比婆の山 / 妣の国

比婆之山 / 妣(はは)の国


◈ 前回の終わりに書いた。今回の最初のテーマでもある泣く子の話だ。


◎ 出雲国風土記に記録された〈阿遅須枳高日子命〉の〝泣いてばかりで、ものいわぬ御子〟の物語は、古事記と日本書紀に垂仁天皇の〝ものいわぬ皇子〟の物語として、記述されている。


◈ このほかにも、妣を慕って〝青山(あおやま)は枯山(からやま)のごとく泣き枯らした〟神の物語が日本にはある。記紀神話の破壊的なまでに泣いてばかりの神といえば、〈八岐大蛇〉―― ヤマタノヲロチ ―― を退治した神でもある、スサノヲが世界的に有名だろう。


◎ スサノヲ の 妣の国 ◎


○ たとえばレヴィ=ストロースは、日本神話の翻訳を要約文で紹介していて、その和訳も時に興味深い。


『蜜から灰へ』

〈第三部〉暗闇の楽器 Ⅰ 騒音と悪臭

M311 日本 泣き虫の「赤ん坊」

イザナギという神は、自分の妹であり妻であるイザナミが死んだ後、世界を三人の子供に分け与えた。イザナギの左目から生まれた、太陽である娘、アマテラスには空を委ねた。右目から生まれた、月である息子、ツキヨミには海を委ねた。鼻汁から生まれた、もう一人の息子、スサノオには大地を委ねた。

その頃、スサノオは男盛りであって、長さ八アンパン〔一アンパンは手を一杯に広げたときの親指の先から小指の先までの長さ〕の髭が生えていた。しかしスサノオは大地の主の務めをなおざりにして、うめいたり、泣いたり、怒って口から泡を吹いたりばかりしていた。心配をする父親にスサノオは、あの世で母親と暮らしたいのだと答えた。それでイザナギは息子を憎み、息子を追い出した。

イザナギ自身も死んだ妻に再会しようと試みたことがあるので、死んだ妻はもはや膿んでふくれあがった死骸にすぎず、頭、胸、腹、背中、尻、両手、両足、陰門に八人の雷神が住んでいることを知っていたのである ……。

スサノオはあの世に亡命する前に、姉のアマテラスに別れを告げるため、空に昇る許しを父親から得た。だが空に着くやいなや、田圃を汚したので、アマテラスは憤慨して、洞窟に閉じこもり、世界から自分の光を隠した。悪行の罰として、弟は永久にあの世に追放されることになり、艱難辛苦の末あの世にたどり着いた (Aston, vol. 1, p.14‑59)。


かなり長い神話を非常に短く要約したこの断片を、南アメリカのいくつかの物語と比較してみると興味深い*。


* および北アメリカの神話とも。たとえば第Ⅲ巻で紹介する、デネ=ポー・ドゥ・リーヴルの神話の一節、「妹のクニャン(造物主)との結婚で息子が生まれた。いつも泣いている不機嫌な息子であった」(Petitot, p. 145)。

文 献

ASTON, W. G. ed. :

« Nihongi. Chronicles of Japan from the Earliest Times to A.D. 697 », Transactions and Proceedings of the Japan Society, London, 2 vol., 1896.

PETITOT, E. :

Traditions indiennes du Canada nord-ouest, Paris, 1886.

〔クロード・レヴィ=ストロース/著『蜜から灰へ』早水洋太郎/訳 (pp. 437-438) 〕


―― スサノヲが高天原で行なった悪業は、《天つ罪》として、延喜式祝詞の「六月晦大祓」に、


畔放ち・溝埋み・樋放ち・頻蒔き・串刺し・生?ぎ・逆?ぎ・屎戸、ここだくの罪を天つ罪と法り別けて

(あはなち・みぞうみ・ひはなち・しきまき・くしさし・いきはぎ・さかはぎ・くそと、ここだくのつみをあまつつみとのりわけて)


と列挙されている。


○ 実は「六月晦大祓」には《神掃ひ掃ひ賜ひて》の文言がある。《神掃ひ》等の注解文を参照しておきたい。この祝詞中には〈カムハカリ〉とか〈カムハラヒ〉などの、繰り返して用いられている文言がいくつかある。


『延喜式祝詞』

六月晦大祓 [ミナヅキノツゴモリノオホハラヘ]

六月晦大祓 十二月准此。

集侍親王・諸王・諸臣・百官人等、諸聞食止宣。

……、今年六月晦之大祓尓、祓給比清給事乎、諸聞食止宣。

高天原尓神留坐皇親神漏岐・神漏美乃命以弖、八百万神等乎神集集賜比、神議議賜弖、我皇御孫之命波豊葦原乃水穂之国乎、安国止平久所知食止事依奉岐。如此依志奉志国中尓荒振神等乎波、神問志尓問志賜、神掃掃賜比弖、語問志磐根・樹立・草之垣葉乎毛語止弖、天之磐座放、天之八重雲乎伊頭乃千別尓千別弖、天降依左志奉支。……


【訓読文】

六月の晦の大祓 十二月も此れに准へ。

集はり侍る親王・諸王・諸臣・百の官の人等、諸聞き食へと宣る。

……、今年の六月の晦の大祓に、祓へ給ひ清め給ふ事を、諸聞き食へと宣る。

高天の原に神留り坐す皇親神漏岐・神漏美の命以ちて、八百万の神等を神集へ集へ賜ひ、神議り議り賜ひて、我が皇御孫の命は豊葦原の水穂の国を、安国と平らけく知ろし食せと事依さし奉りき。かく依さし奉りし国中に、荒振る神等をば、神問はしに問はし賜ひ、神掃ひ掃ひ賜ひて、語問ひし磐根・樹の立・草の垣葉をも語止めて、天の磐座放ち、天の八重雲をいつのち別きにち別きて、天降し依さし奉りき。……

(みなづきのつごもりのおほはらへ しはすもこれにならへ。

うごなはりはべるみこたち・おほきみたち・まへつきみたち・もものつかさのひとども、もろもろききたまへとのる。

……、ことしのみなづきのつごもりのおほはらへに、はらへたまひきよめたまふことを、もろもろききたまへとのる。

たかまのはらにかむづまりますすめむつかむろき・かむろみのみこともちて、やほよろづのかみたちをかむつどへつどへたまひ、かむはかりはかりたまひて、あがすめみまのみことはとよあしはらのみづほのくにを、やすくにとたひらけくしろしめせとことよさしまつりき。かくよさしまつりしくぬちに、あらぶるかみたちをば、かむとはしにとはしたまひ、かむはらひはらひたまひて、こととひしいはね・このたち・くさのかきはをもことやめて、あまのいはくらはなち、あまのやへぐもをいつのちわきにちわきて、あまくだしよさしまつりき。…… )


【注解】

祓へ給ひ清め給ふ事を ― 「祓ふ」は下二段活用動詞であるから「祓へ給ひ」と訓む。「祓ふ」とは自分が犯した罪の贖いをするために、相手や神に対して祓えつ物(物品)を差し出して、罪を除き清めることをいう。多く他からの制裁として、「祓へ」を科すと使われる。「給ふ」は天皇の朝廷が主催しての祓えによって、百官男女の罪を祓い給うのである。

高天の原に神留り坐す皇親神漏伎・神漏美の命以ちて ― 祈年祭の祝詞に既出(六一頁)。ここは本来は「神漏伎・神漏美の命の命以ちて」とあるべきところだが、言葉が重複してリズムを壊すので省略しているのである。「命以ちて」はお言葉(御命令)によって、の意。

八百万の神等 ― 神々の数が非常に多いことをいう。実数としての八百万というのではない。古事記の天の石屋戸の段に「八百万神於天安之河原、神集々而[かむつどひつどひて]、〔訓集云都度比〕」とあり、萬葉集にも、「天[あま]の河原[かはら]に 八百万[やほよろづ] 千万神[ちよろづかみ]の 神集[かむつど]ひ 集ひいまして 神[かむ]はかり はかりし時に」(2 一六七)と見える。

神集へ集へ賜ひ ― 「神」は下の行為が神に属することを表わす接頭語。この場合の「集ふ」は下二段の他動詞であるから、「集へ」となる。神漏伎・神漏美命の命令によって、神々を集めに集めなさるのである。「集へ集へ」と語を重ねて、その行為の盛んなさまを強調するのは古文の修辞法の一つである。

神議り議り賜ひて ― 名義抄に「議〈ハカル〉」とある。「議り議り」でさかんに相談することである。

我が皇御孫の命 ― 「我が」は神漏伎・神漏美命から皇孫を親愛しての語である。ここの「皇御孫の命」は皇孫邇邇芸命[ににぎのみこと]を指している。これ以後の代々の天皇を指していう場合もある。

国中 ― 「くぬち」と訓む。「くにうち」の縮約 (kuni・uti ➝ kunuti)。国内の意。萬葉集に「悔しかも かく知らませば あをによし 国内[くぬち](久奴知)ことごと 見せましものを」(5 七九七)とある。但し、下に出る「四方の国中[くになか]」という場合は国の中央の意で、「くになか」と訓む。

