後に劣等感コンプレックスの概念で有名になる精神分析学者のA・アードラーは,1898年にその最初の著書である『仕立業のための健康書』を出版している。そこで彼は,特定の職業に就くことにより,その職業につきものの社会的・経済的な諸条件に起因する一定の疾病にかかりやすくなるということを論じている。いわゆる職業病というやつである。ちなみに,当時の零細仕立業に多い病気の一つは,肺の病気であり,肺結核の頻度は他の職種の平均の二倍にのぼったという。零細仕立業者は,じめじめして暗く風通しの悪い作業場で,前かがみで座って働き,布地のほこりを吸っているからである。
カウンセリングセンターで教官や大学院生の話しを聞いていると,研究者の職業病というものについて考えさせられる。京都大学の多くの研究室は,国内における,あるいは世界における,トップレベルの研究を生み出している。そこに関わる者のストレスは高くなりがちで,場合によっては心身の健康を害するほどである。
たとえば朝の9時前から深夜遅くまで,土曜・日曜もなし,盆も正月もなしに,実験している人がいると聞く。夜は研究室のソファで寝るという。本人が好きでしていることだから,なかなか誰にも止められない。しかしそんなことを続けていたらいつかは健康を害することになっても何の不思議もない。こういう研究者が,学内には少なからずいるらしい。先頭に立ってやっている本人も大変だが,その下でそれにつき合わされる人たちもまた大変である。
ヨーロッパへの留学から帰国したある院生は,向こうの教授が毎日5時には必ず帰宅し,家族とともに夕食を取ることを最優先事項にしていること,また,学生も週末には必ず休みを取り,平日でも時にはプライベートな楽しみのために早退することを目の当たりにし,ショックを受けたという。彼はその経験から研究者としての自分の生き方について深く考え直すことになったのだが,学内にはそんなことを考えてみたこともない人や,考えないように努力している人も多いようで,よけいなおせっかいかもしれないが,気がかりなことである。
産業界では,日本人は働き過ぎだと批判され,それを抑制する国際的な圧力がかかるのだが,研究の世界ではそんな話しは聞かない。社会的なブレーキがないので,研究者自身が自分でブレーキをかけられないと,暴走してしまって危険なのである。
こうしたことを考えていると,「タイプA行動パターン」についての研究が思い起こされた。心臓病学者であるM・フリードマンとR・ローゼンマンは1975年,狭心症や心筋梗塞のような冠状動脈性心疾患の患者に特徴的に見られる行動傾向を,タイプA行動パターンと名づけ,以下のように記述したのである。すなわち,達成意欲や上昇指向が強く,何が何でもトップに立ちたいという強い競争心を持つ。生活は緊迫感に満ち,せっかちで,他者に対する敵対心が強い。ゲームには,たとえ相手が子どもでも勝たないと気が済まない。仕事に没頭し,常に忙しくしていて,周囲のことにゆっくりと目を向ける暇もなく,美しいものにさえ関心を持たない。論文の数や採用されるプロジェクトの数を積み重ね,成功することだけを生き甲斐としている。
以来,タイプA行動パターンと冠状動脈性心疾患との関係について,多くの実証的研究が蓄積されてきた。その結果は単純ではなく,性急に断定的な結論を下すことはできないけれども,少なくとも,こうした行動パターンが冠状動脈性心疾患になる危険性を高める傾向は真剣に考慮されるに値するものだということは認められてきたと言える。
欧米でこのような研究がさかんであるところを見ると,働き過ぎは何も日本人研究者の専売特許ではないのだと気づかされる。とはいえ,常に競争に駆り立てられる中で,創造的・独創的な成果をあげ続けねばというプレッシャーに圧迫されるのは,多くの研究者をさいなむ一種の職業病であるとは言えるだろう。働き過ぎは,いわばそのプレッシャーに支配され,操られている状態であると言えよう。逆に,このプレッシャーに耐えかね,まったく研究から降りてしまう人,大学を去る人もいる。研究者としては,このプレッシャーを受け止め,むしろそれをうまく操って生産的な力として利用できるぐらいなのが理想だろうが,それには,研究上の知識や技術に
加えて,人格的な強さを養うことが必要となる。
ところで,私自身も研究者の端くれとしてこの職業病にとりつかれることがあるのだが,そんなある時,精神分析学者D・W・ウィニコットの次の言葉に出会い,慰められたものである。「成熟した人とは傑出した人ではなく,普通に平和なほどよい家庭を築き,周りの人たちに暖かい思いやりを向け続けていられる人である。」
私は,普通に平和なほどよい研究室から,素晴らしい研究が生み出されることを願うものである。もちろん,「普通に平和なほどよい」というのは,「甘やかされてルーズでいいかげん」というのとはまったく違う意味である。
(京大広報539号 保健コーナー 1999年 より)