神魂(カモス)の神


/ 赤猪の神話

火神岳 : 大山の溶岩


◉ 鳥取県の大山(だいせん)の火山活動について、コンパクトにまとめられた一節がある。


『鳥取県農業と土壌肥料』 Ⅱ 鳥取県の自然と土壌

「1. 気候、地形、地質」(元鳥取大学農学部 飯村康二)

現在最も古い溶岩として側火山の鍔抜山で 0.96 ± 0.03 Ma という K-Ar 年代が得られており、同じく側火山の孝霊山では 0.30 ± 0.03 Ma が得られている。また最も新しいとされる弥山火砕流中の炭化木片について 17.2 ± 0.2 千年前という 14 C 年代が得られている。

〔鳥取県土壌肥料研究会/発行『鳥取県農業と土壌肥料』(p. 16) 〕


―― 国立研究開発法人産業技術総合研究所「地質調査総合センター (GSJ)」の公式ページ

日本の火山」(https://gbank.gsj.jp/volcano/) 内の volcano ― Daisen

にも、およそ 3 千年前とされている火砕流噴火の記録が「補足事項」として掲載されている。


火山の概要・補足事項:

奥野・井上(2012、連合大会予稿集)によって、約3000年前の火砕流噴火(噴出火口は烏ヶ山と弥山の中間付近か?)が指摘されている。

(URL : https://gbank.gsj.jp/volcano/Quat_Vol/volcano_data/H17.html )


○ 上記報告の記録に、PDF で一般公開されている内容があるので、そこから抜粋すれば次のごとくとなる。


(May 20-25 2012 at Makuhari, Chiba, Japan)

©2012. Japan Geoscience Union. All Rights Reserved.


大山火山の完新世噴火

Holocene Eruptions in Daisen Volcano, Western Japan

奥野充、井上剛(福岡大学理学部)

…………

地点 1 の炭化木片から 3110 ± 60 BP が、地点 2 の火山灰層直下の土壌からは 3290 ± 40 BP の 14 C 年代が得られた。両者の年代値はほぼ一致しており、火砕流とその降下テフラであると考えられる。この火砕物の給源は、火砕流地形の分布から烏ケ山と弥山の中間付近である可能性が高い。なお、本研究の AMS 14 C 年代の測定は、(独)日本原子力研究開発機構の施設供用制度を利用したものである。

(URL : http://www2.jpgu.org/meeting/2012/session/PDF_all/S-VC53/SVC53_all.pdf )


◉ この〝約 3000 年前とされている大山の火砕物〟は、人類の記憶として刻まれているのだろうか?

The End of Takechan


いわゆる〝赤猪の神話〟の物語が、古事記に記録されている。

この〝赤猪の神話〟がテーマとなった、青木繁の作品「大穴牟知命」(石橋美術館蔵、1905 年)のことは、前回(「加賀の郷 / 三穂の埼」のページ)の最後にも触れた。


この神話でオホクニヌシの名は、オホナムヂと記されているのだけれど、八十神の下っ端扱いを受けていた彼はその直前の物語〝因幡の白兎〟の展開で、八十神の怒りを買うこととなった。そして〝赤猪の神話〟で八十神はオホナムヂの抹殺をたくらみ、赤く焼けた大石を大山のふもとに落としてそれをオホナムヂに受けとめさせ殺害に成功するのである、が ……。ところがどっこい、さすがは神話の世界! 母神の要請を受けた天上の介入によりオホナムヂはたちどころに生き返ってしまうのだった。

すっとこどっこいとばかりにその後もオホナムヂは八十神に殺されては生き返りを繰り返したあげく、こともあろうについには生きたまま根の国に逃亡することとなる。

―― そのオホナムヂ最初の復活劇に絡むのが、カミムスヒに派遣されたキサガヒヒメとウムギヒメなのだ。


○ 出雲国風土記に描かれた〈神魂命〉の子〈支佐加比売命〉と〈宇武加比売命〉の説話をこれも、前回に確認した〔「出雲国風土記」嶋根郡(加賀郷・ 法吉郷)参照〕。カミムスヒは、カモスの神と同一であるとされているのだけれども、ここで、古事記でそれらの神々が語られているシーンを、確認しておきたい。


日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』

「大国主神 1 稲羽の素兎」

[原文] 故、爲如敎、其身如本也。此稻羽之素菟者也。於今者謂菟神也。故、其菟白大穴牟遲神、此八十神者、必不得八上比賣。雖負帒、汝命獲之。

(頭注)

素菟

記伝に「此菟の白なりしことは、上文に言ずして、此処にしも俄に素菟と云るは、いささか心得ぬ書ざまなり。故思に、素はもしくは裸の義には非じか。若然もあらば、志呂とは訓まじく、異訓ありなむ。人猶考へてよ。」とある。


[訓み下し文] 故、敎の如爲しに、其の身本の如くになりき。此れ稻羽の素菟なり。今者に菟神と謂ふ。故、其の菟、大穴牟遲の神に白ししく、「此の八十神は、必ず八上比賣を得じ。帒を負へども、汝命獲たまはむ。」とまをしき。


(ふりがな文) かれ、をしへのごとせしに、そのみもとのごとくになりき。これいなばのしろうさぎなり。いまにうさぎかみといふ。かれ、そのうさぎ、おほなむぢのかみにまをししく、「このやそかみは、かならずやがみひめをえじ。ふくろをおほへども、いましみことえたまはむ。」とまをしき。


「大国主神 2 八十神の迫害」

[原文] 於是八上比賣、答八十神言、吾者不聞汝等之言。將嫁大穴牟遲神。故爾八十神怒、欲殺大穴牟遲神、共議而、至伯伎國之手間山本云、赤猪在此山。故、和禮 〔此二字以音。〕 共追下者、汝待取。若不待取者、必將殺汝云而、以火燒似猪大石而轉落。爾追下取時、卽於其石所燒著而死。爾其御祖命、哭患而、參‐上于天、請神產巢日之命時、乃遣蟹貝比賣與蛤貝比賣、令作活。爾蟹貝比賣岐佐宜 〔此三字以音。〕 集而、蛤貝比賣待承而、塗母乳汁者、成麗壯夫 〔訓壯夫云袁等古。〕 而出遊行。

(頭注)

於是八上比賣

前文との接続が少し唐突であるが、八十神や大穴牟遅神の求婚のことを省略したのであろう。

伯伎國之手間山本

和名抄に伯耆国会見郡天万郷とある。ここの山の麓。天万郷は出雲との国境附近にある。

和禮

我。記伝にワレドモと下の共の字に続けて訓んでいるが、ワレ、トモニと訓むべきである。

追下者

記伝にオヒクダリナバと訓んでいるが、猪を追いおろしたらの意に解すべきであろう。

汝待取

山の下で待ちうけて捕えよの意。

御祖命

御母。ここは刺国若比売を指す。

蟹貝比賣

蟹〔引用注:「蟹」の文字は原文では「螱」の「尉」の個所を「討」に置き換えた文字〕は字書に見えない字である。記伝には蚶の誤りとしている。蚶は和名抄に「岐佐」とあるようにキサガイ、今の赤貝のことである。これを擬人化してヒメと言ったのである。

