伯耆国の大山には大山寺があり、大山寺は角磐山の山号をもつ(「角盤山」の表記も〝大山寺旧境内 /とっとり文化財ナビ /とりネット /鳥取県公式ホームページ〟などにあるが〝天台宗別格本山 角磬山 大山寺 公式サイト〟では「角磐山」と書かれている)。―― 古来、大山がヒノカミダケ(火神岳)ともオホカミダケ(大神岳)ともいわれるのは、「出雲国風土記」の記述による。
『岩波文庫 風土記』例 言
(p. 3)
一 本書は常陸・出雲・播磨・豐後・肥前五國の風土記と、諸書に斷片として引用されてゐる國國の風土記の逸文を集めたものとより成る。この中、五國の風土記は、原文は漢文體であるが、今これを國文に書き下したもののみを載せ、逸文は、原文と書き下し文との兩者を幷せ載せた。これらの書き下し文は、主として編者の先に著した上代文學集の風土記の部分に依り、これに若干の修正を加へた。
(p. 4)
一 出雲國風土記は、奧書によつて天平五年の成立であることが分り、同時にその編者が國司、郡司などの役人であつたことも知れる。古風土記中、唯一の完本である。文化二年に、千家俊信の訂正本が刊行され、標註古風土記は、この本に依つて、他の諸本をも校訂してゐる。今、この兩者を用ゐ、更に家藏の寫本をも參考して本文を作つた。
(p. 86)
「出雲國風土記」
持ち引ける綱は、夜見の島なり。固堅め立てし加志は、伯耆の國なる大神の岳なり。
(もちひけるつなは、よみのしまなり。かためたてしかしは、ははきのくになるおほかみのやまなり。)
〔以上『岩波文庫 風土記』より〕
新編日本古典文学全集 5『風土記』「出雲国風土記(意宇の郡)」
[原文]
持引綱夜見嶋。固堅立加志者、有伯耆国火神岳、是也。
〔新編日本古典文学全集 5『風土記』 (p. 138) 〕
日本古典文学大系 2『風土記』「出雲國風土記」 意宇郡
[原文]
亦高志之都都乃三埼矣 國之餘有耶見者 國之餘有詔而 童女胸鉏所取而 大魚之支太衝別而 波多須々支穗振別而 三身之綱打挂而 霜黑葛闇々耶々爾 河船之毛々曾々呂々爾 國々來々引來縫國者 三穗之埼 持引綱夜見嶋 堅立加志者 有伯耆國火神岳是也
(校訂注)
挂 ⇒ 底・諸本「桂」に誤る。
闇 ⇒ 底・諸本「聞」。解による。
三穗之埼(のあと) ⇒ 訂「也」がある。底・諸本により削る。
持 ⇒ 底・諸本「接」。解の?による。
火 ⇒ 紅葉山文庫本・訂「大」。底・諸本のまま。
[訓み下し文]
亦、「高志の都都の三埼を、國の餘ありやと見れば、國の餘あり」と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穗振り別けて、三身の綱うち挂けて、霜黑葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、國來々々と引き來縫へる國は、三穗の埼なり。持ち引ける綱は、夜見の嶋なり。堅め立てし加志は、伯耆の國なる火神岳、是なり。
(ふりがな文)
また、「こしのつつのみさきを、くにのあまりありやとみれば、くにのあまりあり」とのりたまひて、をとめのむなすきとらして、おふをのきだつきわけて、はたすすきほふりわけて、みつみのつなうちかけて、しもつづらくるやくるやに、かはふねのもそろもそろに、くにこくにことひききぬへるくには、みほのさきなり。もちひけるつなは、よみのしまなり。かためたてしかしは、ははきのくになるひのかみだけ、これなり。
(頭注)
高志 / 北陸地方(越前・越中・越後)の古称。
都都 / 所在不明。能登半島の北端珠洲(すず)岬に擬する説がある。
三穗の埼 / 島根半島の東端美保関町。その突端を地蔵崎という。下に美保埼と見える(一四一頁)。
夜見の嶋 / 夜見ガ浜(弓ガ浜)。下に伯耆の国郡内、夜見島と見える(一三九頁)。
火神岳 / 鳥取県の大山(だいせん)(一七一三米)。
〔日本古典文学大系 2『風土記』 (pp. 100-103) 〕
○ その伝承について鳥取県の『大山町誌』は、岩波版『日本古典文学大系』(『大系本 風土記』)の該当の個所を引用したうえで、次のように記述している。
『大山町誌』 「第三章 大山の開基と成立」
