コロキウム3
伝達と創造
――「原爆の絵」プロジェクトを通して想起と想像を考える――
企画・司会:山名 淳(東京大学)
報告:岡田友梨(広島市立基町高等学校、「原爆の絵」プロジェクト参加者)
川﨑あすか(広島市立基町高等学校、「原爆の絵」プロジェクト参加者)
一ノ間照美(「原爆の絵」プロジェクト参加OG)
古波藏香(武庫川女子大学)
濵本潤毅(東京大学大学院)
久島 玲(東京大学大学院)
コメント:小野文生(同志社大学)
伝達と創造
――「原爆の絵」プロジェクトを通して想起と想像を考える――
企画・司会:山名 淳(東京大学)
報告:岡田友梨(広島市立基町高等学校、「原爆の絵」プロジェクト参加者)
川﨑あすか(広島市立基町高等学校、「原爆の絵」プロジェクト参加者)
一ノ間照美(「原爆の絵」プロジェクト参加OG)
古波藏香(武庫川女子大学)
濵本潤毅(東京大学大学院)
久島 玲(東京大学大学院)
コメント:小野文生(同志社大学)
オンデマンド配信
【概要】
原爆投下時を知る人びとが自らの体験を言葉にし、その言葉を手がかりとして高校生が絵を描く「次世代と描く原爆の絵」プロジェクトは、2007年から続けられている。記憶の継承がテーマとされるとき、これまで〈語る〉こと(証言)が重視されてきた。「原爆の絵」プロジェクトでは、そこに〈描く〉という活動が加わって、複雑なコミュニケーションがなされている。それはいったいどのような経験なのだろうか。また、このプロジェクトに参加している高校性はよく「証言者さんの手になって描く」と表現している。そこには〈共同翻訳〉的な姿勢が見受けられるように思われる。だが、その際の〈共同翻訳〉とはどのような経験なのだろうか。
本コロキウムでは、まず「原爆の絵」プロジェクトに参加した高校生と卒業生の感想に耳を傾けたい。前半部では、高校性とOGが、「原爆の絵」プロジェクトの基本特徴について、また生徒が制作した絵についての場面説明と制作過程、またプロジェクト参加時の感想などを報告していただく。コロキウムの後半部では、以上のような前半部の内容を受けて、各報告者が報告し、コメンテーターが感想を述べる。その後、伝達とは何か、創造とは何か、想起と想像の関係はどのように考えられるのか、言語と非言語の表象や表現がかかわるときの経験性とはどのようなものか、などの論点をめぐって、高校性、卒業生、報告者、コメンテーターとともに考えたい。
▶本コロキウムは下記の通り実施いたします。
【オンデマンド配信】
動画1(およそ60分を予定): ここでは、「原爆の絵」プロジェクトに参加した高校生と卒業生の感想に耳を傾けたい。前半部では、高校性とOGが、「原爆の絵」プロジェクトの基本特徴について、また生徒が制作した絵についての場面説明と制作過程(打合せの模様など)について、それらにまつわる資料(スケッチ、エスキース、収集資料、制作過程写真など)の紹介も交えて報告を行っていただく。
動画2(およそ90分を予定): ここでは、動画1の内容を起点として、語ることと描くこと、想起と想像の間を考える。伝達することに入り込む創造という側面について、各報告者とコメンテーターが対話を試みる。
*関連資料を大会サイトにアップさせていただく予定です。
*本コロキウムでは、Webライブディスカッションはありません。
【本大会に参加して】
「原爆の絵」プロジェクトに参加した高校生と卒業生が自らの経験を言葉にし、その言葉に触発された研究者が「学問的」な解釈を提示する。今度はその言葉に対して高校生と卒業生が共感や違和感を直接間接に表現し、その表現が契機となってさらなる思索が促される……。時間が限られていたとはいえ、この催しに参加した私たちにとって、予想を超えた不思議な創造的循環の体験であった。