蛤貝比賣

和名抄には海蛤を「宇无岐乃加比」と訓んでいる。今のハマグリ。

令作活

治療して復活させられた。

岐佐宜

こそ(刮)ぐと同じで、けずりおとす意。北九州の方言ではコサグという。

塗母乳汁者

記伝にはオモノチシルトと訓み、「母乳汁を塗如くに塗しなり。」と説いているが、蛤の出す汁が母の乳汁に似ているのでそういったのであって、集めた貝殻の粉を蛤の汁(母の乳汁)でといて塗ったのである。火傷に対する古代民間療法の一。


[訓み下し文] 是に八上比賣、八十神に答へて言ひしく、「吾は汝等の言は聞かじ。大穴牟遲の神に嫁はむ。」といひき。故爾に八十神怒りて、大穴牟遲の神を殺さむと共に議りて、伯伎の國の手間の山本に至りて云ひしく、「赤き猪此の山に在り。故、和禮 〔此の二字は音を以ゐよ。〕 共に追ひ下しなば、汝待ち取れ。若し待ち取らずば、必ず汝を殺さむ。」と云ひて、火を以ちて猪に似たる大石を燒きて、轉ばし落しき。爾に追ひ下すを取る時、卽ち其の石に燒き著かえて死にき。爾に其の御祖の命、哭き患ひて、天に參上りて、神產巢日之命に請しし時、乃ち蟹貝比賣と蛤貝比賣とを遣はして、作り活かさしめたまひき。爾に蟹貝比賣、岐佐宜 〔此の三字は音を以ゐよ。〕 集めて、蛤貝比賣、待ち承けて、母の乳汁を塗りしかば、麗しき壯夫 〔壯夫を訓みてヲトコと云ふ。〕 に成りて、出で遊行びき。


(ふりがな文) ここにやがみひめ、やそかみにこたへていひしく、「あれはいましたちのことはきかじ。おほなむぢのかみにあはむ。」といひき。かれここにやそかみいかりて、おほなむぢのかみをころさむとともにはかりて、ははきのくにのてまのやまもとにいたりていひしく、「あかきゐこのやまにあり。かれ、われ 〔このふたもじはこゑをもちゐよ。〕 ともにおひおろしなば、なれまちとれ。もしまちとらずば、かならずなれをころさむ。」といひて、ひをもちてゐににたるおほいしをやきて、まろばしおとしき。ここにおひおろすをとるとき、すなはちそのいしにやきつかえてしにき。ここにそのみおやのみこと、なきうれひて、あめにまゐのぼりて、かみむすひのみことにまをししとき、すなはちきさがひひめとうむぎひめとをつかはして、つくりいかさしめたまひき。ここにきさがひひめ、きさげ 〔このみもじはこゑをもちゐよ。〕 あつめて、うむぎひめ、まちうけて、おものちしるをぬりしかば、うるはしきをとこ 〔をとこをよみてヲトコといふ。〕 になりて、いであそびき。

〔日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』(pp. 92-95) 〕


赤猪の神話 / 清水井


○ 伯耆大山の地元鳥取県内の自治体から 1975 年に発行された『西伯町誌』に〝赤猪の神話〟の項があり、その記述内容の一部には『伯耆志』からの引用文がある。『伯耆志』は幕末の頃に書かれた地誌である。『西伯町誌』と合わせて『伯耆志』からも、『西伯町誌』に引用された、その前半部を直接引用しておく。

―― なお安政五年 (1858) の完成であるともいわれる『伯耆志』の編集者、景山粛(字は雍卿・号は仙嶽・通称は立碩)は、安永三年 (1774) に生まれ、文久二年 (1862) に没したと伝えられる。『伯耆志』の引用に際して底本は大正年間に活字化されその後 1982 年に覆刻刊行された版を用いた。

〔※『伯耆志』からの直接引用文での「蟹」の文字は、底本では「討+虫」を一文字に組み合わせた形〕


『西伯町誌』

第二編 歴史「第一章 原始・古代の社会」

赤猪の神話

神話は事実そのものではない、郷土の神話には古事記と旧事本紀に取りあげられた「手間の赤猪」があり、その内容は史実そのものではない。しかしそれは全然仮空といってよいものか、解釈はどうあろうとも古事記などには「そのように書かねばならない」理由があり素材があったとみねばならない。又古事記の編集された奈良時代以前にその素材ができていたことも疑いない。その上赤猪神話の場が「伯耆国の手間の山本」とあることにも注目せねばならぬ。八世紀以前に郷土に「書かねばならぬ理由と素材」のあったことも無視できない。手間とはいうまでもなく隣町会見町の旧郷名であり、赤猪神話の伝承地が本町の清水川にもあることは重視せねばならぬ。旧事本紀(旧事紀)巻四に次の文がある。


斯[こ]れ(白兎のこと)によって事八十神、急[と]く大己貴[おおなむぢ]神を殺さむと欲[おも]ひ、共に議りて、伯耆国の手間の山本に至りていひけるは、赤猪[い]此の山にあるなり、故[か]れ我ども追い下りなば汝待ち取れ、若し待ち取らずば必ず汝を殺さむと云ひい、火もて猪に似たる大石を焼きて、転[ころば]し落しき、かれ追い下り取りたまう時、即ち其石に焼[や]き著[つ]かえて死[みう]せたまいき、ここにその御祖命[みおやのみこと]泣き患[うれ]えて、天に参り上りて、神皇産霊尊[かみむすびのみこと]に請したまう時に、すなはち「きさがいひめ」と「うむがいひめ」とを遣[おこ]せて、作り活かさしめたまう、かれ「きさがいひめ」きさげ焦し、「うむがいひめ」侍[はべ]りうけて、母の乳汁を塗りしかば、麗しき牡夫[おとこ]になりて出で遊行[ある]きき。


これは古事記もほゞ同文である。この説話は以前には大国主の苦難の物語として、手間の遭難とされ、因幡の白兎につゞく史実のように語られていた。現在では「赤貝の汁をしぼって蛤の貝に受け入れて母の乳汁として塗った古代の火傷の療法である(武田祐吉角川文庫版古事記)という論もある。

