コラム
宝円寺に纏わる様々なエッセイをコラムとして掲載しています。是非、ご一読下さい。
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戦国武将と一僧侶
令和5年7月8日
天正3年(1575年)8月12日 織田信長は越前一向一揆平定のため、大軍を率いて岐阜城を出発しました。そして越前全土を平定したのを見届けると、北ノ庄(今の福井市)に帰り、9月2日部下の将兵に対して国割を行いました。柴田勝家には越前8郡49万石を与え、北ノ庄に大城郭を築き北の押さえとしました。前田利家、佐々成政、不破光治の3人には府中と今立、南條の2郡併せた10万石を3等分して、一人3万3千石の大名に取り立てました。前田利家は長浜1万石から柴田勝家の与力大名として府中3万3千石を拝領しました。居城を府中城とし、府中城とは今の武生市役所を中心に武生駅前を含めた一帯の場所です。早速、近江の国から[あのう衆]と云われる城作りの専門職人を招き、城壁を石垣とし、堀を広げて堅固な居城に改修しました。
この府中城から南へ1㎞程離れた南條郡中瀬村に大白山宝円寺(当時は刀根坂の戦いで御堂が消失していた)と云う曹洞宗の名刹があります。時の住職は大透禅師と云われ当寺の七世でした。当寺は開山直伝正祖禅師以来、代々大本山総持寺の住職や永沢寺、禅林寺など大寺の住職を務めた名門の出世寺でもあった。利家公も大透禅師も共に現在の名古屋市中川区の出身で、利家公は荒子村荒子城、大透禅師は戸田村戸田城の城主の子として生まれ、名古屋市内を流れる庄内川、戸田川を挟んで、その間約1里程の隣り村で少年時代を同じ環境で育った仲間でした。利家公は越前府中と云う異郷の地に同郷出身の大透禅師と出会いになられて、禅師の人格に深く敬服し、心から帰依するようになったのです。
最初は戸田村から知らせを受けた大透禅師から府中城へ訪ねたところ利家公は留守であった。このころの利家公は、戦戦の毎日で大変忙しい時でほとんど府中城を留守にしています。何日かして、こんどは利家公が高瀬の宝円寺を訪ねたとのことです。大透禅師は、藤原北家の流れを汲む名門戸田家の出で、武将としての能力も備えており、利家公は、年長の大透禅師を良き相談者としたのでしょう。この時利家は38才、大透禅師は52才で14才年長でした。
利家公は大透禅師との巡り合いによって、大白山宝円寺を前田家の菩提寺として、この寺に父利昌公、母たつ(竹野氏)の御霊をおまつりし、墓を建立して供養に努めました。利家公と大透禅師との仲は、日がたつにつれますます親交が深くなり、師とも仰ぎ、大切な相談者となり密接な関係に発展していくのです。
利家公の府中時代は天正3年から天正9年までの6年間ですが、その間信長の命令によって、戦場へ出ては帰り又、戦場へと云った有様で、即ち上杉謙信の南下軍との戦い、秀吉を助けて鳥取城の戦い、石山本願寺の戦い、荒木村重の乱、松永久秀の乱、近畿平定、や三木城攻略など戦場と家庭の往復を繰り返す生活でしたが、在住6年間は、その戦歴のなかに大透禅師の前では利家公が只管打座をし、大透禅師が警策で肩を打つ、まさに厳しい修行の時でもありました。律義者と云われ生一本の前田利家公もこの府中時代で戦国時代の武将としてのすべてを身につけられたのです。
お松の方もその間、男子2人女子7人の子育や家臣家族のお世話に追われつつ、城主不在の城の守りに専念するのが務めとなりました。また、夫の無条帰還を祈ることも片時も欠かさなかったことでしょう。唯、宝円寺の大透禅師は、お松の方にとっても同郷の人で一番信頼のできる方でした。何事もご相談やご指導を仰ぐ時がお松の方にとっては心安丸すまる一時でもありました。
こうして6年間が経過する天正9年(1581年)8月織田軍が羽咋郡飯の山に在ったとき、信長からこの10月までに妻子、一族郎党をつれて七尾に行け、能登一国15万石を与えるとの命令を受けました。