今日、伝えられている『出雲風土記』は、その奥書からみて、中央に進達された公文書正文ではなく、編述責任者の出雲国造家に伝えられた副本を伝本祖としている。しかも、国造家本そのものは今日に伝わらず、国造家伝来本に後人の誤訂の手の加わった幾転写の一本を伝播祖としているため、従来「火神岳」か「大神岳」かは、にわかに定め難いものがあった。
地方の大方の史家は、「大神岳」説に組しており、「おおかみのだけ」は山自体が神であるとともに、そこに大神が鎮まるとしている。『鳥取県史』はこの点にふれて、次のように記述している。
伯耆大山は、『出雲国風土記』に「伯耆の国なる大神岳」とあり、「三穂の崎」や「夜見の嶋」と並記されているところから大山を指すことは明らかである。諸本に「火神岳」とあるのは、紅葉山文庫本(徳川氏の文庫、明治以後内閣文庫)が「大神岳」と訂正したものが正しいと思われる。したがって「大神」の読みはオオミワではなく、オオカミであるとも推定される。
今日、幾つかの写本を比校して、原本の姿に復原することが可能となり、それによって、我が国の古典研究は一段と深まってきたのであるが、『出雲風土記』についても、伝本祖の姿を考えることができるようになった。上述の岩波版『日本古典文学大系』は、その成果の一つであり、したがって、紅葉山文庫の校訂には一考を要するものがあるように思う。
〔『大山町誌』 (pp. 142-143) 〕
○ 上の引用文にある『鳥取県史』の見解について、関係する事項も含めて確認してみよう。
『鳥取県史』第1巻 原始古代 「古代 第三章 古代文化の推移」
伯耆大山は中国地方の名山で、古くは『出雲国風土記』に「大神山」として記され、九世紀前半以後になると、六国史に「大山神」授位のことが見える。
…………
「伯耆国会見郡大山神」は、承和四年に従五位下を授けられ、斉衡三年(八五六)に正五位下、次いで貞観九年(八六七)には、正五位上を加えられた。「大神山神」は、延長五年(九二七)に選進された『延喜式』に初めて「大神[おおむわの]山神」(国史大系本延喜式)と見えるが、大神山神と大山神との関係は、にわかに解決しがたい。
…………
伯耆大山は、『出雲国風土記』に「伯耆の国なる大神岳」とあり、「三穂[みほ]の崎」や「夜見の嶋」と並記されているところから大山を指すことは明らかである。諸本に「火神岳[ひのかみだけ]」とあるのは、紅葉山文庫(徳川氏の文庫、明治以後内閣文庫)本が「大神岳」と訂正したものが正しいと思われるが、これによって「大神」の読みがオオミワではなく、オオカミであることも推定される。
「大神」を「オオカミ」と読むとすれば、大神は、かならずしも大己貴[おおなむちの]命とする必要はなく、不特定の神々(多神)と考えることもできよう。六国史にいう大山神も、特定の神一柱を指すのではなく、大山に住む神々をいうものであろう。智明権現が大山神に代わることができたのも、大山神のこのような性格に負うところが多かったと思われる。
大神や、大山神をこのように解釈すれば、古い大山信仰の特色をうかがうこともでき、年代は不明であるが、智明権現の社殿が大山神・大神山神の社の山宮[やまみや](奥宮・奥の院・本宮・上社)となり、里宮が営まれたところにも、古代の山岳崇拝のかたちが知られる。
〔『鳥取県史』第1巻 原始古代 (p. 715, 720, 721) 〕
―― 残念なことに、日本を代表するであろう、岩波版『日本古典文学大系』(『大系本 風土記』)の研究の成果は、理由を述べることすらなく、完全に無視されているとしか読み取ることができない ―― けれど、あるいは書かれていない明白な理由があるのかもしれない。というのは、このような論述を展開した県史「古代 第三章」の執筆担当者は、『鳥取県史 第1巻』全体を企画監修した鳥取大学の関係者だと、記録されているのであるから。
○ はたまたもしかして鳥取県は、大山の古い呼称を〝火神岳〟とは断じて認めない立場なのであろうか。昭和 36 年の鳥取県の資料には、次のような記述もある。
『鳥取県の黒ボク畑作』 「Ⅰ 大山をめぐる過去と現在」
