古代の出雲と高志の国とは文化的な交流があったことが「出雲国風土記」から読み取ることができた
(「トリカミの峰 / ヒノカハの上」のページ 参照 )
特記すべき事項として「出雲国風土記」の嶋根郡には、「天の下造らしし大神の命、高志の國に坐す神、意支都久辰爲命のみ子、俾都久辰爲命のみ子、奴奈宜波比賣命にみ娶ひまして、產みましし神、御穗須須美命、是の神坐す。故、美保といふ。」の記述が見える。
この「出雲国風土記」の記述は、古事記にある「此の八千矛の神、高志の國の沼河比賣を婚はむとして」云々の、原形となった説話であろうと思われる。
○ 八千戈神(やちほこのかみ:大国主神すなわち大穴持命)が、〈高志國之沼河比賣〉に言い寄るシーンが、古事記に描かれていた。『大系本 古事記』からの引用文を再掲する。また出雲国風土記の記述「意支都久辰爲命子 俾都久辰爲命子 奴奈宜波比賣命」に関連する条項として、古事記に「奧津鏡、邊津鏡」の神宝が記録された「天之日矛」の条を添えておく。
[原文] 此八千矛神、將婚高志國之沼河比賣、幸行之時、到其沼河比賣之家、歌曰、
(頭注)
八千矛神
大国主神の別名とされている。
高志國
越の国で、北陸地方の総称。
沼河比賣
和名抄に越後国頸城郡沼川(奴乃加波)郷がある。この地名に因んだ名か。
幸行
古事記でイデマスに「幸」の字を使っているのは、天皇・倭建命及び尊貴な神の場合に限られている。
[訓み下し文] 此の八千矛の神、高志の國の沼河比賣を婚はむとして、幸行でましし時、其の沼河比賣の家に到りて、歌ひたまひしく、
(ふりがな文) このやちほこのかみ、こしのくにのぬなかはひめをよばはむとして、いでまししとき、そのぬなかはひめのいえにいたりて、うたひたまひしく、
[原文] 於是天之日矛、聞其妻遁、乃追渡來、將到難波之間、其渡之神、塞以不入。故、更還泊多遲摩國。卽留其國而、娶多遲摩之俣尾之女、名前津見、生子、多遲摩母呂須玖。此之子、多遲摩斐泥。此之子、多遲摩比那良岐。此之子、多遲麻毛理。次多遲摩比多訶。次淸日子。〔三柱〕 此淸日子、娶當摩之咩斐、生子、酢鹿之諸男。次妹菅竈上 由良度美。〔此四字以音。〕 故、上云多遲摩比多訶、娶其姪、由良度美、生子、葛城之高額比賣命。〔此者息長帶比賣命之御祖。〕 故、其天之日矛持渡來物者、玉津寶云而、珠二貫。又振浪比禮、〔比禮二字以音。下效此。〕 切浪比禮、振風比禮、切風比禮。又奧津鏡、邊津鏡、幷八種也。〔此者伊豆志之八前大神也。〕
(頭注)
渡之神
景行紀二十八年の条には難波柏済神(ナニハノカシハノワタリノカミ)とある。
還泊多遲摩國
タヂマは但馬。これによると難波から瀬戸内海を引き返して、関門海峡を経て日本海に出て但馬国に船をとどめたことになる。然るに垂仁紀三年の条の細注には「一云、初天日槍、乗艇泊于播磨国、在於宍粟(シサハ)邑。(中略)仍詔天日槍曰、播磨国出浅邑、淡路島宍粟邑、是二邑、汝任意居之。時天日槍啓之曰、臣将住処、若垂天恩、聴臣情願地者、臣親歴視諸国、則合于臣心、欲被給。乃聴之。於是天日槍、自菟道河泝、北入近江国吾名邑暫住。復更自近江経若狭国、西到但馬国、則定住処也。」とあって陸路を但馬に行ったことになっており、但馬に留まったわけもはっきりしている。
多遲麻毛理
書紀の田道間守に当る。橘を採りに常世の国へ行った人である。
此淸日子
以下の系譜は書紀には見えない。
玉津寶
玉は立派なの意。貴くめでたい宝の意。
珠二貫
玉を緒に貫いたもの二つ。
振浪比禮
波を振り起こす呪力を持った領巾。
切浪比禮、振風比禮、切風比禮。
風を切って進むことのできる呪力を持った領巾。
奧津鏡、邊津鏡
鏡を沖と辺に分けたのは、どういう意味からか明らかでない。
[訓み下し文] 是に天之日矛、其の妻の遁げしことを聞きて、乃ち追ひ渡り來て、難波に到らむとせし間、其の渡の神、塞へて入れざりき。故、更に還りて多遲摩の國に泊てき。卽ち其の國に留まりて、多遲摩の俣尾の女、名は前津見を娶して、生める子、多遲摩母呂須玖。此の子、多遲摩斐泥。此の子、多遲摩比那良岐。此の子、多遲麻毛理。次に多遲摩比多訶。次に淸日子。〔三柱〕 此の淸日子、當摩の咩斐を娶して、生める子、酢鹿之諸男。次に妹菅竈由良度美。〔此の四字は音を以ゐよ。〕 故、上に云へる多遲摩比多訶、其の姪、由良度美を娶して、生める子、葛城の高額比賣の命。〔此は息長帶比賣命の御祖なり。〕 故、其の天之日矛の持ち渡り來し物は、玉津寶と云ひて、珠二貫。又浪振る比禮、〔比禮の二字は音を以ゐよ。下は此れに效へ。〕 浪切る比禮、風振る比禮、風切る比禮。又奧津鏡、邊津鏡、幷せて八種なり。〔此は伊豆志の八前の大神なり。〕
(ふりがな文) ここにあめのひぼこ、そのめのにげしことをききて、すなはちおひわたりきて、なにはにいたらむとせしあひだ、そのわたりのかみ、さへていれざりき。かれ、さらにかへりてたぢまのくににはてき。すなはちそのくににとどまりて、たぢまのまたをのむすめ、なはまへつみをめとして、うめるこ、たぢまもろすく。このこ、たぢまひね。このこ、たぢまひならき。このこ、たぢまもり。つぎにたぢまひたか。つぎにきよひこ。〔みはしら〕 このきよひこ、たぎまのめひをめとして、うめるこ、すがのもろを。つぎにいもすがかまゆらどみ。〔このよもじはこゑをもちゐよ。〕 かれ、かみにいへるたぢまひたか、そのめひ、ゆらどみをめとして、うめるこ、かづらきのたかぬかひめのみこと。〔こはおきながたらしひめのみことのみおやなり。〕 かれ、そのあめのひぼこのもちわたりこしものは、たまつたからといひて、たまふたつら。またなみふるひれ、〔ひれのふたもじはこゑをもちゐよ。しもはこれにならへ。〕 なみきるひれ、かぜふるひれ、かぜきるひれ。またおきつかがみ、へつかがみ、あはせてやくさなり。〔こはいづしのやまへのおほかみなり。〕
〔日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』(pp. 100-101, pp. 256-257) 〕
○ 上記引用文の頭注に「明らかでない」とされた「奧津鏡、邊津鏡」条項の解釈として、ちくま学芸文庫『古事記注釈』の論を参照しておきたい。
ちくま学芸文庫
二、天之日矛の系譜
奥津鏡[オキツカガミ]、辺津[ヘツ]鏡 万葉の「いさなとり、近江の海を、沖離[サ]けて、漕ぎ来る舟、辺つきて、漕ぎくる舟、沖つ櫂、いたくな撥[ハ]ねそ、辺つ櫂、いたくな撥ねそ」(二・一五三)に見られるごとく、「沖」(奥)と「辺」、「沖つ」と「辺つ」は対をなす語。奥つ鏡・辺つ鏡も、日矛が海を渡ってきたのでかく対句風にいったもの。「浪振るひれ、…… 風切るひれ」も、やはり航海と関連するだろう。
〔西郷信綱/著『古事記注釈 第六巻』(p. 387) 〕
◎ さて『大系本 古事記』の頭注には、垂仁紀三年の条の細注に「一云、初天日槍、乗艇泊于播磨国、在於宍粟(シサハ)邑。(中略)仍詔天日槍曰、播磨国出浅邑、淡路島宍粟邑、是二邑、汝任意居之。時天日槍啓之曰、臣将住処、若垂天恩、聴臣情願地者、臣親歴視諸国、則合于臣心、欲被給。乃聴之。於是天日槍、自菟道河泝、北入近江国吾名邑暫住。復更自近江経若狭国、西到但馬国、則定住処也。」とあることが記されており、その後半は「近江国吾名邑」でしばらく暮らしたあと〝近江より若狭国を経由して〟西の「但馬国」に到ったという記録である。―― で。元伊勢宮丹後之国一宮「総社籠神社」は、丹後半島の南東部(京都府宮津市)の、ちょうどその南方から「天橋立」が延びている場所にあって、〈天日槍〉の道中に該当するのである。
突然の丹後半島なのだが、これはどういう展開なのかというと。
実は「奥津鏡・辺津鏡」が、海部氏ゆかりの式内社〈籠神社〉の神宝として保存されていたという、新聞報道が 1987 年 11 月 1 日にあった。国宝として有名な「籠名神社祝部海部直等之氏系図」は「本系図」の他に「勘注系図」があるのだという。その 「勘注系図」に「息津鏡、辺津鏡を授かった」という記述のあることが、調査団により発表されたのだった。
○ まず鳥取県立図書館に保存されていた「毎日新聞」(p. 19) から、記事の冒頭の個所と末尾部分を抜粋し、次にデジタル版「朝日新聞」(p. 3) と「読売新聞」(p. 26) から、こちらも抜粋引用しておこう。
