カガミの舟: 海を渡る蛇

スクナビコナの《カガミの舟》と 海を渡る蛇 のこと


◈ 記紀神話では、海から来訪したスクナビコナの登場シーンを描いて、その乗ってきた舟の名を古事記でも日本書紀でも《カガミの舟》とする。古事記で「乘天之羅摩船而(あめのかかみぶねにのりて)」といい、日本書紀では「以白蘞皮爲舟(かがみのかはをもてふねにつくり)」と記述されるのである。


○ カガミについては、以前に『大系本 萬葉集一』を参照したあとで、少々触れた。要点を再掲する。


日本古典文学大系 4『萬葉集一』

中大兄 [なかつおほえ]〔近江宮御宇天皇〕 三山歌

13

高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相諍競伎 神代從 如此尒有良之 古昔母 然尒有許曾 虚蟬毛 嬬乎 相挌良思吉


中大兄〔近江宮に天の下知らしめしし天皇〕 の三山の歌

香具山は 畝火雄々しと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯くにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 嬬を あらそふらしき

(かぐやまは うねびををしと みみなしと あひあらそひき かみよより かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ うつせみも つまを あらそふらしき)


香具山 / 高をカグと訓む。➝補注。

〔大意〕香具山は畝火山を男らしく立派だと感じて、その愛を得ようと耳梨山と競争した。神代からこうであるらしい。昔もこのようであったからこそ、現世でも一人の愛を二人で争うことがあるものらしい。○ 畝火山を女性、他の二山を男性と見て、ヲヲシを「を愛(を)し」と解する説もある。

補 注

香具山 / 原文の高の字音はカウであるから、カグの音にあてて用いるはずはない、従ってタカヤマと訓むべきであるという論がある。しかしカウは呉音以後の音であって、漢魏の音は別である。董同龢氏の「上古音韵表稿」(歴史語言研究所集刊第十八本)(一九四八年)によれば、高は上古音の宵部に属し、kɔg の音と推定される。従って、カグの音にあてて用いることは、十分考えうることである。孝徳紀の猪名公高見、天武紀の韋那公高見について、威奈大村の墓誌銘に、卿諱ハ大村、檜ノ前五百野ノ宮御宇天皇之四世、後ノ岡本ノ聖朝、紫冠威奈ノ鏡ノ公之第三子也」とあるのを見れば、高見は鏡にあたる。すなわち、ここにも高をカガにあてた例がある。呉音カウは kɔg の g が u に転じて成立した音で、上古音の韻尾の g が中古音において u に転じる例は少なくないのである。

〔日本古典文学大系 4『萬葉集一』(pp. 16-17, p. 327) 〕


―― 現実として 万葉集の時代「高山」は「香具山」の表記として用いられた ――


◉ またいつの頃か「高見」は「鏡」と訓まれた。


ここで思い出されるのは、〝カガミの舟に乗って〟やって来たという、オホクニヌシ(オホナムチ)の相棒スクナビコナの伝承である。そもそも「カガミ(カカミ)」とは何か?

―― 蛇を古来「カカ」ともいうけれど。


風土記に見る 山の神〈夜刀〉との 領域あらそい


新編日本古典文学全集 5『風土記』

常陸国風土記 〈行方の郡〉

古老が言ったことは次のようである。石村[いわれ]の玉穂[たまほ]の宮で天下をお治めになった天皇(継体[けいたい]天皇)のみ世に、ひとりの人物がいた。箭括[やはず]の氏麻多智[うじまたち]という。郡役所から西の谷の葦原[あしはら]を切り開いて新たに開墾した田を献上した。この時、夜刀[やと]の神が、相群れ引き連れて、仲間全部がやってきて、あれこれと妨害をし、田の耕作をさせなかった。〔土地の言葉で、蛇[へび]のことを夜刀[やと]の神と言っている。その形は蛇の体で頭に角がある。家族を引き連れて危険から逃れる時に、ふり返って蛇を見る者があると、一族を滅ぼし、子孫が後を継がなくなる。いったいこの郡役所の側の野原には、ひじょうにたくさん棲[す]んでいる〕こういう状況にあって、麻多智[またち]は、はげしく怒りの感情を起こし、甲鎧[よろい]を身につけ、自分自身が仗[ほこ]を手に持って、打ち殺し追い払った。そこで山の登り口にきて、境界のしるしの柱を堺の堀に立て、夜刀[やと]の神に告げて言ったことには、「ここから上は、神の地とするのを認めよう。ここから下は、人の田を作るべきである。今から後、わたしが神主[かんぬし]となって、永く後代までうやまい祭ることにする。どうかたたらないでくれ、恨まないでくれ」といって、神社を作って初めて夜刀の神を祭った、という。そうして、また、耕田十町余りを開発し、麻多智の子孫が、代々受け継いで祭を行って、今になっても続けられてきた。

〔新編日本古典文学全集 5『風土記』(pp. 377-378) 〕


ちなみに、『広辞苑』を見れば「かか【嚊・嬶】 庶民社会で、自分の妻または他家の主婦を親しんで呼ぶ語。かかあ。」とあった。また「かが【加賀】 旧国名。今の石川県の南部。」ともある。興味深いことには「はは」を調べると、「はは 大蛇。古語拾遺『古語に、大蛇、これを羽羽 はは と謂ふ』」に続いて、「はは【母】 物事を生み出すもと。」と記載があった。


とりあえずは「カカ」も「ハハ」もいにしえの山の神を指すようだ。


◎ と、ばかりに。かく語っていたのであるけれども、807 年に成立した古語拾遺に「古語に、大蛇、これを羽羽と謂ふ」と語られているのは、800 年代にはすでに〝ヲロチをハハという〟のは、説明が必要となっていたからであろう。古語拾遺のその個所も「天蠅斫之剣」のページ で、かつて参照していた。再掲する。


『岩波文庫 古語拾遺』

解 説

古語拾遺は、平城天皇の朝儀についての召問に対し、祭祀関係氏族の斎部広成が忌部氏の歴史と職掌から、その変遷の現状を憤懣として捉え、その根源を闡明しその由縁を探索し、それを「古語の遺[も]りたるを拾ふ」と題し、大同二年(八〇七)二月十三日に撰上した書である。


「素神の霊剣献上」

[原文] 素戔嗚神、自天而降到於出雲国簸之川上。以天十握釼〔其名天羽々斬。今、在石上神宮。古語、大虵謂之羽々。言斬虵也。〕斬八岐大虵。

[訓読文] 素戔嗚神、天[あめ]より出雲国の簸[ひ]の川上[かはかみ]に降到[くだ]ります。天十握剣[あめのとつかつるぎ]〔其の名は天羽々斬[あめのははきり]といふ。今、石上神宮[いそのかみのかみのみや]に在り。古語に、大蛇[をろち]を羽々[はは]と謂ふ。言ふこころは蛇を斬るなり。〕を以て、八岐大蛇[やまたのをろち]を斬りたまふ。

〔岩波文庫『古語拾遺』(p. 159, pp. 125-126, pp. 23-24) 〕

The End of Takechan

《カガミの舟》と〈カカ〉と〈ハハ〉


○ 吉野裕子著『蛇 ―― 日本の蛇信仰』に《カガミの舟》を考察した興味深い論があるので、今回は新たにその一部分を、全集版から引用しておきたい。


『吉野裕子全集 4』

『蛇』〔初刊:1979 年 2 月 法政大学出版局 / 再刊:1999 年 5 月 講談社(講談社学術文庫)〕

第一章 蛇の生態と古代日本人

〈四 蛇の見立てのはじまり〉

2 山と蛇

蛇のトグロを巻いている姿勢は、いつでも敵を襲うという気迫と尊厳を内に潜めているものであって、それは見る側の人間にも無気味さと共に、一種の冒し難いものを感じさせるのである。

この蛇のトグロに関連して注目される神事が出雲の古社・佐太神社に伝承される「神送神事」、通称「お忌み祭り」である。

佐太神社は神奈備山麓にあり、檜扇をご身体とし、扇の紋様をその神紋とされているが、この社の最大の祭り、十一月二十五日の「お忌み祭り」に際しては、出雲の何れかの浦に海神のお使いという竜蛇が必ず上ることになっている。その竜蛇は背黒で腹黄、尾に神紋の扇を負うといわれる海蛇であるが、佐太の社の神前に供え祀られるときには「甑立[こしきだ]て」といって、円錐形にトグロを巻いた形に整えられて、ギヤマンの蓋付三宝の上に据えられる。

佐太大神の前に海神の使いとして、またこの祭りの主役として据えられる蛇は、その際もっとも正統な姿勢をとるはずである。従って蛇の正位とは、円錐形にトグロを巻いた姿なのである。それは上代の炊飯器ともいうべき甑を倒立させた形であるから、「甑立て」と称されるが、これは佐太神社の蛇に限らず、出雲大社に奉納される海蛇も同じ姿であり、日本においては蛇が造型され、描かれるときには、すべてこのトグロ巻きが正統とされている。


第二章 蛇の古語「カカ」

〈はじめに〉

古代の日本人は蛇に対して強烈な信仰をもっていたが、その「擬[もど]き好き」「連想好き」の本性のままに、実に種々様々のものを、この蛇に見立てた。

これら蛇に見立てられた物核[ものざね]の中で、まずもっとも巨大なものは山で、彼らは寂然として聳える円錐形の山の姿に、身体の上に身体を重ねてじっと動かない蛇、つまりトグロを巻く蛇を見たのである。

ついで蛇の肌を思わせる樹木、男根に似る木には、手足のない一本棒の蛇を連想し、また、地上すれすれに葺き下ろされた屋根と、穴グラをもつ竪穴住居を同様にトグロを巻く蛇に擬いたのである。

そうして彼らの蛇の見立ては、このように山とか樹木のような大きいものからさらに身近な小さなもの、諸種の植物にまで及んでいる。ウネウネと伸びひろがる蔓や、地下茎をもつ植物に蛇を感じ、また赤い三角のホウヅキの実莢からは蛇の頭を連想した。

こうして何らかの意味で蛇に見立てられた植物の名称の中には共通して「カカ」の語が潜んでいる。「カカ」はこの植物群中に限らない。古代神祭の詞[ことば]・古代歌謡・方言・民俗の中にも「カカ」は潜んでいる。


〈一 カガチ〉

『古事記』上巻に八俣の大蛇の様子を、

「彼[そ]の目は赤加賀智[あかかがち]の如くにして、身一つに八頭八尾あり。」

と叙し、その註に「此に赤加賀智といへるは、今の酸醬[ほほづき]なり」と見えている。

また『書紀』神代巻には猿田彦神の容貌を次のように記している。

「先駈[さきばらひ]の者還[かみかへ]りて白[まを]さく「一[ひとり]の神あり。天の八ちまたに居り、その鼻の長さ七咫[ななあた]、背の長さ七尺[ななさか]余り、また口尻明[くちわきあか]りてり、眼は八咫[やた]の鏡の如くに、てりかがやけること、赤酸醬[あかかがち]に似[の]れり」と白す。」

