日本の軍国主義化と南進論

私が最初に韓国に行ったのは1994年だった。ソウルを中心に天安から昔の百済の公州、扶余、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に戦った李舜臣の亀甲船がある南部の麗水を巡った。1998年に再度ソウルの王宮から西大門刑務所を訪問。2002年に江華島や水原、提岩里。2003年に南部の釜山から朝鮮出兵の関連で晋州、統営を巡る。2004年にソウルから甲午農民戦争の発祥の地全州へ。2007年に済州島。2013年に釜山から慶州を巡った。1994年に行った時には旧朝鮮総督府があったのが、1998年にはなくなっていた。日本統治時代の建物は取り壊されているのかと思っていたら意外にの多く残されていた。

1.フランス、アメリカの開国要求から江華島事件へ

19世紀半ばに、ヨーロッパ列強はアジアへの進出を強め、朝鮮に迫った。李氏朝鮮の大院君は鎖国と攘夷策を取った。1866年からカトリックへの弾圧が強化され、フランス人神父が殺害された。フランス政府はフランス軍極東艦隊を派遣し、江華島を占領し首都漢城へ進軍した。フランス軍は途中で戦闘に敗れ撤退した。2ヵ月前には通商を求めたアメリカの商船ジェネラル・シャーマン号が地元の軍と衝突し、商船は沈没させられた。アメリカは通商と損害賠償を求め、1871年に軍艦5隻を率いて交渉に赴いたが、拒絶されると江華島を占領し通商を迫った。大院君に強硬に開国を拒絶されると1ヵ月で交渉を諦めて撤退した。1866年に第26代王高宗が15歳の時に王妃に選ばれた閔妃は王宮に入った。世継ぎ問題などで王の実父大院君と権力争いをしていた閔妃は、1873年に成人した高宗が親政を宣言すると、宮中クーデタで大院君は追放された。1868年に成立した明治政府は李氏朝鮮政府に新政権樹立の通告と近代的な国際関係の樹立を求める国書を送った。1875年に江華島周辺に停泊していた日本の軍艦雲揚号に向けた芝草鎮から砲撃が行われて、戦闘となる江華島事件が起こった。翌年日朝修好条規が締結され、日本側に謝罪した。閔氏政権は大院君の攘夷政策から開国政策に切り替えて、1882年にアメリカ、中国、1883年にイギリス、ドイツ、1884年にロシア、イタリア。1886年にフランスと通商条約を結んだ。開国・近代化を進める開化派と鎖国・攘夷を求める攘夷派が対立した。写真は200年に撮影。

