神度(カムド)の剣

序: 出雲の国の地形と方位


◈ 出雲国風土記の〝国引き神話〟によれば、西の新羅の国から引いてきた土地を繋ぎとめるための綱は《薗之長濱》、杭は《佐比賣山》とした。いっぽう、東の高志の国から引いてきた土地を繋ぎとめるための綱を《夜見嶋》とし杭を《火神岳》とした。この記事によって、神話時代の出雲国の東西の境界線の設定がうかがえよう。

東から引いてきた土地は《三穗之埼》となった。その原文を日本古典文学大系『風土記』(p. 102)〔「日本海の朝日」のページ参照〕で見れば、


國々來々引來縫國者 三穗之埼 持引綱夜見嶋 堅立加志者 有伯耆國火神岳是也


とある。これをもう少しわかりやすく、箇条書きすると。


  • 引いてきて縫いつけた国は 美穂の埼
  • 持ち引いた綱は夜見嶋
  • 動かないように立てた杭は 伯耆の国の火の神岳


―― ここで少々気になるのが、火の神岳は伯耆の国と添えてあるのに、夜見嶋にはそれがないことであるが、すでに見たように、出雲国風土記「嶋根郡」の記事〔参照:「夜見嶋(よみのしま)」のページ(オホクニヌシの帰還: 夜見嶋)日本古典文学大系『風土記』「嶋根郡」〕では、《夜見嶋》は「伯耆國郡內夜見嶋」ないしは「伯耆郡內夜見嶋」と記録されており、すなわち地誌の記述では〝夜見嶋は伯耆の国に所属する〟ことが、明記されている。


○ 出雲国風土記が当時、国の全体の形をどう捉えていたかは、風土記の冒頭に記されているので現代文をあわせて、小学館『風土記』で参照する。


新編日本古典文学全集『風土記』

出雲国風土記 〈総記〉

出雲[いずも]の国風土記。

国のおおよその形は、東を出発点として西南を到達点とする。東と南とは山であって、西と北とは海に接している。


[原文] 出雲国風土記

国之大体、首震尾坤。東南山、西北属海。

(頭注)

易の卦の名で東の方位。

易の卦の名で西南の方位。


[訓み下し文] 出雲の国風土記

国の大体は、震を首とし坤を尾とす。東と南とは山にして、西と北とは海に属けり。


(ふりがな文) いづものくにのふどき

くにのおほきかたちは、ひむがしをはじめとしひつじさるををはりとす。ひむがしとみなみとはやまにして、にしときたとはうみにつけり。

〔新編日本古典文学全集『風土記』(p. 130) 〕


❖ 閑話休題 ❖ 方位の話 ❖


地球表面の、北極と南極を結ぶ線を英語では meridian といい、日本語で「子午線(しごせん)」という。

子午線は、十二支にちなむ名である。


※ アナジの風の吹く「西北」を、戌亥・乾(イヌイ)といい、「東南」は辰巳・巽(タツミ)となる。


丑寅・艮(ウシトラ)は「東北」で、〈鬼門〉として有名だ。

また、その逆の「西南」が、未申・坤(ヒツジサル)である。


◉ 八卦(はっけ)の方位は、次の通りである。

  • 北 ⇒ 坎 かん
  • 東北 ⇒ 艮 ごん
  • 東 ⇒ 震 しん
  • 東南 ⇒ 巽 そん
  • 南 ⇒ 離 り
  • 西南 ⇒ 坤 こん
  • 西 ⇒ 兌 だ
  • 西北 ⇒ 乾 けん

The End of Takechan


戌亥(いぬゐ)の神


◈ 出雲の神在月に《アナジという戌亥(西北)の風》が深く関わっているようだった。―― いま「いぬい」と打ち込んで変換すると、「戌亥・乾」のほかに「戍亥」の候補が出てくるが、「戍(ジュ)」の漢字は「戌(ジュツ)」とは別字で、「人+戈(ほこ)」の会意で、兵士が武器を持って警備にたつことすなわち「まもる。武器を持って、国境をまもる。」を意味する文字である。

いっぽう「戌亥」の「戌」は、「一印+戈(ほこ)」の会意で、もともと刃物で作物を刈ってひとまとめに締めくくり、つまりはそのようにして収穫することであったのだけれども、十二支の名となったため、原義は忘れられた、と辞書に説明されている。―― ついでに辞書を調べると ――「核(カク)」は「木+音符亥」で、木の実のかたいしんを示すのだが ―― 十二支の最後となる「亥(ガイ)」は、豚のからだのしんにあるかたい骨ぐみを描いた象形文字で、骸骨(がいこつ)の「骸(ガイ)」の原字であり、ようするに「亥(ガイ)」は骨組みとか、骨組みができあがるの意味を含むため、十二進法の体系すなわち骨組みが全部張りわたった所に位置する数なので、十二番目を「亥」という、らしい。


○ さて、《戌亥の神》についての、次のような考察がある。


『神宮祭祀概説』

宮比神は皇大神宮の板垣内の西北隅に、興玉神と背向になつて、同じく石畳の形式にて祭られて居る。この神の祭祀も「建久年中行事」に始めて見えるのであるが、その祭神に対しては古来種々の臆説があり、或は大宮売神又は天鈿女命に擬し(平田篤胤の古史成文・宮比神御伝記・神宮大綱)又は庭津日神(毎事問)に配する等一定する処がない。しかし次の屋乃波比伎神と同じく、この神も興玉神と同樣に大宮地の地主神として古くより、鎮祭されたものと考へらるる。

屋乃波比伎神は古く「矢乃波波岐皇神」「矢乃波波木神」とも称し、皇大神宮の板垣外の東南隅に、同じく石畳の形式にて鎮祭せられ、その祭祀は前の宮比神と同樣に、「建久年中行事」に始めて見えるのである。但しこの神の名は古事記に見えて居り、又その祭祀は、式の祈年祭の祝詞にもあるやうに、御井の神々と共に座摩巫の祭る神であつて、古より朝廷に於て、之を大宮地の神霊と崇められて居るのであるから(古語拾遺)、神宮に於ても御敷地の霊として鎮祭されたものと思はる。而してこの神と宮比神とは常に相並んで祭祀をうけられつゝある処から思ふに、前の宮比神は或は座摩神の一柱たる阿須波神に相当するのであるまいか。或は「毎事問」に云へる如く、波比伎神と同神系(兄弟神)なる庭津日[にはつひの]神の転訛せるものとも考へらるるのである。

而して此等の地主神の座地が「建久年中行事」に、「宮比神御在所、興玉後、御前乾玉垣角也、矢乃波波木神御在所、御前巽方荒垣角也」とある如く、今も御敷地の乾(西北隅)と巽(東南隅)とにあるが、大藏省の織部司にも辰巳隅神と戌亥隅神とを祭つたことが三代実錄(元慶三年閏十月廿三日)に見えて居るので、その間に何等かの連絡がないものかと考へられるのである。

〔阪本廣太郎/著『神宮祭祀概説』(pp. 82-84) 〕


◉ 上記引用の『神宮祭祀概説』の前段を除く《屋乃波比伎神は古く》以下の個所を若干の調整を加えて引用したうえで、吉野裕子著『祭りの原理』では次のように要約して、まとめてあった。


『祭りの原理』

  • ハハキ神の神名は古事記にもみえており、祈年祭の祝詞では阿須波神と同じく座摩巫のまつる神である。
  • ハハキ神は大神宮大宮地の東南隅鎮座、同じく西北に鎮座の宮比神と相並んで祭祀をうける神である。
  • その宮比神はハハキ神阿須波神の同胞神である庭津日神のことではあるまいか。

〔吉野裕子/著『祭りの原理』(p. 93) 〕


―― 続群書類従に収録されている《建久三年皇太神宮年中行事》の「〔六月十八日。神事次第。」に、「宮比。矢乃波波木ノ神ヲ祭。」として、その「御在所」が示されているので、『続群書類従・第一輯上』の 420 ページから原文を引用しておく。また、『祭りの原理』の上記要約と同ページに、《「六月十八日宮比矢乃帚祝詞」をみるとミヤヒ、ハハキの二神が相並んで祭祀せられている状況がよくわかる。》とあり、『続群書類従・第一輯上』の 421 ページに相当する個所を引用して、《ミヤヒ・ハハキは相並んで奉斎される神である。》と語られているので、同じく『続群書類従・第一輯上』から、該当の記事をここに引用しておこう。


『続群書類従・第一輯上』

「續群書類從卷第十二」神祇部十二

建久三年皇太神宮年中行事

(p. 420)

宮比神ノ御在所ハ。興玉ノ後。御所ノ乾。玉垣南也。矢乃波々木神御在所ハ。御所ノ巽方。荒垣角也。

(p. 421)

申ク。今年ノ六月ノ御祭ノ十八日ノ今時ヲ以。宮比矢乃波々木ノ廣前ニ。恐ミ恐申ク。國々所々依奉以郡神戶人等。常モ奉荷前御調糸。並由貴ノ御神酒御贄等ヲ。横山ト置所足テ奉狀。平ク安ク聞食。宮中平ニ神事ヲ藝令奉仕給。禰宜神主內外物忌色々職掌供奉人等モ。長ク久ク勤令奉仕給ト恐恐ミモ申。」

〔『続群書類従・第一輯上』より〕


ハハキの神・ハハキの国


○ 上記の『祭りの原理』の論稿は、第五章〈三 ハハキ神〉からの引用であるが、その記述の前後を、全集版から参照しておきたい。第四章までの考察では、古代の葬送には、死者再生のための一種の呪術的要素があり、それは死者に胎児の形態をとらせることからもうかがえると論じられている。―― 例えば、第三章〈四 破壊される喪屋〉の、全集版では 232 ページに「墓がもし母の胎の擬きであるとすればそこに入る死者は胎児であり、死者が胎児の姿勢をとることは当然であろう。」と、述べられている。


『吉野裕子全集 1』

『祭りの原理』〔考古民俗叢書〈11〉 1972 年(昭和 47 年)7 月 慶友社〕

第一章 蒲葵

〈二 御嶽 [うたき] の神木蒲葵 [くば]〉

(pp. 173-174)

「神木」というと日本本土の人がすぐ思い浮べるものは松とか杉である。神木という言葉により、そこからよびおこされるイメージは、樹齢何百年という松とか杉が神社の境内に立っている、そういうものであろう。しかし沖縄ではちがう。少なくとも五十年前頃までは、神木といえばもっぱら蒲葵であった。『琉球国由来記』に記載の御嶽[うたき]の総数は八五五、そのうち蒲葵がその嶽名、または神名となっているのが約七〇で、全体の一割近くである。今日御嶽の神木とされているものには松とかガジュマル、フクキ、デイゴ、ユーナなど沢山あるが、嶽名や神名にこれらの植物名が冠せられている例はほとんど見当らない。僅かに松とガジュマルが一、二ケ所あるだけで、他はことごとく植物では蒲葵に独占されている。たとえば、「コバウの嶽」「コバの森」「コバモトの嶽」というように(コバはクバである。沖縄では蒲葵はクバとよばれる)、本土の神社に相当する聖所御嶽の名に植物名が附けられる場合、それが蒲葵によって独占されるという事実は何を物語るか。それは、かつてはこの木に限ってよほどの神聖さがみとめられていた、ということであろう。

