◉ 夜見ヶ嶋が弓ヶ浜半島になっていく経過の研究に「弓ヶ浜半島の完新世における地形発達と海岸線変化」などがあるが、インターネットに公開されている研究資料として『地質ニュース』が参考となる。
(URL : https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/2010_04_04.pdf )
の 31 ページに「第 3 図 弓ヶ浜半島の形成過程。徳岡ほか (1990) の図を再構成し、一部加筆」とあり、
等が、論稿の末尾に文献として挙げられている。31 ページに掲載された図の原論文は、国立国会図書館デジタルコレクションで一般公開されているので、そちらも全文を確認できる。
(URL : http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10809875_po_ART0003485743.pdf?contentNo=1&alternativeNo= )
その図によれば、「奈良時代(約 1,200 年前)」の弓ヶ浜は島の状態であった。つまりは西暦 700 年代、出雲国風土記が書かれたころのその場所は〝夜見の島〟だったと、推定されているのである。いうなればそこは〝弓ヶ浜〟ならぬ〝夜見ヶ嶋〟だったのだ。
出雲国風土記には伯耆国の〈夜見嶋〉が「国引き神話」以外にも三ヶ所、合計で四ヶ所、記述されている。
その〈夜見嶋〉の南にあたる海上に、スクナビコナの説話の伝承地でもある〈粟嶋〉があったのだけれど、江戸時代の干拓事業でその島も、そのころはすでに半島となっていた夜見ヶ浜とつながった。
現在は鳥取県の米子市彦名町(よなごしひこなちょう)となっているその地に〈粟嶋神社〉がある。
そして米子市夜見町として、いまも弓ヶ浜半島に〝夜見〟の名が残る。昭和 29 年まで「夜見村」という自治体名だったけれども、同年に米子市の「夜見町」となった。―― かつては、〝粟島村〟の北に〝夜見村〟があり、夜見村の北は〝美保湾〟に面していたとも、説明されたようだ。美保湾というのは、半島東側の湾曲部の海をいい、美保関とは異なる。現在島根県の美保関に対面している鳥取県の市町村は、境港市である。
ちなみにというか「夜見ヶ浜(よみがはま)」の名称は、1970 年代の『新詳高等地図』〔帝国書院刊(帝国書院編集部編、文部省検定済)〕の「索引」に、記載がある。なぜかそこに「弓ヶ浜」の名はない。
The End of Takechan
◉ ところで、前回の最後に次のように書いた。
次回は、〝カガミの舟に乗って〟やって来たという、スクナビコナの記録を参照する予定なのだが、古事記でスクナビコナは、カミムスヒの子とされている。
食物の種を蒔き歩くスクナビコナは、各地の風土記にも多数の記録が残されている。―― スクナビコナのこの全国的展開はすなわち古事記の伝によれば、親が回収した〝五穀の種〟を、子が蒔くというシチュエーションなのであるが、ただしそれとは異なって、日本書紀ではスクナビコナはタカミムスヒの子と伝承される。
一般に、カミムスヒは出雲系の神話に登場するので出雲神話の神とみなされているのだけれど、いっぽうでタカミムスヒは出雲系の神話以降もしばしば描かれており継続して天神の中心的役割が与えられるという、それぞれの立場の相違がある。
という、意気込みではあるのだけれど。
―― 上記の「食物の種を蒔き歩くスクナビコナは、各地の風土記にも多数の記録が残されている」という点について、スクナビコナの登場シーンをあらためて調べてみると、各地の風土記に残されているのはもっぱら〝オホナムチとともに天下を巡行したスクナビコナの記録〟であった。そして今回はどうやら、出雲での両者の邂逅と、別離のシーンを追うこととなる。
☆ 前回の地図に、夜見嶋(夜見ヶ浜)周辺の情報を追加したので、参考にされたし。
○ 以前にも参照した〝風土記の索引〟で、スクナビコナが風土記に登場した回数は確認できる。ついでに関連事項を見ていて「美保山」という地名にでくわした。―― その他の項目を含めて、ここで、周辺情報の索引をまとめて引用し、今後に備えておきたい。
(p. iii)
小学館新編古典文学全集 →小
岩波古典文学大系 →大
(p. 2)
あぢすきたかひこねのみこと(阿遅須伎高日古尼命・味鉏高彦根尊・味耜高彦根命)
小
播 096, 13
逸 513, 13
参 567, 下
大
播 328, 10
逸 499, 09
あぢすきたかひこのみこと(阿遅須枳高日子命・阿遅須伎高日子命)
小
出 146, 12・202, 05・228, 10・228, 15・250, 14
大
出 110, 01・172, 02・202, 05・202, 10・226, 06
(pp. 22-23)
すくなひこな(少彦名)
小
参 577, 上
大
逸 449, 13
すくなひこなのかみ(少彦名神)
※備考 大系本には当該記事なし。
小
参 581, 下
すくなひこなのみこと(宿奈毗古那命・宿奈毗古奈命)
小
逸 508, 06・508, 07
大
逸 495, 06・495, 07
すくなひこねのみこと(少日子根命・小比古尼命)
小
播 054, 07・092, 11・092, 13・094, 02
大
播 290, 08・324, 10・324, 11・324, 13
すくなひこのみこと(須久奈比古命・少日子命・小彦命)
小
出 242, 03
逸 489, 04
大
出 216, 05
逸 445, 07・480, 07
(p. 87)
あはしま(粟嶋・阿波嶋)
小
出 156, 07・176, 10
逸 489, 03・489, 05
参 584, 上・584, 上
大
出 120, 10・144, 03
逸 480, 07・480, 08・493, 07
(p. 204)
みほやま(美保山)
小
播 026, 03
大
播 264, 10
(p. 214)
よみのしま (夜見嶋)
小
出 138, 12・172, 01・172, 07割・172, 08割
大
出 102, 01・138, 11・140, 03割・140, 04割
〔橋本雅之/編『古風土記並びに風土記逸文語句索引』より〕
