カウンセリングにおける暗示

カウンセリング教育における暗示の無視

現在のカウンセリングの教育・訓練において、暗示はほとんど無視されています。暗示は、カウンセリングの入門的なテキストばかりか、より上級者向けのテキストでも扱われていないように思われます。心理療法家を養成する大学院のカリキュラムでもほとんど扱われていないところが多いのではないかと思います。現在のカウンセリング心理学、臨床心理学においては、暗示や催眠は、かなりアンダーグラウンドの領域となっているのです。

それには2つの理由があると私は分析しています。1つは歴史的な問題です。現在行われているようなカウンセリングや心理療法の起源をたどっていくと、フロイトの精神分析に行き着きます。フロイト以前の心理的援助の主流は催眠でした。催眠とは、暗示を繰り返し系統的に用いながら特別な意識状態を導く方法で、いわば暗示をブロックとして積み上げて建てられた建造物のようなものです。つまり、フロイト以前は暗示を用いて心に働きかける方法が主流だったのです。フロイトも、心理療法家として、そのような方法を学び、それを実践するところからスタートしています。そしてその後、フロイトは、暗示を否定して、精神分析を確立したのです。そして、精神分析が暗示を否定して確立されたものであるがゆえに、精神分析から派生した現在の様々なカウンセリングも、おおむね暗示を否定する流れを汲んでいるのです。

もう1つは、暗示を用いる方法をリードしてきた人たちの側の問題です。暗示やその系統的な使用である催眠は、一見したところ摩訶不思議とも受け取れるような現象を引き起こしますので、一般の人々から好奇の目で見られがちで、超常現象、超心理学、心霊現象などとも結びつきやすいところがあります。また、暗示や催眠は、その受け手の意識的なコントロールをゆるめ、受け手が施術者に自らを委ねることを促進するがゆえに、未熟な施術者の性的な支配欲求と結びつきやすいところがあります。こうした背景から、暗示や催眠の研究者が、オカルトがらみのスキャンダルや、性的なスキャンダルを引き起こすことが繰り返し生じてきたのです。こうしたいきさつゆえに、良識ある研究者は、暗示や催眠からは距離を置く傾向が生じてしまいました。君子危うきに近寄らず、です。

私がここで暗示について話題にしているのは、なにも暗示療法や催眠療法など、もっぱら暗示の作用を中心に進めるセラピーを解説するためではありません。ごく普通の対話的なカウンセリングを行うカウンセラーにとって、暗示について基本的なことを理解しておくことは、とても重要なことだと私は考えているのです。

それにはいくつかの理由があります。

第1に、フロイトは暗示を否定して精神分析を確立しましたが、フロイト自身は暗示をよく理解し、実践した経験を持っていました。その経験は、精神分析の実践においても暗に活かされていたと思われます。またフロイトは、純粋の精神分析をあらゆるクライエントにとって唯一最上の援助方法だとは考えていませんでした。フロイトは、援助の実際においては、暗示を用いることの有効性を決して否定しませんでした。現代の対話的カウンセリングは、フロイトの流れを汲みながらも、このことを忘れてしまっているように思われます。

第2に、言葉のあや、ニュアンスといったものの影響力は、伝統的には、暗示(特に間接暗示)の効果として理解されてきました。暗示を学ぶことによって、言葉の微妙な選び方が持つ影響力をいっそうよく理解できるようになるはずです。

第3に、文字にすればまったく同じ言葉でも、それを言うときの声、抑揚、表情、姿勢、視線、タイミングなどによって、聴き手には非常に違った印象が生じます。このことは、暗示を与える実習をしてみることによって、非常によく理解できると思います。

第4に、上に述べてきた事とも関連することですが、暗示の実習で、相手に暗示の作用を気持ちよくスムーズに引き起こすためには、相手のことをよく観察し、適切なタイミングかつぴったりした表現でフィードバックを与えたり、期待された反応に即座に承認を与えたり、相手が無理なく受け容れられるような範囲内でリードしたりすることが必要です。これは、通常の対話的なカウンセリングで、ぴったりした反射や要約を返したり、変化が生じてきたときには即座にそれに気づいて肯定的な反応を返したり、クライエントにとって無理なく受け容れられる目標を立てたりすることと、まったく同じことなのです。暗示の実習は、こうした感覚を養う格好の練習になります。

普通の対話的なカウンセリングを行うカウンセラーにとって、暗示について基本的なことを理解し、暗示を体験することが有用である理由については、他にもいろいろなことが言えると思います。しかし、差しあたり理由を挙げるのはここまでとしておきましょう。


暗示とは何か

私がみなさんに「手を挙げて下さい」と言ったとします。これは教示です。あるいは依頼、あるいはお願いと言ってもいいです。「手を挙げましょう」でも同じです。「手を挙げなさい」「手を挙げろ」なら命令です。

これらに対して、私がみなさんに「手が挙がる」と言えば、これが暗示です。もちろん、いきなり「手が挙がる」と言っても、まず誰の手も挙がらないでしょう。何の脈絡もなく、見知らぬ人に、いきなり「手を挙げなさい」と言っても、まずたいていの人は手を挙げないのと同じです。

暗示は、教示や依頼やお願いや命令とは違って、これから起こることを予言するような形で述べる表現や、これから起こることをすでに起こり始めているかのように述べる表現、相手の心の中にあってまだはっきりした形を取っていないものをすでに特定の具体的で明確な形を取っているように述べる表現、などの形を取ります。不確定であいまいな可能性の領域のことを、具体的で明確ですでに確定したこととして表現することによって、実際にそのようになっていくよう導くコミュニケーションが、暗示なのです。

以上は、与え手の側から述べた暗示についての説明です。しかし、暗示においてより決定的に重要なのは、受け手の側の体験の方です。

暗示の与え手が「手が挙がる」と言います。そしてそれに反応して、暗示の受け手の手が挙がったとしましょう。そうすると、このとき、暗示の作用が働いたように見えます。けれども、もしその受け手がたとえば「ここで自分が手を挙げなかったら暗示の与え手のメンツが立たないだろうなあ」などと考えて、自分の意志で手を挙げたのなら、それは正確には暗示の作用とは言えません。暗示の作用とは、本人の意志によらずに、手がひとりでに挙がる、手が勝手に挙がる、といった自動性ないし被動性の体験の性質を帯びたものを言うのです。つまり、厳密に言うと、暗示が働いたのかどうかということは、目に見える反応の観察だけからでは判断できないということになります。その暗示の受け手に自動性や被動性の体験が生じたかどうかという、完全にプライベートな内的体験こそが、暗示が働いたのかどうかの基準だからです。


文献