宝円寺のご案内

宝円寺  紹介

石川県金沢市にある曹洞宗の寺院。 加賀藩祖・前田利家が創建し、前田家代々の菩提寺として、前田家ゆかりのお寺です。利家の葬儀もこの寺で行われました。巨大な仁王像が安置されると共に、北陸三十三観音霊場の第十三番札所です。

宝円寺の由来

かつて、加賀百万石藩祖前田利家公は、越前国府中(今の福井県越前市)に在城された折、 郊外高瀬村「宝円寺」の大透圭徐和尚に信頼厚く参禅帰依され、そこで侍人と禅僧との類い希な間柄が生まれたことは歴史上あまりに知名な事実である。

後、天正9年(1581年)、利家公が能登国所口(今の石川県七尾市)に移られた際、同和尚を越前から招き入れ、一寺を創建されるがこれを「宝円寺」と名付けられた。 尚、同11年(1583年)、利家公が金沢城主となられるに及び、再び大透和尚を金沢へ招き、「護国山宝円寺」を建立し開祖とされた。 このことにより、能登国所口の宝円寺はその後、長齢寺と改名されるに至った。 上が当寺の創始であり、開山和尚がいかに前田利家公の信任深き人物であったかを窺い知ることができよう。

その後、「宝円寺」は藩公から毎年二百二十余石の供養米を寄進されるまでとなり、更には前田藩累代の菩提寺となり、曹洞宗全寺院の触頭とせられた次第である。 当初の寺地は、今の兼六園東隅であったが、元和6年(1620年)、現在地11,600坪(約3,515㎡)の替地を賜り移転し、華麗なる伽藍建ち並ぶその様は誠に人の目を驚かせた。 寛文9年(1669年)、五代藩主前田綱紀公によって本堂・客殿・庫裏・山門の改築がせられたが、その際の伽藍は「北陸の日光東照宮」と称されるほどの絢爛豪華なものであった。 加え、その際に馬坂口に改めて表門としての山門が造営され、それまでの表門は裏門とされたが、宝暦9年(1759年)の大火で類焼し、同12年復興した。 尚、明治元年(1868年)2月28日、不幸にも寺内からの失火にて再び全伽藍を失い、今の本堂と庫裏を造営し現在に至る次第である。

現況、平成24年8月13日付にて、宝円寺山門及び築地塀一棟、宝円寺庫裡一棟、宝円寺本堂一棟が、国の登録有形文化財に指定されている。

前田利家

(1539~1599)

戦国時代の代表的武将の一人。織田信長、豊臣秀吉に仕え、加賀百万石の大名まで出世する。晩年、徳川家康と対抗するまでの勢力を得るが、62歳で大阪で死去。その後、遺言に基づいて、菩提寺である金沢 宝円寺で葬儀を行い、野田山に埋葬された。


大透圭徐

1525-1598)

利家公と同じ尾張生まれ。越前の曹洞宗宝円寺に従事している時に利家と出会う。その後、利家公に招かれて七尾に宝円寺(現 長齢寺)を開き、利家公が金沢城主となる時に再び招かれてこの護国山宝円寺を開く。

境内のご案内

■藩主前田利家の御髪堂と御影堂

徳川家康との関係が険悪となったとき、死を覚悟して家康のいる伏見城に訪問。その前に自らの髪を切り、自画像を宝円寺に託し、土中に埋めさせたと言われるお堂です。

■前田家ゆかりの墓

宝円寺本堂の背後にある前田家ゆかりの墓地。

前田家は江戸時代の墓所は仏式でしたが、明治以降に神式葬に転換した為、土饅頭の墓の正面に鳥居が建てられた珍しい墓地。

■俵屋宗達の墓

風神雷神図屏風で有名な江戸時代の絵師俵屋宗達の墓地が前田家の墓地と共に眠っています。

■地蔵堂

少林寺と三洞庵にあった地蔵菩薩の石像。西国三十三観音菩薩の石仏と共に祀られています。山門の左側には、香林坊地蔵も祀られています。

■本堂

本堂には、545cmの巨大な仁王が、皆さまをお待ちしています。本尊の釈迦如来をはじめ、剃髪の文殊菩薩、普賢菩薩、そして十六羅漢を拝観することができます。

苔庭

本堂に沿って苔庭を有している。苔の緑色をキャンバスに、銀杏、紅葉、つつじ等、四季折々の花木が季節を彩っています。

仁王尊のつぶやき