このように大蛇及び猿田彦神の目の表現に「カガチ」とか「鏡」(カガミ)という語がしきりに使われている。


〈二 カガミ〉

「故、大国主神、出雲の御大[みほ]の御前[みさき]に坐[ま]す時、波の穂より天の羅摩[かがみ]船に乗りて、鵝の皮を内剝[うつはぎ]に剥ぎて衣服として、より来る神ありき。ここにその名を問はせども答へず。また所従[みとも]の諸神に問はせども皆「知らず」と白しき。ここにたにぐくまをしつらく「こはくえびこぞ必ず知りつらむ」とまをしつれば、即ちくえびこを召して問はす時に「こは神産巣日[かみむすび]神の御子、少名毘古那神[すくなひこなのかみ]ぞ」と答へ白しき。…… 故、それより大穴牟遅と少名毘古那と、二柱の神相並ばして、この国を作り堅めたまひき。さて後は、この少名毘古那神は、常世国に渡りましき。故その少名毘古那神を顕し白せしいはゆるくえひこは、今に山田の曽富騰[そほど]といふぞ。この神は足は行かねども、ことごとに天の下の事を知れる神なり」(『古事記』上巻)。


「頃時[しまらく]ありて一[ひとり]筒の小男[をぐな]あり。白蘞[かがみ]の皮以ちて舟とし、さざきの羽以ちて衣として、潮のまにまに泛び到りき、大巳貴[おうなむち]の神、掌中に取り置きて、もてあそびしかば跳りてその頬[つら]をくひき。その物色[かたち]を怪みて使を遣して天つ神に白[まを]しき。時に高皇産霊[たかみむすび]の尊、聞しめしてのりたまひしく、「吾が産める児すべて一千五百座あり。その中に一の児いと悪しくして教養[をしへ]に順はず、指間[たなまた]より漏きおちしはかならず彼[それ]ならむ。宜愛[うべめぐ]みて養[ひた]せ」とのりたまひき。こは少彦名命[すくなひこなのみこと]なり」(『日本書紀』巻一、傍線筆者、以下も同じ)。〔引用注:傍線は太字にて表示した〕


このように同じ「カガミ」の語に対して、『古事記』には「羅摩」の字が宛てられ、『書紀』ではそれが「白蘞」となっている。

またここにはじめてみえる山田の「曽富騰[そほど]」は、『記伝』によれば『古今集』以下の歌に見える「そほづ」と同じで「案山子[かかし]」のこととされ、これが定説となっている。

それではこの羅摩(蘿摩)と白蘞は古来、どのように解釈されているのだろうか。

『和名抄』には、

「芄蘭。本草云蘿摩子一名芄蘭。和名加加美

と見え、『重修本草綱目啓蒙 十五 蔓草』には

「蘿摩。カガミグサ・ガガイモ・チチグサ

山野に最も多し。春旧根より苗を生じ、藤蔓繁延す。…… 茎葉を断ずれば白汁出、夏月、葉間に穂を生ず。長さ一・二寸の小花を開く。五弁にして、形、鈴鐸の如し ……。」

と説明されている。

一方、『紀』において少彦名命の舟とされている白蘞は、『和名抄』には、「夜末賀々美[やまかがみ]」と訓まれ、『重修本草綱目啓蒙 十五 蔓草』は、これを次のように説明している。

「白蘞。和産なし …… 春、宿根より苗を生ず。藤蔓甚長し。其葉、初生するものは円にして尖り、次に生ずるものは三尖となる。並に鋸歯ありて蛇葡萄[のぶどう]葉に似たり ……」

神話に登場する二つの「カガミ」、つまり「蘿摩」と「白蘞」は右のように解説されている。……


〈三 「カガミ」と「カガチ」〉

『記』の「蘿摩[かがみ]』と『紀』の「白蘞[かがみ]」とは全く異種の植物である。しかしこの二者の間には多くの共通点がある。

  1. 二者ともに少彦名神の乗物。
  2. 二者ともに「カガミ」という名称をもつ。
  3. 互いに異種の植物ではあるが、共に蔓草で、前者は長い地下茎をもち、後者は巻ひげをその特色とする。

このような共通性をもつが、それはこの蘿摩と白蘞に限らない。「カガミ」の異称をもつヤブカラシとか豆ヅタ等の植物も同様に「蔓植物」なのである。

要するに「カガミ」といわれる植物間に存在する絶対の共通点は、「蔓植物」ということである。「カガミ」という名称は、つまり長くはう地下茎とか、他のものにまつわりつく蔓をもった植物に冠せられる名称なのである。これらの蔓植物は、すべて今日の私どもが、「カガミ」という語からすぐ連想する「鏡」とは全く縁のない植物であって、『新日本植物図鑑』の著者も、「白蘞」が「カガミグサ」といわれる理由は判らない、と率直に述べておられる。

さらに考察を進めよう。

「カガミ」を考える上で参考になる語に、「カガチ」がある。『和名抄』によれば、「ヤマカガチ」は大蛇の意であるという。

  • カガ
  • カガ

「チ」は「ミズチ」(水蛇)、「オロチ」(大蛇)などというように、蛇・虫類を指し、また霊力を表わす語ともされる。


〈四 少彦名神の神格とカガミの舟〉

先述のように「カガミ」即「蛇」の仮説実証に役立つものは、少彦名神の神格である。

少彦名神は、蔓植物のカガミの舟に乗ってきたという。連想と擬[もど]きの好きな、そうしてまた凝[こ]り性の日本人が意味もなくただ漫然と少彦名神をこのような植物の舟に乗せているはずがない。これにはそれなりの深いわけがありそうに思われる。

古代日本人は太陽の昇るところ、東方の海の彼方、沖縄でいうニライカナイを、祖霊の在るところ、生命をはじめすべての物のあるところとして信仰した。生命の種はそこから渡って来て男性の中に貯えられる。きわめて「小さい男」の名称を負う少彦名神は、種神・生命の源・精虫の象徴であって、その神格化ではなかったろうか。


〈五 カカシ〉

少彦名神の協力を得て大国主神は国土経営に当ったが、最初はこの少彦名神を知るものは誰もいなかったのである。大国主神が出雲の美保崎におられるとき、鵝[が]の皮を着、蘿摩[カガミ]の舟に乗って、波のまにまに寄ってくる小さい神があった。左右の人々もその神が誰なのかわからない。ヒキガエルが出てきて、それはクエビコが知っているという。そこでクエビコをよんでこれにきくと、はじめて少彦名神の名とその由緒が判る。

『古事記』によると、

「故[かれ]、その少彦名神を顕[あら]はし白[もう]せしいわゆる久延[クエ]ビコは、今に山田のソホドというぞ。この神は足は行かねども、盡[ことごと]に天の下のことを知れる神なり。」

と見え、このソホドは足ではどこにも行けないが、天下のことなら何でも知っている、ということで、古来、案山子[カカシ]とされている。

この案山子の語義もまた不詳であるが、山を案ずる、つまり山をおもうものの意であろう。山をおもうものとは山から来たものであることを暗示する。蛇は古来、山の神である。

ここで大蛇の異名に「山カガシ」があることを思い合せれば、山から来て田を守る神、「カカシ」の本質もやはり蛇として受取られるのである。


〈七 カカ〉

7 大年神神裔中の「カカ」と「ハハ」

大年神の神裔の中に山の神と推測される二柱神、

○ カガヤマトオミノ神

○ ハヤマトノ神

が併記されていることは注目される。『古事記』上巻には、大年神と天知迦流美豆比売の間には十柱の神が挙げられているが、その中の庭津日・阿須波・波波木神については既に拙著『祭りの原理』において考察したのでここにはふれない。

「カカ」に対する「ハ」は恐らく「ハハ」の省略であつて、元の語は「ハハヤマ」と推測され、それは木に見たてられた蛇神の「蛇木[ハハキ]」(波波木)に対する山に見立てられた蛇神、「蛇山[ハハヤマ]」(羽山神)として捉えられる。

蛇神を輩出している大年神神裔中にみられるこの二柱の山神に冠せられた「カカ」と「ハハ」或いは「ハ」は、いずれも蛇の古語に由来するものと思われる。

〔『吉野裕子全集 4』(pp. 46-47, pp. 55-81) 〕


◎ 上記引用文中《大年神の神裔》については、以前にも触れたことがあるけれど、古事記の原文をこのページにも再掲しておいたので、参照されたい。また、上の論において、「この案山子の語義もまた不詳であるが、山を案ずる、つまり山をおもうものの意であろう」と述べられているのは、すでに「カカシ」の音韻ではなく、それを表記する宛字(あてじ)が、そのように採用された意味についての解釈となっている、ということを、蛇足ではあろうがここに補足しておきたい。


―― さらに蛇足と恐れつつ補論すれば、記紀の神話が成立した時代には上記「常陸国風土記 〈行方の郡〉」に見られるように、また日本書紀「神代上 第八段一書〔第二〕」においてはスサノヲが《汝(いまし)は是可畏(これかしこ)き神なり》と宣言したごとくに、蛇は山から人間界に侵入してくる、境界線上の、祭祀すべき《畏き神》なのであった。


The End of Takechan


○ さて、一方で、焼畑に関する資料に「カガシ(カカシ)」についての次のような記録がある。


『焼畑民俗文化論』

Ⅱ 焼畑系基層民俗文化の実際

「9 害獣との戦い」

一 猪 〈一 防除法〉

1 臭気による防除

猪は嗅覚の鋭い獣である。この猪の性質を逆用して猪を防除する方法があった。その、臭気による猪の防除法を大別すると、1・クタシ系、2・カガシ系、3・カコ系の三種となる。


⑵ カガシ系

㋐ 人臭によるもの ① 人の汗のしみついた衣類を焼畑の周囲に吊し、「カガシ」と呼んだ(静岡市閑蔵)。 ② 同様のものを静岡県磐田郡水窪町有本・同引佐郡引佐町渋川では「ソメ」と呼んだ。 ③ 宮崎県西都市銀鏡、同児湯郡西米良村、同東臼杵郡椎葉村では同様のものを「カジメ」と呼んだ。 ④ 乾し草に汗のしみた衣類を着せ、これを焼畑の周囲に立て「オンジモ」と呼んだ(静岡市閑蔵)。 ⑤ 人の汗のしみた衣類を焼畑の周囲の柴に着せ、「カガセ」と称した(徳島県那賀郡木沢村岩倉)。 ⑥ 焼畑の周囲に綱を張り、人臭のしみたボロ布をたらし、「シモ」と呼んだ(静岡市田代)。静岡市口坂本では、焼畑のまわりに綱を張り、これにコールタールを塗り、「シモナワ」と称した。⑥の変形と見てよかろう。 ⑦「アガリ着物」(使用しなくなった着物)を裂き、小便をつけて木の枝にはさみ、焼畑の周囲に立てた(鹿児島県大島郡瀬戸内町篠川)。 ⑧ 人の汗のしみた衣類を柴に着せ、これを「入道ジメ」と称した(高知県香美郡物部村野々内)。 ⑨ 蔓に人の汗のしみた衣類を吊って、焼畑の周囲にまわした(鹿児島県肝属郡大根占町半ケ石)。