(清水川の伝説)伯耆志に次のようにかいているから幕末にも伝説はのこっていたとみていい。


「清水川村、おば御前、社はないが村の中の山につゞいた小さな林の名である。昔は社もあったか、「きさがいひめ」「うむがいひめ」を祭るという伝説は次のようである、泉があるがそれはおば御前の隣で人家に近く、周り五間ばかりの浅い井である。上に椋の木ありこの村の名はこの泉によってできた。土地の人々の話では「きさがいひめ」「うむがひめ」が「おおなむちのみこと」を蘇生させ給いし時あの貝の粉を此水に和して塗られたという。この話を知らないものも名水とたたえるのはもともと神話の地だからである。水の色が少し白味をおびていて蛤水に似ている。この話は古事記にある。一説ではこの水でねったのでなく蛤の水の余りを捨てたのがこゝの井だという。百日の旱魃にもかれることがない、その故に隣に「おばごぜん」を祭るのである。ああ、一掬してみると大古の事がしのばれる。美しく、不思議なことであるのに、村民は便利にまかせて洗いものに使っている歎げかわしい」と。

〔『西伯町誌』(pp. 48-49) 〕


『伯耆志』

「會見郡 五」

○ 淸水川村

於婆御前 [オバゴゼン](無社) 村中山に屬きたる小林の名なり昔は社もありしにや蟹貝比賣蛤貝比賣を祭ると云へり次に傳を記す

淸泉 右の林の西人家の傍に在りて周五間許の淺井なり(原本此處圖あり今之を省略す)上に椋の木あり當村の名此水に因れり土人の傳に蟹貝比賣蛤貝比賣大己貴命を蘇生せしめ給ひし時彼の貝の粉を此水に和して塗らせ給ひしなりと云へり(此處に村の圖あり)……

〔『伯耆志』(p. 254) 〕


◉ この伝承が〝約 3000 年前とされている大山の火砕物〟の、人類の記憶であるとしても、検証は不可能だ。

The End of Takechan

渡 来 〈神〉


○ さて日本語の「神」は、古代の朝鮮から渡来した言葉に由来するという論がある。


『物部氏の伝承』

第一章 物部氏と物部連

「可美」とは「검」(剣)のことである

朝鮮語では、刀剣類を次のように呼ぶ。


검 kəːm 剣・刀

칼 khal 剣・刀・包丁・小刀


まず後者の「칼」。これは「クㇵール」「カハル」「カル」と訓むと、『豊前国風土記』の逸文に見られる「鹿春」とか、大和に多い「軽」の地名が直ぐに思い出されるであろう。すなわち、


豊前国風土記に曰く。田河郡[タガハノコホリ]。鹿春郷[カハルノサト]。…… 中略 …… 昔者[むかし]、新羅[シラギ]の国の神、自[ミヅカ]ら度[ワタ]り到来[キタ]りて、此の河原[カハラ]に住[ス]みき。便即[スナハ]ち、名づけて鹿春[カハル]の神と曰[イ]ふ。又[マタ]、郷の北に峯あり。頂に沼あり。〔周[メグ]り卅六歩ばかりなり。〕 黄楊樹生[ツゲノキオ]ひ、兼[マタ]、龍骨[タツノホネ]あり。第二[ツギ]の峯には銅[アカガネ]、幷[ナラ]びに黄楊[ツゲ]、龍骨等[タツノホネドモ]あり。第三[ツギ]の峯には龍骨あり。(宇佐宮託宣集)


と見られ、豊前国の香春神社と香春岳山麓の香春採銅所にその名を遺している「鹿春」とは、新羅系の鍛冶神「칼」、すなわち銅剣の霊そのものを意味する渡来系の神の名に由来することが分かる。この「鹿春」の転訛したものが、「軽」なのである。

前者の「검」。これはすぐ分かるだろう。本来は「剣」の中国語音 〔chien〕 にもとづくのであろうが、われわれが「ケン」と呼んでいるものを、朝鮮語では「검」〔kəːm〕 と呼ぶ。その古代語音がどうだったかは知らないが、それが古代日本に入って、


可牟佐夫流 安良都能左伎 カムサブル アラツノサキ (第三六六〇番)

可美佐夫流 伊古麻多可禰 カミサブル イコマタカネ


などの「可牟」「可美」となったと思われる。子音で終わる朝鮮語とは違い、母音がついて開音化する特徴をもつ日本語では、子音「ㅁ」〔m〕 に母音 〔u〕 がついて「可牟[カム]」、母音 〔i〕 がついて「可美[カミ]」となった。その過程をよく示す表記が「甘美」〔kəm-mi〕 なのではなかろうか。そして、神を「カム」「カミ」と呼ぶ古語が、鍛冶神信仰に起源していることを示唆するようである。

朝鮮語では神を、


하느님 hanẅnim 神・主

신 sin 神

귀신 kyːsin 鬼神・霊・神・精霊

령흔 rjəŋhon 霊魂・魂(みたま)


という。あとの三者は、漢語からきたものであることは明白。朝鮮語本来のものは、最初の「하느님」であろう。「님」〔nim〕 は接尾語で、…… さま、…… 殿、…… さん、という敬称用語であるから、語の本体は「하느」〔hanẅ〕 にある。とすれば、これは、


하늘 〔hanẅl〕 空・天


から「ㄹ」〔r • l〕 の音が脱落したものと見なしてよい(朝鮮語ではこの「ㄹ」音の絶音現象が多い)。つまり、朝鮮語では神は「天」そのものであり、日本の庶民的信仰にある「お天とうさま」に近いものなのである。

したがって、日本語における「カミ(神)」は、絶対に朝鮮語における「하 늘 님〔ha nẅ(l) nim〕(天さま)」からきたものではない。「カミ」という日本語は、「검」〔kəːm〕、すなわち「剣」を神霊とする鍛冶王的な首長によって持ちこまれたものであり、軍事的に征服戦争をくりひろげたヤマト大王権の発展過程で生み出され作り上げられていった古語だと思われる。

ついでながら、私の推測を述べておくと、「甘南備[カムナビ]」は、


검〔kəːm〕(剣)・날〔nal〕(刃)・빛〔pit〕(光)―➝ 검・나・비〔kəːm • na • bi〕


と転訛したものであり、神秘な光を放つ剣の金属呪力を信仰した古代人の「韴霊[フツノミタマ]」信仰を示す古語であり、鍛冶神の霊力・神威を表象するものであったようである。

以上のような視座に立って、私は、可美真手命[ウマシマテノミコト]や甘美韓日狭[ウマシカラヒサ]など「可美」「甘美」は、その聖なる神威からやがて美称的な「ウマシ」と訓みかえられるようになったのであろうが、本来は「韴霊」と同義の「검」〔kəːm〕(剣)の表音表記だと結論したい。