荒振る神等 ― 出雲国造神賀詞に「荒布留神等乎撥平気」とある。天孫の王化に従わず荒れすさぶ神等、の意。

神問はしに問はし賜ひ ― なぜ帰順しないかとさかんに詰問なさる意。

神掃ひ掃ひ賜ひて ― 名義抄に「掃〈ハラフ〉」とある。「掃討する」という場合の掃である。帰順しない敵を武力を行使してさかんにうち滅ぼすのである。

語問ひし磐根・樹の立・草の垣葉をも語止めて ― 大殿祭の祝詞に既出(一六〇頁)。神代紀第九段一書 6 には「葦原中国者、磐根・木株・草葉、猶能言語。」とある。

天の磐座放ち ― 「天の」は高天原の物に冠する語。「磐座」は岩のように堅固な玉座。大殿祭の祝詞の「天津高御座」のこと。高天原の玉座を放って。

天の八重雲を ― 天上に幾重にも層をなしている(重畳している)雲。

いつのち別きにち別きて ― 「いつの」は神代紀に「稜威、此云伊頭」とあり、古事記上に「伊都 〔二字以音。〕 之男建 〔訓建云多祁夫。〕 踏建而」とある「いつ」で、威厳にみちて勢いの激しいことをいう。「ち別きにち別きて」は神代紀下に「稜威之道別道別而」とあり、天降るべき道をかき分けにかき分けての意。古事記上に「詔天津日子番能邇々芸命而、離天之石位、押分天之八重多那 〔此二字以音。〕 雲而、伊都能知和岐知和岐弖[いつのちわきちわきて] 〔自伊以下十字以音。〕」とある。

天降し依さし奉りき ― 天上から地上の国へお降しし、この国をお委[ゆだ]ね(御委任)申し上げました。

〔粕谷興紀/注解『延喜式祝詞』(pp. 180-181, pp. 186-187, pp. 190-193) 〕


◎ 名義抄に「掃〈ハラフ〉」とあって、〈カムハラヒ〉――「神掃ひ」は「掃討する」という意味になる、と注解にあるけれど ―― もしかして、〈カムハラヒ〉は日本書紀に《掃ふ神》と記録された〈泉津事解之男〉に関係するか?

また、あるいは〈カムハカリ〉はアヂスキタカヒコネの〈大量〉すなわち〈神度剣〉に通じるか? 現代の辞書にも【度量】は「長さと容積」などとあって、神度剣は、カムハカリノツルギとも訓めるのであるから。


The End of Takechan

◈ 古事記の《掃持》―― 日本書紀では《持帚者》―― すなわち〈ハハキモチ〉は、葬送に描かれ、吉野裕子氏は古代の死生観を論じて、死者を未来に新生する胎児として扱う風習を紹介した。このことは、いずれ詳しく検討する予定なのだけれど、《掃守》すなわち〈カモリ〉は、産屋(うぶや)の神話に重要な役目を担って、古語拾遺〔「天祖彦火尊、娉海神之女豊玉姫命、生彦瀲尊。誕育之日、海浜立室。于時、掃守連遠祖天忍人命、供奉陪侍。作箒掃蟹、仍、掌鋪設。遂以為職。号曰蟹守。」岩波文庫『古語拾遺』(p. 130) 〕に登場する。


○ ここでは、箒神(ほうきがみ・ははきがみ)が、死と生の境界における守護者として信仰される習俗を確認するにとどめる。古来、出産は、死と隣り合わせの時間と空間の体験でもあった。


『谷川健一全集 2』

『民俗の神』(初出:淡交社 1975 年 5 月 2 日発行)

民俗の神 Ⅰ

産屋と喪屋

奄美大島では生後一年たった子どもを「ユノリがあった」という。「ユノリ」は世直りのことである。世直りというのはこのばあい、あの世からこの世に直ることを意味する。九州から南では「直る」といえば移ることである。逆にいえば生まれて一年たたないあいだは、まだ確実にはこの世に生まれ返ってないと考えられていた。生まれることが再生にほかならぬことをこのようにはっきりと示すことばはない。

そうしてあの世からこの世に生まれ移るためには、あの世とこの世との境目に産屋がもうけられねばならなかった。


神と魔

医学のすすんでいない時代の人間にとっては、死から生への継ぎ目を無事に移行できるかどうかということは大きな問題であった。そのためには産神[うぶかみ]の加護が何としても必要であった。出産のために命を落とす産婦は多く、誕生してもながく生きられない子どもの数はおびただしかった。

…………

平城天皇の大同二年(八〇七)に斎部[いむべ]広成が著述した『古語拾遺』には次の文章がある。


天祖彦火尊、海神之女豊玉姫命にみあひまして、彦瀲尊をあれましき。誕育之日、海浜に室をたてたまひき。その時、掃守連遠祖、天忍人命、供へ奉り侍りしに、箒を作りて蟹を掃ひたまひき。かれ鋪設をつかさどれり。それ遂に職と為りて、号をも蟹守とは曰ひき。(今の俗に之を掃守と謂ふは、彼詞の転れる也。)

あまつみおやひこほのみこと、わたつみのむすめとよたまひめのみことにみあひまして、ひこなぎさのみことをあれましき。ひたしまつりたもふとき、うみべたにうぶやをたてたまひき。そのとき、かむもりのむらじがとほつおや、あまのおしひとのみこと、つかへまつりはべりしに、ははきをつくりてかにをはらひたまひき。かれしきものをつかさどれり。それつひにわざとなりて、なをもかにもりとはいひき。(いまのよにこれをかむもりといふは、かのことばのうつれるなり。)


この文章にみる通り、産屋を海辺に建てたので、産屋の中に蟹が入りこんだ。そこで箒[ほうき]で掃ったというのは、産屋の床に砂が敷いてあったことを推定させる。また産屋と箒とが密接な関係をもっていることが語られている。

コズエババ(産婆)が箒で産婦の腹をなでて、「はよう安うもたせて下さいまっせ」と安産を箒神に頼む所が九州にあった。箒神を産神とみなす習俗は各地にあり、産室の隅に箒を立てて安産のまじないとする所は多い。

朝鮮には産室の隅に藁の束を立てる習俗があるが、日本にもおなじような風習があり、産神さまがこれに腰をかけるといっている。また藁の束を産神さまとしてまつるばあいもみられる。これらのことを思いあわせてみると、箒神は、もとは藁の束ではなかったかという推測が成り立つ。産婦がすわって産をするときに、藁の束をつくってその腰にあてる風習は敦賀の立石半島にみられる。あるいは砂の上に積み重ねた敷藁を束ねて、それを産神とみなしたかも知れない。産屋の藁はたんなる藁ではなく産婦とその子どもをまもってくれる神なのである。

それは産屋のまわりに母と子の生命をうかがう邪神がたえずうろついているからであった。産屋の生活は生と死とのたたかいであり、それは同時に産神と邪神とのたたかいの場でもあった。……

〔『谷川健一全集 2』(p. 469, pp. 476-477) 〕


『日本民俗語大辞典』

ははき 菷

ははきがみ・ははきもち・ホウキ・掃クに関係する語。ワラシベ・モロコシの穂・シュロの葉鞘からとった繊維・竹の枝、菷草の茎を乾かし束ねた物など ―― 現在は掃除道具となっている。

…………

「古事記」・上巻で、「天若日子」の死の喪屋で、八日間、鷺が「菷持[ははきもち]」となっているのは、白い鳥が、霊魂の保管者であるという古い信仰と、殯宮での蘇生・転生を願う、招魂呪法役を、菷が期待されたのである。

〔石上堅/著『日本民俗語大辞典』(p. 1071, p. 1072) 〕


◈ 次にとりあえずは ―― 前回に省略した、日本書紀「神代上 第五段一書〔第十〕」の記事、

乃ち唾く神を、號けて速玉之男と曰す。次に掃ふ神を、泉津事解之男と號く。

(すなはちつはくかみを、なづけてはやたまのをとまうす。つぎにはらふかみを、よもつことさかのをとなづく。)

の原典を確認しておく。


○ その文脈から〈速玉之男〉〈泉津事解之男〉は、両方ともヨモツヒラサカにおいて、イザナミを封じるための、結界と祓いの神であることがわかる。―― その神々が、出雲の比婆山久米神社などでは、イザナミの両脇に祀られているという次第なのだ。


日本古典文学大系『日本書紀 上』

「神代上 第五段一書〔第十〕」

[原文] 一書曰、伊奘諾尊、追至伊奘冉尊所在處、便語之曰、悲汝故來。答曰、族也、勿看吾矣。伊奘諾尊、不從猶看之。故伊奘冉尊恥恨之曰、汝已見我情。我復見汝情。時伊奘諾尊亦慙焉。因將出返。于時、不直默歸、而盟之曰、族離。又曰、不負於族。乃所唾之神、號曰速玉之男。次掃之神、號泉津事解之男。凡二神矣。及其與妹相闘於泉平坂也、伊奘諾尊曰、始爲族悲、及思哀者、是吾之怯矣。


(頭注) 第十の一書には、第六の一書の諾神の黄泉の訪問、そこからの脱走の話、絶妻之誓の話、更に、みそぎの話などに対応する話がある。特に絶妻之誓の話には族離れ・泉守道者・菊理媛などについて見え、みそぎの話では、みそぎの場所について独自の話が見える。

