◈ 昭和三十六年 (1961) に発行された『篠村史』に、加太の「淡島明神」の説明がある。
篠村の西端、東西に白く走る国道の南側、大字浄法寺[じょうぼうじ]の小高いところに粟島神社がある。
…………
現在粟島と称する神社は、例えば群馬県邑楽郡佐貫の地、鳥取県米子市彦名の地、さらに、大分県南海部郡米水津の地にそれぞれ鎮座するが、これらはみな、共通してその祭神が少彦名神[すくなひこなのかみ]である。なかでも紀州粟島宮は和歌山県海草郡加太の式内社、加太神社にほかならない。そしてこの加太社の祭神も一説によれば少彦名神なのである。少彦名神は、別に少名毘古那・少日子根命・小比古尼命・少御神などとも称され、不思議な霊力をもった小子[ちいさご]の説話の系列に位置を占める神話の神であって、天[あめ]のかがみの船にのり、海のかなたから帰って来、大国主命と力をあわせて国土の経営に当たったといわれる。海からやって来たかれは、熊野御碕からふたたび常世[とこよ]のくにへ帰って行ったとも、また淡島より粟茎[あわがら]に弾かれて常世のくにへ渡って行ったともいう。これが淡島明神としてあがめられ、のち加太の地に遷されたというのである。……
〔『篠村史』(pp. 106-107) 〕
◉ さて。天平五年 (733) の編纂と記録される出雲国風土記は「〔嶋根郡〕蜈蚣嶋」の記事に「逹伯耆國郡內夜見嶋(伯耆の国郡内の夜見の嶋に達るまで)」と伝えている。そんな風土記の時代には、伯耆の国の夜見嶋の南の海上に粟嶋があり、粟嶋は、その後いつしか夜見嶋が伯耆国とつながって半島となった後も、島のままだった。―― のであるが、江戸時代のおそらく 1700 年代、新田開発の工事で陸続きとなって、幕末期に成立した『伯耆志』の《粟嶋村》の項では「產土神粟島大明神」の説明文冒頭、「粟島山」として記述されている。
◈ 鳥取県米子市彦名町1405の、その山頂に、スクナビコナを祀る〈粟嶋神社〉がある。
米子流紋岩層からなる山塊で、標高は約 36 m である。かっては中海の孤島であったが、江戸時代に行われた干拓によって陸続きになった。
〔『新修 米子市史 第六巻』(p. 10) 〕
◎ 古事記で、スクナビコナの退場シーンは、
然て後は、其の少名毘古那の神は、常世の國に度りましき。
と簡潔に描かれ、日本書紀には、
其の後に、少彥名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世鄕に適しぬ。亦曰はく、淡嶋に至りて、粟莖に緣りしかば、彈かれ渡りまして常世鄕に至りましきといふ。
とあった。今回は、伯耆国風土記逸文などでも知られる、スクナビコナに関する記録を少し詳しく見ていく。
The End of Takechan
○ まずは、日本古典文学大系『風土記』(『大系本 風土記』)から、伯耆国風土記逸文の記事など。
〔※ 出雲国風土記の意宇郡《餘戶里》の記述は、米子の地名「余戸里」に関する補足で再引用する。〕
粟 嶋 今井似閑採択。
(p. 480)
[原文] 伯耆國風土記曰 相見郡 々家西北有餘戶里 有粟嶋 少日子命蒔粟 莠實離々 卽載粟彈渡常世國 故云粟嶋也
(釋日本紀 卷七)
(頭注)
相見郡
鳥取県米子市及び西伯郡の西部地方。和名抄の郡名に会見(安不美)とある。
相見郡々家
郡役所。日野川下流の西岸地、米子市車尾を遺蹟地としている。
餘戶里
夜見浜の基部にあたる地方(米子市に属す)。五〇戸で一郷とする制度により、余剰戸を以て余戸里を立てたもの。
粟嶋
夜見浜の西南部、米子市彦名の粟島。もと島であった。出雲国風土記に見える(一二一頁)。
莠實離々
穂(秀)の実のりがよく穂が垂れ下った。離々は穂の垂れ下るさまをいう。
載粟彈
神代紀一書に「淡島(あわしま)に至りて、粟茎に縁りしかば、則ち弾かれ渡りて、常世の郷に至りき」と見える。
常世國
少日子命の本国。海外の国・理想国の意。
[訓み下し文] 伯耆の國の風土記に曰はく、相見の郡。郡家の西北のかたに餘戶の里あり。粟嶋あり。少日子命、粟を蒔きたまひしに、莠實りて離々りき。卽ち、粟に載りて、常世の國に彈かれ渡りましき。故、粟嶋と云ふ。
[ふりかな] ははきのくにのふどきにいはく、あふみのこほり。こほりのみやけのいぬゐのかたにあまりべのさとあり。あはしまあり。すくなひこのみこと、あはをまきたまひしに、みのりてほたりき。すなはち、あはにのりて、とこよのくににはじかれわたりましき。かれ、あはしまといふ。
(pp. 108-109)
[原文] 餘戶里 郡家正東六里二百六十歩 〔依神龜四年編戶 立一里 故云餘戶 他郡如之〕
(頭注)
餘戶里
八束郡東出雲町の揖屋・意東、意東川の流域及び海沿いの地。和名抄の筑陽郷にあたる。
神龜四年
聖武朝の年号(七二七)。養老五年に戸籍を造らせてから六年目で、戸籍を整備すべき年にあたる。
編戶
戸籍に編入すること。戸をしらべて里郷の編成を整えたのである。
立一里
その戸数によって郷に属さない里(こざと)一を立てた(九五頁頭注二六参照)。➝補注
九五頁頭注二六
民戸五〇戸を以て一郷とした(戸令)。地方行政上の基本単位。
補注 (p. 256)
出雲国風土記における郷の構成は、三里で一郷とするもの五六(余戸郷を加えて五七)、二里で一郷とするもの五で、三里一郷が規準の如くである。豊後国風土記では三里で一郷のもの三〇、二里で一郷のもの一〇、また肥前国風土記(彼杵郡を除く)では、三里で一郷のもの四四、二里で一郷のもの二〇、四里で一郷のもの二となっていて、これらも三里で一郷が規準の如くである。すなわち十数戸乃至二十数戸を以て里(こざと)としたものと認められる。
[訓み下し文] 餘戶の里 郡家の正東六里二百六十歩なり。〔神龜四年の編戶に依り、一つの里を立てき。故、餘戶といふ。他郡もかくの如し。〕