검 [カム] と줄기 [ツルギ] …… 神・剣・山・柱

ところで、朝鮮語では、


산줄기 san-tʃulgi 山脈

물줄기 mul-tʃulgi 水柱


という。「산」〔san〕 は山、「물」〔mul〕 は水、そして「줄기」〔tʃulgi〕 は、幹・茎・柱という意味である。形容語尾「차다」〔tʃhada〕 がついて「줄기차다」〔tʃulgi-tʃhada〕 といえば、「雄々しい・力強い」の意になる。雄大な立山連峯は確かに、


줄기 tʃulgi ツルギ


と呼ぶにふさわしい。霊峯剣岳はことにそうだ。私がここで何を言おうとしているのか、読者にはもうお分かりであろう。そう。日本語の「ツルギ(剣)」は、朝鮮語の「줄기」〔tʃulgi〕 からきているのである。家持が立山を「多知夜麻[タチヤマ]」(大刀山)と呼んでいるのも故なしとしない。

剣と山と神と柱、ここで阿波国の名峯剣山を引き合いに出して付け加えずとも、「줄기 ツルギ」がこの日本でどのような古代信仰と結びついているのか、もう説明を要するまい。剣と神とを意味した「검 カム」〔kəːm〕―― その最も古い神が鴨(賀茂)の神だったかも知れぬ ――、そして剣と山と神と柱を意味した「줄기 ツルギ」〔tʃulgi〕―― 神を一柱[ヒトハシラ]・二柱と数える所以も説明不要 ――、この二つの朝鮮語系ヤマト古語のなかにこそ古代人の信仰が秘められている、と私は信じて疑わない。

〔畑井弘/著『物部氏の伝承』(pp. 51-55, pp. 56-57) 〕


◉ ここ(上記引用文中)に非常に興味深い表現がある。すなわち、次の個所である。


ついでながら、私の推測を述べておくと、「甘南備[カムナビ]」は、

검〔kəːm〕(剣)・날〔nal〕(刃)・빛〔pit〕(光)―➝ 검・나・비〔kəːm • na • bi〕

と転訛したものであり、神秘な光を放つ剣の金属呪力を信仰した古代人の「韴霊[フツノミタマ]」信仰を示す古語であり、鍛冶神の霊力・神威を表象するものであったようである。


○ エリアーデの著作に、鍛冶師について印象的な次の記述があることを添えておこう。


Mircea Eliade, Forgerons et Alchimistes,

Collection ‘Homo Sapiens’ Paris, Flammarion, 1956

エリアーデ著作集 第五巻『鍛冶師と錬金術師』

第八章 「火の親方」

シャーマンと同じく鍛冶師は「火の親方」であると見られていた。それで或る文化においては鍛冶師はシャーマンより上位ではないにせよ同等であると考えられている。「鍛冶師とシャーマンは同じ巣からやってくる」とヤクート族の俚諺はいっている。「シャーマンの妻は尊敬すべきであり、鍛冶師の妻は尊崇すべきである」ともう一つの俚諺はいっている(5)。……

原注

(5) Le Chamanisme, p. 327. after R. F. Fortune, Sorcerers of Dobu (London, 1932), p. 408.

〔ミルチャ・エリアーデ/著『鍛冶師と錬金術師』(p. 95) 〕


The End of Takechan


◎ 神魂(カモス)の神 ――〈神魂命〉については「八束脛(八掬脛)」のページ で、〈神魂命十三世孫八束脛命〉として、『新撰姓氏録』の解説文を参照している。該当する記述をここに再掲しておく。


『新撰姓氏錄の硏究 考證篇 第三』 〔佐伯有淸/著〕

第十二 考証新撰姓氏録(第十二巻 左京神別中)


〔二一八-三八〇〕

県犬養宿禰。神魂命の八世孫、阿居太都命の後なり。

(あがたのいぬかひのすくね。かみむすびのみことのやつぎのひこ、あけたつのみことのすゑなり。)


県犬養宿禰

県犬養の氏名は、県を守衛する犬養部の伴造氏族であったことにもとづく。

………………

神魂命

『古事記』は神産巣日神・神産巣日之命・神産巣日御祖命などに作り、別天神五柱段に「天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神。…… 次神産巣日神」とあり、五穀起源段に「乃殺其大宜津比売神。故、所殺神於身生物者、…… 於尻生大豆。故是、神産巣日御祖命、令取茲、成種」とみえ、八十神迫害段に「爾其御祖命(刺国若比売)、哭患而、参上于天、請神産巣日之命時、乃遣蚶貝比売与蛤貝比売、令作活」とある。また少名毘古那神段には「爾多爾具久白言、此者久延毘古必知之。即召久延毘古問時、答白此者神産巣日神之御子、少名毘古那神。故爾白上於神産巣日御祖命者、答告、此者実我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也。故、与汝葦原色許男命、為兄弟而、作堅其国」とあり、さらに大国主神国譲段に「櫛八玉神 …… 鑽出火云、是我所燧火者、於高天原者、神産巣日御祖命之、登陀流天之新巣之凝烟之、八挙垂摩弖焼挙」云々とみえる。

『日本書紀』は神皇産霊尊に作り、神代上第一段の一書第四に「高天原所生神名、曰天御中主尊。…… 次神皇産霊尊」とみえ、また神代下第九段の一書第七に「一云、神皇産霊尊之女栲幡千幡姫、生児火瓊瓊杵尊」とある。

『出雲国風土記』は本条と同じく神魂命に作り、嶋根郡加賀郷条に「御祖神魂命御子、支佐加比売命、闇岩屋哉詔、金弓以射給時、光加加明也」とあり、同郡生馬郷条に「神魂命御子、八尋鉾長依日子命詔、吾御子、平明不憤詔」とみえ、また同郡法吉郷条に「神魂命御子、宇武加比売命、法吉鳥化而飛度」とある。また同郡加賀神埼条に「御祖神魂命御子、枳佐加比売命」とみえる。出雲郡漆沼郷条に「神魂命御子、天津枳比佐可美高日子命」、神門郡朝山郷条に「神魂命御子、真玉著玉之邑日女命」とある。

『古語拾遺』には「天地部判之初、天中所生之神、名曰天御中主神。其子有三男。長男、高皇産霊神。…… 次神産霊神〈此紀直祖也。〉」とみえ、神産霊神に作る(18)。『丹生祝氏本系帳』には「始祖天魂命。次高御魂命。…… 次神魂命。〈紀伊氏祖。〉」とある。本条のほか、神魂命の後裔と称する氏族は、左京神別中の 〔二一九-三八三〕 竹田連以下、多数存在するが、右京神別上の 〔二三〇-四四五〕 屋連条には「神御魂命十世孫天御行命之後也」とあって神御魂命に作る。