ベトナム国立歴史博物館

タンロン城跡

ハノイ歌劇場

キャンティ宮殿

ホアロー刑務所

ベトナム国立歴史博物館。

大統領府

政治局会議室

第54号房屋

ハノイ大聖堂

ホアロー刑務所

2.李氏朝鮮末期の開化派と攘夷派の対立と日清戦争

開国して近代化を進める閔氏政権は日本から顧問を呼び新式軍隊の編成を試みていたが、従来の旧式軍隊への給与不払いや差別待遇などが行われていた。1882年に不満を持った旧式軍隊は、大院君や攘夷派の煽動もあって、閔妃暗殺を狙い、壬午軍乱でクーデタを行ったが失敗した。この軍乱で新式軍隊の教育を支援していた日本も標的とされ日本公使館が焼き討ちにされた。閔妃は清の袁世凱に頼みこれらの軍を排除、大院君は清に連行され幽閉された。軍乱後には済物浦条約が締結され、日本軍の朝鮮駐留が認められた。清によって復権した閔氏政権は、親清政策へ大きく転換した。清と結ぶ保守的な事大党が権力を握り、日本と結んで朝鮮の清からの自主独立と近代化をめざした独立党は孤立した。1884年、独立党は甲申事変と呼ばれるクーデターを起こし、閔氏を排した新政府を樹立するが、袁世凱率いる清軍の介入により失敗し、日本公使館は焼き払われ、金玉均らは日本に亡命した。日本陸軍、海軍は清国を仮想敵国として軍拡計画を急ぎ始めた。陸軍は軍制をフランス式からドイツ式変えた。陸軍の外征軍隊化を推進する山縣有朋と専守防衛を主張する谷干城や三浦五楼らの反主流派の将軍が対立した。反対派を排除して、山県派が支配する軍事機構となった。1889年に徴兵令の大改正が行われた。兵役免除を大幅に制限し、はじめて必任義務として徴兵制を確立した。1893年、第五議会では条約改正問題をめぐって、対外硬派と対立していた藩閥政府は政権を固守するために超対外硬政略として日清戦争外交を強行した。1894年に甲午農民戦争が勃発すると朝鮮政府は急いで東学党と和睦し日清両軍の撤兵を求めたが、両軍は受け入れず対峙を続けた。1894年に日本政府は衆議院を解散し、朝鮮派兵を閣議決定した。7月25日に豊島沖海戦で清国艦隊を攻撃、28日に成歓の戦いで清国兵を攻撃し、ソウル周辺を勢力下に置いた。8月1日に宣戦布告し、日本陸軍は朝鮮半島を北上進撃を開始した。9月1日の総選挙まで議会が閉じていることを好機として戦争遂行に必要な諸措置を講じた。9月には朝鮮半島を制圧した。「日清開戦は、藩閥政府の議会・反対党にたいするたたかいの切り札とされ、国家の戦争というよりは、大臣たちの議会にたいするたたかいとして開始された」(大江志乃夫『戒厳令』岩波新書)のだ。1894年10月5日に戦時戒厳が宣告され、広島市と宇品を臨戦地境と定め疑似戦地とした。そこに「天皇親征」することで大臣たちの戦争を天皇の戦争に転化させた。日本軍が勝利すると、「清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国である」とする下関条約が日清間で締結され、朝鮮と清朝の冊封関係は終わり独立国となった。以下は1998年撮影。

サイゴン大教会

統一会堂

ホーチミン市博物館

ベンタイ市場

ホーチミン市美術館

サイゴン中央郵便局

コンチネンタルホテル

ホーチミン市歴史博物館

ホーチミン市美術館

市民劇場

3.日露戦争の展開と大韓帝国の植民地化

日清戦争後、閔妃はロシアに近づき、親露政策を取る事になる。1895年に閔妃が惨殺される乙未事変が起こった。妃を暗殺された高宗は1896年、ロシア公使館に逃げた露館潘遷が行われた。翌年慶運宮に戻った高宗は独立したことを表明するため、1897年に国号を朝鮮から大韓に改めた。ロシアの庇護を求めた高宗は親露政権を成立させ、日本とロシアとの勢力争いを朝鮮に持ち込む結果となった。 1896年に甲申事変に参加した徐載弼が李完用とともに独立協会を創設し、朝鮮における立憲君主制を目指した。1897年には独立協会は韓国の独立を祝して独立門を建設した。ロシアは1898年に清国と旅順港、大連港の租借に関する条約を結び、不凍港を手に入れた。ロシアは韓国に対する関心を失い、全ての軍事・民事アドバイザーを韓国から撤退させた。西・ローゼン協定が結ばれ、ロシアが満州、日本が韓国を勢力圏にする満韓交換論の基礎となった。1899年に大韓帝国は韓清通商条約を結び、独立協会を弾圧し、光武改革を推進し近代化を目指し、殖産興業政策を実施した。改革は財源不足や外国からの圧力で挫折した。山東省で発生した義和団は急速に膨張し、外国人や中国人キリスト教徒を襲った。1900年に20万の義和団が北京に入城した。この乱に乗じてロシアは満州を軍事占領した。シベリア鉄道の全線開通が迫る1902年にロシアの南下政策で侵略を防ぎ、朝鮮半島を守ろうとする日本と自国の権益との衝突に危機感を募らせるイギリスは孤立主義を捨てて日英同盟を結んだ。1904年2月8日日本海軍は奇襲による旅順口攻撃をを行い、2月10日ロシア政府へ宣戦布告を行った。宣戦布告前に攻撃したことにロシア政府は抗議した。2月11日大本営を設置し、2月14日2回目の軍事戒厳が宣告された。開戦とともに日本軍の補給線確保のため、2月23日に日韓議定書を結んだ。日露戦争は機関銃や速射砲の出現で戦争の様相は一変した。日露戦争は大兵力が激突する巨大な消耗戦となった世界最初の戦争だった。旅順攻防戦に勝利し、1905年に日露戦争の最後の大規模な奉天会戦でも決着がつかず、日本海海戦で日本が勝利した。日本の死者は6万8798人で、戦闘による死者は70%に達し、日清戦争の20倍になる。ロシアでは革命が起こり戦争の継続が困難となり、日本も国力の消耗が激しく、アメリカ合衆国の斡旋で講和交渉が行われ、ポーツマス条約が締結された。長年戦費による増税に苦しんでいた国民は賠償金と沿海州が取れなかった講和条約に不満と非難の世論が高まり、9月5日にポーツマス条約に反対する国民大会が日比谷公園で開かれ数万人による暴動、日比谷焼打事件が起こった。東京市内の交番、警察署が焼き討ちにあった。翌日緊急勅令で初めての行政戒厳が宣告され、軍隊と警察による民衆抑圧が行われた。「『天皇の軍隊』は、日露戦争を画期として、帝国主義外征軍としての機能と国内民衆を直接に軍事的に制圧する軍事力として機能を」(大江志乃夫『前掲書』)持った。この後、民衆抑圧のために軍隊出動は日常化し、労働争議に軍隊が介入するようになる。