[ふりかな] あまりべのさと こほりのみやけのまひむがし6さと260あしなり。〔じんきよねんのへむこにより、ひとつのこざとをたてき。かれ、あまりべといふ。あだしこほりもかくのごとし。〕
(pp. 120-121)
[原文] 粟嶋 〔有椎松多年木宇竹眞前等葛〕
(頭注)
粟嶋
安来市の対岸、米子市彦名の粟島の地。もと島であった。
[訓み下し文] 粟嶋 〔椎・松・多年木・宇竹・眞前等の葛あり。〕
[ふりかな] あはしま 〔しひ・まつ・あはぎ・おほたけ・まさきどものかづらあり。〕
(pp. 216-217)
[原文] 多禰鄕 屬郡家 所造天下大神 大穴持命與須久奈比古命 巡行天下時 稻種墮此處 故云種 〔神龜三年 改字多禰〕
(頭注)
多禰鄕
三刀屋町の南部から掛合町(旧波多村以南を除く)・吉田村にわたる、三刀屋川及び支流の吉田川の流域地。流域に遺称地多根(上・下)がある。
屬郡家
郡の役所と同所に郷の役所がある意。
須久奈比古命
少彦名命。大国主命の国土経営に協力した神。
巡行天下
国土経営のために国内をめぐったとするのである。
稻種墮此處
稲種の頒布。開墾農耕の由来を語るのであろう。
[訓み下し文] 多禰の鄕 郡家に屬けり。天の下造らしし大神、大穴持命と須久奈比古命と、天の下を巡り行でましし時、稻種を此處に墮したまひき。故、種といふ。〔神龜三年、字を多禰と改む。〕
[ふりかな] たねのさと こほりのみやけにつけり。あめのしたつくらししおほかみ、おほなもちのみこととすくなひこのみことと、あめのしたをめぐりいでまししとき、いなだねをここにおとしたまひき。かれ、たねといふ。〔じんきさんねん、じをたねとあらたむ。〕
(pp. 290-291)
[原文] 稻種山 大汝命少日子根命二柱神 在於神前郡堲岡里生野之岑 望見此山云 彼山者 當置稻種 卽遣稻種 積於此山 々形亦似稻積 故號曰稻種山
(頭注)
稻種山
前条の山の北、飾磨・揖保両郡境の峰相山。峰相記にいう山麓の稲根明神社がその遺称。
大汝命少日子根命二柱神
二神の国土経営の伝承に関連するもので、土地の開墾、稲種の頒布、農耕開始を語るもの。
稻種
稲の実(籾)だけでなく、こき取らない稲茎についたままのものであろう。
稻積
刈り取ったままの穂のついた稲を積み束ねたもの。いなたはり(秉)、いなつか(稲束)。
[訓み下し文] 稻種山 大汝命と少日子根命と二柱の神、神前の郡堲岡の里の生野の岑に在して、此の山を望み見て、のりたまひしく、「彼の山は、稻種を置くべし」とのりたまひて、卽ち、稻種を遣りて、此の山に積みましき。山の形も稻積に似たり。故、號けて稻種山といふ。
[ふりかな] いなだねやま おほなむちのみこととすくなひこねのみこととふたはしらのかみ、かむざきのこほりはにをかのさとのいくののみねにいまして、このやまをのぞみみて、のりたまひしく、「そのやまは、いなだねをおくべし」とのりたまひて、すなはち、いなだねをやりて、このやまにつみましき。やまのかたちもいなづみににたり。かれ、なづけていなだねやまといふ。
(pp. 324-327)
[原文] 神前郡
右 所以號神前者 伊和大神之子 建石敷命 (山埼村)在於神前山 乃 因神在爲名 故曰神前郡
堲岡里 〔生野大川內湯川粟鹿川內波自加村〕 土下々 所以號堲岡者 昔 大汝命 與小比古尼命 相爭云 擔堲荷而遠行 與不下屎而遠行 此二事 何能爲乎 大汝命曰 我不下屎欲行 小比古尼命曰 我持堲荷欲行 如是 相爭而行之 逕數日 大汝命云 我不能忍行 卽坐而下屎之 爾時 小比古尼命咲曰 然苦 亦 擲其堲於此岡 故號堲岡 又 下屎之時 小竹 彈上其屎 行於衣 故號波自賀村 其堲與屎 成石 于今不亡 一家云 品太天皇 巡行之時 造宮於此岡 勅云 此土爲堲耳 故曰堲岡
(頭注)
神前郡
およそ兵庫県神崎郡の地域、市川の上流流域地。神南・香寺・福崎.・市川・神崎・大河内の六町及び但馬国の生野町にわたる。和名抄の郡名に神埼(加無佐岐)と見える。
建石敷命
伊和氏の支族の奉じた神。託賀郡(三三五頁)に建石命とあるのと同神であろう。
神前山
山崎の後(北方)の山。揖保川の西岸に臨む。山の南麓に山崎明神社(祭神縁起不明)がある。
堲岡里
郡の中央部(市川町)から北の市川流域地(神崎・大河内二町)にわたる。北接の生野町もこの里の域内。和名抄の郷名に埴岡(高山寺本、波爾乎賀と訓む)とある。
堲
埴の通用。粘土。あかつち。
擲其堲
になっていた粘土をなげ捨てた。
波自賀村
神崎町福本の初鹿野(はじかの)、また同地の初鹿野山が遺称地。
品太天皇
応神天皇。
爲堲耳
壁に塗り、瓦器を作るに用い得る土だの意。
[訓み下し文] 神前の郡
右、神前と號くる所以は、伊和の大神のみ子、建石敷命、(山埼の村)神前山に在す。乃ち、神の在すに因りて名と爲し、故、神前の郡といふ。
堲岡の里 〔生野・大川內・湯川・粟鹿川內・波自加の村〕 土は下の下なり。堲岡と號くる所以は、昔、大汝命と小比古尼命と相爭ひて、のりたまひしく、「堲の荷を擔ひて遠く行くと、屎下らずして遠く行くと、此の二つの事、何れか能く爲む」とのりたまひき。大汝命のりたまひしく、「我は屎下らずして行かむ」とのりたまひき。小比古尼命のりたまひしく、「我は堲の荷を持ちて行かむ」とのりたまひき。かく相爭ひて行でましき。數日逕て、大汝命のりたまひしく、「我は行きあへず」とのりたまひて、卽て坐て、屎下りたまひき。その時、小比古尼命、咲ひてのりたまひしく、「然苦し」とのりたまひて、亦、其の堲を此の岡に擲ちましき。故、堲岡と號く。又、屎下りたまひし時、小竹、其の屎を彈き上げて、衣に行ねき。故、波自賀の村と號く。其の堲と屎とは、石と成りて今に亡せず。一家いへらく、品太の天皇、巡り行でましし時、宮を此の岡に造りて、勅りたまひしく、「此の土は堲たるのみ」とのりたまひき。故、堲岡といふ。