阿居太都命

この神名は、他にみえない。天石門別命の別名とする説があるが疑わしい(19)。


(18) 卜部系本『古語拾遺』には「天地剖判之初、天中所生之神、名曰天御中主神。次高皇産霊神。…… 次神産霊神〈是皇親神留弥命此神子天児屋命中臣朝臣祖。〉」とある。

(19) 平田篤胤『古史伝』(『平田篤胤全集』〈内外書籍本〉第二巻)、一一七頁参照。

〔『新撰姓氏錄の硏究 考證篇 第三』(pp. 128-132) 〕


〔引用注〕

蚶貝比売:「蚶」の文字は原文では「螱」の「尉」の個所を「討」に置き換えた文字。

栲幡千幡姫:「栲」の文字は原文では「木偏+耂+丁」


カモス : 神魂


◎ ここで、前回に引用した、門脇禎二氏の論から、〈神魂神社〉に言及された個所を確認すれば次の通り。


『日本海域の古代史』

第 2 章 珠 洲・内 浦

〔以下の二つの一部ずつを合せて構成した。『珠洲市史』第六巻通史篇(一九八〇年)、『内浦町史』第三巻通史篇(一九八四年)〕

1‐1 珠洲の若倭部

古麻志比古神社 ……

古麻志比古神社の祭神は、近世では能登一宮の気多大明神を祀り、「仁皇十代崇神天皇」の時代に草創され、その後「欽明天皇御宇貴楽二年」、ついで「元正天皇御宇養老元年」「後冷泉院御宇康平四年」「後二条御宇徳治元年」と再興のことがあったとしていた(『珠洲郡誌』五六六頁)。この所伝にも欽明朝の貴楽という年号や養老元年としていることなど、それなりに注目されるところがある。しかし、こうした所伝が成立する以前には、祭祀は日子座王命[ひこますおうみのみこと](=彦坐王)が祀られていた(『加越能寺社由来』下巻、八一頁)。

古麻志比古神社については、古麻志=高麗[コマ]・魂[シ]・(彦)とみて高麗人の祖霊ないし高句麗系渡来人の祖神とみる理解の仕方がある。しかしこの論法では、祭神じたいをより重視すれば、古麻志比古神社が祭神とした日子坐命をめぐる「古事記」の四つの婚姻伝承につながる諸氏のうちには「新撰姓氏録」で蕃別とされないものもあるから、問題が残ってくる。したがって、がんらい、古麻志のコマは、コモ(熊)が呪術と修業によって天神の子を生むという朝鮮の平壌地方にあった呪術的な民間信仰のひとつで、コモ(熊)ス(霊)であったとする理解の仕方がある。この説は、コモスがカモス(神魂)信仰として、出雲神話にみえるカモス信仰やカモ(鴨)信仰へと発達し、こうした始祖霊信仰がつぎにくる始祖的人格信仰(いまの場合、彦坐王信仰)の前提になっているとする(畑井弘「彦坐王小考」『甲南大学紀要・文学編』三二号)。要は、朝鮮の土着的な呪術信仰にもとづくカモス(シ)〔神魂〕信仰の古称を古麻志比古の原像にもとめるのである。

このような所論にふれるならば、当然に想起されるのは、出雲の神魂[かもす]神社であろう。神魂神社は、出雲東部の意宇[おう]郡、いまの八雲立つ風土記の丘センターの西方の大庭[おおば]にある。カモス神は、「古事記」ではすでに神産巣日[かみむすび]神(紀では神皇産霊尊)とされるが、カモスの称が残りつづけたのは、朝鮮に発したコモスの始祖霊信仰によるとみられる。そういえば、意宇平野のがんらいの地主神(農業神)は熊野川のより上流に熊野大神としてあるから、意宇に国づくりがすすんだ過程で、さらに新たにコモス信仰が加わったと解される(拙著『出雲の古代史』NHK ブックス)。そうみれば神産巣日神が、がんらいは出雲の神であったとする神話学からの考察(松前健『出雲神話』、水野裕『出雲神話』など)も生かされてくる。古麻志比古神社の原像は、コモス信仰によって理解したい。

〔門脇禎二/著『日本海域の古代史』(pp. 101-102) 〕

The End of Takechan


〈カモス〉と〈ヘモス〉


出雲の〈カモス〉を含めて朝鮮語の日本語への影響はさまざまな文献で指摘されているのだ。

次に見る全浩天氏の『キトラ古墳とその時代』は、〝朝鮮半島と古代出雲〟の関係性について「高句麗と新羅の東海に開かれた古代出雲の表玄関である美保関」と語られた個所などを前回に参照したのだけれど、〝神魂神社とカモス神〟について考察された個所を今回、ここで引用しておきたい。


○ 日本語の〝神〟は朝鮮語の〝カムカル〟と音韻が通じるのだし、また日本語の〝〟は朝鮮語の〝コモ〟であったのだろう。このことと、当時は〈カモス〉と訓まれていた「解慕漱」の語の、朝鮮半島での現在の発音が〈ヘモス〉に変化したのだとする説は、矛盾しない。これも有力な仮説のひとつと思われる。


『キトラ古墳とその時代』

「Ⅴ 古代出雲と妻木晩田遺跡」

3 古代出雲にみる朝鮮文化の重層 ―― 高句麗と新羅関係を中心にして ――

一 神魂神社とカモス神

古代出雲における新羅と高句麗文化の累積・重層化をさぐるために、出雲東部の意宇郡・大庭にある神魂[かもす]神社とカモス神を従来の理解から離れて検証する必要がある。というは、高句麗からの神話・信仰を基底に敷くものと解釈するからである。

神魂神社のカモス神については、これまでさまざまな見解が加えられてきたが、そのカモス神とは一体何であるのだろうか。

神魂神を『古事記』では神産巣日[かみむすび]神、『書紀』では神皇産霊尊としてカミムスビと仮名をふって訓[よ]んでいるが、神魂神のカモスはカモスであって他にならないはずである。

門脇禎二氏は、このカモス神の「カモスの称が残りつづけたのは、朝鮮に発したコモスの始祖霊信仰によるとみられる(1)」と興味深い理解の仕方をしめしている。能登の珠洲市に式内社として登記された古麻志比古[こましひこ]神社がある。この神社については、神社名の古麻志比古から高麗(コマ)・魂(シ)・彦とみて、高句麗系渡来人の神社とみる解釈があった。

ところが門脇氏は、古麻志比古神社の本来の祭神は、日子座王[ひこますおう]命であるから、祭神じたいをより重視すれば問題が残ってくるとして、「古麻志のコマは、コモ(熊)が呪術と修業によって天神の子を生むという朝鮮の平壌地方にあった呪術的な民間信仰のひとつでコモ(熊)・ス(霊)であった」という説をとりいれ、このコモ・スが神魂(カモス)信仰として出雲神話にみえるカモス信仰へと発達し、こうした始祖霊信仰が、つぎの始祖的人格信仰の前提、例えば彦坐王信仰になると解釈した。つまり、能登の古麻志比古神社の原像や出雲の神魂神社の原像を、「朝鮮の土着的な呪術信仰」にもとづくカモス(シ)信仰に求めたのであった。