ホモ・サピエンスといわれる現代人類の祖先が現われたのは洪績世の終りで、今から約10万年前といわれる。大山の噴火を目撃するのにじゆうぶん間にあう年代だが、因幡・伯耆地方で最も古い人間の生活をしめす新石器時代の遺物は、大山の最後の噴出による火山灰が風化してできた黒い土から発見されており、山陰地方に人間が移つてくる前に、大山の火山活動はすでに終つていたとみられる。
(原田光:大山の誕生・・・・・・毎日新聞社編、大山 P 16~20)
…………
「出雲風土記」には、大山を大神嶽とかいているから、神もしくは神霊のやどるところとして、古代人が深く尊信していたことは疑いはない。大山のあの荘厳な頂上を南に望んで、祭りをおこなつた原始的な霊域(ひもろぎ、いわくら)は、おそらく今の大山域内にあつたのではなかろうか。
古墳時代の大規模な前方後円墳や円墳などは高麗山麗を中心として多く分布してこの地方の文化が早く開けたことを示している。
社記によると、崇神天皇の御代、あるいは応神天皇、さらにくだつて称徳天皇の御代に、大神山神社社殿が創建されたということになつているが、これをそのまま信すべき根拠はいまのところない。
…………
(註) 大神山神社はいま大己貴神(オオナムチノカミ)をまつつているが、宝暦の昔、上野忠親の記すところによれば、この祭神は火の神、迦具土(カグツチ)の神であるという。(萩原直正著:因伯郷土史考 P 189)
〔『鳥取県の黒ボク畑作』(p. 1, 2)〕
上に引用した個所に見られるように『鳥取県の黒ボク畑作』 本文の冒頭に、文献として「大山の誕生」があげられている。
文献として参照された資料は、毎日新聞社編『大山』(昭和 33 年)が該当し、引用文中の「ホモ・サピエンスといわれる現代人類の祖先が現われたのは」の一文は、その 20 ページにあって、ここで原執筆者の名誉のために書き添えておくと、その続きは「洪積世の終りで、いまから約一〇万年前といわれる。」となっている。「洪績世」という誤植は、文献参照に際して起きたのだと思われる。
○ 参照された資料をさらに読み進めていくと、別の項に次の記述があった。
『大山』 歴史の幕開き(下村章雄)
『出雲風土記』には、大山を大神嶽とかいているから、神もしくは神霊のやどるところとして、古代人がふかく尊信していたことは疑いはない。大山だけでなく、古代の山岳崇拝はおしなべて日本中におこなわれていたのである。……
ただ、この大山を神格化してまつった神として、大神山神と大山神の二神があって、この二神はともに平安時代に授階叙位されているが、この二神はまったく同神であるか、もしくは別神であるか、そしてそのまつりの場はどこであったかということも問題である。大神山神社は延喜式内で会見郡に属しているが、いまの大山は汗入であるから、ちょっとくいちがっている。大山はまつるにはまつったが、いまの大山地内でなくて岸本町の丸山の大神谷であったという説もある。
しかし、大山のあの荘厳な頂上を南に望んで、まつりをおこなった原始的な霊域(神籬[ひもろぎ]、盤座[いわくら])は、おそらくいまの大山域内にあったのではなかろうか。社記によると、崇神天皇の御代、あるいは応神天皇、さらにくだって称徳天皇の御代に、大神山神社社殿が創建されたということになっているが、これをそのまま信ずべき根拠はいまのところない。
〔『大山』 (pp. 90-92) 〕
こちらの資料 ――『大山』の末尾に〝執筆者一覧〟があり、下村章雄[しもむらのりお]氏は「鳥取県文化財専門委員」、また、原田光[はらだひかる]氏は「前鳥取大学教授」と、記録されている。
その前のページに「編集後記」があって、『鳥取県の黒ボク畑作』の(註)で参照されていた〝萩原直正〟氏はおそらくその「編集後記」の最終行に「鳥取図書館」と記録されている〝荻原直正〟氏であろうと理解できる。
『因伯郷土史考』 (荻原直正)「山の名前」より該当箇所の引用
大神山神社はいま大己貴神を祀っているが、宝暦のむかし上野忠親の記すところによれば、此の山の祭神は迦具土の神で、迦具を角、土をハニと読んでハンとはねると盤になる。大山の別名を角盤山と呼ぶのは理由のあることだという。
〔『因伯郷土史考』 (p. 187) 〕
ちなみに『大系本 風土記』は昭和 33 年の発行だけど、以下五点の資料を刊行の年の順に記すと、『大山』は昭和 33 年、『因伯郷土史考』は昭和 36 年、『鳥取県の黒ボク畑作』は昭和 36 年、『鳥取県史 第1巻』は昭和 47 年、『大山町誌』は昭和 55 年となる。