七尾の小丸山に居城を構えることになり城地に移ると同時に、さっそく城内に一つの御堂を建立し寺とし、宝円寺と命名し、側近の前波加右衛門を武生に使わし天正9年12月に大透禅師を御開山としてお迎えしたのです。大透禅師も二つ返事で、七堂伽藍の整備された大白山宝円寺や大平山龍泉寺の住職を弟子の象山禅師に後を任せ七尾の宝円寺の住職となって利家公の要請に答えたのです。
それから2年後の天正11年4月20,21日信長のあとをかけた賤ケ岳の戦で柴田勝家は破れます。24日には北の庄城も落城いたしました。利家公は、賤ケ岳の戦では柴田方に陣し、北の庄城攻めでは羽柴方の先鋒を務め、北の庄城の落城を見届け その日のうちに加賀の小松城を受け取り、堀久太郎秀政に後事を託しました。
秀吉は、越前8群に加賀の能美郡、加賀郡を丹羽長秀に与え、長秀は北の庄城を居城とし北陸の押さえとし、利家には河北郡、石川郡を20万石を加増しました。
利家公は天正11年4月26日宮ノ越(金石)に上陸し、宮ノ腰(金石)から金沢城に入城しました。金沢城即ち御山御坊は、これより112年前蓮如上人が城塞寺院として築かせ、百年間浄土真宗の政所と御堂が置かれた宗教政治の拠点となった場所であります。
利家公は入城なさると同時に山門堂塔を建立し山名を護国山とし、寺の名前を宝円寺と称して、七尾宝円寺から大透禅師をお招きし御開山となさいました。これが金沢宝円寺の始まりです。時は、天正11年(1583年)場所は、現在の兼六園内の山崎山、霞が池を含めた景勝の場所です。
それから時代は下って元和6年、加賀藩3代利常公の時代に、ここ小立野台地の現在地に、11,600坪を拝領し、七堂伽藍を建立し百万石前田家の菩提寺としました。
現在の兼六園内に宝円寺は37年間在住しました。利家公の葬儀も公園内の宝円寺で行われています。大透禅師と利家公の在命中の交わりは天正3年より文禄3年(1594年)正月の19年間でした。
大透禅師は文禄3年正月、安定したが加賀藩を見て高瀬の宝円寺より象山を金沢に呼び金沢宝円寺2世とし、利家公においとまをいただいて七尾に帰り、七尾宝円寺を長齢寺と改めて前田家の御先祖の供養につとめ、4年後の慶長3年9月20日、73歳を一期として、利家公より半年先にお亡くなりになりました。
思えば利家公も禅師の心こもったご指導と、御鞭撻によって、部門の英雄,管国の棟梁、従一位権代納言と出世街道を驀進して加賀百万石の礎を築かれました。
また、大透禅師も利家公の御尽力で、大本山総持寺の復元、領内名刹の復元、改築などすべてにおいて宗門の発展につくし、民生の安定に貢献されました。宗教上のことはすべて大透禅師に一任されました。
宝円寺は戦国武将と一僧侶の固い友情の結びつきによって誕生した寺で、封建時代は終わっても、二人の御霊は永久に宝円寺に結ばれております。
加賀藩の信託方式
令和5年9月4日
以前父より大手信託銀行の役員の方が、毎年宝円寺にお参りに来ていた事を聞いたことがある。理由はこの寺が日本の信託発祥の地とのことであった。毎年年度変わりの4月に来られていたそうな。
信託は、イギリスが発祥の国です。それから世界へと伝わり日本では明治の後半に伝わったと言われています。
信託会社が出来たのは、明治39年(1906年)であり、信託法、信託業法が制定されたのは大正11年(1922年)である。
しかし、加賀藩では、1600年代に信託のようなものが存在していました。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣がおこりました。加賀藩3代目前田利常は外様大名では最大の30,000名の兵を連れて、大阪城の南側天王寺方面に、伊達、松平、藤堂、井伊(4藩)と大阪城に向かって陣を敷きました。大阪城の手前には真田幸村が要塞化された真田丸がありました。利常22歳、初陣で指揮は本田安房守政重が行いました。