筆者はカモス神と神魂神社の原像を「朝鮮の土着的な呪術信仰」に求めるのではなく、すでに修飾化され、人間化された始祖的な人格信仰として、高句麗建国神話に登場してくる天帝の子・解慕漱(朝鮮語ではヘモス)から由来していると解釈している。解慕漱[ヘモス]とは言うまでもなく『旧三国史』や『三国史記』が伝えているように河伯の娘・柳花と結ばれた「天帝子」である。その天帝の子が高句麗始祖王の朱蒙である。

『三国史記(2)』と『三国遺事(3)』が記載している解慕漱の解(ヘ)の古い読みは「カ」であるから、古代朝鮮語のように読めば解慕漱=カモスである。このカモスが出雲の神魂神社のカモス神の原像であると考える。

柳烈氏は『三国時代の吏読についての研究』において『三国史記』と『三国遺事』に記載された解慕漱の解(ヘ)についてふれ、「『解[ヘ]』字の『ヘ』は、古い形態である『解[カ]』字の『カ』の音韻変化である(4)」と指摘している。

このようにカモス神を理解すれば、出雲のカモス神と同時に、能登の古麻志比古神社の原像もふくめて高句麗的性格が解明されるのではないだろうか。

カモス神は出雲国の本拠地である意宇の地にあって、この地の「土着信仰のカモス神」として根強かったが、本来の姿は高句麗渡来のカモス神であった。ところで意宇平野の元来の地主神・農業神は熊野大神であったが、出雲東部の政治経済的発展にともなって、より政治的なカモス神として生みだされていったものと思われる。門脇禎二氏が指摘しているように、畿内大和朝廷による出雲最初の支配者、すなわち最初の国司である忌部首小首[いんべのおびとこおびと]が、自らの祖先神とカモス神を結びつけて崇拝したものと思われる。こうして神魂神社は出雲国造の館におかれるようになった。

カモス神が高句麗神話から創出された出雲在地の信仰であるとすれば、当然のことながら、それをもたらした高句麗からの直接の渡来か、出雲と朝鮮、この場合は日本海を介しての対岸交流の結果によるものであろう。この高句麗からの渡来と交流をより直截的に証しうるのは、考古学上の遺物・遺跡であろう。

この点で注目されるのは、出雲意宇の東部の安来平野であるが、この地域の横穴古墳から「高麗剣」とよばれる双竜環頭大刀などが出土して高句麗系移民の来着をうかがわせる。


(1) 門脇禎二『日本海域の古代史』 東京大学出版会 一〇一~二頁。

(2) 『三国史記』巻一三 高句麗本紀 『始祖東明聖王 姓高氏 諱朱蒙』「自称天帝子解慕漱」。

(3) 『三国遺事』紀異第一 古朝鮮「以唐高即位五十年庚寅」紀異第二 高句麗「解慕漱私洞伯之女而後産朱蒙」。

(4) 柳烈『三国時代の吏読について』平壌 科学・百科事典出版社 二〇九~一〇頁。

〔全浩天/著『キトラ古墳とその時代』(pp. 223-225) 〕

The End of Takechan


〈天熊人〉と〈クマシネ〉


◉ 古事記にも記録されている、いわゆる〝五穀の起源譚〟で、日本書紀に、


天照大神、復天熊人を遣して往きて看しめたまふ。是の時に、保食神、實に已に死れり。唯し其の神の頂に、牛馬化爲る有り。顱の上に粟生れり。眉の上に蠒生れり。眼の中に稗生れり。腹の中に稻生れり。陰に麥及び大小豆生れり。天熊人、悉に取り持ち去きて奉進る。


と、記述がある。―― ここで〈天照大神〉に派遣されて、五穀の種を天上に持ち帰ったのは、〈天熊人(あまのくまひと)〉とされているのだが、〈天熊人〉は頭注に、


クマは、神に奉る米。和名抄に「糈〈私呂反、和名久万之禰〉精米所以享神也」とある。糈は、説文に「糧也」とあり、広韻に「祭神米也」とある。クマヒトは、このクマに奉仕する人であろう。


と解説されている。和名抄の「久万之禰」は「クマシネ」と訓読されるのだけれど、クマシネは現在の日本語で「奠稲」の文字でも記述され〝神仏に献上する神聖な米〟のことである。このことを踏まえて、「クマは、神に奉る米」で、アマノクマヒトは「このクマに奉仕する人であろう」と推測されているのだと思われる。


別の可能性として、「クマヒト」の「クマ」は朝鮮語の「コモ」であり「カミ」と同一の起源にあるなら、〈クマヒト〉はそのまま〈カミヒト〉でもあろう。

その方向で考えるなら、「クマシネ」は「くましいね」で、すなわち「神聖な稲」と、意味がストレートに通じる。つまりこれは、「神なる人」が「神なる稲」をもたらしたという話となる。


また、さらには、〈クマヒト〉の〝クマ〟は、〈カモス〉の〝カモ〟に通じるのではなかろうか、という気もして ……。そのラインで考えると〝五穀の種〟を天上に持ち帰ったのは、もともとは渡来神の〈カモス〉の神と同一神だったのであり、それが別の表現で〈アマノクマヒト〉ないしは〈カミムスヒ〉と記録されたという可能性も浮上してくるのである。そういえば、朝鮮半島からの植物の渡来伝承が、


是時、素戔嗚尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰、此地吾不欲居、遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲國簸川上所在、鳥上之峯。


是の時に、素戔嗚尊、其の子五十猛神を帥ゐて、新羅國に降到りまして、曾尸茂梨の處に居します。乃ち興言して曰はく、「此の地は吾居らまく欲せじ」とのたまひて、遂に埴土を以て舟に作りて、乘りて東に渡りて、出雲國の簸の川上に所在る、鳥上の峯に到る。

…… 初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種を將ちて下る。然れども韓地に殖ゑずして、盡に持ち歸る。遂に筑紫より始めて、凡て大八洲國の內に、播殖して靑山に成さずといふこと莫し。所以に、五十猛命を稱けて、有功の神とす。卽ち紀伊國に所坐す大神是なり。

日本書紀「神代上 第八段」:「天叢雲剣の出現」のページ、日本古典文学大系 67『日本書紀 上』参照〕


と、日本書紀「神代上 第八段一書〔第四〕」に記録されていた。

植物の種は、この伝承では「韓地新羅國)」から、〈五十猛神〉によってもたらされた。


五十猛神(いたけるのかみ)は、『釈日本紀』に「先師說曰。伊太祁曾神者。五十猛神也。」とある。


同じく、新井白石の書に「按ずるに五十猛讀でイタケといふべし神名式出雲國の韓國伊太氐[カラクニイタテ]神社紀伊國の伊太祁曾[イタキソ]神社並に皆此神を祭れる也 イタケ。イタテ。イタキ。皆是一聲の轉ぜし也。」と、述べられている。