㋑ ヤイカガシ ① 牡の猪の毛・川芎(強臭植物)・檜の皮を叩いてまぜ合わせ、それを分けて一本ずつの竹(三~四〇センチのスズ竹)の先にはさみ、おのおのを焦がして、八センチ四方ほどの板を雨除けの蓋としてつけ、焼畑の周囲に、二、三メートルおきに立てた。三、四日おきに焦がしてまわった。これを「ヤイカガシ」と呼んだ(静岡県榛原郡本川根町梅地)。 ② 猪の毛を①と同様にして挾んで焦がし、これを「ヤンジモ」「ヤキジモ」と呼んだ(静岡市田代)。同様のものを静岡市閑蔵では「ヤイカジカ」と呼んだ。 ③ 四〇センチ前後のスズ竹の先にニラと髪の毛を挾み、上部に杉皮の蓋をつけ、火で焦がした。五、六間おきに立て、二週間おきに焦がしてまわった。これを「ヤイジモ」と称した(静岡県榛原郡本川根町平栗)。…… ⑨ 猪の毛・山羊の毛・人間の髪の毛をスズ竹の先に挾み、焼畑の周囲に立て、これを「ヤイジリ」と称した(山梨県南巨摩郡早川町茂倉)。 ⑩ 女の髪の毛を竹や棒の先にはさんで焦がし、油紙で雨よけを作り、焼畑の周囲に立て、これを「シメ」と呼んだ(高知県香美郡物部村野々内)。 ⑪ 女の髪の毛を竹にはさんで焦がし、竹の皮で雨よけを作ってこれを焼畑の周囲に立て、これを「カカシ」と称した(山梨県南巨摩郡身延町大垈)。 ⑫ 女の髪の毛を竹の先に挾んで焼畑に立てた。これを「コウヤキ」と呼んだ(大分県大野郡野津町西神野)。 ⑬ 猪の皮を四寸四方ほどに切り、その隅を針金で吊って棒の先につけて焼畑の随所に立て、これに火をつけて焦がした。特に名称はない(静岡県磐田郡水窪町草木)。


◍ 節分呪法「ヤイカガシ」の起源 ◍

「ヤイカガシ」は「焼き嗅がし」の意である。ここで想起されるのは、全国各地で節分の日に広く行われる「ヤイカガシ」である。…… 静岡市閑蔵では、樒に鰯の頭を包み、柊、ビンカ、エビ蔓(野ブドウ)を添え、家の主の箸にはさんで揷す。箸も、柳、山椒など木を選ぶ地が多い。

節分のヤイカガシの発生基盤が焼畑の害獣除けにあったことは、次の諸点によって明らかになろう。 ⑴ 悪臭物を焼き焦がして嗅がせることによって外来の侵入物を遮断、防御する。 ⑵「ヤイカガシ」という共通の名称が見られること ⑶ 境に設置すること ⑷ 静岡市奥仙俣に、椿の葉に毛髪をはさんで立てる形の猪除けが残っているが、ここに、樒の葉に鰯の頭を包む方法の原型を見ることができること ⑸ 箸または箸状のものにはさんで立てること ⑹ 宵の口に焦がすこと などである。節分は、追儺と民間信仰が習合したものと考えられているが、その中の「ヤイカガシ」は、焼畑文化圏で発生した民俗なのである。焼畑農民が、生活経験の中で強臭物を焼き焦がして害獣を防いだ経験から、その方法を住居に侵入する病魔・悪霊を遮断、追放する呪術に応用したのであった。これが、広く、稲作文化圏にも及んだものと見てよかろう。静岡県榛原郡本川根町土本では節分の日、ヤイカガシを作った時に、家の畑一枚一枚に樒の枝を揷す習慣があった。節分のヤイカガシと畑のヤイカガシの脈絡の残存と見てよかろう。

〔野本寛一/著『焼畑民俗文化論』(p. 162, pp. 165-167, pp. 168-169) 〕

The End of Takechan


○ 古事記と日本書紀の記述は、あとで詳しく見ることとして、《海から来る神》と蛇(セグロウミヘビ)に関する考察をここで参照しよう。―― ちなみに「虹霓虹蜺(こうげい)」という言葉があって、古くは虹を竜の一種と考え「雄を虹、雌を霓・蜺といった」ことが辞書に載っている。


『谷川健一全集 4』

『古代海人の世界』〔初出: 1995 年 12 月 10 日、小学館発行〕

第一章 古代海人の世界 「三 海霊と海神」

〈海霊から海神へ〉

威霊であるタマがあり、それがやがて人格的なカミに発展した、という説を折口信夫は唱えている(「霊魂の話」)。常世国から訪れた威霊が、大国主命(大己貴[おおなむち]神)に付着して国土経営の力を与えたが、その威霊がやがて少彦名[すくなびこな]命という人格神になった、と折口は考える。

大国主命のヌシは、ニジと同じく蛇(類)と語源を一[いつ]にする言葉であるから、大国主の別名、大国魂のタマも、蛇(類)のもつ威霊と無縁ではないだろう。『日本書紀』は、少彦名命が常世に帰っていったあとで、「神[あや]しき光海[うな]に照[てら]して」やってくるものがいた、と記している。大国主命がその正体を問うと、「自分はお前の幸魂奇魂[さきみたまくしみたま]である」と答えた。「どこに住みたいか」と聞くと、「大和[やまと]の三輪山に住みたい」と答えた、とある。

「神しき光海に照して」やってくるものが、ほかならぬセグロウミヘビであることを、私はすでに明らかにしている(『神・人間・動物』)。それが大国主命の幸魂奇魂というのであるが、幸は幸運をもたらす威霊であるから、セグロウミヘビの動物霊が外来の威霊となって、大国主命に付着した、ということになる。三輪山の神が蛇であることは、三輪山伝説が伝えるところである。こうしてみると、大国主命の別称の大国主神、または大国魂神という場合の神は、集団の人格神を強調するために、のちに付加したものであることが分かる。海霊から海神へという観念の発展過程は、この例からも立証できる。

〔『谷川健一全集 4』(p. 320) 〕


『神・人間・動物 ―― 伝承を生きる世界』〔初出: 1975 年 11 月 20 日、平凡社発行( 1986 年 6 月 10 日、講談社学術文庫)〕

海を照らす神 [あや] しき光 ―― 海蛇

〈「神光照海」の扁額〉

数年まえの春四月はじめ、私は出雲の美保神社の境内で、舟庫[ふなぐら]におさめられて陳列してあるクリ舟をながめていた。……

…………

さて、舟庫の屋根をふと見上げたとき、そこにかかった扁額の「神光照海」という文字が私の目を射た。いったい、どうして、ここにこのような文字額がかかげてあるのか、私は怪訝[けげん]な思いに捉われて、しばらくたたずんでいた。社務所に詰めている若い禰宜[ねぎ]にその由来を聞いてみたが、然るべき答えは得られなかった。

「神光照海」という文字に私がひとりこだわっていたのは、それが『日本書紀』の中からとったものであることを知っていたからである。「神光照海、忽然有浮来者」という記事がそれで、「神[あや]しき光[ひかり]海を照らして」とよませている。「忽然[たちまち]に浮かび来る者」はオオナムチの幸魂奇魂[さきみたまくしみたま]で、大和の三輪山に住みたい、という希望を述べたとある。

『古事記』ではここのところがすこしちがっていて、オオクニヌシの神が独力で国造りをすることが困難であるとなげいていると、「この時に海を光[て]らして依り来る神」があった。その神がオオクニヌシの神の国造りに協力するかわりに、自分を大和の三輪山にいつきまつれと言った、となっている。そして三輪山の神のオオモノヌシが蛇神であることは、『記紀』に語られている。

これらと似た表現はさらに『古事記』の他の箇所にある。前項でホムツワケが白鳥の飛ぶのをみて、口を動かしたという話を述べたが、『古事記』によると、山辺の大鶙[おおたか]が白鳥を追いかけ越の国でその白鳥をつかまえて献じたけれども、ホムツワケはその鳥をみても、まだおもうように物を言うことができなかった。そのときホムツワケの父王の夢に出雲の大神であるオオクニヌシがあらわれて、自分の住む宮居を大王の宮殿のようにりっぱにつくってくれたら、皇子はかならず口をきくことができるようになると告げた。

そこでホムツワケは出雲に行き、「檳榔[あじまさ]の長穂[ながほ]の宮」に住んだ。ある夜ヒナガヒメとむすばれたが、その娘をそっとみると蛇であったのでホムツワケは逃げ出した。ヒナガヒメは「海原を光[てら]して船より追いきたりき」としるされている。ここではヒナガヒメが蛇であったことが力説されている。ナガの語源はもともとサンスクリットのナーガからきたもので蛇をさすとされている。そこで「海原を光して」という表現は感覚的であって、たんなる形容ではないことがわかる。

しかも「アジマサの長穂の宮」のアジマサはビロウ樹、南島でいうクバの木である(2)。クバは沖縄ではもっとも神聖な木で、御嶽[うたき]と称せられるところにはかならずといってよいほど植えてあり、その木の下が拝所となっている。クバの葉は南島人の日常生活の道具に万能の役割を果たしている。平安時代のわが宮廷でもアジマサの扇といわれて珍重された。このようにしてみれば、海原を照らしてくる蛇神やアジマサの長穂の宮が出てくる出雲の風土には、どこか南の海の匂いがする。


〈竜蛇神をめぐる神事〉

私が美保神社を訪れてみた「青柴垣[あおふしがき]の神事」はオオクニヌシの子どものコトシロヌシの、水葬儀礼を模したものと解されている(4)。国ゆずりを迫るアマテラスの使者が高天原[たかまがはら]から出雲にやってきたとき、コトシロヌシはちょうど美保の岬で魚をとって遊んでいる最中であった。オオクニヌシから「おまえの意見はどうか」と聞かれて、「この国は天つ神の子孫に献上しましょう」と答えると、コトシロヌシは、海中に八重の青柴垣をつくり、その中にかくれてしまった、と『記紀』にある。コトシロヌシというのは、その名からも推察しうるように、神の言葉をとりつぐ媒介者で、同時に呪術家でもあった。奇妙な手つきで拍子をうつと、舟はたちまち青柴垣にかわった。その中にかくれてコトシロヌシは水平線の彼方にすがたを消してしまった。

この青柴垣はいま、祭りのときの神船にしつらえた幔幕[まんまく]の四隅をかざる榊の束に象徴されている。沖縄では以前には人が死ぬと青木の枝葉を折りとってその死体にかぶせたという。それは日本の古代でいう殯[もがり](5)に相当するものだった。青柴垣にもそうした意味があるにちがいない。

…………

……、私は美保神社の祭りをみたあと、佐太神社を訪ねた。そこで会った佐太神社の神職の朝山芳圀にむかって、

「海を光[てら]して依り来る神と『記紀』にあるのは海蛇ではないかとおもうのですが」

と質問してみた。すると朝山宮司は、

「そのとおりなんです。夜に海蛇が海の上を渡ってくるときは、金色の火の玉にみえる、と漁師たちはいいます。その金色の火の玉を網で掬[すく]って海蛇を捕らえるのです」

と答えた。そうしてみれば「神光照海」はたんなる形容ではなかったのだ。この海蛇は佐太神社で十一月下旬におこなわれる神在[かみあり]祭(7)にはなくてはならぬものとされている。佐太の近傍の浦々や海上で捕らえられた海蛇は、「竜蛇[りゅうじゃ]さま」と呼ばれ、竜宮の使いと信じられて、漁民たちの尊崇すこぶる篤く、これを神社に奉納する。そうすれば火難水難のまじないになるという信仰は出雲から石見[いわみ]にかけてひろがっている。


〈セグロウミヘビの威厳〉

ではこの謎めいた海蛇の正体は何であろうか。出雲の竜蛇について研究を重ねている動物学者の上田[かみだ]常一による(9)と、それは南方産のセグロウミヘビ(10)である。南方のあたたかい海から黒潮に乗ってきて日本海に分布しているウミヘビには、セグロ・クロガシラ・マダラ・エラブの四種があるが、セグロウミヘビが圧倒的に多いと上田は言う。対馬[つしま]海流が日本海を洗うとき、それは沖合流と沿岸流の二つに分かれ、セグロウミヘビは海岸をへだたる七十四キロまでの沿岸流に乗ってやってくる。