国宝の「海部(あまべ)氏系図」(平安時代初期)が伝わる京都府宮津市大垣四三〇、籠(この)神社の海部光彦宮司(五六)宅にある二面の銅鏡を調べていた三丹地方学術調査団(団長、滝川政次郎・・国学院大名誉教授)は三十一日、「鏡は中国の前漢(紀元前二〇二年-紀元後八年)と、後漢(二五年-二二〇年)に作られた鏡で、千五百-千七百年前から海部家で代々、引き継がれてきた〝伝世鏡〟の可能性が強い」と発表した。わが国では弥生時代から古墳時代中期(紀元前一、二世紀-紀元後五世紀)にかけての墳墓や遺跡で、数多くの漢鏡が出土しているが、籠神社の鏡は土中に埋まっていた形跡がないうえ、海部氏系図にこの二鏡を指すとみられる「息津(おきつ)鏡」「辺津(ヘつ)鏡」との記述があることなどから、同調査団は「日本で最古の伝世鏡と考えられる」としており、学界の論議を呼びそうだ。
…………
一方、海部氏は「元伊勢」、あるいは「丹後一宮」と呼ばれる籠神社の宮司を世襲で務めており、光彦氏で八十二代目という。系図は平安時代初期に書写された「本系図」と、江戸時代初期の「勘注系図」から成っており(両方で昭和五十一年に国宝指定)「勘注系図」には、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)が「息津鏡、辺津鏡を授かった」との記述がある。
調査団によると、古代の文献で息津鏡、辺津鏡についての記述が出てくるのは、奈良時代初期(七一二年)に完成した古事記。応神天皇時代に渡来した新羅王子・アメノヒボコが持ってきた「八種(やくさ)の宝」の中に、「奥津鏡」「辺津鏡」が含まれている。
わが国の伝世鏡ではこれまで、奈良県磯城郡田原本町の「鏡作神社」所蔵の三国時代(三世紀)の製作とみられる「三角縁神獣鏡」が最も古いとされていた。
〔『毎日新聞』 1987 年 11 月 1 日(日曜日)鳥取版 (p. 19) 〕
わが国最古の系図で国宝の「海部氏(あまべし)系図」が伝わることで知られる京都府宮津市大垣、籠(この)神社=海部光彦宮司(56)=の大小2つの青銅製の神宝鏡が、中国の前漢と後漢の鏡であることが樋口隆康・京大名誉教授(考古学)の鑑定で明らかとなり、31日発表された。
…………
同神社の国宝系図は、平安時代前期の870年代半ばごろに書写されたとされ、海部氏の始祖ホアカリノミコト以後、歴代の海部氏直系の子孫を現代に至るまで列記している。ところが、このホアカリノミコトは、天孫降臨したニニギノミコト(神武天皇の大祖父)の弟で、これが記紀神話の記述と違うことから天皇家の歴史を傷つけるとして、戦前は、その系図の存在さえひた隠しにされていた。戦後になって同系図が公表され、但馬(兵庫県)、若狭(福井県)など日本海西方に根強い勢力を張っていた豪族として海部族の研究は進んだが、この部分には光が当てられなかった。
〔『朝日新聞』 1987 年 11 月 1 日 (p. 3) 〕
京都府宮津市大垣、篭(この)神社に代々伝わる二面の銅鏡が、約二千年前の中国・漢代に作られ、出土品でない伝世鏡としてはわが国最古のものであることが、三十一日までにわかった。三丹地方学術調査団(団長・滝川政次郎国学院大名誉教授)の古文書調査と、古代鏡に詳しい樋口隆康京大名誉教授の鑑定から、これも同神社に伝わる国宝指定の系図の記述が裏付けられたためで、樋口名誉教授は「鋳上がりもよく、重文級の価値がある」としている。
〔『読売新聞』 1987 年 11 月 1 日 (p. 26) 〕
出雲の嶋根郡、加賀の郷にはまた〈ヒカリカガヤキキ〉の伝説が残されている。現在の美保関町がその伝承地にあたるのである。
○ 意宇郡で語られていた〝国引き神話〟では「三穗の埼」は、「高志の都都の三埼」を引いてきた土地だとされている。風土記引用の最後にその個所も再掲して、それらの伝承の解釈がどのように進展しているかの検討につなげたい。
[原文] 美保鄕 郡家正東廾七里一百六十四歩 所造天下大神命 娶高志國坐神 意支都久辰爲命子 俾都久辰爲命子 奴奈宜波比賣命而 令產神 御穗須須美命 是神坐矣 故云美保
(頭注)
美保鄕
島根半島の最東部。美保関町、森山附近以東にあたるのであろう。
意支都久辰爲命
クシヰはクシビ(霊)の音訛か。遠(おきつ)近(へつ)に分けて父子の二神の名としたもの。
奴奈宜波比賣命
古事記に大国主命が婚した越の沼河比売とある女神に同じ。
御穂須須美命
下の美保社に鎮座。
[訓み下し文] 美保の鄕 郡家の正東廾七里一百六十四歩なり。天の下造らしし大神の命、高志の國に坐す神、意支都久辰爲命のみ子、俾都久辰爲命のみ子、奴奈宜波比賣命にみ娶ひまして、產みましし神、御穂須須美命、是の神坐す。故、美保といふ。
[ふりかな] みほのさと こほりのみやけのまひむがし27さと164あしなり。あめのしたつくらししおほかみのみこと、こしのくににいますかみ、おきつくしゐのみことのみこ、へつくしゐのみことのみこ、ぬながはひめのみことにみあひまして、うみまししかみ、みほすすみのみこと、このかみいます。かれ、みほといふ。
[原文] 加賀鄕 郡家北西廾四里一百六十歩 佐太大神所生也 御祖神魂命御子 支佐加比賣命 闇岩屋哉詔 金弓以射給時 光加加明也 故云加加 〔神龜三年 改字加賀〕
(頭注)
加賀鄕
八束郡島根村、加賀・大蘆地方。
北西
「北西」という方位の記し方は他には見えない。後人の誤訂が加わっているためであろう。当国風土記の書式例では方位の記し方は東北・東南は一定しており、西南は南西とも両様に記すが、北西は他例すべて西北と記している。
佐太大神
秋鹿郡佐太御子社の祭神。大穴持命の別名としているが、佐太の地の地主神か。後藤説は猿田彦神とする。
御祖神魂命
古事記には神産巣日之命とあり、蚶貝(きさがい)比売命を遣わす説話が見える。
支佐加比賣命
この神と並ぶ神も次々条にウムカヒメとある。キサカヒ(蚶貝)メ(女)の意であろう。
金弓
弓の要所に金属(恐らく鉄)を用いたものか、黄金の装飾ある弓か、明らかでない。
神龜三年 ……
諸本にない注記であるが、標目地名の用字及び説明記事の結びの用字の書式例によれば、神亀三年改字による書式と認められる。
(校訂注)
/ 注記八字、底・鈔にない。郷名列記の條により補う。
[訓み下し文] 加賀の鄕 郡家の北西のかた廾四里一百六十歩なり。佐太の大神の生れまししところなり。御祖、神魂命の御子、支佐加比賣命、「闇き岩屋なるかも」と詔りたまひて、金弓もちて射給ふ時に、光加加明きき。故、加加といふ。〔神龜三年、字を加賀と改む。〕
[ふりかな] かがのさと こほりのみやけのいぬゐのかた24さと160あしなり。さだのおほかみのあれまししところなり。みおや、かむむすびのみことのみこ、きさかひめのみこと、「くらきいはやなるかも」とのりたまひて、かなゆみもちていたまふときに、ひかりかがやきき。かれ、かがといふ。〔じんきさんねん、じをかがとあらたむ。〕
[原文] 法吉鄕 郡家正西一十四里二百卅歩 神魂命御子 宇武加比賣命 法吉鳥化而飛度 靜坐此處 故云法吉
(頭注)
法吉鄕
松江市法吉町が遺称地。東の川津川にまでわたる地域。
宇武加比賣命
ウムカヒ女。上のキサカヒ女と同様の神名。ウムカヒは大蛤。古事記に神産巣日之命が蛤貝比売を遣わす説話が見える。
法吉鳥
鶯。その鳴声による名。法はホフであるが、同音連続のホホにあてたとすべきであろう。
靜坐此處
下の法吉社に鎮座。
[訓み下し文] 法吉の鄕 郡家の正西一十四里二百卅歩なり。神魂命の御子、宇武加比賣命、法吉鳥と化りて飛び度り、此處に靜まり坐しき。故、法吉といふ。
[ふりかな] ほほきのさと こほりのみやけのまにし14さと230あしなり。かむむすびのみことのみこ、うむかひめのみこと、ほほきどりとなりてとびわたり、ここにしづまりましき。かれ、ほほきといふ。
[原文] 亦高志之都都乃三埼矣 國之餘有耶見者 國之餘有詔而 童女胸鉏所取而 大魚之支太衝別而 波多須々支穗振別而 三身之綱打挂而 霜黑葛闇々耶々爾 河船之毛々曾々呂々爾 國々來々引來縫國者 三穗之埼 持引綱夜見嶋 堅立加志者 有伯耆國火神岳是也
(頭注)
高志
北陸地方(越前・越中・越後)の古称。
都都
所在不明。能登半島の北端珠洲(すず)岬に擬する説がある。
三穗之埼
島根半島の東端美保関町。その突端を地蔵崎という。下に美保埼と見える(一四一頁)。
夜見嶋
夜見ガ浜(弓ガ浜)。下に伯耆の国郡内、夜見島と見える(一三九頁)。
火神岳
