[第四章]
快適な通勤に
ライナーを
通勤の選択肢を増やす
新たな列車たち
通勤の選択肢を増やす
新たな列車たち
新しい私鉄有料特急の形として、最近注目を浴びている列車たちがある。今回の展示のタイトルにもなっている、「◯◯ライナー」と呼ばれる有料特急だ。こうしたライナー列車は『通勤客に確実な空席を提供するための有料特急』といえる。主に朝夕の通勤時間帯に運転される列車で、空席の保証された快適な車両を、五百円玉でお釣りが来る程度の手頃な追加料金で利用できる。
首都圏の私鉄路線の多くは座席にロングシートを採用しており、進行方向に向かって横向きに座ることになっている。一方のライナー列車は正面を向いて座ることができるクロスシートが使われていて、いつもの通勤風景が全く違ったものになること請け合いだ。また、回転する座席を備え、前向きと横向きを簡単に転換できる「デュアルシート」とよばれる設備が搭載された車両も登場している。ライナーが運行されない日中の時間帯にも車両を有効活用するための知恵である。
また、東急電鉄の「Qseat」のように、通常の列車に一両だけ特別な座席を挟み、追加料金を払うことでこれを利用できるサービスもある。これは厳密には有料特急とはいえないかもしれないが、快適な通勤環境を提供するための特別車両であることに変わりはない。
満員電車にすし詰めになり、遠くの職場まで通う...そんな通勤の在り方が見直されつつあるこの時代に、鉄道会社はどのような取り組みを行っているのだろうか。私鉄の世界に新たな風を吹かせた、有料特急の最先端を見ていこう。
今やライナー列車は首都圏の各地で見ることができるが、本校から最も近いところを走るのは京王電鉄が運行する「京王ライナー」だろう。ここでは京王ライナーを例に、ライナー列車の実態について解説していく。
京王ライナーは、2018年に運転を開始した、京王電鉄が運行するライナー列車である。乗車にあたっては、普通運賃に加え指定席料金1席あたり410円(大人小児同額)が必要となる。座席指定券は京王チケットレスサービスで乗車7日前から購入できるほか、各停車駅に設置された専用券売機で乗車当日に購入することもできる。
(京王ライナーの運行路線図)
朝は橋本・京王八王子発の新宿行きのみが、夜は新宿発の橋本・京王八王子行きのみが運行されており、郊外から都心に通う通勤客の輸送に特化した運用となっている。また、土休日には新宿~高尾山口をノンストップ(下り列車のみ)で結ぶMt.Takao号が運転されている。
車両は2017年に登場した5000系電車で、京王ライナーとして運行される際には10両編成・計438席が確保される。
座席は簡単に向きを変えることのできる
デュアルシートが採用されていて、ライナー運用の際にはクロスシート、その他の列車として運転される場合には原則としてロングシートのまま運行されている。
また、各座席に電源コンセントが設置されているほか、全車両にFree Wi-Fiがついており、通勤時間にも仕事ができるようになっている。また、LEDの光の色が柔らかく設定されているため、車内は落ち着いた雰囲気に仕上がっている。
ただし、車内にトイレが設置されておらず、座席のテーブルもついていないため、車内での作業や飲食、とりわけ飲酒においては不便な点もある。また、現在京王ライナーの座席はリクライニングができない構造となっているが、2022年度にはリクライニングが可能な編成が導入される予定である。
少し前のことになるが、筆者は新宿から相模原線方面に京王ライナーで帰宅したことがある。新宿駅を発車した列車は、わずか数分後に明大前駅で停まってしまった。踏切システムの都合で行う運転停車のためドアは開かない。明大前を過ぎてからも頻繁に加速と減速を繰り返す。やはりこの時間帯は列車が詰まっているのか、安定した速度が出ないままに筆者の最寄駅へ到着した。
