界要人や地元の有力者が集まる社交場として栄えた。修復したが、縁側は復元されていない。2015年撮影。

高雄駅。1920年に打狗駅が高雄駅に改称される。1941年に現在地に2代目の新駅舎が完成。旧駅は高雄港駅に改称される。

打狗駅の蒸気機関車。1900年に台湾総督府鉄道の打狗停車場を開設し台南駅と結んだ。1908年に拡張して打狗駅と改称。1941年に新駅ができ打狗駅は高雄港駅に改称。哈瑪星鉄道文化区に1912年製造の蒸気機関車CK58と高雄港駅舎がある。2015年撮影。

阿里山駅。阿里山鉄道は1899年に木材を運ぶ目的で建設された。1914年に阿里山まで結ばれた。1986年に新阿里山駅が完成。現在は阿里山森林鉄道。2015年撮影。

台湾総督官邸89年に着工、1901年に完成したネオ・ルネッサンス様式の建物。その後、シロアリの被害で台湾総督府が修復に当たり、バロック式の姿になった。一般公開されていないので外観しか見ることがでいなかった。現在は台北賓。2023年撮影。

館内の3階に右の児玉源太郎と後藤新平の像が建てられている。展示は台湾の歴史と自然を主題に、台湾の先住民や生物、鉱物など見ごたえがある。分館が3つあり、日本人でも60歳以上は無料で入館できる。2023年撮影。

鈴木商店本社跡地。874年、鈴木岩次郎により神戸弁天浜に洋糖引取商として創業。1899年に台湾樟脳の販売権を獲得。台湾塩業、東亜煙草、東洋精糖など進出し、第一次大戦後に莫大な利益を上げた。台湾銀行は総貸出額の半近く資金を融通した。2023年撮影。

旧ポンプ室建屋。1907年に着工。1908年に取水口とポンプ室が竣工し、給水を開始。バロック様式を取り入れ、正面から左右に広がる柱列はイオニア式の装飾が施されている。現在は自来水博物館。2023年撮影。

旧台湾総督府専売局台北南門工場物品倉庫。紅楼の隣にある石造建物。壁は里岸石の外層と赤レンガの内層が組み合わされていた。灰白色の外観から小白宮と呼ばれ物品倉庫として使われていた。里岸石は取り壊された台北府城の城壁が使用されている。中庭には貯水槽があり、須乃木神社があった。2023年撮影。

台湾総督府専売局。1913年に着工され、1922年にアヘン、食塩、樟脳、煙草、酒、マッチ、度量衡機、石油などの専売局庁舎として完成、専売事業の監督庁舎として機能。現在は台湾菸酒股彬有限公司。2023年撮影。

旧台北郵局。日本統治時代の1898年に木造2階建の局舎が完成した。1913年に火事で焼け落ち、1930年に3階建ての現在の局舎が完成した。戦後、4階が増築された。現在は台北北門郵局。2005年撮影。

三井物産株式会社北門倉庫。1913年に建てられた2階建の赤レンガの倉庫。正面上部に三井のマークが見える。三井物産の倉庫として用いられた。現在は台北紀念倉庫。この広場の一角に1913年開設の鈴木商店台北支店があったようだ。2023年撮影。

撫退街洋楼1910年頃に合資会社高石組社屋として建てられた石木混合建築。アーチ型のアーケード、採光・換気のためのドーマー窓を採用。その後、1940年創業の佐土原商事株式会社が所有した。唯一残存する日本統治時代の洋風の民間店舗。2023年撮影。

台北駅。1891年に台北火車碼頭として開業し、日本統治時代の1896年には帝国陸軍臨時台湾鉄道隊により再開。1901年に2代目駅舎、1941年に3代目駅舎。1989年に現在の4代目駅舎が完成。2011年撮影。

旧北投温泉公共浴場。日本統治時代に温泉地として開拓。1913年に台北庁長井村大吉の発案で2階建てレンガ造り瓦屋根の洋風建築を建設。当時東南アジア最大の公共浴場。現在は北投温泉博物館。2023年撮影。

呉園清朝末期の台南の塩商人呉尚新が1829年に造った中国風庭園。当時台湾四大名園の一つといわれた。2015年撮影。

旧台南測候所。日本統治時代の1898年に台湾総督府が建てた気象観測のための建物。鶯料理の近くにあり、正八角形の建物の中心に風力計の白色の塔が建っている。2011年撮影。