[ふりかな] かむざきのこほり
みぎ、かむざきとなづくるゆゑは、いわのおほかみのみこ、たけいはしきのみこと、(やまさきのむら)かむざきやまにいます。すなはち、かみのいますによりてなとなし、かれ、かむざきのこほりといふ。
はにをかのさと 〔いくの・おほかふち・ゆかは・あはかかふち・はじかのむら〕 つちはしものしもなり。はにをかとなづくるゆゑは、むかし、おほなむちのみこととすくなひこねのみこととあひあらそひて、のりたまひしく、「はにのにをになひてとほくゆくと、くそまらずしてとほくゆくと、このふたつのこと、いづれかよくせむ」とのりたまひき。おほなむちのみことのりたまひしく、「あはくそまらずしてゆかむ」とのりたまひき。すくなひこねのみことのりたまひしく、「あははにのにをもちてゆかむ」とのりたまひき。かくあひあらそひていでましき。ひかずへて、おほなむちのみことのりたまひしく、「あはゆきあへず」とのりたまひて、やがてゐて、くそまりたまひき。そのとき、すくなひこねのみこと、わらひてのりたまひしく、「しかくるし」とのりたまひて、また、そのはにをこのをかになげうちましき。かれ、はにをかとなづく。また、くそまりたまひしとき、ささ、そのくそをはじきあげて、みぞにはねき。かれ、はじかのむらとなづく。そのはにとくそとは、いしとなりていまにうせず。あるひといへらく、ほむだのすめらみこと、めぐりいでまししとき、みやをこのをかにつくりて、のりたまひしく、「このつちははにたるのみ」とのりたまひき。かれ、はにをかといふ。
〔日本古典文学大系『風土記』より〕
The End of Takechan
◉ 前回『古風土記並びに風土記逸文語句索引』で確認したように、出雲国風土記には、もう一ヵ所に《粟嶋》の記事がある。これは『大系本 風土記』の頭注に「黒島の西南方、青島」(p. 145) とあり、「嶋根郡」に属する、島根半島沿岸の島であることが確認できる。こちらの《粟嶋》には、さらにその特徴として、
粟嶋 周り二百八十歩、高さ一十丈なり。(p. 145)
と、「意宇郡」の《粟嶋》の記事にはなかった、具体的な大きさが添えられている。すると「意宇郡」の《粟嶋》は、それほどでもなかったのだろうか。―― とも、思われるのだけれど「意宇郡」の島々の記事でその高さが添えられているのは、実際のところ《粟嶋》の次に記述されている《砥神嶋》だけなのだ。具体的には、
砥神嶋 周り三里一百八十歩、高さ六十丈なり。(p. 121)
とあり、その頭注に「安来港の東北突出部、十神山(九二・九米)の地。もと島であった。」(p. 121) と説明されている。これは、出雲国のそれぞれの郡で、あるいはそれぞれの記録者で記録する基準が異なっていたためであるのか、それとも出雲国風土記「意宇郡」の《粟嶋》は、まったくもって小さな島だったのか、いずれかであろうが、参考になりそうな記事として、出雲国風土記「意宇郡」の《蚊嶋》に、次の記述がある。
野代の海の中に蚊嶋あり。周り六十歩なり。(p. 123)
いっぽう『新修 米子市史 第六巻』(p. 10) で見たように、鳥取県の米子市で夜見ヶ浜の山となった《粟嶋》の標高は 36 メートルだった。
以上の考察に加え、同じ名で呼ばれる島は、出雲国風土記「嶋根郡」の記事を追うだけでも複数存在することが確認できるので、そのことからも、上記「意宇郡」の《粟嶋》と、伯耆国風土記逸文の《粟嶋》が、その海上の同じ島をさしているとする解釈は、必ずしも妥当とはいえない、ということになる。まさにそのことを論じた研究者が、かつてあったのだ。
そして新しくは 2003 年の『新修 米子市史 第一巻』(p. 501) でも、
国境が明確であった奈良時代に、伯耆と出雲の両国がそれぞれこの粟島の所属を主張していたとは考えられない。彦名町の粟島は『伯耆国風土記』逸文にあるように、伯耆国相見郡余戸里であった。
と結論づけられ、同様の主張が述べられているのだけれども、それらの論稿を詳しく参照する前に。
◎ 風土記にはこの他に、逸文として、〈伊豫國〉の「温泉」に「大穴持命・宿奈毗古那命」(p. 495) がある。
◎ また、逸文(参考)として、〈尾張國〉の「登々川」に「大己貴ト少彥ノ命ト」(p. 445) と、〈伊豆國〉の「温泉」に「大己貴與少彥名」(p. 449) がある。
―― さらに、逸文(参考)として〈讚岐國〉の「阿波島」もある。その「阿波島」を先に参照しよう。
○ 新編日本古典文学全集『風土記』(『小学館 風土記』)から、「丹後の国」と「讃岐の国」の記事。
凡海
所‐以其号凡海者、古老伝曰。往昔治天下、当大穴持神与少彦名神、到‐坐于此地之時、引‐集海中之大嶋小嶋。小嶋凡拾以成壱之大嶋。故名云凡海矣。在当国風土記。
(『海部氏勘注系図』割注〈『神道大系』古典編十三、二四~二五㌻〉瀧川論文所収影印参照)
➝瀧川政次郎「丹後国風土記逸文考」(『日本歴史』四八〇号、一九八八年五月)
➝荊木美行「『海部氏勘注系図』所引の風土記関係記事をめぐって」(同前項)
阿波嶋 屋嶋
アハシマトハ、讃岐国。屋嶋北去百歩許、有嶋。名曰阿波嶋トイヘリ。
(仙覚『万葉集註釈』第四、四・五〇九番歌条〈仁和寺本〉)
〔新編日本古典文学全集『風土記』(p. 581, p. 584) 〕
○ ここに嚆矢とすべき、出雲国風土記の粟嶋は伯耆国風土記逸文の粟嶋ではないと論じた研究を、抄録する。
出雲風土記に言う「粟島」は鳥取県西伯郡彦名村粟島にあらざるべし
〔初出:「伯耆文化」19 昭和 28 年 2 月 19 日 伯耆文化研究会/著作・発行〕
佐々木謙
一、
(p. 194)