景福宮。李氏朝鮮の開祖李成桂が1392年に即位し、1394年に現在のソウルである漢陽に遷都した。翌年、李氏朝鮮の正宮として使用された。1994年年撮影。 

明成皇后遭難之地。ここには離宮である乾清宮建っていた。景福宮の一番奥にあり、乙未事変の事件現場となった。1873年に建てられたが、日本統治時代の1909年に解体され、2007年に再建された。

明成皇后殉國崇慕碑。閔妃の死後、対立していた大院君は王后の称号を剥奪し、平民に降格した。1897年、明成皇后の諡号が送られた。

旧ロシア公使館塔。乙未事変の後、ロシアは漢城に水兵100名を上陸させ、日本と諸外国の緊張は高まった。危機感を感じた高宗と世子はロシア公使館に亡命。2004年撮影。

独立館。朝鮮時代、中国の使臣のために迎接宴と伝送宴を行った慕華館として使用されていた。1894年の官制改革である「甲午更張」の後は使用されなかったが、1897年には独立協会が中心となって建物を改修し、独立協会の事務室兼集会所として使用したが、日本により強制撤去された。独立門公園内に木造で復元され、殉国烈士たちの位牌を安置すると同時に展示室として使用している。1998年撮影。

円明園。1702年に清朝第4代皇帝康熙帝が下賜した庭園が起源。1856年のアロー戦争で英仏連合軍に略奪され、1900年の義和団の乱、1966年の文化大革命で荒廃し、そのまま放置された。2004年撮影。

無鄰菴。1903年京都にある山縣有朋の別荘無鄰菴で対露主線派の小村寿太郎、桂太郎と、戦争回避派の伊藤博文による論争が行われ無鄰菴会議と呼ばれた。桂は後にこの会談で開戦の覚悟が決まったと書いている。左の白い建物で会議が行われた。2022年撮影。

203高地。海抜203mにあることからこの名が付けられた。203高地の薬莢で造られた慰霊塔が建つ。塔は雨で霞んでいる。日露戦争でロシア海軍の基地があった旅順港を攻撃するための重要な地点で、周囲には多くのロシア軍の要塞もあり、激しい攻防戦が繰り返された。2002年撮影。

五陵の石造慰霊碑。墓地の中央には、当時のロシア政府が建設した碑がある。下部には兵士それぞれの自国語であるロシア語・アラビア語・ドイツ語・ポーランド語・ヘブライ語で「魂よ安らかなれ」を意味する言葉が、上部にはロシア語で「死せるロシアの戦士たちへ旅順港の戦友より 1905年」と記されている。2024年撮影。

日比谷公園。憲政本党河野広中を座長として対外硬9団体が集会を開き、警視庁が禁止命令を出し、警察官が公園入口を封鎖したが、怒った民衆は公園に乱入した。2023年撮影。