実情の意。名義抄にマコト・ミナリ。

族離

離婚しようの意。さきに「建絶妻之誓」(九三頁)とあったのと、同じ事柄をいう。

掃は、ハキ、ハラフ意。ここでは関係を断つ意。

泉津事解之男

コトサカは、関係をさく意。離縁。コトは言、また事。サカは離(さか)るの語根。孝徳紀大化二年三月条に「事瑕之婢」がある。「族離れなむ」という言葉に応じる名。


[訓み下し文] 一書〔第十〕に曰はく、伊奘諾尊、追ひて伊奘冉尊の所在す處に至りまして、便ち語りて曰はく、「汝を悲しとおもふが故に來つ」とのたまふ。答へて曰はく、「族、吾をな看ましそ」とのたまふ。伊奘諾尊、從ひたまはずして猶看す。故、伊奘冉尊、恥ぢ恨みて曰はく、「汝已に我が情を見つ。我、復汝が情を見む」とのたまふ。時に、伊奘諾尊亦慙ぢたまふ。因りて、出で返りなむとす。時に、直に默して歸りたまはずして、盟ひて曰はく、「族離れなむ」とのたまふ。又曰はく、「族負けじ」とのたまふ。乃ち唾く神を、號けて速玉之男と曰す。次に掃ふ神を、泉津事解之男と號く。凡て二の神ます。其の妹と泉平坂に相闘ふに及りて、伊奘諾尊の曰はく、「始め族の爲に悲び、思哀びけることは、是吾が怯きなりけり」とのたまふ。


(ふりがな文) あるふみ〔だいじゅう〕にいはく、いざなきのみこと、おひていざなみのみことのますところにいたりまして、すなはちかたりてのたまはく、「いましをかなしとおもふがゆゑにきつ」とのたまふ。こたへてのたまはく、「うがら、われをなみましそ」とのたまふ。いざなきのみこと、したがひたまはずしてなほみそなはす。かれ、いざなみのみこと、はぢうらみてのたまはく、「いましすでにわがあるかたちをみつ。われ、またいましがあるかたちをみむ」とのたまふ。ときに、いざなきのみことまたはぢたまふ。よりて、いでかへりなむとす。ときに、ただにもだしてかへりたまはずして、ちかひてのたまはく、「うがらはなれなむ」とのたまふ。またのたまはく、「うがらまけじ」とのたまふ。すなはちつはくかみを、なづけてはやたまのをとまうす。つぎにはらふかみを、よもつことさかのをとなづく。すべてふたはしらのかみます。そのいろもとよもつひらさかにあひあらそふにいたりて、いざなきのみことののたまはく、「はじめうがらのためにかなしび、しのびけることは、これわがつたなきなりけり」とのたまふ。

〔日本古典文学大系『日本書紀 上』(pp. 99-101) 〕

The End of Takechan

○ さて。古事記でスサノヲは〝妣の国に行きたい〟といって泣く。「妣(はは)」は「死んだはは」を意味し、生前には母、死後には妣という。―― 日本書紀では、「神代上 第五段一書〔第六〕」に同様の表現「吾欲從母於根國」があるが、それは「妣」の文字ではなく、またその「母」は「いろはのみこと」と訓むらしい。「妣」の文字が用いられている古事記の原文も確認しておこう。


日本古典文学大系『古事記 祝詞』

「伊邪那岐命と伊邪那美命 6 黄泉国」

[原文] 故、其所謂黃泉比良坂者、今謂出雲國之伊賦夜坂也。

[訓み下し文] 故、其の謂はゆる黃泉比良坂は、今、出雲の國の伊賦夜坂と謂ふ。

(ふりがな文) かれ、そのいはゆるよもつひらさかは、いま、いづものくにのいふやさかといふ。


「伊邪那岐命と伊邪那美命 9 須佐之男命の涕泣」

[原文] 故、伊邪那岐大御神、詔速須佐之男命、何由以、汝不治所事依之國而、哭伊佐知流。爾答白、僕者欲罷妣國根之堅州國。故哭。

(頭注)

記中僕の字には一定の用法があって、身分の低い者が高い者に対する場合の自称代名詞。

亡き母。礼記に「生曰父曰母、死曰考曰妣。」とある。

根之堅州國

記伝に地底の片隅と解している。


[訓み下し文] 故、伊邪那岐の大御神、速須佐之男の命に詔りたまひしく、「何由かも汝は事依させし國を治らずて、哭き伊佐知流。」とのりたまひき。爾に答へ白ししく、「僕は妣の國根の堅州國に罷らむと欲ふ。故、哭くなり。」とまをしき。


(ふりがな文) かれ、いざなきのおほみかみ、はやすさのをのみことにのりたまひしく、「なにしかもいましはことよさせしくにをしらずて、なきいさちる。」とのりたまひき。ここにこたへまをししく、「あはははのくにねのかたすくににまからむとおもふ。かれ、なくなり。」とまをしき。

〔日本古典文学大系『古事記 祝詞』(pp. 66-67, pp. 72-73) 〕


◉ また古事記の伝承では、イザナミの墓所は、比婆の山であった。イザナキは死んだイザナミの棲む黄泉国(よみのくに)に向かい、黄泉比良坂(よもつひらさか)を通って生還する。その黄泉比良坂のある場所が、古事記には明記してある。日本古典文学大系『古事記 祝詞』では、66 ページと 67 ページにあたる。


故、其所謂黃泉比良坂者、今謂出雲國之伊賦夜坂也。

故、其の謂はゆる黃泉比良坂は、今、出雲の國のイフヤ坂と謂ふ。


ヒバの山 と クマの社 と クメの社


◈ 古事記に「故、其の神避りし伊邪那美の神は、出雲の國と伯伎の國との堺の比婆の山に葬りき。」〔日本古典文学大系『古事記 祝詞』(p. 61) 参照〕と伝承される《比婆山》は、現在も、島根県と鳥取県の県境付近にあるという想定のもとに研究が続けられている。


○ その有力候補のひとつに、出雲国風土記意宇郡の記事にある〈久米社〉の鎮座地がある。日本古典文学大系『風土記』の「校訂注」には、出雲国神名帳に〈久末社〉と見えると記録されている。


日本古典文学大系『風土記』

「出雲國風土記」意宇郡

[原文] 久米社

(校訂注)

/ 倉「來」。出雲國神名帳「末」。延喜式及び底・鈔による。

(頭注)

久米社

能義郡伯太村横屋の熊野神社に擬しているが確かでない。


[訓み下し文] 久米の社 〔久米神社〕

[ふりかな] くめのやしろ 〔延喜式神名帳所載の神社名・久米神社〕

〔日本古典文学大系『風土記』(pp. 112-113) 〕


○ 伴信友の自筆稿本「神名帳考」が『神道大系 古典註釈編 7』に収録されており、《久米神社》を《久末神社》とする「出雲国神名帳」の写本の存在を知ることができるけれども、『神道大系 神社編 1』所収の「出雲国神名帳」には、あいにくその記述が見当たらない。


『神道大系 古典註釈編 7』

解 題

本書は、伴信友の筆になる『延喜式』巻第九・十の「神名式」(官社帳・神名帳)所載の官社、即ち所謂式内社及び国史現在社の祭神・創祀・由緒等についての考証である。この「神名式」二巻は「延喜神祇式」十巻の中心とも云える部分であり、その伝本の数は他式の比ではなく、それ自体の尊崇がやがて神名帳奉唱となり、神道経典視され尊崇るという史的経緯を有している。

…………

信友が『神名帳考證撿録』の書写に取りかかった文化元年(一八〇四)が三十二歳であり、四ケ年の歳月をかけて筆写の後、更に文化十年(一八一三)閏十一月二十一日と裏書きにある時期までを校合研究の期間とすれば、三十五歳から四十一歳に至る足掛け七ケ年をこれに費し、書写開始からは実に十ケ年の長期に及んだ労作である。

凡 例

一、本書は伴信友著『神名帳考證』を、鈴鹿連胤の旧蔵に係る伴信友の自筆稿本『神名帳考』によって翻刻したものである。


「神名帳考 五卷 冬上」 山陰道 / 山陽道

山陰道神五百六十座 / 出雲國一百八十七座 / 意宇郡四十八座

久米 [クマ] 神社

○ 大久米命、

(頭註)米、出雲國神名帳作末、

〔岩本徳一/校注『神道大系 古典註釈編 7』(p. 19, p. 26, p. 33, pp. 481-482) 〕


『神道大系 神社編 1』

出雲國神名帳(底本ナシ)

久米 [クメ] 大明神

〔三橋健/校注『神道大系 神社編 1』(p. 404) 〕


◎ さて、と。比婆山の伝承に関わる久米神社もしくは熊野神社の記事を追ってみよう。出雲国風土記にある意宇郡の〈久米社〉は、式内社(延喜式神名帳に記録された神社)の〈久米神社〉でもあるため、多くの著述が残されている。それらを比較することで、伝承の足跡はいくらかでも辿れるだろう。ややこしいことには、その〈久米神社〉は江戸期以降もしくは、明治四年には正式に〈熊野神社〉と称したという。


『古代出雲の世界』

第二部 『訂正 出雲風土記』

凡 例

一、 本影印は、千家俊信大人(一七六四~一八三一)の校訂による『訂正出雲風土記』である。

一、『訂正出雲風土記』は、寛政九(一七九七)年に校訂が終了し、文化三(一八〇六)年に刊行されたものであり、『出雲国風土記』の本文の唯一の板本である。

一、『訂正出雲風土記』は、上下二巻からなり、その大きさは縦二五・一センチメートル、横一七・九センチメートルである。

一、 校訂者の千家俊信大人は、第七五代出雲国造の千家俊勝の三男として生まれ、寛政四(一七九二)年、二九歳のとき松坂で本居宣長大人に入門、出雲研究に多大な業績を残した国学者である。