こゝで問題にした粟島と言うのは、鳥取県西伯郡彦名村粟島山で、少彦名命を祭神とする粟島神社のある山のことである。従来この粟島が出雲国風土記に云う粟島であるとされ、従って出雲国風土記勘進の天平五年頃に於てはこれが出雲に属し後世に及んで伯耆に転属して現在に及んでいると考えられていたのであるが、これについてこの地方を紹介した地誌の全部はことごとくこのことに疑を持っていないと云える。が私はこゝに二三の考察によって、現在の粟島は出雲風土記に云う粟島でなくして出雲風土記に云う粟島とは茅島と呼ばれている粟島の西南の島であると云いたい。粟島は勿論粟島であって、天平五年には伯耆に属し茅島もまた粟島と呼ばれて中海の西南隅には同名の二島が並び存していたと云わねばならない。……
二、
(p. 195)
初めに出雲風土記について粟島を検討したい、出雲風土記意宇郡の条に中海南岸西岸の島をあげて、粟島、砥神島、加茂島、子島、羽島、塩楯島野代海中蚊島と列記している。これは大体に於て東より西に列べているもので諸本によって相異はあるが、現在の島と一致する、即ち蚊島は宍道湖の嫁島であり、塩楯島は馬潟の瀬戸にある手間天神の島であり、羽島は今の安来町の飯島の丘である、砥神島は安来十神山で加茂島は中海にある亀島であろう。以上はその風土記の記事、或はその註により既に定説となっているが、子島は風土記考証にも「何島かわからぬ、伯太川の口に陸続きとなって居るかの仏島といったものらしい、国造本、風土記鈔には、子島、粟島、砥神島、加茂島、羽島の順に書いてある。或はそれが正しいかも知れぬ、島田村の内大浦という所の沖に子島といふがある」と云っているが、この子島は実地について見れば五万分の一地図の示す松島にあたるものであろう(雲陽誌は柑子[こうじ]島といっている)「国造本出雲国風土記」の記載の順序を尊重すれば或はこれが萱島にあたるかも知れない。とにかく中海の島には粟島、子島二島に相当するものは萱(茅)島松島の外にはないのである。云うまでもなく羽島或は十神島は堆砂によって陸続きとなったものの、いかに天平五年が遥かなる往古と言え、この程度の年数によって相当の島嶼が突然出没するわけはないから、粟島をもし現在の産名村の粟島としたならば、茅島は風土記に記載されざる島となるのである。羽島、塩楯島、蚊島、加茂島の如き小島が記載されている状況のもとに萱島、松島が記載されない理由は考えられない。
逆に粟島山をもって出雲風土記に云う粟島とするならばその記載の事実についても考うべきことがある。粟島「有堆松多年木宇竹真嶋等葛」と簡単に記載するに過ぎない。粟島山は標高三十八米、周回八百米の島であり砥神山に次ぐものである、これに何らの周り高さの記載のないのは不可解である。例をあげるまでもなく出雲国風土記にはこれ以上の小島にも周回及び高さを記載するものが多いのである。こうした地理的な考察、又、茅島、松島が安山岩より成る地質学的な事実より考えても、茅島、松島二島こそ粟島、子島に比定すべきであると云わねばならない。……
三、
(p. 196)
…… 私は書紀の淡島をもって伯耆風土記の粟島とすることに躊躇しない。又書紀の「亦曰く淡島に至りて」の一節も伯耆国風土記との類似よりして或は伯耆国風土記と同一原拠から出ているではなかろうかとも想い更に伯耆国風土記がこの書紀の「亦曰く」に当りはせぬかと思う。
四
(p. 197)
彦名村について見るに粟島山は伯耆志云うごとく宝暦頃までは離島であったが、その間は極めて近距離であった。然して伯耆国風土記逸文に云う余戸里の一部はこゝにあったと認むべき証拠がある。こゝは古く弥生式文化の遺蹟を持ち更に相当の祝部式遺物の出土があっている。こうして粟島山に近く明らかに伯耆に属する聚落があったことも粟島山が古くより伯耆に属する一傍証ともなるではあるまいか。
以上によって私は出雲風土記に云う意宇郡粟島は現在萱島と呼ばれている島であること、彦名村粟島山はかつて出雲に属したことなく、その所属云々及び出雲伯耆の風土記の前後については粟島をもって証とすべきでないことを説いた。然し私の意図する所は決してこの〝粟島〟ではない。私はかゝる総合的研究法の一素材に粟島を拉し来たったまでである。
(本稿は昭和十六年に一応書き上げた、太平洋戦争にかり出されて、これの発表の機会はなく、旧稿ではあるが参考までに)
(筆者は米子四中教諭、県文化財保護委員)
〔佐々木謙「粟島」より:『伯耆文化 第二』所収〕
◉ 倭名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう)は、源順(みなもとのしたごう)が著した漢和辞書で、承平 (931~938) 年中、醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって撰進された。和名抄(わみょうしょう)もしくは倭名鈔は、その略称として一般に用いられている。
その和名抄に当時の全国の地名が採録されているのだけれど〝伯耆國〟を見ると〝會見郡〟に、十二の郷(さと)が記される。
日下・細見・美濃・安曇・巨勢・蚊屋・天萬・千太・會見・星川・鴨部・半生
これらの郷名のうち「半生」は「米生」の誤写であるとする説がある。半は米のくずれた形だったのだという。
○ 米生(よなおう)については、次の資料が参考となる。
(URL : http://www.city.yonago.lg.jp/secure/7669/agridata18.pdf )
「米子の地名は、稲作の米がよく実った地域でその昔「米生(よなおう)の里」と呼ばれ、またその後「米生の郷(よなおうのごう)」と呼ばれるようになり、この言葉の音がなまって変わったものが、現在の「米子(よなご)」という由来があります。」(佐々木古代文化研究室月報 1960・8・25 発刊資料から)
〔平成 19 年 3 月 米子市経済部農政課/編集発行『米子市の農業』(p. 1) 〕