明成皇后遭難之地の建物。乙未事変の様子を描いた絵画が展示されている。乾清宮の再建によって取り壊された。

乙未事変の様子を描いた絵画。事件は1895年、日本公使三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入して乾清宮玉壺楼で閔妃を殺害した。

香遠亭。王や王族が休憩をとった場所。景福宮後苑に建つ建築物。閔妃を斬り殺して、遺体を焼いて遺灰を香遠池に捨てたと言われている。

奨忠檀碑。明成皇后が殺害された乙未事変の直後、日本人を撃退しようとして死んだ多くの将兵のための祭祀を行った碑である。

独立門。1896年に李氏朝鮮が清国への服属の象徴であった清国使臣を迎える迎恩門を日清戦争後の下関条約で清からの独立が認められたことで壊した。跡地に独立協会が建設。パリの凱旋門を模して造った。2004年撮影。

大連港。ロシアは三国干渉によって、1898年に清国と旅順港、大連港の租借して不凍港を手に入れた。日露戦争後のポーツマス条約により日本がこの両港の租借権を手に入れ、満州への侵略を強めた。2002年撮影。

シベリア鉄道。ナホトカ支線のチホオケアンスカヤ駅からハバロフスクへ向かうロシア号。東の終点ウラジオストクからハバロフスクまでのシベリア鉄道ウスリー線は1897年に完成し、その支線として1935年に開業。1981年撮影。

日露戦争大阪天下茶屋俘虜収容所跡地。1905年、南海天下茶屋停車場にあった大阪陸軍予備病院天下茶屋分院を大阪天下茶屋俘虜収容所として6062人を収容。ハーグ条約を順守し、俘虜を手厚く取り扱っていた。2023年撮影。

浜寺俘虜収容所跡。日露戦争で多くの俘虜が日本に連行された。1904年には3万人が浜寺海岸の仮設テントに収容され、翌年第4師団により高石に収容所が設置された。当時高石村に約28000人のロシア人俘虜が収容されていたが、1906年2月までに全員ロシアに送還された。2024年撮影。

ロシア兵墓地。大阪府泉大津市の春日墓地の一角にロシア兵墓地がある。浜寺俘虜収容所で89名が死亡し、彼らの冥福を祈るため、隣接する泉大津の住民が墓地のうち600㎡を提供し、ロシア兵の墓地が造られた。2024年撮影。

ロシア兵の墓石。墓石は89墓あり、兵士の宗教を表す紋・所属部隊名と、その下に自国語と片仮名で名前が刻まれている。2024年撮影。

4.韓国併合への道と武断統治の展開

1904年の第一次日韓協約では韓国政府は日本政府が推薦した財政・外交顧問を任命しなければならなくなった。1905年の第二次日韓協約では韓国の外交権は奪われ、事実上日本の保護国となった。1906年統監府が設けられ、伊藤博文が初代統監となった。1907年高宗は第2回万国平和会議に密使を派遣して協約の無効を主張したが、国際的に協約は有効として拒絶された。密使派遣の責任を問われ、高宗は退位し純宗に譲位し、同年7月24日に第三次日韓協約が締結され、内政権を日本の管轄下に置き、非公式に韓国軍を解散させ日本軍駐留を定めた。日本の国家資本を投入して1908年に設立され東洋拓殖株式会社は国家権力を背景に朝鮮の国有地をなどを大量に略奪し、日本人の所有にした。翌年統監伊藤博文が哈爾浜駅で安重根に暗殺された。使用された拳銃の弾道の角度などから安重根の犯人説には疑問が持たれている。1910年に韓国併合が行われ、日本の領土となった朝鮮を統治するため、同年に朝鮮総督府が設置された。寺内正毅が初代総督となった。庁舎は統監府庁舎を引き続き使用したが、1926年に景福宮敷地内に移転した。1912年土地調査令が公布され、土地調査事業が朝鮮全土に実施された。土地所有権の認定は朝鮮農民の自己申告制によるもので、近代法の知識のない農民は申告できなかったので無主地とした取り上げられた。近代教育制度や近代工業を導入し、朝鮮半島の開発を進めた。1905年に統監府が設置した警察を起源に、1910年に朝鮮総督府警察が設置された。陸軍の憲兵が警察を兼ねる憲兵警察制度を採用し、言論・結社の自由を制限する武断統治を実施した。日露戦争後、陸軍はロシアを、海軍はアメリカを仮想敵国として軍備拡張を始めた。1907年に陸軍は韓国植民地化にともない韓国常駐二個師団増設を要求した。戦後の財政難の中で第二次西園寺内閣は受け入れず、閥族や軍部の横暴から二個師団増設問題は政治問題化し、憲政擁護運動に発展した。