…………

毎年きまったころに季節をたがえずやってくるセグロウミヘビを、素朴な人たちは竜神の使者と考えて、ふかく信仰した。それには、背黒く腹は黄色にして、いわゆる天地玄黄[てんちげんこう]をそなえているセグロウミヘビの身体的特徴も、あずかって大きかった。体長は二メートルにも及ぶものもあるが、ふつうは六十~七十センチ程度で、そんなにグロテスクではない。しかし目も歯もするどく、おのずから威厳をそなえている。出雲の海岸にたどりつくころは毒性もよわまり、人を害することもないので、親しまれている。船の櫂[かい]に似た平べったい尾には、黄色な地に黒の美しい斑紋[はんもん]があって、すこぶる目を引く。

大社に上がる竜蛇の尾には六角の紋があり、佐太のは扇の紋、日御碕[ひのみさき]のは三つ柏[がしわ]になっているといわれ、地域によってそれぞれの神社の神紋をあらわしていると思われているが、これは俗信にすぎないと上田は述べている。それにしてもさまざまに変化のある尾のみごとな斑紋と、腹部のあざやかな黄色とは、セグロウミヘビをほかの海蛇や陸蛇と容易に区別させた。その形姿はさながら竜宮の使者にふさわしいものであった。


〈家に入った蛇〉

出雲石見の海岸でとれたセグロウミヘビは、ホンダワラ(方言でジンバとよぶ)の上にのせて家にもちかえり、その下にサンダワラを敷いて床の間にそなえ、家族や親戚一同でお祝いをしたのち、神社におさめる。すると神社から籾一俵をたまわるのが慣例であったというが、死んだ海蛇を三方[さんぼう]の上にとぐろをまかせたかっこうにするのをコシキダテと呼んでいる。コシキを重ねたようにするのである。そのためには専門の剝製師[はくせいし]が必要であるが、どこの神社も神職がやっている。

…………

竜蛇奉納の記録としては美保関[みほのせき]の才浦から美保神社に奉納された、元治[げんじ]元年陰暦十月のものが一番古いとされているが、さきに述べたように、石見の韓神新羅[からかみしらぎ]神社では安政年間に「竜蛇上[あが]り」の報告がみられる。出雲大社の千家宮司は、この信仰が室町末期にすでにあったことは記録に明らかとしている(12)。

古来、竜蛇は出雲大社では西にあたる稲佐浜[いなさはま]、佐太神社では西北にあたる恵曇[えとも]の古浦[こうら]から上がるとされていた。この古浦ととなりの江角浦[えずみうら]とをあわせて神在浜[かみありはま]と呼ぶが、そこには板橋という社人が居住し、藩から食禄を受けて、竜蛇上げの職を奉じていたといわれる。佐太の竜蛇の上がる浜はいまは変わってきていて、神社の東北にあたる笠浦が主である。

その笠浦の漁師の船越佐太郎に会って聞いた話では、昭和四十二年、笠浦の多古鼻[たこはな]灯台から沖合三マイルで、五千五百燭光の集魚灯をともしてイカ釣りをしていたところ、午前一時ころに北西の風が吹いて、船の舳[へさき]が西向きになった。左舷[さげん]をみまわすと、船ばたから一メートルくらいの船の陰にあたる部分に、何やら光るものがあった。他の海蛇は光らないので船越はピンときた。さっそく、たも網ですくいとって水を汲む桶の上に竜蛇をすえてはこんだということであった。

この例で考えられるのは、セグロウミヘビが集魚灯の強烈な光をうけて光ったのではないかという疑いである。海蛇はそのとき船の陰の部分にあたる海面にいたのだから、他の生物だったら暗やみにまぎれるが、セグロウミヘビは黄色あざやかな腹部をしているので、何かの調子に光を反射したのかもしれない。上田常一の説では、セグロウミヘビの蛇腹は退化して平滑であるために、光を反射しやすいのではないか、ということである。

…………

いずれにしてもセグロウミヘビが火の玉のように光るとか、黄金の波をかきわけてやってくるとかいう目撃者の証言は、「神光照海」という表現となって、古代の史書にはっきり刻みこまれている。こうしてみれば出雲の竜蛇信仰は、歴史をさかのぼってはるか古代につながるものとして差し支えないであろう。

ただ奇異におもうのは、『記紀』の中で、その蛇神が大和の三輪山にいつきまつられたいという希望を申し出ているのはどうしたわけだろう、ということである。出雲に上陸した海蛇のゆくえをしばらく追ってみたいとおもう。


〈大和の竜蛇信仰〉

三輪山の神が蛇であるのは、『日本書紀』の有名な説話で明らかである。ヤマトトトビモモソヒメがオオモノヌシの妻となったが、この神は昼はみえず夜だけしかこなかったので、その正体は分明でなかった。ヒメがそのすがたをみたいと言うと、オオモノヌシは明朝櫛箱をみなさいと答えた。ヒメがそのとおりにしたところ、櫛箱の中には、衣の紐ぐらいの美しい小さな蛇がはいっていた。ヒメがおどろきの声をあげたので、小蛇は虚空をふんで三輪山にのぼっていってしまった。

…………

『出雲国造神賀詞[いずものくにのみやつこのかみよごと]』には「出雲の神々を大和の四ヵ所のかんなび山(13)におすえした」という言葉があって、その四ヵ所とは、三輪のかんなび(オオモノヌシとクシミカタマの命[みこと])、葛城[かつらぎ]の鴨のかんなび(アジスキタカヒコネの命)、宇奈提[うなで]のかんなび(コトシロヌシの命)、飛鳥のかんなび(カヤナルミの命)をあげている。カヤナルミは『記紀』には出てこない神で不明であるが、コトシロヌシとアジスキタカヒコネはオオクニヌシの子どもとなっていて、いずれも出雲の神々である。

コトシロヌシの青柴垣[あおふしがき]が蛇のシンボルかもしれぬと前に述べたが、飛鳥にいます神社は伝承では祭神がコトシロヌシとされている。飛鳥のかんなび山は甘橿丘[あまかしのおか]という説もあるが、通説では雷丘[いかずちのおか]に比定[ひてい]されている。とすれば雷=蛇であるから、蛇神をまつることになる。アジスキタカヒコネもまた『古事記』に「み谷二[たにふた]わたらす神」、つまり二つの谷に渡って光りかがやく蛇とうたわれた。大和の葛城の地は鴨神をいつきまつって移住定着した出雲人の居住地であったと考えられている。このように出雲から大和に移された四つの「かんなび山」の祭神はすべて蛇であり、しかもどこかセグロウミヘビをおもわせる。

さらにいえばオオモノヌシとかコトシロヌシとか、出雲系の神々の特徴であるヌシは、もともと蛇をあらわす語と考えることができる。沼の主、池の主もそうである。このヌシはニジともおなじ語源をもつ。ニジを翼のある蛇と考える習俗は日本本土、沖縄、台湾にかぎらず、オーストラリヤまで分布をみせる(14)。

…………

セグロウミヘビが漂着したり捕獲されたりするのは、出雲の海岸にはかぎらない。富山から新潟、さらにとおく津軽海峡に入りこんだ陸奥湾の平内[ひらない]半島にもみられる。しかし、ただ石見と出雲だけにあのような竜蛇信仰は生まれた。秋から冬に移行する出雲海岸の「お忌[い]み荒れ」は、アナジ(タマカゼ)という西方風によってもたらされた。それはまた海蛇をもはこんだのである。そこで西北(戌亥[いぬい])を神聖視する観念が生まれたのではなかったか(16)。大和からみて西方の出雲が神聖視されたのは、出雲の海岸に立って海蛇神の到来を予知する季節風を顔にうけたときの感覚が残っていると私は考えている。


(2) アジマサについては柳田国男の『海南小記』にくわしい論考がある。アジマサ、すなわち沖縄でいうクバの木は本土でも薩摩半島などには現在でもざらにみつかる木である。五島にもビロウ島があり、クバの木が自生している。『肥後国志』によると八代の沖合に檳榔[びんろう]島がある。「この島檳榔樹多し 神ありてこの樹を惜むと云う」とあるのは、ビロウ、つまりクバの木が神の依代[よりしろ]であることを明らかにしている。また、「宝暦のころより薩摩の士人来りて盗むと云えり」とあるのは、このクバの葉を利用して扇や笠をつくったためである。ちなみにアジマサのアジはシャコ貝の南島語であるアジクヤのアジとおなじ意味をもち、魔除[まよ]けになるⅩ印または十文字のこととおもわれる。マサは尸者(モノマサ)のマサ、すなわちマス(座)の名詞形であり、魔除けになるものがいるところという意味なのであろうか。

(4) 青柴垣神事は四月七日におこなわれる。

(5) 古代には死者はすぐ埋葬せず、棺を仮の小屋に置いてとぶらった。これを喪屋とももがりともいった。仮喪の意味であろう。『魏志』倭人伝には「始め死するや停喪十余日、時に当りて肉を食わず、喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す」とある。天稚彦(アメノワカヒコ)が死んだときに、「喪屋をつくりて殯[もがり]す」と『日本書紀』にある。つづけて「しかして八日八夜、おらび泣き、かなしびしのぶ」とあるのは、倭人伝の記事をおもわせる。伊波普猷[いはふゆう]の『南島古代の葬制』によると、沖縄本島の東海岸にある津堅[つけん]島では、人が死ぬと、蓆[むしろ]で包んで、後生[ぐしょう]山と呼ばれる藪[やぶ]の中に放ったが、その家族や親戚朋友たちが、屍[しかばね]が腐爛[ふらん]して臭気が出るまでは、毎日のように後生山を訪れて死人の顔をのぞいてかえったと報告している。死人がもし若い者である場合には、生前の遊び仲間の青年男女が、毎晩のように酒肴[しゅこう]や楽器をたずさえて、そこを訪れ、一人びとり死人の顔をのぞいたあとで、おもう存分に踊り狂ってその霊をなぐさめたというから、この習俗は南島ではながく引きつがれてきたことが分かる。

(7) 陰暦十月を神無月[かんなづき]というが、これは八百万[やおよろず]の神が出雲に集まるために、他所では神々が留守になるからである。出雲では神在月[かみありづき]となり、神々があつまって神議[はか]りをする。この神在月にあたる陰暦十月十一日から十七日までの七日間、出雲大社でおこなわれる祭りを神在祭という。佐太神社でももとは神在祭を陰暦十月におこなった。現在、祭日は十一月二十日から二十五日までである。二十五日夜の神送りを「からさで神事」と呼んでいる。

(9) 上田常一『出雲の竜蛇』

(10) 沖縄の動物学者である高良[たから]鉄夫の『ハブ=反鼻蛇』によると、「セグロウミヘビは、体長およそ八十センチメートル、頭部は細長く、全体が著しくひらたくなっている。また、背面は黒色をおびているので、他のウミヘビ類とは容易に区別することができる。本種は強い毒をもっているということで、沖縄におけるエラブウミヘビ(エラブウナギ)の捕獲業者は、一般にこの種セグロウミヘビを恐れており、外国でも本種による被害が多いようである。本種は南太平洋、南シナ海、台湾、琉球列島および日本近海など、分布区域のもっとも広いものである。」となっている。