出雲国風土記には明記されてないけれど、渡来神である〈イタテ〉の神も、「延喜式」を見れば丹波国などでは〝伊達神社〟その他の表記が用いられ、また出雲国には〝韓国伊太氐神社〟として複数の記載がある。

カムミムスヒ : カミムスヒ : カモス


○ 上記〝五穀の起源譚〟の詳細を、日本書紀の記録から再掲するが、日本書紀で〈神皇産霊〉は〝カムミムスヒ〟と訓まれ、また下の「補注1-六六 保食神の死」にも記述があるように、古事記で五穀の種を採取したのは〈神産巣日御祖命〉である。

〔※ 古事記の原文は「火産霊 / 神皇産霊」のページ:日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』の「天照大神と須佐之男命 5 五穀の起原」参照のこと〕


日本古典文学大系 67『日本書紀 上』

「神代上 第五段 一書〔第十一〕」

[原文] 一書曰、伊奘諾尊、勅任三子曰、天照大神者、可以御高天之原也。月夜見尊者、可以配日而知天事也。素戔嗚尊者、可以御滄海之原也。旣而天照大神、在於天上曰、聞葦原中國有保食神。宜爾月夜見尊、就候之。月夜見尊、受勅而降。已到于保食神許。保食神、乃㢠首嚮國、則自口出飯。又嚮海、則鰭廣鰭狹亦自口出。又嚮山、則毛麁毛柔亦自口出。夫品物悉備、貯之百机而饗之。是時、月夜見尊、忿然作色曰、穢哉、鄙矣、寧可以口吐之物、敢養我乎、廼拔劒擊殺。然後、復命、具言其事。時天照大神、怒甚之曰、汝是惡神。不須相見、乃與月夜見尊、一日一夜、隔離而住。是後、天照大神、復遣天熊人往看之。是時、保食神實已死矣。唯有其神之頂、化爲牛馬。顱上生粟。眉上生蠒。眼中生稗。腹中生稻。陰生麥及大小豆。天熊人悉取持去而奉進之。于時、天照大神喜之曰、是物者、則顯見蒼生、可食而活之也、乃以粟稗麥豆、爲陸田種子。以稻爲水田種子。又因定天邑君。卽以其稻種、始殖于天狹田及長田。其秋垂穎、八握莫莫然、甚快也。又口裏含蠒、便得抽絲。自此始有養蠶之道焉。保食神、此云宇氣母知能加微。顯見蒼生、此云宇都志枳阿烏比等久佐。


(頭注)

以下、第十一の一書の特徴は、神代紀の他の箇所で全く活動しない月読尊がここでは働くことで、保食神の屍から、幾多の食物が生れる話を持つこと。これに似るのは記の大宜都比売の話。この話は、書紀では朝鮮語の分る人によって整理されている点が特に注意される。

保食神

➝補注1-四七。

百机

数多くの物を並べた机。モモは数の多いことをいう。トリは、持つ意。荷持をノトリと訓む、そのトリに同じ。記には百取机とある。ツクヱは杯(ツキ)据(ウ)ヱの約。杯を並べ置く台。

擊殺

保食神の死。➝補注1-六六。

天熊人

クマは、神に奉る米。和名抄に「糈〈私呂反、和名久万之禰〉精米所以享神也」とある。糈は、説文に「糧也」とあり、広韻に「祭神米也」とある。クマヒトは、このクマに奉仕する人であろう。

頂、化爲牛馬。

以下に、牛馬・粟・蚕・稗・稲・麦・大豆・小豆が生るとあるが、これらの生る場所と生る物との間には、朝鮮語ではじめて解ける対応がある。以下朝鮮語をローマ字で書くと、頭 (mɐrɐ) 馬 (mɐr)、顱 (chɐ) と粟 (cho)、眼 (nun) と稗 (nui 白米に混じた稗類 )、腹 (pɐi 古形は pɐri) と稲 (pyö)、女陰 (pöti) と小豆 (p‘ɐt) とである。これは古事記の場合には認められない点で、書紀の編者の中に、朝鮮語の分る人がいて、人体の場所と生る物とを結びつけたものと思われる(金沢庄三郎・田蒙秀氏の研究)。

水田種子

タナは種。ツは助詞ノにあたる。種のものの意。稲についていう。


[訓み下し文] 一書〔第十一〕に曰はく、伊奘諾尊、三の子に勅任して曰はく、「天照大神は、高天之原を御すべし。月夜見尊は、日に配べて天の事を知すべし。素戔嗚尊は、滄海之原を御すべし」とのたまふ。旣にして天照大神、天上に在しまして曰はく、「葦原中國に保食神有りと聞く。爾、月夜見尊、就きて候よ」とのたまふ。月夜見尊、勅を受けて降ります。已に保食神の許に到りたまふ。保食神、乃ち首を㢠して國に嚮ひしかば、口より飯出づ。又海に嚮ひしかば、鰭の廣・鰭の狹、亦口より出づ。又山に嚮ひしかば、毛の麁・毛の柔、亦口より出づ。夫の品の物悉に備へて、百机に貯へて饗たてまつる。是の時に、月夜見尊、忿然り作色して曰はく、「穢しきかな、鄙しきかな、寧ぞ口より吐れる物を以て、敢へて我に養ふべけむ」とのたまひて、廼ち劒を拔きて擊ち殺しつ。然して後に、復命して、具に其の事を言したまふ。時に天照大神、怒りますこと甚しくして曰はく、「汝は是惡しき神なり。相見じ」とのたまひて、乃ち月夜見尊と、一日一夜、隔て離れて住みたまふ。是の後に、天照大神、復天熊人を遣して往きて看しめたまふ。是の時に、保食神、實に已に死れり。唯し其の神の頂に、牛馬化爲る有り。顱の上に粟生れり。眉の上に蠒生れり。眼の中に稗生れり。腹の中に稻生れり。陰に麥及び大小豆生れり。天熊人、悉に取り持ち去きて奉進る。時に、天照大神喜びて曰はく、「是の物は、顯見しき蒼生の、食ひて活くべきものなり」とのたまひて、乃ち粟稗麥豆を以ては、陸田種子とす。稻を以ては水田種子とす。又因りて天邑君を定む。卽ち其の稻種を以て、始めて天狹田及び長田に殖う。其の秋の垂穎、八握に莫莫然ひて、甚だ快し。又口の裏に蠒を含みて、便ち絲抽くこと得たり。此より始めて養蠶の道有り。保食神、此をば宇氣母知能加微と云ふ。顯見蒼生、此をば宇都志枳阿烏比等久佐と云ふ。


