フォーラム
近代教育批判以後の主体性
――後期フーコーにおける「プラトニズムのパラドックス」を中心に――
報告:堤 優貴(日本大学)
コメンテーター:平石晃樹(金沢大学)
司会:室井麗子(岩手大学)
近代教育批判以後の主体性
――後期フーコーにおける「プラトニズムのパラドックス」を中心に――
報告:堤 優貴(日本大学)
コメンテーター:平石晃樹(金沢大学)
司会:室井麗子(岩手大学)
オンデマンド配信 + Webライブディスカッション(9月11日10:30-12:00)
【概要】
規律訓練による「主体化=従属化」の後で、私たちはどのような主体性を構想できるだろうか。
戦後日本の教育政策において、「主体(性)」の育成は大きな課題であり続けてきた。それは例えば、戦前の権威主義に対する「ひはん的精神」の欠如(1946年の『新教育指針』)、あるいは、いわゆる「逆コース」下の教育行政により抑圧される主体(性)といった形で、理念化された「西洋近代」をモデルとした主体的で自立的な個人の育成を目指していた。しかし、1980年代以降「キャッチアップ型近代化」(苅谷剛彦)の終焉とともに、主体(性)の育成は「西洋近代」をモデルとするのではなく、予測困難で流動的な社会への対応に課題がシフトしていく。臨時教育審議会以後、2018年の学習指導要領改訂における「アクティブラーニング」に至るまで、「社会の変化に主体的に対応し行動できるようにする」(1998年の教育課程審議会)ことが目指されてきたことは周知の通りである。
しかしながら、これだけ教育政策において主体・主体性の育成が課題とされてきたにもかかわらず、肝心の主体・主体性概念については十分に検討されてこなかったのではないか。
以上を踏まえて、本発表では、後期ミシェル・フーコー思想における主体・主体性概念を検討していく。具体的には、近代教育学批判の文脈で参照される『監獄の誕生』以後の仕事の中でも、フーコーのプラトン読解に注目する。いわゆる「ポストモダニズム」思想においては、反基礎づけ主義などの観点からプラトン思想がしばしば批判される。後期フーコーの主体・主体性論についてもプラトンの批判的検討から開始されるが(1982年講義)、その評価については整理が難しい。本発表では、フランスのプラトン研究者であるアニッサ=カステル・ブシュシが問題にした「プラトニズムのパラドックス」問題を検討することで、なぜフーコーがプラトンに対して「肯定的」な評価を下したのかを明らかにしていく予定である。
上記の作業により、本発表では近代教育学批判以後の主体性について議論していく。しかし急いで付け加えるなら、それは近代教育学批判がすでに終わった営みであることを意味しない。それは同時に、規律訓練による「主体化=従属化」が消失したということも意味しない。本学会の前身である近代教育思想史研究会の創設から30年、本発表が「近代教育学批判という思想運動」(設立趣意書より)について改めて考える契機になれば幸いである。
▶本フォーラムは下記のとおり実施いたします。
【オンデマンド配信】
フォーラム報告(司会者によるイントロダクション含む)
【Webライブディスカッション】
前半(30分):コメンテーターによるコメント・報告者からの応答
後半(60分):全体でのディスカッション
【大会を終えて】
今年度のフォーラムでは、「近代教育批判以後の主体性―後期フーコーにおける「プラトニズムのパラドクス」を中心に」と題した報告を行いました。
まず初めに、発表の舞台を整えていただいた事務局および関係者のみなさまに、お礼を申し上げさせていただきます。おかげさまで、オンデマンド動画60分+Zoomミーティングで90分という変則的な報告方法であったのにもかかわらず、多くの会員のみなさまにご参加いただくことができました。また、司会を引き受けてくださった室井先生、短い期間でコメントを作成していただいた平石先生のご両名のお力添えがなければ、このような発表を行うことはできませんでした。改めてお礼申し上げます。
さて、以下では、いただいた質問・コメント等について記させていただきます。なお、いただいた質問等につきましては、匿名扱い希望か否かの確認ができていないものもありますので、すべて匿名記載とさせていただきます。ご了承ください。
まず1つ目に、質問フォームより、フーコーの「真理」概念についてご質問をいただきました。「フーコーは「真理」を「不変の」「認識の対象物」として捉えていたのか、「主体の変容・変形」によって新たな様相を示しうるもの(生成?)と捉えていたのか」ということですが、フーコー自身の思想としては後者に近いと考えられます。ただ、講義『真理の勇気』の最後の部分で、真理の創設は(形而上学的な)「他界」および(現生での修練を経た)「別の生」において行われると述べているように、不変の真理を認識する主体性のあり方についても、考察の対象にはなっているように思います。
2つ目に、「師」の議論についてです。「変容する自己の方から見て、ある人物あるいはモノが「真理を語る他者」であると判別することはいかにして可能でしょうか」ということですが、この点はまさに今フーコー研究でも問題になっている部分だと思います。フーコーの言う「パレーシア(真なることを語ること)」が科学的な「真実」であるかどうかに関わらず、「真理を語る」というパフォーマンスを重視するものであるならば、ドナルド・トランプなどもパレーシアの使い手になってしまうのではないか。私も修論執筆時からこの問題に直面し、科学的な真理に収まらない「真理の語り手」を吟味するためにこそ、実は科学的な真理が必要かもしれない、という観点からフーコーにおける「知識」の伝達、「認識」の問題に注目してきました。
3つ目に、ガート・ビースタを研究されている方より、現代の学校現場において「支援者」としての教師が求められているというビースタの分析についてどう考えるか、という質問をいただきました。ビースタの議論には概ね同意です。ただ、『教えることの再発見』でビースタが挙げている「主体化」についての具体的な実践、「ロボット掃除機」として効率的に生きる人を資本主義の論理の外側に連れ出す実践が、博士課程の学生に対するビースタ自身の授業実践なのが気になります。博士課程まで進む学生はビースタのいう「主体化」がすでになされているか、少なくともその途上にあるのでは…?
最後に、フーコーのパレーシア論における「言語」あるいは「言語化」についてご質問がありました。平石先生のコメントにありました「生きざま」という論点を踏まえて、「あえて言語によらない部分への注目」があるのではないか、とのことでした。確かに、フーコーは真理を語るものの「態度」に非常にこだわっているように感じます。しかし、それでもやはり、真理を「語る」といった場合には「言語」が依然として重要であるようでもあり、この辺りの兼ね合いについては、今後考えていきたいと思います。重要なご指摘をいただき、ありがとうございました。
(文責:堤優貴)