伊藤博文像。山口県萩市にある伊藤博文の旧宅に建てられた銅像。初代統監となる。1996年撮影。

一醒李儁烈士之像。1907年のオランダのハーグで第2回万国平和会議が開かれることを知った高宗は日本支配下の韓国の窮状と第二次日韓協約の無効を訴えるため李儁ら3名を派遣した。韓国は外交権を失っているという理由で受け入れられなかった。ハーグ密使事件と呼ばれる。2004年撮影。

館内の様子。安重根の遺品や伊藤博文暗殺についての資料、当時の新聞など関連資料が展示されている。銃弾の角度などから彼は犯人ではないという説もある。大韓民国建国後は韓国の民族主義の象徴的存在と位置づけられた。1994年撮影。

旧韓国銀行本店。第一銀行ソウル支店として発注され、辰野金吾の設計で1912年に竣工。韓国銀行令で第一銀行から朝鮮の中央銀行業務が分割され韓国銀行本店となる。併合後は朝鮮銀行と改称。建物の四隅にドームとフィニアルを持つ塔を配置。現在は韓国銀行貨幣博物館。1998年撮影。 

旧朝鮮総督府庁舎。統監府で1910年に韓国併合条約が結ばれ、1926年に設置された。鉄筋コンクリート4階建。寺内正毅が初代総督となった。1986年から改装して国立中央博物館として使用された。1994年撮影。

旧統監府。1905年の第二次日韓協約の締結により設置された。韓国は外交権を失い、日本の保護国となった。翌年、南山の北側に統監官邸が置かれていた。1994年撮影。

旧東洋拓殖株式会社釜山支店。東洋拓殖は南満州鉄道株式会社と並ぶ二大国策会社。1908年に東洋拓殖株式会社法が制定され、1929年に釜山支店の社屋が建てられた。現在は釜山近代歴史館となっている。2003年撮影。

安重根義士像。像は南山公園に建っている。1909年、伊藤博文を哈爾浜駅構内で暗殺。ロシア官憲に逮捕され関東都督府に引き渡され、旅順監獄に投獄された。翌年処刑された。旅順共同墓地に埋葬。1994年撮影。

安重根義士記念館。銅像の近くに独立運動家安重根を追悼する記念館がある。12の展示室、講堂、資料室、休憩室がある。1970年に設立、没後100年にあたる2010年に新たな施設と再オープンした。1994年撮影。

光化門。朝鮮総督府の建物は旧植民地の遺構として撤去すべきという意見と歴史を忘れないために保存を求める意見があったが、撤去の意見が強く、1995年に解体が始まり、翌年朝鮮総督府は撤去されていた。1998年撮影。

5.第一次世界大戦の展開と米騒動の影響

1914年に第一次世界大戦が勃発した。1915年青島攻略後、中華民国袁世凱政権に14カ条の要求と7カ条の希望条項を提示した。中国国内では反対運動が起こったが袁政権は要求を受け入れた。同年末に朝鮮常設の二個師団が増設された。1917年ロシア10月革命後、ドイツと単独講和しロシアは戦争から離脱した。同年ドイツの無制限潜水艦作戦に対して、日本に要請があり海軍は第一特務艦隊をインド洋に、第二特務艦隊を地中海に派遣し、植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団の護衛を受け持った。しかし、日本はこの大戦で主戦場に陸軍を送らなかった唯一の大国だった。1918年頃から日本への米の輸入量が減少し米価が上昇し始め、地主や米取引業者の買い占めや売り惜しみが始まった。同年ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、ドイツ帝国は滅亡し、ヴァイマール共和国が成立した。パリ講和会議が開かれ、1919年にヴェルサイユ条約が締結され戦争は終結した。1919年寺内正毅内閣はアメリカと共同歩調をとって、ロシア革命に対する干渉戦争であるシベリア出兵を実施した。戦争特需を見越した投機や売り惜しみが加速した。米価暴騰は一般市民を苦しめ、富山県の魚津港で米の積み出しに反対する米騒動が起こり、全国に波及した。8月12日京都に治安出動した軍隊が初めて実力行使をし、国民を殺傷した。「軍隊は資本家の走狗になり下が」(大江志乃夫『前掲書』)った。朝鮮総督府は食糧問題解決のために産米増殖計画を推進した。朝鮮農民から厳しい土地収奪政策を行い、土地を奪われた多くの朝鮮農民は生計の道を日本に求めた。第一次世界大戦で欧米商品はアジア市場から撤退し、日本資本主義に空前の好況をもたらした。生産力の飛躍的増大により日本国内の労働力は極度に不足した。