ところで、昭和 33~36 年というのは西暦で 1958~1961 年なのだけれども、まさに 1960 年代から、大山の地層に関しても新しい研究が始まっていたようだ。
○ 次に参照する文献は、国会図書館のサイトからリンクされたファイルなので、内容の詳細は直接確認されたいが、資料の 129 ページに掲載された「第 1 表」の年代を見ると、大山の火山活動は〝およそ 12,000 年前〟までの地層で確認できるように記されている。ここには 130 ページに書かれた文章の一部分のみ引用しておきたい。
『地質学論集』 第30号 1988年04月 一般社団法人 日本地質学会/発行
大西郁夫「中国地方の第四紀層」 (p. 130)
(URL : http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10809728_po_ART0003484877.pdf?contentNo=1&alternativeNo= )
1960 年代になると、山口と山陰に第四紀総合研究会の地域センターが設けられ、第四系のみをテーマにした研究がさかんにおこなわれてきた。
一方、火山についての研究は、以前は、岩石学的~岩石化学的研究が主体であったが、1960 年代には、火山灰層序的研究が取り入れられ、最近では、古地磁気学的研究や放射年代学的研究も増えている。
これまでの各地の第四紀研究の成果は第 1 表のようにまとめられる。表にみられるように、中国地方の第四系はかなり複雑である。……
○ 平成 22 年 (2010) の『続 大山町誌』には、次のような記述が見られる。
『続 大山町誌』
第1編「第1章 地誌」
大山火山の始まりは、今からおよそ一〇〇万年前、第四紀更新世の中頃で、輝石安山岩溶岩や溝口凝灰角礫岩と呼ばれる火山砕屑物が大量に流出し、山麓一帯に広大な火砕流地形と東大山火山群の矢筈ヶ山、甲ヶ山、勝田ヶ山、船上山を形成した。この時期に形成された大山を古期大山と呼び、大山の原形ができた時代である。
古期大山の活動の休止期に、現在の主峰付近を中心に、およそ三〇万年前、孝霊山の活動を契機に再び大規模な火山活動がはじまり、大量の火山砕屑物や火山灰が古期火砕流地形を覆うとともに、角閃石安山岩からなる三鈷峰-烏ヶ山-弥山の溶岩円頂丘が出現した。この時期にできた大山を新期大山という。この活動は今から一万年前に終息し、現在は解体期に入り、年間約七万立方㍍におよぶ土石の崩落をみている。
第2編「第3章 大山寺略年表」
七三三(天平 五)年
『出雲国風土記』に大山を「火神岳[ひのかみのたけ]」と記す(出雲国風土記)
※火神岳とする所以[ゆえん]は、火の神カグツチを祀ることによる
〔『続 大山町誌』 (pp. 11-12, p. 115) 〕
○ この『続 大山町誌』が参照した資料のなかに、山陽新聞社が編集発行した『大山』(1992) がある。
『大山』―― その自然と歴史「蒜山と蒜山原」
蒜山と大山の関係
かつて、蒜山の形態や地質の前後関係などから、蒜山火山が誕生したのはかなり古い時代と見られていたが、新進の研究者の新しい研究手段によって蒜山は地球の歴史でいう第四紀(年数でいうなら一万年前から約二百万年前まで)に誕生したことが明らかにされた。カリウム-アルゴン法による放射年代測定の結果、蒜山の年齢は九十一万~四十九万年と報告されたのである。地球の年齢が四十五億年といわれるのと比べると、ごく近い過去に誕生したことになる。
『大山』―― その自然と歴史「大山研究事始め」
大山が火山であることは、いつ頃、誰によって明らかにされたのであろうか。はっきりしたことはわからないが、和銅六年(七一三)に編纂の命が出され、天平五年(七三三)に成立した『出雲国風土記』の中に有名な「国引き」の神話があり、「伯耆国なる火神岳」とされている。火をつかさどる神(かぐつちの神)の山と称しているわけだが、この頃の大山は全く火山活動を終えており、噴火によってできる独特な山の地形から類推して大山を火山と認識していたと考えてよかろう。