台南運河台湾最古の運河。旧運河の時代には鄭成功軍とオランダ軍の激戦地になっていた。日本統治時代1903年の洪水で運河が決壊して土砂が堆積。新運河の開通計画が立てられた。1922年に旧運河の南側に安平港と結ぶ新運河の建設が始まり、1926年に完成。

旗山廃駅駅舎。高砂製糖株式会社の台湾糖業鉄道旗尾線の駅で1910年に開業した。駅舎は和洋折衷様式で設計されている。

高雄市旗山には軒先にアーチ状の支えを連ねた亭仔脚という独特の建築様式が見られる。

高雄運河。日本統治時代に運河として開拓された。船が出入りできるように川底を掘り下げて高雄市内を流れ高雄港に流入する。 

嘉義駅。1902年に台湾総督府鉄道として開業。1910年に台湾総督府阿里山作業所が設置され、森林資源輸送のために嘉義と阿里山を結ぶ阿里山森林鉄路の建設を開始し、1912年に開業。2007年には嘉義公車捷運としても開業している。2015年撮影。

蒸気集材機。1912年、阿里山林場がアメリカンリンジャーウッド社から購入伐採場所から木材を運ぶための原動機。沼平駅近くに設置されている 2015年撮影。

4.台湾における内地延長主義による同化政策

日本統治の第2期は1915年の西来庵事件から1937年の盧溝橋事件までの時期。1907年の北埔事件以後、小規模な抗日武装運動が繰り返されるが、台湾総督府の元警察官余清芳を中心に台南の西来庵をアジトに抗日武装蜂起が計画された。1915年に計画が発覚しゲリラ戦を展開した西来庵事件で抗日運動は頂点に達した。第一次世界大戦末期にウラジミール・レーニンは「平和に関する布告」で「無賠償・無併合・民族自決」に基づく即時講和を提案し、アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウイルソンはパリ講和会議で「十四か条の平和原則」を発表したが、英仏に配慮して民族自決権をヨーロッパのみに適用するとした。これを受けて、民族自決の意識が高まり、世界の植民地に大きな影響を与えた。このような国際情勢の変化は日本の台湾統治にも変化を与えた。1919年に初の文官出身の台湾総督田健治郎が就任し、台湾を内地の一部として内地法を適用する内地延長主義を採って、同化政策を基本方針に推進した。この年、民政局長後藤新平が提唱した台湾総督府の新庁舎が完成した。新庁舎は60mの中央塔を持つ赤レンガの壁面に白い石を巡らせたスタイルで、辰野金吾が得意とした「辰野式」と呼ばれる新古典主義の建物。初期より農作を奨励していたが、1927年に蓬莱米が誕生し日本への移出が急増した。1922年に新たな同化政策として日台共学制度を唱え、総督府は台北高校や台北帝国大学の設立を始めたが、台湾人学生の数を1割以下に制限するいう不平等が続いた。共婚法、地方自治の拡大、日本語学習の整備など、台湾人への差別を減少させる政策を進めた。原住民に対しては大量の警官による高圧的な統治と教育による同化を進めた。伝統的な文化、習俗は禁止された。台湾中部、霧社のセデック族のリーダーのモーナ・ルダオの長男タダオ・モーナが1930年に日本人巡査殴打事件を起こした。翌年別の部族も加わって駐在所や霧社公学校の運動会を襲撃した。日本軍や警察によって蜂起は制圧された。

旧台湾総督府本庁舎。日清戦争後の下関条約で清国から台湾を割譲され、台湾を統治するために日本の出先官庁として長野宇平治の設計によってビクトリアン・ゴシックを基調に様々な様式を取り入れ、1919年に設置された。60mの中央の塔は天皇の権威を象徴している。現在は中華民国総統府。1998年撮影。

旧台湾総督府鉄道部庁舎。1920年に1階部分は赤レンガ、2階部分は木造でヴィクトリア様式を取り入れられている。2階にはバルコニー、屋根にはドーマーが設置されている。現在は国立台湾博物館北門館。2023年撮影。

旧台湾教育会館。台湾総督府が近代化教育の実施を推進するために、井手薫の設計で1931年に設置。現在は二二八国家紀念館として、二二八事件の犠牲者の名誉回復を目的として運営されている。2023年撮影。