視聴者からは、大会サイトにおける質問コーナー経由で、「原爆の絵」プロジェクトによって「経験と呼ばれるものが、時間の流れのなかで、想像や創造という契機を含みながら相互作用的に構成されていく様子」(野平慎二会員)が伝わってきて感銘を受けたとのコメントをお寄せいただいた。同コーナーおよびそれ以外に直接にお届けいただいたご感想などを含めると、多くの反響があったコロキウムであったと言える。この場を借りてすべての関係者とご視聴いただいた皆様に御礼申し上げたい。
“memory”は、一般に「記憶」と訳されるが、文脈によって「記録」という言葉があてられることもある。電子媒体の革新とそれを支える科学技術の発展にともなう情報社会化の潮流のなかにある私たちにとって、このことはそれほど意外なことではないだろう。「記憶」とは記銘・蓄積・検索による過去の呼び起こしの営みである。そのようなイメージは、現代人の標準的な「記憶」観でもある。ただ、コンピュータの比喩で捉えられがちな”memory”のイメージとは異なって、人間の記憶と想起に対する感触は、もう少し柔らかく、不確かで、移ろいやすく、儚くて、だからこそ創造的な部分を含むように思われる。
李舜志会員から寄せられた「不確かな「絵」というメディアを採用する意義とは何か」という問いへの回答は、この辺りにかかわるように思われる。言語から(絵画という)非言語への〈翻訳〉によって、たんなる記録を超え出る“memory”そのものの捉え返しが絶えず生じうる。そこに認められる不確かな反復にこそ、〈創造〉的なもの(過去の意味づけ、現在に対する理解、未来への展望)が〈伝承〉とともに生起する土壌のようなものが認められるのではないだろうか。
カタストロフィの記憶が「さまざまな媒体によって翻訳されるにせよ、翻訳された「表現性」の「真正性」を保証する何か」があるのではないか。眞壁宏幹会員からは、そのような質問をお寄せいただいた。この点は、構成主義のうちに修正主義が入り込んでくることへの危惧をどのように考えることができるのか、という問題とも連なる重要なポイントである。「原爆の絵」プロジェクトに限定して言えば、どのような絵画的表現でも許容されるわけではない。このプロジェクトには、その表現の妥当性について言及しうる拠り所としての被爆体験者という審級が存在している。むしろ、体験世代の後の人びとによる、記憶が限りなく想像に接近せざるをえない「ポストメモリー」(M・ハーシュ)の時代において、想像による創造がどこまで集合的記憶と呼びうるのか、という問題が教育学の方面でも真摯に問われてよいだろう。この点は引き続き考察するに値する。神話などのようにその内容を変えないことを重視する拘束型の想起文化が一方にあり、記憶継承における想像と創造の余地を許容しつつその内容の模倣的変形に新しい肯定的な可能性を期待する文化が他方にある。本コロキウムの参加者は、「原爆の絵」プロジェクトを後者に位置づけつつ、その特徴を浮き彫りにすることを試みた。
眞壁会員からは、「原爆の絵」における「色彩表現の独特さに圧倒」されたとの感想もお寄せいただいた。「何とも言えない暗さや不気味さや傷ましさ」を表出しており、「非日常感など様々な感情が呼び起こされ」たと。このこととのかかわりで、眞壁会員からは、「絵画特有なもの、それは、描かれたモチーフや体験の事柄にではなく、それらを示すとき色彩や線表現に現れる「表現性」」そのもののうちにあるのではないかというご意見をいただいた。コロキウムの動画をあらためて視聴し直してみると、高校生や卒業生がこのこととかかわる重要な発言をしていたことがわかる。コロキウムではこの点を十分に発展させて検討することができなかった。紙幅の関係でこれ以上言及することがかなわないが、その回答を提出しえたときに、李会員からの上述の質問にもより正確に答えることができると思う。本コロキウムを契機として、ご関心のある方々とともに引き続き継続して議論していきたい。
(文責:山名淳、小野文生、古波藏香、濵本潤毅、久島玲)