この記述以来、何となく大山が火山作用でできた山であるとの考えが広く認められ、噴火の記録はないのに火山を意味する火の神の山の名やそれにまつわる記述が見られるようになる。近代自然科学によって、それが証拠だてられたのは明治以降である。
『大山』―― その自然と歴史「大山の生い立ち」
新期大山
さて、この火山活動の最終段階とはいつ頃のことだろうか。この時代、円頂丘以外に噴出したと考えられるものに新期の火砕流がある。地形図を広げると、西半部の裾野には、平坦なために等高線の間隔が広く、白く抜け落ちたように見える地域が目につく。清水原、槇[まき]原、水無原など地名に〝原〟がつくところがそれで、いずれも火砕流が谷を埋めて平坦化した場所である。
いくつもある平坦面の中には、薄く火山灰に覆われる所があり、火砕流だけでなく噴出物を上空に高く放出する活動もこの時期にあったことがうかがえる。また、火山灰層に覆われる平坦面や覆われない面があるということは、同じ新期の火砕流であっても時代に若干の違いがあることを意味している。たくさんの火山灰層を乗せているものほど古いことはいうまでもない。こうして新期の火砕流であっても、さらにそれぞれの前後関係が明らかになり、弥山火砕流、笹ケ平火砕流、槇原火砕流などと区別されるようになった。
ここで最も古いとされた槇原火砕流の直上にある火山灰層は、大山起源ではなく、南九州の姶良[あいら]カルデラからはるばる飛来した姶良 Tn 火山灰 (AT) と呼ばれるもので、その噴出年代は二万一千年より古く、二万五千年前よりは新しいということが知られている。また、火山灰層を乗せない最も新しい弥山火砕流については、一万七千~一万八千年前という年代が炭化木片の放射性炭素を測定して得られている。
ところで、これらの火砕流を流し出したであろう噴火口は、現在の大山にはどこにも見当たらない。それは、火口が溶岩円頂丘によって完全に覆い尽くされてしまっているからで、したがって火砕流は円頂丘が形成する前に開口していた火口から流出したものと考えなくてはならない。
以上のように、約二万年前をはさんだ前後に盛んに火砕流や火山灰を噴出し、その最後の一万数千年前には溶岩円頂丘が盛り上がって活動を終了し、現在の姿になったというのが、大山の活動の最終段階の経過である。
〔『大山』―― その自然と歴史 (p. 102, pp. 102-103, pp. 106-107) 〕
この文献の記述で、大山の火山活動の最も新しい痕跡について、「最も新しい弥山火砕流については、一万七千~一万八千年前という年代が炭化木片の放射性炭素を測定して得られている。」という研究の成果を知ることができる。また「約二万年前をはさんだ前後に盛んに火砕流や火山灰を噴出し、その最後の一万数千年前には溶岩円頂丘が盛り上がって活動を終了」したことが、述べられている。
○ 大山の火山灰に含まれる炭化木片の年代が放射性炭素測定によって判明したと、まず報告されたのは、1967 年のことだったようだ。それを踏まえた 1973 年の報告もある。
土地分類基本調査 地形・表層地質・土じよう調査『米子』
1 : 50,000 表層地質各論
「米子」(三位秀夫・赤木三郎) (p. 3)
Ⅰ. 1. 4 岸本礫層 (gk)
岸本礫層の厚さは最大 10 m であり、河川の上流へむかって次第に厚さを減じる傾向がある。本層は、低位段丘を構成し、本層のうえに整合的にのる上部火山灰にふくまれる木片が 17,200 ± 400 年 B.P.(C14 法 Gak‐383)であることから、洪積世末立川ローム期に対比できよう。
岸本礫層は、〝冲積〟層下に埋没している可能性があるが、現在の試錐資料では不明である。しかし、米子市附近の〝冲積〟層では、岸本礫層が、この地域から上流で冲積礫層におおわれて地表下に没していることから、地下の一部に岸本礫層が発達しているものと推定される。
『大山隠岐国立公園 大山地区学術調査報告』
「大山火山の地質」(赤木三郎) (p. 19)
大山上部火山灰
模式地:鳥取県東伯郡東伯町法万
…………
対比: C 14 の年代測定資料も参考にして立川期のものに対比する。大山町上高田の炭質物の C 14 年代測定では、17,200 年 ± 400 Y.B.P. が得られている。