筆者が体感した京王ライナーの“遅さ”は所要時間という形で表れている。例とし て、京王ライナーと追加料金不要の列車の速さを次の表で比較してみよう。
※高尾山口発着の京王ライナーはMt.Takao号として運転
※表定速度:ある区間における列車の平均の速さを、駅での停車時間や時間調整などを含めて計算した数値
時間帯の違いもあるため単純に比較をすることはできないが、追加料金のいらない特急や準特急がかなり俊足であるのに対し、停車駅が圧倒的に少ないはずの京王ライナーはその本領を十分に発揮できていないことが分かる。同じ新宿を拠点とするロマンスカーが80km/hを超える表定速度で運転されていることを考えると、速さ自体が京王ライナーの強みであるとはお世辞にも言いがたい。
では筆者は追加料金の410円をドブに捨ててしまったのかというと決してそうではない。特に明大前~調布間はラッシュ時には大混雑を見せる区間だが、その混雑に全く触れることなく座ったまま帰宅できるのはずいぶん楽だった。普段と比べても疲れは圧倒的に少なく、410円の追加料金は十分に価値があるものだった。そのように考える利用者は筆者だけではないようで、筆者が乗車した際にも座席の6~7割が乗客で埋まっていた。
このように、有料特急の持ち味はその速さだけではない。コロナ禍を通してライフスタイルが変化する中で、殺人的な通勤ラッシュを横目に見ながらの優雅な通勤は現代人の憧れである。今後、こうしたライナー列車が一層の発展を見せることを願うばかりだ。
京王ライナーをはじめとする通常のライナー列車は、ラッシュ時の線路を縫うようにして走るため、ただでさえ混み合ったダイヤに多少なりとも負担を強いることになる。一方、首都圏にはもっとスマートな方法で快適な車両を走らせている路線がある。東急大井町線で2018年12月に運行を開始した「QSEAT」と呼ばれる車両だ。
(大井町線の路線図と急行停車駅)
大井町線は品川区の大井町駅から川崎市内の溝の口駅までを結ぶ路線で、一部の列車は田園都市線に入って中央林間まで直通運転されている。Qseatは平日夕方の下り列車(大井町発の列車)でのみ実施される座席指定サービスで、本数は1日6本、全ての列車は田園都市線に直通して長津田まで運転されている。
乗車に必要な座席指定券は400円で、指定券は当日の朝5時からweb上にて購入できる。また、座席には京王ライナーと同じデュアルシートが採用されており、料金やサービス自体は京王ライナーとほぼ同じである。
そんなQseatと京王ライナーの最大の違いは、その運行方法の違いである。京王ライナーは1号車から10号車まで全てが指定席であるのに対し、Qseatは中間の1両だけを指定席として、残りの車両は通常の急行列車として運行されている。3号車に組み込まれたこの特別車両の名称がQseatで、他の号車にはない快適な座席が搭載されている。外装面でも、7両編成のうちこの1両だけがオレンジ一色に塗装されているため、遠くからでもよく目立つよう工夫されている。
大井町を発車したQseatは、田園都市線の二子玉川~鷺沼間を降車専用として走行した後、たまプラーザ駅からは追加料金なしで利用できるようになる。また、その他の時間帯には、座席を横向きにしたQseatの車両が通常の列車と同じように運転されている。従って、乗車する列車や区間を工夫すれば、追加料金を払わなくてもQseatの快適性を体感することができる。
ところで、東急電鉄はなぜ京王のようなライナー列車を設定せずに、既存の急行列車に特別車両を連結したのだろうか。
これについてはいくつか原因が考えられる。最も有力な説は線路容量の問題だ。大きく分けて、大井町線には各駅停車(5両編成)と急行(7両編成)の2つの種別が設定されている。急行は全18駅のうち12駅を通過するが、列車の追い越しが可能な駅が下り1箇所・上り2箇所しかないため、急行はラッシュ時でも9分間隔での運行に留まっている。