鳥取県の大山(だいせん)(一七一三米)。
(校訂注)
火
紅葉山文庫本・訂「大」。底・諸本のまま。
[訓み下し文] 亦、「高志の都都の三埼を、國の餘ありやと見れば、國の餘あり」と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穗振り別けて、三身の綱うち挂けて、霜黑葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、國來々々と引き來縫へる國は、三穗の埼なり。持ち引ける綱は、夜見の嶋なり。堅め立てし加志は、伯耆の國なる火神岳、是なり。
[ふりかな] また、「こしのつつのみさきを、くにのあまりありやとみれば、くにのあまりあり」とのりたまひて、をとめのむなすきとらして、おふをのきだつきわけて、はたすすきほふりわけて、みつみのつなうちかけて、しもつづらくるやくるやに、かはふねのもそろもそろに、くにこくにことひききぬへるくには、みほのさきなり。もちひけるつなは、よみのしまなり。かためたてしかしは、ははきのくになるひのかみだけ、これなり。
〔日本古典文学大系 2『風土記』(pp. 126-129, pp. 100-103) 〕
The End of Takechan
○ 説話(〝ツツの三埼〟⇒〝ミホの埼〟)として語り継がれている地名については、能登半島の東北端「珠洲岬」の一部が現在の「美保関町」になったのだという解釈が有力らしい。
高志[こし]は越[こし]、即ち今の三越地方、越前・越中・越後の一帯の地の古称であった。古事記にも高志[こし]の八岐遠呂知[やまたのおろち]、高志の沼河比売[ぬなかはひめ]、高志路[こしぢ]など見えてい、本書島根郡美保郷に高志の国、神門郡古志郷に古志の国、意宇郡母理郷と拝志郷に越[こし]の八口[やくち]と見えるのは、皆この三越地方をさす越[こし]の意である。
都都[つつ]の御埼は、宣長翁は和名抄を引いて能登国羽咋[はくひ]郡の都知[つち]郷などかとせられたが、考証に同国の珠洲[すす]の埼を指したものであろうとされているのに従うべきであろう。上代においてはタ行音は、タ・ティ・トゥ・テ・ト、即ち ta・ti・tu・te・to のような発音であり、サ行音はツァ・ツィ・ツ・ツェ・ツォ、即ち tsa・tsi・tsu・tse・tso のような発音であったので、しばしばこのタ行音とサ (tas) 行音とは相通じて用いられ
衣手のひたち(常陸)の国(万)―― 衣袖[ころもで]ひたし(漬)の国(常陸国風土記)
八雲たつ出雲(記)―― 夜都米[やつめ]さす出雲(紀)
きつぎ(来次)―― きすき(木次)
など例が多いので、都都[つつ]は珠洲[すす]であろうとするのは国語学的にも穏当な見解であると思われる。殊に越後には出雲崎という地名もあり、方言にも共通の点が多くあって、三越能登の地帯は上古から出雲との交通も盛んであったようである上、珠洲は同地方における海上交通の要路にあったようであるから、このような伝承も生じたものと思われる。
三穂の埼は美保の岬で、前段の宇波[うなみ]の折絶[たえ]、即ち今の稲積・手角の切れ目以東を指したのである。本書では三穂 ―― 美保 ―― 御穂等相通じて用いられているが、この地塊には美保神社が鎮座せられているので美保の埼といったことは前述各段に見たと同じく、以上四段の四地塊すべてその地に鎮座する神社の名をもって呼ばれているわけである。
夜見島は今の鳥取県夜見ケ浜半島の中北部にあたり、当時は本土と離れた島であったが、天平以後日野川の沖積土によって繫がり、今見るように二十粁の半島となったのである。夜見島は夜の闇の世界を照覧する神の島の意と考えられる。ところがこの夜見は、黄泉[よみ]すなわち死の世界に通ずる語であって、出雲郡に黄泉[よみ]の坂、黄泉[よみ]の穴の記事が見え、また古事記でも、黄泉国を出雲国に連なる世界として伊邪那岐命[いざなきのみこと]・伊邪那美命[いざなみのみこと]の伝承を語り、黄泉の入口を出雲の伊賦夜坂[いふやさか](伊布夜社の条参照)としているのは、彼此対照して深い事情のあることを思わせる。恐らく夜見島は太古においては黄泉[よみ]島、即ち死者の行く島とされてい、それが中央に伝承されて古事記や日本書紀で出雲のこととされたのではあるまいか。この際出雲郡に黄泉の坂や黄泉の穴のあることや、島根郡に闇見の名のあることも出雲を黄泉に近づける力となったにちがいないと思われる。いずれにしても、今も夜見ケ浜が、美保関の地塊をかっきりと繫ぎ止めて、日本海の風波に堪えているような姿態で延び、その線が遙か伯耆大山の方向に連なっているのは誠に興味が深い。
伯耆国は今の鳥取県の西半部、東伯郡・西伯郡・日野郡を含む地域。伯耆は「はくき」であろうが暫く通説による。
火神岳は今の伯耆大山。訂正本には大神岳とされているが、諸写本殆んど火神岳とあるのでこれに従う。大山は噴火したことを知る証徴はなく、いわゆる塊状火山とされているが、古人はその山形から火山であることを直覚して火の神の山と名づけたのであろう。大山の大神山神社が、火の神である軻遇突智[かぐつちの]命を祀っているのはその証となるのである。しかも延喜式に大神山神社とあるのは、もと火の大神の山の神社というべきを、火を略して単に大神と言ったのが固定して大神山神社となり、又この延喜式によって訂正本に大神山とされたのであろう。山を神の山として崇めたのは万葉集巻三(三一九)に高橋虫麿が富士山を「あやしくも座[ゐ]ます神かも」と歌っていることを挙げるまでもなく、本書にも至るところに見えて極めて普通のことであった。夜見島は主としてこの山の流砂で造成されている。
〔加藤義成/著『修訂 出雲国風土記参究』(pp. 70-72) 〕
○ 上記引用文、最後の段落に〝大山の〈大神山神社〉に「軻遇突智命」が祀られている〟という記述がある。資料の文献には昭和 56 年発行の「改訂三版」を用いたので、これは誤植ではなくあえてこのように記述されていると思われる。この記述の根拠は明示されていないけれども、大正 15 年発行の後藤藏四郎氏による論考に同様の文面「大山には軻遇突智命を祀る」とあるのが確認できたので、以下に示しておきたい。
高志之都々乃三崎は能登國の珠洲[スス]崎をさしたものであらう。三穗之崎とはこゝには手角[たすみ]から地藏ケ鼻までを含む。夜見島は今は陸續きとなつて、夜見ケ濱、又は弓ケ濱といふ。大神岳は今の大山[だいせん]である。諸本に火神岳[ひのがみだけ]とあるが、紅葉山文庫本に大神岳とある。大山[だいせん]には軻遇突智命[かぐつちのみこと]を祀るから、或は火神岳といつたかもわからぬ。
〔後藤藏四郎/著『出雲國風土記考證』(p. 16) 〕
◉ 上記二点の引用文は、今回「美保神社」の研究により見つけたもので、以前の「火の神カグツチ」の際には、触れていなかった。―― が、関連事項であるので、2019 年 1 月 6 日に引用文を「火の神カグツチ」のページに追加しておいた。〔「火の神カグツチ」のページ 参照〕
The End of Takechan
○ 21 世紀に出版された研究書でも〝都都(つつ)は珠洲(すす)〟という解釈が有力視されている。
本註論の中で次の略称を用いる。岩波古典文学大系本『風土記』(秋本吉郎)は『大系』、そして『出雲国風土記参究』(加藤義成)は『参究』とする。
「都都乃三埼」に関しては未だ定説を生むに至っていない。まず一般に「都都」に関しては「ツツ」と訓じるが、最近植垣節也氏は「ツウ」とすべきという(『風土記』)。そして『和名抄』越後国頸城郡の「都宇」と沼河比売伝承から新潟県上越市直江津付近の岬と比定する。具体的な岬の名を示さない点に難があるが、多分名立の鳥ヶ首岬のことであろう。しかし出雲の国引の対象、「国の余りありやと見れば」の地としては余りにも紆余曲折した遠方の地であり、岬自身も特に目立つとは思われず従うことはできない。
「都都乃三埼」に関しては本居宣長の能登国羽咋郡の都知郷、横山永福の丹波国余社郡筒川が出されているが、やはり能登「半島」が気になる。そういう中で後藤蔵四郎が『出雲国風土記考証』で言及した能登半島突端の珠洲(すず)岬とする説が魅力的である。『参究』の加藤義成氏によれば国語学的にも「ツツ」と「スス」は相通じて用いられても不思議ではないという。