訂正 出雲風土記 上

○ 出雲風土記 ○ 十二(左頁)

〔上段四行目〕 久米 [クマノ]

〔頭注四行目〕 [ 米當作末 ]

〔瀧音能之/著『古代出雲の世界』(p. 140, p. 149) 〕


『神祇全書 第五輯』

凡 例

  • 出雲國式社考は、出雲國造千家淸主氏の著されしところなり、然るに其の書未定稿にして、筐底に祕めおかれしを、天保十四年、岩政信比古氏更に之を校訂增補せり、本輯收むる所は、即ち岩政氏の增訂本なり、本書は千家男爵家の藏本を以て底本とし、內閣文庫藏本を以て校正す、


出雲國式社考上卷

千家俊信撰 岩政信比古校訂

○ 意宇郡四十八座〔大一座、小四十七座、〕

久末神社

今本末を米に誤れり、風土記にも久米社とあり、大草鄕熊野村にあり、

〔『神祇全書 第五輯』(p. 3, p. 274) 〕


『神社覈錄 下編』

神社覈錄第四十七之卷

○ 出雲國上

出雲國一百八十七座 大二座小百八十五座

久米神社 (風土記久末に作る)

久米は假字也 ○ 祭神伊弉册尊、速玉男神、事解男神、〔巡拜記〕 ○ 橫屋村比婆山に在す、今熊野神社と稱す、〔同上〕例祭 月 日、 ○ 古事記上云、故其所神避之伊邪那美神者、葬出雲國與伯伎國堺比波之山也、

〔『神社覈錄 下編』(p. 694) 〕


『出雲國風土記考證』

出雲國風土記「意宇郡」

久米 [クメ]

紅葉山文庫本、日御碕本等には、久來社に作れども、國造本、藤波本、廷喜式等には、久米社に作る。風土記鈔、風土記考には、熊野村にあると云つて居る。井尻[ゐじり]村比婆[ひば]山の態野社にては、久米社は此處だと云つて居れども、その熊野社は文永三年(皇紀一九二六年)に、紀伊の熊野社を觀請したものであるから、久米社とは云はれまい。

〔後藤藏四郎/著『出雲國風土記考證』(pp. 49-50) 〕


○ ここで、式内社調査報告書の記事を参照する。


『式内社調査報告 20 』

久米(クメノ)神社

(松岡英雄)

【社名】 クメノカミノヤシロ。九條家本・武田家本・吉田家本とも「久米神社」と記し、吉田家本にはクメノと傍訓してゐる。風土記の「久米社」に相當する。『出雲神社巡拜記』に「橫屋村 ひば山 熊野神社、記云 久米社、式云 久米神社」とあり、その橫屋村熊野神社の棟札には、元祿九年(一六九一)のものに「比婆山三所大權現式云久米神社」とあり、安永八年(一七七九)のものからは「比婆山久米神社熊野三社大權現」あるいは「式內比婆山粂神社熊野三社大權現」となつてゐる。『雲陽誌』には橫屋の條に「峯山三所權現」とはあるが、それが久米神社だとは記されてゐない。ところが『出雲風土記鈔』には「熊野大社・田中社・楯井・速玉・久米、此等ノ五社者在于大草鄕熊野村」と記してゐる。たしかに熊野のいはゆる上ノ宮の境內にも「久米社」と稱する小社はあつたが、ここに式の記載順からするときは、これを熊野大社の神社群中のものとするより、現能義郡側におく方が妥當であると考へられる。ただ前記橫屋の三社權現では、せつかく近世にこの久米神社を名吿つた一時期を持ちながら、明治四年の「神社取調差出祝號改替願」により、社號を「熊野神社」と改め、以來今日に至つてゐる。今日地元ではまま「久米神社」といふ者もあり、その他「岑山[みねやま]さん」「比婆山さん」の呼稱も殘つてゐる。

【所在】 能義郡伯太町大字橫屋字比婆山六一一番地ノ一。水田からの比高約一八〇メートルの比婆山の頂上に鎭座する。本殿の背後に前方後圓墳があり、これを「比婆山御陵古墳」と呼び、伊弉冉尊の神陵だとする。……

【祭神】 伊弉冉尊・速玉之男神・事解之男神の三神を祀るが、これは『雲陽誌』以來諸書を通じて變らない。いふまでもなく紀州系の祭神であつて、古代の「久米」の神がいかなる神名で呼ばれてゐたかはもはや知り難い。

【由緒】 古事記に「故其の神避りましし伊邪那美神は、出雲國と伯伎國との堺比婆山に葬しまつりき」とある。『出雲神社巡拜記』に「橫屋村 ひば山 熊野神社、記云 久米神社、式云 久米神社、祭神 いざなミの命・はやたまをの命・よもつひらさかの命。當所は格別の神跡也。古書にいざなミの命ハ出雲と伯伎の堺ひば山にほふむると有所にて」云々。『雲陽誌』能義郡橫屋の條に「岑山三所權現、伊弉册尊・速玉男命・事解男命をまつる。本殿三間、拜殿・仁王門あり、里俗遺獄山金剛寶寺といふ。文永三年紀伊國熊野神を此所に勸請す。同四年の春社を建立せり。天文年中炎上、其後再建せり。近來仁王の兩軀を再興せし所に、腹內に書記あり。尼子下野守幸久天文三年十月作之とあり」とある。

【祭祀】 例祭は五月九日で、秋祭は九月九日で、規定の祭典である。當日は姙娠・安産・子育ての祈願や、開願御禮詣りの御祈禱が非常に多い。

【寶物・遺文】 當社並に社家は再三の火災、水害に遭遇して、近くは昭和十年の橫屋大火には、里宮・社家・民家二〇數戶全燒し、社家の土藏にあつた、母里藩主奉納の社額位しか殘つてゐない。記錄によると奉納刀剣、祭具等相當あつたらしいが現在はない。奧宮(久米神社)棟札九枚ある。比婆山三所大權現緣記卷(延寶三年<一六七五>)、比婆山久米神社史料(一輯)、比婆山久米神社資料(二册)、熊野神社御由緒記、比婆山鎭座式內久米神社關係書類綴がある。

〔『式内社調査報告 20 』(pp. 181-184) 〕


○ 上記引用文中にある『雲陽誌』が収録された、原典資料の該当ページからも抜粋引用しておこう。


『大日本地誌大系 27』 「雲陽誌」

雲陽誌例言

  • 本卷には、雲陽誌全部を收めたり。
  • 雲陽誌は其序文によれば、享保二年松江藩の儒臣黑澤長尙の撰となせり。然るに內務省地理局出版の地誌目錄並に其他のものに多くこれを黑澤弘忠の撰述となせり。弘忠字は有鄰石齋と號し、道春門下の秀才にして、推されて松江藩祖松平直政の儒官となり、嘗て出雲の地誌懐橘談などの著作もあれば恐らくは後人誤りて雲陽誌の撰者をも弘忠となせるものならんか。且弘忠は延寳六年已に歿し、雲陽誌はその後享保二年の撰述なれば正に黑澤長尙の撰なること序文の如くなるべし。されど今は長尙の傳を逸して之を詳にすること能はざるを憾とす。


雲陽誌卷之四

能義郡


橫 屋

岑山三所權現

伊弉册尊速玉男命事解男命をまつる、……


峠 の 內

嚴島大明神

三尺はかりの祠なり、


日 次

【古事記】曰、伊耶那美神は出雲と伯耆の境比波山に葬と書す、是則母里鄕內日波村の山なり、後に大庭に遷祭て神魂大明神といふ、故に日波村に社なしと古老かたりつたふ、

〔『大日本地誌大系 27』(p. 1, p. 141) 〕

ヨナとヨネ / クマとクメ


◈ クマとクメでは、クマ(久末)が先で、それがクメ(久米)に誤記されたのだと、出雲國式社考に、述べられていた。―― そういえば【米】についての資料にも ―― ヨナとヨネでもヨナが先で、ヨナの音韻がヨネに転訛したという見解があった。あるいは、ヨネのあとに言葉が連続する際には、ヨネがヨナに変化するという説明もある。そうであるからこそ、漢字で熟語的に米子(ヨネゴ)と書いた場合は、ヨナゴと読む。さにもあらんや。―― もひとつそういえば ―― イネも稲田と連続する発音では、イナダとなり、それにヒメがついてイナダヒメとなる。


○ ここで「米」の文字について、以前に紹介していた《米⇒半》説を、まず『岸本町誌』に引用された要約文に求め、それからその元となった、佐々木謙氏の『米子風土記』の原文を参照しておく。


『岸本町誌』

「半生」は、『大日本地名辞書』はハブと読ませている。その地域は、旧成実村から米子にかけての地帯である。

後世の「飯生」(ハニウ)村というのは、その遺称といわれている。

「半生」について佐々木謙『米子風土記』は、要約次のように述べている。

「半生郷は米生郷(ヨナゴウ)であろう。和名抄は勿論写体として伝えられてきている。したがって伝写のあやまりがある。結局半は米の草書からくる誤写であろう。ヨナゴ地区に郷の成立のない筈はない。ヨナゴの成立は合理的で自然で当然である。(以下略)……」