(12) 千家尊統『出雲大社』

(13) かんなびのなびについては諸説がある。A 辺・神のいるところ、B 森・神の森、C 蛇・神の蛇、D 鍋・鍋の形、E 霊石・なばいしなど、F 隠れるの意・神なばり、などの諸説である。池田弥三郎の『かむなび私考』を参照のこと。

(14) 宮古島では虹のことを「天の蛇(パウ)」と呼んでいる。

(16) タマカゼのタマは霊魂のことで、タマカゼは悪霊の吹かせる風という意味らしい、と柳田国男は『風位考』の中で言っている。タマカゼは日本海では西北から吹く風の呼称である。つまり西北の悪風がタマカゼである。アナジもまた西北風と考えているところが多い。ところでアナジの呼称をもちいる地方と、タマカゼという風名を使用する地方の分布は重複していない。いずれにしても、西北から吹きつける季節風は古代人には悪霊の吹かせる風という意味をもっていた。つまり西北の方角に祖霊のあつまるところを信じていた。この祖霊は悪い風もよい風も吹きおくってよこすというところから西北に対する畏敬の念が生じた。セグロウミヘビが流れつくのを神聖視するのもその一つである。それは常世がよきもの、あしきもの、双方の原郷であるという意味とおなじである。なお、「戌亥[いぬい]思想」については三谷栄一の『日本文学の民俗学的研究』にくわしい。祖霊が屋敷神として戌亥(西北)の隅にまつられ、土地神もおなじく西北の方角にまつる。ということから、大和からみて西北の方向の出雲は祖霊のやってくるところであり、また幸福と富をもたらす場所であると、古代人には考えられていた。

〔『谷川健一全集 4』(pp. 34-50) 〕

The End of Takechan

古事記〈光海依來之神〉・ 日本書紀〈神光照海〉


○ 以前「オホゲツヒメの神話 と 黒ボクの土壌」のページで、スサノヲからオホクニヌシに至る系譜を参照した中に〈大年神〉の系譜が見える。さらにはそれ以前にも「鳥上之峯 / 簸川上」のページで、アヂスキタカヒコネの系譜を参照している。まずはその「大国主神 6 大国主の神裔」〔「鳥上之峯 / 簸川上」のページ参照のこと〕を再掲し、もうひとつの、海より《依り來る神》の物語をおぎなった後に、《大年神》の系譜を添えておこう。


日本古典文学大系『古事記 祝詞』

「大国主神 6 大国主の神裔」

[原文] 故、此大國主神、娶坐胸形奧津宮神、多紀理毘賣命、生子、阿遲 〔二字以音。〕 鉏高日子根神。次妹高比賣命。亦名、下光比賣命。此之阿遲鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也。大國主神、亦娶神屋楯比賣命、生子、事代主神。

(頭注)

阿遲鉏高日子根神

書紀には味耜高彦根神とあって「味耜、此云阿膩須岐。」の訓注があり、歌謡には「阿泥素企多伽避顧禰」とある。出雲風土記にも「所造天下大神御子、阿遅須枳高日子命」「大神大穴持命御子、阿遅須伎高日子命」などとある。従って「阿遅鉏」もアヂスキと訓むべきである。然るに記伝には下文及び歌謡に「阿遅志貴高日子根神」「阿治志貴多迦比古泥能迦微」」とあるによって、鉏をシキと訓んでいるが、それは誤りである。右に挙げたスキのキは岐・企・枳・伎で何れも甲類の仮名であるがシキのキ(貴)は乙類の仮名である。従ってスキ(鉏・耜)とシキ(志貴)とは語を異にするものと見なければならないであろう。この神は雷神で、鉏(耜)は雷神と密接な関係にあった。

高比賣命

兄の高ヒコに対して妹を高ヒメといった。

下光比賣命

書紀には「顕国玉之女子、下照姫〔亦名、高姫、亦名、稚国玉〕」とある。

迦毛大御神

出雲国造神賀詞に「阿遅須伎高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ」、延喜式神名帳、大和国葛上郡十七座の中に「高鴨阿治須岐託彦根命神社四座」とある。大御神という最高の敬語が用いられている。

事代主神

下文には八重言代主神とある。名義は明らかでないが、言知り主、即ち託宣を掌る神の意か。


[訓み下し文] 故、此の大國主の神、胸形の奧津宮に坐す神、多紀理毘賣の命を娶して生める子は、阿遲 〔二字は音を以ゐよ。〕 鉏高日子根の神。次に妹高比賣の命。亦の名は下光比賣の命。此の阿遲鉏高日子根の神は、今、迦毛の大御神と謂ふぞ。大國主の神、亦神屋楯比賣の命を娶して生める子は、事代主の神。


(ふりがな文) かれ、このおほくにぬしのかみ、むなかたのおきつみやにますかみ、たきりびめのみことをめとしてうめるこは、あぢ 〔にじはおとをもちゐよ。〕 すきたかひこねのかみ。つぎにいもたかひめのみこと。またのなはしたてるひめのみこと。このあぢすきたかひこねのかみは、いま、かものおほみかみといふぞ。おほくにぬしのかみ、またかむやたてひめのみことをめとしてうめるこは、ことしろぬしのかみ。


「大国主神 7 少名毘古那神と国作り」

[原文] 故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內‐剝鵝皮剝、爲衣服、有歸來神。爾雖問其名不答。且雖問所‐從之諸神、皆白不知。爾多邇具久白言、〔自多下四字以音。〕 此者久延毘古必知之、卽召久延毘古問時、答‐白此者神產巢日神之御子、少名毘古那神。〔自毘下三字以音。〕 故爾白‐上於神產巢日御祖命者、答告、此者實我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也。〔自久下三字以音。〕 故、與汝葦原色許男命、爲兄弟而、作‐堅其國。故、自爾大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作‐堅此國。然後者、其少名毘古那神者、度于常世國也。故、顯‐白其少名毘古那神、所謂久延毘古者、於今者山田之曾富騰者也。此神者、足雖不行、盡知天下之事神也。

(頭注)

御大之御前

出雲風土記島根郡の条に美保埼がある。出雲の国の東北端。「大」はホの仮名。

波穗

白く高く立つ波頭。

天之羅摩船

「天の」は美称。羅摩は和名抄に「本草云、羅摩子、一名芄蘭」とあって、「加々美」の和訓がある。ガガイモのこと。この実を割ると小舟の形に似ているのでカカミ船といったのである。桃太郎の桃や瓜子姫の瓜と同じ性質のもの。書紀の一書には「以白蘝皮為舟」とある。白蘝はヤマカカミ。

鵝皮

記伝には、ここはその神の小さいことを言っているのだから鵝では大き過ぎる。多分「蛾」の誤りであろうとして、ヒムシと訓んでいる。持統紀六年九月の条に「越前国献白蛾。」とある蛾は一本に鵝とあり、これは鵝の誤りらしいから宣長説も捨て難い。また下の仁徳天皇の条に蚕が蛾になることを述べて、「一度為飛鳥」とあるから、鵝は蛾が飛ぶ鳥だというところから用いた字か。とにかく本来の鵝では大き過ぎるし、皮というのにも当らない。書紀の一書には「以鷦鷯羽為衣」とある。鷦鷯はミソサザイ。

內剝 … 剝

全剥で、丸剥ぎに剥いで。

所從之諸神

大国主神のお供の神たち。

多邇具久

谷蟆(タニ-クク)でヒキガエル(蝦蟆)のこと。ククは蛙の古名であろう。

久延毘古

崩え彦の意。崩ゆは崩るの古言。案山子のことである。

少名毘古那神

書紀の一書には少彦名命とある。小男の意か、それとも大ナ・少ナと対称したものか。名義未詳。

神產巢日御祖命

カミムスヒの御母神。

此者實我子也

書紀の一書では高皇産霊尊の児となっている。

久岐斯子

漏れた子。書紀の一書には「自指間漏堕」とある。

其國

葦原の中つ国。

大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作堅此國。

書紀の一書には、「大巳貴命与少彦名命、戮力一心、経‐営天下。」とある。

常世國

海のあなた極遠の地にあるとこしえの齢の国。書紀の一書には、熊野の御碕から常世郷に行ったとも、淡島に行って粟茎にのぼったところが、弾かれて常世郷に至ったとも伝えている。

曾富騰

記伝に、古今集以下の歌に見える「そほづ」と同じで、案山子のこととしている。


[訓み下し文] 故、大國主の神、出雲の御大の御前に坐す時、波の穗より天の羅摩船に乘りて、鵝の皮を內剝に剝ぎて衣服に爲て、歸り來る神有りき。爾に其の名を問はせども答へず、且所從の諸神に問はせども、皆「知らず。」と白しき。爾に多邇具久白言しつらく、〔多より下の四字は音を以ゐよ。〕 「此は久延毘古ぞ必ず知りつらむ。」とまをしつれば、卽ち久延毘古を召して問はす時に、「此は神產巢日の神の御子、少名毘古那の神ぞ。〔毘より下の三字は音を以ゐよ。〕」と答へ白しき。故爾に神產巢日の御祖の命に白し上げたまへば、答へ告りたまひしく、「此は實に我が子ぞ。子の中に、我が手俣より久岐斯子ぞ。〔久より下の三字は音を以ゐよ。〕 故、汝葦原色許男の命と兄弟と爲りて、其の國を作り堅めよ。」とのりたまひき。故、爾れより、大穴牟遲と少名毘古那と、二柱の神相並ばして、此の國を作り堅めたまひき。然て後は、其の少名毘古那の神は、常世の國に度りましき。故、其少名毘古那の神を顯はし白せし謂はゆる久延毘古は、今者に山田の曾富騰といふぞ。此の神は、足は行かねども、盡に天の下の事を知れる神なり。


(ふりがな文) かれ、おほくにぬしのかみ、いづものみほのみさきにますとき、なみのほよりあめのかかみぶねにのりて、ひむしのかはをうつはぎにはぎてきものにして、よりくるかみありき。ここにそのなをとはせどもこたへず、またみとものかみたちにとはせども、みな「しらず。」とまをしき。ここにたにぐくまをしつらく、〔たよりしものよもじはこゑをもちゐよ。〕 「こはくえびこぞかならずしりつらむ。」とまをしつれば、すなはちくえびこをめしてとはすときに、「こはかみむすひのかみのみこ、すくなびこなのかみぞ。〔びよりしものみもじはこゑをもちゐよ。〕」とこたへまをしき。かれここにかみむすひのみおやのみことにまをしあげたまへば、こたへのりたまひしく、「こはまことにわがこぞ。このなかに、わがたなまたよりくきしこぞ。〔くよりしものみもじはこゑをもちゐよ。〕 かれ、いましあしはらしこをのみこととあにおととなりて、そのくにをつくりかためよ。」とのりたまひき。かれ、それより、おほなむぢとすくなびこなと、ふたはしらのかみあひならばして、このくにをつくりかためたまひき。さてのちは、そのすくなびこなのかみは、とこよのくににわたりましき。かれ、そのすくなびこなのかみをあらはしまをせしいはゆるくえびこは、いまにやまだのそほどといふぞ。このかみは、あしはゆかねども、ことごとにあめのしたのことをしれるかみなり。


「大国主神 7 少名毘古那神と国作り」(続き)

[原文] 於是大國主神、愁而告、吾獨何能得‐作此國。孰神與吾能相‐作此國耶。是時有光海依來之神。其神言、能治我前者、吾能共與相作成。若不然者、國難成。爾大國主神曰、然者治奉之狀奈何。答‐言吾者、伊‐都‐岐‐奉于倭之靑垣東山上。此者坐御諸山上神也。

(頭注)