◉ 出雲国風土記に「粟嶋」の記述は複数個所あるけれど、スクナビコナは、〈須久奈比古命〉の名でだた一度しか登場しない。そしてその類話は〈少日子根命〉の名で播磨国風土記にも収録されている。
また、中央の神話として採録された形に近い〝スクナビコナの物語〟が、伯耆国風土記の逸文として『釈日本紀』に引用されていることは有名だ。伯耆国風土記逸文のスクナビコナは、自分の蒔いた粟の実りに弾かれて、「粟嶋」から〝常世の国〟に去った。日本書紀では、スクナビコナが常世に渡った場所は「淡嶋(あはのしま)」と記録されている。
○ 風土記から、「美保山」「夜見嶋」の記述を採録してみよう。「国引き神話」に登場する「夜見嶋」については、「日本海の朝日」のページ〔『大系本 風土記』「出雲國風土記 意宇郡」(pp. 100-103) 〕その他でふれたので、参照されたい。また〝ヨミの島〟ではないけれど「出雲國風土記 出雲郡」には〝ヨミの坂〟があったので、「神門郡」の〝スセリヒメ〟の記述と合わせて添えておく。―― なおスクナビコナの行状にかかわる「粟嶋」の記述を伯耆国風土記逸文等にみていくのは、次回「渡来神スクナビコナ / 粟嶋」にて。
[原文] 大國里 〔土中々〕 所以號大國者 百姓之家 多居此 故曰大國
此里有山 名曰伊保山 帶中日子命乎坐於神而 息長帶日女命 率石作連大來而 求讚伎國羽若石也 自彼度賜未定御廬之時 大來見顯 故曰美保山 々西有原 名曰池之原 々中有池 故曰池之原
々南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰大石 傳云 聖德王御世 弓削大連 所造之石也
(頭注)
大國里
加古川市西神吉の大国が遺称地。ここから西および西南にわたる平野地。和名抄の郷名に大国(於保久爾)とある。
百姓
農耕に従事する良民。
大國
農耕地(水田)が広く多い意。
伊保山
高砂市伊保町の独立丘(一一三米)となっているが、北方魚橋(いおはし)に連続していた山の名とする。
帶中日子命
仲哀天皇。
坐於神
神として奉持しの意。崩御せられた御遺骸を奉じていることをいう。
息長帶日女命
仲哀天皇の皇后、神功皇后。
石作連大來
石棺・陵墓の造築に従事した氏族。大来は名。
羽若石
香川県綾歌郡綾上村羽床上・綾南町羽床下が遺称地。ここに産する石材を陵墓造築の材として求めに行かれたことをいう。
御廬
天皇の遺骸を安置奉祭する仮宮。殯宮。
見顯
御廬(殯宮)の場所を見付け出した。それがこの山という意。
美保山
ミホ・イホ両様に呼ばれたものか。共にミイホの略とするのである。
池之原
山の西北方の北池・南池・池尻、原ガ谷・北原が遺称地。
作石
細工を施した石。伊保山の北麓にある俗称石の宝殿。家を横倒しにした形と称する。
大石
今はオホシコ(生石)神社の神体とする。
聖德王
聖徳太子。
王
推古天皇の皇太子で摂政であったから、天皇に準じていう。太子の摂政は物部守屋滅亡後で時代が前後する。伝承の年代錯誤。
弓削大連
物部守屋。排仏を主張して聖徳太子に攻め亡ぼされた(五八七没)。
所造之石
生前自身のために作った墓(石棺)の意。
[訓み下し文] 大國の里 〔土は中の中なり。〕 大國と號くる所以は、百姓の家、多く此に居り。故、大國といふ。
此の里に山あり。名を伊保山といふ。帶中日子命を神に坐せて、息長帶日女命、石作連大來を率て、讚伎の國の羽若の石を求ぎたまひき。彼より度り賜ひて、未だ御廬を定めざりし時、大來見顯しき。故、美保山といふ。山の西に原あり。名を池の原といふ。原の中に池あり。故、池の原といふ。
原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈、廣さ一丈五尺、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖德の王の御世、弓削の大連の造れる石なり。
[ふりかな] おほくにのさと 〔つちはなかのなかなり。〕 おほくにとなづくるゆゑは、おほみたからのいへ、おほくここにをり。かれ、おほくにといふ。
このさとにやまあり。なをいほやまといふ。たらしなかつひこのみことをかみにませて、おきながたらしひめのみこと、いしつくりのむらじおほくをゐて、さぬきのくにのはわかのいしをまぎたまひき。そこよりわたりたまひて、いまだみいほをさだめざりしとき、おほくみあらはしき。かれ、みほやまといふ。やまのにしにはらあり。なをいけのはらといふ。はらのうちにいけあり。かれ、いけのはらといふ。
はらのみなみにつくりいしあり。かたち、やのごとし。ながさふたつゑ、ひろさひとつゑいつさか、たかさもかくのごとし。なをおほいしといふ。つたへていへらく、しやうとこのおほぎみのみよ、ゆげのおほむらじのつくれるいしなり。
[原文] 蜈蚣嶋 周五里一百卅歩 高二丈 古老傳云 有蜛蝫嶋蜛蝫 食來蜈蚣 止居此嶋 故云蜈蚣嶋 東邊神社 以外悉皆百姓之家 土體豐沃 草木扶疎 桑麻豐富 此則所謂嶋里 是矣 〔去津二里一百歩〕 卽自此嶋 逹伯耆國郡內夜見嶋 磐石二里許 廣六十歩許 乘馬猶往來 鹽滿時 深二尺五寸許 鹽乾時者 已如陸地
(頭注)
蜈蚣嶋
大根島の東北にある江島(八束郡八束村)。
食來
くわえて来て。
神社
上の神社名列記に蜛蝫社が二社見える。
嶋里
島に農耕を営む民戸の部落が出来、里(こざと)を構成していたのである。
去津二里一百歩
島の位置を示す注記で、この島へ往来する大根島の津から島までの里程をいうのであろうか。或は美保関町サルガ鼻附近の船着き場(津)から、この島までの里程(最も近い陸地までの距離)をいうか。
夜見嶋
夜見ガ浜、また弓ガ浜の地。島になっていたのである。以下は夜見島へ通う路について記す。
已
全く。すっかり。
[訓み下し文] 蜈蚣嶋 周り五里一百卅歩、高さ二丈なり。古老の傳へていへらく、蜛蝫嶋にありし蜛蝫、蜈蚣を食ひ來て、此の嶋に止まり居りき。故、蜈蚣嶋といふ。東の邊に神の社あり。この外は悉皆に百姓の家なり。土體豐沃え、草木扶疎りて、桑・麻豐富なり。此は則ち、謂はゆる嶋の里、是なり。〔津を去ること二里一百歩なり。〕 卽ち、此の嶋より伯耆の國郡內の夜見の嶋に達るまで、磐石二里ばかり、廣さ六十歩ばかり、馬に乘りながら往來ふ。鹽滿つ時は、深さ二尺五寸ばかり、鹽乾る時は、已に陸地の如し。