サラエボ事件現場。「1914年6月28日、この場所からカヴリロ・プリンツィプがオーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナンドと彼の妻ゾフィーを暗殺した」と暗殺現場になったサラエボ博物館の壁に記されている。2017年撮影 

青島山砲台跡。1891年清軍がこの山に砦を築いた。その後、青島に侵入したドイツ軍が1899年に軍事要塞を建設し、砲台は1905年に建造された2010年撮影。 

マルセイユ港。日本は第一次世界大戦で第二特務艇を地中海に派遣し、アレクサンドリアからマルセイユへ兵員を輸送する護衛任務を行った。連合国軍の兵士70万人を輸送した。2022年年撮影。

旧坂東俘虜収容所跡。徳島県鳴門市に1917年に建てられた俘虜収容所。第一次世界大戦でドイツの租借地であった青島で日本軍やイギリス軍の捕虜となったドイツ帝国軍将兵を収容。捕虜は国際法を遵守しきわめて丁重に扱われた。2000年撮影。 

独逸兵俘虜の墓碑。真田山陸軍墓地の北東角に第一次大戦時の独逸兵捕虜の2名の墓碑がある。2023年年撮影。

旧十二銀行米倉。1918年、米騒動は魚津で米の積み出し阻止が発端となった。米商人が買い付けた米は銀行管理の倉庫に預けられ、そこから汽船に積み込んで出荷した。この米倉は魚津の米騒動発祥の地である。2010年撮影。 

ラテン橋。フランツ・フェルディナンド皇太子とその妻ゾフィーが乗るオープンカーの運転手が道を間違えラテン橋のそばを右折した。停止した車のそばに、偶然カヴリロ・プリンツィプが車に近づき、至近距離からピストルを撃ち、致命傷を与えた。2017年撮影。 

青島要塞地下指揮部跡。青島に侵入したドイツ軍は、この山をビスマルク山と呼び、要塞地下司令部を建設した。2010年撮影。 

ヴェルサイユ宮殿鏡の間。1919年パリ講和会議でヴェルサイユ条約が締結された場所。ドイツとの講和のみが処理された。2003年年撮影。

ドイツ橋。石造りのアーチ橋で「第1次世界大戦の際、中国の青島で捕虜となったドイツ兵953人が、大正6年から9年までの間、大麻町桧の反動捕虜収容所に収容だれていました。この間に“国境を越えた人間愛と友情”がめばえ、高い高い水準のドイツ文化が伝えられました。バターやチーズの製法や博覧会の開催、楽団による演奏会等地元住民の発展に大きく貢献しました。帰国を前に記念として母国の土木技術を生かし近くで採れる和泉砂岩を使ってドイツ橋が造られました」と案内板に記されている。2000年撮影。 

旧ハバロフスクⅠ駅。1918年日本軍はシベリア出兵で、ウラジオストクに上陸して、ハバロフスクや東シベリア一帯を占領した。この駅はハバロフスクの中心にあり、1897年に開業し、写真の駅舎は1966年に竣工。現在の駅舎は修復して2007年に竣工した。1981年撮影。 

魚津の米騒動。1998年に米騒動80周年を記念して、魚津市の自然と文化財を守る会によって建立された。左に米騒動のモニュメント、右後ろに魚津の米騒動八十周年を記念の標柱が建っている。2010年撮影。 