孰神與吾能相作此國耶。

書紀の一書には「其可与吾共理天下者、蓋有之乎。」とある。

是時有光海依來之神。

書紀の一書には「于時神光照海、忽然有浮来者。」とある。

我前

前は直接に言うことを避けて添えた語で、我をの意。こうした「前」の用例は神に限られているようである。

処置する意であるが、ここは祭る意。

倭之靑垣東山上

大和の国の周囲を青々とした垣のようにめぐっている山の東の山。

伊都岐奉

斎き奉れの意。

此者坐御諸山上神也

御諸山は三輪山。延喜式神名帳に「大和国城上郡、大神(オホミワ)大物主神社」とある。今の大神(おおみわ)神社。書紀の一書には「此大三輪之神也」とある。また出雲国造神賀詞には、この神の鎮座に関して「大穴持命の申し給はく、皇御孫の命の静まり坐さむ大倭の国と申して、己れ命の和魂を八咫鏡に取り託けて、倭の大物主櫛𤭖玉(クシミカタマ)の命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せて、云々」と伝えている。


[訓み下し文] 是に大國主の神、愁ひて告りたまひしく、吾獨して何にか能く此の國を得作らむ。孰れの神と吾と、能く此の國を相作らむや。」とのりたまひき。是の時に海を光して依り來る神ありき。其の神の言りたまひしく、「能く我が前を治めば、吾能く共與に相作り成さむ。若し然らずば國成り難けむ。」とのりたまひき。爾に大國主の神曰ししく、「然らば治め奉る狀は奈何にぞ。」とまをしたまへば、「吾をば倭の靑垣の東の山の上に伊都岐奉れ。」と答へ言りたまひき。此は御諸山の上に坐す神なり。


(ふりがな文) ここにおほくにぬしのかみ、うれひてのりたまひしく、あれひとりしていかにかよくこのくにをえつくらむ。いづれのかみとあれと、よくこのくにをあひつくらむや。」とのりたまひき。このときにうみをてらしてよりくるかみありき。そのかみののりたまひしく、「よくわがまへををさめば、あれよくともにあひつくりなさむ。もししからずばくになりがたけむ。」とのりたまひき。ここにおほくにぬしのかみまをししく、「しからばをさめまつるさまはいかにぞ。」とまをしたまへば、「あれをばやまとのあをかきのひむかしのやまのへにいつきまつれ。」とこたへのりたまひき。こはみもろやまのへにますかみなり。


「大国主神 8 大年神の神裔」

[原文] 故、其大年神、娶神活須毘神之女、伊怒比賣、生子、大國御魂神。次韓神。次曾富理神。次白日神。次聖神。〔五神〕 又娶香用比賣、〔此神名以音。〕 生子、大香山戶臣神。次御年神。〔二柱〕 又娶天知迦流美豆比賣、〔訓天如天。亦自知下六字以音。〕 生子、奧津日子神。次奧津比賣命、亦名、大戶比賣神。此者諸人以拜竈神者也。次大山上 咋神、亦名、山末之大主神。此神者、坐近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾、用鳴鏑神者也。次庭津日神。次阿須波神。〔此神名以音。〕 次波比岐神。〔此神名以音。〕 次香山戶臣神。次羽山戶神。次庭高津日神。次大土神、亦名、土之御祖神。九神。

(頭注)

以下の系譜は須佐之男命の神裔の条に直接つながるものである。

神活須毘神 / 伊怒比賣

名義共に未詳。

大國御魂神

大は美称、国の御魂の意。

韓神

文字通り韓(朝鮮)の神の意か。延喜式神名帳に宮内省に坐す神三座のうち、韓神社二座とあり、神楽歌に「韓神」があって、本末共に「われ韓神の、韓招(カラヲ)ぎせむや」とある。

曾富理神

名義未詳。書紀天孫降臨の条の一書に「日向襲之高千穂添山峰」とあって、「添山、此云曾褒里能耶麻。」の訓注がある。添(ソホリ)の神と解してみてもおかしい。或いは朝鮮の古語に関係があるのではあるまいか。また前掲の韓神社二座の外の一座は園神社とあるが、この園(ソノ)の神と関係ある神か。

白日神

記伝に「白字は向の誤」で、「其故は、式に、山城国乙訓郡向神社。大歳神社と並載れり。此向神社は、大年神御子向日神を祀ると云、何の説も同じければなり。」とある。或いはそうかも知れない。

聖神

日知りの神の意で、暦日を掌る神か。

香用比賣 / 大香山戶臣神

名義共に未詳。

御年神

前の大年神、後の若年神と同じく、年穀を掌る神、祈年祭の祭神の一。古語拾遺にこの神に関する神話が採録されている。

天知迦流美豆比賣

名義未詳。

奧津日子神 / 奧津比賣命

沖の彦、沖の姫であるが、何のことかよくわからない。この女神にのみ命とあるは不審。

大戶比賣神

大竈姫の意。ヘッツイを掌る女神。

竈神

和名抄に竈に加万の和訓がある。

大山咋神

山の神であろうが名義未詳。

山末之大主神

山の頂を支配する神の意。

近淡海國

近江の国。琵琶湖に因る名。

坐 … 日枝山

比叡山に鎮座され。神名帳に近江国滋賀郡日吉(ヒエ)神社とあるのがそれで、後世山王という。

坐葛野之松尾

神名帳に山城国葛野(カドノ)郡松尾神社とあるのがそれである。

用鳴鏑神

鳴鏑の矢を持つ神の意。本朝月令、四月中酉賀茂祭事の条に、秦氏本系帳を引いて「初秦氏女子、出葛野河、澣‐濯衣裳。時有一矢、自上流下。女子取之還来、刺置於戸上。… 戸上矢者、松尾大明神是也。」とある。

庭津日神

屋敷を照らす日の神の意か。

阿須波神 / 波比岐神

名義共に未詳であるが宅神である。祈年祭祝詞の中に、座摩(ヰカスリ)の御巫の祭る皇神等として、生井・栄井・津長井・阿須波・婆比支の名が見える。また万葉巻二十に「庭中の阿須波の神に木柴さし吾は斎はむ帰り来までに」(四三五〇)の歌がある。

羽山戶神

名義未詳。山の神であろう。

土之御祖神

土の母神。大地母神である。

九神

奥津日子・奥津比売を合せて一神と数えて、九神としたのであろう。実数は十神。


[訓み下し文] 故、其の大年の神、神活須毘の神の女、伊怒比賣を娶して生める子は、大國御魂の神。次に韓の神。次に曾富理の神。次に白日の神。次に聖の神。〔五神〕 又、香用比賣 〔此の神の名は音を以ゐよ。〕 を娶して生める子は、大香山戶臣の神。次に御年の神。〔二柱〕 又、天知迦流美豆比賣 〔天を訓むこと天の如くせよ。亦知より下の六字は音を以ゐよ。〕 を娶して生める子は、奧津日子の神。次に奧津比賣の命、亦の名は大戶比賣の神。此は諸人の以ち拜く竈の神ぞ。次に大山咋の神、亦の名は山末之大主の神。此の神は近淡海の國の日枝の山に坐し、亦葛野の松の尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ。次に庭津日の神。次に阿須波の神。〔此の神の名は音を以ゐよ。〕 次に波比岐の神。〔此の神の名は音を以ゐよ。〕 次に香山戶臣の神。次に羽山戶の神。次に庭高津日の神。次に大土の神、亦の名は土之御祖の神。九神。


(ふりがな文) かれ、そのおほとしのかみ、かむいくすびのかみのむすめ、いのひめをめとしてうめるこは、おほくにみたまのかみ。つぎにからのかみ。つぎにそほりのかみ。つぎにしらひのかみ。つぎにひじりのかみ。〔いつはしら〕 また、かよひめ 〔このかみのなはこゑをもちゐよ。〕 をめとしてうめるこは、おほかがやまとおみのかみ。つぎにみとしのかみ。〔ふたはしら〕 また、あめちかるみづひめ 〔あめをよむことあめのごとくせよ。またちよりしものむもじはこゑをもちゐよ。〕 をめとしてうめるこは、おきつひこのかみ。つぎにおきつひめのみこと、またのなはおほべひめのかみ。こはもろひとのもちいつくかまのかみぞ。つぎにおほやまくひのかみ、またのなはやますゑのおほぬしのかみ。このかみはちかつあふみのくにのひえのやまにまし、またかづののまつのをにまして、なりかぶらをもつかみぞ。つぎににはつひのかみ。つぎにあすはのかみ。〔このかみのなはこゑをもちゐよ。〕 つぎにはひきのかみ。〔このかみのなはこゑをもちゐよ。〕 つぎにかがやまとおみのかみ。つぎにはやまとのかみ。つぎににはたかつひのかみ。つぎにおほつちのかみ、またのなはつちのみおやのかみ。ここのはしら。

〔日本古典文学大系『古事記 祝詞』 (pp. 104-105, pp. 106-111) 〕

The End of Takechan


○ 日本書紀ではスクナビコナの登場シーンの直前に、もうひとつの、海より浮かびきたる〈大三輪之神〉の説話が置かれている。前には省略したその部分を合わせて、ここに引用する。


日本古典文学大系 67『日本書紀 上』

日本書紀 卷第一「神代上 第八段一書〔第六〕」

[原文] 一書曰、…… 夫大己貴命、與少彥名命、戮力一心、經營天下。復爲顯見蒼生及畜產、則定其療病之方。又爲攘鳥獸昆蟲之災異、則定其禁厭之法。是以、百姓至今、咸蒙恩賴。嘗大己貴命謂少彥名命曰、吾等所造之國、豈謂善成之乎。少彥名命對曰、或有所成。或有不成。是談也、蓋有幽深之致焉。其後少彥名命、行至熊野之御碕。遂適於常世鄕矣。亦曰、至淡嶋、而緣粟莖者、則彈渡而至常世鄕矣。自後、國中所未成者、大己貴神、獨能巡造。

(頭注)

少彥名命

➝補注1-一〇四。

經營天下

これは記に「二柱神相並、作堅此国」とある。出雲風土記にしばしば「天の下造らしし大神大穴持神」とある。

禁厭之法

禁は、忌む意。厭は禳(はら)う意。虫害・鳥獣の害を除去する法。

蒙恩賴

タマは、生命力。フユは、振るうこと。生命力の活動によって物事が成就し進展するという当時の考え方を表現する語。カガフレリは御巫本私記の訓による。

是談

以下十字、衍入とする説があるが、古写本にすべて存する。御巫本私記の訓には、「コレハモノカタラヒコトナリ。ケダシフカキムネハアルラム」とある。

幽深

幽は、はるか遠いこと。深遠なこと。

熊野之御碕

今、島根県八束郡八雲村熊野。熊野は出雲国意宇郡にある。出雲風土記、意宇郡条に「熊野山、郡家正南一十八里、〈有檜檀也、所謂熊野大神之社坐〉」とある。ミサキは、海岸に限らず、山でも岡でも突出部をいう。

常世鄕

➝補注1-七八。

淡嶋 … 粟莖

釈紀所引伯耆風土記に「相見郡、郡家西北有余戸里、有粟島少日子命蒔粟、秀実離離、即載粟、弾渡常世国、故云粟島也」とある。今、鳥取県米子市に上粟島・下粟島の地名を伝える。粟茎➝補注1-一〇四。