○ 上記のごとく、一説に「米生郷」が「米子」の語源であるともいい、また、平成十五年 (2003) 年に発行された『新修 米子市史 第一巻』においては「半生郷」について、《『和名類聚抄』の半生郷が米子市内にあったかつての「飯生村」が遺称地であるとすれば》という、仮説に基づく論が展開されている。
(pp. 466-467)
伯耆国風土記 大国主命の国造りにおいて右腕的存在の少名毘古那神も在地の風土記に見える。
伯耆の國の風土記に曰はく、相見の郡。郡家の西北[いぬい]のかたに餘戸[あまりべ]の里[さと]あり。粟嶋[あはしま]あり。少日子命[すくなひこのみこと]、粟を蒔[ま]くきたまひしに、莠實[みの]りて離々[ほた]りき。即[すなは]ち、粟に載[の]りて、常世の国に弾かれ渡りましき。故[かれ]、粟島と云ふ。
(『伯耆国風土記』は次のように言っている。相見郡家の西北に余戸里があり、そこに粟島がある。少日子命が粟を蒔いたら溢[あふ]れんばかりの実がなった。そこで、少日子命は粟に弾[はじ]かれて常世国に渡っていった。それで粟島というのである。)
常世国 現在の米子市の粟島が奈良時代には余戸里であったことのわかる貴重な資料であるが、大国主命との関係では地理的にも重要な位置を占めている。ここが常世の国の入り口であると考えられていたとも思われるからだ。
(p. 497)
和名類聚抄にみえる郷 平安時代の中ごろに成立した『和名類聚抄』によると、会見郡(米子平野)には日下・細見・美濃・安曇・巨勢・蚊屋・天万・千太・会見・星川・鴨部・半生の一二郷が記されている。郷数は時代によって変わることがあり、郷名が変化するものもあった。したがって、『和名類聚抄』に見える一二郷全部が奈良時代から存在したとは限らないし、失われた郷名があるかも知れない。会見郡一二郷のうち確実に奈良時代まで確認できるのは安曇、天万、巨勢の三郷である。
(pp. 500-501)
余戸里 『伯耆国風土記』逸文に出てくる。それは相見郡家の西北に余戸里があって、そこに粟島があると記されている(第一節)。粟島は米子市彦名町の粟島。現在、粟島には粟島神社がある。彦名とは粟島神社の祭神である少日子命にちなんだ地名である。「余戸里」は境港市に余戸があり、遺称地と考えられる。したがって、「余戸里」はこの粟島を含んだほぼ現在の弓浜半島全域であったことが知られる。「余戸里」は律令の五十戸一里制でできた余剰戸。弓浜半島は五十戸に満たない戸数であった。
ところで、この相見郡の「余戸里」は『和名類聚抄』には見えない。『伯耆国風土記」逸文は郡名を「相見」、『和名類聚抄』は「会見」と表記している。「会見」と表記するようになるのは奈良時代の後半、神護景雲年間であり、それ以前は「相見」であった。このことは、『伯耆国風土記』が奈良時代の前半には完成していたであろうことを推定させる。
それではこの余戸里はいつごろ消え、その後どのようになったのか。それについては次のようなことが考えられる。一つは、『和名類聚抄』の半生郷が米子市内にあったかつての「飯生村」が遺称地であるとすれば、平安時代には余戸里は半生郷に含まれてしまった。もう一つは、奈良時代に半生郷はなく、弓浜半島は余戸里、米子辺りは安曇郷の範囲であって、余戸里を中心に新たに半生郷を設けた。いずれにせよこの辺りの戸の再編があったのである。その時期は平安時代というより、郡名が「相見」から「会見」にその表記が変わった奈良時代の後半のことであったと思われる。
また、粟島は出雲国の国境近くにあることから『出雲国風土記』の研究者の多くは、『出雲国風土記』意宇郡条に「粟島 椎・松・多年木・宇竹・眞前等の葛有り」とある粟島に比定しているが、その理由を示したものはない。つまり『伯耆国風土記』逸文があるのにもかかわらず、彦名町の粟島を奈良時代には出雲国であったと見ているわけである。『出雲国風土記』には嶋根郡条にも粟島の記載があり、同名の島は全国に散見される。スクナヒコナの伝承は広く全国に分布しているのである。国境が明確であった奈良時代に、伯耆と出雲の両国がそれぞれこの粟島の所属を主張していたとは考えられない。彦名町の粟島は『伯耆国風土記』逸文にあるように、伯耆国相見郡余戸里であった。
〔『新修 米子市史 第一巻』通史編原始・古代・中世「原始・古代」より〕
◉ 上記の論に補足しておくと、出雲国風土記の意宇郡《餘戶里》の記述が参考となろう。
神龜四年の編戶に依り、一つの里を立てき。故、餘戶といふ。他郡もかくの如し。
と、割注に付記されており、また出雲国意宇郡の《餘戶里》は「和名抄の筑陽郷にあたる」と、その頭注にある。出雲国意宇郡に《餘戶里》が立てられた神亀四年は 727 年であった。
同じころに伯耆国会見郡でも《餘戶里》が立てられたかどうかはわからないけれど、上記「余戸里」論稿中に、《「会見」と表記するようになるのは奈良時代の後半、神護景雲年間であり、それ以前は「相見」であった。》と述べられかつ、《いずれにせよこの辺りの戸の再編があったのである。その時期は平安時代というより、郡名が「相見」から「会見」にその表記が変わった奈良時代の後半のことであったと思われる。》と考察されており、奈良時代の後半の神護景雲とは 767~770 年の間である。
そのころに、《「余戸里」は境港市に余戸があり、遺称地と考えられる。したがって、「余戸里」はこの粟島を含んだほぼ現在の弓浜半島全域であったことが知られる。》という、その「余戸里」は、「半生郷」に吸収・再編されたのだという。
となれば ―― つまり以上の論述に従えば ――「余戸里は半生郷に含まれてしまった」か「余戸里を中心に新たに半生郷を設けた」のであるから、どちらにしても〝「半生郷」は「ほぼ現在の弓浜半島全域であった」と推察される「余戸里」を含む領域となる〟という、結論が導かれる。