[ふりかな] むかでしま めぐり5さと130あし、たかさ2つゑなり。ふるおきなのつたへていへらく、たこしまにありしたこ、むかでをくひきて、このしまにとどまりをりき。かれ、むかでしまといふ。ひむがしのへにかみのやしろあり。このほかはことごとにおほみたからのいへなり。つちこえ、くさきしげりて、くは・あさゆたかなり。こはすなはち、いはゆるしまのさと、これなり。〔つをさること2さと100あしなり。〕 すなはち、このしまよりははきのくぬちのよみのしまにいたるまで、いは2さとばかり、ひろさ60あしばかり、うまにのりながらかよふ。しほみつときは、ふかさふたさかいつきばかり、しほひるときは、すでにくがのごとし。
[原文] 戶江剗 郡家正東廾里一百八十歩 〔非嶋 陸地濱耳 伯耆郡內夜見嶋將相向之間也〕
栗江埼 〔相向夜見嶋 促戶渡 二百一十六歩〕 埼之西 入海堺也
(頭注)
戶江剗
夜見ガ浜の西北端、外江町の対岸にあたる地で、交通の要所の故に関が置かれていた所。遺蹟地は明らかでないが、美保関町森山の西方。
栗江埼
美保関町森山。クリは岩礁の意。今も入道クリと呼ぶ礁がある。
促戶渡
島根半島の地と夜見ガ浜の地とが最も接近して、水路の狭くなった箇所(促戸)の渡し場。
入海堺
ここまでが中海で、この崎を東に越せば大海(日本海)であるという意。
[訓み下し文] 戶江の剗 郡家の正東廾里一百八十歩なり。〔嶋にあらず、陸地の濱なるのみ。伯耆の郡內の夜見の嶋に相向かはむ間なり。〕
栗江の埼 〔夜見の嶋に相向かふ。促戶の渡、二百一十六歩なり。〕 埼の西は、入海の堺なり。
[ふりかな] とのえのせき こほりのみやけのまひむがし20さと180あしなり。〔しまにあらず、くがのはまなるのみ。ははきのくぬちのよみのしまにあひむかはむほどなり。〕
くりえのさき 〔よみのしまにあひむかふ。せとのわたり、216あしなり。〕 さきのにしは、いりうみのさかひなり。
[原文] 宇賀鄕 郡家正北一十七里廾五歩 所造天下大神命 聘坐神魂命御子 綾門日女命 爾時 女神不肯 逃隱之時 大神伺求給所 是則此鄕也 故云宇賀
卽 北海濱有礒 名腦礒 高一丈許 上生松 芸至礒 里人之朝夕如往來 又木枝人之如攀引 自礒西方有窟戶 高廣各六尺許 窟內有穴 人不得入 不知深淺也 夢至此礒窟之邊者必死 故俗人 自古至今 號黃泉之坂 黃泉之穴也
(頭注)
宇賀鄕
平田市の奥宇賀・口宇賀から国富にわたる宇賀川の南岸地域。
綾門日女命
他に見えない神名。
聘
求婚する。「よばふ」に同じ。〔引用注:「聘」の文字は原文では「聘」の「耳」の個所を「言」に置き換えた文字〕
腦礒
平田市の西北端猪目にある。下文(一九五頁)に脳島とあるのに近い海岸の崖、岩壁(礒)。
自礒西方有窟戶
以下の一条を釈日本紀巻六に引用。
窟戶
岩穴の入口。この附近に岩窟多く、いずれか確かでない。後藤説はゲンザガ鼻の岩窟に擬している。
黃泉之坂 … 穴
死者の国に至る坂また穴の意。
[訓み下し文] 宇賀の鄕 郡家の正北一十七里廾五歩なり。天の下造らしし大神の命、神魂命の御子、綾門日女命を聘ひましき。その時、女の神肯はずて逃げ隱ります時に、大神伺ひ求ぎ給ひし所、是則ち此の鄕なり。故、宇賀といふ。
卽ち、北の海濱に礒あり。腦の礒と名づく。高さ一丈ばかりなり。上に松生ひ、芸りて礒に至る。里人の朝夕に往來へるが如く、又、木の枝は人の攀ぢ引けるが如し。礒より西の方に窟戶あり。高さと廣さと各六尺ばかりなり。窟の內に穴あり。人、入ることを得ず。深き淺きを知らざるなり。夢に此の礒の窟の邊に至れば必ず死ぬ。故、俗人、古より今に至るまで、黃泉の坂・黃泉の穴と號く。
[ふりかな] うかのさと こほりのみやけのまきた17さと25あしなり。あめのしたつくらししおほかみのみこと、かむむすびのみことのみこ、あやとひめのみことをつまどひましき。そのとき、めのかみうべなはずてにげかくりますときに、おほかみうかがひまぎたまひしところ、これすなはちこのさとなり。かれ、うかといふ。
すなはち、きたのうみべたにいそあり。なづきのいそとなづく。たかさひとつゑばかりなり。うへにまつおひ、しげりていそにいたる。さとびとのあしたゆふべにゆきかよへるがごとく、また、きのえだはひとのよぢひけるがごとし。いそよりにしのかたにいはやどあり。たかさとひろさとおのもおのもむさかばかりなり。いはやのうちにあなあり。ひと、いることをえず。ふかきあさきをしらざるなり。いめにこのいそのいはやのほとりにいたればかならずしぬ。かれ、くにひと、いにしへよりいまにいたるまで、よみのさか・よみのあなとなづく。
[原文] 滑狹鄕 郡家南西八里 須佐能袁命御子 和加須世理比賣命坐之 爾時 所造天下大神命 娶而通坐時 彼社之前 有磐石 其上甚滑之 卽詔 滑磐石哉詔 故云南佐 〔神龜三年 改字滑狹〕
(頭注)
滑狹鄕
出雲市の西南隅、神西東分、神西西分から湖陵村東三部・西三部・常楽寺・畑村にわたる地域。神西湖の東南の地。
和加須世理比賣命
古事記に見えるスセリヒメ命と同神か。
彼社
下の神社名列記の奈売佐社に鎮座。
磐石
神西西分の高倉神社東方の渓流岩坪にある岩をこれに擬している。
滑磐石
ナメシ(滑)イハ(岩)の約。
[訓み下し文] 滑狹の鄕 郡家の南西のかた八里なり。須佐能袁命の御子、和加須世理比賣命、坐しき。その時、天の下造らしし大神の命、娶ひて通ひましし時に、彼の社の前に磐石あり、其の上甚く滑らかなりき。卽ち詔りたまひしく、「滑磐石なるかも」と詔りたまひき。故、南佐といふ。〔神龜三年、字を滑狹と改む。〕
[ふりかな] なめさのさと こほりのみやけのひつじさるのかた8さとなり。すさのをのみことのみこ、わかすせりひめのみこと、いましき。そのとき、あめのしたつくらししおほかみのみこと、あひてかよひまししときに、そのやしろのまへにいはあり、そのうへいたくなめらかなりき。すなはちのりたまひしく、「なめしはなるかも」とのりたまひき。かれ、なめさといふ。〔じんきさんねん、じをなめさとあらたむ。〕
〔日本古典文学大系 2『風土記』(pp. 264-265, pp. 138-139, pp. 140-141, pp. 182-183, pp. 202-205) 〕
―― 出雲国風土記のワカスセリヒメは、古事記のスセリビメと同じく、スサノヲの子として描かれている。
