国策会社南満州鉄道の変遷

1.陸軍の一部署であった野戦鉄道提理部から始まる

南満州鉄道株式会社の前身は日露戦争中の1904年に設置された野戦鉄道提理部である。軍と逓信省鉄道作業局が協力して編成した陸軍の一部署。占領しロシアより譲与が認められた長春以南の南満州支線の鉄道施設と附属地、日本軍が建設した軽便鉄道の安奉線と附属地を保有していた。満州軍総参謀児玉源太郎大将は煙台から旅順攻略戦の最前線に向かった。児玉が乗った列車は日本軍が管理するもので、ロシアが敷設した東清鉄道の線路であった。当時の線路にはロシアの軌間5フィート(1524㎜)の広軌、ヨーロッパ各国が採用している4フィート8インチ半(1435㎜)の標準軌、日本国内の3フィート6インチ(1067㎜)の狭軌がある。戦時に各国の軍隊が鉄道を利用してロシアへの進攻を防ぐために広軌を採用した。満州でどれを採用するかで議論され、結局御前会議で狭軌に決定した。日本軍は占領した地域の線路を手に入れると、ロシア鉄道の線路を日本国内の規格の狭軌に変更した。日本から大量の車両を持ち込んで作戦輸送に使用するためだ。2006年撮影。

煙台。児玉源太郎が列車に乗った煙台は山東半島の中部に位置し、西は青島市、東は威海市と接し、北は渤海、南は黄海に面している。海を隔てて北に大連がある。

旧イギリス領事館官邸。煙台で最初の領事館として開設。ベランダのある煉瓦・石造りの平屋。清は1858年に天津条約を結び、1861年に煙台は開港。その後、17か国の領事館が設置された。

2.軍政でなく、鉄道企業による満州支配の確立をめざす

台湾総督児玉源太郎は関東軍総参謀長官を兼任していたが、民政長官後藤新平がいたので台湾を任せることができた。台湾支配の経験を生かして、満州経営の方策も後藤が画策し、児玉が立案した。1906年、東京で元老や主要大臣、陸海軍の長老など日本の最高首脳を集めた「満州問題に関する協議会」が開かれ、軍政廃止を基本方針として鉄道企業による支配の確立が確認された。日露戦争後、ポーツマス条約で譲渡された東清鉄道南満州支線と附属地を経営する目的で半官半民の鉄道会社として南満州鉄道株式会社が設立されたが、実態は満州支配のための国策会社だった。児玉は満鉄総裁就任を薦められるが辞退し、翌日脳溢血で急逝する。後藤が総裁就任を受諾した。1907年に野戦鉄道提理部から鉄道・炭鉱その他の施設を移管された。朝鮮、中国東北、中国の一貫輸送の体系を整えるため、朝鮮、中国と同じ標準軌に改築、1911年に完成した。狭軌用車両は日本国内に送り返され、アメリカ製の大型機関車が走り始めた。現在の日本の鉄道はJR在来線や多くの私鉄は狭軌、京王電鉄や都電荒川線などは標準軌、阪急電鉄や京急電鉄などは広軌を採用している。

後藤新平旧宅。157年、仙台藩水沢城下に生まれる。岩倉使節団にも参加。児玉源太郎の抜擢で台湾総督府の民政局長になる。南満州鉄道初代総裁となり、大連を拠点に満州経営を実施。1997年撮影。

瀋陽近郊の線路。朝鮮、中国の軌道に合わせるため日本の3フィート6インチの狭軌から4フィート8インチ半の標準軌への改築。枕木の交換が必要な個所が多く、簡単な工事ではなかった。1984年撮影。