―― 先に、
「本層のうえに整合的にのる上部火山灰にふくまれる木片が 17,200 ± 400 年 B.P.(C14 法 Gak‐383)である」
と、記録されているのは、ようするに年代を測定した時期と比較して、
―― 測定の対象となった「木片」の年代は〈16,800 ~ 17,600 年前と測定された〉という意味である。
◎ その「木片」が、大山由来の火山灰に含まれていた、ということは、大山の火山活動がその時期にあった、ということの論拠になる。
○ 2000 年には、一般向けに解説された図書が刊行され、次のように述べられている。
『中部・近畿・中国の火山』「6. 大山火山(三宅康幸・藤井統邦・福元和孝)」
大山[だいせん]火山(標高 1729 m)は鳥取県西部に位置し、東西約 35 km、南北約 30 km、総体積約 120 km3 をこえる、中国地方最大の大型の複成火山です。約 100 万年前をややこえる時期から活動をはじめ、約 2 万 5000 ~ 2 万年前の活動を最後として、それ以降の噴火をしめすものは確認されていません。その最後の活動時に、現在みられる弥山[みせん]と三鈷峰[さんこほう]、および烏ヶ山[からすがせん]の大規模な溶岩ドームが形成され、それらから火砕流や火山灰がふもとにもたらされて、現在の大山の山容ができています。その時代はちょうど最後の氷河期の最中のことでした。
…………
参考文献
大山火山、弥山溶岩ドームよりも新期に形成された三鈷峰溶岩ドームと清水原火砕流。第四紀、26, 45‐50.
大山倉吉層-分布の広域性と第四紀編年上の意義。地学雑誌、88, 313‐330.
日本の地質 7「中国地方」。共立出版、137‐141.
大山火山の地質。地質学雑誌、90, 643‐658.
蒜山火山群・大山火山の K - Ar 年代。地質学雑誌、91, 279‐288.
〔『中部・近畿・中国の火山』 (p. 101) 〕
○ ここに参考文献としてあげられた『第四紀』に掲載の論文では、次のように記述されている。
『第四紀』 No. 26 「大山火山、弥山溶岩ドームよりも新期に形成された三鈷峰溶岩ドームと清水原火砕流(福元和孝・三宅康幸)」
大山火山は鳥取県西部に位置し、東西約 35 km、南北約 30 km、総体積約 120 km3 をこえ、約 100 万年前をややこえる時期から少なくとも約 2 万年前まで活動していた大型の複成火山である(津久井, 1984)。
…………
文献
津久井雅志 (1984)
大山火山の地質。地質雑、90, 643‐658.
〔『第四紀』 No. 26 (p. 45) 〕
大山の最後の活動は、「約 2 万 5000 ~ 2 万年前」であるという記述は、研究誌に発表された際には「少なくとも約 2 万年前まで活動していた」という表現となっている。さらに、その論拠となった文献は「津久井雅志 (1984) 大山火山の地質。地質雑、90, 643‐658 」と、特定されていた。
○ 大山火山の最後の活動時期の根拠として示された文献の、記述内容を確認してみた。
『地質学雑誌』 90 巻 9 号 1984年09月15日 一般社団法人 日本地質学会/発行
( URL : https://www.jstage.jst.go.jp/article/geosoc1893/90/9/90_9_643/_pdf/-char/ja )
(p. 644)
大山火山は更新世中期以降に活動を開始し少なくとも 2 万年前以降までその活動を続けた。
…………
(p. 655)
草谷原軽石層 (KsP)・弥山火砕流堆積物 (MiF)
三位・赤木 (1967)、赤木 (1973) は〝大山町上高田〟の〝火山砂礫層〟中の炭化木片から 17,200 ± 400 yBP (GaK383) という年代を報告している。これはおそらく本火砕流堆積物に相当すると思われるが試料採取地点、堆積物の詳細は不明である。体積は北・西に分布するものそれぞれが約 0.5 km3 、あわせて約 1 km3 である。
…………
文 献
赤木三郎、1973 : 大山火山の地質。日本自然保護協会調査報告、45, 9‐32.