[訓み下し文] 一書〔第六〕に曰はく、…… 夫の大己貴命と、少彥名命と、力を戮せ心を一にして、天下を經營る。復顯見蒼生及び畜產の爲は、其の病を療むる方を定む。又、鳥獸・昆蟲の災異を攘はむが爲は、其の禁厭むる法を定む。是を以て、百姓、今に至るまでに、咸に恩賴を蒙れり。嘗、大己貴命、少彥名命に謂りて曰はく、「吾等が所造る國、豈善く成せりと謂はむや」とのたまふ。少彥名命對へて曰はく、「或は成せる所も有り。或は成らざるところも有り」とのたまふ。是の談、蓋し幽深き致有らし。其の後に、少彥名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世鄕に適しぬ。亦曰はく、淡嶋に至りて、粟莖に緣りしかば、彈かれ渡りまして常世鄕に至りましきといふ。自後、國の中に未だ成らざる所をば、大己貴神、獨能く巡り造る。


(ふりがな文) あるふみ〔だいろく〕にいはく、…… かのおほあなむちのみことと、すくなびこなのみことと、ちからをあはせこころをひとつにして、あめのしたをつくる。またうつしきあをひとくさおよびけもののためは、そのやまひををさむるみちをさだむ。また、とりけだもの・はふむしのわざはひをはらはむがためは、そのまじなひやむるのりをさだむ。ここをもて、おほみたから、いまにいたるまでに、ことごとくにみたまのふゆをかがふれり。むかし、おほあなむちのみこと、すくなびこなのみことにかたりてのたまはく、「われらがつくれるくに、あによくなせりといはむや」とのたまふ。すくなびこなのみことこたへてのたまはく、「あるはなせるところもあり。あるはならざるところもあり」とのたまふ。このものかたりごと、けだしふかきむねあらし。そののちに、すくなびこなのみこと、ゆきてくまののみさきにいたりて、つひにとこよのくににいでましぬ。またいはく、あはのしまにいたりて、あはがらにのぼりしかば、はじかれわたりましてとこよのくににいたりましきといふ。これよりのち、くにのなかにいまだならざるところをば、おほあなむちのかみ、ひとりよくめぐりつくる。


日本書紀 卷第一「神代上 第八段一書〔第六〕」(続き)

[原文] 遂到出雲國、乃興言曰、夫葦原中國、本自荒芒。至及磐石草木、咸能强暴。然吾已摧伏、莫不和順。遂因言、今理此國、唯吾一身而已。其可與吾共理天下者、蓋有之乎。于時、神光照海、忽然有浮來者。曰、如吾不在者、汝何能平此國乎。由吾在故、汝得建其大造之績矣。是時、大己貴神問曰、然則汝是誰耶。對曰、吾是汝之幸魂奇魂也。大己貴神曰、唯然。廼知汝是吾之幸魂奇魂。今欲何處住耶。對曰、吾欲住於日本國之三諸山。故卽營宮彼處、使就而居。此大三輪之神也。此神之子、卽甘茂君等・大三輪君等、又姬蹈韛五十鈴姬命。又曰、事代主神、化爲八尋熊鰐、通三嶋溝樴姬、或云、玉櫛姬。而生兒姬蹈韛五十鈴姬命。是爲神日本磐余彥火火出見天皇之后也。

(頭注)

幸魂奇魂

古代人にとっては、魂は肉体を離れて行動しうるものであったので、このように魂だけが現われると考え得た。幸魂とは、御巫本日本書紀私記に「左支久阿良之无留魂」とある。奇魂は、奇徳をもって、万事を知って弁別できる魂の意。

三諸山

三輪山。ミは神の意。モロは朝鮮語 mori(山)と同源の語。神の降下してくる所。従って、ミモロは、言葉としては三輪山だけを指すものでなく、飛鳥のミモロ岳もあり、また、個人がそれを作ることもあった。「わが屋戸にみもろを立てて」(万葉四二〇)。

此大三輪之神也

今の大三輪神社。➝補注1-一〇五。

姬蹈韛五十鈴姬命

ここでは大三輪神の子とするが、すぐ次の一説では事代主神と三島の溝樴姫(玉櫛姫)との間の児とする。神武即位前紀庚申年条でも同様の話をのせ、綏靖紀でも事代主神の子とし、安寧即位前紀でも事代主神の少女とし、五十鈴依媛命とある。一方神武記には、この姫蹈韛五十鈴姫は、比売多多良伊須気余理比売とある。これは三島の溝咋の孫とされている。三島溝咋の女に、勢夜陀多良比売があり、それの子だからである。比売多多良伊須気余理比売の名は、もとの富登多多良伊須気余理比売という名を改名した結果である。その出生は、勢夜陀多良比売が厠にいたとき美和の大物主が丹塗矢となって、そのホトを突いたという話による。もともと、三島溝樴姫の名にあるミゾは水の流れであり、これは川屋(厠)を連想させる。クヒは棒で、男性の象徴となるもの。また、セヤタタラのセは、ソと交替する音、セヤはソヤと同じ。ソヤは金属の矢じりの矢。タタラは「立たれ」の古い名詞形であるから、セヤタタラは「矢を立てられ」である。従って、ミゾクヒとセヤタタラの名から、厠にいる姫がホトに丹塗矢を立てられるという話が想像される。その結果、セヤタタラ(矢を立てられ)姫は、イススキキ(ぶるぶるふるえた)というので、そこに生れた姫が、ホトタタライススキヒメの名がある。しかし、このホト(女陰)の名を忌んで、後でヒメタタライスケヨリヒメと改名したと記にある。これが書紀にはヒメタタライスズヒメとして登場している。なお、或云として、溝樴姫の代りに、玉櫛姫とあるが、タマは生命力であり、当時のクシは、細長いものであったから、丹塗矢、または樴と同じことを表現するものであろう。

八尋熊鰐

海幸・山幸の説話にも現われる。➝補注1-一〇七。

玉櫛姬

神武紀には、三島溝橛耳神の女とある。事代主神とは関係が深く、神功紀に「於天事代於虚事代玉籤入彦厳之事代神」とあり、ここの玉籤(たまくし)は、玉櫛と同じものをいう。


[訓み下し文] 遂に出雲國に到りて、乃ち興言して曰はく、「夫れ葦原中國は、本より荒芒びたり。磐石草本に至及るまでに、咸に能く强暴る。然れども吾已に摧き伏せて、和順はずといふこと莫し」とのたまふ。遂に因りて言はく、「今此の國を理むるは、唯し吾一身のみなり。其れ吾と共に天下を理むべき者、蓋し有りや」とのたまふ。

時に、神しき光海に照して、忽然に浮び來る者有り。曰はく、「如し吾在らずは、汝何ぞ能く此の國を平けましや。吾が在るに由りての故に、汝其の大きに造る績を建つこと得たり」といふ。是の時に、大己貴神問ひて曰はく、「然らば汝は是誰ぞ」とのたまふ。對へて曰はく、「吾は是汝が幸魂奇魂なり」といふ。大己貴神の曰はく、「唯然なり。廼ち知りぬ、汝は是吾が幸魂奇魂なり。今何處にか住まむと欲ふ」とのたまふ。對へて曰はく、「吾は日本國の三諸山に住まむと欲ふ」といふ。故、卽ち宮を彼處に營りて、就きて居しまさしむ。此、大三輪の神なり。此の神の子は、卽ち甘茂君等・大三輪君等、又姬蹈韛五十鈴姬命なり。又曰はく、事代主神、八尋熊鰐に化爲りて、三嶋の溝樴姬、或は云はく、玉櫛姬といふに通ひたまふ。而して兒姬蹈韛五十鈴姬命を生みたまふ。是を神日本磐余彥火火出見天皇の后とす。


(ふりがな文) つひにいづものくににいたりて、すなはちことあげしてのたまはく、「それあしはらのなかつくには、もとよりあらびたり。いはくさきにいたるまでに、ことごとくによくあしかる。しかれどもわれすでにくだきふせて、まつろはずといふことなし」とのたまふ。つひによりてのたまはく、「いまこのくにををさむるは、ただしわれひとりのみなり。それわれとともにあめのしたををさむべきもの、けだしありや」とのたまふ。

ときに、あやしきひかりうなにてらして、たちまちにうかびくるものあり。いはく、「もしわれあらずは、いましいかにぞよくこのくにをむけましや。わがあるによりてのゆゑに、いましそのおほきにつくるいたはりをたつことえたり」といふ。このときに、おほあなむちのかみとひてのたまはく、「しからばいましはこれたれぞ」とのたまふ。こたへていはく、「われはこれいましがさきみたまくしみたまなり」といふ。おほあなむちのかみののたまはく、「しかなり。すなはちしりぬ、いましはこれわがさきみたまくしみたまなり。いまいづこにかすまむとおもふ」とのたまふ。こたへていはく、「われはやまとのくにのみもろのやまにすまむとおもふ」といふ。かれ、すなはちみやをかしこにつくりて、ゆきてましまさしむ。これ、おほみわのかみなり。このかみのみこは、すなはちかものきみたち・おほみわのきみたち、またひめたたらいすずひめのみことなり。またいはく、ことしろぬしのかみ、やひろわにになりて、みしまのみぞくひひめ、あるはいはく、たまくしひめといふにかよひたまふ。しかうしてみこひめたたらいすずひめのみことをうみたまふ。これをかむやまといはれびこほほでみのすめらみことのきさきとす。


日本書紀 卷第一「神代上 第八段一書〔第六〕」(巻末)

[原文] 初大己貴神之平國也、行到出雲國五十狹狹之小汀、而且當飮食。是時、海上忽有人聲。乃驚而求之、都無所見。頃時、有一箇小男、以白蘞皮爲舟、以鷦鷯羽爲衣、隨潮水以浮到。大己貴神、卽取置掌中、而翫之、則跳囓其頰。乃怪其物色、遣使白於天神。于時、高皇產靈尊聞之而曰、吾所產兒、凡有一千五百座。其中一兒最惡、不順敎養。自指間漏堕者、必彼矣。宜愛而養之。此卽少彥名命是也。顯、此云于都斯。蹈韛、此云多多羅。幸魂、此云佐枳彌多摩。奇魂、此云倶斯美拕磨。鷦鷯、此云娑娑岐。

日本書紀卷第一

(頭注)

五十狹狹之小汀

第九段には「五十田狭之小汀」、記には「伊那佐之小浜」とある。出雲風土記の出雲郡の伊奈佐乃社がそれであろうという。大社町稲佐にある。イササとイタサとは s と t との交替。t と s の交替は次(スギとツギ)などの例がある。大物主神・少彦名神・建御雷神がここに降下し、寄りついた。つまり、ここは、ミアレの場所であったと認められる。

飮食

ミは敬称の接頭語。ヲシは飲食する、治める意。

小男

ヲグナの意未詳。日本武尊を童男といい、これをヲグナと読んでいる。

白蘞

白蘞は白斂に同じ。薬草の一種。名義抄にヤマカガミ。記には羅摩とあり、名義抄に「蘿麻子、カガミ」とある。

鷦鷯

ミソサザイのこと。訓注に「娑娑岐」とあるのは、ササキと清音に訓むように思われるが、サザ・キギ・ツヅなどのような音の連続の場合は、このように清音の文字を繰返して書く例がいくつかある。

高皇產靈尊

ここでは少彦名は高皇産霊尊の子。記では神産巣日神の子とする。

指間

兼夏本頭書に「指間、多万与利」と万葉仮名で記され、また兼方本等の左傍に「タマヨリ」の訓がついている。タマは、手間。兼方本等の他の古訓タママタは、タマの意が不明となってマタが追加されたものか。あるいはタナマタのナが丆と書写されてタママタとなったものか。記には「我が手俣より久岐斯子ぞ」とある。


