大学院生募集
「新しい心理学」研究を志すみなさんへ
この文章は、主にこれから大学院修士課程への進学を志す方々を対象に、「新しい心理学」を創っていこうという私たちのプロジェクトの概要を紹介し、参加を呼びかけるために書かれたものです。
心理学の危機と心理学者の責務
現在の心理学は多くの危機に直面しています。第一に、これまで発表されてきた多くの知見が、追試によって再現できないという「再現可能性危機」があります。教科書に記載されているレベルの知見でも、その信憑性が疑われるものが数多く見つかっています (樋口 & 藤島, 2018; 池田 & 平石, 2016)。これに加えて、「一般化可能性危機」と呼ばれる問題が存在します。本来、心理現象は多様で高度な複雑性を持ったものです。しかし現在までの心理学研究のほとんどは、現象をある特定の「仕様」に落とし込むことで、こうした複雑性を取り除き、単純で取り扱いやすい対象にしてから、実験や調査などの俎上に載せ、研究を行ってきました。例えば「注意」の研究は、ストループ課題などの特定の実験デザインと不可分ですし、「パーソナリティ」の研究は、それを尋ねる質問紙項目や因子分析などの分析方法と不可分です。そのため、仮にそうした特定の「仕様」の下である知見が得られても、他の文脈の下でその知見を一般化することができないことがほとんどです (Hiraishi & Nakamura, 2022; 平石 & 中村, 2022)。例えばストループ課題で観察されるような「注意」の制御が、実験室から離れた現実生活でどのように機能しているのか、あるいは実社会で「パーソナリティ」が持つ効果を質問紙を使わずに研究することなどは、現在の心理学では極めて難しいと言って良いでしょう。
かくして現在の心理学は、再現可能性がないか、あるいは再現性があったとしても特定の仕様を離れて一般化できないという、大変危惧すべき状況に陥っています。心理学が現実社会で果たすべき役割は、決して小さくありません。精神疾患治療、教育、労働環境改善、犯罪対策、災害支援などの直接的貢献だけではなく、経済学、経営学、政治科学、社会学、人類学などを含む社会科学全体に対する理論的貢献という意味でも、大きな役割を担っています。それゆえ私たち心理学者には、こうした窮状を何とか打開し、信頼できる心理学を創っていく責務があるのではないでしょうか。
自然科学と心理学
では、どうすればこの危機を乗り越えることができるでしょうか? 人類は歴史を通じて様々な方法で世界を探求してきましたが、そのうち最も客観的で、信頼できる方法が自然科学であることは間違いありません。そのため私たち一部の心理学者は、自然科学こそが、心理学に安定した理論的基盤を提供してくれるだろうと考えています。すなわち、物理学の基本法則からスタートして、化学・生物学等へと広がる様々な基礎理論を、心理学に対しても適用すべきだと考えます。
もちろん、こうした試みは新しいものではありません。多くの先人たちが同様の挑戦を試みてきましたが、心理現象が持つ複雑性ゆえに、挫折を繰り返してきたのです (cf. Lindsay, 2021)。しかしだからと言って私たちは、自然科学の信頼性自体を疑うべきではありません。むしろ自然科学の発展がまだ不十分で、生命や心の複雑性を取り扱えるほどの域に達していなかったと考えるべきです。そして、自然科学は発展し続けています。例えば 20 世紀後半以降、非線形物理学・非平衡熱統計力学などの領域では、生命を含む複雑な現象に対して新しい理論を打ち立てる努力が続けられています (e.g. カウフマン, 2020; 金子, 2019)。さらに近年では、深層学習技術が目覚ましい発展を遂げており、極めて現実的な文章 (岡崎 et al., 2021) や自然な画像 (岡谷, 2022) を生成することが可能になってきました。文章や画像は本質的に極めて複雑な現象ですから、自然科学は、ついに世界の複雑性を読み解くための糸口を見つけたのかもしれません。
新しい心理学へ