〔『岸本町誌』(p. 130) 〕


『米子風土記』

米子風土記(一)「地名のおこり」

…… 米子という字がかゝれているのは出雲私史という本の中に応仁の乱の直後に米子を攻めた尼子清定の話がでていて米子はすでに五百年前米子とかかれていたことを推定させる。しかし出雲私史は江戸時代の本であつて応仁のころの文書などに米子の字はない。最近古墳の研究からみて奈良時代にはこの地区は米生郷[よなうごう]とよばれていたであろうというようになつている。……


米子風土記(六)「米生郷」

平安時代の事典「倭名抄」には実のところ米生郷とは書かれていない古写本の多くは半生郷とかかれているのである。そこで先人の多くは一心に半生の解明につとめている。…… 倭名抄は勿論、写体として伝えられてきている。したがつて伝写のあやまりがある。…… 私共は倭名抄を批判してみて、書かれた文字それを信ぜず、それを伝承する土地のあることや立証しうるものだけを信じてきた。半生は国郡考には半上とさえかかれている。決局半は米の草書からくる誤写であろう。とにかく字はどうかこうとも語源からしてヨナゴはずつと古くからヨナゴと発音されていい筈である。……

〔佐々木謙/著『米子風土記』(p. 1, p. 6) 〕


―― 米が半に誤写されるのなら、米が末に、あるいは末が米になったとしても、特別な理由は必要なかろうし、繰り返しになるけれど《クマ⇔クメ》の発音の転訛にも、特段・特殊な、個別の事情は必要なさそうだ。


The End of Takechan


○ 比婆山などをテーマとした安本美典氏の著書に、「久米」の「メ」の音韻が「マ(マイ)」からの転であるという説が紹介されている。


『邪馬台国と出雲神話』

第1章 伊邪那美の命神話

「久米[くめ]」の「米[め]」の字は、「乙類のメ」をあらわす文字である。「乙類のメ」は、二重母音で「まい (mai)」の音をあらわし、「ま (ma)」にさかのぼることができる。「天[あま]」➝「天[あめ](乙)」、「目[ま]」➝「目[め](乙)」など。(以上『季刊邪馬台国』59 号「上代特殊仮名遣の正体は、二重母音だ」参照)。また、『出雲国風土記』の古写本の一つに、「久米」を「久末」とするものがあるので、これを正しいとして、「クマ」と読むべきだとする説がある。横屋にある久米神社は、現在、熊野神社ともよばれている(島根県八束[やつか]郡にある熊野大社とは異なる)。

〔安本美典/著『邪馬台国と出雲神話』(p. 36) 〕


○ その後に出版された著書で、「エ」の音韻が「ア(アイ)」に溯れることについて詳しく論じられた。


『『古事記』『日本書紀』の最大未解決問題を解く』

第Ⅲ編 探究の基礎

● 森博達[もりひろみち]氏の「二重母音説」と安本の「拗音説」との対比 ●

2 『日本書紀』についての文献学の基礎知識

「乙類」についての統一的説明

[質問2]「乙類のエ」の問題

「菅[すげ]」というカヤツリグサ科の植物がある。「菅笠[すががさ]」「菅原[すがはら]」のような熟語のばあい、「スガ」と読むことが多い。単独で用いられるばあいは、「スゲ」という。このばあいの「ゲ」は、「乙類のゲ」である。いっぽう、「風[かぜ]」は、「風上[かざかみ]」「風下[かざしも]」「風車[かざぐるま]」など熟語のなかでは、しばしば「カザ」という。しかし、単独で用いられるばあいは「カゼ」という。このばあい、「カゼ」の「ゼ」は、なぜ、「乙類のゼ」にならないのか。


「菅[すげ]」は、もともとは、「スガ」といったとみられる。それに、準後置定冠詞「イ (i)」が加わり、「スガ」の「ガ」が、「 gai 」となった。これが、「乙類のゲ」の語源的な形である。この「 ai 」の部分が、口をひらいた「エ」の「 ɛ 」の音となった。「乙類のゲ」の音は、「 gɛ 」の音である。

「 gai 」の「 a 」の部分が、子音化した(半母音化した)と考えれば、「 gai 」のようにも書ける。「 ə 」を、あいまいな母音として、中国語学的には、「 gəi 」とも書ける。しかし、「甲類のゲ」は、一音節とみられるから、日本語学的には、「 gɛ 」と書くのがもっともよい。しかし、わかりやすさからいえば、「 gai 」と書くのがよいだろう。

「風」のことは、古くは、「カザ」といったとみられる。それに準後置定冠詞「イ (i)」が加われば、「ゼ」の部分が「 zai 」のようになる。これは「 zɛ 」に近いはずの音である。ところが、「 ɛ 」は、「エ e 」よりも、より口を開いた「エ」の音である。いっぽう「 z 」音は、上の前歯のうしろに舌を近づける音である。これは、「イ i 」を発するときの口の構えにやや近い。すなわち、「 z 音」は、「 i 音化頭子音」である。これが、「 zɛ 」を発するとき、口の開きをせまくする。その結果、口が十分にひらかず、「 zɛ 」音が「 ze 」音に近づく。かくて、「乙類のゼ」は、「甲類のゼ」に近づく。甲類と乙類との区別が失われる。これが、「ゼ」に、甲類、乙類の区別のみられない理由である。

やはり、甲類と乙類との区別が存在するかどうかは、頭子音の性質による。

(やや数式的に書けば、つぎのようになる。「 ia 」という母音連結は、「 e 」となる傾向があるとみられる。また、「 z 」音には、軽い「 i 」音がふくまれる。そのため、「乙類のゼ」の「 zai 」➝「 ziai 」➝「 zei 」➝「 ze 」[甲類のゼ]。)

〔安本美典/著『『古事記』『日本書紀』の最大未解決問題を解く』(pp. 112-113) 〕

The End of Takechan

比婆山の神陵 と クメノカミノヤシロ


○ 明治年間の調査では、イザナミの「陵墓参考地」が島根県の岩坂に定められた。そこはちょうど神魂(かもす)神社の辰巳(東南)の方角「神納山」のある地点となっている。


『事典 陵墓参考地』

Ⅲ-1 今日陵墓参考地とされている例

岩坂 [いわさか] 陵墓参考地

今日の岩坂陵墓参考地に当たる地は、昭和二十四年十月『陵墓参考地一覧』によれば島根県八束[やつか]郡岩坂村大字日吉字神納に所在し、明治三十三年四月二十日に指定された。明治三十四年四月『陵墓一覧』では御陵墓伝説地として、昭和九年十一月『陵墓要覧』では岩坂陵墓参考地としてみえる。

昭和二十四年十月『陵墓参考地一覧』も、「該当御方」として伊弉冉尊[いざなみのみこと]を充てる(62)。考証意見としては第三類、つまり陵墓の関係を認めることが適当でないものとされ、資料 ① 昭和二十四年十月「陵墓参考地一覧(昭和三十二年八月類別改定)」にみえる昭和三十二年八月の類別改定でも第三類、つまり陵墓の関係を認め難いものに分類された。

資料 ② 昭和三十三年三月「陵墓参考地一覧」(資料編では省略)も第三類に分類し、「当所は古事記にみえる尊(引用註、伊弉冉尊)の葬所比婆山[ひばやま]であると伝えられる所で、調査して精しい記録をとりたい」とする。


(62) ただし、昭和十二年十月「未定陵墓関係資料」(昭和二十四年十月『陵墓参考地一覧』宮内庁書陵部陵墓課保管本と合綴、宮内庁書陵部陵墓課が保管する歴史的資料を目録にした『歴史的資料目録』では、「陵墓参考地一覧・未定陵墓関係資料」とする。本書で主に取り上げている昭和二十四年十月『陵墓参考地一覧』とは別の本)は、岩坂陵墓参考地には被葬者に伊弉册尊を充てる。

〔外池昇/著『事典 陵墓参考地』(p. 137, p. 183) 〕


―― 資料 ① 昭和二十四年十月「陵墓参考地一覧」・昭和二十四年十月「陵墓参考地一覧(昭和三十二年八月類別改定)」は 193 ページから掲載されていて、『伝説地・参考地ノ別ハ大正四年陵墓要覧ニヨル』として 197 ページに「島根 岩坂(伊弉冉尊) 『三』三八頁『伝』」と、記録されている。


○ ここで、地名辞典の「神納山(かんなやま)」の項を参照しておこう。


『角川日本地名大辞典 32 島根県』

かんなやま 神納山〈松江市〉

松江市大庭 おおば 町と八束 やつか 郡八雲 やくも 村大字日吉 ひよし の境にある丘陵。標高約 60m。この丘陵の西肩の切割を神納峠といい、北から南へ主要地方道松江~広瀬線が通り、この丘陵の東を切り割ったのが日吉の切通しで、南から北へ意宇川が流れている。切通しで切断された丘陵の東部を剣山 つるぎやま という。神納山の南麓、主要地方道松江~広瀬線のわきにもと比婆 ひば 山の所在地と伝えられる樹木の繁った円墳形状の土地があって、伊邪那美命陵墓と伝えられ、宮内省の陵墓参考地として保護されている。東方約 300m の上記剣山の西肩を伊賦夜 いぶや 坂と伝えている。

