[第三章]
乗った場所から
観光地
小田急が進めた
箱根・江ノ島の観光開発
小田急が進めた
箱根・江ノ島の観光開発
続いて、『観光客に楽しい空間を提供するための有料特急』について考えよう。紹介するのは小田急電鉄が運行する特急列車「ロマンスカー」である。ロマンスカーは言わずと知れた小田急電鉄の看板列車で、私鉄の有料特急といえば真っ先にこの列車を想像する人も多いだろう。
ロマンスカーは戦後間もない昭和20年代に運行を開始した歴史ある列車で、東京都心から箱根・江ノ島といった神奈川県内の著名な観光地を結んでいる。新宿から小田原を経て箱根湯本までを結ぶ「はこね」号、藤沢・片瀬江ノ島方面へ向かう「えのしま」号のほか、地下鉄千代田線に直通する「メトロはこね」「メトロえのしま」号、小田原線の新松田から連絡線を使ってJR御殿場線に直通する「ふじさん」号など、需要に合わせて多種多様な列車が運行されている。
ロマンスカーの大きな特徴のひとつに観光客に対する手厚いサービスがある。車内は窓が大きく開放的で、景色が見やすいように配慮されている。また、箱根登山鉄道・箱根ロープウェイ・江ノ島電鉄といった現地の私鉄路線は全て小田急のグループ企業であるため、1枚の切符で手軽に観光を楽しめるフリー乗車券も容易に販売できるようになっている。ロマンスカーが箱根・江ノ島という観光地のブランドに何をもたらしたのか、小田急グループが行った観光開発の歴史について見ていこう。
(ロマンスカーの運行路線図)
「ロマンスカー」は小田急線を走る特急列車の愛称で、運行系統別に「はこね」「さがみ」「えのしま」「ふじさん」「メトロはこね」...などの名がつく。
はこね・スーパーはこね・メトロはこね
「はこね」は新宿と箱根湯本を結ぶ特急で、箱根や小田原などへ向かう観光客に人気が高い列車である。途中停車駅が小田原のみのものは「スーパーはこね」の名がつき、新宿~小田原間を最短59分で結ぶ。また、その他のはこね号は、町田・相模大野・本厚木など沿線の都市の乗客を運んでいるが、列車によって互い違いに停車駅を配置する「千鳥停車」とよばれる運用を行っており、スピードアップと幅広い乗客の獲得を両立している。また、「メトロはこね」は地下鉄千代田線に直通し、北千住と箱根湯本を結ぶ。
ちなみに、東京〜小田原間の移動に関しては、新幹線を使えば最短33分でアクセスできるため、所要時間に限って言えば完全に新幹線が勝っている。
えのしま・メトロえのしま
「えのしま」は新宿と片瀬江ノ島または藤沢を結ぶ特急。「メトロえのしま」は千代田線に直通し、北千住と片瀬江ノ島を結ぶ。新宿~藤沢間の所要時間は54分で、これはJR湘南新宿ラインの普通列車とほぼ同じである。
ふじさん
「ふじさん」は新宿と静岡県の御殿場を結ぶ特急で、以前は「あさぎり」という名称だった。小田原線を走行して秦野駅に停車したのち、新松田駅の手前にある松田連絡線を通ってJR御殿場線に入る。御殿場はアウトレットモール等を擁する富士山麓の都市だが、近年は高速バスの進出により特急の乗客数が伸び悩んでいる。
その他のロマンスカー
上に示した列車のほかにも、はこね号の輸送力を補う小田原止まりの特急「さがみ」、朝夕の通勤時間帯に運転される「モーニングウェイ」「ホームウェイ」など、小田急では他にも実に多様な特急列車が運転されているが、紙面の都合上ここでは省略させていただく。
GSE (70000形)/VSE (50000形)
(2018年に登場したGSEこと70000型)
GSE・VSEは主に「はこね」として運転される車両で、ともに展望席を備えた人気の高い車両である。展望席の最前列に至っては、予約開始前から窓口に並んでも予約が取れないことがあるという。
2005年に登場したVSEはサルーン席と呼ばれる個室風の座席を備え、家族連れによる観光需要に応えている。VSEは全ての座席が窓側に5度ほど傾いており、大きな窓から沿線の景色を楽しめるようになっている。
また、2018年にはGSEが登場し、老朽化の進んでいた旧形式の車両を置き換えた。
EXE・EXEα(30000形)/MSE(60000形)
(地下鉄直通用の設備を備えるMSE)
通勤用や観光用など幅広い運用に対応した、本数の多いタイプのロマンスカー。展望席およびサルーン席は設置されていないが、小田急の特急ネットワークにとって欠かすことのできない存在である。
2008年に登場したMSEは東京メトロ千代田線・JR御殿場線への直通運転に対応しているほか、10両編成を6+4両に分割できることから、柔軟な運用が可能である。また、製造から20年が経つEXEにはリニューアルが施され、内装が一新されるとともに愛称がEXEαへと改められた。