.満州経営の一大拠点「満鉄コンツェルン」

満鉄の事業は鉄道業とそれに付随するホテルや倉庫の経営、鉄道附属地の経営、炭鉱と製鉄所、理・工・農学の研究開発、経済政策の立案、高等教育など多様な事業を行い「満鉄コンツェルン」と呼ばれた。大和ホテルは満鉄経営のホテルの総称で、大連大和ホテルは満州一の格式を誇った。鉄道附属地は満鉄の駅周辺の市街地を含む広大な用地が新たな居留地となった。鉄道附属地では学校、病院、公園、職安、消防、宿泊施設などの運営が行われた。満鉄の線路には守備隊が配置された。1907年、日本政府は大連港の建設と経営を満鉄に託した。満鉄の起点・終点として大連港と結びつけようと考えた。大連埠頭は港湾設備約1万3000haという大規模なもので、その後も増築され、12棟だった倉庫も増設される。1万人収容できる労働者宿泊所も作られた。輸出貨物は大豆と石炭が中心。満鉄は大連を起点に首都新京に向かう列車は下りになる。本来は上りだが満鉄は日本の鉄道なのだ。1908年、中村是公が第2代総裁に就任し、友人の夏目漱石を満州に招いた。漱石を通じて満鉄を宣伝するという目的があった。漱石は1909年に神戸から大連に向かう。2005年撮影。

旧大連大和ホテルの玄関ホール。伝統を感じさせるエントランス。高い天井に美しいシャンデリアが優雅な雰囲気を醸し出す。

北九州市旧大阪商船。1884年に設立された海運会社大阪商船の門司支店。1917年に竣工した社屋は八角形の塔が特徴。当時の門司港は大陸航路の一大拠点で日清戦争後に朝鮮や台湾、その後大連や中国大陸への航路の拠点となった。現在は北九州市の所有。1996年撮影。

旧奉天駅。満鉄は奉天600haという満鉄最大の広大な鉄道附属地を設置し、満州支配を有利に進めた。1984年撮影。

旧満鉄大連埠頭事務所。埠頭待合所の前に建つ煉瓦造り7階建ての建物。竣工時には大連一の高さを誇った。

大連友好記念館。1906年、大阪商船は大阪から神戸・門司を経て大連に行く航路を開設した。北九州市は1979年に大連市と友好都市を締結し、友好都市締結15周年を記念し、ロシア帝国が1902年に大連市に建築した東清鉄道汽船事務所を複製してもの。 1996年撮影。

東清鉄道の職員住宅。東清鉄道の拠点駅である哈爾浜駅の周囲の地域を鉄道附属地として市街地建設を行った。

4.撫順炭鉱は我帝国の一大宝庫なりとす

撫順炭鉱は東清鉄道を建設した帝政ロシアの鉄道附属地として管理された。1907年に撫順炭鉱は南満州鉄道の鉄道附属地となり、採掘権を手に入れた。1912年に撫順炭鉱に920万円を投じて、満州軍総司令官大山巌と連合艦隊司令長官東郷平八郎の名に由来する大山坑と東郷抗を開坑した。撫順炭鉱は「一日一万頓、一箇年三百万頓を採掘するも尚三百年の命脈を保有し得べき東洋第一の大炭坑なり」「実に我帝国の一大宝庫なりとす」(『南満州鉄道株式会社十年史』同社編)と述べている。撫順炭販売は用途によって、①満鉄の傘下企業に廉価で販売する社用炭、②満州の各産業に石炭を供給するため地売炭、③満州の各港に出入りする船舶の燃料に使用する船焚料炭、④最後に残された石炭が日本内地や日本の植民地、中国などに販売する輸出炭となった。撫順の鉄道附属地の人口は10万人で、満鉄附属地では最大になった。1918年には満鉄傘下の企業として鞍山製鉄所が設立され、翌年操業を開始するが、第一次世界大戦の終了で鉄鋼需要の大幅に減少し、経営は難航した。満鉄の役職名は1917年に総裁から理事長、1919年には社長制に変更され、野村龍太郎を社長に、政友会系官僚中西清一が副社長に就任した。撫順炭鉱と地続きの小規模な塔連炭鉱や内田汽船を満鉄に法外な値段で買い取らせ、政友会代議士たちの政治資金にしようとした。野党憲政会はこの問題を帝国議会で追及したが、問責決議は否決された。中西副社長は背任罪で告訴され、野村、中西は満鉄を辞職した。東京控訴院は証拠不十分で無罪としたが、満鉄が政治家に食いものにされていることが認識された。写真は2005年撮影。