蒲葵はどちらかといえば喬木である。そこで神が上り下りにこの木を梯子とされるから神木とされている、というのが通説である。御嶽といえば蒲葵、蒲葵といえば御嶽が連想されるほど沖縄ではこの両者は密着している。この現象は蒲葵が神の上り下りの梯子になるからという理由だけで説明しきれるものではないと思う。古代の人の信仰はそのような便利主義を背景にしたものではないと考えるからである。

蒲葵は学名ビロウ、古倭名は「アヂマサ」で、沖縄では「クバ」、漢名は「蒲葵」といって、幾通りもの名をもっている植物である。日本では檳榔と混同され、学名のビロウもまたそこから来ている。檳榔の異名が百子であるが、檳榔と混同されたため、檳榔の異名の百子が蒲葵のこととして使われている場合がある。「シュロ」とも混同されるが、檳榔が一番多く、『古事記』『日本書紀』『延喜式』などの古典には「檳榔」として記載されている。


第五章 箒神 ―― ハハキ考

〈一 「ハハ」と「ハハキ」〉

(pp. 249-250)

素盞嗚神[すさのをのかみ]、天より出雲国簸之川上[ひのかはかみ]に降到[くだ]りまして、天十握劔[あめのとつかのつるぎ](其の名は天羽羽斬[あめのははきり]。今石上神宮[いそのかみのかみのみや]に在り。古語[ふるごと]に、大蛇[をろち]を羽羽[はは]と謂ふ。言ふこころは蛇[をろち]を斬るなり。)を以て、八岐大蛇[やまたのをろち]を斬りたまひて其の尾の中より一霊劔を得たまひき。(『古語拾遺』)


『古語拾遺』によると「ハハ」は大蛇の古語であるという。この書が奉られたのは大同二年(八〇七)であるが、日本本土ではこの頃すでに「ハハ」は死語だったようである。しかし沖縄では今もこの語は生きていて、宮古島及びその周辺の島では蛇を「ハウ」または「パウ」といっている。恐らく毒蛇の「ハブ」もこの語によっているかと思われる。

この「ハハ」をふくむ語を記紀の中にさぐると、アメノハハヤ、ハハキモチ、ハハキノ神、ハハキノ国の四つがある。

アメノハハ矢は大国主神を討ちに降された天若日子に与えられた矢、である。ここではこのハハ矢にはふれず、「ハハキモチ」「ハハキノ神」「ハハキノ国」の三つについて考察する。

ハハキノ神は御年神の子。庭津日神・阿須[あす]波神の兄弟で、『古事記』に波比岐[はひき]神としるされている。しかし書紀にはすでに天羽羽斬劔[あめのははきりのつるぎ]が天[あめ]の蝿斫[はへきり]劔となっているように、「ハハ」は容易に「ハヘ」「ハヒ」に転訛し、その結果伊勢神宮においてもこの神は波比岐とも波波岐(木)とも両様に称[とな]えられているのである。

そこでハハヤは暫く措き、ハハキを考えよう。ハハキとは一体何なのか。


〈二 ハハキ持〉

天若日子の葬儀

(pp. 250-251)

天若日子の葬儀には五つの役目と、それを掌る五種の鳥がみられる。

  1. 川雁 / キサリモチ
  2. 鷺 / ハハキモチ
  3. かわせみ / 御食人[みけびと]
  4. 雀 / 碓女
  5. 雉 / 哭女

第一のキサリ持という役であるが、これは書紀に「持傾頭者」と書かれ、私記には「葬送之時、戴死者食、片行之人也」と註されているので、多くはその説によっているようである。宣長は「筍飯背垂持」とし、守部は「饌背垂持」、黒川春村は「笥飾持」とし、いずれもかなり苦しい解釈である。『旧事紀訓解』だけは、死に臨んだもの即ち気去者[いきさるもの]を支えるものだという見方をしているが、これを別とすれば皆食事に関係のあるものとしている。しかし食事に関係するものならば、このあとに御食人になった翠鳥[かわせみ]、碓女になった雀があり、役はちがうといっても一種の重複になる。限られた五種の中で食事関係が過半を占めるのは少しおかしいし、また、それ位の役目がこんなに最初にかき出されるはずがない。古代の葬式には第一番目にかき出されなければならないもっと大切な役目があったに相違ない。

それではこのキサリとは一体何なのか。先述のように古代人の死のとらえ方は生の反対方向であって、墓という擬似母体に死者を胎児として一たん納め、夕陽と同じように死者を西行させてから祖霊の在る東に新生させる、そのための呪術が葬式であったと思われる。したがって葬[とむら]いの中にはその呪術を成就させるための性交の擬きと母の胎をあらわすものが必ずある筈である。それに関連する呪物が、何か対偶をかんじさせるこのキサリと、ハハキではなかろうか。

以上の推理からすれば葬いには女陰を象徴するものが第一におかれなければならない。自然界のなかでその象徴としてつねに使われるものは貝である。天若日子の葬儀に際して第一位におかれている呪物・キサリは貝の一種ではなかろうか。キサリは蚶[きさ]貝かと思われる。『倭名抄』十九に「蚶[キサ]、状如蛤、円而厚、外有理縦横」とある。蚶貝は蛤に似て円く厚く、木の木目に似た刻目[きざみめ]がある、と説明されている。

出雲の佐太神社はその昔、出雲大社と出雲十郡の教権を四分六分の割合で分ち持っていた大社であるが、その祭神佐陀の大神の母神はこの支佐加比[きさかひ]比売命であると『出雲国風土記』には記されている。『古事記』では、この支佐加比比売は蛤[うむぎ]比売と協力して死んだ大国主命を蘇生させている。いずれにしてもこのキサ貝に新生をもたらす力を附与している。

(pp. 252-253)

雁にはいろいろ種類があるが、大体日本の西北に当たる大陸から渡って来る冬鳥である。そうして春にはまた来た処に戻ってゆく。死者は遠く旅をする、その死者を導くものとして雁はハハキモチをする鷺と共に適格者であった。

二番目のハハキモチの鷺は留鳥として日本にいるのもあるが、本来は沖縄・台湾・東南アジアからの渡り鳥である。主に水田・湖沼・湿原・海辺に群れ棲み、地上をゆっくり歩きながら大きな嘴をつかって魚・蛙・貝・虫などを捕食する。時折り低い声で鳴いてゆったり羽搏きながらとぶ。真白のその姿はいかにも美しく、鷺は白鳥[しらとり]として、沖縄ではオナリ神の象徴とされている。オナリ神とは男の兄弟の守護神としての女姉妹である。つまり鷺は女性神の象徴として信仰されている。本土でも白鳥は霊とか神、死と深く結びつき、その中でも有名なのは倭建命の白鳥伝説である。

その神聖、或いは霊的な鳥の手に、今日掃除用具に過ぎない箒が持たれるはずはない。その時鷺が手にした祭具であるハハキに、今日の箒の材質と形が似ていた、或いは同一であったハハキは、掃除用具に適当なものでもあった。それで掃除用具につかわれ、ハハキの名称も引ついで使われたのであろう。したがって今日の掃除用具の箒が、古代にそのまま祭具として使われていたのではないのである。

しかし従来の解釈は、死とは魂が身体から離れる状態であると昔の人は考えたので、その游離した魂をはきよせるために掃除用具の箒が祭具として使われた、ということになっている(1)。しかしこれでは、後にこのハハキ神が産の神となって、山の神と提携して産を助ける段になると説明がつかなくなる。

ハハキは蛇木で、そもそもは今日の箒ではなく、蛇を象徴するもので、それ故に葬式の祭具としてキサリについで大切なものだったのである。何故、蛇木が祭具として必要と考えられたか。


〈三 ハハキ神〉

考察

(pp. 260-261)

古事記によると庭津日・阿須波・波比岐(波波木)の三神は大年神を父とする同胞神である。

祈年祭の祝詞をみると阿須波・波比支の二神はいずれも座摩巫[いかすりのみかんなぎ]の奉祀する神達である。ここにこの二神の同胞神庭津日神は見当らないが、伊勢大神宮において宮比・波波木の二神は御敷地の神として常に相並んで六月・九月・十二月の各十八日に祀られている。その状況は「六月十八日宮比矢之帚祝詞」にみた通りである。そこでこの宮比神は波波木神と同胞神である庭津日神ではないかと『神宮祭祀概説』においてもすでに指摘されているのである。

一方、内裏の内膳司には平野・庭火・忌火三神の三所のカマドがあった。天皇が退位されて院に移られると、内膳司からその天皇の在位中の竈神[かまどかみ](つまりカマド)は院の方に渡御され、新しい天皇のために新しく竈神がまつられることになっていた(5)。

庭火[にはひ]神は明らかにカマド神であるが、庭津日[にはつひ]神もカマド神大戸比売神と同胞神である。つまり庭津日神とは庭火神のことであろう。庭火と宮比とは音が極めて近く、宮比神は庭火神と推測される。

庭津日神=庭火神=宮比神とすれば、波波木神と宮比神は大年神と天知迦流美豆比売を父母とする同胞神の間柄である。

「宮比矢乃帚の神号は昔より難儀にして考得たる人なし。」(『神宮典略』巻十三「祝詞」)といわれている。神号が謎であるばかりでなく、この二神の場合は神そのものの性格もたま不明なのである。

宮比神については、「ハヒ入の庭を守り給神なり。門戸より舎屋に入る迄の間の庭を波比入といふ古言なるべし。俗に家の入口をハヒリクチと呼べり。」(『記伝』)という説明や、宮比は宮辺の神であろう(『典略』)という説がある。しかしいずれも首肯しがたい。

もし宮比を庭火とし、カマド神と解すればこの正体不明とされている神の性格も容易に解明できるのではなかろうか。ミヤヒ神は大神宮御敷地の西北に鎮座し、東南のハハキ神に相対している。その向きは当然東南、辰巳の方である。沖縄の先島ではカマドの位置は西か西北、その向きは必ず巳[み](蛇)の方向になるように築くという。またその築く日も巳の日であるという。宮比神の向きはこの沖縄のカマドに関する習俗に一致する。


〈四 ハハキノ国(伯耆国)〉

(p. 262)

『倭名類聚抄』に伯耆、「波々岐」とあり、また『倭訓栞』にも「ははき」とよませている。そうしてこの「ははき」のいみについて「古事記に冊尊を葬於出雲国与伯耆国堺比婆山とみえたれば、母君の国也といへり。」と註している。