徳川家康からは、当初、包囲するだけで打って出ないよう命じられていましたが、前田利常軍の先鋒の一部が、真田軍の挑発に乗ってしまい攻撃を開始してしまいます。これを(前田軍の抜け駆け)と思った藤堂高虎をはじめ松平忠直、井伊直孝の部隊も真田丸の攻撃に加わります。前田軍も先発部隊を放置しておけないので侵攻を開始しました。真田丸の城壁にたどり着いたとき、真田幸村軍の反撃が開始され、罠と鉄砲で一斉に徳川軍を打ちのめします。何かに隠れたものは身動きできず、大勢の死傷者を出しました。結局退却することになり退却戦にも待ってましたとばかりに真田軍が打って出て徳川軍はおびただしい死傷者を出しました。利常には、ふがいない初陣となったのです。しかし、夏の陣では天王寺口より大野治房軍を蹴散らし大阪城内まで攻め入り、3,200もの首級をあげて面目をほどこしています。
加賀藩では大坂冬の陣で亡くなった藩士41名の供養を毎年行うことにしました。この供養を行うために用いられたのが信託の考え方です。
元和4年(1618年)、加賀藩は宝円寺に100石の寄進することを決めます。しかし、実際は100石は特権町人の越前屋治郎兵衛、越前屋孫兵衛、平野屋半介に預けられます。前田家老臣の本多安房守政重、横山山城守長知の連名による申渡書が同時に手渡されました。それには、加賀藩が宝円寺に寄進する米100石を3人の商人に預け、3人の商人が年利4割で運用し、そのうちの3割(30石)を宝円寺に収め、残り1割(10石)を3人の商人が手数料として受け取ると言う内容が書かれていました。
この場合、戦死した藩士の供養料を宝円寺に払うのが信託の目的であり、委託者が加賀藩、受託者が3人の商人、受益者が戦死した藩士の眠る宝円寺という信託関係になります。
加賀藩では、こうした信託に似た仕組みを利用して大坂の陣で戦死した41名の位牌堂を宝円寺境内に建てています。
高瀬の宝円寺
(大白山宝円寺)
令和5年12月5日
嘉慶2年(1388年)に直伝正祖禅師が建立しました曹洞宗の寺です。直伝正祖は丹波に生まれ、13歳にして出家し、一大禅苑永沢寺の通幻寂霊禅師を訪ね修行いたしました。さらに、通幻禅師の勧めもあって加賀の聖興寺(その後廃寺)の普済善救禅師の下で修行し印可を得ます。普済善救禅師が総本山総持寺12世になった時は、師に従って総本山総持寺で修行しました。その後、師の禅林寺建立に助力し、永沢寺、禅林寺の住持を経て越前の国南条郡高瀬村に修行寺を建てました。
直伝正祖は高祖道元禅師の修行地である大白峯天童山景徳寺を尊崇、敬慕されており開創にあたるや山号を大白山、寺名を宝円寺(初は法円寺)と称されました。これから明治中頃まで高瀬(武生村に吸収合併後は武生)の宝円寺と呼ばれます。
天正2年に織田信長の朝倉追討の際 兵火により御堂を焼失します。その時の住職が大透圭徐7世でした。天正3年府中3万3千石を与えられた前田利家は信長の命により宝円寺の再建をいたします。(当時、寺は情報源の一つであり、武将にとっては大事なものでした。信長は、利家、佐々成正、不破光治に寺社の再建、修理を命じた。)
前田利家は大透禅師と再会し、大白山宝円寺を前田家の菩提寺とします。天正9年能登15万石を得て七尾に移り、大透禅師を七尾宝円寺に招きました。
前田利家の居城府中城は信長の家臣菅屋長頼に渡され、天正9年10月に利家の嫡男前田利長に与えられました。前田利長は3万3千石の大名として府中城を居城とし大白山宝円寺と前田家の関係は続いたのです。
9世の象山は護国山宝円寺の2世に、10世の廣山は3世に、13世の量山は4世に、14世の泰山は5世にと招かれています。