三位秀夫・赤木三郎、1967 : 5 万分の 1 土地分類基本調査「米子」表層地質各論。経済企画庁、1‐35.
―― ここでは、「三位・赤木 (1967)、赤木 (1973) 」が「弥山火砕流」の「堆積物に相当すると思われる」「〝大山町上高田〟の〝火山砂礫層〟中の炭化木片から 17,200 ± 400 yBP (GaK383) という年代を報告している。」という論述を見ることができる。
いまのところ、この、測定された年代そのものを否定するような論稿は、ないようである。
◎ ただし、次に参照する論文の 3 ページでは、津久井雅志氏は「大山火山の地質」で「弥山溶岩ドーム起源の火砕流」を考察する際、
「三位・赤木 (1967) が北麓の扇状地から報告した放射性炭素年代 (17,200 ± 400 yBP) がこの火砕流の噴出年代を示すものと考えていた。」が、
「しかしながら、三位・赤木 (1967) の測年試料採取地周辺には弥山溶岩ドーム起源の火砕流は到達しておらず、なぜこの年代を噴火年代と判断したのか理由は不明である。」
と述べられ、「弥山溶岩ドーム起源の火砕流」を考察する対象にはその「木片」のデータは含めない立場であることが、明記されている。
○ 原子力規制庁「平成 27 年度原子力施設等防災対策等委託費(火山影響評価に係る技術的知見の整備)」の成果の一部として、2017 年に公開されたものである。
『地質調査研究報告』 第 68 巻 第 1 号
公開日: 2017/03/17
山元孝広「大山火山噴火履歴の再検討」 (p. 15)
( URL : https://www.jstage.jst.go.jp/article/bullgsj/68/1/68_1/_pdf/-char/ja )
8. まとめ
2) 大山火山の最新期噴火を弥山溶岩ドームの形成とする津久井 (1984) と、三鈷峰溶岩ドームの形成とする福元・三宅 (1994) の異なる主張があったが、本研究の結果は後者を支持している。新たに実施した放射性炭素年代測定の結果、三鈷峰溶岩ドーム形成に伴う阿弥陀川火砕流堆積物からは 20.8 千年前、弥山溶岩ドーム形成に伴う桝水原火砕流堆積物からは 28.6 千年前の暦年代が得られた。
文 献
大山火山、弥山溶岩ドームよりも新期に形成された三鈷峰溶岩ドームと清水原火砕流。第四紀、no. 26, 45‐50.
大山火山の地質。地質学雑誌、90, 643‐658.
この論文の 13 ページの表(第 3 表)に、次のデータが記録されている。
―― 最新の研究では、大山の〈弥山・三鈷峰・烏ヶ山の溶岩ドーム〉形成の順序は〝烏ヶ山-弥山-三鈷峰〟で、それは上の数値で示された。
このデータによれば大規模な大山の火山活動は、20,800 年前に終わったといえよう。
ただし、それ以外の〔大規模とはいえない〕火山活動については、現在のところ〈16,800 ~ 17,600 年前と測定された〉データが有効のようである。
◉ では、大山の噴火を目の当たりにした人類は、果たしていたのか、やはりいなかったのか?