◎ 古事記はスセリビメをオホクニヌシの正妻として位置づけるが、その直後に語られた物語で、高志の国のヌナカハヒメが登場するのである。そこに至るまでの、古事記の展開を次にみていこう。〔高志のヌナカハヒメについては、「加賀の郷 / 三穂の埼」のページ「大国主神 4 沼河比売求婚」等を参照されたい。〕
The End of Takechan
さてオホナムヂとも称されるオホクニヌシは、八十神の迫害を避けて、おそらくは伯耆の国の大山(だいせん)山麓から、木の国(紀伊国)へと脱出した。そこからさらに、追ってきた八十神を振り切るため、神話版・異次元装置のような「木の俣(きのまた)」をくぐり抜けてスサノヲの棲む根の国へと向かい、そこでまたまたさらなる種々の試練を受ける羽目となる。
その揚句に、あろうことか根の国でのそれらの試練を乗り越える最大の協力者となったスサノヲの娘スセリビメを背にかつぎかっさらって、とっとと根の国から逃走している最中。―― 追い迫ったスサノヲにスセリビメを正妻とするよう宣告を受け、その前提の承認として、「爲大國主神」とも告げられたのは、すなわちスサノヲから「オホクニヌシとなれ!」とエールを送られた形だ。
ようするに、オホクニヌシというのは、スサノヲから与えられた名でもあるのだ。
―― ここで余談程度の付記ではあるが。以下の『大系本 古事記』引用文中に原文を示すけれど、スサノヲが最初の邂逅シーンで「此は葦原色許男と謂ふぞ」といい、ヨモツヒラサカ付近で遠望して「オホクニヌシとなれ!」と〔絵的には拳を振りかざしつつ〕呼ばわったその最後に、ののしって「是奴也(是の奴・このやつこ)」といったのは、物語の流れから見るに、スサノヲ出し抜き試練をクリアしたばかりでなく娘を遠く連れ去るクソヤロウに対して、精一杯の感情の吐露であろうから、現代日本語で意訳すれば、賛辞としての「このスットコドッコイ!!」というようなあたりか。
かくして根の国から帰還する際、オホクニヌシは〈黄泉比良坂〉を通過した。その坂の名は、現在島根県松江市の東出雲町揖屋に残されている。そして今では伯耆の国と地続きとなった、夜見嶋(夜見ヶ浜)に近い鳥取県の西伯郡大山町に、スセリビメを第一の祭神とする〈唐王・松籬神社〉がある。スセリビメを祀った唐王神社に松籬神社が合祀された経過は『大山町誌』に、
菅原道眞命は元一宮神社の摂社であったが、明治元年十月神社改正のとき、唐王神社の境内に移転し、松籬神社と言っていたのを明治四十二年、唐王神社に合祀された唐王松籬神社となった。
と記録される。もともと唐王神社と称したのは、スセリビメを「唐王御前」といったかららしい。〔〈唐王松籬神社〉に関するその他の情報はこのページ末尾の資料『大山町誌』を参照されたし。〕
この一連の神話で、スセリビメは、オホクニヌシがスサノヲから与えられた試練を克服するための協力者として描かれているのだけれど、そういえばヤマタノヲロチの神話でも、スサノヲの妻となったクシナダヒメも櫛に変化(へんげ)して、神話の解釈としてはどうやらスサノヲの戦闘能力ないしは霊力を加護した形となっていた。
そしてオホクニヌシの協力者といえば、根の国から生還したオホクニヌシの国づくりのための新たな協力者として、しばしスクナビコナが登場する次第となる。先にも書いたが、今回はオホクニヌシとスクナビコナの邂逅と、別離のシーンまでとなる。
○ 古事記で語られたそれらのシーンから「根国訪問」説話の始まりと終わりの部分を参照し、次に、日本書紀でも語られているスクナビコナの去来(別離と到来)の物語を見ておきたい。
[原文] 於是八十神見、且欺率‐入山而、切‐伏大樹、茹矢打‐立其木、令入其中、卽打‐離其氷目矢而拷殺也。爾亦其御祖命、哭乍求者、得見、卽折其木而取出活、吿其子言、汝有此間者、遂爲八十神所滅、乃違‐遣於木國之大屋毘古神之御所。爾八十神、覓追臻而、矢刺乞時、自木俣漏逃而云、可參‐向須佐能男命所坐之根堅州國、必其大神議也。故、隨詔命而、參‐到須佐之男命之御所者、其女須勢理毘賣出見、爲目合而、相婚、還入、白其父言、甚麗神來。爾其大神出見而、吿此者謂之葦原色許男、卽喚入而、令寢其蛇室。
(頭注)
茹矢
次の氷目矢と同じ。意義不明であるが、クサビ(楔)のようなものか。
卽
楔を打ちこんだ木と木の間に入らせると同時に。入らせるや否や。
拷殺
拷は打と同じ。打ち殺した。
得見
見つけることができて。
木國
紀伊の国。
違遣
八十神を避けてお遣りになった。
矢刺乞時
弓に矢をつがえて(大穴牟遅神を)所望する時。
自木俣漏逃而云
大屋毘古神が大穴牟遅神を木の股の間からこっそり逃がして、おっしゃったことには。ここ記伝をはじめ諸説があるが、今このように解してみた。
須勢理毘賣
名義未詳。
爲目合而
目と目を見合わせて(心を通じる意)。
[訓み下し文] 是に八十神見て、且欺きて山に率て入りて、大樹を切り伏せ、茹矢を其の木に打ち立て、其の中に入らしむる卽ち、其の氷目矢を打ち離ちて、拷ち殺しき。爾に亦、其の御祖の命、哭きつつ求げば、見得て、卽ち其の木を折りて取り出で活かして、其の子に吿げて言ひしく、「汝此間に有らば、遂に八十神の爲に滅ぼさえなむ。」といひて、乃ち木の國の大屋毘古の神の御所に違へ遣りき。爾に八十神覓ぎ追ひ臻りて、矢刺し乞ふ時に、木の俣より漏き逃がして云りたまひしく、「須佐能男の命の坐します根の堅州國に參向ふべし。必ず其の大神、議りたまひなむ。」とのりたまひき。故、詔りたまひし命の隨に、須佐之男の命の御所に參到れば、其の女須勢理毘賣出で見て、目合爲て、相婚ひたまひて、還り入りて、其の父に白ししく、「甚麗しき神來ましつ。」とまをしき。爾に其の大神出で見て、「此は葦原色許男と謂ふぞ。」と吿りたまひて、卽ち喚び入れて、其の蛇の室に寢しめたまひき。
(ふりがな文) ここにやそかみみて、またあざむきてやまにゐていりて、おほきをきりふせ、ひめやをそのきにうちたて、そのなかにいらしむるすなはち、そのひめやをうちはなちて、うちころしき。ここにまた、そのみおやのみこと、なきつつまげば、みえて、すなはちそのきををりてとりいでいかして、そのこにつげていひしく、「いましここにあらば、つひにやそかみのためにほろぼさえなむ。」といひて、すなはちきのくにのおほやびこのかみのみもとにたがへやりき。ここにやそかみまぎおひいたりて、やざしこふときに、きのまたよりくきのがしてのりたまひしく、「すさのをのみことのましますねのかたすくににまゐむかふべし。かならずそのおほかみ、はかりたまひなむ。」とのりたまひき。かれ、のりたまひしみことのまにまに、すさのをのみことのみもとにまゐいたれば、そのむすめすせりびめいでみて、まぐはひして、あひたまひて、かへりいりて、そのちちにまをししく、「いとうるはしきかみきましつ。」とまをしき。ここにそのおほかみいでみて、「こはあしはらしこをといふぞ。」とのりたまひて、すなはちよびいれて、そのへみのむろやにねしめたまひき。