この結論が、《『和名類聚抄』の半生郷が米子市内にあったかつての「飯生村」が遺称地であるとすれば》という、仮説と合致するかどうかは、よくわからない。
The End of Takechan
○ 稲の実を《こめ》というが、《よな》から転訛した《よね》は、もと〝粟の実〟であったとされる。『字統』の「ベイ」6 画に【米】の文字があるので、「説文解字・巻七上」とともに参照しておこう。
【米】6 ベイ・マイ / こめ・よね
象形 実のついている禾[いね]の穂の形。〔説文〕七上に「粟の實なり。禾實[くわじつ]の形に象[かたど]る」とあり、粟[あわ]・稲をも含めた穀物の実を米というとする。~~。屈家嶺の米の種類は、日本種と同系のものであることが確かめられている。
〔白川静/著『新訂 字統』(p. 795) 〕
米 mǐ 粟實也。象禾實之形。凡米之屬皆从米。莫禮切。
〔鳳凰出版社(原江蘇古籍出版社)『説文解字校訂本』(pp. 199-200) 〕
◈ 粟嶋神社に祀られるスクナビコナは粟と稲種に縁のある神であるとともに、酒の神としても知られる。
○ 谷川健一『列島縦断 地名逍遥』に、次の記述がある。
『列島縦断 地名逍遥』(初出:冨山房インターナショナル 2010年5月21日発行)
夜見島 [よみのしま] ・粟島 [あわしま] ―― 死者の島
美保湾と中海をくぎる夜見ケ浜は、今は半島状をなしているが、『出雲国風土記』時代には夜見島[よみのしま]と呼ばれていたことが、国引きの章から分かる。すなわち能登の珠洲の岬を引いてきて、出雲の三保の崎とつなぎ合わせたときに、夜見島を引き綱としたというのである。長さ五里、幅一里にみたない島を綱にたとえたのは適切である。島の形が弓なりなので後世には弓が浜ともいったが、これは夜見島を訛ったものである。
夜見島はおそらく太古においては、黄泉[よみ]島、すなわち死者のゆく島ではなかったか。山陰海岸には砂丘葬あるいは水葬の痕跡がある。『伯耆国風土記』逸文には、郡家の西北の方角に余戸の里があり、そこに粟嶋があった。少日子の命が粟をまいて、粟の穂にのり、弾かれて常世の国に渡った、だから粟嶋という、とある。米子市に彦名の地名があり、彦名の中に粟島がある。今は陸地の丘となっているが、古代には海中の孤島であって、出雲国意宇郡に属していたと思われると『地名辞書』は述べている。
古代においては常世の国はそう遠くに想定されていたとも思えないから、少彦名命は、粟島から夜見島(黄泉島)に渡ったと考えられなくもない。さて、天平時代のあと、日野川の押し出す土砂のため、砂嘴がのびて、夜見島が半島となると、粟島も半島の一部となってしまった。
ちなみに少彦名命が粟茎[あわがら]に弾かれて常世国に渡った話は『日本書紀』(「神代上」)にも伝えているが、『古事記』によると少彦名は酒の神であり、その酒は粟から作ったものと思われるから粟との関係はふかい。
〔『谷川健一全集 16』(pp. 381-382) 〕
The End of Takechan
○ 参考として、古事記で語られている、スクナビコナの酒を見ておきたい。
[原文] 於是還上坐時、其御祖息長帶日賣命、釀待酒以獻。爾其御祖御歌曰、
許能美岐波 和賀美岐那良受 久志能加美 登許余邇伊麻須 伊波多多須 須久那美迦微能 加牟菩岐 本岐玖流本斯 登余本岐 本岐母登本斯 麻都理許斯美岐叙 阿佐受袁勢 佐佐
如此歌而、獻大御酒。
(頭注)
御祖息長帶日賣命
御母の神功皇后。
待酒
来る人を待って作る酒。無事に待つ人が来ることを祈るためのもの。万葉巻四に「君がため醸みし待酒安の野に独りや飲まむ友無しにして」(五五五)、巻十六に「味飯(ウマイヒ)を水に醸み成し吾が待ちしかひは曾て無し直にしあらねば」(三八一〇)とある。
御祖
神功紀十三年の条には「太子至自角鹿。是日、皇太后宴太子於大殿。皇太后挙觴以寿于太子。因以歌曰」とある。
許能美岐波 和賀美岐那良受
この御酒は、私が造った御酒ではない。➝補注一〇一
久志能加美
クシは酒の意。カミを神と解する説もあるが、記伝に「酒之上なり。(中略)加美は、上(カミ)なり。長子を子上(コノカミ)と云、書紀に、長首、魁帥、尊長などを、ヒトコノカミ、座長を、クラカミ、氏上を、コノカミ、氏長をウヂコノカミなど訓、又諸司に各其長官を加美と云。これらの加美と同くて、酒の首長と云意なり。〔此の加美を、人皆神と心得たる、それもこともなく穏に聞ゆれども、吾大人の考の如く、記中、神の仮字はみな、迦微と書て、美字を用ひたることなければ、此は神には非ず。」と説いているのが正しい(所謂甲乙両類の仮字の相違を、宣長以前に真淵が多少気づいていたことは注意すべきである)。なお亀井孝氏は「奇しの醸み」の意に解している。一説として掲げて置く。
登許余邇伊麻須
常世の国にいらっしゃる。
伊波多多須
岩石としてお立ちになっている。これはこの国では石像としてお立ちになっているという意であろう。延喜式神名帳、能登国羽咋郡に「大穴持像石(カタイシ)神社」、能登郡に「宿那彦(スクナヒコ)神像石神社」があるのが参考となる。
須久那美迦微
少名毘古那神。大物主神(大穴持神の和魂)と共に、酒造りの神とされていたようである。
阿佐受
記伝には「御盃を乾涸(カワカ)さず」、稜威言別には「不余」で「余(ノコサ)ず」、武田博士は「酒盃を浅くせず、なみなみと注いで」(記紀歌謡集全講)、土橋寛氏は「残さず」(本大系 3 )と解している。しばらく酒杯を乾かさずにの意とする。
袁勢
召し上れで、ここはお飲みなさい。
佐佐
囃詞である。
[訓み下し文] 是に還り上り坐しし時、其の御祖息長帶日賣の命、待酒を釀みて獻らしき。爾に其の御祖、御歌曰みしたまひしく、
この御酒は 我が御酒ならず 酒の司 常世に坐す 石立たす 少名御神の 神壽き 壽き狂ほし 豐壽き 壽き廻し 獻り來し御酒ぞ 乾さず食せ ささ