○ 大山山麓へ人類が到来した痕跡について、2005 年に次の報告があった。大山町の〈孝霊山〉の麓(ふもと)に展開する〝妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)〟周辺の「発掘調査報告書」の記録である。
『門前第2遺跡(菖蒲田地区)』「第 2 章 第 2 節 歴史的環境」
1 旧石器時代
名和小谷遺跡では黒曜石製国府型ナイフ形石器が出土している。門前第 2 遺跡(西畝地区)では、AT 層より下層(約 2 万 5 千年以上前の地層)からナイフ形石器と黒曜石の破片を含む石器群が確認されている。
〔『門前第2遺跡(菖蒲田地区)』 (p. 4) 〕
◉ 大山の大規模な噴火を目の当たりにした人類は、おそらく、存在したのだと推察される。
都祈(トキ)・都祁(ツゲ)
韓国 ―― 大韓民国 ―― 慶州市の東に面した海に「迎日湾(げいじつわん)」がある。
○ 都祁(つげ)の地名が「迎日(日の出)」の意味をもつことについて、『三国遺事』の邦訳書で注釈があり、そこで参照されている「迎日県」についての記事も『三国史記』の邦訳書で確認することができる。
『完訳 三国史記』「三国史記 巻第三十四 雑志 第三」
地理 一 [原文抜粋(義昌郡)] (p. 608)
臨汀縣、本斤烏支縣。景德王改名。今迎日縣。
地理 一 [邦訳文] (p. 602)
義昌郡はもと退火郡で、景德王は(義昌と)改名し、今は興海郡で、領県は六つである。…… ④臨汀県はもと斤烏支県で、景德王は(臨汀と)改名し、今の迎日県である。
〔以上『完訳 三国史記』より〕
『完訳 三国遺事』「巻一 紀異第一」
延烏郎 細烏女 [原文抜粋(地名譚)] (p. 88)
祭天所名迎日縣。又都?野。
延烏郎 細烏女 [邦訳文] (pp. 86-87)
第八代、阿逹羅王の即位四年丁酉(一五七年)に、東海のほとりで、*1 延烏郎と細烏女という二人の夫婦が住んでいた。ある日、延烏が海へ行って藻を採っていると、急に一つの岩が〔一匹の魚だともいう〕(彼をのせて)日本へ運んでいってしまった。そこの国の人びとが見て、これはただならぬ人物だとして、王にたてまつった〔『日本帝紀』を見ると、(この出来事の)前後に、新羅人で(日本の)王になったものはいないから、これはあるいは辺鄙な地方の小王になったことであって、ほんとうの王ではないらしい〕。
細烏は、夫が帰ってこないのを変に思い、(海辺へ)行ってさがしてみると、夫が脱いでおいた履物が岩の上にあった。それで彼女もその岩の上にあがると、岩ががまた前と同じように動いて運んで行くのであった。そこの国の人たちが彼女を見て驚き、王に申しあげたので、(ようやく)夫婦が再会し、(彼女は)貴妃に定められた。
このとき新羅では、太陽と月の光が消えてしまった。日官(気象を司る役人)は、「太陽と月の精が、わが国にあったのに、日本にいってしまったため、このような異変がおこったのです」と言上した。(そこで)王は使者を日本にやって、二人をさがしたところ、延烏が、「私がこの国にきたのは、天がそうさせたからである。だから(今さら)もどれようか。だが、私の妃が織った細?[さいしょう](上等のきぎぬ)がある。これをもっていって天に祭ればよかろう」といって、その絹をくれた。使者が帰ってきて申しあげ、その言葉どおり祭ると、いかにも太陽と月(の光)がもとにもどった。その絹を御庫にしまっておいて国宝とし、その倉庫を貴妃庫と呼び、祭天した場所を *2 迎日県、または *3 都祈[トキ]野と名づけた。
*1 延烏・細烏=この烏(오)(o) は、新羅人の男女の名前によく添尾される語である。……
*2・3 迎日、都祈=「迎日」は「돋이」(ᄒᆡ(해)도디)(tot-i, hʌj-to-ti)(日の出)。『三国史記』巻三十四、地理一に、「臨汀県、本斤烏支県 今迎日県」とあり、「斤烏支」は、「斧・斤」の訓「도ᄎᆡ(채)」(돗귀)(to-čhʌj, tos-kuj) の記写である。「都祈」は「도기」(to-ki) その音転は「도디・도치」(to-ti, to-čhi) で、ともに「日の出」(도디)の音訓借字。
〔以上『完訳 三国遺事』より〕
※ 引用文中の、〔〝ᄒᆡ(해)도디〟・〝도ᄎᆡ(채)〟と記述した個所で、〕〝(해)〟ないしは〝(채)〟と半角の括弧内に書いた文字は、直前の文字の一般的な組み合わせを引用者が想定して、引用に際し代替文字として追記したもので、原文にはありません。
この「都祁」の名にかかわるであろう〈都介野岳〉は、大和の〈箸墓古墳〉から約 12 キロメートル、東北東約 25 度の位置にある。
◉ いにしえの、日本の文化は、渡来人によってもたらされたものに、まちがいなく大きく影響された。
以下、引用文献の情報