コロキウム4

日本学術会議と教育思想史研究

         企画・司会:小玉重夫(東京大学)

         報告:岡部美香(大阪大学)

            小玉重夫(東京大学)

         コメント:荻原克男(北海学園大学)

              高田春奈(東京大学大学院、(株) V・ファーレン長崎)


Webライブディスカッション(9月12日9:00-12:00)

【概要】


 日本学術会議が第 25 期新規会員候補として推薦した 105 名のうち、一部の候補者が内閣総理大臣によって任命されないという事態が発生した。本学会はこれに対して任命 見送りの十分な根拠の明示と任命見送りの撤回を求める緊急声明を、発表した(2020年10月6日)。以上を受けて、本コロキウムでは、教育思想史研究者が今回の一連の事態をどのように受け止めているか、日本学術会議の活動に関わっている学会員を含めて、率直な意見交換の場を持つために企画された。学問と政治の関係、日本の学術の今後において日本学術会議が果たすべき役割とそこでの教育思想史研究の立ち位置等について、広く議論をしていきたい。

【大会を終えて】


 以下は、文責者(小玉)による要約を含んだまとめと私見にもとづく振り返りであり、寄せられた質問のすべてを網羅しているわけではない。本コロキウムの詳細な報告と振り返りについては、各報告者とコメンテーターが執筆する2022年に刊行される『近代教育フォーラム』第31号に掲載予定のコロキウム報告を参照されたい。

教育思想史学会第31回大会

コロキウム4

日本学術会議と教育思想史研究

企画・司会:小玉重夫(東京大学)

報告:岡部美香(大阪大学)

   小玉重夫(東京大学)

コメント:荻原克男(北海学園大学)

     高田春奈(東京大学大学院、(株) V・ファーレン長崎)

 Webライブディスカッション(9月12日9:00-12:00)

当日、zoomのチャット機能と口頭で、以下の質問、意見が寄せられた。

山名淳会員からは、小玉報告における「ポスト人文科学」に関連して、学問における人文科学のアジール的な性格及びその(潜在的)機能の承認と制度の中て確保する仕組みの可能性について指摘がなされた。

下地秀樹会員からは、ごく普通の市民にとっても、学会員にとっても、学術会議はよほど「意識高い系」でもなければその名くらいしか知らない「体制」なのだろう、そのような学術会議が、秘儀とまでは断定しないとしても、果たして公儀と言える活動を成しているのか、会員として実際に活動された経験をもつ報告者の経験を聞きたい、という質問があった。

西村拓生会員からは、「無知な市民」としての専門家と市民、という理念と関わって、そのような、自らのよって立つ前提をアンラーンできる「市民」とは、どのように育つのか、たとえば「コロナ敗戦」で露呈したのは、そのような「市民」が日本では充分に育っていないという状況ではないか、そうした市民の育成を戦後を通じて妨げてきたものについて、どのように見立てているか、という問いが提起された。

以上の質問をふまえてあらためて本コロキウムで浮かびあがってきた問題を言えば、アカデミックキャピタリズムとの向き合い方、そして、そのただ中から生起するポスト人文学の可能性を、イノベーション概念の再定義をしていくことによってさぐることなのではないだろうか。ここでいうイノベーションとは、2021年4月に施行された「科学技術・イノベーション基本法」が、「人文科学のみに係る科学技術」及び「イノベーションの創出」を「科学技術基本法」の振興の対象に加えたことを念頭においており、それは、隠岐さや香の指摘をふまえていえば、イノベーション1.0(1950年代の技術革新)、イノベーション2.0(1990年代以降のIT系を中心とした知識基盤社会を駆動するイノベーション)を経た、イノベーション3.0(SDGsやジェンダー平等、自然環境への配慮等を含む経済、環境、社会を三本柱としたイノベーション=社会変革)の段階を示している(隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社、2018)。イノベーション3.0は文系理系の二分法を超え、研究と教育の二分法を超えるが、同時に、アカデミックキャピタリズムのヘゲモニーがイデオロギー闘争の磁場を占拠しており、それをいかに転換していくかが問われている。

 本コロキウムによせられたポスト人文学の課題、学術会議の議論の公儀化や、市民性教育の可能性といった質問は、そうしたイノベーション3.0におけるアカデミックキャピタリズムのヘゲモニー転換と関わってこそ、議論される必要があるだろう。

 それは思想的には、アレントが批判的に示した観照的世界の活動的世界に対する優位という構図を転換させること(プラトンの支配からの脱却)、その際に、活動的世界の担い手としての市民を、「コミュ力の高い専門家」でも、「意識高い系の市民」でもない、「無知な市民」として位置づけ直すという見通しにおいて、そしてそのルートとしての高大接続改革(コロキウム1を参照)として、構想されることになるだろう。

(以上、文責 小玉重夫)