〔『角川日本地名大辞典 32 島根県』(p. 245) 〕

The End of Takechan


◈ さて、大正十四年 (1925) に刊行された「内務省蔵版『特選神名牒』」は、《教部省の編纂に係る特選神名牒 32 冊を飜刻したもので、これは延喜式神名帳の注釈書の最後にあたる調査記録であって、内務省に所蔵されていた写本を縮冊洋装版 1 巻として刊行した》ものであることが、巻頭の「例言」に述べられているのであるが、出雲国意宇郡の「久米神社」の項に《比婆山》に関する論が記述されている。


○ 次に示す『特選神名牒』からの抜粋は、返り点を省略しないで引用する(補足:文中の「仁弖波」は「ニテハ」と訓読し、その一文を訓み下すと「紀州にては熊野神社といい、当国にては久米神社という、共に同じき神の異名なり、云々」となる)。―― またイザナミの神陵について述べてある「此神社は古事記所載出雲伯耆の堺比婆山にして卽伊邪那美命の神陵なり」とは、「能義郡橫屋村熊野神社」のことであると文脈から解釈できる。


『特選神名牒』

久米神社(出雲國 意宇郡)

所在

今按本社所在意宇郡熊野三神社境內にある所の久米神社ならんと云說もあれ共能義郡橫屋村熊野神社なりと云說是なるに似たらんか此神社は古事記所載出雲伯耆の堺比婆山にして卽伊邪那美命の神陵なりさて其神陵よりして隱の意クマクメともいふなりと云旣く延寶三年に寫し傳へたる比婆山三所大權現緣記と云ものに中伊弉册尊左事解之男神右速玉之男神云々評曰紀州〔仁弖波〕 謂 ㆓ 熊野神社 ㆒ 當國〔仁弖波〕 謂 ㆓ 久米神社 ㆒ 共ニ同神異名也云々當國風土記曰久米神社止云々 …… 又社家說曰當社者自神代此地大宮柱大敷立弖御鎭座也而後人皇八十九代龜山院文永四年ノ春當國太守佐々木鹽谷氏仁不思議ノ有 ㆓ 靈夢 ㆒ 太守起 ㆓ 信心 ㆒ 造 ㆓ 立御宮 ㆒ 云々などもみゆ此緣記無氣に贋作にはあらざるべし此餘にも其後の書類何くれとあれば神陵には決すとも此を久米神社と云へる事尙熟く考ふべし帳の順序によらば此所棄難し橫山永福が風土記考松田春平が出雲神社考には橫屋村なりといへり

〔『特選神名牒』(p. 651) 〕


○ 上記引用文冒頭には「本社所在意宇郡熊野三神社境內にある所の久米神社ならん」とあるけれど、次の地名辞典の説明によって、明治 41 年に〈熊野大社〉の摂社に合祀された〈久米神社〉のことだと理解できる。


『島根県の地名』

熊野大社 [くまのたいしゃ] (現)八雲村熊野

現在の社殿は本殿・幣殿・拝殿・随身門などからなり、別に鑽火殿が設けられている。境内摂社に稲田[いなだ]神社・伊弉那美[いざなみ]神社があり、後者は旧の上の社の三神を祀る。明治四一年熊野村内に祀られていた神社すべてを境内二摂社に合祀したが、そのなかに風土記に載る久米[くめ]社(久米神社)・前[さき]社(前神社)・田中[たなか]社(田中神社)・楯井[たてい]社(楯井神社)・速玉[はやたま]社(速玉神社)が含まれている(括弧内は「延喜式」神名帳の表記)。現在の宮司は出雲大社(杵築大社)の千家家が兼務。熊野神社文書は県指定文化財。

〔『島根県の地名』(p. 140) 〕


○ 明治二十年 (1887) に刊行された、栗田寛著『神祇志料』に述べられている〈熊野坐神社〉と〈久米神社〉の記事を参照しておきたい。いずれの神社も《大草郷熊野村》にあると、記録されているからだ。


『神祇志料』

「神祇志料卷之十七」 神社十二

(十張右・左)

○ 出雲 [イツモノ] 國一百八十七座、大二座、小百八十五座、

○ 意宇 [オウ] 郡四十八座、〔大一座、小四十七座〕

熊野坐神[クマヌニマスカミノ]社、今大草鄕、熊野村熊野山に在り、〔參取出雲風土記、出雲國圖、出雲風土記解、〕 即出雲の一宮也、〔本社所藏曆應二年文書、〕……

(十五張右)

久米[クメノ]神社、今大草鄕熊野村にあり、〔出雲風土記鈔、神名帳打聞 ○ 按久米神は疑らくは久末神の訛にて、熊野神の義にやあらむ、姑附て考に備ふ、〕

〔栗田寬/著『神祇志料』より〕


『神祇志料』国立国会図書館デジタルコレクションで、初版本が一般公開されている。

熊野坐神社

( URL: http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815497/77 )

久米神社

( URL: http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815497/82 )

The End of Takechan

◉ ここまでの久米神社(熊野神社)に関する記事で、わかりにくいのは、風土記の時代には「意宇郡」に所属していた《久米神社》は延喜式でも同様に「意宇郡」の末尾に記録されているのだけれど、それが明治時代の研究資料では、神社の名称まで変わって「能義郡横屋村熊野神社」となっていることである。

のみならず、それが熊野大社の摂社として位置づけられ、従って現在は熊野大社の境内に鎮座するという見解までが少なからずあるのだ。


―― しかしながら普通に考えれば、延喜式の神社の記載順は一定の規則に従っているので、それに基づくなら、明治 4 年に《熊野神社》と正式に社号を改めた「能義郡横屋村熊野神社」が延喜式の《久米神社》だと推定されるのが当然であろうと思われ、それは『式内社調査報告 20 』に述べられている通りなのである。


延喜式の記載順序の規則を無視してまで、なにゆえに、延喜式の《久米神社》すなわち風土記の《久米社》を現在の熊野大社の摂社として設定しようとするのか。

もしや、一般的に普通に考えるよりももっと重大な理由がそこにあるのならば、それは明記されていてしかるべきだとも、そこはかとなく思われるのであるが、寡聞にしてそれも見当たらないので ……。あとは、ピックアップした記事を適宜に並べていくことでしか、まだ見ぬ論理の陥穽は探せ出せそうにない。


The End of Takechan


◎『特選神名牒』は「能義郡橫屋村熊野神社」が式内社の〈久米神社〉だという見解を支持している。

◎『特選神名牒』に「意宇郡熊野三神社境內にある所の久米神社」というのは、明治 41 年から〈熊野大社〉の境内に合祀された〈久米神社〉のことだった。


◎『出雲国式社考』に「久末神社 大草鄕熊野村にあり」と書かれた「大草郷熊野村」は、〈熊野大社〉の所在する場所でもある。従って、その「クマノカミノヤシロ」すなわち〈久米神社〉は、その後に〈熊野大社〉の境内に合祀された摂社をさすこととなる。


◎『神祇志料』には式内社の〈熊野坐神社〉と〈久米神社〉のいずれも「大草郷熊野村」にあると、記録された。


☆ 地図で、それぞれの位置を確認できるようにしたので、参考にされたし。

◈ 『雲陽誌』〔黒沢長尚/撰〕は、享保二 (1717) 年の撰述であることがその序文に記されている。


◉ 『訂正出雲風土記』〔千家俊信/校訂〕は、寛政九 (1797) 年に校訂が終了し、文化三 (1806) 年に刊行。

・(『出雲国式社考』〔千家俊信/撰 岩政信比古/校訂〕は、天保十四 (1843) 年に校訂終了。)


◉ 『神名帳考』〔伴信友/考証〕は、文化十 (1813) 年と裏書きにある。

◉ 『神祇志料』〔栗田寛/著〕は、明治二十 (1887) 年に刊行された。


◈ 「岩坂陵墓参考地」の地は、明治三十三 (1900) 年に指定された。


◉ 『神社覈録』〔鈴鹿連胤/撰 井上頼?・佐伯有義/校訂〕は、明治三十五 (1902) 年に刊行された。

◉ 『特選神名牒』〔教部省/編纂(内務省蔵版)〕は、大正十四 (1925) 年に刊行された。


◉ 『出雲国風土記考証』〔後藤蔵四郎/著〕は、大正十五 (1926) 年に刊行された。


The End of Takechan

◈ 『伊邪那美尊神陵の研究』〔山陰史蹟協会/編纂〕は、昭和十二 (1937) 年に刊行された。


―― どうやら 1936 年に〈久米神社〉の近辺で遺跡の発見があったらしい。『伊邪那美尊神陵の研究』の冒頭には、編者による次の記述がある。


『伊邪那美尊神陵の硏究』

〔山陰史蹟協會編纂〕

「序 說」

古事記妣神入幽の項に


『故其所神避伊邪那美神者葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也』


とあるが、その御神陵については、古來幾多の傳說地が數へられて、其確定を觀ないのは、我等國民の最も遺憾とする所である。

內務省藏版「特選神名牒」にある


「出雲母里鄕日波村の比婆山は古事記所載の出雲伯耆の堺、比婆山にして卽ち伊邪那美命の神陵なり」


とあり、この地は島根縣能義郡井尻村の比娑山にして、傳說地として最も有力な神域であるが。偶々今回、比婆山中腹八合目に、磐境を發見する所となり、これが實地調査の結果、鉢卷狀態に蜿蜒として一里餘りに及び、壯嚴なる神代の遺蹟である事が明瞭となり、編者は此れが硏究のために東上し、宮地博士、鳥居博士、館神社局長に報吿した。