とうたひたまひき。如此歌ひて大御酒を獻りたまひき。
(ふりがな文) ここにかへりのぼりまししとき、そのみおやおきながたらしひめのみこと、まちざけをかみてたてまつらしき。ここにそのみおや、みうたよみしたまひしく、
このみきは わがみきならず くしのかみ とこよにいます いはたたす すくなみかみの かむほき ほきくるほし とよほき ほきもとほし まつりこしみきぞ あさずをせ ささ
とうたひたまひき。かくうたひておほみきをたてまつりたまひき。
崇神紀八年の条には「以高橋邑人、活日、為大神之掌酒(サカビト)。(中略)天皇以大田田根子、令祭大神。是日、活日自挙神酒献天皇。仍歌之曰」とあって、「この御酒は我が御酒ならず。倭成す、大物主の、醸みし御酒。幾久、幾久。」の歌を載せている。
〔日本古典文学大系『古事記 祝詞』(pp. 236-237, p. 354) 〕
The End of Takechan
◎ さて。伯耆国風土記が成立した年は不明だけれど、古事記は和銅五年 (712) 、日本書紀は養老四年 (720) 年、出雲国風土記は天平五年 (733) に成立している。―― 伯耆の国の風土記が伝えるところでは。
少日子命、粟を蒔きたまひしに、莠實りて離々りき。卽ち、粟に載りて、常世の國に彈かれ渡りましき。故、粟嶋と云ふ。
この物語が、中央の神話に採用されて、日本書紀に、
亦曰はく、淡嶋に至りて、粟莖に緣りしかば、彈かれ渡りまして常世鄕に至りましきといふ。
と記録されたのだとしても、何ら不自然な点はない。
◉ 出雲国風土記に「粟嶋」の記述は複数個所あるけれど、スクナビコナは、〈須久奈比古命〉の名でだた一度しか登場しない。そしてその類話は〈少日子根命〉の名で播磨国風土記にも収録されている。
とも、前回に述べていた。―― そのとおり。出雲国風土記に「粟嶋」とスクナビコナを結びつける説話は記録されていないのである。
◈ いっぽうで『先代旧事本紀』の「天神本紀」には、スクナビコナと鳥取を結びつける記述が残されている。
少彥根命 鳥取連等祖
○ この記事の、文脈を確認しておこう。
(写本によっては、〈少彥根命〉は〈少彥名命〉あるいは〈天少彥根命〉と書かれているという。)
先代奮事本紀卷第三 天神本紀
正哉吾勝々速日天押穗耳尊
天照太神詔曰。豐葦原之千秋長五百秋長之瑞穗國者。吾御子正哉吾勝々速日天押穗耳尊可知之國。言寄詔賜而。天降之時。高皇產靈尊兒思兼神妹萬幡豐秋津師姬栲幡千々姬命爲妃。誕‐生天照國照彥天火明櫛玉饒速日尊之時。正哉吾勝々速日天押穗耳尊奏曰。僕欲將降裝束之間。所生之兒。以此可降矣。詔而許之。天神御祖詔。授天璽瑞寳十種。謂。羸都鏡一。邊都鏡一。八握劔一。生玉一。死反玉一。足玉一。道反玉一。蛇比禮一。蜂比禮一。品物比禮一是也。天神御祖敎詔曰。若有痛處者。令玆十寳謂一二三四五六七八九十而布瑠部。由良由良止布瑠部。如此爲之者。死人反生矣。是則所謂布瑠之言本矣。高皇產靈尊勑語曰。若有葦原中國之敵拒神人而待戰者。能爲方便誘欺防拒而。令治平。令三十二人並爲防衛。天降供奉矣。
天香語山命 尾張連等祖
天鈿賣命 猨女君等祖
天太玉命 忌部首等祖
天兒屋命 中臣連等祖
天櫛玉命 鴨縣主等祖
天道根命 川瀨造等祖
天神玉命 三嶋縣主等祖
天椹野命 中跡直等祖
天〔天村雲命麗氣有之〕糠戶命 鏡作連等祖
天明玉命 玉作連等祖
[天村雲命] [度會神主等祖]
天神立命 山背久我直等祖
天御陰命 凡河內直等祖
天造日女命 阿曇連等祖
天世平命 久我直等祖
天斗麻祢命 額田部湯坐連等祖
天背男命 尾張中嶋海部直等祖
天玉櫛彥命 間人連等祖
天湯津彥命 安藝國造等祖
天神魂命 葛野鴨縣主等祖
天三降命〔亦云三統彥命〕 豐國宇佐國造等祖
天日神命 「縣主」對馬縣主等祖
〔天〕乳速日命 廣湍神麻續連等祖
〔天〕八坂彥命 伊勢神麻續連等祖
〔天〕伊佐布魂命 倭文連等祖
〔天〕伊岐志邇保命 山代國造等祖
〔天〕活玉命 新田部直等祖
〔天〕少彥根命 鳥取連等祖
〔天〕事湯彥命 畝尾連等祖
八意思兼神兒〔天〕表春命 信乃阿智祝部等祖
次下春命 武藏秩父國造等祖
〔天〕月神 [ミタマ] 命 壹岐縣主等祖
〔新訂增補『國史大系 7』(pp. 25-27) 〕
◈ ところで。夜見嶋が弓の形をした半島(夜見ヶ浜半島・弓ヶ浜半島)となったのは、歴史時代では、そもそもいつ頃なのか。―― ヒントとしては、『大山寺縁起』の「(十一段)大山と夜見ヶ浜、中海周辺の大景観。」〔『企画展 はじまりの物語』(p.63) 参照〕に、島根半島の北の海の上空から大山(だいせん)を望んだ絵があり、そこに半島の形状で弓ヶ浜が描かれている。
○ 原本は残っていないけれど『大山寺縁起』の絵を古い地形図として見れば、西暦 1300 年代、夜見嶋はすでに島ではなくなっていたことがわかる。
伯耆国大山寺の創建の経緯を描いた全十巻の絵巻。原本は、応永五年(一三九八)に前豊前入道了阿によって制作されたが、昭和三(一九二八)年に焼失。
〔鳥取県立博物館/編集・発行『企画展 はじまりの物語』(p. 58) 〕
(URL : https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0047196 )
○ では、粟嶋が島でなくなったのはいつ頃か。〝安政の大獄〟がはじまった年の安政五年 (1858) の完成であるともされる『伯耆志』の記述が以前は採用されていた。―― その箇所を抜粋するが、その記事は伝聞をそのまま記述した内容のようにも思われる。
寳曆の頃迄は此地に一川ありて參詣の人舟にて渡りしか故に三文渡と呼ひしか(賃三錢にて渡りしなり)新田墾發するに從ひ遂に陸地となりしと云へり
〔景山肅雍/著『伯耆志』(p. 305) 〕