現在、珠洲岬の三崎町寺家に須須神社が鎮座している。須須神社の奥宮の祭神は社名にかかわる美穂須須美命とされている。出雲の諸社と同じく複雑な変遷をとげた神社であるが、美穂須須美命は国引されて形成された「三穂之埼」の「三穂」にかかわる神であり嶋根郡条に「天下所造大神命、高志国の坐す意伎都久辰為命のみ子、俾都久辰為命のみ子、奴奈宜波比売命にみ娶ひまして、産みましし神、御穂須須美命、是の神坐す」とみえる。
尚、「ツツ」・「スス」の関係であるが『万葉集』四一〇一に、「珠洲の海人の沖の御神にい渡りて潜き取るという鮑玉」とみえており、前後関係はないのであろう。考えられることは加藤氏のように両名通じるか、同所別称の二つであろう。因みに珠洲岬の三崎に分かれその一つを「塩津埼」と呼ぶという。「塩津」といえば滋賀県伊香郡の塩津神社のように塩土老翁(塩土神・塩椎神)を祭る地域が多い。塩土老翁、すなわちシホツチ(なお底筒男・中筒男・表筒男の事例からツツと読むこともあるか)の名にかかわる可能性も指摘しておこう。尚、「スス」は真珠、「ツツ」は筒ではなかろうか。しかし、『珠洲市史(六)』で門脇禎二氏は須須神社と嶋根郡の「美保郷」との関連を認めつつ、「ススミ」に関しては「鋒(とぶひ)」、すなわち「のろし(狼煙)」との理解を示す。地域名として「狼煙」があり、山伏山も「狼煙山」と呼ばれていること、日本海航行の安全上の要として適地であり、耳を傾けるべき見解であろう。そうであるならば新羅・隠岐・能登を国引き対象した背景には日本海の「狼煙」網があった可能性も見えてくる。但し、能登半島の古地名に係わる問題であるので、ここでは深入りはしない。
「三穂之埼」に関して嶋根郡条で言及する。
〔関和彦/執筆『出雲国風土記註論』(総記・意宇郡条)(p. 1, pp. 32-34) 〕
『参究』は「美保郷」に関して風土記抄の「此の郷は関村・福浦を以つて本郷と為し、西は森山、東は雲津・諸喰等を併せ加へ」たものとする。「美保郷」に関しては注目すべき資料として藤原宮跡から出土した木簡の「島根郡副良里伊加贄廿斤」がある。『出雲国風土記』嶋根郡条によれば「美保郷 今も前に依りて用ゐる」とみえ、「郷の名の字は神亀三年の民部省の口宣を被ぶりて、改めぬ」にかかわりなく、それ以前から「美保」の名であったことがわかる。木簡の「副良」は美保関町の福浦と考えられ、藤原宮時代は「美保」ではなく福浦を本郷とする「副良」里であった可能性が高い。「副良」は「ふくら」は「福浦」を念頭におくと「ふくら」と読むのであろうが、「ふくろ(嚢・袋)」と読んだ可能性もある。
『出雲国風土記』が「今も前に依りて用ゐる」としたのは『播磨国風土記』が言及する「庚寅年(六九〇年)」における郷名変更を意識したものであろう。すなわち「美保郷」の古名は藤原京時代の六九〇年までは「副良里」であり、同年に「美保里」と改名され『出雲国風土記』編纂段階では「前に依り」、「美保」の名を継承したというのである。
…………
尚、「美保」に関しては『出雲国風土記』の国引神話の中でも取り上げられている。すでに国引神話については意宇郡条で取り上げたのでここでは最後の国引きのみを取り扱う。そこでは「高志の都都の三埼」を眺め、「国の餘り」を見いだし、「国来国来」と国引した「国」が「三穂の埼」とする。ここでは「美保」が「三穂」とされ、『古事記』では「御大之前」、『日本書紀』では「三穂碕」と表現されている。その共通する読みの「みほ」に関しては『日本書紀』懿徳紀に「畝傍山の南の御陰(みほと)の井上陵に葬りまつる」にみえるように谷部を女性器に見立てた点を考慮すると入江の窪(湾)のことなのであろう。
まだ一例に過ぎないがかつてこの地域を「みほ」ではなく「副良」と呼んでいた事実は重要である。この場合、「副良」から「みほ」に地名が変わったケースと、「副良」・「みほ」の地名は併存しながら代表地名として交代したケースを想定しておく必要がある。どちらにしても注目すべきは「みほ」の地名が前面に登場したことである。そこに『古事記』『日本書紀』の大国主神の国造り、国譲り神話の影響を読み取ることが出来る。
〔関和彦/執筆『出雲国風土記註論』(嶋根郡・巻末条)(pp. 12-15) 〕
門脇禎二氏の論〔『珠洲市史』第六巻〕は上記引用文でも言及されているが、次に参照する興味深い論考で〈御穗須須美命(みほすすみのみこと)〉について詳しく論じられ、「ススミは烽(とぶひ・のろし)の古訓である」と解説される。―― また、次回に検討する予定の〈神魂神社(かもすじんじゃ)〉についての仮説がその論考の前に紹介されているのであわせて参照しておきたい。一般論としてカモスの神は、古事記の神話で五穀の種を採取した〈神産巣日御祖命〉すなわちカミムスヒの神と、同一神であるとみなされている。
○ 論書の冒頭でまずは「出雲・丹波・若狭・越」の日本海沿岸部について語られている。
2 日本海地域史の諸段階
ヤマト国家の支配層に意識された日本海域のもっとも古い区分は、つぎのようなものではなかったか。西のほうからいえば、イヅモ(出雲)・タニハ(丹波)・ワカサ(若狭)・コシ(越)である。
イヅモは、がんらいは斐伊[ひい]川の下流をいった。しかし、ひとつの地域的まとまりとしては、律令制の行政区画でいえば石見~出雲にわたる範囲で、新羅ともごく接近した地域とみられていたらしい(このばあい、いわゆる出雲系信仰の問題もあって、その範囲はもっと東方へおよんでいたという見解もあるが、出雲と伯耆以東との古墳文化の違和性も無視できない。こんなこともあって、伯耆・因幡[いなば]をイヅモ圏でみるかタニハ圏で理解するか、いまのところ後者に傾いているが断定は避けておきたい)。
タニハは、律令制下の国名でいえば丹後を中心とし、丹波と但馬もふくめた範囲である。これは、近江を後背地としたワカサとひとつに理解していいかもしれない。事実、タニハと近江の地域との首長間の婚姻伝承などもある。しかし、この両地域とヤマトとの接触は、かなり早くからそれぞれ別々になされたものであった、と理解される。
コシも、ワカサと同様に近江を介してヤマト国家とあいふれた。しかし、のちの越前より以東は、ワカサ~タニハとの接触よりはかなりおくれたとみられる。
…………
私は、王国とか地域国家という以上、少なくとも三つの条件を証明できることが必要だと考えている。㈠ は地域における王権とその支配体制の存在であり、㈡ は画定された支配領域であり、㈢ は独自の文化や支配イデオロギーである(拙著『日本古代政治史論』第三章)。それを、たとえば出雲について、㈠意宇平野に成長した王とその官僚制および収奪体制、㈡安来[やすぎ]平野から斐伊川・神戸[かんど]川下流域にわたる支配領域、㈢天下造りの神(オオナモチ神)― 国造りの神(ツヌ神)を軸とする独自の神話体系や建国神話(国引き神話)について検証したのであった(拙著『出雲の古代史』NHK ブックス)。
5 地域国家論の位置
地域国家という場合、少なくとも三つの論証点が必要なことは既述した(六頁)。これらを充足し地域国家相互間や海外異国とも外交したことにおいて、地域国家論は、地域王朝論や民族学における首長国概念などと区別づけられる(拙著『古代史をどう学ぶか』一七三~七四頁)。
こうした検証の結果は、地域国家は基本的には小専制国家と把握できるが、しかしキビ国家などはヨーロッパ古代の二王制国家とみる可能性も残る。……
さらにいえば、地域国家論は、国際的な論題にもふれてくる。というのは、どのような所説にせよ日本の国家形成がすすんだとされる三~七世紀は、朝鮮・中国はすでに封建時代であった、とみられている。つまり、高句麗・新羅・百済の三国時代は、朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国いずれの学界も封建時代とする。中国の三国・南北朝・隋・唐の時代も、中国の学界はこれを封建時代とみるのがほぼ一致した見解である。
したがって、朝鮮や中国の学界にしたがえば、日本列島における古代国家の形成は朝鮮・中国よりかなり遅れることになる。事実関係がそうならそれでいい。しかし、たとえば隋・唐の律令=封建法をもって日本の古代国家の律令体制=古代的法治体制がととのえられたことになるわけだから、日本古代国家を論ずる者は、日本の古代国家は外国の封建的所産 ―― たとえば封建法たる律令 ―― をもってととのえられたという事態の歴史的意義についての理論的説明を求められることになろう。