国土交通省の公表しているデータによれば、大井町線はラッシュ時の混雑率が150%を超える混雑路線である。カツカツの間隔で運行されている急行に対して、それに割って入るかのように特急を走らせれば、前後の列車がますます混雑することは容易に想像がつく。田園都市沿線から品川・田町や台場などのビジネス街へアクセスには大井町線を利用するのが最短であり、ライナー列車の需要も高いと思われるが、線路設備には限界があるのだろう。
もう1つ、Qseatならではの強みとして、通常の列車と連結することによる広告効果が考えられる。Qseatは、車両は快適でも所詮は急行列車の一部であるから、その所要時間は1分たりとも変わらない。しかし走ってくる列車を覗くと、ほぼ全ての座席が埋まっていることが多い。
その人気の理由は、実際に乗車してみるとおのずと明らかになった。
2021年10月8日、時刻は18時前。ラッシュ真っ只中の車両はすし詰め状態で、車内に体を収めるのがやっとである。しかし、ふと隣の車両を見てみると…たった40人きりの乗客が、柔らかい背もたれに体を預けて思い思いにくつろいでいるのである。ここまでの“格差”を見せつけられると、400円の追加料金を払ってでもQseatに乗りたいと思う乗客は少なくないだろう。
(Qseatの車内 扉の向こうは普通の車両)
列車も線路も激しい混雑をみせるラッシュの波を上手にかわし、Qseatは一定の需要を獲得しているといえる。厳密には有料“特急“とは言いがたいかもしれないが、追加料金によって快適な通勤環境を提供するという本質的な点では他のライナー列車と全く同じである。
今後の発展に対する期待も込めて、ここでは私鉄有料特急の一員に列しておこう。
今回扱った「ライナー列車」のはじまりは、2008年に東武東上線に登場した「TJライナー」であるといわれている。
(“本物”のTJライナーの方向幕)
その後、2017~18年にかけて西武・京王・東急などが相次いで似たような列車を登場させてきた。
しかし率直に述べて、通勤客のために運行される有料特急自体は大して目新しいものではない。例えば京成電鉄で「モーニングライナー」「イブニングライナー」の運行が始まったのは40年近く前の1985年とされている。また、小田急電鉄でも、通勤時間帯に合わせたロマンスカーの増発を1967年より実施してきた。
その上で、ライナー列車の運行が革新的な取り組みとして注目される要因は、通勤客のためにわざわざ専用の特急車両が設計・製造されていることにあると考えられる。既存の通勤用特急は、空港や観光地への輸送の“ついで”として、余った車両を沿線の通勤客向けに回していることが多かった。これは、着席需要のある時間帯が朝夕のラッシュ時に限られるため、大規模な列車の新造を行うと日中に大量の余剰が発生して効率が悪いからであろう。
では、なぜ私鉄各社はライナー列車向けの新型車両の製造に踏み切ったのだろうか。その要因の一つとして、この章の冒頭でも触れたデュアルシートの普及が考えられる。デュアルシートにより無駄のない車両運用が可能となったのは先に述べたとおりだ。
しかしそれ以外にも、満員電車で通勤するという生活様式が以前と比べて好まれなくなったことや、スマートフォンの普及により手軽に指定券を購入できるようになったこと、情報化によって帰宅時間を仕事の時間に変えられるようになったことなど、技術の進歩に伴うライフスタイルの変化が大きな要因として存在するのではないかと我々は考えている。
(京王電鉄のホームページより)
手軽で快適な有料特急に対する需要が高まったことで、鉄道会社としても新車の製造に見合う利益が得られると判断したのであろう。そして私鉄各社でライナー列車が導入されて2~3年でコロナ禍が始まったことで、混雑を避けた通勤への需要はさらに高まった。さすがにコロナ禍までは誰も予測できなかっただろうが、少なくとも時代の変化に対応するという点で、ライナー列車は大きな成功を収めたといえるのではなかろうか。