『古事記伝』はこれをうけて「伯伎は和名抄に伯耆、「波波岐」、神名帳に彼国ノ川村郡に波波伎神社もあり、名義しらず。若箒より出たる由など有にや、或いはこの伊邪那美命の事によりて、母君国なるべしと云へるはいかが。」と疑問を出し、ハハキは不明だといっている。

宮地の神としてしられるのみで、波波岐神の神名の由来もその性格も不明であると同様に、この国名も何か謎を秘めて漠としているのである。しかも箒のハハキも伯耆のハハキも波波木神のハハキも悉く相通の音のハハキなのである。


出雲と伯耆

(p. 263)

伯耆は出雲の東隣の国とされている。伯耆は今日では鳥取県の略中央から西部西南部を占める国であった。

さて、『古事記』に、「故[かれ]、其の神避[かむさ]りし伊邪那美神は、出雲国と伯伎[ははき]国との堺の比婆ノ山に葬[はふ]りき」とあるその比婆山は今は広島県になっているが、大体この地点は広島・島根・鳥取・岡山の県境、換言すれば、この四県のほぼ中央に位する。名だたる中国山地のほぼ真中ということも出来る、何か由ありげな地点である。

頭がやや大きな魚のような形で、出雲は東から西南に横たわっている。その出雲に添うように出雲の国の東から南にかけて日野川沿いにのびている国が伯耆の国である。古くは比婆山は出雲の東南の端の山であり、伯耆と境を接する地点にあった。比婆山の地点からみれば出雲は西北、伯耆は東南である。出雲と伯耆の方位関係は、比婆山の地点において戌亥(西北)と辰巳(東南)の対中となる。西北の出雲と、東南の伯耆の関係は、伊勢神宮における西北のカマド神宮比神と、東南の波波木神の関係を思いおこさせる。

(p. 264)

日本国土の西の果の一大中心地出雲は都であった。その出雲の東から東南にかけて横たわる地域を十二支獣に配当して、当初はハハ(蛇)の国とよんだ。しかし一大葬所比婆山の東南には巨大なハハキ(蒲葵)が立てられることが多かった。しかもこの蒲葵は海人族が信奉する神木である。そこでいつしか「ハハノクニ」という名称は「ハハキノクニ」に移行したのではなかろうか。

以上、『古事記』にみえる、ハハキ持、ハハキノ神、ハハキノ国について考察し、このハハキをいずれも「蛇木」と解釈したのであるが、この三者間には互いに関連があって、

  • ハハキ持とハハキノ国の間では葬い、
  • ハハキノ国とハハキノ神の間では方位、

がそれぞれ共通という現象がみられる。

ハハキ持は天若日子の葬儀、ハハキノ国は比婆山という葬所に関係する意味においてこの二者は死に関連してつながりをもつ。


第十章 古代日本人における世界像と現世生活像

〈五 世界像の考察〉

(p. 400)

日本では古来、家をかぞえるのに「戸[へ]」という言葉がつかわれている。「戸」とはカマドである。『古事記』上巻にも大年神と天知迦流美豆比売[あまちかるみずひめ]の間に出来た大戸比売[おほべひめ]神が、諸人の斎[いつ]き祀るカマドの神である、と記されている。


(1) 民俗学研究所編『綜合日本民俗語彙』第四巻一四〇三頁 ホウキガミ項 昭和三十一年三月 平凡社刊

(5) 『葉黄記』寛元四年四月『日本紀略』十三 長和五年六月

〔『吉野裕子全集 1』より〕


座摩(ゐかすり)の神


○ 上記引用文中にも、「祈年祭の祝詞をみると阿須波・波比支の二神はいずれも座摩巫[いかすりのみかんなぎ]の奉祀する神達である」と、述べられているのであるが、延喜式の神名帳(じんみょうちょう)にも〈宮中神卅六座〉の「座摩巫祭神五座」とともに、摂津国内〈西成郡一座〉にも「坐摩神社」と記録されている。その原文を引用の上、解説として、岩波文庫『古語拾遺』から「補注」を参照しておこう。


新訂增補『國史大系 26』

「延喜式」

延喜式卷第九

神祇九 神名上

(p. 179)

宮中神卅六座

神祇官西院坐(マス)御巫等祭神廿三座〔並大。月次新甞。〕

(p. 180)

座摩巫祭神(ヰカスリノミカンナキノマツルカミ)五座〔並大。月次新甞。〕

生井(イクヰ)神

福井(サクヰノ)神社

綱長井(ツナカヰ)神

波比祇(ハヒキ)神

阿須波(アスハノ)神

(p. 182)

畿內神六百五十八座〔大二百卅一座 / 小四百廿七座〕

(p. 203)

攝津國七十五座

(p. 204)

西成(ニシナリノ)郡一座〔大〕

坐摩(サカスリノ / ヰカスリ)神社〔大。月次新甞。〕

〔新訂增補『國史大系 26』より〕


岩波文庫『古語拾遺』

神籬を建て神々を祭る

(p. 133)

坐摩。〔是、大宮地之霊。今坐摩巫所奉斎也。〕

(p. 35)

坐摩[ゐかすり]。〔是、大宮地[おほみやどころ]の霊[みたま]なり。今坐摩[ゐかすり]の巫の斎ひ奉れるなり。〕

(p. 88)

訓読文補注

坐摩 延喜式、神名帳、宮中神の条に「座摩巫祭神五座」として、「生井[いくゐ]神・福井[さくゐ]神・綱長井[つながゐ]神・波比祇[はひき]神・阿須波[あすは]神」の五神の名を掲げている。生井(いきいきした井)・福井(栄える井)・綱長井(生命の長い井)の三神は井の神。ハヒキは境界、アスハは基盤で、ともに屋敷神をさす。これらを総合して、ヰカシリ(居処領)の神と言った。「座」は「居処」、「摩」はシリの音転スリの宛字。つまり敷地の神で、注に「大宮地の神の霊」とある通りである。この神を祭祀するのは座摩の巫である。

〔岩波文庫『古語拾遺』より〕


阿須波(アスハ)の神 : 波比岐(ハヒキ)の神


○ 西宮一民氏の校注になる古事記が、新潮日本古典集成『古事記』で刊行されているので、そちらの論述からも抜粋する。


新潮日本古典集成『古事記』

古事記 上つ巻

次に、庭津日[にはつひ]の神。次に、阿須波[あすは]の神。次に、波比岐[はひき]の神。


付 録 神名の釈義

庭津日の神

名義は「家の前の広場の神霊」。「庭」は今日のような植込みの庭ではなく、家屋の前の広場をいう。穀物を干したり、農耕祭祀をしたりする場所であるから、庭そのものを神格化した。須佐之男[すさのお]命の子の大年[おおとし]神と天知迦流美豆比売[あめちかるみずひめ]との間に生れた九神中の第三子。

阿須波の神

名義は「宅地の基礎が堅固なこと」。「足磐[あしいは]」の約「あしは」が「あすは」に音転した語。~~。須佐之男[すさのお]命の子の大年[おおとし]神と天知迦流美豆比売[あめちかるみずひめ]との間に生れた九神中の第四子。

波比岐の神

名義は「宅地の端から端へ線を引き区画をすること」。「端引[はひ]き」の義で、宅地の境界を掌る神。名義未詳として著名の語であった。前項「阿須波[あすは]の神」とコンビで名を見せる神名で、宅地の神であることだけは間違いない。~~。「端を引くこと」と解すれば、まさに境界の表象である。須佐之男[すさのお]命の子の大年[おおとし]神と天知迦流美豆比売[あめちかるみずひめ]との間に生れた九神中の第五子。

〔新潮日本古典集成『古事記』(p. 76, p. 388) 〕


○ また式内社調査報告書の記事に、ハヒキの神は「現在の通說では波比伎は灰吹きの意で、製鐵の重要なたたら(ふいご)にちなんだ名稱ではないかとされる。」とも、述べられている。


『式内社調査報告 24 』

疋野(ヒキノ)神社

(坂本經昌)

【社名】 武田家本にある「疋野[ヒキノ]」が現在もなほ訓まれてゐる。しかし、問題とされるのは續日本後紀の承和七年(八四〇)八月二十七日の「以肥後國玉名郡疋石神預官社」とある中にみられる「疋石」と現在も地名として殘つてゐる「疋石野」の關係である。…… しかも、地名については、平安時代の末まで玉名地方で榮へた郡領家の日置[ヘキ]氏の領した田及び野、卽ち日置野[ヘキノ]が轉加して疋石野になつたとする說がある。

…………

【由緒】 この神社は日置[ヘキ]氏の氏神を祀つたものと考へられ、その盛衰は日置氏とともにあつたやうだ。この日置氏は大化前から玉名地方に下つてきて勢力を廣げ、郡司の地位までになつたとされる。…… また菊池川の上流には日置の地名も現存する。『宇佐大鏡』の伊倉別符についても「件別符は當郡々司日置則利先祖相傳之私領也」とあることで、日置氏勢力の一端を知ることができる。

菊池川下流域には、銀象嵌銘入り直刀や大陸からの輸入品など數多くの優秀な副葬品を出土した江田船山古墳をはじめ、有力な古墳や古墳群が分布し、肥後においてこの地方が重要な據點であつたことが判明する。このやうな重要な地域で日置氏が强大な力を有してゐた理由には、肥沃な土地と鐵生産といふしつかりした經濟基盤があつたことがあげられる。河口には元玉名から梅林にかけて條里制遺構が認められ古くから生産の高い水田が拓かれてゐたことが知れる。鐵については、これも菊池川の河床の砂鐵が利用されたらうとするが、この玉名市周邊(小代山を含む)に約二十ケ所の製鐵遺跡が確認されてゐる。ここで製作された鐵製品が大宰府へ運ばれ、日置氏-大宰府-中央政府といふルートができてゐたと考へられる。

以上のことが阿蘇を除いたら肥後においてここだけにただ一つの式内社が出現した理由ではないかとされてゐる。

…………

【所在地】 現在地は熊本縣玉名市立願寺四五七番地である。……


【祭神】 傳說では祭神は疋野長者となつてゐる。……

また波比伎神が主神ともされてゐる。この波比伎神については古事記にもみえるが、延喜式では宮中神三十六座の中の一座でもある。…… この波比伎神について本居宣長も『古事記傳』で波比入君[ハイイリギミ]で門より舍屋[ヤノ]內に入るまでを司る神とし、波比伎を灰木とするは非なりと說く。しかし、現在の通說では波比伎は灰吹きの意で、製鐵の重要なたたら(ふいご)にちなんだ名稱ではないかとされる。傳說の疋野長者の前身は山麓の炭燒きといふこともそれを想起させる。

卽ちこの波比伎神は日置氏の重要な經濟基盤であつた製鐵の神といふことである。

〔『式内社調査報告 24 』(pp. 191-192, pp. 193-194) 〕


○ 延喜式「祝詞」の内容を紹介し注解した次のような注釈書も参考になる。


『延喜式祝詞』

祈年祭 [トシゴヒノマツリ]