[原文] 故爾追‐至黃色泉比良坂、遙望、呼‐謂大穴牟遲神曰、其汝所持之生大刀・生弓矢以而、汝庶兄弟者、追‐伏坂之御尾、亦追‐撥河之瀨而、意禮 〔二字以音。〕 爲大國主神、亦爲宇都志國玉神而、其我之女須世理毘賣、爲嫡妻而、於宇迦能山 〔三字以音。〕 之山本、於底津石根宮柱布刀斯理、〔此四字以音。〕 於高天原氷椽多迦斯理 〔此四字以音。〕 而居。是奴也。故、持其大刀・弓、追‐避其八十神之時、每坂御尾追伏、每河瀨追撥、始作國也。
故、其八上比賣者、如先期美刀阿多波志都。〔此七字以音。〕 故、其八上比賣者、雖率來、畏其嫡妻須世理毘賣而、其所生子者、刺‐挾木俣而返。故、名其子云木俣神、亦名謂御井神也。
(頭注)
庶兄弟
腹違いの兄弟。ママはイロに対する語。
意禮
お前とか、おぬしとかの意。第二人称の卑称。神武紀に「爾、此云飫例。」の訓注がある。
爲大國主神、亦爲宇都志國玉神
この国の支配者となるべきための数々の試煉に堪えて、武力的(政治的)支配力(生大刀・生弓矢)を身につけて大国主神となり、呪的宗教的支配力(天の詔琴)を身につけて宇都志国玉神となるのである。
嫡妻
正妻。新撰字鏡に嫡は適と同じで、「牟加比女」又は「毛止豆女」とある。
宇迦能山
出雲風土記に出雲郡宇賀郷がある。そこの山。
三字以音
この訓注は「山」の字の上にあるべきであるが、諸本皆、「山」の下に記している。
底津石根宮柱布刀斯理 ……
延喜式祝詞に常套的に用いられている語句。「下都磐根爾宮柱太知立、高天原爾千木高知氐」(祈年祭)、「下津磐根爾宮柱太敷立、高天原爾千木高知氐」(六月晦大祓)、「下津石根爾宮柱広知立、高天原爾千木高知氐」(春日祭)などがそれである。また大殿祭祝詞には「底津磐根」の語がある。地底の磐に宮殿の柱を太く掘り立て、天空に垂木を高く上げて、わが物として領する意。「知り」「敷く」は共に治める、又は領する意。千木・氷椽を記伝には肱木(ひじき)の意としているが、千木は風木(チギ)即ち風を防ぐ木、氷椽は日木(ヒギ)即ち太陽を防ぐ木の意(椽の字を書いているから垂木であろう)と解したら如何であろうか。要するにこの対句はりっばな宮殿を作る称辞。
奴
賤しい者の意。
如先期
以前の約束の通り。
美刀阿多波志都
御所与はしつ。御所(ミト)は婚姻の場所、従って婚姻の場所をお与えになった、言いかえれば、結婚をなさったの意。アタハスは「与ふ」に敬意をあらわす助動詞の「す」がついて「与はす」となったもの。この「す」は四段活用の動詞につくのが普通であるが、稀に下二段動詞にもこの現象があり、この場合は本来の語尾をア韻にかえるのである。例えば「ぬ(寝)」が「なす」になるのがそれである。
返
因幡の国に帰った。
木俣神
どういう性質の神か不明。大穴牟遅神が木の俣から漏き逃れたということと関係があるのではなかろうか。
御井神
御井神がなぜ木俣神の別名であるか、両者の必然的関係が明らかでない。
[訓み下し文] 故爾に黃泉比良坂に追ひ至りて、遙に望けて、大穴牟遲の神を呼ばひて謂ひしく、「其の汝が持てる生大刀・生弓矢を以ちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾に追ひ伏せ、亦河の瀨に追ひ撥ひて、意禮 〔二字は音を以ゐよ。〕 大國主の神と爲り、亦宇都志國玉の神と爲りて、其の我が女須世理毘賣を嫡妻と爲て、宇迦能山 〔三字は音を以ゐよ。〕 の山本に、底津石根に宮柱布刀斯理、〔此の四字は音を以ゐよ。〕 高天の原に氷椽多迦斯理 〔此の四字は音を以ゐよ。〕 て居れ。是の奴」といひき。故、其の大刀・弓を持ちて、其の八十神を追ひ避くる時に、坂の御尾每に追ひ伏せ、河の瀨每に追ひ撥ひて、始めて國を作りたまひき。
故、其の八上比賣は、先の期の如く美刀阿多波志都。〔此の七字は音を以ゐよ。〕 故、其の八上比賣をば率て來ましつれども、其の嫡妻須世理毘賣を畏みて、其の生める子をば、木の俣に刺し挾みて返りき。故、其の子を名づけて木俣の神と云ひ、亦の名を御井の神と謂ふ。
(ふりがな文) かれここによもつひらさかにおひいたりて、ほろばろにみさけて、おほなむぢのかみをよばひていひしく、「そのいましがもてるいくたち・いくゆみやをもちて、いましがままあにおとをば、さかのみをにおひふせ、またかはのせにおひはらひて、おれ 〔ふたもじはこゑをもちゐよ。〕 おほくにぬしのかみとなり、またうつしくにだまのかみとなりて、そのあがむすめすせりびめをむかひめとして、うかのやま 〔みもじはこゑをもちゐよ。〕 のやまもとに、そこついはねにみやばしらふとしり、〔このよもじはこゑをもちゐよ。〕 たかまのはらにひぎたかしり 〔このよもじはこゑをもちゐよ。〕 てをれ。このやつこ。」といひき。かれ、そのたち・ゆみをもちて、そのやそかみをおひさくるときに、さかのみをごとにおひふせ、かはのせごとにおひはらひて、はじめてくにをつくりたまひき。
かれ、そのやがみひめは、さきのちぎりのごとくみとあたはしつ。〔このななもじはこゑをもちゐよ。〕 かれ、そのやがみひめをばゐてきましつれども、そのむかひめすせりびめをかしこみて、そのうめるこをば、きのまたにさしはさみてかへりき。かれ、そのこをなづけてきのまたのかみといひ、またのなをみゐのかみといふ。
[原文] 故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內‐剝鵝皮剝、爲衣服、有歸來神。爾雖問其名不答。且雖問所‐從之諸神、皆白不知。爾多邇具久白言、〔自多下四字以音。〕 此者久延毘古必知之、卽召久延毘古問時、答‐白此者神產巢日神之御子、少名毘古那神。〔自毘下三字以音。〕 故爾白‐上於神產巢日御祖命者、答吿、此者實我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也。〔自久下三字以音。〕 故、與汝葦原色許男命、爲兄弟而、作‐堅其國。故、自爾大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作‐堅此國。然後者、其少名毘古那神者、度于常世國也。故、顯‐白其少名毘古那神、所謂久延毘古者、於今者山田之曾富騰者也。此神者、足雖不行、盡知天下之事神也。
