グレゴリー・ケズナジャット氏特別授業 開催報告

「ことばの探求-第二言語での創作の意義」

グレゴリー・ケズナジャット氏特別授業 開催報告

「ことばの探求-第二言語での創作の意義」

 

開催日時:2023年6月9日(金)4時限・5時限

科目:国際文化コミュニケーション学科「入門ゼミナール」

教室:6309教室(4時限)、6219教室(5時限)

 

 昨年2022年度に引き続き、作家のグレゴリー・ケズナジャット氏に本学科の1年生に向けての特別授業を行っていただきました。ケズナジャット氏は2021年に「鴨川ランナー」で第2回京都文学賞を受賞され、さらに2023年春の第168回芥川賞の最終候補に『開墾地』(講談社)が残られ、日本語で創作活動をされている外国人作家としてもっとも注目を集めている人です。また、法政大学グローバル教養学部准教授として教鞭も取っていらっしゃいます。

 本学科の学生の多くは、外国語の習得に興味関心を強く持っており、在学中に留学をする学生も多くいます。また、在籍学生の20%近くが外国人留学生ということもあり、かれらにとって、「第二言語」を学ぶ・使うということは学生生活において、重要なテーマの一つです。そこで、ケズナジャット氏に「第二言語」を学び、表現するとはどういう意義を持つことであるのかを、教育者・小説家という立場からお話しいただきました。

 

【なぜ第二言語を勉強するのですか?】

 最初にケズナジャット氏が学生にこのような質問を投げかけました。「日常会話の翻訳は将来的には自動化されると思えます。機械翻訳の進化のスピードは想像以上です。それでもなぜ皆さんは外国語を学ぼうとするのですか?」

 学生たちは小グループを作って意見を述べあいました。「海外の人とコミュニケーションをとるため」「異文化理解のため」「グローバル社会のツールとして必要だから」などなど。

 それらはいずれも学生たちの素直な回答ですが、ケズナジャット氏が強調されたのは、外国語を学ぶとは「ことば」というものを一から勉強すること、「ことば」というものを考え直す機会であり、つまりそれは「自分」のことを考え直すことにつながるということでした。「ことば」とはつねに誰かから与えられたものであるわけで、その点では「母語」も「第二言語」も同じことだと。

 【日本語学習体験-まじめに勉強することの罠】

 ケズナジャット氏は高校での「第二言語」学習として日本語と初めて出会ったそうです。「それは英語母語話者としてのある種の特権です。日本人は小学生の時から英語を義務教育として学ばされますが、私はヨーロッパ言語だけではなく、ロシア語や日本語などの中から自分の興味関心で選択できたのです。」

 氏は日本語の文字が面白く、一生懸命に日本語を勉強したそうですが、日本に短期ホームステイをした際に、学校で学んだことが全く通用せず、強い敗北感を味わったそうです。その理由は、「方言」(訛り)です。ホームステイ先は地方都市で、地元の言葉が全く聞き取れなかったそうでした。そのことでさらに日本語を勉強したいと思ったそうです。「ことば」とは面白いですし、生きています。

 「第二言語」を勉強するときに、「正しい表現を使おう、、正しい発音をしようとまじめに勉強するとかえって上達は遅くなります。」氏も、ホームステイ中に失敗することが怖くなり、日本語で人としゃべることが嫌になったこともあったそうです。それでも氏は、日本語を使っていると、日本文化の雰囲気がおのずと立ち上がってくるのを感じ、日本語の文学作品を読んでいる時は「純粋に日本語だけの世界を味わうことができる」楽しみがあると仰っていました。

 ALTとして日本の学校で補助教員をしていた時には、日本人の生徒たちは最初から英語を学ぶことを押し付けられていて、楽しそうではなかったと感じたそうです。日本の英語教育の問題点の一つがここにあるのかもしれませんね。

 

【第二言語を使うとき、性格の変化を感じるか?】

 学生に再び問いかけました。留学生たちが素早く反応しました。

「英語を使っている時は、ジェスチャーが大きくなったり、声が大きくなったりして、母語で話をする時とは雰囲気が違うと言われます。」

「日本語でしゃべると、丁寧な口調になり、声も小さく控えめな感じになります。」

 「ことば」がもつ文化的な身体性というものが働くのかもしれませんね。もちろん、そこには、その言語に対するイメージというものも作用していると言えます。ケズナジャット氏は、「私は本来物静かな方ですが、日本では「英語」を使うときは陽気な「アメリカ人」のようなしゃべり方をすると喜ばれます」と苦笑いしていました。日本人の中にある外国人に対するステレオタイプ化されたイメージというものも拭い去りがたくありますね。そして、それは外国人の方にも「日本人・日本文化」に対する固定的なイメージはあり、ある種の「共犯的関係」であると氏は指摘されていました。そのことを小説化したのが「鴨川ランナー」であり、氏は「あの小説では、国際交流の不条理を書きたかった」とも述べられていました。

 

【創作について-越境文学論をずらす】

「異言(タングズ)」「鴨川ランナー」と日本語で小説を書いてきて、ケズナジャット氏は日本で暮らす中で感じてきた違和感-外国人だから英語で話しかけられ、陽気なアメリカ人イメージを求められる-と、疎外感を表現したかったと仰っていました。

「私はアメリカ人ですが、日本語で書いた小説は、誰が書こうとそれは日本文学のはず。しかし、店頭に並ぶと、それは外国人が書いた越境文学というレッテルを貼られてしまう。」

 氏は『開墾地』はそうした越境文学論をずらしてみたかったそうです。日本人も日本語も登場しない小説をあえて日本語で書くことで、「第二言語の感覚」や「移民の経験」などに縛らない作品として書きたかったそうです。

 これは越境文学や日本語文学という捉え方、あるいはLGBTQ文学、BL文学、女流文学、翻訳文学などなど、さまざまにジャンル化されてしまうことで、結局は期待の地平が固定化されてしまうという問題につながることかと思います。

 

【授業の終わりに】

 ケズナジャット氏は、学生たちに「ことばを知ることの楽しみを忘れないでください」と語り掛けて、特別授業を閉じられました。

 お話の後も、学生たちからは「日本語をしゃべることで疎外感を感じている人にどんな言葉かけてあげればいいのですか?」「ケズナジャット氏の小説は日本人に読んでもらいたいのですか?誰に一番読んでほしいと思っていますか?」「日本語を学ぶ上で一番大切にしていたことは何ですか?」などなど、たくさんの質問が出ていました。

 学生たちにとって、まさに「特別な」授業となったことは間違いありません。

 グレゴリー・ケズナジャット先生、ありがとうございました!

 〔グレゴリー・ケズナジャット氏プロフィール〕

1984年、アメリカ合衆国サウスカロライナ州生まれ。2007年、クレムソン大学を卒業後、外国語指導助手として来日。2017年、同志社大学大学院文学研究科国文学専攻博士後期課程修了。現在は法政大学グローバル教養学部准教授。2021年、『鴨川ランナー』(講談社)で第2回京都文学賞を受賞。2023年、『開墾地』(講談社)で第168回芥川賞候補となる。

 

主催:文学部国際文化コミュニケーション学科(石田仁志教授、堀ひかり准教授)

報告(文責):石田仁志