旧台湾総督府高等学校。帝国大学へ進学する学生のために1922年に創立された台北高等学校。現在の鉄筋コンクリート製の校舎は1932年に建てられ、3階部分は後に増築。現在は国立台湾師範大学本部。2023年撮影。

旧台湾総督府台北高等学校講堂。日本統治時代の1929年に建設された。総督府維持局の井手薫が設計した近代ルネサンス様式の建物。現在は国立台湾師範大学講堂。2023年撮影。

旧台湾放送協会台北支局庁舎。日本統治時代の1931年に設立された。1908年に開園した台北新公園の中に建てられた放送局。現在は228紀念館。2011年撮影。

旧台北公会堂。台湾総統府庁舎の跡地に、1936年に井手薫の設計によって鉄筋コンクリート4階建ての建物が建設された。戦時体制が強まる時期だったので単純な設計になっている。現在は台北市中山堂。2023年撮影。

稱庄役場 。日本統治時代の1年に全て赤レンガで建てられた庁舎。1986年まで役場として使われていた。新北市にあり、現在は三峡歴史文物館。2011年撮影。

腊葉館 。日本統治時代に植物学者早田文蔵が台湾植物を研究し、192年に採集した植物を保存するために台湾初の植物標本館が建てられた。腊葉は押し花のこと2017年に腊葉植物園標本館として開館。2023年撮影。

台南州庁舎。日本統治時代の1916年に台南州庁として建設されたレンガと鉄筋コンクリートを組み合わせた2階建ての建物。屋根は銅瓦によるマンサード屋根様式が採用されている。修復して2007年に国立台湾文学館として開館した。2015年撮影。 

霧社事件原住民抗日群像。モナー・ルダオを中心に6つの社の壮丁300人ほどが霧社各地の駐在所を襲った。2001年撮影。

霧社公学校跡。霧社事件の現場。運動会を襲撃し、和装の日本人132人と台湾人2人が惨殺された。現在は万大発電廠第二辨公室になっている。2001年撮影。

旧台湾総督府法院。井手薫の設計で1934年に完成。現在は司法院。2023年撮影。

勧業銀行旧廈。日本勧業銀行は1922年に台湾に進出し、1933年に鉄筋コンクリート3階建ての台北支店が建てられた。戦後は台湾土地銀行へ移管され、現在は国立台湾博物館土銀展示館になっている。2023年撮影。

旧台北庁庁舎。日本統治時代に地方行政の中心として森山松太郎の設計で1915年に竣工。3つの円形ドーム屋根がある美しい建物。円形テラスを抱えた玄関ポーチがある。現在は監察院の建物。2023年撮影。

旧新北投停車場。日本統治時代に開発された北投温泉に負傷兵を輸送し療養するために台湾総督府鉄道が北投から新北投を結ぶ新北投線を1916年に建設した。鉄道開通に伴い新駅として開業。2023年撮影。

旧台北帝国大学2号館。1929年に建てられた。台北帝国大学は7番目の帝国大学として1928年に設立。内地の帝国大学は文部省の管轄だが、台北帝国大学は台湾総督府の管轄。現在は台北国立大学。2023年撮影。

旧台北帝国大学図書館。日本統治時代の折衷的建築様式を取り入れており、1930年竣工。現在は台北国立大学校史館として大学の歴史に関わる博物館になっている。2023年撮影。

旧台北故事館。191年に近藤十郎の設計による英国チューダー様式の建物。1階部分は赤レンガ造、2階部分は木造。茶商の陳朝駿の別荘。現在は圓山別荘。2023年撮影。

柳屋旧台南公会堂の隣に1934年に建てられた木造3階建ての食堂。呉園は現在呉園藝文中心として整備公開されている。現在は「柳屋 十八卯茶屋」になっている。2015年撮影。

旧高雄市庁舎。日本統治時代の1938年に建設。1992年には高雄市役所は高雄市政府と改称された。1998年には高雄市立歴史博物館として使われている。2015年撮影。 