[訓み下し文] 初め大己貴神の、國平けしときに、出雲國の五十狹狹の小汀に行到して、飮食せむとす。是の時に、海上に忽に人の聲有り。乃ち驚きて求むるに、都に見ゆる所無し。頃時ありて、一箇の小男有りて、白蘞の皮を以て舟に爲り、鷦鷯の羽を以て衣にして、潮水の隨に浮き到る。大己貴神、卽ち取りて掌中に置きて、翫びたまひしかば、跳りて其の頰を囓ふ。乃ち其の物色を怪びて、使を遣して天神に白す。時に、高皇產靈尊、聞しめして曰はく、「吾が產みし兒、凡て一千五百座有り。其の中に一の兒最惡くして、敎養に順はず。指間より漏き堕ちにしは、必ず彼ならむ。愛みて養せ」とのたまふ。此卽ち少彥名命是なり。顯、此をば于都斯と云ふ。蹈韛、此をば多多羅と云ふ。幸魂、此をば佐枳彌多摩と云ふ。奇魂、此をば倶斯美拕磨と云ふ。鷦鷯、此をば娑娑岐と云ふ。


(ふりがな文) はじめおほあなむちのかみの、くにむけしときに、いづものくにのいささのをはまにゆきまして、みをしせむとす。このときに、わたつみのうへにたちまちにひとのこゑあり。すなはちおどろきてもとむるに、ふつにみゆるところなし。しばらくありて、ひとりのをぐなありて、かがみのかはをもてふねにつくり、さざきのはをもてころもにして、しほのまにまにうきいたる。おほあなむちのかみ、すなはちとりてたなうらにおきて、もてあそびたまひしかば、をどりてそのつらをくふ。すなはちそのかたちをあやしびて、つかひをまだしてあまつかみにまうす。ときに、たかみむすひのみこと、きこしめしてのたまはく、「わがうみしこ、すべてちはしらあまりいほはしらあり。そのなかにひとりのこいとつらくして、をしへごとにしたがはず。たまよりくきおちにしは、かならずかれならむ。めぐみてひだせ」とのたまふ。これすなはちすくなびこなのみことこれなり。うつし、これをばうつしといふ。たたら、これをばたたらといふ。さきみたま、これをばさきみたまといふ。くしみたま、これをばくしみたまといふ。さざき、これをばさざきといふ。


日本書紀 卷第一「神代上 第七段〔本文〕」 (参考)

[原文] 遂聚常世之長鳴鳥、使互長鳴。

(頭注)

常世

➝補注1-七八。

[訓み下し文] 遂に常世の長鳴鳥を聚めて、互に長鳴せしむ。

(ふりがな文) つひにとこよのながなきどりをあつめて、たがひにながなきせしむ。


補注1

七八 常世(一一二頁注)

常世と常夜とを同一視する見解が多いが(記伝など)、常世は tököyö で、常夜は tököyo で本来は別音の別語。しかし、宵は yoFi であるが、此宵となった際は köyöFi となる例もあるから、常夜はあるいは tököyö となって、常世と同音になっていたかもしれない。トコは、もと床の意。床石の意から転じて安定長久・永久不変の意。ヨは世。常住不変の国の意。当時伝来していた神仙思想と結びつき、長生不死の国と解されていた。蓬萊山のある所の意から、遙かに遠い異郷ともされて、田道間守が、時じくの香菓を得て来た所ともいわれた。異郷は観念の上で地下の妣の国に結びつきやすかったのであろうが、また、トコ (tökö) の音がソコ (sökö) の音と交替しうるものであった故という事情も考えられる。常夜は永久の闇の意。たとえば万葉七二三「常呼(とこよ)にと我が行かなくに 小金門に物悲しらにおもへりし わが児の刀自を」などの例もある。

一〇四 少彦名命(一二八頁注)

スクナヒコは、若い男の意。ナノカミのナは土地の意。従って、オホナムチに対して、若い方の土地の神の意であろう。下文に見られるように、オホナムチと共に土地を開拓し、疾病を防ぎ、鳥獣虫害を除く努力をしている。アハの島に至ってアハ茎にのぼったところ、その茎に弾かれて常世国に行ったという伝承のある所から、スクナヒコナは粟(あは)と関係があり、焼畑農耕と関係が深いのではないかと大林太良は考えている。

一〇五 大三輪之神・大神神社(一三〇頁注) 奈良県桜井市三輪の大神(おほみわ)神社。倭大物主櫛𤭖玉命を祀る。大和平野の東にあって山容の立派な三輪山(御諸山)の信仰から発展した神社と思われる。古事記上巻には大国主神が海を照らして寄り来る神を倭の青垣山の上に祀ったものとする。神代紀下の一書からのちは専ら大物主神と記される。崇神七-八年条には大物主神の子大田田根子を祭主とし、高橋邑の活日を大神の掌酒として祭を行なったことを記し、このとき神宮に殿や門があったように記す。天平二年大倭国大税帳に城上郡の大神神戸の記載がある。延喜神名式には城上郡に大神大物主神社を記し、同式出雲国造神賀詞には大穴持命が自己の和魂を八咫鏡につけて倭大物主櫛𤭖玉命と名づけて大御和の神奈備に祀ったとする。日本紀略、長保二年六月に大神社宝殿鳴動のことがあるが、これは神殿か宝庫か不明である。奥儀抄はみわの明神には古来社を作らないことを記すが、現在でも三輪山西斜面の禁足地には本殿がなく(宝庫はある)、前方に神門(いわゆる三輪鳥居で、鎌倉時代まで存在が溯り得る)と拝殿があって、山を拝する。山上には磐座と称するものが三所にあり、鎌倉時代の大三輪神三社鎮座次第に奥津磐座(大物主命)、中津磐座(大己貴命)、辺津磐座(少彦名命)とあるのに相当する。

一〇七 八尋熊鰐(一三〇頁注) 八尋は大きいことの形容。熊は、書紀では、八尋熊鰐の他に、巻九に岡県主熊鰐、荷持田村の羽白熊鷲という名などに使われている。熊鰐熊鷲いずれも地方の豪族である。従って熊という語は、勇猛・獰猛なという意味で使われているように思われる。ここでワニに熊鰐の字を宛てていることについては、第五の一書に、素戔嗚尊が熊成峰にましまして遂に根の国に入ったという記事があり熊成はクマナリともワニナリとも訓まれて来た。三品彰英によれば、東亜においては熊を水神とする観念があり、この熊成もその一例であり、八尋熊鰐という一見不可解な熟語もこの観念の所産であるとしている。なお、鰐が女に通う話は、肥前風土記、佐嘉郡の条にもあり、佐嘉川の川上に世田(よた)姫という名の石神があり、海の神の鰐が年ごとに、逆う流れを潜って、この神の所に到ったとある。

〔日本古典文学大系 67『日本書紀 上』 (pp. 128-133, pp. 112-113, p. 561, p. 566, p. 567) 〕

The End of Takechan

◈ 今回の《カガミの舟》にまつわる話題は、《海を渡る蛇》と絡めて資料を見ていくと、問題点が複雑に交錯していき、谷川健一氏の『神・人間・動物』においてはさらに《アナジという戌亥(西北)の風》も登場した。


『神・人間・動物 ―― 伝承を生きる世界』

秋から冬に移行する出雲海岸の「お忌[い]み荒れ」は、アナジ(タマカゼ)という西方風によってもたらされた。それはまた海蛇をもはこんだのである。そこで西北(戌亥[いぬい])を神聖視する観念が生まれたのではなかったか(16)。大和からみて西方の出雲が神聖視されたのは、出雲の海岸に立って海蛇神の到来を予知する季節風を顔にうけたときの感覚が残っていると私は考えている。

(16) …… 祖霊が屋敷神として戌亥(西北)の隅にまつられ、土地神もおなじく西北の方角にまつる。ということから、大和からみて西北の方向の出雲は祖霊のやってくるところであり、また幸福と富をもたらす場所であると、古代人には考えられていた。〔『谷川健一全集 4』 (pp. 46-47, p. 50) 〕


◉ 実は、戌亥(乾・イヌイ)の方角の神として〈宮比神〉が、そしてその逆の東南すなわち、辰巳(巽・タツミ)の神としては〈波波木神〉が、『建久三年皇太神宮年中行事』で繰り返し記述されている。そしてこのうち、〈波波木神〉は、古事記の「大国主神 8 大年神の神裔」の記事で〈羽山戶神〉の前に登場する〈波比岐神〉と同じであろうとする説がある。―― のであるが、このハハキの神については、ページを改める。


◎ 風の表現については、鳥取県の方言「あなじ」も、かつて関連項目を調べ、考察を加えていた。


『鳥取県方言辞典』

あなじ[名]

北西の風。夏や冬に沖から吹く風。

地域〕米子市・境港市

〔森下喜一/編『鳥取県方言辞典』(p. 42) 〕


―― これらの資料から、「あなし」と「あらし」は、そもそもは同義語であって「新しい風・あらたな風」を「アラシ」と呼び、それが転訛して「アナシ」となったとも考えられるのである。

またいつの時代も、〝新しさ〟に内在する〝破壊をもたらす荒々しさ〟が必然として、表面化してくることもあったろう。すなわち古来「アラ」は「新」でありかつ「荒」でもあったと、推察が可能なのだ。そして、そのひとつの象徴が、日本神話でスサノヲという神に結晶したとしても不自然ではない。

では、穴師坐兵主神社(あなしにますひょうすじんじゃ)の鎮座する「穴師」には、どのような意味合いが含まれるのであろうか。どうやら、諸説あるようなのだが。

◈ 古事記では、オホクニヌシとスクナビコナが出会ったのは、ミホのミサキであった。そしてスクナビコナが常世の国に去ったあと、オホモノヌシが、スクナビコナと同じように海からやって来る。

◈ 日本書紀では、オホクニヌシは出雲のイササの浜でスクナビコナと出会い、その直前の記述として、出雲の海でオホモノヌシと出会う。


◎ スクナビコナが乗り、出雲の浜に漂い着いた《カガミの舟》とは何か?

「ミ」は十二支で「巳」であり「蛇」をさす、が ……。

大和の三輪山に代表される〈ミモロの山〉の「ミ」が神の意であるなら、おそらく出雲の〈ミアレの浜〉の「ミ」も「神」のことであろうし、そうであるなら「御大之御前」の〈ミホ〉も〈ミサキ〉も、神がかりしてくる。すなわち、神や貴人が誕生ないしは降臨する「みあれ」は現代に「御生・御阿礼」と書かれるように、その「ミ」は「御」とも表記される。

ようするに「御」はそもそも〈カミ〉を意味する「ミ」であったと思われる。

そして「」は古く清音で「カカヤク」であった。〈カカ〉といい〈カガ〉というのは、〈輝くモノ〉の意であり、それは〈蛇の目〉の表現でもあったろう。

―― ならば。出雲の〈ミアレの浜〉に依りきたる《カガミの舟》の〈ミ〉が、もし〈神〉の意であるなら、それは《蛇神の舟》を意味することになる。


◉ 日本海に面した島根半島のミアレの浜へと、陰暦の十月、アナジの風の吹くころに、金色に光るセグロウミヘビが沖から漂着し、その海蛇が出雲の社(やしろ)の神事で重要な役割をもつという。


出雲の神在月に、海を照らしてやって来る神は、色鮮やかな海蛇であった。


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