賤ケ岳の戦い後、利家が羽咋郡、河北郡を秀吉から加増され金沢城に、利長が松任4万石に加増され松任城に移ってからは、縁も薄くなりますが前田家の参勤交代の東海道経由の時はお出迎え、お見送りをしておりました。文政4年(1822年)火災に会い焼失しましたが、天保3年(1832年)前田家の援助を得て再建しています。昭和3年(1928年)に御堂以外を焼失しましたが昭和15年檀家の協力を得て再建し現在に至っています。
普済下8世に大透圭徐あり、その資に象山徐芸あり、芸は広山怒陽を世に打ち出し親子三代共に加州前田候の帰嵩を受けること厚く、大本山総持寺の今日あるは実に大透師資の力と前田候外護の外ならない(弧蜂禅師の禅宗史)
2世 象山徐芸
令和5年12月19日
護国山宝円寺2世の象山禅師は越前、朝倉義景の重鎮三田村家の出である。若いうちは朝倉家の家臣であったが、出家して仏門に入った。修行中越前の国禅林寺にて、大透圭徐、広山怒陽と修行を共にし、永沢寺、龍泉寺の両刹にも歴住し若くして高瀬宝円寺の9世になった。文禄3年(1594年)の年明けに護国山宝円寺にて大透禅師より招かれて当寺の2世になる。
慶長3年(1598年)8月秀吉は大阪城で62歳の生涯を閉じた。大老徳川家康を中心に、慶弔の役で朝鮮半島南部で留まっていた諸将は順次帰国が進められ、11月には全ての諸将の帰国が完了し家康の声望は高まった。しかし、家康の独断専行が激しくなっていく。特に大名間の婚姻は厳しく禁じられていたが家康は石田三成ら五奉行が制しても行った。
御影堂、御髪堂
秀吉から遺児秀頼の傳役を命ぜられていた利家、利長はその立場から家康の独断専行を制する役目を担い慶長4年(1599年)2月利長が家康のいる伏見城に赴いた。しかし利長では家康を制することは出来なかった。その後利家が覚悟を決めてわずかな供回りで伏見城に赴き一応の和解が成立し、一触即発だった文治派、武断派の対立も回避された。この頃の前田家は、石高76万石であり、家康は倍以上の石高を持ち、官位も家康の方が上であり、また、政務に関しても責任者であった。
利家は相当の覚悟をもって、自画像と自らの髪の毛、刀を宝円寺に届け、象山禅師に宝円寺境内の地中深く埋めさせて祈祷をさせたのである。その後、洞が立ち御影堂、御髪堂と名づけられた。
高徳山 桃雲寺
慶長4年春に前田利家が亡くなる。象山禅師は宝円寺住職を辞し、中瀬の宝円寺10世である廣山を招き3世とした。、利長は、父の遺言通り野田山に利家の墓を建て、その墓を弔うために利家の菩提寺として寺を建てた。寺は護国山宝円寺と同規模であり、宝円寺2世の象山に開山され象山を住持とした。その為、野田(山)の宝円寺と呼ばれたがその後利家の戒名(高徳院殿桃雲浄見大居士)に因み高徳山桃雲寺とした。元和2年(1616年)伽藍を焼失するも芳春院により再建され前田家からの厚い保護を受け、規模は広大であったが明治6年再び焼失し、その後再建され現代にいたる。
芳春院1 総持寺後見職
象山はこの寺を隠居寺とし利家の供養を行うよう加賀藩から言われていたし本人もそう思っていた。
慶長14年(1609年)江戸にいる芳春院(お松の方は利家が亡くなられてからこう称した)より前田家の安泰を願って総持寺の中に芳春院を建立する依頼を利常にし、利常は芳春院を建立し、象山禅師が開山した。桃雲寺は加賀藩の重役たちの意見もあって、中瀬宝円寺の13世泰山が2世に招かれた。同時に利常は象山を総持寺後見職とした。
徳川家康は元和元年(1615年)武家諸法度を2代将軍秀忠に出させ、その後寺社諸法度も出しました。象山は、寺社諸法度の出る前に曹洞宗を代表し家康と謁見し曹洞宗の歴史や宗内容を説明され、曹洞宗法度を作成し幕府に提出しました。この時、象山は仏教界の重鎮であり曹洞宗では大重鎮であった。
晩年は、高徳寺に隠居し利家の供養を行い高徳寺で亡くなった。