〔山陰史蹟協會/編纂『伊邪那美尊神陵の硏究』(pp. 4-5) 〕

The End of Takechan


◈ 『古事記伝』〔本居宣長/著〕は、寛政十 (1798) 年に完成し、文政五 (1822) 年に刊行が終了した。


○ 比婆山について『古事記伝』に記されたところは、おおよそ次の通りである。


『本居宣長全集 第九卷』

古事記傳五之卷

【……、又枕册子 [マクラノザウシ] に山はと云中に、比波乃山 [ヒハノヤマ] と云あり、是 [コ] は何國 [イヅレノクニ] なるにか、又伯耆ノ國人の物語に、今出雲ノ國の內、伯耆」 〔67〕 の堺に近き處の山間 [ヤマアヒ] に、たわの內と云處あり、そこに伊邪那美ノ命の陵なりとて冢あり、小竹 [ササ] など生 [オヒ] しげれり、此ノ冢の草などをば、牛馬も喰はず、牛馬を牽來 [ヒキキ] て草を飼 [カハ] むとすれども、此ノ冢のあたりへは牛馬よりつかず、退き去るなり、又此冢の竹を杖 [ツヱ] につきて行くときは、蛇 [クチナハ] のたぐひよりつかず、蛇の居る處へ此杖をつきたつれば、すくみて動くことあたはず、甚奇異 [イトアヤシ] きことどもなりと云り、なほたしかに聞 [キカ] まほしきことなり、】


比婆之山

澤ノ眞風、寬政六年四月に、杵築ノ大社に詣デける路次 [チナミ] に、比婆之 [ヒバノ] 山を、委く尋ね來て、語りけらく、出雲ノ國能義ノ郡にて、同郡なる母理 [モリ] より、一里餘リ許リ西南ノ方なり、伯耆ノ國の堺にも遠からず、山は高き山にて、北ノ海など、よく見渡さるゝ處なり、かくて山ノ上の、やゝ平 [タヒラ] なる地 [トコロ] に、徑 [ワタリ] 四五丈許リと見ゆる程 [ホド]、冢 [ツカ] の如く小高き處の有て、石の齋垣 [イガキ] を造リ周 [メグ] らしたり、是レなむ伊邪那美ノ命の御陵と云り、前ヘに拜殿もあり、近き鄕々 [サトサト] より、詣づる者常に多し、さて其ノ御冢 [ミツカ] には、松ノ木も幾株 [イクモト] も生 [オヒ] たり、小竹 [ササ] 透間 [スキマ] もなく、高く生茂 [オヒシゲ] れり、凡て此ノあたりは、近き里より、牛を多く野飼 [ノガヒ] に放 [ハナ] ちおく處なるを、此ノ御冢の篠 [ササ] をば、其ノ牛どもも、いさゝかも喰 [クフ] ことなく、又蝮蛇 [ハミ] の此レをいたく怖 [オソ] るゝ事など、傳に記されたるが如し、されば詣デたる者、蝮蛇」 〔83〕 を防 [フセ] がむ料に、此ノ篠を賜はりて、持還 [モチカヘ] るとぞ、たわの內と云は、此山の麓なる村ノ名にて、峠內 [タワノウチ] と書り、此ノ國にては、いはゆる峠 [タウゲ] を、凡て多和 [タワ] と云なり、又風土記ノ抄に、日波 [ヒナミ] 村と云る、それも此ノ山の麓にて、吾レ此ノ度、其ノ里より登 [ノボ] りたり、とぞ語りける、又內山ノ眞龍ガ云ク、出雲風土記仁多ノ郡に、備後ノ國惠宗ノ郡ノ堺、比布山 云々 とある、比布山は、比羽山にて、備後に屬るか、此レ御坂山の麓山なるべし、御坂山の南は、惠宗ノ郡湯川なり、そこに比羽村あり、上代に御坂山を、比波山と云しなるべし、御坂山には、有リ神ノ御門と、風土記に云ヘれば、なみなみならぬ山なり、國ノ堺は、古今違ヒあることなれば、上代には此ノあたりも、伯耆の堺にぞありけむと云り、これもなほよく尋ね考ふべき處なり、」 〔84〕

〔『本居宣長全集 第九卷』(p. 226, p. 236) 〕


◎ 鳥取県サイドの江戸期の記録も見ておこう。鳥取藩の国学者であった衣川長秋(きぬがわ・ながあき)が、文政元 (1818) 年に鳥取-出雲大社間を旅した記録『田蓑の日記』は、文政五年に刊行された。


○ 幸いなことに、先達によって活字化された書がある。


『鳥取藩国学者 衣川長秋『田簔の日記』 影印・翻刻と研究』

〔石破洋/編著〕

九月朔日比婆山にものせんとて出。さいの峠 [タワ] といふ所をこゆ。出雲と伯蓍の境なり。原より廿町ばかりなり。母里をすぐ。原より壱里なり。井尻 [ヰジリ] 村日並 [ヒナミ] 村をすぎ横屋 [ヨコヤ] 村にいたる。比婆山のふもとなり。出雲ノ国にて神主祝部等が家を横屋といへり。代古屋ともかくよし。ふもとに伊邪那美命の神社あり。古へは山上にありしよし。

…………

また原村より北の方二里ばかり。米子の方にあたりて。出雲国の境に新山 [ニヒヤマ] といふあり。これを比婆山ともいへり。其 [ソ] ハいかにといふに。古事記に伯蓍國と出雲国の境比婆山とあれど。今ハ出雲国にて。伯蓍国と見わたし。一里ばかりへだゝれり。新山は岑半 [ナカラ] は出雲国。なからハ伯蓍国なれバ。是ならんかともいへれど信 [ウケ] がたし。古へと今と境のかハりたる所もあり。京にて書 [カヽ] れし書 [フミ] なれバ。もとよりあなたの出雲の山なれども。こなたの伯蓍国の山に。つゞきて見ゆれバ。境とかゝれたるか。後に境のかはりし事もあらんか。おほくの年をふれば古へとはかはれる事多し。されど新山がまことの比婆山か何れか。いやしき人の意もて。きはめてハいひがたし。

〔石破洋/編著『鳥取藩国学者 衣川長秋『田簔の日記』 影印・翻刻と研究』(pp. 148-150, pp. 152-154) 〕

The End of Takechan


○ その半世紀以上前のこと、鳥取藩士の松岡布政(まつおか・のぶまさ)があらわした『伯耆民談記』は、寛保二年 (1742) 成立とされている。


『因伯叢書』(第二冊)

伯耆民談記卷之三 「山の由來之事」

伯耆 松岡布政著

山 の 事

昆波山

此山雲伯の堺にあり、伊弉諾伊弉册二尊の廟ありといふ、されと今何れの山を指していふ事を知らず、御廟の跡も見江ず、舊事記曰伊弉諾伊弉册の尊雲伯の境昆波山陵と云々、日本紀には紀州有馬山を昆波山と述ふ、今按するに太古國境つまびらかならぬ時、雲州能義郡日南村に日南山といふあり、山の上に陵あり、即ち伊弉諾伊弉册の尊を葬る、神陵なる由、古來相傳の說あり、此山の竹を以て杖を製すれば、蠆蛇敢て近寄らずと云ふ、疑らくは昆波は日南の訓意にて、此地正しく神廟所在の地にて、上古は雲伯の境なりしにや、

〔『因伯叢書』(第二冊)(p. 55) 〕


○ 各種文献に基づいた『伯耆志』は、安政の大獄がはじまった年の安政五年 (1858) の完成であるともされる。


『伯耆志』

伯耆志日野郡十二「日野郡(四)河西 下」

景山肅 雍卿 編輯

○ 大菅村

產土神熊野權現 社方五尺 祭日九月九日 神主 下阿毘緣村 內藤氏

祭神

  • 速玉男命
  • 伊弉諾尊
  • 事解男命

小祠 八

社地東西三十間南北七間村央山地にあり

…………

當社出雲國能儀郡 比婆山熊野神社に同し 彼社は延喜式に久米神社と見えたるを後世熊野に作れり(久米久麻音相通へり)蓋伊弉冊尊の葬地比婆山と古事記に見えたる如く當社は同尊を祭れる事論なし然るに同國意宇郡熊野神社にも此尊を祭れるに就て久米を熊野に改めたるに歟かくて當社比婆山熊野權現と同しきに就て按に當村の地方出雲國に接して殊に比婆山にもほと遠からさるによりて古事記に出雲與伯耆境とある伊弉冊尊の葬地は此地ならんといへる一說なとありて爰にも熊野神社を祭れるものにや何れにても後世の勸請なる事は論なし今の社說に此社を正しく伊弉冊尊(原本此所大菅古城跡之圖有り省畧之)崩御の地なりといへるは强言なる上に傍示字オハカと云へる山を古く御墓山と唱へたるか近年土民此の山脚を堀りて轡及ひ古錢の類を出せり此事權現の神主內藤氏に告けるに神主直ちに小祠を勸請し日輪山神社と号けたりとそ(日輪は比婆の訓に當たるなり)如此の誕妄近世社家の邪癖なれば社說更に信すへからす但出雲接近の地なれば神代の事蹟に於ては猶よく考ふへき事にてはあるなり

