長崎出島オランダ商館の医師シーボルトのスケッチ:石の宝殿(江戸後期)
長崎出島オランダ商館の医師シーボルトのスケッチ:石の宝殿(江戸後期)
「金時まつり」令和6年7月21日(日)9:00~ 伊保東2丁目
「金時まつり」令和5年7月16日(日)9:00~ 伊保東2丁目
心池 社家の言い伝えによると、初代の松が次第に衰えてゆき神主が憂いていたところ、ある晩一人の老人が現れて「この霊松の根元に心字の池を造り、何時も水をたたえておけば、霊松の枯れることなし」と云って早尾社の中に消えてしまったという。その後、霊松の根元に心の字の形をした池が掘られた。(播磨國 曽根天満宮ホームページより)
大宰府天満宮の「心字池」を模して享保8(1723)年に完成
心池 社家の言い伝えによると、初代の松が次第に衰えてゆき神主が憂いていたところ、ある晩一人の老人が現れて「この霊松の根元に心字の池を造り、何時も水をたたえておけば、霊松の枯れることなし」と云って早尾社の中に消えてしまったという。その後、霊松の根元に心の字の形をした池が掘られた。(播磨國 曽根天満宮ホームページより)
大宰府天満宮の「心字池」を模して享保8(1723)年に完成
「金時まつり」令和4年7月17日(日)9:00~ 伊保東2丁目
金時碑の由来について(西部農会資料より)
今から180年ほど昔、文化の頃、旱天が続きお百姓さん達が大変困りました。その時、中部に金時宗五郎という大変気概のあった人がいて、川辺に立って、水が無いと騒いでいるのにこの澤山の水が徒らに海へ流れているのは惜しいことだ。この水を田畑に引こうと決心して村人を説き、私財を投じて協力して、堤をぬき川水(法華川)を引き入れた。即ち金時井堰である。
しかし、せっかくこうしてできた金時井堰も給水量が少なく、効果がうすいのを中村五郎衛門さんが見て、日夜、鋭意地勢の調査や水源の探究を重ねて、天保2年(1831年)、今から約160年前頃ようやくその方案ができ、同年11月姫路藩の許可を得て、村民と協力して平津荘の水(「間の川」総合運動公園テニスコート横)を竜山下に導き、水筧を設け、数百歩南流して金時井堰に達せしめた。この工事は、一方は法華川、一方は竜山山麓で共に岩石が突出して工事は困難を極めたが、氏の熱血的努力は遂に実り完成、村人は初めて旱害から逃れることができるようになった。
後、安政4年(1857年)約140年前、里人達は、金時宗五郎・中村五郎衛門両氏の功を称えて、その由を刻んで竜ケ鼻に碑を建てた。(文章:大内 基、書:渡部 璋)
明治40年頃、東部に青年会ができ、時の会長加古儀平が路傍にあった碑を、権現社が加茂神社に合祀された社址へ移し、以来7月21日を「金時祭」として、昭和48年頃まで青年団、その後は部落農会の手でお祀りしている。
(西部農会長から令和3年に写しを頂きました。)
(※加茂神社の「山の神」側の石段横の玉垣に、東部青年会長の「加古儀平」名前がありました。)
魚崎(伊保崎村)及び魚崎新村(梅井村)の新溝についての記
伊保崎村と梅井村の土地は、水田を養う田みぞがまわり遠く、又、数村が上流をおさえていて、ひでりになると水が流れぬように堰き止めてしまいますので、水稲はみんな干からびてしまいます。しかし、その由来は古くて救済する方法がありませんでした。
文化年間に大ひでりがあり、村民は水を求めて走り回りましたが、わずかにしずく程度の水しか得られませんでした。
この時、村民で、大そう気概のあった(金時)宗五郎という人は、一人で法華山谷川の川上に立って嘆いていました。「惜しいことだ、このとうとうと流れている水が、いたずらに瀬戸内海へ流れてしまっているのは」と、そこで村人に説き、自らの財産を投げうって、彼らと力を合わせて堤防を作り、トンネルを掘って水を通らせました。すると、やっと稲はよみがえりました。しかしながら、その水も。十町歩ほどにしか届かず、費用が続かなかったので、それ以上の工事はできずに終わってしまいました。