この課題に処するに、日本の学界の一部になお根強いのだが、朝鮮三国や中国の隋・唐時代はなお古代とみて、外国学界の封建時代とみる一致した見解を誤りであると一刀両断すれば、ことは簡単である。それなら、日本の古代的法治体制=律令体制は外国の古代法を継受してできたものと、整合的に説明できる。だが私には、いつまでもこうした態度が堅持できるとは思われない。人文・社会科学としての歴史学の社会的・歴史的性格とその発達史、とくに時代区分論の発達史を辿れば、日本の古代・封建の時期区分も変わってくる可能性は大いにある。
つまり、私はまだ律令体制=古代国家の法治体制とみているのだが、三〇年代の奴隷制・封建制論争における早川二郎などの所論、ソビェト・アカデミー『世界史』の所説など、律令国家=封建国家とする内外の見方からの論証が強まってくる可能性は一概に否定できないと思う。地域国家を原初的な古代国家とみる現状ではもとよりだが、もし右のような可能性が現実のものとなってくれば、地域国家論は原初的といわない古代国家論として検討されることになるかもしれない、と思っている。
1‐1 珠洲の若倭部
一枚の荷札 珠洲[すず]の地名が、はじめてヤマト朝廷の古代貴族の記録に登場するのは、七一八年(養老二)五月のことである。すなわち、珠洲郡はそれまで越前国の一郡であったが、羽咋・能登・鳳至[ふげし]の三郡とともに四郡でもって能登国とする、と記してある。……
古麻志比古神社 ……
古麻志比古神社の祭神は、近世では能登一宮の気多大明神を祀り、「仁皇十代崇神天皇」の時代に草創され、その後「欽明天皇御宇貴楽二年」、ついで「元正天皇御宇養老元年」「後冷泉院御宇康平四年」「後二条御宇徳治元年」と再興のことがあったとしていた(『珠洲郡誌』五六六頁)。この所伝にも欽明朝の貴楽という年号や養老元年としていることなど、それなりに注目されるところがある。しかし、こうした所伝が成立する以前には、祭祀は日子座王命[ひこますおうみのみこと](=彦坐王)が祀られていた(『加越能寺社由来』下巻、八一頁)。
古麻志比古神社については、古麻志=高麗[コマ]・魂[シ]・(彦)とみて高麗人の祖霊ないし高句麗系渡来人の祖神とみる理解の仕方がある。しかしこの論法では、祭神じたいをより重視すれば、古麻志比古神社が祭神とした日子坐命をめぐる「古事記」の四つの婚姻伝承につながる諸氏のうちには「新撰姓氏録」で蕃別とされないものもあるから、問題が残ってくる。したがって、がんらい、古麻志のコマは、コモ(熊)が呪術と修業によって天神の子を生むという朝鮮の平壌地方にあった呪術的な民間信仰のひとつで、コモ(熊)ス(霊)であったとする理解の仕方がある。この説は、コモスがカモス(神魂)信仰として、出雲神話にみえるカモス信仰やカモ(鴨)信仰へと発達し、こうした始祖霊信仰がつぎにくる始祖的人格信仰(いまの場合、彦坐王信仰)の前提になっているとする(畑井弘「彦坐王小考」『甲南大学紀要・文学編』三二号)。要は、朝鮮の土着的な呪術信仰にもとづくカモス(シ)〔神魂〕信仰の古称を古麻志比古の原像にもとめるのである。
このような所論にふれるならば、当然に想起されるのは、出雲の神魂[かもす]神社であろう。神魂神社は、出雲東部の意宇[おう]郡、いまの八雲立つ風土記の丘センターの西方の大庭[おおば]にある。カモス神は、「古事記」ではすでに神産巣日[かみむすび]神(紀では神皇産霊尊)とされるが、カモスの称が残りつづけたのは、朝鮮に発したコモスの始祖霊信仰によるとみられる。そういえば、意宇平野のがんらいの地主神(農業神)は熊野川のより上流に熊野大神としてあるから、意宇に国づくりがすすんだ過程で、さらに新たにコモス信仰が加わったと解される(拙著『出雲の古代史』NHK ブックス)。そうみれば神産巣日神が、がんらいは出雲の神であったとする神話学からの考察(松前健『出雲神話』、水野裕『出雲神話』など)も生かされてくる。古麻志比古神社の原像は、コモス信仰によって理解したい。
以上のようにみてくれば、若山川流域の人々は、がんらいは、出雲を中心とした信仰圏につながる人々であった、と思われる。しかし、その人々も、新たに若倭部として、ヤマト政権の祖先神話の名にもとづく負担を強いられてきた。
若 倭 部 若倭部は、若倭根子日子大毘毘命[わかやまとねこひこおおびびのみこと]の名代[なしろ]の民であった。つまり、開化天皇という中国風の諡号[しごう]で八世紀末ごろからよばれるようになる以前は、このような和風の諡号でよばれていたのである。この若倭根子日子大毘毘命の名を伝える儀式や供物の費用を調備・貢納することを義務づけられたのが、若倭部とされた人々であった。
この場合、そういう名代が指定された以上、若倭根子日子大毘毘命=開化天皇は、実在した王であったと説く論者もある。しかし、それは部民制とヤマト朝廷の王統譜とを短絡しすぎる考えのように思われる。というのは、倭根子日子を冠する和風諡号は、
大倭根子日子賦斗邇[ふとに]命 …… 孝霊天皇〔七代・享年一〇六歳)
大倭根子日子国玖琉[くにくる]命 …… 孝元天皇〔八代・享年五七歳〕
若倭根子日子大毘毘[おおびび]命 …… 開化天皇〔九代・享年六三歳、紀では一一五歳〕
とみえる。「若」は「大」に対するもので、この諡号でくくられる三代は、ひとつの類型性のうちに理解される。
それを前提にして、若倭根子日子大毘毘命と北陸との関係が検証できるか否かである。その関係のカギを握るのは、若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の子神とされる日子坐王(=彦坐王)の存在であると思う。というのは、古麻志比古神社は、先述したように、祭神は日子座(坐)王命とする。そもそも「彦坐王」は固有名詞ではなく、某所に「坐[(い)ます]」某神社というように、その地における古来の地主神とされる。ところが、「古事記」には、四人の妃との婚姻伝承をのせるが、その背景には、五世紀末葉には越から若狭・近江・山城・大和北部におよぶ信仰圏が形成されていたことが説かれている(畑井前掲論文)。
こうしたことを想起すれば、その信仰が、がんらい北陸一帯、当然珠洲の若山川流域にもおよんでいた日子坐王が若倭根子大毘毘命(開化天皇)の子神に系譜づけられることによって、この父神への供物調進=貢納のことが課せられてきたとみられるだろう。その転機は、口能登の豪族が能登国造にされたことにあった。そして、御祓川・大谷川下流域(いまの七尾市域)や若山川下流域で日子坐王を祀っていた人々が、まず若倭部としての貢納を強いられることになったものと思われる。これを前段として、若山川下流域の人々に、日子坐王(コモス)信仰のほかに大毘毘命への信仰も及ぶことになったと思われる。
2‐1 珠洲郡の設置
郡名と須須神社 「珠洲」と記される郡名は、「延喜式」に須須神社と記される「須須」に由来する。その語源については後述するが、能登半島の東北端は、早くから、きわめて重視されていたのである。それも、外海と内浦を往き交う能登の人々にとってはもとより、北の海つ道を大きく往き来する日本海沿岸一帯の人々にとって、そして彼らから伝聞する中央政府じしんにとっても重視されていた。要は、この一帯は、単に地方的な行政対象というより、はるかに広い世界にとっての重要地帯であったし、ここに地域的特性があった。この地域の中心にあったのが、珠洲神社である。
ところが、「延喜式」にみえる須須神社と、八七三年(貞観十五)に従五位下から従五位上へと神階をすすめられた高倉彦神の社[やしろ](「三代実録」貞観十五年八月四日条)とは、同一社か別社かをめぐって早くから見解が分かれていた。しかし、それら諸説を子細に検討し、現地踏査を経た結果の、両者はがんらい同じ神社であったとするすぐれた論考*に従いたい。つまり、高倉彦神社の社は、古来から高座宮[たかくらぐう]・金分宮[きんぶんぐう]を併称してきた須須神社にほかならないとしたのである。
すなわち、高座神=高倉神のことで、この名は鎮座地の地形、つまり現在、高座宮の社地の背面一里余の奥にある山伏山(鈴ヶ嶽・狼煙山)の山頂が、近海を航行する舟の目標となり、そこに鎮座する神への信仰に由来するとしている。ただこの説が、須須神社高座宮の相殿が美穂須須見[みほすすみ]命とすることに明確な旧記がないためとして、ほとんど言及されない点について、私見を加えておきたい。