○ 粟嶋村に関する実際の記録を、『鳥取県史』に収録された資料から、少しばかり辿ってみた。
「二二 会見郡富益村根元記」 ○ 米子市久米町 山陰歴史館蔵
富益村根元記
此所白砂之土地ニて百姓難成居住、其儘ニ有之事数年也。然るに宝永二年午十月小篠津村角与兵衛より深田甚左衛門殿え所望いたしたく由及相談直ニ願書指出候処、無滞被仰付則与兵衛土地ニ罷成候。同六年戌四月和田村境より南五百九十間、但大崎村境より東灘まて代銀五貫三百目をもって左之人数十七人買受申候。……
新田由来之事
一
五百九十間之上境より東灘まて瀬崎・上道・中野三ケ村のもの同新田之存寄ニて小篠津村与兵衛より新地百八十五間買受申候へ共古郷難忘候哉移転いたさす其儘ニ有之、然処享保十二未三月秋山伴内様御新田役之節往来より西新堀まて、北は右五百九十間之上境より夜見境まて樋口彦三郎様より新地買受新開ニ相成、則号富益新田。
一
翌十三年申之年御同人様御役之節、新堀より西通与右衛門上境より夜見村まて、南西は粟嶋村大崎村まて作州倉敷平兵衛願地ニ相成、追々百姓繁栄いたし耕作之地ニ相成、名号富益新田朝里屋。
一
先年正徳季中根元記は虫入文字分兼、仍て此巻を書写す。至後世迷ひも有んや、愚筆を馳るものなり。
文化元年甲子四月写之
〔『鳥取県史』 第8巻 近世資料「庶民史料」(p. 56, p. 57) 〕
◎ ここで確認できたところではまず《富益村根元記》の冒頭、宝永二年 (1705) に「小篠津村角与兵衛」より「願書指出候処」、滞りなく「与兵衛土地」として許可が下されたという。
◎ 次に、《新田由来之事》享保十三年 (1728) の記事に〝粟嶋村〟の記載がある。
その前年に「富益新田」が開発されており、1728 年には「富益新田朝里屋」と名づけられた「新堀より西通与右衛門上境より夜見村まて、南西は粟嶋村大崎村まて作州倉敷平兵衛願地」が成った、という記録である。
○ 最後にもう二点、『鳥取県史』の資料から、今度は「宝暦」の記載がある記事を参照しよう。
一
会見郡粟嶋村并後藤治部左衛門新開願之儀、左之通ニ被仰付候付、御郡え申遣ス。尤後藤治部左衛門えは御新田奉行西村忠兵衛より、右御書付相渡ス。
後藤治部左衛門
宝暦年中、祖父治部左衛門依願、粟嶋村灘筋新田開発、一村ニ被仰付候処、近頃粟嶋村よりも新開願出候趣承及ひ、明神山より大崎村榜示迄瀬方一円、治部左衛門開場免許之旨再応申出、寸地も粟嶋村え相譲り候存意無之趣、甚不本意之事ニ有之候。出村と申筋ニハ無之候得共、元来粟嶋村榜示之新村ニ候得ハ、仮令粟嶋村不筋之儀申出候とも、和順之取扱可有之所、争論之意地有之ニ付、粟嶋村ニても人気立候取構相聞、全躰和順を本とし譲りを先といたし候ハヾ、争論出訴之義ハ無之筈ニ候処、右等心得違利欲ニ迷ひ勝負を相唱候存念ニ候得は、願筋無御取上、新開之義ハ双方共御差留被成候事。
粟嶋村
其村榜示ニおゐて、宝暦年中後藤治部左衛門祖父新田開発相願、一村ニ被仰付候已来、引続新開致し候処、近頃其村よりも新開存付、依之治部左衛門開場相障、剰人気立候取構も相聞、甚以不届之儀、殊ニ新田開発之義ハ他郡他村之差別なく、依願被仰付候御作法をも不相弁、強て榜示之訳申立候段不穿鑿之至、急度御取調可被成筋ニ候得共、此度ハ被成御免喉。全躰和順之心得厚く、譲りを先といたし候ハヾ、争論出訴ハ無之筈ニ候処、利欲ニ迷ひ勝負を相唱候存念候得ハ、願書御取上なく、新開之義ハ双方御差留被成候。
〔『鳥取県史』 第10巻 近世資料「諸事控」(pp. 661-662) 〕
一
米子町後藤次部左衛門儀、宝暦年中祖父次部左衛門相願、会見郡粟嶋村へ新田致開発、先年後藤村一村ニ被仰付、引続開立致出精、追々御高物成増し致上納候処、開立入用多分相懸り勝手向致難渋候ニ付、相応之御恵被仰付被為下候様、天保二卯年九月相願候処、年々米五石宛、在方役手取計を以被下、此余格別出精開立候ハヽ、猶又御評儀可有之旨被仰付置候処、別紙之通相願候旨、此度次部左衛門出府歎出候段、先達て内匠介殿家臣より、御吟味役迄懸合越し、御役所えも左之願書差出し候ニ付、伺扣有之通り相伺候処、御聞届相済候ニ付、被仰渡候御用之儀有之候間、住山小太郎宅え罷出候様、御吟味役より内匠介殿家臣え申遣し候処、同日罷越し候ニ付、左之通り申渡。猶被仰渡之趣、小太郎より内匠介殿家臣へ、別紙相添懸合、其段大庄屋えも、名代幸右衛門へ申渡候様、別紙相添申遣ス。
〔『鳥取県史』 第10巻 近世資料「諸事控」(p. 1278) 〕
◎ 宝暦(ほうれき)の年号は、1751~1764 年の間となっている。さて『伯耆志』にいう、「三文渡」のあった時代は、この頃までであったのか。ここでのこれ以上の推論は避けておこう。
(p. 106)
現在粟島と称する神社は、例えば群馬県邑楽郡佐貫の地、鳥取県米子市彦名の地、さらに、大分県南海部郡米水津の地にそれぞれ鎮座するが、これらはみな、共通してその祭神が少彦名神[すくなひこなのかみ]である。
(p. 584)
阿波嶋 屋嶋
アハシマトハ、讃岐国。屋嶋北去百歩許、有嶋。名曰阿波嶋トイヘリ。
(p. 795)
【米】6 ベイ・マイ / こめ・よね
象形 実のついている禾[いね]の穂の形。〔説文〕七上に「粟の實なり。禾實[くわじつ]の形に象[かたど]る」とあり、粟[あわ]・稲をも含めた穀物の実を米というとする。
この御酒は 我が御酒ならず 酒の司 常世に坐す 石立たす 少名御神の 神壽き 壽き狂ほし 豐壽き 壽き廻し 獻り來し御酒ぞ 乾さず食せ ささ
※ ヨナが転訛してヨネとなった。ヨナはイネの母音交替形とされる。
◈ 米(ヨナ・ヨネ)は、もと《粟の実》であり、主食の実で〈酒〉を醸造する文化があればいつしか稲の実を米というのは、自然な展開だったと思われる。米(コメ)というのは、籠(コム)に通じる音韻であるともいう。
以下、引用文献の情報