6.3・1独立運動以後の朝鮮における文化統治の展開

第一次世界大戦後、民族主義の高揚による西洋諸国の植民地支配が揺らぎ始めた。レーニンの「平和に関する布告」やアメリカ合衆国大統領ウイルソンの「十四か条の平和原則」は世界の植民地に大きな影響を与えた。朝鮮でも民族自決の意識が高まり李光洙ら朝鮮人留学生は東京市のYMCA会館に結集し、2・8独立宣言を採択した。この独立宣言は朝鮮に運ばれ、1919年3月3日に予定されている大韓帝国初代皇帝高宗の葬儀に合わせて、3月1日午後に京城のパゴダ公園で実施が計画された。実際にはパゴダ公園近くの泰和館に変更され、33名が参加して崔南善が起草した独立宣言を読み上げ、万歳三唱をした。代表33名は逮捕されたが、パゴダ公園には数千人の学生が集まり、市内を独立万歳を叫びながらデモ行進した。デモには市民も加わり数万人の規模に膨れ上がった。運動は朝鮮半島全体に広がり、警察、軍隊が出て鎮圧した。こうした中で提岩里事件が起こった。女性独立運動家柳寛順は逮捕され、西大門刑務所で獄死し、「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた。朝鮮総督府の武力による鎮圧によって、運動は沈静化していった。1919年の三・一独立運動を契機に、原敬内閣は朝鮮と台湾総督府官制を現役武官から文官の任用まで拡大した。「朝鮮および台湾総督府官制の改正は、直接の軍事支配の後退であったが、それは日本資本主義の発展による支配の肩代わりではなく、朝鮮における三・一独立運動に露呈された軍事支配の矛盾の結果で」(大江志乃夫『徴兵制』岩波新書)あった。朝鮮総督府の武断政治に批判が高まり、長谷川好道総督を更迭し、穏健派の斎藤誠を朝鮮総督に任命した。武断政治の象徴であった憲兵警察制度を廃止し、普通警察制度に改編して武断政治から文化政治に転換し、融和による同化政策を推進した。朝鮮人官吏の採用や待遇改善を行い、支配体制に取り込んだ朝鮮人に親日的な民間団体を組織させ分断支配をはかり、独立運動の懐柔を試みた。内地延長主義の主張から内地同様に言論や結社の自由も与えられ、1922年に朝鮮教育令を改正して、日本内地と同様なものになり日本語教育が重視された。内鮮共学のスローガンのもとに大学設立も認められ、1926年に京城帝国大学を開設した。1920年に設置された朝鮮の地方議会は諮問機関だったが、1930年に議決機関に改組され、道議会議員の8割以上、道知事の半数程度が朝鮮人だった。

パゴダ公園。第7代朝鮮国王世祖が1464年に荒れた寺を円覚寺と改称し、大理石の十層石塔を建て、これが名前の由来。1897年に庭園となり、1920年に一般に開放された。1919年の3・1運動の発祥地。石塔の改修工事が行われていた。1998年撮影。

京畿道水原・提岩里。1919年4月15日に起こった提岩里教会事件について描いている。現在はタプコル公園。1998年撮影。

23人象徴造形物。屋外店には23個の石のモニュメントがある。これは提岩里事件で日本の軍隊の弾圧によって犠牲になった23人を表している。2002年撮影。

提岩里三・一運動殉國二十三位之墓。1919年4月15日、有田俊夫中尉率いる小隊が提岩里に来ていたキリスト教徒と天道教徒23人を教会に追い込み、銃を乱射し、火をつけた。犠牲者は提岩里教会裏に埋葬。200年撮影。

柳寛順像。奨忠檀公園にある像で、1999年3月1日に竣工した。3・1運動1周年の1920年3月1日に西大門監獄の収監者たちと大規模な示威行動を獄中で行い、地下の独房で受けた残酷な拷問と栄養失調のため同年10月12日に獄中で死亡した。1998年撮影。

旧女子監獄。日本統治時代の1916年に抗日闘争した女子だけを収監するために建てられた。地下には愛国志士たちを隔離収容するための独房を設置して取り調べと拷問の場所として使われた。2004年撮影。