美穂須須見命は記紀神話や「日本書紀」以下の六国史には全くみえないが、実は「出雲国風土記」には、美保郷に鎮[しず]まる神とみえる。つまり、そこで〝天の下造らしし大神〟とされる大穴持命[おおなもちのみこと](大己貴神)と〝高志の国に坐す神〟の意支都久辰為[おきつくしゐ]命の孫神である奴奈宜波比売[ぬながわひめ]神との間に生まれたのが、御穂須須美命とされているのである(「出雲国風土記」)。須須神社高倉宮の相殿に祀られる美穂須須見命は、この神と同神と考えてまず間違いないと思う。さらにいえば、出雲の美保神社の祭神は、事代主[ことしろぬし]命よりもがんらいはむしろ御保須須美命(➝ 三穂津姫命)とする説も、江戸時代初期からいくつかあったのである(和歌森太郎『美保神社の研究』)。
この場合、古麻志比古神を考察した項(一〇一~二頁)でふれたように、この神の信仰がコモ・ス=カモス(神魂)信仰とつながっていたことも想起したい。須須神社の祭神にみる出雲との関係は、珠洲地域にあっては、決して孤立したものではないのである。
このことをおさえてみると、ミホススミ命は、まさに能登を含めた越と出雲とを結ぶ神格であると理解してよいのではなかろうか。いわば、高倉彦神は自然信仰にもとづく近域の海上交通の守護神および山嶽信仰から生まれた名である。しかし、より広域の海上交通、したがって異なった政治圏の接渉においては、よりひろい人格神に昇華され、海の女神としてミホススミ神ともいわれるようになっていたと思われる。
以上のところから、須須神社のがんらいの古形は、高倉神が美穂須須見命とも呼ばれるようになっていたものであったと思われる。したがって、天つ神の彦火瓊瓊杵尊[ひこほににぎのみこと]が主祭神となったのは、珠洲地域の古麻志比古神社の祭神気多大明神と同様に、かなりのちの時代のことであろう。
スズ・ススの語源 古代の「続日本紀」「延喜式」「倭名類聚抄」では珠洲郡と記し、いまも珠洲市と記して、珠洲はスズ・ススなどという地名とされている。この珠洲が、がんらいは須須神社の須須に発するであろうことに、多くの異論はないであろう。つまり、先述のように、能登に関する「延喜神名帳」の記載様式の特色からも、珠洲は地名となっていたのであり、珠洲郡という郡名も生じていたのである。
しかし、珠洲をはじめ須須・殊洲・鈴などいろいろな字があてられるが、そもそもスズ・ススの語源は何であったかということである。ところが、語源は、近海から鮑[あわび]の明珠を産するから珠洲とされはじめたとか、この地方の山野に篠(篶篠[すず]、すずたけ、すず笹)が繁茂したからとかの説があったが、それらを排して、アイヌ語から出たとする説が提出されている(植木前掲書)。すなわち、アイヌ語のスツ (Sut) ・シュツ (Shut) は岬というところから出た、とするのである。確かに鮑珠や篠からの起源説にも賛成し難いが、しかし現在では、アイヌ種族・言語を古代の北海道の住民と結んで理解することは、疑問とされてきている。また、そのスツ・シュツの音が日本海岸ではどうして能登半島の先端にだけ定着したかということの説明も要るだろう。
したがって、ここでは、須須神社は「延喜式」でも「須須」と記されており、がんらいの祭神がミホススミ(美穂須須見)命と呼ばれたことに留意したい。すなわち、ミホ・ススミである。ミは、海とか神霊をいい美とか御の字をあてる美称ないし敬称である。ホは、ぬきんでて秀でている様をいい、穂・秀(後世には保)などの字をあてる。つまり、ミホは美称ないし敬称とみてよい。これに対し、ススは凝烟(「古事記」神代巻葦原中国平定段)のこと、ススミは烽(とぶひ・のろし)の古訓である(「日本書紀」天智天皇三年条)。つまり、異変を知らせる煙や火ののろしをあげる所が烽[ススミ]なのである。ミホ・ススミ命の神名はここから生まれ、出雲の美保神社や須須神社の祭神とされたものと思われる。ススの地名は、この神名から出たものであると思う。したがって、スズとかススと言われるのは、がんらいはススであり、そのススはススミのススで、これが地名になったものと思われる。
それでは、ススミがどうしてススやスズとなったか。そもそも、「珠洲」郡として最初にみえる史料は、先述のように「続日本紀」のなかの記事である。ところが、「続日本紀」が完成した七九七年(延暦十六)よりはるかに以前、七一三年(和銅六)にはすでに、諸国の郡郷名は「好字」に変えるように命令されていた。これによって、ススミ(須須見)もしくはスス(須須)が、好字の「珠洲」に変えられたとみられるのではないか。アスカ=明日香が飛鳥とか安宿に変えられたと同じような例である。以上のように、スズの地名の起こりについて、一試論を提出しておきたい。
〔門脇禎二/著『日本海域の古代史』(pp. 4-5, p. 6, pp. 27-28, p. 95, pp. 100-103, pp. 107-110) 〕
○ ミホススミの神に関連して、次のような論述もある。ここではさらに、美保神社の祭祀(祭具)に登場する「三本足の烏」に注目したい。
―― 中国古典で太陽の中にいるという三本足の赤色の烏を、日本では〈八咫烏〉と呼称する。水先案内(山中での先導)の役割を担って、記紀神話の〝神武東征〟において「八咫烏・頭八咫烏」という表記で語られている。
三 美保神社と御穂須須美命
島根半島の突端、島根県美保関に美保神社がある。美保神社の現在の祭神は、『記・紀』神話がしめすように事代主神と三穂津姫[みほつひめ]命となっているが、すでに指摘されているように、美保神社の本来の祭神は、『風土記』「美保郷」の条が伝えているように御穂須須美[みほすすみ]命である。御穂須須美命がその地に鎮座しているので「美保」となったという地名由来伝説を伝える「美保郷」の条がしめす御穂須須美命とは、どのような神なのであろうか。この神の原像はいかなるものであろうか。
「美保郷」条によれば「天の下造[つく]らしし大神」、つまり大穴持[おおなもち]命が高志(越)国に坐す意支都久辰為[おきつししい]命の孫神である。奴奈宜波比売[ぬながわひめ]神をめとって生んだ子が御穂須須美神であるという。これは出雲と越との関係の強さを語る一つであるが、このミホススミの解釈が重要である。
言われているようにミホススミは島根半島の東北突端に鎮座しているだけでなく能登半島の東北突端部に位置する珠州[すず]郡、現在の珠州市の須須[すす]神社にも鎮座している。式内社の一つとして須須神社は能登半島突端部の中心的神社の一つとして役割をになってきたが、その祭神のミホススミ神は極めて重要な神格であった。
出雲の美保神社と能登の須須神社の祭神であるミホススミは同名の同一神であることは明らかである。『記紀』神話にも六国史にもみえないミホススミの原像については、さまざまに解釈されてきた。ミホススミのミホについては、美称あるいは敬称とすることに少なくない研究者は一致しているようである。
ミは、海とか神霊をいい、美とか御の字をあてる美称ないし敬称であり、ホは、ぬきんでて秀でている様をいい、穂・秀などの字をあてるという解釈やホは船の帆、稲穂、波の穂、槍の穂のような概念で、ものの先端、秀でるの意味であり、突出している地形であるとする理解の仕方もある。いずれにしてもミホは、こうしたぬきんでて突きでている岬の意味をもった美称であることは明らかである。
問題なのは神名である。スス・ススミである。『古事記』神代巻大国主神の国譲りの条では、ススは凝烟のことであるとし、『日本書記』天智天皇三年条は、ススミは烽(とぶひ・のろし)の古訓であろうという。したがってススミ(烽)は、異変を知らせる煙や火ののろしをあげる所であるとするのが有力のようである。
しかし、ススミは朝鮮語の 숯(スッ)から由来していると解釈すべきであろう。スッとは、煙、すす、炭[すみ]、煤煙の意味ではあるが、日本の古訓であるという烽をススミとよむのも朝鮮語のスッからきていると思われる。スッ=ススミは異変を知らせたり、航行の安全を祈願する行為であった。美称のミホは朝鮮語の美( 아름답다 アルムタブタ =美しい)と好[ホ]( 좋다 チョッタ =よい)と理解し、好字となったという理解もある。