【訓読文】(第五段)

座摩の御巫の辞竟へ奉る皇神等の前に白さく、生井・栄井・津長井・阿須波・婆比支と御名は白して、辞竟へ奉らくは、皇神の敷き坐す下つ磐根に宮柱太知り立て、高天の原に千木高知りて、皇御孫の命の瑞の御舎を仕へ奉りて、天の御蔭・日の御蔭と隠れ坐して、四方の国を安国と平らけく知ろし食すが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称へ辞竟へ奉らくと宣る。

(ゐかすりのみかむなぎのことをへまつるすめかみたちのまへにまをさく、いくゐ・さくゐ・つながゐ・あすは・はひきとみなはまをして、ことをへまつらくは、すめかみのしきますしたついはねにみやばしらふとしりたて、たかまのはらにちぎたかしりて、すめみまのみことのみづのみあらかをつかへまつりて、あまのみかげ・ひのみかげとかくれまして、よものくにをやすくにとたひらけくしろしめすがゆゑに、すめみまのみことのうづのみてぐらをたたへごとをへまつらくとのる。)

【注解】

座摩の御巫

「ゐかすり」の「ゐか」は「居処」で天皇のお住まい所、即ち皇居のことであり、「すり」は「知[し]り」の音の転化で、つかさどる・支配するの意である。皇居の土地の守護神である。

生井・栄井・津長井

神名式には下[した]に「神」が付いているので、井戸の三神である。生井は生き生きとした井戸、栄井は水がこんこんと湧き出る井戸、神名式に「福井神」と表記しているのによれば、人間生活に幸いをもたらす井戸の意によるのであろう。津長井は神名式に「綱長井神」とあるとおり、「つなながゐ」で、音の縮約形。即ち、長い綱で汲み上げられる深い井戸で、良い水が得られる井戸を讃えての表現である。以上三神は井戸の神で、皇居選定の第一条件は良い水が豊かに得られる地であったことを思わせる。

阿須波・婆比支

古事記上にも、「次に阿須波神、次に波比岐神」と連なって見える神で、神の意味のとらえ難い神である。萬葉集の防人の歌に「庭中[にはなか]の 阿須波[あすは]の神に 小柴[こしば]さし 我[あれ]は斎[いは]はむ 帰り来[く]までに」(20 四三五〇)とあり、屋敷神であったことが知られ、その点で座摩神として祭られていることの理由が分かる。

敷き坐す

「しく」は一面に力を及ぼす、支配する、領有するの意。萬葉集に「天皇[すめろき]の 敷きます国の ……」(18 四一二二)とある。

下つ磐根に宮柱太知り立て

地面の下の岩に宮殿の柱を太くどっしりと占め立て、の意。磐根というのは、木や草の根のように、岩が大地にしっかりと食いこんでいるという表現であって、「根[ね]」は接尾語的な語である。

高天の原に千木高知りて

「千木[ちぎ]」は「比木[ひぎ]」とも言い、屋根の両端に、その傾斜に従って X 字形に交叉して乗せられるものである。その両先端が高天の原、即ち天空を指して斜めにそびえ立つものである。神殿・宮殿の最頂部となるので、最も神聖部とされていた。天空に向って千木を高々と占め立てて、の意。「ちぎ」の「ち」・「ひぎ」の「ひ」、共に神聖の意を表わす。

瑞の御舎

瑞は生命力に満ちた、めでたいしるし。「みあらか」の「み」は美称の接頭語、「あらか」は「在[あ]り処[か]」で、arika ➝ araka と前後のア母音に同化して「あらか」となったもの。めでたく立派な天皇のお住まい所、即ち御殿。

仕へ奉りて

御奉仕する意であるが、ここは御殿をお造り(御造営)申し上げて、の意。

天の御蔭・日の御蔭と隠れ坐して

「かげ」は光をさえぎる所の意で、即ち御殿のことである。御殿を天をさえぎる陰、日をさえぎる陰として、その中にお隠れになりまして(お住まいになられまして)、の意。

四方の国を安国と平らけく知ろし食す

天下四方の国を安らかな国として平穏にお治めになられます、の意。

〔粕谷興紀/注解『延喜式祝詞』(pp. 71-73) 〕

The End of Takechan

◈ 伊勢神宮の「建久三年皇太神宮年中行事」では、戌亥(西北)に祀られるミヤヒの神と、 辰巳(東南)に祀られるハハキの神が、対(つい)となる方角に、祭祀されていた。その二神と比較研究された、アスハ・ハヒキの神は記紀神話では古事記にしか描かれていないけれども、延喜式の神名帳と祝詞に「座摩巫祭神五座」のうちの二神として登場している。

いっぽう、《ハハキ》という音韻に通じる《ハハキモチ》は古事記と日本書紀の両方に、記述がある。


The End of Takechan


◉ アメノワカヒコの葬儀に、キサリモチとハハキモチが描かれ、そのあとの記述で、死人に間違えられたアヂスキタカヒコネが激怒して、


「朋友の道、理相弔ふべし。故、汚穢しきに憚らずして、遠くより赴き哀ぶ。何爲れか我を亡者に誤つ」といひて、則ち其の帶劒かせる大葉刈 〔刈、此をば我里と云ふ。亦の名は神戶劒。〕 を拔きて、喪屋を斫り仆せつ。此卽ち落ちて山と爲る。今美濃國の藍見川之上に在る喪山、是なり。


という次第となる。これは日本書紀「神代下 第九段〔本文〕」の記事である。古事記では、


「我は愛しき友なれこそ弔ひ來つれ。何とかも吾を穢き死人に比ぶる。」と云ひて、御佩せる十掬劒を拔きて、其の喪屋を切り伏せ、足以ちて蹶ゑ離ち遣りき。此は美濃の國の藍見河の河上の喪山ぞ。其の持ちて切れる大刀の名は、大量と謂ひ、亦の名は神度の劒 〔度の字は音を以ゐよ。〕 と謂ふ。


となっている。記紀神話に描かれたアヂスキタカヒコネの剣の名称を、箇条書きにしてみよう。


日本書紀

  • 大葉刈 おほはがり
  • 神戶劒 かむどのつるぎ

古事記

  • 大量 おほはかり
  • 神度の劒 かむどのつるぎ


両方の神話でほぼ同じ名が併記されていることがわかる。――〝大葉刈・大量〟の語義を〝大刃剣〟とし、またアジスキタカヒコネ(阿遅須枳高日子命)は出雲国風土記の「神門郡(かむどのこほり)」に、二度登場するので、それ故に〝神戸剣・神度剣〟を〝神門剣〟とする解釈がある。


The End of Takechan

◈ ヤマタノヲロチの神話に関連した論考を参照していて、谷川健一氏の『青銅の神の足跡』のなかに、「朝鮮語では刀をカルという。草薙剣[くさなぎのつるぎ]を都牟刈[つむかり]の大刀ともいう。」と語られたあとに、「野だたらの炉の炎が空をこがしているありさま」という表現があった。

〔※ 「鳥上之峯 / 簸川上(トリカミの峰 / ヒノカハの上)」のページ 参照〕


○ さらに別のページには「アジスキタカヒコは、ぴかぴかした金属を思わせる美麗な神」という記述もある。


『谷川健一全集 9』

『青銅の神の足跡』〔初出:1979年06月20日 集英社発行〕

「第一部」

第一章 銅を吹く人

伊福部氏は雷神として祀られる

ここに大葉刈という剣の名が出てくる。これは大きな刃をもつ刀剣と解釈される。朝鮮語では刀をカルという。草薙剣[くさなぎのつるぎ]を都牟刈[つむかり]の大刀ともいう。この刈もまたおなじく刀剣の意である。アジスキタカヒコネは鉄製の利器を所有する神であったことがこれによってもわかる。

さて、前の引用文では、アジスキタカヒコネは、うるわしい容儀をそなえていて、二つの丘、二つの谷の間に映り渡ったとあり、また、その歌には「み谷二渡[たにふたわた]らす」とある。いくつもの丘や谷に照りかがやく鉄器とは、何を表現する比喩なのであろうか。それは芭蕉の『猿蓑』の中の「たたらの雲のまだ赤き空」という去来の句のように、野だたらの炉の炎が空をこがしているありさまを叙したものではないだろうか。


第三章 最後のヤマトタケル

水銀を採取する人びと

…… アジスキタカヒコは、ぴかぴかした金属を思わせる美麗な神であり、「み谷二渡[たにふたわた]らす」と形容された。これは雷神の雷光を想像させもするが、また野だたらの炎が谷の夜空をかがやかす光景とも受けとれる。……

〔『谷川健一全集 9』(p. 64, p. 134) 〕


◉ 古事記でアヂスキタカヒコネが帯びていた剣は「其持所切大刀名、謂大量、亦名謂神度劒。」と記述され、日本書紀では「其帶劒大葉刈、〔刈、此云我里。亦名神戶劒。〕」であった。―― その文脈を確認しよう。


アヂスキタカヒコネの〈神度剣〉


◈ アヂスキタカヒコネは、古事記に〈カモの大御神〉と称され、オホクニヌシとタキリビメとの間に生まれた子とある。その妹はタカヒメ(またの名をシタテルヒメ)といい、その後、国譲りの前段でアメノワカヒコの妻となって、アヂスキタカヒコネに関わる重要な役割を担い再登場する。


○ 古事記で語られた波比岐の神と、アヂスキタカヒコネにまつわる神話(「葦原中国の平定 2 天若日子」段)である。


日本古典文学大系『古事記 祝詞』

「大国主神」 8 大年神の神裔

[原文] 故、其大年神、娶神活須毘神之女、伊怒比賣、生子、大國御魂神。次韓神。次曾富理神。次白日神。次聖神。〔五神〕 又娶香用比賣、〔此神名以音。〕 生子、大香山戶臣神。次御年神。〔二柱〕 又娶天知迦流美豆比賣、〔訓天如天。亦自知下六字以音。〕 生子、奧津日子神。次奧津比賣命、亦名、大戶比賣神。此者諸人以拜竈神者也。次大山上 咋神、亦名、山末之大主神。此神者、坐近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾、用鳴鏑神者也。次庭津日神。次阿須波神。〔此神名以音。〕 次波比岐神。〔此神名以音。〕 次香山戶臣神。次羽山戶神。次庭高津日神。次大土神、亦名、土之御祖神。九神。

(頭注)

以下の系譜は須佐之男命の神裔の条に直接つながるものである。

神活須毘神 / 伊怒比賣

名義共に未詳。

大國御魂神

大は美称、国の御魂の意。

韓神

文字通り韓(朝鮮)の神の意か。延喜式神名帳に宮内省に坐す神三座のうち、韓神社二座とあり、神楽歌に「韓神」があって、本末共に「われ韓神の、韓招(カラヲ)ぎせむや」とある。