私たちは、こうした自然科学の新たな展開を土台として、今こそ「新しい心理学」を創り出せるはずだと考えています。いえ、心理学の深刻な危機を目撃した以上、私たちには「新しい心理学」を創り出す責務があるとすら考えています。この「新しい心理学」プロジェクトはまだ始まったばかりで、具体的な成果は生まれていません。それどころか、まずは私たち心理学者自身が、旧来の心理学的思考の枠組みをいったん捨て、自然科学の文法を身に着けていくところから再スタートしなければなりません。今後数年かけて、私たち自身を基礎からトレーニングし直し、上に挙げたような自然科学の新たな展開を、心理学研究に大胆に適用するところまで到達しようと考えています。
具体的には、「深層学習心理学」というプロジェクト名のもと、まずは自然科学に関する様々な学習機会を提供するところから始めています。心理学者、ならびに心理学研究を志す方々の多くが、いわゆる文系教育を受けていることを前提として、まずは高校レベルの数学の復習や、統計学の数理的背景の理解から進めています。今後は基礎的な数学と物理学、そして非平衡統計力学、集団遺伝学、機械学習技術とその理論などといったトピックにも学習対象を拡大していこうと考えています。また同時に、プロジェクトの第二段階として、先に挙げた複雑性科学や深層学習を心理学に適用する可能性に関して、様々な角度から理論的な検討を行っていく予定です。さらには、そうした自然科学の具体的な研究手法、例えば最先端の深層学習技術などを、心理学の研究トピックに応用する際の実践的問題についても、実例を通して検討していく予定です。プロジェクトの詳細については、こちらの発表資料をご覧ください。
一緒に「新しい心理学」を創りませんか?
私たちは、この「新しい心理学」を創る研究プロジェクトに、大学院生・PD 研究員として共に参加してくれる方を募集しています。ただし、通常の研究プロジェクトと比べて、このプロジェクトは極めて長期的な計画に基づくものであり、すぐに具体的な成果を期待することはできません。私たちが最初の研究成果として目標にしているのは、上に述べたプロジェクトの第二段階ですが、これが形になるのは、早くてもおそらく 2 年後の 2024 年頃を考えています。そのため、次の注意事項をよくご確認ください。
現在既に大学院課程に在籍されている方は、すぐに研究業績を出す必要があるでしょうから、あくまでサイドプロジェクトとしてのご参加をお薦めします。例えば博士後期課程や学振 PD 研究員におけるメインプロジェクトとしてのご参加は、お薦めできません。ただし既に、(1) 心理学、(2) 非平衡系を含む熱物理学、(3) 集団遺伝学、(4) 機械学習理論のうち、三つ以上を学ばれた方はこの限りではありません。その場合は個別にご相談ください。
現在、あるいは以前に心理学系の学部・大学院課程に在籍されていて、今後修士課程の大学院生としてご参加いただける場合は、歓迎いたします。ただし参加された最初の 1 年から 2 年、すなわち修士課程の大部分は、ひたすら数学や自然科学の学習に費やされることになることをご覚悟ください。また、修士論文執筆を含めた修士研究についても、指導教員から研究指導を受けるのではなく、指導教員と並列的な立場で議論を行い、自主的に研究を進めていく必要があることをご了承ください。修士研究の内容は「複雑系科学あるいは深層学習理論を心理学研究に適用する際の諸問題」に関するものになります。
研究テーマ例1:心理学研究と深層学習で用いられている言語・画像刺激の代表性と分散に関する比較検討
研究テーマ例2:生態学的妥当性に基づく正則化によって心理学における一般化可能性問題を解決できるかの理論的検討
研究テーマ例3:プライス方程式を用いた生物・文化進化モデルにおけるベイズ更新の理論的位置づけの検討
現在、あるいは以前に物理学、生物学、情報科学などの学部・大学院課程に在籍されていて、今後修士課程大学院生としてご参加していただける場合も、歓迎いたします。その場合も、入学された後は、ご自身の専門以外の領域を学んでいただく必要があります。例えば物理を専攻されていた場合であれば、集団遺伝学や機械学習理論を学んでいただくことになります。修士研究遂行上の注意点や研究テーマは、上記 2. と同様です。
上記 2. 3. のいずれのケースでも、修士課程修了後、続いて博士課程に進学していただくことは可能ですが、修士研究の内容が既存の心理学研究の枠組みに収まらないものになる可能性が非常に高いため、博士課程進学時に学振特別研究員 DC1 など資格を獲得することは極めて困難だとお考え下さい。