ミホ・ススミの神名はこのように生まれ、岬の女神として北ツ海の航海の神となり、出雲と越を結ぶ航路にとどまらず、対岸交流の拠点として高句麗・新羅の海を航行する神として出雲の美保神社と能登の須須神社の祭神となったのであろう。美保[みほ]・珠州[すず]の地名もこの祭神から生まれたのである。
四 美保神社と事代主神と三穂津姫命
高句麗と新羅の東海に開かれた古代出雲の表玄関である美保関[みほのせき]とその一帯の人びとは、ミホススミ神を美保神社においていつき祭った。しかし、知られているように美保神社の祭神は、ミホススミ神ではなく『記・紀』神話がしめす事代主神と三穂津姫命にとって代わられた。皇孫ニニギノ命から国譲りを迫られた大国主命が、子の事代主神にその諾否をたずねるが、事代主神は高天原がたに権利を譲って、自ら「天の逆手」をうち、乗っていた船を「青柴垣[あおふしがき]」に変えて海中に身を投じたという物語りによって祭神は、事代主神と三穂津姫命になったわけである。
美保神社でおこなわれる青柴垣[あおふしがき]神事と諸手船[もろたぶね]神事は、この物語りを忠実に再現しているという。しかし、この神事が『記・紀』神話にもとづいておこなわれていると信じられるに至ったのは、大和の律令国家によって「国譲り神話」が構成され、権力者によって貴族・支配層に『記・紀』神話が浸透していった後の時代の産物であるといえよう。
和歌森太郎氏は、『美保神社の研究』において江戸時代末の天保一四(一八四三)年に刊行された千家俊信撰、岩坂信比古校訂による『出雲国式社考』には、「注目すべきことが言われている」として、本居宣長の弟子である千家俊信の説を重んじてよいとのべている(12)。
「今の社説は美保津姫命、事代主命を祭るといへり、此は美保須々美と申神は、日本紀に無きによりて、さかしらに三穂津姫命に改め事代主神は此崎に遊び玉ひし事、記紀に見えたるに依て祭れるならむ」と述べ、『風土記』から考えても、美保須々美命を祭ったという方が事実であるとした千家俊信の説は、今日、多くの研究者によって支持されている(13)。
『記・紀』神話の「国譲り」の話が普及したのは中世に入ってからのことである。美保神社の祭神を事代主神としてみるのは江戸時代後期以降であるらしい。
五 青柴垣神事の祭具と方法論
美保神社のミホススミ神が消され、「国譲り神話」に付会[ふかい]されたことの意味は、大和の古代統一国家によって朝鮮的なものが消されるとともに、出雲固有の原初的な形姿が剝離されるという二重のたくらみの結果をしめしているものと思われる。
国家権力によって朝鮮的なものと出雲の土地が結びついたものは、表層において消されたが、基層においては抹殺されず温存され、残されているものと考える。
それはミホススミの神名と性格、そして現在に伝えられる青柴垣神事と諸手船神事にみられる、朝鮮的なものと美保の地に残る在地的なものの原初の姿が消去されたことを意味する。ここでは、その基底に隠された朝鮮的なもの、具体的には高句麗的なものを青柴垣神事の神具に見出し、検証したいと考えている(14)。
…………
六 日月と四神思想の起源
青柴垣神事の祭具に表現された日像と三本足の烏、そして月像と兎。また、東西南北の方位を守る神獣である青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北)が、最初に登場してくるのは中国古文献である。
前漢武帝の時代、淮南王[わいなんおう]・劉安[りゅうあん]が編纂させたとする『淮南子[えなんじ]』には太陽と月についての幾つかの記述があるが、精神訓には「…… 耳目なる者は日月なり。血気なる者は風雨なり。日中に踆烏[しゅんう]ありて、月中に蟾蜍[せんじょ]あり」とある(17)。紀元前一三九年にまとめられたという『准南子』に「日中有踆烏、而月中有蟾蜍」とあるから、太陽の中に三本足の烏があり、月の中にはひき蛙が住むという思想は、『淮南子』成立以前の前漢の時代にすでに存在していたとみなければならない。したがって太陽の三本足烏と月のひき蛙(または兎)という日月の組み合わせは、前漢の時代に成立していたものと思われる。
文献記録の上では、太陽と月、烏、蛙、兎などの組み合わせは、前漢の時代の成立となるが、実際ははるか以前にそうした信仰や考えが始源的な姿で存在していたことが理解される。紀元前四千年の河南省廟底溝遺跡出土の土器に描かれた三本足の烏や、陜西省泉護村遺跡出土の土器に表現された烏と太陽が、漠然とした表象ではあるが、極めて素朴な形で描かれている。そればかりか、こうした始源的な思考・信仰の前段階に当たるものとしては、紀元前五千年頃の江南最古の稲作遺跡として注目された浙江省余桃県河姆渡[かもと]遺跡からは、太陽を中心に二匹の鳳を彫ったとみられる板が出土している(18)。
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前漢後期の壁画古墳として一九八七年に発見されて注目されたのは、西安交通大学前漢壁画墓の天井に描かれた二八星宿図と太陽の中の三本足烏、月の中のひきがえるである。
青柴垣神事の祭具にみられる青龍、白虎、朱雀は言うまでもなく、想像上の神獣であり、方位神である。方位神として以上の四神のほかに黄龍をふくめて五神である。しかし、しばしば黄龍をのぞく四神を方位神としてみたてている。こうした方位神は、陰陽五行説や天文の二八宿法とかかわっている。二八宿の星座を中央、東、西、南、北の五方位に向け、その星座の形によって神獣を配して方位神としたことは、漢代の前期にはすでに存在していた。『淮南子[えなんじ]』天文訓には陰陽五行説と占星術によって、二八宿の東方は木で蒼龍。南方は火で朱雀、中央は土で黄龍。西方は金で白虎。北方は水で玄武であると規定している(19)。
七 高句麗古墳壁画と日月・四神図
朝鮮における日月、三本足の烏とひきがえる(兎)、四神の思想・信仰の在り方やその造形化の水準、変遷、発展を明確にしめしてくれるのは高句麗古墳壁画である。高句麗壁画古墳は最近の発掘調査によって現在、九〇基を数えることができる。初期の壁画古墳は二~三世紀から始まる(21)。
高句麗における日月像は、正確な日月星宿図とともに壁画古墳にしばしば描かれている。例えば六世紀前半の平壌市力浦区域陵山里の真坡里四号墳には、日月像とともに二八宿の星座と勾陳[くちん]六星、天極五星が正確に描かれている。
日像と三本足の烏、月像のひきがえるは四〇八年築造の絶対年代をもつ南浦市江西区域の徳興里壁画古墳、同区域にある五世紀初の薬水里壁画古墳、南浦市竜崗邑にある五世紀後半の双楹塚[そうえいづか]、同市江西区域三墓里にある七世紀の江西大墓と中墓などには、三本足の烏をなかにもつ太陽とひきがえるをなかにもつ月がリアルに描かれている。
(12) 和歌森太郎『美保神社の研究』 三七頁 弘文堂。
(13) 例えば石塚尊俊『古代出雲の研究』 一一一頁 佼成出版社、永藤靖『風土記の世界と日本の古代』 一二三頁 大和書房。
(14) ミホススミ神の朝鮮的性格ならびに美保神社の祭具と高句麗文化との関係については一九九一年一〇月に開催された「日朝国際交流会議 古代朝鮮文化と山陰」において報告し、討論に参加した。(全浩天「高句麗と古代出雲」『環日本海日朝国際交流会議報告書』 九一~九九頁)。
(17) 『淮南子』巻第七 精神 「… 耳目者 日月也。 血気者 風雨也。 日中有踆烏 而月中有蟾蜍」。
(18) 「太陽・月・星の世界」『特別展 魔鏡/光の考古学』 四八頁 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館。
(19) 『淮南子』巻第三 天文 「東方木也 … 其獣蒼龍」「南方火也 … 其獣朱鳥」「中央土也 … 其獣黄龍」「西方金也 … 其獣白虎」「北方水也 … 其獣玄武」。
(21) 平壌市三石区域の魯山洞一号墳、南浦市の午山里一号、二号、三号墳、平安南道順川市の東岩里壁画古墳などは二世紀代の壁画古墳である。石光濬「高句麗考古学の新しい成果」『古代史シンポジウム ―― 今よみがえる、東アジアの新発見 ――』朝鮮奨学会、二〇〇〇年十一月。集安の万宝汀一三六八号墳は三世紀中頃、続いて平壌市大城区域の高山洞二〇号墳。(「高句麗史」『朝鮮全史』第三巻 第二版 三二四~三二七頁 科学百科事典綜合出版社 平壌)。