(頭注)
御大之御前
出雲風土記島根郡の条に美保埼がある。出雲の国の東北端。「大」はホの仮名。
波穗
白く高く立つ波頭。
天之羅摩船
「天の」は美称。羅摩は和名抄に「本草云、羅摩子、一名芄蘭」とあって、「加々美」の和訓がある。ガガイモのこと。この実を割ると小舟の形に似ているのでカカミ船といったのである。桃太郎の桃や瓜子姫の瓜と同じ性質のもの。書紀の一書には「以白蘝皮為舟」とある。白蘝はヤマカカミ。
鵝皮
記伝には、ここはその神の小さいことを言っているのだから鵝では大き過ぎる。多分「蛾」の誤りであろうとして、ヒムシと訓んでいる。持統紀六年九月の条に「越前国献白蛾。」とある蛾は一本に鵝とあり、これは鵝の誤りらしいから宣長説も捨て難い。また下の仁徳天皇の条に蚕が蛾になることを述べて、「一度為飛鳥」とあるから、鵝は蛾が飛ぶ鳥だというところから用いた字か。とにかく本来の鵝では大き過ぎるし、皮というのにも当らない。書紀の一書には「以鷦鷯羽為衣」とある。鷦鷯はミソサザイ。
內剝 … 剝
全剥で、丸剥ぎに剥いで。
所從之諸神
大国主神のお供の神たち。
多邇具久
谷蟆(タニ-クク)でヒキガエル(蝦蟆)のこと。ククは蛙の古名であろう。
久延毘古
崩え彦の意。崩ゆは崩るの古言。案山子のことである。
少名毘古那神
書紀の一書には少彦名命とある。小男の意か、それとも大ナ・少ナと対称したものか。名義未詳。
神產巢日御祖命
カミムスヒの御母神。
此者實我子也
書紀の一書では高皇産霊尊の児となっている。
久岐斯子
漏れた子。書紀の一書には「自指間漏堕」とある。
其國
葦原の中つ国。
大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作堅此國。
書紀の一書には、「大巳貴命与少彦名命、戮力一心、経‐営天下。」とある。
常世國
海のあなた極遠の地にあるとこしえの齢の国。書紀の一書には、熊野の御碕から常世郷に行ったとも、淡島に行って粟茎にのぼったところが、弾かれて常世郷に至ったとも伝えている。
曾富騰
記伝に、古今集以下の歌に見える「そほづ」と同じで、案山子のこととしている。
[訓み下し文] 故、大國主の神、出雲の御大の御前に坐す時、波の穗より天の羅摩船に乘りて、鵝の皮を內剝に剝ぎて衣服に爲て、歸り來る神有りき。爾に其の名を問はせども答へず、且所從の諸神に問はせども、皆「知らず。」と白しき。爾に多邇具久白言しつらく、〔多より下の四字は音を以ゐよ。〕 「此は久延毘古ぞ必ず知りつらむ。」とまをしつれば、卽ち久延毘古を召して問はす時に、「此は神產巢日の神の御子、少名毘古那の神ぞ。〔毘より下の三字は音を以ゐよ。〕」と答へ白しき。故爾に神產巢日の御祖の命に白し上げたまへば、答へ吿りたまひしく、「此は實に我が子ぞ。子の中に、我が手俣より久岐斯子ぞ。〔久より下の三字は音を以ゐよ。〕 故、汝葦原色許男の命と兄弟と爲りて、其の國を作り堅めよ。」とのりたまひき。故、爾れより、大穴牟遲と少名毘古那と、二柱の神相並ばして、此の國を作り堅めたまひき。然て後は、其の少名毘古那の神は、常世の國に度りましき。故、其少名毘古那の神を顯はし白せし謂はゆる久延毘古は、今者に山田の曾富騰といふぞ。此の神は、足は行かねども、盡に天の下の事を知れる神なり。
(ふりがな文) かれ、おほくにぬしのかみ、いづものみほのみさきにますとき、なみのほよりあめのかかみぶねにのりて、ひむしのかはをうつはぎにはぎてきものにして、よりくるかみありき。ここにそのなをとはせどもこたへず、またみとものかみたちにとはせども、みな「しらず。」とまをしき。ここにたにぐくまをしつらく、〔たよりしものよもじはこゑをもちゐよ。〕 「こはくえびこぞかならずしりつらむ。」とまをしつれば、すなはちくえびこをめしてとはすときに、「こはかみむすひのかみのみこ、すくなびこなのかみぞ。〔びよりしものみもじはこゑをもちゐよ。〕」とこたへまをしき。かれここにかみむすひのみおやのみことにまをしあげたまへば、こたへのりたまひしく、「こはまことにわがこぞ。このなかに、わがたなまたよりくきしこぞ。〔くよりしものみもじはこゑをもちゐよ。〕 かれ、いましあしはらしこをのみこととあにおととなりて、そのくにをつくりかためよ。」とのりたまひき。かれ、それより、おほなむぢとすくなびこなと、ふたはしらのかみあひならばして、このくにをつくりかためたまひき。さてのちは、そのすくなびこなのかみは、とこよのくににわたりましき。かれ、そのすくなびこなのかみをあらはしまをせしいはゆるくえびこは、いまにやまだのそほどといふぞ。このかみは、あしはゆかねども、ことごとにあめのしたのことをしれるかみなり。
〔日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』(pp. 94-97, pp. 98-101, pp. 106-109) 〕
○ 日本書紀では「卷第一」の末尾にスクナビコナの登場シーンが置かれ、語句の訓注が添えられている。
[原文] 一書曰、…… 夫大己貴命、與少彥名命、戮力一心、經營天下。復爲顯見蒼生及畜產、則定其療病之方。又爲攘鳥獸昆蟲之災異、則定其禁厭之法。是以、百姓至今、咸蒙恩賴。嘗大己貴命謂少彥名命曰、吾等所造之國、豈謂善成之乎。少彥名命對曰、或有所成。或有不成。是談也、蓋有幽深之致焉。其後少彥名命、行至熊野之御碕。遂適於常世鄕矣。亦曰、至淡嶋、而緣粟莖者、則彈渡而至常世鄕矣。自後、國中所未成者、大己貴神、獨能巡造。
(頭注)
少彥名命
➝補注1-一〇四。
經營天下
これは記に「二柱神相並、作堅此国」とある。出雲風土記にしばしば「天の下造らしし大神大穴持神」とある。
禁厭之法
禁は、忌む意。厭は禳(はら)う意。虫害・鳥獣の害を除去する法。
蒙恩賴
タマは、生命力。フユは、振るうこと。生命力の活動によって物事が成就し進展するという当時の考え方を表現する語。カガフレリは御巫本私記の訓による。