〔『伯耆志』(pp. 587-588) 〕


○ 明治維新後の鳥取県の文献として、明治四十五年 (1912) に発行された、日野郡阿毘縁村農会の記録がある。


『鳥取縣日野郡阿毘緣村是』

第一章 「第一節 村の歷史」

舊 跡

▲熊野神社 大字阿毘緣村字宮の下も二千四百八十九番地に在り村社にして伊弉册命、事解男命、速玉男命を祭る創立年代不詳なるも棟札には延寶八年以後のものあり舊と熊野大權現と稱へしを明治元年熊野社と改め同五年社格を村社と定められ同六年熊野神社と改めらる

當神社の社地は往古比那山御墓にありしも中古參拜者の便利を計り現今の社地に移し氏神とし奉祀せしものなりと殊に伊弉册命は安產の守護神として靈顯ありとて村民は勿論附近の村落より參詣するもの少からず大字阿毘緣村字大菅の氏神として崇敬厚し

〔『鳥取縣日野郡阿毘緣村是』(p. 2) 〕


○ 大正年間を編集に費やしたという地誌『日野郡史』は、大正十五年 (1926) に日野郡自治協会から発行された。


『日野郡史』(前篇)

第三章 沿革「第四節 太古傳說地」

…… 遼遠の世、傳へられたる說話すら少けれども、阿毘緣(出雲風土記の伯耆國日野郡の堺阿志毘緣山とある所)の御墓山傳說の如きは、尤も有力なるものにして、將來の研究に俟つべきもの多し。左に日野郡野史中より抄錄す。……


阿毘緣の御墓山

阿毘緣村の大菅字大墓山は、出雲國能義郡と伯耆國日野郡との境に聳ゆる名山なり。上古伊邪那美尊を葬り奉りし由云ひ傳ふ。其事跡と古事記にある所と照令して考ふる時は、信憑すべき點尠からず。依て左に之を併記して尙後世探究の參考に資せんとす。

…………

故其祟避りまして伊邪那美の神は、出雲國と伯岐國との境比婆の山に葬[カク]しまつりき。 古事記


米山曰出雲國能義郡と伯耆國日野郡阿毘緣村の內大菅との間に聳ゆる字御墓山に伊邪那美尊を葬し奉れる由昔より云ひ傳ふ。同地內の井垣が塔[サコ]に其神靈を奉祀せしも、深雪の地にて里人冬期參拜に困しみ、中古より同村地內字宮の下に移し奉り、熊野神社と稱へ、伊弉冊命に事解[サカ]男命速玉男命を合祭し、古來產婦主護の御神とて遠近の崇敬甚だ厚し。此御墓山及近地を日向[ヒナ]山と總稱す。比姿山の轉訛なるべし。云々

…………

編者曰、野史子の說、亦附會のあとなれども、參考とするに足る。


因に茨木縣人城內龍なるもの此山につきて、實地踏査をなし、山腹に朱塊狀の土を以て掩へる地點を發見し、伊邪那美尊の陵墓として、他に比類なき所なりとの見解より、熱心なる研究の結果を發表し、且つ宮內省に請願の手續をなしたるため、宮內省よりも官吏を派遣せられたることあり。ただその研究が宗敎的色彩を混入すること多く從て、傳說を妄信する傾あるは惜むべし。とにかく、伊弉册尊陵研究の熱心家なりしことと、此地方に一種の印象を與へたる功勞は沒すべからず。西比田村野尻筆一なる人、亦これと呼應して熱心にこれが發揚につとむ。


第四章 神社「第四節 村社」

九、熊野神社

三、記錄

口碑傳說

二 神 社 ノ 來 歷

(口碑傳說)伊弉冊命ハ神避リマセシ時出雲國ト伯耆國トノ境ナル比婆山ニ葬ルト舊事記古事記ノ兩書ニ顯然トコレアリ然ルニ往古ヨリ現今ノ社地ヲ隔ツル事拾餘町ナル雲伯ノ境ニ比那山御墓ト唱フル山アリ(比那山ハ比婆山ナルヲ後世ノ人誤リテ比那山ト申セシナラン)~~

三、神社及祭神ト其地方トノ關係

當神社ノ社地ハ往古ハ前項比那山御墓ニアリシモ中古(年代詳カナラズ)參拜者ノ便利ヲ圖リ現今ノ社地ニ移シ氏神トシテ奉祀セシモノナリト殊ニ伊弉冊命ノ安產ノ守護神トシテ著シキ靈顯アリトテ村民ハ勿論附近ノ村落ヨリ參詣スルモノ少ナカラズ

明治四十三年六月

社掌 木山昌精調査

〔『日野郡史』(前篇)(pp. 36-39, pp. 411-412) 〕


◈ 上記引用文中「米山曰」として、「深雪の地にて里人冬期參拜に困しみ、中古より同村地內字宮の下に移し奉り、熊野神社と稱へ、伊弉冊命に事解男命速玉男命を合祭し、古來產婦主護の御神とて遠近の崇敬甚だ厚し。」と語られた一文は興味深く、これは「明治四十三年六月 社掌 木山昌精調査」とあるものと同内容でもあり、それは『鳥取縣日野郡阿毘緣村是』に、

殊に伊弉册命は安產の守護神として靈顯ありとて村民は勿論附近の村落より參詣するもの少からず 云々

と記述されているのであるが、ここに安産信仰すなわち箒神の信仰が垣間見えるようだ。果たして、いにしえの《伯耆の国》とは、ユング的《太母の国》であると同時に、箒神の国 ――《箒の国》であったか?

〔※ ユング的《太母》の解説・引用文は「ウロボロス」(創発 EMERGENCE のページ)を参照されたし〕

The End of Takechan

◉ 島根県の、式内社久米神社(比婆山久米神社熊野三社大権現)の記録にある信仰内容の記述、


【祭祀】 例祭は五月九日で、秋祭は九月九日で、規定の祭典である。當日は姙娠・安産・子育ての祈願や、開願御禮詣りの御祈禱が非常に多い。


と比較するとき、鳥取県の『伯耆志』に記録された「產土神熊野權現 社方五尺 祭日九月九日」という祭日も秋祭の日と一致し ―― のみならず、祭神と信仰も同じなのだけれども ―― たとえばこのあたり一帯を全体として神代の比婆山と想定するなら、いまは出雲と伯耆に区分されて所在するそれぞれの〈熊野権現〉は、もとは同じ神社(かみのやしろ)であったとして、不自然ではない。

島根県の〈比婆山久米神社熊野三社大権現〉の縁起巻に、延宝三年 (1675) の写本「比婆山三所大権現縁記」があり、鳥取県の旧くは〈熊野大権現〉と称した〈熊野神社〉の棟札には、延宝八年以後のものがあるというけれど、そのころにいわゆる「比那山御墓」の地に、出雲と伯耆の国境(くにざかい)の峰に、〈熊野大権現〉として勧請されたのではなかろうか。まさしくそれを『伯耆志』は、


當社出雲國能儀郡 比婆山熊野神社に同し 彼社は延喜式に久米神社と見えたるを後世熊野に作れり 云々 古事記に出雲與伯耆境とある伊弉冊尊の葬地は此地ならんといへる一說なとありて爰にも熊野神社を祭れるものにや何れにても後世の勸請なる事は論なし


と記述しているのであろう。


◎ そして太古は線引きがなかったはずの、国々の境についてであるが、645 年の大化改新(たいかのかいしん)以降に国境が定められた際には、出雲国風土記に記された、意宇郡の〈久米社〉は出雲の国に、粟嶋と関連の深い〈夜見嶋〉は伯耆の国に編入されることとなった、という想定は可能だし、無理がないように思われる。


◉ 国境がそのように定められたので、712 年成立の古事記におけるその場所の表現は必然として、

故、其の神避りし伊邪那美の神は、出雲の國と伯伎の國との堺の比婆の山に葬りき。

という記述となった。―― と、そのような、経緯もあっただろうか?


◈ 次に。ではなぜその場所が、出雲と伯耆の国境付近であったのか。

阿毘縁地区は古くから、良質な鉄の産地として知られ、〈印賀鋼〉の刀剣は明治の末期にも、「明治四十年五月吉日久松山麓に於て兼次作」の銘を残したと、記録されている。

〔『山陰道行啓錄』「鳥取縣」(p. 74) 参照(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)〕


日本の中央から遠望して、阿毘縁地区を山嶺の南に擁する地帯、比婆の山は《死と転生の呪術》の象徴だったのではあるまいか。


◉ エリアーデの著書〔『鍛冶師と錬金術師』(p. 95) 〕に、こう書かれていた。


「鍛冶師とシャーマンは同じ巣からやってくる」とヤクート族の俚諺はいっている。


◉ また、康忠熙「古代朝鮮の製鉄技術」〔『朝鮮古代中世科学技術史研究』(p. 81) 〕には、紀元前の頃のこととして次の記述があった。


朝鮮の古代製鉄技術発展のなかでもう一つ注目されることは、鋼材の質を高めるための熱処理がなされていたことである。


比婆の山の横屋には、いにしへの時代より、日本海の朝日を目指し渡来した神々とシャーマンが宿り、そこでは新しい神々の秘術を駆使した製鉄と鍛冶の技術を通じて、新しい世を築こうとする〝鉄と火の新時代に向かう生誕の儀式〟が行なわれていたのだ。

そしてその最大の象徴となる剣(つるぎ)が、ヤマト朝廷の神璽のひとつとされ、〈草薙剣〉またの名を〈天叢雲剣〉として、スサノヲとヤマトタケルの名とともに、日本神話に記され日本人の記憶に刻まれたのだった。


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