小田急電鉄では、新宿と小田原を結ぶ小田原線、途中の相模大野で分岐して片瀬江ノ島へ向かう江ノ島線、新百合ヶ丘と唐木田を結ぶ多摩線の、合わせて3路線が営業されている。このうち、小田原線の全通は1927(昭和2)年・江ノ島線の全通は1929(昭和4)年で、両路線は戦前から運行されていることになる。
一方、箱根は奈良時代に開かれた伝統ある温泉地帯で、江戸時代以降は近郊の観光名所として発展を遂げてきた。1919(大正8)年には小田原から強羅の間で小田原電気鉄道(現在の箱根登山鉄道)が開通し、古くから交通の要害となっていた箱根の山に鉄路の恩恵がもたらされた。1927年に全通した小田原線は開業と同時に箱根アクセスの中心を担う存在となり、1935年には座席指定制の特急列車「週末温泉急行」が運行を開始した。また、江ノ島線についても海水浴客からの需要があり、夏期を中心に急行列車が運行されていた。
これらの観光用列車は太平洋戦争によって運転を取りやめたが、週末温泉急行が1948年に運行を再開すると、列車にはもとの賑わいが戻ってきた。これに弾みをつけた小田急は新型車両の製造に踏み切り、1949年に入って特急車両「1910形」が登場した。こうして運行が始まった新型特急列車はロマンスカーと名付けられた最初の列車であり、現在の小田急ロマンスカーの礎を築いた存在である 。
(ロマンスカーミュージアムに展示されるSE車)
その後、1957年には「SE車」と呼ばれる軽量特急車両3000形が運行を開始し、当時としては珍しかった流線型の車両が世間を驚かせた。3000形はその後の高速度試験で145km/hという驚異的な速度を叩き出し、狭軌の鉄道としては世界最速の鉄道車両となった。
また、1963年に登場した3100形・通称「NSE」は、先頭車両から広大な前面展望を楽しむことができる車両として人気を集めた。
(同様に展示されているNSE)
また、運行面では、江ノ島線への乗り入れ(1964年開始)をはじめとする運行範囲の拡大、ラッシュ時間帯を走る通勤客向けの列車の設定など、乗客を幅広く取り入れるための改良が続けられた。
このように、ロマンスカーには当初から先進的な技術が惜しげもなく投入されており、また乗客をあっと驚かせるデザインやサービスも魅力であった。今日においてもこの設計思想は受け継がれ、趣向を凝らした新型車両が次々に登場している。70年以上にわたって続いてきたロマンスカーの発展が、箱根・江ノ島という観光地のブランドに大きな貢献を果たしていることは明らかである。
ロマンスカーの特徴といえば何といっても工夫を凝らした車両であるが、観光開発という視点で考えると、小田急のもう一つの強みが見えてくる。それは、家を出てから帰るまで、一日の観光ルートが全て小田急のグループ企業によってサポートされていることだ。
試しに、日帰りで箱根に行くことにして、一日の行程を頭の中に思い浮かべてみよう。ロマンスカーで箱根湯本に向かい、箱根登山鉄道・ケーブルカー・ロープウェイを乗り継いで大涌谷へ。そのまま芦ノ湖へ抜けて名物の“海賊船”に乗り継ぎ、芦ノ湖を横断して箱根町港へ。箱根関や箱根神社などの旧跡を巡り、帰りはバスで箱根湯本へ戻る。いわゆる「箱根ゴールデンコース」として有名な観光コースであるが、実はここに挙げた交通機関は全て小田急グループという1つのグループ企業によって運行されているのだ。
(箱根ゴールデンコースの概略図)
一つの企業によって運行されているということは、すなわち統一感のあるサービスを提供できるということを意味する。最も分かりやすい例がフリー乗車券だ。箱根ゴールデンコースを新宿から往復すると、通常の運賃では特急券込みで8,260円になるが、「箱根フリーパス」を使えば6,810円と1,500円近くも割安になる上に、途中の交通機関の自由乗降券や各種施設の割引券なども付いてくる。まさに破格の乗車券だ。
小田急グループでは、箱根フリーパスの他にも「江の島・鎌倉フリーパス」「丹沢・大山フリーパス」など、観光エリアごとに多様な乗車券を発売している。いずれの地域でも、見た目の違う交通機関が同じグループに組み込まれ、1枚の乗車券のみで観光を楽しめる手軽さが魅力となっている。
小田急グループが力を合わせて提供する観光ルートの中で、往復のロマンスカーはどのような役割を担っているのだろうか。例えば、最新型のロマンスカーGSEの開発コンセプトは、「箱根につづく時間(とき)を優雅に走るロマンスカー」とある。落ち着いた車内で過ごすひととき・展望席を前にした時の興奮は、箱根という“非日常の空間”に向かって続いているのだ。
ロマンスカーは車両のデザインを工夫し、乗った瞬間から味わえる「非日常感」を大切にしている。現地の交通機関の“横のつながり”を活かし、旅行の感動をグループ一丸で提供できる強みは、他の鉄道会社ではなかなか見られない。ロマンスカーは単なる特急列車ではなく、箱根・江ノ島といういわば巨大なテーマパークの中で、乗客を日常から非日常へ導く重要な役割を果たしているのである。