(ふりがな文) あるふみ〔だいじゅういち〕にいはく、いざなきのみこと、みはしらのみこにことよさしてのたまはく、「あまてらすおほみかみは、たかまのはらをしらすべし。つくよみのみことは、ひにならべてあめのことをしらすべし。すさのをのみことは、あをうなはらをしらすべし」とのたまふ。すでにしてあまてらすおほみかみ、あめにましましてのたまはく、「あしはらのなかつくににうけもちのかみありときく。いまし、つくよみのみこと、ゆきてみよ」とのたまふ。つくよみのみこと、みことのりをうけてくだります。すでにうけもちのかみのもとにいたりたまふ。うけもちのかみ、すなはちかうべをめぐらしてくににむかひしかば、くちよりいひいづ。またうみにむかひしかば、はたのひろもの・はたのさもの、またくちよりいづ。またやまにむかひしかば、けのあらもの・けのにこもの、またくちよりいづ。そのくさぐさのものふつくにそなへて、ももとりのつくゑにあさへてみあへたてまつる。このときに、つくよみのみこと、いかりおもほてりしてのたまはく、「けがらはしきかな、いやしきかな、いづくにぞくちよりたぐれるものをもて、あへてわれにあふべけむ」とのたまひて、すなはちつるぎをぬきてうちころしつ。しかうしてのちに、かへりことまうして、つぶさにそのことをまうしたまふ。ときにあまてらすおほみかみ、いかりますことはなはだしくしてのたまはく、「いましはこれあしきかみなり。あひみじ」とのたまひて、すなはちつくよみのみことと、ひとひひとよ、へだてはなれてすみたまふ。こののちに、あまてらすおほみかみ、またあまのくまひとをつかはしてゆきてみしめたまふ。このときに、うけもちのかみ、まことにすでにまかれり。ただしそのかみのいただきに、うしうまなるあり。ひたひのうへにあはなれり。まゆのうへにかひこなれり。めのなかにひえなれり。はらのなかにいねなれり。ほとにむぎおよびまめあづきなれり。あまのくまひと、ふつくにとりもちゆきてたてまつる。ときに、あまてらすおほみかみよろこびてのたまはく、「このものは、うつしきあをひとくさの、くらひていくべきものなり」とのたまひて、すなはちあはひえむぎまめをもては、はたけつものとす。いねをもてはたなつものとす。またよりてあまのむらきみをさだむ。すなはちそのいなたねをもて、はじめてあまのさなだおよびながたにうう。そのあきのたりほ、やつかほにしなひて、はなはだこころよし。またくちのうちにかひこをふふみて、すなはちいとひくことえたり。これよりはじめてこかひのみちあり。うけもちのかみ、これをばうけもちのかみといふ。うつしきあをひとくさ、これをばうつしきあをひとくさといふ。


補注1

四五 稚産霊 「火産霊 / 稚産霊〈火の神カグツチ〉」のページ 参照

ワクは若の意。ムスヒは生産力ある霊力。火と土とからワカムスヒが生れ、そこから五穀が生れたとするのは、焼畑などによる農業の起源を説いたものか。蚕と桑と五穀とは、結局、農業の起源をいう。記にワカムスヒの子がトヨウケヒメノカミであるとするのも、農業の起源を説くことである。ワカムスヒのワカはウカノミタマのウカの転とも見られる。この話、書紀の第十一の一書の保食神の話、古事記のオホゲツヒメの話と関係が深い。これがそれらの話の原型という(松村武雄)。


四七 倉稲魂命

ウカは食料。後のウケモチノカミのウケはこのウカの転。サカ(酒)➝ サケ、タカ(竹)➝ タケの類。この場合のケはケ乙類 kë 。倉稲の倉は食の誤かという。あるいは倉は、納屋に収めるものの意か。ミタマのタマは生命力そのものをいう。従ってウカノミタマは食料の命そのもの。


六六 保食神の死

この話は、記では次のようになっている。「素盞嗚尊が、大気津比売(おほげつひめ)に食物を乞うと、鼻・口・尻から種種の味物を取り出して奉った。その様子を伺い見た素戔嗚尊は、穢してよこしたと思い、大気津比売を殺した。殺された神の身から成ったものは、頭に蚕、目に稲、耳に粟、鼻に小豆、陰に麦、尻に大豆である。そこで、神産巣日御祖命がこれを種とした」。

オホゲツヒメは、古事記の国生みの段では、四国の阿波の別名でもある。阿波という国名は作物の粟から来ているから、オホゲツヒメは粟の女神であろう。恐らく日本では作物の死体化生神話は、粟などの焼畑耕作を背景としていたものであろう。作物の死体化生神話は現在では昔話化した形で奄美大島に伝わっている。書紀の所伝と比較すると、身体の部分と、生るものとの結びつきに大きな相違がある。このような、神話的人物が殺されて、その屍体の各部分から、色色の栽培植物が生じるという話は、本来は、穀物栽培以前の、古い農耕文化のうち、球根植物の起源を説明するものであったろうという。親芋を切断して土中に埋め、そこから、新しい食物が生じるという話らしい。東南アジアから大洋洲・中南米・アフリカなどにこの種の神話が分布している。しかし、日本の場合は、球根食物ではなく、穀物神ばかりに変っている。それは、中心的な農作物が、すでに穀物に変ったため、作物の名が、それに伴って変えられたのであろう。

〔日本古典文学大系 67『日本書紀 上』(pp. 100-103) 〕


次回は、〝カガミの舟に乗って〟やって来たという、スクナビコナの記録を参照する予定なのだが、古事記でスクナビコナは、カミムスヒの子とされている。

食物の種を蒔き歩くスクナビコナは、各地の風土記にも多数の記録が残されている。―― スクナビコナのこの全国的展開はすなわち古事記の伝によれば、親が回収した〝五穀の種〟を、子が蒔くというシチュエーションなのであるが、ただしそれとは異なって、日本書紀ではスクナビコナはタカミムスヒの子と伝承される。

一般に、カミムスヒは出雲系の神話に登場するので出雲神話の神とみなされているのだけれど、いっぽうでタカミムスヒは出雲系の神話以降もしばしば描かれており継続して天神の中心的役割が与えられるという、それぞれの立場の相違がある。

スクナビコナを、古事記がカミムスヒの子としたのも、日本書紀がタカミムスヒの子としたのも、いずれもそれなりの理由に基づいて記録されたに違いないとは推察できるけれども、さてどのような事情が絡んでいたのだろうか、もはや、知るすべはないようだ。


バックアップ・ページ

以下、引用文献の情報