是談
以下十字、衍入とする説があるが、古写本にすべて存する。御巫本私記の訓には、「コレハモノカタラヒコトナリ。ケダシフカキムネハアルラム」とある。
幽深
幽は、はるか遠いこと。深遠なこと。
熊野之御碕
今、島根県八束郡八雲村熊野。熊野は出雲国意宇郡にある。出雲風土記、意宇郡条に「熊野山、郡家正南一十八里、〈有檜檀也、所謂熊野大神之社坐〉」とある。ミサキは、海岸に限らず、山でも岡でも突出部をいう。
常世鄕
➝補注1-七八。
淡嶋 … 粟莖
釈紀所引伯耆風土記に「相見郡、郡家西北有余戸里、有粟島少日子命蒔粟、秀実離離、即載粟、弾渡常世国、故云粟島也」とある。今、鳥取県米子市に上粟島・下粟島の地名を伝える。粟茎➝補注1-一〇四。
[訓み下し文] 一書〔第六〕に曰はく、…… 夫の大己貴命と、少彥名命と、力を戮せ心を一にして、天下を經營る。復顯見蒼生及び畜產の爲は、其の病を療むる方を定む。又、鳥獸・昆蟲の災異を攘はむが爲は、其の禁厭むる法を定む。是を以て、百姓、今に至るまでに、咸に恩賴を蒙れり。嘗、大己貴命、少彥名命に謂りて曰はく、「吾等が所造る國、豈善く成せりと謂はむや」とのたまふ。少彥名命對へて曰はく、「或は成せる所も有り。或は成らざるところも有り」とのたまふ。是の談、蓋し幽深き致有らし。其の後に、少彥名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世鄕に適しぬ。亦曰はく、淡嶋に至りて、粟莖に緣りしかば、彈かれ渡りまして常世鄕に至りましきといふ。自後、國の中に未だ成らざる所をば、大己貴神、獨能く巡り造る。
(ふりがな文) あるふみ〔だいろく〕にいはく、…… かのおほあなむちのみことと、すくなびこなのみことと、ちからをあはせこころをひとつにして、あめのしたをつくる。またうつしきあをひとくさおよびけもののためは、そのやまひををさむるみちをさだむ。また、とりけだもの・はふむしのわざはひをはらはむがためは、そのまじなひやむるのりをさだむ。ここをもて、おほみたから、いまにいたるまでに、ことごとくにみたまのふゆをかがふれり。むかし、おほあなむちのみこと、すくなびこなのみことにかたりてのたまはく、「われらがつくれるくに、あによくなせりといはむや」とのたまふ。すくなびこなのみことこたへてのたまはく、「あるはなせるところもあり。あるはならざるところもあり」とのたまふ。このものかたりごと、けだしふかきむねあらし。そののちに、すくなびこなのみこと、ゆきてくまののみさきにいたりて、つひにとこよのくににいでましぬ。またいはく、あはのしまにいたりて、あはがらにのぼりしかば、はじかれわたりましてとこよのくににいたりましきといふ。これよりのち、くにのなかにいまだならざるところをば、おほあなむちのかみ、ひとりよくめぐりつくる。
[原文] 初大己貴神之平國也、行到出雲國五十狹狹之小汀、而且當飮食。是時、海上忽有人聲。乃驚而求之、都無所見。頃時、有一箇小男、以白蘞皮爲舟、以鷦鷯羽爲衣、隨潮水以浮到。大己貴神、卽取置掌中、而翫之、則跳囓其頰。乃怪其物色、遣使白於天神。于時、高皇產靈尊聞之而曰、吾所產兒、凡有一千五百座。其中一兒最惡、不順敎養。自指間漏堕者、必彼矣。宜愛而養之。此卽少彥名命是也。顯、此云于都斯。蹈韛、此云多多羅。幸魂、此云佐枳彌多摩。奇魂、此云倶斯美拕磨。鷦鷯、此云娑娑岐。
日本書紀卷第一
(頭注)
五十狹狹之小汀
第九段には「五十田狭之小汀」、記には「伊那佐之小浜」とある。出雲風土記の出雲郡の伊奈佐乃社がそれであろうという。大社町稲佐にある。イササとイタサとは s と t との交替。t と s の交替は次(スギとツギ)などの例がある。大物主神・少彦名神・建御雷神がここに降下し、寄りついた。つまり、ここは、ミアレの場所であったと認められる。
飮食
ミは敬称の接頭語。ヲシは飲食する、治める意。
小男
ヲグナの意未詳。日本武尊を童男といい、これをヲグナと読んでいる。
白蘞
白蘞は白斂に同じ。薬草の一種。名義抄にヤマカガミ。記には羅摩とあり、名義抄に「蘿麻子、カガミ」とある。
鷦鷯
ミソサザイのこと。訓注に「娑娑岐」とあるのは、ササキと清音に訓むように思われるが、サザ・キギ・ツヅなどのような音の連続の場合は、このように清音の文字を繰返して書く例がいくつかある。
高皇產靈尊
ここでは少彦名は高皇産霊尊の子。記では神産巣日神の子とする。
指間
兼夏本頭書に「指間、多万与利」と万葉仮名で記され、また兼方本等の左傍に「タマヨリ」の訓がついている。タマは、手間。兼方本等の他の古訓タママタは、タマの意が不明となってマタが追加されたものか。あるいはタナマタのナが丆と書写されてタママタとなったものか。記には「我が手俣より久岐斯子ぞ」とある。
[訓み下し文] 初め大己貴神の、國平けしときに、出雲國の五十狹狹の小汀に行到して、飮食せむとす。是の時に、海上に忽に人の聲有り。乃ち驚きて求むるに、都に見ゆる所無し。頃時ありて、一箇の小男有りて、白蘞の皮を以て舟に爲り、鷦鷯の羽を以て衣にして、潮水の隨に浮き到る。大己貴神、卽ち取りて掌中に置きて、翫びたまひしかば、跳りて其の頰を囓ふ。乃ち其の物色を怪びて、使を遣して天神に白す。時に、高皇產靈尊、聞しめして曰はく、「吾が產みし兒、凡て一千五百座有り。其の中に一の兒最惡くして、敎養に順はず。指間より漏き堕ちにしは、必ず彼ならむ。愛みて養せ」とのたまふ。此卽ち少彥名命是なり。顯、此をば于都斯と云ふ。蹈韛、此をば多多羅と云ふ。幸魂、此をば佐枳彌多摩と云ふ。奇魂、此をば倶斯美拕磨と云ふ。鷦鷯、此をば娑娑岐と云ふ。
(ふりがな文) はじめおほあなむちのかみの、くにむけしときに、いづものくにのいささのをはまにゆきまして、みをしせむとす。このときに、わたつみのうへにたちまちにひとのこゑあり。すなはちおどろきてもとむるに、ふつにみゆるところなし。しばらくありて、ひとりのをぐなありて、かがみのかはをもてふねにつくり、さざきのはをもてころもにして、しほのまにまにうきいたる。おほあなむちのかみ、すなはちとりてたなうらにおきて、もてあそびたまひしかば、をどりてそのつらをくふ。すなはちそのかたちをあやしびて、つかひをまだしてあまつかみにまうす。ときに、たかみむすひのみこと、きこしめしてのたまはく、「わがうみしこ、すべてちはしらあまりいほはしらあり。そのなかにひとりのこいとつらくして、をしへごとにしたがはず。たまよりくきおちにしは、かならずかれならむ。めぐみてひだせ」とのたまふ。これすなはちすくなびこなのみことこれなり。うつし、これをばうつしといふ。たたら、これをばたたらといふ。さきみたま、これをばさきみたまといふ。くしみたま、これをばくしみたまといふ。さざき、これをばさざきといふ。