曾富理神

名義未詳。書紀天孫降臨の条の一書に「日向襲之高千穂添山峰」とあって、「添山、此云曾褒里能耶麻。」の訓注がある。添(ソホリ)の神と解してみてもおかしい。或いは朝鮮の古語に関係があるのではあるまいか。また前掲の韓神社二座の外の一座は園神社とあるが、この園(ソノ)の神と関係ある神か。

白日神

記伝に「白字は向の誤」で、「其故は、式に、山城国乙訓郡向神社。大歳神社と並載れり。此向神社は、大年神御子向日神を祀ると云、何の説も同じければなり。」とある。或いはそうかも知れない。

聖神

日知りの神の意で、暦日を掌る神か。

香用比賣 / 大香山戶臣神

名義共に未詳。

御年神

前の大年神、後の若年神と同じく、年穀を掌る神、祈年祭の祭神の一。古語拾遺にこの神に関する神話が採録されている。

天知迦流美豆比賣

名義未詳。

奧津日子神 / 奧津比賣命

沖の彦、沖の姫であるが、何のことかよくわからない。この女神にのみ命とあるは不審。

大戶比賣神

大竈姫の意。ヘッツイを掌る女神。

竈神

和名抄に竈に加万の和訓がある。

大山咋神

山の神であろうが名義未詳。

山末之大主神

山の頂を支配する神の意。

近淡海國

近江の国。琵琶湖に因る名。

坐 … 日枝山

比叡山に鎮座され。神名帳に近江国滋賀郡日吉(ヒエ)神社とあるのがそれで、後世山王という。

坐葛野之松尾

神名帳に山城国葛野(カドノ)郡松尾神社とあるのがそれである。

用鳴鏑神

鳴鏑の矢を持つ神の意。本朝月令、四月中酉賀茂祭事の条に、秦氏本系帳を引いて「初秦氏女子、出葛野河、澣‐濯衣裳。時有一矢、自上流下。女子取之還来、刺置於戸上。… 戸上矢者、松尾大明神是也。」とある。

庭津日神

屋敷を照らす日の神の意か。

阿須波神 / 波比岐神

名義共に未詳であるが宅神である。祈年祭祝詞の中に、座摩(ヰカスリ)の御巫の祭る皇神等として、生井・栄井・津長井・阿須波・婆比支の名が見える。また万葉巻二十に「庭中の阿須波の神に木柴さし吾は斎はむ帰り来までに」(四三五〇)の歌がある。

羽山戶神

名義未詳。山の神であろう。

土之御祖神

土の母神。大地母神である。

九神

奥津日子・奥津比売を合せて一神と数えて、九神としたのであろう。実数は十神。


[訓み下し文] 故、其の大年の神、神活須毘の神の女、伊怒比賣を娶して生める子は、大國御魂の神。次に韓の神。次に曾富理の神。次に白日の神。次に聖の神。〔五神〕 又、香用比賣 〔此の神の名は音を以ゐよ。〕 を娶して生める子は、大香山戶臣の神。次に御年の神。〔二柱〕 又、天知迦流美豆比賣 〔天を訓むこと天の如くせよ。亦知より下の六字は音を以ゐよ。〕 を娶して生める子は、奧津日子の神。次に奧津比賣の命、亦の名は大戶比賣の神。此は諸人の以ち拜く竈の神ぞ。次に大山咋の神、亦の名は山末之大主の神。此の神は近淡海の國の日枝の山に坐し、亦葛野の松の尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ。次に庭津日の神。次に阿須波の神。〔此の神の名は音を以ゐよ。〕 次に波比岐の神。〔此の神の名は音を以ゐよ。〕 次に香山戶臣の神。次に羽山戶の神。次に庭高津日の神。次に大土の神、亦の名は土之御祖の神。九神。


(ふりがな文) かれ、そのおほとしのかみ、かむいくすびのかみのむすめ、いのひめをめとしてうめるこは、おほくにみたまのかみ。つぎにからのかみ。つぎにそほりのかみ。つぎにしらひのかみ。つぎにひじりのかみ。〔いつはしら〕 また、かよひめ 〔このかみのなはこゑをもちゐよ。〕 をめとしてうめるこは、おほかがやまとおみのかみ。つぎにみとしのかみ。〔ふたはしら〕 また、あめちかるみづひめ 〔あめをよむことあめのごとくせよ。またちよりしものむもじはこゑをもちゐよ。〕 をめとしてうめるこは、おきつひこのかみ。つぎにおきつひめのみこと、またのなはおほべひめのかみ。こはもろひとのもちいつくかまのかみぞ。つぎにおほやまくひのかみ、またのなはやますゑのおほぬしのかみ。このかみはちかつあふみのくにのひえのやまにまし、またかづののまつのをにまして、なりかぶらをもつかみぞ。つぎににはつひのかみ。つぎにあすはのかみ。〔このかみのなはこゑをもちゐよ。〕 つぎにはひきのかみ。〔このかみのなはこゑをもちゐよ。〕 つぎにかがやまとおみのかみ。つぎにはやまとのかみ。つぎににはたかつひのかみ。つぎにおほつちのかみ、またのなはつちのみおやのかみ。ここのはしら。


「葦原中国の平定」 2 天若日子 (説話の始まりの部分)

[原文] 是以高御產巢日神、天照大御神、亦問諸神等、所遣葦原中國之天菩比神、久不復奏。亦使何神之吉。爾思金神答白、可遣天津國玉神之子、天若日子。故爾以天之麻迦古弓、〔自麻下三字以音。〕 天之波波 〔此二字以音。〕 矢、賜天若日子而遣。於是天若日子、降‐到其國、卽娶大國主神之女、下照比賣、亦慮獲其國、至‐于八年、不復奏。

(頭注)

天若日子

書紀には「天稚彦」とある。記伝にはアメワカヒコと訓んでいるが、アメノワカヒコと訓むべきであろう。即ち若日子は大日子に対する語で、今の語で言えば大旦那に対する若旦那のような意である。従って天上界の若彦(世子)という普通名詞であったと思われる。だからこの神には、神とか命とかいう敬称がない。(逆神だから神や命を省いたと見るのは誤りである。)それが固有名詞のように考えられるようになったと思われる。

天之麻迦古弓

書紀には「天鹿児弓」とある。鹿を射る弓の意。天は美称、麻は接頭語。

天之波波矢

書紀には「天羽羽矢」とある。記伝には「羽張矢」の意で、羽の広く大きい矢をいうのであろうと説いているが明らかでない。

大國主神之女、下照比賣

書紀には「顕国玉之女子、下照姫〔亦名高姫、亦名稚国玉〕」とある。

慮獲其國

葦原の中つ国を、自分のものにしようと思いめぐらして。書紀には「吾亦欲馭葦原中国」とある。


[訓み下し文] 是を以ちて高御產巢日の神、天照大御神、亦諸の神等に問ひたまひしく、「葦原の中つ國に遣はせる天の菩比の神、久しく復奏さず。亦何れの神を使はさば吉けむ。」ととひたまひき。爾に思金の神、答へ白ししく、「天津國玉の神の子、天の若日子を遣はすべし。」とまをしき。故爾に天之麻迦古弓、〔麻より下の三字は音を以ゐよ。〕 天之波波 〔此の二字は音を以ゐよ。〕 矢を天の若日子に賜ひて遣はしき。是に天の若日子、其の國に降り到る卽ち、大國主の神の女、下照比賣を娶し、亦其の國を獲むと慮りて、八年に至るまで復奏さざりき。


(ふりがな文) ここをもちてたかみむすひのかみ、あまてらすおほみかみ、またもろもろのかみたちにとひたまひしく、「あしはらのなかつくににつかはせるあめのほひのかみ、ひさしくかへりごとまをさず。またいづれのかみをつかはさばよけむ。」ととひたまひき。ここにおもひかねのかみ、こたへまをししく、「あまつくにたまのかみのこ、あめのわかひこをつかはすべし。」とまをしき。かれここにあめのまかこゆみ、〔まよりしものみもじはこゑをもちゐよ。〕 あめのはは 〔このふたもじはこゑをもちゐよ。〕 やをあめのわかひこにたまひてつかはしき。

ここにあめのわかひこ、そのくににおりいたるすなはち、おほくにぬしのかみのむすめ、したてるひめをめとし、またそのくにをえむとおもひはかりて、やとせにいたるまでかへりごとまをさざりき。


「葦原中国の平定」 2 天若日子 (天の若日子の死)

[原文] 卽天若日子、持天神所賜天之波士弓、天之加久矢、射‐殺其雉。爾其矢、自雉胸通而、逆射上、逮坐天安河之河原、天照大御神、高木神之御所。是高木神者、高御產巢日神之別名。故、高木神、取其矢見者、血著其矢羽。於是高木神、告‐之此矢者、所賜天若日子之矢、卽示諸神等詔者、或天若日子、不誤命、爲射惡神之矢之至者、不中天若日子。或有邪心者、天若日子、於此矢麻賀禮。〔此三字以音。〕 云而、取其矢、自其矢穴衝返下者、中天若日子寢朝床之高胸坂以死。〔此還矢之本也。〕 亦其雉不還。故於今諺曰雉之頓使本是也。

故、天若日子之妻、下照比賣之哭聲、與風響到天。於是在天、天若日子之父、天津國玉神、及其妻子聞而、降來哭悲、乃於其處作喪屋而、河鴈爲岐佐理持、〔自岐下三字以音。〕 鷺爲掃持、翠鳥爲御食人、雀爲碓女、雉爲哭女、如此行定而、日八日夜八夜遊也。

(頭注)

天之波士弓

書紀には「天梔弓〔梔、此云波茸。〕」とある。梔はクチナシであるが、櫨に通じて用いたものか。櫨(ハジ、ハゼ)の木で作った弓。前には天之麻迦古弓とあって、名称が変っている。

天之加久矢

天の鹿児矢の意か。これも前には天之羽羽矢とあって、名称が変っている。

高木神

前に弓矢の名称が変っており、ここに高御産巣日神が高木神となっているのは、前後資料を異にし、その異伝を接合したための結果であろう。

麻賀禮

禍(マガ)れの意で、禍あれ、即ち死んでしまえの意。書紀の一書には、「若以惡心射者、則天稚彦、必当遭害。(マジコレナム)」とある。

此還矢之本也

書紀には本文、一書共に「此世人所謂反矢可畏之縁也。」とあるによって、記伝・底・田・延には「此還矢可恐之本也」と「可恐」の二字を補っているが、諸本にはこの二字が無い。還矢はカヘシヤではなくカヘリヤと訓むべきであろう。つまり天から還って来た矢の意である。これはいわゆるニムロッドの矢である。聖書に見えるニムロッド(権力ある猟夫)に関するメソポタミヤ地方の民間説話に「ニムロッドは神を目がけて天上に矢を射る。その矢は神の手で地上に投げ返されて、ニムロッドの胸板を貫く。」とある。この型の説話を「ニムロッドの矢」という(金関丈夫博士著「木馬と石牛」参照)。