モナー・ルダオ像。記念公園の入口に霧社セデック族マヘボ社リーダーの像が建ている。像の土台部には「抗日英雄 莫那魯道」と書かれている。2001年撮影。

.台湾における同化政策から皇民化運動への展開

日本統治の初期には台湾人の生活や信仰について全面的な日本化は求めていなかった。1937年の日中戦争の勃発すると日本の戦争推進のために台湾人の戦争への動員が必要になった。総督府や地方政府、民間団体が皇民化運動を展開した。皇民化運動は国語運動、改姓名、志願兵制度、宗教・社会風俗改革の4点から成っていた。国語運動は日本語を話す国語家庭を奨励し日本語以外の使用は抑圧禁止された。改姓名は台湾人の姓名を日本式するもので強制ではないが、社会的地位を有利にした。日中戦争が本格化すると、1938年に朝鮮人に対する特別志願兵制度が創設された。台湾に対しては中国と戦争していることを考慮して、台湾の中国人にこの制度を適応することを見送った。兵力不足から1942年に陸軍特別志願兵制度が実施され、1945年には徴兵制が全面実施された。軍属も含めて21万人が戦争に参加し、3万人が死亡した。宗教・社会風俗改革は寺廟は取り壊し、神社に改築し、日本の神道の受け入れと参拝の強要を行った。神社の機能を強化するため「一街庄一社」を原則とした。街庄は台湾の行政区画で各街庄に1社の建立を目指すが半数にも達しなかった。中国風の結婚や葬式は日本風に改めさせた。まさに、台湾人の日本人化であった。戦争の長期化による人的資源の不足を植民地で補うことになった。日本降伏後、蔣介石率いる中華民国国民政府の軍が1945年10月17日に台湾に上陸した。南京国民政府は10月25日に降伏文書交換式を行い、台湾を台湾省として国民政府の領土に編入し、台湾省行政長官公署を設置し統治した。日本の敗戦後、神社は破壊または改築され、多くは中華民国の戦死者を祀る忠烈祠になっている。

元開山神社。1896年に台南県知事磯貝静蔵は台湾総督桂太郎に鄭成功を祀る延平郡王祠を神社にすることを提案した。1897年に開山神社と改名、台湾で最初の神社となった。

三峡清水祖師廟の柱。1900年に台湾神社の建設が着工、翌年竣工。1944年に台湾神宮に改称。1945年に廃され、跡地には圓山大飯店が建つ。台湾神宮の花崗岩でできた鳥居は廟本殿内に残されている。2011年撮影。

旧霧が丘社の神明鳥居。南投懸の霧社にある神社。霧社事件のあった場所。朱塗りの鳥居が残されている。現在は徳龍宮。2001年撮影。

樹霊塔日本統治時代の1936年に阿里山で大量に伐採された樹木の霊を祀るために造られた塔。この周辺に1919年に建てられた阿里山神社があった。2015年撮影。

龍山寺正殿。1945年5月31日台北大空襲が行われた。連合国軍の爆撃機による無差別爆撃が台北市に行われ、台湾総督府やこの寺の正殿廊が爆撃された。2011年撮影。

坑日戦争勝利紀念碑。199年10月25日に台北中山堂前の広場に建てられた。台湾解放54周年に除幕された。2023年撮影。

台湾神社の牛の像台湾神宮にあった2頭の牛の像は台湾神宮が廃された後、台北二二八和平紀念公園にある国立台湾博物館の前に設置された。2023年撮影。

台湾護国神社跡。1942年に台湾神宮の東隣に創建され、靖国神社の祭神にして台湾に縁故のある国事殉難者を祭神とした。1966年に神社を廃し、1969年に国民革命忠烈祠が創建された。2005年撮影。

石灯篭。カラフルに塗られているが、神社であった痕跡を留めている。霧社事件の蜂起軍を鎮圧した日本軍は階段に首を並べたといわれる。徳龍宮は戦後に建てられた。2001年撮影。

旧霧が丘社。階段を上ると社殿のあった場所には徳龍宮が見える。神社は霧社事件後の1932年に建てられた。2001年撮影。

防空壕。国立台湾博物館鉄道部の敷地に、1943年に建設された円錐形のコンクリート作りで、鉄道部の高官が避難するためのもの。地下室があり作戦指揮ができた。2023年撮影。

旧台北公会堂。1945年10月25日、日本と中華民国の間で降伏文書交換式が2階にある光復庁で行われた。最後の日本人総督安藤利吉がサインした。戦後、台北中山堂と改称。台湾省議会や迎賓館として使用。2001年撮影。