瀋陽からバスで約1時間で撫順バスターミナルに到着。ここからバスで撫順炭鉱を見るために西露天礦参観台へ行く。

東西6.6㎞、南北2㎞、深さ300mの巨大な西露天は蟻地獄の巣か、段々畑のようだ。石炭を運ぶ列車の線路が見える。

.関東軍が満鉄を作戦列車に、そして満鉄の解体・消滅

張作霖爆殺事件後、石原莞爾は関東軍参謀に着任し、関東軍の調査機能が手薄なので満鉄調査課に協力を求めた。柳条湖事件を契機に、関東軍は満鉄に作戦鉄道としてロシアの鉄道を走れる軌間変更可能な機関車と武装し戦闘能力のある装甲列車を走らせることを求めた。1932年、関東軍司令官が在満全権大使と関東庁長官を兼任、権限は飛躍的に拡大し、満鉄を支配下の置いた。関東軍の作戦範囲の拡大とともに満鉄は装甲列車を走らせ、作戦列車の機能を発揮した。1933年、ソ連は経営困難になった北満越道の譲り渡しを満州国に提起してきた。1935年、北満鉄道全線が接収された。関東軍には独占資本に反対する意見や満鉄の独占的支配が軍の障害になるという意見があった。1937年、鮎川義介率いる日本産業を満州に誘致して対抗を図った。本社を新京に移して満州重工業開発と社名を変更。傘下に石炭、鉄鋼、自動車、航空機、水力発電を収める「満業」が誕生した。この頃、関東軍参謀長東条英、満州国総務長官星野直、満鉄総裁松岡洋満州重工業開発鮎川義、満州国産業部次長岸信「二き三すけ」と呼ばれ、満州の実力者を示すものとして宣伝された。岸と松岡、鮎川は親戚関係にある。太平洋戦争が始まると、関東軍も中核部隊を太平洋戦線に転用、敗戦が濃厚になると満州国の大部分は戦略的に放棄され、満鉄は軍隊の撤退と民間人の引き上げ輸送が最後の仕事となる。第二次世界大戦の終結で満鉄は解体・消滅。満州に取り残された日本人は約105万人。送還は1946年に錦州地域区から始まり、新京を含めて本格化する。

偽満州国務院。以前は白求恩医科大学、現在は吉林大学の校舎として使用。白求恩は写真のカナダ共産党員で医師のノーマン・ベチューンのこと。国務院は皇帝溥儀の直属の組織。大臣は現地中国人だが単なる飾りものだった。実際は関東軍から送り込まれた日本人が要職を押さえた。岸信介は東京帝国大学卒業後、農商務省に入省。商工大臣に民政党小川郷太郎が就任すると、岸は退職。1936年、岸は満州国実業部総務司長に転出。写真は2005年撮影。

海外引揚げ上陸跡地。1945年8月15日、太平洋戦争が終結し、海外の日本人を帰国させるため、引揚港として博多、舞鶴などとともに山口県長門市の仙崎が選ばれた。引揚船には康安丸などが使用された。写真は1998年撮影。

偽満州興農部址。岸が転出した満州国実業部は興農部の前身で国務院の下部機関

国務院の中の様子。建物は頑丈だが薄暗く歴史を感じる。エレベーターや菊の紋、電話、冷蔵庫が見える。1937年、岸は大臣の次席の産業部次長、総務庁次長に昇格。総務長官星野直樹は国務院総理の次席で事実上の実権を握った。岸はその補佐役。関東軍の中にも岸待望論があった。

仙崎港。1945年9月2日に第一次の引揚者7000人が上陸。仙崎地区の寺や学校、救護所、臨時のバラック住宅なども建てたが、民家にも宿泊した。1946年末、約41万人が上陸し仙崎は引揚港の役割を終えた。約34万人が朝鮮に帰った。