喪屋

屍を安置して葬儀を行う家。殯宮と同じ。

河鴈爲岐佐理持

ただ雁をいうとも、鳬鴈の類とも説かれているが不明。キサリモチは書紀に「持傾頭者」と記し、その私記に「葬送之時、戴死者食、片行之人也。」と注している。書紀には川鴈を持傾頭者及び持帚者にしたとも、鶏を持傾頭者とし、川鴈を持帚者にしたとも伝えている。鶏はトサカの形状からの連想であろう。

鷺爲掃持

鷺が書紀では川鴈となっている。ハハキモチは葬送の時、帚(ほうき)を持って行く者。

翠鳥爲御食人

カワセミを死者に供える御饌を掌る人とし。書紀には鴗を尸者(モノマサ)としたとある。

雀爲碓女

雀を米つき女とし。書紀には「春女」とある。

雉爲哭女

雉を泣き女(葬送の時の泣き役の女)とし。書紀には鷦鷯(サザキ)を哭女としたとある。なお以上の外に「以鵄為造綿者、以烏為宍人者。」ともある。

如此行定而

このように処置をして、それぞれの役割をきめて。書紀には「凡以衆鳥任事」とある。さてこのように衆鳥を葬送の役に任じたというのは、動物舞の反映であるとか、霊魂の復活を促す呪術であるとか言われている。


[訓み下し文] 卽ち、天の若日子、天つ神の賜へりし天之波士弓、天之加久矢を持ちて、其の雉を射殺しき。爾に其の矢、雉の胸より通りて、逆に射上げらえて、天の安の河の河原に坐す天照大御神、高木の神の御所に逮りき。是の高木の神は、高御產巢日の神の別の名ぞ。故、高木の神、其の矢を取りて見したまへば、血、其の矢の羽に著けり。是に高木の神、「此の矢は、天の若日子に賜へりし矢ぞ。」と告りたまひて、卽ち諸の神等に示せて詔りたまひしく、「或し天の若日子、命を誤たず、惡しき神を射つる矢の至りしならば、天の若日子に中らざれ。或し邪き心有らば、天の若日子此の矢に麻賀禮。〔此の三字は音を以ゐよ。〕」と云ひて、其の矢を取りて、其の矢の穴より衝き返し下したまへば、天の若日子が朝床に寢し高胸坂に中りて死にき。〔此れ還矢(カヘリヤ)の本なり。〕 亦其の雉還らざりき。故今に諺に、「雉の頓使」と曰ふ本是れなり。

故、天の若日子の妻、下照比賣の哭く聲、風の與響きて天に到りき。是に天在る天の若日子の父、天津國玉の神及其の妻子聞きて、降り來て哭き悲しみて、乃ち其處に喪屋を作りて、河鴈を岐佐理持 〔岐より下の三字は音を以ゐよ。〕 と爲、鷺を掃持と爲、翠鳥を御食人と爲、雀を碓女と爲、雉を哭女と爲、如此行ひ定めて、日八日夜八夜を遊びき。


(ふりがな文) すなはち、あめのわかひこ、あまつかみのたまへりしあめのはじゆみ、あめのかくやをもちて、そのきぎしをいころしき。ここにそのや、きぎしのむねよりとほりて、さかしまにいあげらえて、あめのやすのかはのかはらにますあまてらすおほみかみ、たかぎのかみのみもとにいたりき。このたかぎのかみは、たかみむすひのかみのまたのなぞ。かれ、たかぎのかみ、そのやをとりてみしたまへば、ち、そのやのはにつけり。ここにたかぎのかみ、「このやは、あめのわかひこにたまへりしやぞ。」とのりたまひて、すなはちもろもろのかみたちにみせてのりたまひしく、「もしあめのわかひこ、みことをあやまたず、あしきかみをいつるやのきたりしならば、あめのわかひこにあたらざれ。もしきたなきこころあらば、あめのわかひここのやにまがれ。〔このみもじはこゑをもちゐよ。〕」といひて、そのやをとりて、そのやのあなよりつきかへしくだしたまへば、あめのわかひこがあさとこにいねしたかむなさかにあたりてしにき。〔これかへりや(カヘリヤ)のもとなり。〕 またそのきぎしかへらざりき。かれいまにことわざに、「きぎしのひたづかひ」といふもとこれれなり。

かれ、あめのわかひこのつま、したてるひめのなくこゑ、かぜのむたひびきてあめにいたりき。ここにあめなるあめのわかひこのちち、あまつくにたまのかみまたそのめこききて、くだりきてなきかなしみて、すなはちそこにもやをつくりて、かはがりをきさりもち 〔きよりしものみもじはこゑをもちゐよ。〕 とし、さぎをははきもちとし、そにどりをみけびととし、すずめをうすめとし、きぎしをなきめとし、かくおこなひさだめて、ひやかよやよをあそびき。


「葦原中国の平定」 2 天若日子 (説話の終わりの部分)

[原文] 此時阿遲志貴高日子根神 〔自阿下四字以音。〕 到而、弔天若日子之喪時、自天降到、天若日子之父、亦其妻、皆哭云、我子者不死有祁理。〔此二字以音。下效此。〕 我君者不死坐祁理云、取‐懸手足而哭悲也。其過所‐以者、此二柱神之容姿、甚能相似。故是以過也。於是阿遲志貴高日子根神、大怒曰、我者愛友故弔來耳。何吾比穢死人云而、拔所御佩之十掬劒、切‐伏其喪屋、以足蹶離遣。此者在美濃國藍見河之河上、喪山之者也。其持所切大刀名、謂大量、亦名謂神度劒。〔度字以音。〕 故、阿治志貴高日子根神者、忿而飛去之時、其伊呂妹高比賣命、思顯其御名。故、歌曰、

阿米那流夜 淤登多那婆多能 宇那賀世流 多麻能美須麻流 美須麻流邇 阿那陀麻波夜 美多邇 布多和多良須 阿治志貴多迦 比古泥能迦微曾也。

此歌者、夷振也。

(頭注)

阿遲志貴高日子根神

前に見えた阿遅鉏高日子根神と同神であろうが、鉏(スキ)のキは甲類の仮名であるのに、志貴の貴は乙類である。志貴は磯城の意か。かように音韻が異なっているのは、資料が異なるためか、音が変化したものか、なお考うべきであろう。

我君

私の夫(おっと)。

愛友故弔來耳

親友だからこそ、くやみに来たのだ。

蹶離遣

蹴放ち遣った。

大量

書紀には大葉刈(オホハガリ)とある。名義未詳。

神度劒

名義未詳。

伊呂妹

同腹の妹。

思顯其御名

兄の御名をあらわし知らせようと思った。書紀には「時味耜高彦根神、光儀花艶、映于二丘二谷之間。故喪会者歌之曰、〔或云、味耜高彦根神之妹下照媛、欲令衆人知映丘谷者、是味耜高日子根神。故歌之曰〕」とある。

阿米那流夜

天上界にいる。「や」は感動の助詞。

淤登多那婆多能

うら若い機織女が。タナバタはタナバタツメの略。ただし織女星とは関係は無い。

宇那賀世流

頸にかけていらっしゃる。

多麻能美須麻流

一本の緒に貫き統べた首飾りの玉。

美須麻流邇 阿那陀麻波夜

一本の緒に貫き統べた穴玉よ、ああ。「はや」は感動の助詞。穴玉は穴をあけた玉の意であろう。以上は次の譬喩。その穴玉のように。

美多邇

「み」は接頭語。谷。

布多和多良須

二つにお渡りになる。二つに渡って照り輝いていらっしゃる。二つの谷をも同時に照らす電光を讃嘆したもので、阿遅鉏高日子根神は雷神である。

夷振

歌曲の名称で、田舎風の歌曲の意。


[訓み下し文] 此の時、阿遲志貴高日子根の神 〔阿より下の四字は音を以ゐよ。〕 到て、天の若日子の喪を弔ひたまふ時に、天より降り到つる天の若日子の父、亦其の妻、皆哭きて云ひしく、「我が子は死なずて有り祁理。〔此の二字は音を以ゐよ。下は此れに效へ。〕 我が君は死なずて坐し祁理。」と云ひて、手足に取り懸りて哭き悲しみき。其の過ちし所以は、此の二柱の神の容姿、甚能く相似たり。故是を以ちて過ちき。是に阿遲志貴高日子根の神、大く怒りて曰ひしく、「我は愛しき友なれこそ弔ひ來つれ。何とかも吾を穢き死人に比ぶる。」と云ひて、御佩せる十掬劒を拔きて、其の喪屋を切り伏せ、足以ちて蹶ゑ離ち遣りき。此は美濃の國の藍見河の河上の喪山ぞ。其の持ちて切れる大刀の名は、大量と謂ひ、亦の名は神度の劒 〔度の字は音を以ゐよ。〕 と謂ふ。故、阿治志貴高日子根の神は、忿りて飛び去りし時、其の伊呂妹、高比賣の命、其の御名を顯さむと思ひき。故、歌ひしく、

天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に 穴玉はや み谷 二渡らす 阿治志貴高 日子根の神ぞ。

とうたひき。此の歌は夷振なり。


(ふりがな文) このとき、あぢしきたかひこねのかみ 〔あよりしものよもじはこゑをもちゐよ。〕 きて、あめのわかひこのもをとぶらひたまふときに、あめよりおりきつるあめのわかひこのちち、またそのめ、みななきていひしく、「わがこはしなずてありけり。〔このふたもじはこゑをもちゐよ。しもはこれにならへ。〕 わがきみはしなずてましけり。」といひて、てあしにとりかかりてなきかなしみき。そのあやまちしゆゑは、このふたはしらのかみのかたち、いとよくあひにたり。かれここをもちてあやまちき。ここにあぢしきたかひこねのかみ、いたくいかりていひしく、「あはうるはしきともなれこそとぶらひきつれ。なにとかもあをきたなきしにびとにくらぶる。」といひて、はかせるとつかつるぎをぬきて、そのもやをきりふせ、あしもちてくゑはなちやりき。こはみののくにのあゐみかはのかはかみのもやまぞ。そのもちてきれるたちのなは、おほはかりといひ、またのなはかむどのつるぎ 〔どのもじはこゑをもちゐよ。〕 といふ。かれ、あぢしきたかひこねのかみは、いかりてとびさりしとき、そのいろも、たかひめのみこと、そのみなをあらはさむとおもひき。かれ、うたひしく、

あめなるや おとたなばたの うながせる たまのみすまる みすまるに あなだまはや みたに ふたわたらす あぢしきたか ひこねのかみぞ。

とうたひき。このうたはひなぶりなり。

〔日本古典文学大系『古事記 祝詞』(pp. 108-119) 〕

アヂスキタカヒコネの〈大葉刈〉の〔本文〕


○ 「鳥上之峯 / 簸川上」のページの最後、日本書紀の一書から、アヂスキタカヒコネにまつわる神話を参照していた(「神代下 第九段一書〔第一〕」)のだけれども、日本書紀の本文(正文)のほうに〈大葉刈〉の記述がある。キサリモチとハハキモチについては「川鴈を以て、持傾頭者及び持帚者とし」等と、記録されている。