天保の中頃になって、前の庄屋の(中村)五郎衛門という人が、土地の高低差と水流の速い遅いを測量し、村人と議論をしていいました。「平津~塩市の余り水を竜山の下へ導いてきて、これを木の筧で南へ数百歩流し、前の土手まで達せさると、水の及ぶ所は広いぞ」そこで、この事を議論して、そうすることに決め、代官所へ要請し、許しを得て、天保二年(かのとう年)に、村人達を大いに使役して、三か月で工事を終わることができました。
これで、水はすべての土地を万遍なく潤すようになり、稲はよく生い茂るようになりました。その功績は極めて著しいものです。
今、ここに村人は共に相談し、安政四年、2人の手柄を記念するために、石に刻もうと、私に文章を依頼されました。私は老人でもありますし、また文章もまずいので辞退しましたが、2人の大きな功労を同時に聞き。素晴らしいことなので、辞退することなく記したものです。時は、安政四年丁巳(ひのとみ)の季春(晩春・陰暦3月)のことです。
文を作ったのは大内 基、字を書いたのは、渡辺 璋です。
【右は、伊保東部の権現社跡に建てられています。「金時井記念碑」の原文で、金時啓氏の所蔵になるものをお借りしたものです。】
「伊保山:天の磐船(大王の石)」「宝殿山:石の宝殿・シーボルト」「加茂山:加茂神社・観濤處・陣幕島之助」「竜山:魚崎構居跡(位田長兵衛)」 ※参照「石の宝殿竜山めぐりガイドブック」(石の宝殿研究会)
竜 が 鼻
伊保山山頂(大王の石)
生石神社
西美濃三十三番観音霊場
二十一番札所 安楽寺梵鐘
大垣市重要文化財 梵鐘(上記の説明文)
この梵鐘は、関ヶ原合戦の時 西軍石田三成方の勇将大谷吉継が陣中の兵士の士気を鼓舞したり、合図用に播州(兵庫県)から持参した陣鐘で、戦後 徳川家康が戦利品として安楽寺に寄進した歴史的にも由緒のあるものです。
応永26年(1419年)「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」と記されている古鐘で、品格が退化しているといわれる室町初期のもの中では、優れた美術工芸品です。
大垣市教育委員会
石乃宝殿
石乃宝殿
日本三奇 石乃宝殿 石
浮 石(石の神殿)
建っていたら、
ここが都だった。
白い姫路城
大正天皇(皇太子)
行幸
明治42年宝殿駅
➞一本道
高砂市立図書館>WEBサービス>デジタル郷土たかさご>地図で見る高砂市>地図の一覧を見る 明治28~31年 大正15年~昭和2年(明治42年皇太子行幸一本道)
シーボルトと陣幕島之助(木下彦蔵)は交流していた。(江戸参府紀行)
観涛処へ219段
桜 と 加 茂 神 社(下鴨神社)
賀茂御祖神社
陣幕門弟狛犬奉納
💛の手水鉢
播 磨 灘
加茂神社の鳥居
魚崎村の山の神
昭和天皇・皇后両陛下高砂市に行幸啓
児童福祉施設ご視察「西秀寺保育園」
◇高砂市立図書館HP>WEBサービス>デジタル郷土たかさご>広報誌の一覧を見る>高砂市政だより№18(昭和31年10月25日)1面上段
>高砂市政だより№19(昭和31年12月25日)1面左上
加茂神社が建つ加茂山の山腹に、竜山石を垂直に切り出した高さ4・2メートル、幅11メートルの断面に、「觀(かん)」「濤(とう)」「處(しょ)」の3文字が並ぶ。1文字の大きさは約百数十センチ四方もあり、筆先のはねやはらいまで精緻で忠実に彫られている。
文字は、江戸時代に活躍した儒学者で書家の永根文峰(ぶんぽう)が19歳の時に書いたもの。文峰を姫路藩の儒学者に推挙したのが、文峰の父伍石(ごせき)と親交があった姫路藩家老の河合寸翁(すんのう)だった。文峰は32歳で亡くなるが、死後間もない天保7(1836)年、寸翁は文峰の書を岩盤に刻ませた。向かって左脇には伍石による跋文(ばつぶん)(由来文)があり、息子の来歴などを記して故人をしのんでいる。(石の宝殿研究会)
跋文:處の左に刻む。