漂流が作る「場」

2008 年を境に人口減少期に突入した日本。その日本が向かう都市状況の本質としてかつてのラジカリズムとの親和性を感じたことから提案した建築プロジェクトである。

そうしたラジカリズムの流れとは、古くはスミッソン夫妻に始まり、その後、シチュアシオニスト・インターナショナルのムーブメントに移行し、スーパースタジオ・アーキグラム・セドリックプライスなどへ受け継がれ、の日本ではメタボリズムへと発展した。これらの反資本主義やユートピア模索的態度は現在の「里山資本主義」といった “貨幣を媒介にしない資本主義” への距離感とパラレルであるとも感じる。 

具体的な方法として、近代の都市計画と対極にある新しい動的都市としての在り方としてボトムアップ的、自己組織化的な「漂流」の概念を取り入れる。

80年代後半から90年代にかけて、ベルナール=チュミの「マンハッタン=トランスクリプト」や伊藤豊雄によるノマディズム概念の流布、その他移動性や仮設性に建築の基盤を見出そうとするムーブメントがあった。そうした方向性が、これからの人口減少期に全く新しいフェーズで息を吹き返し展開してくるという仮説が成り立つのではないかと考える。

そこで、シチュアシオニスト・インターナショナルが実践してきた“都市をその場の出会いや主観性によって記述するシステム”としての「漂流」という概念を元に生成することを考える。

スペクタクルの社会” 2011-08-24

https://ashirato.com/misakadou-column/society-of-the-spectacle

具体的にはシチュアシオニスト・インターナショナルの提唱した「漂流」の概念を池袋で再現前させることを試みる。今回のプロジェクトで想定される生活者はヒッピー文化やフラワームーブメントのような権力から解放された自由な生活形態・共同体・理想郷を求める自由人を想起させるような人間である。現代における権力から解放された人間の代表的な属性として、ホームレスを挙げる。今回の敷地である池袋南公園は、もともとホームレスへの炊き出しの場であったことなども縁深い。さらには、ニートや引きこもり、オタクといった社会的弱者なども同じ立場であるといえる。

場所自体に決まった強い用途は規定せず、参加住民によるブリコラージュをもってして逐一完成させられ、そして解体されてゆく空間と機能。そういうなかでこそ、自由を求め生活する人々のための「しなやかなコミュニティ」が生成させられてゆくことになると考えている。 

具体的なデザイン手法としては、池袋という都市を漂流という概念に乗っ取り、4名の被験者を選抜し、彼らにフィールドワークを行ってもらうことで「4つの平面図」を生成した。

漂流とは、“変化に富んだ環境のなかを素早く通過する技術という様相を表す。さらに旅や散策のような古典概念とは全く逆のものであり、心理地理学的性質の効果を認めること、遊戯的=創造的行動を肯定することと強い結びつきがある。以下、参考にしたシチュアシオニストインターナショナルの漂流の概念の抜粋と、実際に行った漂流のルール。

“漂流を実行する1人もしくは複数の人物は、比較的長時間のあいだ、通常の理由に従って移動し行動することも、自分に相応しい関係・労働・余暇も断念して、その地域の要請するところ、そしてまたそれに応じて産み出された出会いに身を任せる。”

・目的を持たずスタートする

・出会いによって人数の変更も可

・終わりは自ら宣告し、いつでも良い

漂流から生まれた4人の被験者の導線を4層のレイヤーにし、それら直線で連続的につなぐアルゴリズム手続き(ロフト)を行うことで、それらを3次元空間に仕立て上げた。これこそが、「漂流」なる概念により表出してきた都市の密度を表記するオブジェクトになる

このオブジェクトは敷地である池袋南公園に設置する。池袋南公園は平成28年にっ全面リニューアルした公園で、リニューアル前はホームレスへの炊き出しが行われていた場所である。

このような敷地を対象とすることで、再度権力からあぶれた人を主とし、設置したオブジェクトに対してさらに各々がブリコラージュのように拡張する使い方を想定する。このような状態こそがボトムアップ的な場の生成であり、現代の都市環境に対するアンチテーゼとなると考える。

このような手続きによって生成されたオブジェクトは、光と影の綾のような現象を作り出し、どこか洞窟のような、非計画的な環境を作り出す。更に、用途を規定しないことで、おのずと共通目的を持った人間が集まり、共感することで本来の「コミュニティ」を作り出す。