日本古典文学大系『日本書紀 上』

日本書紀 卷第二

「神代下 第九段〔本文〕」

[原文] 故高皇產靈尊、更會諸神、問當遣者。僉曰、天國玉之子天稚彥、是壯士也。宜試之。於是、高皇產靈尊、賜天稚彥天鹿兒弓及天羽羽矢以遣之。此神亦不忠誠也。來到卽娶顯國玉之女子下照姬、〔亦名高姬、亦名稚國玉。〕 因留住之曰、吾亦欲馭葦原中國、遂不復命。是時、高皇產靈尊、怪其久不來報、乃遣無名雉伺之。其雉飛降、止於天稚彥門前所植 〔植、此云多底婁。〕 湯津杜木之杪。〔杜木、此云可豆邏。〕 時天探女 〔天探女、此云阿麻能左愚謎。〕 見、而謂天稚彥曰、奇鳥來居杜杪。天稚彥、乃取高皇產靈尊所賜天鹿兒弓・天羽羽矢、射雉斃之。其矢洞達雉胸、而至高皇產靈尊之座前也。時高皇產靈尊、見其矢曰、是矢、則昔我賜天稚彥之矢也。血染其矢。蓋與國神相戰而然歟。於是、取矢還投下之。其矢落下、則中天稚彥之胸上。于時、天稚彥、新嘗休臥之時也。中矢立死。此世人所謂、反矢可畏之緣也。天稚彥之妻下照姬、哭泣悲哀、聲達于天。是時、天國玉、聞其哭聲、則知夫天稚彥已死、乃遣疾風、擧尸致天。便造喪屋而殯之。卽以川鴈、爲持傾頭者及持帚者、〔一云、以鷄爲持傾頭者、以川鴈爲持帚者。〕 又以雀爲春女。〔一云、乃以川鴈爲持傾頭者、亦爲持帚者。以鴗爲尸者。以雀爲春者。以鷦鷯爲哭者。以鵄爲造綿者。以烏爲宍人者。凡以衆鳥任事。〕 而八日八夜、啼哭悲歌。先是、天稚彥在於葦原中國也、與味耜高彥根神友善。〔味耜、此云婀膩須岐。〕 故味耜高彥根神、昇天弔喪。時此神容貌、正類天稚彥平生之儀。故天稚彥親屬妻子皆謂、吾君猶在、則攀牽衣帶、且喜且慟。時味耜高彥根神、忿然作色曰、朋友之道、理宜相弔。故不憚汚穢、遠自赴哀。何爲誤我於亡者、則拔其帶劒大葉刈、〔刈、此云我里。亦名神戶劒。〕 以斫仆喪屋。此卽落而爲山。今在美濃國藍見川之上喪山是也。世人惡以生誤死、此其緣也。

(頭注)

天國玉

記に天津国玉神。玉は、魂。クニタマは、国土を経営するに功あり、国土を守る神。

天稚彥

ワカは、若い意。ヒコは、立派な男子。この ㈠ 天稚彦を遣わす話、㈡ 返し矢で稚彦の死ぬ話、及び ㈢ 味耜高彦根神の話は一連のものとして第一の一書にも記にも見える。第六の一書は ㈢ を欠く。➝補注2-四。

天鹿兒弓

鹿児を射る大きい弓。天の波士弓に同じ。

天羽羽矢

羽羽は、大蛇。➝一二六頁注九。大蛇のような威力のある矢。

(一二六頁注九)天蠅斫之劒

蠅(ハヘ)の古形はハハと推定される。ハハは、蛇。古語拾遺に「天十握剣、其名、天羽羽斬。今在石上神宮。古語大蛇、謂之羽羽」とある。ハハはハブ、ヘミなどと同根の語。蠅をハハと認めうるのは、sakë ➝ saka(酒)、amë ➝ ama(雨)、takë ➝ taka(竹)などの類例により、FaFë ➝ FaFa(蠅)と考えるのである。

顯國玉(之女子)

大己貴神の別名。~~。記にも大国主神の女、下照比売とあるが、第一の一書ではただ国神の女子とする。

下照姬

シタは、赤い色。赤く美しく照る意。記に「大国主神、胸形の奥津宮に坐す神、多紀理毗売命を娶して生める子は、阿遅鉏高日子根神。次に妹高比売命。亦の名は下光比売命」とある。第一の一書の或曰に味耜高彦根神の妹とする。

無名雉

雉は、使者として登場する鳥。記に「雉、名は鳴女」。

湯津杜木

ユは斎、神聖の意。忌ムのイと同じ。ツは助詞のノにあたる。杜木は、カツラ。多く門前に植えた。天神の降下する際に、カツラの木に降下し、またカツラの側に立つことが多い。杜は、説文に「甘棠(やまなし)」、爾雅に「杜、赤棠、自者棠〈棠色異、異其名〉」「杜、甘棠〈今之杜梨〉」とあり、名義抄にはユヅリハの訓がある。杜木をカツラと訓むのは、桂と杜との誤用によるらしい。甘棠とは別のもの。

杪は、名義抄にコズヱ・スヱとある。

反矢可畏之緣也

こちらで射た矢を敵に拾われると、矢の持つサチ(霊力)をとられ、それを射返されると必ずこちらに中って大害をうけるので、それを忌むべしという意であろう。

喪屋

屍を収めて葬儀を行う場所。

死去から葬送までの間の葬儀。

以川鴈、爲持傾頭者及持帚者

記に「河雁為岐佐理持、鷺為掃持」。

持帚者

記では「鷺為掃持」。葬送の後に喪屋を掃く箒を持つ者。

尸者

尸は屍の原字。祖先を祭るとき、神霊の代りに立って祭りを受ける者。形代(かたしろ)。モノは、精霊。マサは、マス(座)の名詞形。精霊のいる所の意が原義。ナフ(綯)➝ナハ(繩)、ツク(築く)➝ツカ(塚)などと同じ造語法。神代紀口訣に「尸者、着死衣而謁弔」とあり、私記に「死人尓可巴利氐、毛乃久良不人」とあるのも参考となる。

宍人者

私記に「包丁之類也」とあり、死人に食を具える役。

以衆鳥任事

鳥がこのような役を負っているのは、人間の魂は死後、鳥に移るという信仰が当時存在したからであろう。➝補注2-六。

味耜高彥根神

➝補注2-八。

友善

ウルハシは、友人との交際がきちんと整って立派であるに使う形容詞。

攀牽衣帶

味耜高彦根に取りついた様子。攀は、ものにとりすがる、つかまる意。

大葉刈

ハは刃、カリは刀であろう。朝鮮語で刀を kal という。大きな刃の刀。

神戶劒

記に神度剣とあり、度は音で訓めと注がある。出雲風土記の神門郡から出る剣の意か。或いは、神度剣は、大葉刈の例から推せば、カムハカリノツルギと訓むべきではないか。度はハカルと訓む。それを書写して伝承するうちに、誤読してカムドノツルギとしたものであるかもしれない。或いはカムは称辞、ドは鋭(ト)の意かもしれない。

落而爲山

高天原から、葦原中国に落ちる意。高天原から落ちて成った山には、天香具山、伊予国の天山、丹後国の天梯立などがある。

今在美濃國藍見川之上喪山是也

岐阜県武儀郡藍見村(今、美濃市極楽寺・神笠付近)を流れる川。記にも「在美濃国藍見河之河上」。喪山は、この付近の山という。


[訓み下し文] 故、高皇產靈尊、更に諸神を會へて、當に遣すべき者を問はせたまふ。僉曰さく、「天國玉の子天稚彥、是壯士なり。試みたまへ」とまうす。是に、高皇產靈尊、天稚彥に天鹿兒弓及び天羽羽矢を賜ひて遣す。此の神、亦忠誠ならず。來到りて卽ち顯國玉の女子下照姬 〔亦の名は高姬、亦の名は稚國玉。〕 を娶りて、因りて留住りて曰はく、「吾亦葦原中國を馭らむと欲ふ」といひて、遂に復命さず。是の時に、高皇產靈尊、其の久報に來ざることを怪びて、乃ち無名雉を遣して、伺しめたまふ。其の雉飛び降りて、天稚彥が門の前に植てる 〔植、此をば多底婁と云ふ。〕 湯津杜木の杪に止り。〔杜木、此をば可豆邏と云ふ。〕 時に天探女 〔天探女、此をば阿麻能左愚謎と云ふ。〕 見て、天稚彥に謂りて曰はく、「奇しき鳥來て杜の杪に居り」といふ。天稚彥、乃ち高皇產靈尊の賜ひし天鹿兒弓・天羽羽矢を取りて、雉を射て斃しつ。其の矢雉の胸を洞達りて、高皇產靈尊の座します前に至る。時に高皇產靈尊、其の矢を見して曰はく、「是の矢は、昔我が天稚彥に賜ひし矢なり。血、其の矢に染れたり。蓋し國神と相戰ひて然るか」とのたまふ。是に、矢を取りて還して投げ下したまふ。其の矢落ち下りて、則ち天稚彥が胸上に中ちぬ。時に、天稚彥、新嘗して休臥せる時なり。矢に中りて立に死ぬ。此世人の所謂る、反矢畏むべしといふ緣なり。

天稚彥が妻下照姬、哭き泣ち悲哀びて、聲天に達ゆ。是の時に、天國玉、其の哭ぶ聲を聞きて、則ち夫の天稚彥の已に死れたることを知りて、乃ち疾風を遣して、尸を擧げて天に致さしむ。便ち喪屋を造りて殯す。卽ち川鴈を以て、持傾頭者及び持帚者とし、〔一に云はく、鷄を以て持傾頭者とし、川鴈を以て持帚者とすといふ。〕 又雀を以て春女とす。〔一に云はく、乃ち川鴈を以て持傾頭者とし、亦持帚者とす。鴗を以て尸者とす。雀を以て春者とす。鷦鷯を以て哭者とす。鵄を以て造綿者とす。烏を以て宍人者とす。凡て衆の鳥を以て任事す。〕 而して八日八夜、啼び哭き悲び歌ぶ。

是より先、天稚彥、葦原中國に在りしときに、味耜高彥根神と友善しかりき。〔味耜、此をば婀膩須岐と云ふ。〕 故、味耜高彥根神、天に昇りて喪を弔ふ。時に、此の神の容貌、正に天稚彥が平生の儀に類たり。故、天稚彥が親屬妻子皆謂はく、「吾が君は猶在しましけり」といひて、則ち衣帶に攀ぢ牽り、且喜び且慟ふ。時に味耜高彥根神、忿然作色して曰はく、「朋友の道、理相弔ふべし。故、汚穢しきに憚らずして、遠くより赴き哀ぶ。何爲れか我を亡者に誤つ」といひて、則ち其の帶劒かせる大葉刈 〔刈、此をば我里と云ふ。亦の名は神戶劒。〕 を拔きて、喪屋を斫り仆せつ。此卽ち落ちて山と爲る。今美濃國の藍見川之上に在る喪山、是なり。世人、生を以て死に誤つことを惡む、此其の緣なり。