[原文] 遂聚常世之長鳴鳥、使互長鳴。
(頭注)
常世
➝補注1-七八。
[訓み下し文] 遂に常世の長鳴鳥を聚めて、互に長鳴せしむ。
(ふりがな文) つひにとこよのながなきどりをあつめて、たがひにながなきせしむ。
七八 常世(一一二頁注)
常世と常夜とを同一視する見解が多いが(記伝など)、常世は tököyö で、常夜は tököyo で本来は別音の別語。しかし、宵は yoFi であるが、此宵となった際は köyöFi となる例もあるから、常夜はあるいは tököyö となって、常世と同音になっていたかもしれない。トコは、もと床の意。床石の意から転じて安定長久・永久不変の意。ヨは世。常住不変の国の意。当時伝来していた神仙思想と結びつき、長生不死の国と解されていた。蓬萊山のある所の意から、遙かに遠い異郷ともされて、田道間守が、時じくの香菓を得て来た所ともいわれた。異郷は観念の上で地下の妣の国に結びつきやすかったのであろうが、また、トコ (tökö) の音がソコ (sökö) の音と交替しうるものであった故という事情も考えられる。常夜は永久の闇の意。たとえば万葉七二三「常呼(とこよ)にと我が行かなくに 小金門に物悲しらにおもへりし わが児の刀自を」などの例もある。
一〇四 少彦名命(一二八頁注)
スクナヒコは、若い男の意。ナノカミのナは土地の意。従って、オホナムチに対して、若い方の土地の神の意であろう。下文に見られるように、オホナムチと共に土地を開拓し、疾病を防ぎ、鳥獣虫害を除く努力をしている。アハの島に至ってアハ茎にのぼったところ、その茎に弾かれて常世国に行ったという伝承のある所から、スクナヒコナは粟(あは)と関係があり、焼畑農耕と関係が深いのではないかと大林太良は考えている。
〔日本古典文学大系 67『日本書紀 上』(pp. 128-129, pp. 130-133, pp. 112-113, p. 561, p. 566) 〕
The End of Takechan
○ 夜見嶋は風土記の時代以降に、伯耆の国と地続きとなったが、現在鳥取県西伯郡大山町の唐王(とうのう)725にスセリビメを祀る「唐王・松籬神社(とうのう・まつがきじんじゃ)」がある。口碑等による伝承を記録して、「唐王神社」境内に、夜見の国からこの地に鎮座したスセリビメの御陵があるとする。
祭 神 須勢理毘売命、菅原道眞命
例祭日 四月二十五日 氏子部落 唐王
由 緒 創立年月は不詳、須勢理毘売命は昔から唐王御前神といい、庶民の信仰が深く、他に異なった古い神社である。神社の言い伝えによれば、須勢理毘売命は大国主大神と共に夜見の国から帰り、土地を引きよせて、農事を開発し、医療の道を広めて患者を救い、神呪の法をもって世を治められ、その功績は大変大きなものであった。
大国主大神はながく日隅宮(出雲大社)に鎮座され、須勢理毘売命はこの地に鎮座されたといい、古くは毎年出雲大社から祭官が参向されたということである。字御前畑という所の西側に、井屋敷という御手洗の井泉がある。今、民家の邸内になっているが、汚れのある者がこの水をくむと、すぐ濁り、社前の砂を投げ入れて清めると、自然に清水になるという。また、この神井の水はどんな干ばつにも乾いたことがなく、毒虫にさされたときには、いち早くこの神水を塗るとすぐ治ると言われている。
したがって、神験もあらたかで、害虫、毒虫、まむしよけの守護神として、人々は玉垣内の砂をいただいて帰り、田畑にまいて害虫よけ、家屋敷にまいて毒虫よけにしている。
この地は、須勢理毘売命を葬ったところと伝えられ、本殿の下に一間四方余りの玉垣があり、その中に高さ五尺ばかりの古い石碑がある。菅原道眞命は元一宮神社の摂社であったが、明治元年十月神社改正のとき、唐王神社の境内に移転し、松籬神社と言っていたのを明治四十二年、唐王神社に合祀された唐王松籬神社となった。
〔『大山町誌』(pp. 986-987) 〕
The End of Takechan
◈ 上記引用文の「農事を開発し、医療の道を広めて患者を救い、神呪の法をもって世を治められ」というスセリビメにかかわる記述は、日本書紀の一書に語られた、オホクニヌシとスクナビコナが国造りに際して行なった共同作業の内容に近い。―― 日本書紀から、いま一度採録しておこう。
この箇所の叙述は印象に残るものがある。日本書紀の記録者の想いはどのようであったろうか。
―― 昔、オホナムチがスクナビコナに訊いたという。
「なあ、俺たちうまくやれたかなあ」
「さあて。うまくやれたこともありゃ、そうでもないところもあるだろうさ。それなりには、せいいっぱいやったさ」と、そう応えたあと、いつかスクナビコナは、常世の国に去った。
◉ スサノヲは、日本書紀の一書に新羅を経由した渡来神のように描かれていた。〔「火産霊 / 稚産霊(火の神カグツチ)」のページ、日本古典文学大系 67『日本書紀 上』「神代上 第八段一書〔第四〕」等を参照のこと〕
またその子イタケルは「釈日本紀」で〈伊太祁曾神(イタキソノカミ)〉に同一だという説が示されており、江戸中期の新井白石も同様に語っていたことは、前回にも触れた。
五十猛神(いたけるのかみ)は、『釈日本紀』に「先師說曰。伊太祁曾神者。五十猛神也。」とある。
出雲国風土記には明記されてないけれど、渡来神である〈イタテ〉の神も、「延喜式」を見れば丹波国などでは〝伊達神社〟その他の表記が用いられ、また出雲国には〝韓国伊太氐神社〟として複数の記載がある。
◎ 草木の種を日本に伝えたあと紀伊国に鎮座したイタケルは渡来神〈伊太氐〉の神に通じ、またいっぽうで、スサノヲの娘にしてオホクニヌシの妻スセリビメに、〈唐王御前〉の名が伝承される。
―― 伯耆の国と出雲の国が交差する地点には、新羅の国ばかりでなく、高句麗の文化につながる遺跡も多い。
以下、引用文献の情報