〔全浩天/著『キトラ古墳とその時代』(pp. 229-233, pp. 236-239, p. 240) 〕
○ 日本書紀の「烽(トブヒ)」の記事を参照する。
[原文] ○ 三月、伴跛築城於子呑・帶沙、而連滿奚、置烽候邸閣、以備日本。
(頭注)
置烽候邸閣
魏志、張既伝「置烽候邸閣、以備胡」による。トブヒは国境に事変があるとき、煙をたてて通信するノロシ。烽候はノロシをあげる所。邸閣は兵糧を置く倉庫。
[訓み下し文] 三月に、伴跛、城を子呑・帶沙に築きて、滿奚に連け、烽候・邸閣を置きて、日本に備ふ。
(ふりがな文) やよひに、はへ、さしをしとん・たさにつきて、まんけいにつけ、とぶひ・やをおきて、やまとにそなふ。
[原文] ◎ 是歲、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等、置防與烽。又於筑紫、築大堤貯水。名曰水城。
(頭注)
烽
とぶひ。のろし。➝三二頁注五〔引用注:「注五 置烽候邸閣」〕。
[訓み下し文] 是歲、對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等に、防と烽とを置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名けて水城と曰ふ。
(ふりがな文) ことし、つしま・いきのしま・つくしのくにらに、さきもりとすすみとをおく。またつくしに、おほつつみをつきてみづをたくはへしむ。なづけてみづきといふ。
〔日本古典文学大系 68『日本書紀 下』(pp. 32-33, pp. 362-363) 〕
○ 続日本紀に「高安烽」の記事があるのでここで参照しておこう。
[原文] ○ 丁未、修‐理高安城。〔天智天皇五年築城也。〕
[訓み下し文] ○ 丁未〔二十日〕、高安城[たかやすのき]を修理[つくろ]ふ。〔天智天皇[てんぢてんわう]の五年に築[つ]きし城なり。〕
(脚注)
高安城
書紀は天智六年の築城とし、この分注とは異なる。➝補 1 -八九
[原文] ○ 壬辰、廃河内国高安烽、始置高見烽及大倭国春日烽、以通平城也。
[訓み下し文] ○ 壬辰〔二十三日〕、河内[かふち]国高安烽[たかやすのとぶひ]を廃[や]め、始[はじ]めて高見[たかみ]烽と大倭[やまと]国春日[かすが]烽とを置[お]きて、平城[なら]に通[つう]せしむ。
(脚注)
続紀は記していないが、この月廿八日に太安万侶は古事記三巻を撰進した(記序)。
高安烽
高安城付近にあったものか。高安城(➝補 1 -八九)は大宝元年八月に廃されたが、和銅五年八月にも元明天皇の行幸があり、なお施設の一部は残っていたらしい。位置からみてこの烽は難波から飛鳥京への通信のために設置されていたもので、飛鳥付近にもこの連絡をうける烽があった可能性がある。ここでは平城遷都にともなって不要となったものらしい。
烽
烽は異族の侵入に対して急を告げる制度。中国では周漢から知られる。日本では天智三年に西海の辺防のために対馬・壱岐・筑紫等においた。令では職員令 24・70、軍防令 66‐76 にその規定がある。
高見烽
高見烽は奈良県生駒市と大阪府東大阪市の境にある生駒山にあったとされている。難波から平城宮への連絡のために設置された。
春日烽
奈良市東辺の春日山麓にあったものか。平城宮への連絡地点として設置された。飛火野の地名の起源と関連するか。
平城
平城宮のこと。二烽の設置は平城遷都にともなうものであったことが知られる。
八九 高安城(一三頁注)
奈良県生駒郡と大阪府八尾市の境の高安山(四八八メートル)に築かれた山城。河内志、高安郡に「高安故城、在服部川村上方、俗呼志貴山城」。天智六年十一月紀に倭国高安城を築くとあり、同八年八月紀にはいったん造作を止めたというが、九年二月紀に高安城を修し穀と塩を集積した記事がある。壬申の乱には戦場の一つとなり、乱後天武および持統の行幸があった。文武紀には、こののち三年九月にも修理の記事があるが、まもなく停廃の方針が決定されたようで、大宝元年八月丙寅条には舎屋・雑儲物を大倭・河内二国に移したとし、和銅五年正月壬辰条に「廃河内国高安烽」とする。同年八月庚申条の行幸記事を最後として、以後史にみえない。
〔新 日本古典文学大系 12『続日本紀 一』(pp. 12-13, pp. 178-179, p. 271) 〕
The End of Takechan
加賀の鄕 郡家の北西のかた廾四里一百六十歩なり。佐太の大神の生れまししところなり。御祖、神魂命の御子、支佐加比賣命、「闇き岩屋なるかも」と詔りたまひて、金弓もちて射給ふ時に、光加加明きき。故、加加といふ。〔神龜三年、字を加賀と改む。〕
(かがのさと こほりのみやけのいぬゐのかた24さと160あしなり。さだのおほかみのあれまししところなり。みおや、かむむすびのみことのみこ、きさかひめのみこと、「くらきいはやなるかも」とのりたまひて、かなゆみもちていたまふときに、ひかりかがやきき。かれ、かがといふ。〔じんきさんねん、じをかがとあらたむ。〕)
法吉の鄕 郡家の正西一十四里二百卅歩なり。神魂命の御子、宇武加比賣命、法吉鳥と化りて飛び度り、此處に靜まり坐しき。故、法吉といふ。
(ほほきのさと こほりのみやけのまにし14さと230あしなり。かむむすびのみことのみこ、うむかひめのみこと、ほほきどりとなりてとびわたり、ここにしづまりましき。かれ、ほほきといふ。)
―― ここに、引用文を再掲した条は〈神魂命〉の子、〈支佐加比売命〉と〈宇武加比売命〉の説話である。『大系本 風土記』の頭注にもあるように、これらの神々は、古事記の物語の一部に組み込まれているのだが、説話の成立としては、古事記よりも出雲国風土記のほうが先ではないかと予想される。なぜなら、推察するに、地方の文献があえて中央で語られた内容と異なるシチュエーションで神々を語るというのは、古来それぞれの土地に伝承されてきた神話そのものだったからなのだろう。土地の伝承を語るうえで、中央政府の都合に迎合する理由がなかったからだと思われるのである。
ところで、『出雲国風土記註論』(嶋根郡・巻末条)では、
まだ一例に過ぎないがかつてこの地域を「みほ」ではなく「副良」と呼んでいた事実は重要である。…… どちらにしても注目すべきは「みほ」の地名が前面に登場したことである。そこに『古事記』『日本書紀』の大国主神の国造り、国譲り神話の影響を読み取ることが出来る。
と逆向きの影響が語られているけれど、この「影響」というのは、いつの時代に発生した影響なのであろうか。考察のヒントとしては、その直前の説明において、
『出雲国風土記』が「今も前に依りて用ゐる」としたのは『播磨国風土記』が言及する「庚寅年(六九〇年)」における郷名変更を意識したものであろう。すなわち「美保郷」の古名は藤原京時代の六九〇年までは「副良里」であり、同年に「美保里」と改名され『出雲国風土記』編纂段階では「前に依り」、「美保」の名を継承したというのである。
とされているのが参考となろう。690 年には古事記 (712) も日本書紀 (720) も、成立していないことは明らかで、藤原京時代の 690 年に〝「美保里」と改名され〟た当時には、古事記と日本書紀の影響を受けていないことは、歴史時間を考えれば明白なのである。可能性として、その後に古事記と日本書紀に記録されることとなった神話の影響は、それ以前にあったかも知れないけれども。―― さらには。出雲国風土記が中央政府をおもんばかって朝鮮半島との関係性(親和性)を前面に出していないという説は、各種文献で説得力をもって語られているけれども。
関和彦氏により『出雲国風土記註論』で論じられた解釈では、出雲国風土記が中央の神話の影響を受けて、伝承されてきた神話の地名を安易に改竄したということになってしまう。
国引き神話で「國來々々と引き來縫へる國は、三穗の埼なり」と、高らかに宣言されているではないか。
この神話が、中央政府の影響を受けた結果だとする説には、賛同できかねる。
堅め立てし加志は、伯耆の國なる火神岳、是なり。
鳥取県内、伯耆大山の山麓が舞台となって展開する古事記に記録された物語は、〝赤猪の神話〟として絵本にもなっているけれど、有名なところでは、日本神話をテーマとした洋画家青木繁の作品「大穴牟知命」(石橋美術館蔵、1905 年)がある。
以下、引用文献の情報