(ふりがな文) かれ、たかみむすひのみこと、さらにもろかみたちをつどへて、まさにつかはすべきものをとはせたまふ。みなまうさく、「あまつくにたまのこあめわかひこ、これたけきひとなり。こころみたまへ」とまうす。ここに、たかみむすひのみこと、あめわかひこにあまのかごゆみおよびあまのははやをたまひてつかはす。このかみ、またまめならず。いたりてすなはちうつしくにたまのむすめしたでるひめ 〔またのなはたかひめ、またのなはわかくにたま。〕 をとりて、よりてとどまりていはく、「われまたあしはらのなかつくにをしらむとおもふ」といひて、つひにかへりことまうさず。このときに、たかみむすひのみこと、そのひさひさかへりことまうしにまうこざることをあやしびて、すなはちななしきぎしをつかはして、みしめたまふ。そのきぎしとびおりて、あめわかひこがかどのまへにたてる 〔たてる、これをばたてるといふ。〕 ゆつかつらのすゑにをり。〔かつら、これをばかつらといふ。〕 ときにあまのさぐめ 〔あまのさぐめ、これをばあまのさぐめといふ。〕 みて、あめわかひこにかたりていはく、「めづらしきとりきてかつらのすゑにをり」といふ。あめわかひこ、すなはちたかみむすひのみことのたまひしあまのかごゆみ・あまのははやをとりて、きぎしをいてころしつ。そのやきぎしのむねをとほりて、たかみむすひのみことのましますみまへにいたる。ときにたかみむすひのみこと、そのやをみそなはしてのたまはく、「このやは、むかしわがあめわかひこにたまひしやなり。ち、そのやにぬれたり。けだしくにつかみとあひたたかひてしかるか」とのたまふ。ここに、やをとりてかへしてなげおろしたまふ。そのやおちくだりて、すなはちあめわかひこがたかむなさかにたちぬ。ときに、あめわかひこ、にひなへしてねふせるときなり。やにあたりてたちどころにしぬ。これよのひとのいはゆる、かへしやいむべしといふことのもとなり。

あめわかひこがつましたでるひめ、なきいさちかなしびて、こゑあめにきこゆ。このときに、あまつくにたま、そのおらぶこゑをききて、すなはちかのあめわかひこのすでにかくれたることをしりて、すなはちはやちをつかはして、かばねをあげてあめにいたさしむ。すなはちもやをつくりてもがりす。すなはちかはかりをもて、きさりもちおよびははきもちとし、〔あるにいはく、かけをもてきさりもちとし、かはかりをもてははきもちとすといふ。〕 またすずみをもてつきめとす。〔あるにいはく、すなはちかはかりをもてきさりもちとし、またははきもちとす。そびをもてものまさとす。すずみをもてつきめとす。さざきをもてなきめとす。とびをもてわたつくりとす。からすをもてししひととす。すべてもろもろのとりをもてことよさす。〕 しかうしてやかやよ、おらびなきかなしびしのぶ。

これよりさき、あめわかひこ、あしはらのなかつくににありしときに、あぢすきたかひこねのかみとうるはしかりき。〔あぢすき、これをばあぢすきといふ。〕 かれ、あぢすきたかひこねのかみ、あめにのぼりてもをとぶらふ。ときに、このかみのかたち、まさにあめわかひこがいけりしときのよそほひににたり。かれ、あめわかひこがちちははうがらやからめこみなおもはく、「あがきみはしなずなほましましけり」といひて、すなはちころもひもによぢかかり、かつよろこびかつまどふ。ときにあぢすきたかひこねのかみ、いかりおもほてりしていはく、「ともがきのみち、ことわりあひとふべし。かれ、けがらはしきにはばからずして、とほくよりおもぶきかなしぶ。なにすれかわれをしにたるひとにあやまつ」といひて、すなはちそのはかせるおほはがり 〔がり、これをばがりといふ。またのなはかむどのつるぎ。〕 をぬきて、もやをきりふせつ。これすなはちおちてやまとなる。いまみののくにのあゐみのかはかみにあるもやま、これなり。よのひと、いけるひとをもてしにたるひとにあやまつことをいむ、これそのことのもとなり。


補注2

天稚彦(一三五頁注)

アメワカヒコが下照姫と結婚し、新嘗の神床において死ぬ神話は、土居光知・松前健などにより、古代西アジアのタンムーズ神のような、年ごとに死んで復活する穀物神としての性格を物語るものと解されている。つまり、アヂスキ神が訪問し、若日子が復活したと誤認される話は、もともとは事実復活したことの訛伝であると松前は考えている。この名のワカはもとウカであったのではないか。ウカはウカノミタマ(倉稲魂)のウカである。そう考えれば天稚彦は穀神で、もともと、死んで食物として復活する保食神と同じものであったことになる。


鳥と霊魂(一三六頁注)

「北アメリカの種族の中で、Powhatan 族は、ある種の小鳥を害しない。その鳥は彼らの酋長の霊魂を受けているから。また Huron 族では、死者の祭りで、彼らの骨を埋めた後は、その霊魂は山鳩の中に移るという。イロクォイ族は、埋葬の夕方、鳥を放って悲しい儀式をする。それは魂を運ぶようにである。メキシコでは、Tlascalan 族は、死後、貴族の霊魂は美しい歌う鳥に化するが、平民は「いたち」や甲虫(かぶとむし)のような悪い動物になる。ブラジルの Içanna 族は勇者の霊魂はおいしい果実を食する美しい鳥になる」(タイラー、原始文化)。魏志巻三十には、弁韓では人が死ぬと大きな鳥の羽根をもって死者の霊魂を飛揚せしめたとあり、呉越春秋巻四には、英の公主の葬儀に当って鶴の舞が演ぜられたことが出ており、死者を他界に送る儀礼の一つであったと言われる。さらに、インドシナの青銅鼓には鳥形の舟に鳥をかたどった人物の文様が見られ、ゴルーベフは、南ボルネオにおける霊魂を他界に送る舟と比較した。松本信広は、これらの事実にもとづき、記の天鳥船という神名や紀の熊野諸手船のまたの名の天鴿船、さらに天稚彦の葬儀に現われる鳥もすべて、死者の魂を他界につれて行く鳥の観念と関連していると論じ、大林太良もそれに賛成している。


味耜高彦根神(一三七頁注)

アヂは可美の意。美称。スキは、鉏の意で、出雲風土記などにもアヂスキとある。記には志貴とあり、suki と sikï とで、かなりの相違がある。シキは石木または石城の意か。あるいは地名と関係あるか。鉏とシキと交替している例は、大倭日子鉏友命の同母弟に師木津日子命があり、同母の豊城入日子命と、豊鉏入日女命とがある。なお考うべき問題である。タカヒコネは、高日子根で称え名。

〔日本古典文学大系『日本書紀 上』(pp. 135-138, p. 567, p. 568) 〕

◎ 日本書紀には「下照媛」の兄として、

◎ 出雲国風土記に「大神大穴持命御子 阿遲須枳高日子命」

と記録された〈アヂスキタカヒコネ〉は、

◎ 古事記で「阿遲鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也」と伝えられている。


その所持する十握剣を〈大葉刈〉といい、また〈神度剣〉ともいう。


と、かつて「鳥上之峯 / 簸川上」のページ の最後に書いた。


◎ 出雲国風土記に記録された〈阿遅須枳高日子命〉の〝泣いてばかりで、ものいわぬ御子〟の物語は、古事記と日本書紀に垂仁天皇の〝ものいわぬ皇子〟の物語として、記述されている。

―― 鳥取部(ととりべ)の名をその記録に留め、または鳥取造(ととりにみやつこ)賜姓の縁起譚ともなった記紀神話の内容は、あらためて参照するとして、アヂスキタカヒコネの〈神度剣〉が喪山を造成することとなった葬送の記事に登場する、掃持(ははきもち)―― 日本書紀では「持帚者(ははきもち)」―― の役割が未だよくわかっていないというのが、いささか気になるところではある。


● そういうわけで、初代の「掃う神(はらうかみ)」に関する資料を探してみた。

The End of Takechan


◈ 平田篤胤の「古史成文〔十九〕」〔『新修 平田篤胤全集 第一巻』(pp. 25-26)、古史成文 一之卷「神代上」〕に、「掃之時成坐神(はらひたまふときになりませるかみ)」という語句があり、その前後の文章が日本書紀「神代上 第五段一書〔第十〕」の記事をもととすることは、「古史徴」〔『新修 平田篤胤全集 第五巻』(p. 295)、古史徵 二之卷下「○ 第十九段」〕に述べられている通りである。


◉ 日本書紀の原文は次回に確認することとして、ここに、平田篤胤の論を「古史伝」から抜粋しておきたい。


『新修 平田篤胤全集 第一巻』

「古史傳」

古史傳 五之卷

〔十九〕於是伊邪那岐命見畏而。吾不意。到伊那志許米伎。汚穢國矣詔而。逃還之時。…… 乃唾之時。成坐神之名。速玉之男神。次掃之時成坐神之名。豫母都事解之男神。亦名謂大事忍男神。凡二神矣。今世人。夜忌燭一火者。此其緣也。

(コヽニイザナギノミコトミカシコミテ。アレオモハズモ。イナシコメキ。キタナキクニニイタリケリトノリタマヒテ。ニゲカヘリマストキニ。…… スナハチツバキタマフトキニ。ナリマセルカミノミナハ。ハヤタマノヲノカミ。ツギニハラヒタマフトキニナリマセルカミノミナハ。ヨモツコトトケノヲノカミ。マタノミナハオホコトオシヲノカミトマヲス。アハセテフタバシラマス。イマモヨノヒト。ヨルヒトツビヲトモスコトヲイムハ。コレソノコトノモトナリ。)


○ 掃之時。此は何を以て、いかにして掃ヒ給へりと云こと、今知べきにあらねど、若は御衣[ミケシ]の袖にて掃[ハラ]ひ給へるならむか。〔其は今も、心よからぬ物を掃ふとては、然爲ることあるを思フべし。〕

〔『新修 平田篤胤全集 第一巻』(p. 296, p. 300) 〕


―― さて。延宝三年 (1675) の写本が残されている「比婆山三所大権現縁起(比婆山三所大權現緣記卷)」に、


所祭神三座、左事解之男神、中伊弉册尊、右速玉之男神。


という記述がある。島根県の〈久米神社〉を、地元では「比婆山さん」とも、呼ぶらしい。


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