旧京城駅舎。1900年に南大門駅として開業し、日本統治時代の1925年に現在の赤レンガの駅舎が竣工。塚本靖の設計によるもので、ルツェルン駅を手本としたいわれる。東京駅に次ぐ規模の駅舎となった。1998年撮影。 

旧慶尚南道知事官舎。1910年に初代慶尚南道長官に香川輝を任命。庁舎が晋州から釜山に移転し、赤レンガ造2階建の官舎が1926年に竣工。1919年より長官から知事に変更。現在は臨時首都紀念館。2013年撮影。 

独立宣言朗読。1919年3月1日午後2時、パゴダ公園で数千人の学生が独立宣言文を朗読し、大韓独立万歳を叫び街頭に出た。園内には10枚のレリーフがある。1998年撮影。

忠清南道天安。1919年4月1日、天安の並川市場で独立万歳運動を主導して柳寛順は日本の警察に逮捕され、公州監獄に収監された。8月1日に西大門監獄に移され、ひどい拷問の末獄死する。1998年撮影。

提岩里3・1運動殉国紀念館 。入館して最初にDVDで事件の概要を日本語で解説してくれる。日本語のボランティアガイドの人が館内の展示の説明をしてくれた。事件の説明や写真、当時の新聞記事など多くの資料が展示されている。2002年撮影。

3・1独立宣言記念塔。3・1独立運動80周年の1999年3月1日に竣工した。西大門独立公園に設置されている。2004年撮影。

韓国儒林独立運動巴里長書碑奨忠檀公園に3・1運動で儒者代表137名が連名でパリ講和会議に提出した。石碑には韓国の独立を訴える書状が記されている。2004年撮影。

旧西大門刑務所の望楼と塀。収監者たちの脱走を防ぎ、行動を監視するために設置された望楼と塀の一部が原型のまま保存されている。1908年に京城監獄を開所した時には、塀は木柱にトタンを付けたものだった。1923年に西大門刑務所に改名され高さ4.5m、長さ1161mの赤レンガの塀を設置し、独立運動家を投獄した。望楼は6カ所あったが、2カ所だけを保存。2004年撮影。

7.戦時体制下の朝鮮と皇民化政策の展開 

満州事変、日中戦争、太平洋戦争から日本の敗戦に至るまでが戦時体制期となる。1931年に中国の長春近郊で朝鮮移住民と中国農民が衝突する万宝山事件が起こり、満州事変が起こると満州にいた多くの朝鮮人小作人は親日派に変わっていった。中国侵略を進める中で朝鮮民衆を戦争に駆り立てるために皇民化政策を進めた。1919年に朝鮮神社が建てられ、1925年には朝鮮神宮に改称された。日中戦争がはじまると、朝鮮総督府は神社参拝を奨励した。1937年に日中戦争が勃発すると、翌年陸軍特別志願兵令が公布され、朝鮮人にも兵卒の志願を許可した。1943年兵役法改正で朝鮮人に徴兵制度が適用された。

大阪陸軍幼年学校跡地。大阪府河内長野市の幼年学校があった場所には1945年に堺市の大阪第一陸軍病院が進駐軍に接収され、この地に移転し、後に国立大阪南病院となった。現在は国立病院国立病院機構大阪南医療センター。2002年撮影。

遥拝所方位盤。大阪陸軍幼年学校にあったもので、「遥拝所にあったこの方位盤によって、毎日遠い故郷の方向をたしかめ、父母にあいさつを」したと案内板に記されている。戦後、幼年学校がなくなり、千代田小学校に設置。2002年撮影。

大阪陸軍幼年学校の跡碑。「太平洋戦争の頃、この地を千代田台と呼び俊英の少年達が全国から競い集まった。彼等は十五歳という若き日に家郷を離れ、青春の全てを投じて、きびしい学問と訓練に身を委ねたのである」と記されている。2002年撮影。

八紘之基柱。宮崎県宮崎市の平和公園にある塔。1940年に紀元2600年奉祝事業として建てられ、「八紘一宇」の文字が彫られている。戦後、碑文は撤去され荒廃していたが、1965年に復元された。現在は平和の塔と改称。1991年撮影。