東京メトロ東西線行徳駅の周辺です。ハーバーロードから香取通りまでの間です。市川市内で最も人口密度が高い地域の一つです。また、市川市の町の中で「行徳駅前」は、外国人人口が最も多くなっています(令和2年国勢調査で1130人)。
塩の町として発展した行徳。1812(文化9)年に、航路安全を祈願して常夜灯が建てられました。当時は寺社参詣が流行し、成田山新勝寺に参詣する人も多かったのです。
成田参詣に出かけるルートに、日本橋小網町から出ていた行徳船(もともとは行徳塩田で塩を運ぶために使われた船)で小名木川・新川を通り、行徳で下船して陸路を行くというものがありました。旅人のために、常夜灯には明かりがともされていたようです。
東京メトロ東西線行徳駅から徒歩10分の立地に、市川市役所行徳支所があります。
縄文時代には海だった地域で、砂などが積もった低地です。
1960年頃の高度成長期に、地下水のくみ上げ過ぎや軟弱な地盤が原因で、地盤沈下が起こっています。地下水採取の規制や工業用水道への転換などの対策が行われた結果、1972年以降は沈静化しています。
台風やゲリラ豪雨などで、市川浦安バイパスと行徳駅前通りで冠水が起こったと報告されています。
浮世絵 行徳塩濵之図 初代広重(文化遺産オンラインより)
一説によると、室町時代の1527年に、山伏の金海法印が、旧江戸川の中州に伊勢神宮の土砂を運んで神明神社を建立し、土地を開発するとともに教えを説いて回りました。金海法印が地域の人々に「行徳さま」と呼ばれたことが、この地域の名前の由来とされています。
江戸時代中期の1758年以降に成立した『塩浜由来書』によると、上総国五井(現在の市原市五井)では、古い時代から製塩が行われていました。行徳の人たちが五井に行き、製塩を学んできました。そして本行徳村・欠真間村・湊村の人たちが遠浅の干潟を塩浜にして、自家用の塩を作っていました。戦国時代には後北条氏に、年貢として塩を納めていました。
江戸時代になると、徳川幕府は、新たに塩浜を作ることを奨励するために、1596年には行徳の人々の諸役を免除。家康・秀忠・家光の3代にわたって、塩浜開発のため多額の資金を投入しました。そして、塩を運ぶ水路として運河を整備しました。
また、一説には、徳川家光の頃(1623~1651年)、日光東照宮造りに携わった匠たちが行徳の地を譲り受け、神輿の製作が始まります。
1632年に、船掘川の三角の渡しから東側に新たに運河が開削されると、船堀川も含めて新川と呼ばれるようになり、この航路の独占権を本行徳村が得ました。そして江戸の日本橋小網町三丁目の行徳河岸から本行徳村までを、午前6時から午後6時まで定期船の行徳船が行き来しました。
行徳船は、成田山詣でのために利用されるようになり、行徳は宿場として「行徳千軒寺百軒」といわれるほどに発展しました。
明治に入り、1894(明治27)年に総武鉄道(市川~佐倉間)が開通するなど、舟運から鉄道へと輸送手段が切り替わっていきました。
また、塩業は明治にも続いたものの、1917(大正6)年の台風など、高潮の被害などで廃業に追い込まれていきました。
1969(昭和44)年3月29日に、帝都高速度交通営団東西線は東陽町~西船橋間が開通し、行徳駅が開業しました。このエリアの人口が増え、現在では市川市内で人口密度が高い地域となっています。
※市川市商店会連合会より再編
豊友ハウジング 行徳かもねぎ商店会・行徳駅前商店会めぐり(商店街)
https://www.hoyuu.com/report/123/