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2025.8.31 神の名前
冠詞の意義(2) (2025.7.30付) で指摘したように、定冠詞は唯一無二を意味する時がある。その例としてイエスが唯一無二の存在であることが定冠詞で示唆されているケースを幾つか挙げた。イエスが唯一無二の方であることはあまり知られていないが、イエスという名前の意味を知っている人は更に少ないと思う。
Jesus(イエス)という名は Jehovah is Salvation (エホバは救い)という意味があると「聖書に対する洞察」[1]という本は述べている。一方、ウイキペディア[2]は、イエスは、「 יהוה(ヤハウェ)は救いである」を意味するとなっている。それで、一体、Jehovah(エホバ)とヤハウェのどちらなのかという疑問が生じるかもしれません。
[2]https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9_(%E4%BA%BA%E5%90%8D)
神の名前に関しては、New World Translation of the Holy Scriptures で詳述されています[3] [4]。ここでは、そこに載せられている解説を、簡潔にまとめてみました。神の名前はテトラグラマトン(יהוה)、(ヘブライ語の4つの子音字)、で記され、ヘブライ語聖書の中に7000回近く出てきます。このテトラグラマトン יהוה は英語ではYHWHという子音字で表されます。古代ヘブライ語は書く時には母音を記しませんでしたが、古代ヘブライ語が日常で使われていた時代には、容易に適切な母音を補って読むことができました。しかし、ヘブライ語聖書が書き終えられてから1000年ほどたった頃には、多くのユダヤ人が神の名前を口に出してはならないという迷信的な考えを抱いており、「主」などの代わりの言葉を使っていたので、神の名前の本当の発音の仕方は、分からなくなりました。
神の名前は「ヤハウェ(Yahweh)」と発音されていたと考える人もいれば,ほかの可能性を挙げる人もいますが、神の名前の訳が英語の聖書に初めて登場したのは1530年で、ウィリアム・ティンダルがモーセ五書の訳の中でIehouahというつづりを使いました。
その後,時と共に英語は変化し、神の名前のつづりも変わっていき、1639年には,Jehovahというつづりが使われました。その後1901年,「アメリカ標準訳」(英語)を発行した翻訳者たちは,ヘブライ語本文に神の名前が出ている箇所でJehovahという形を使いました。その理由に関して、1930年に学者のA・F・カークパトリックは
近年の文法学者たちはYahvehとかYahavehと読むべきだと主張するが,JEHOVAHは英語として定着しているように思える。本当に重要なのは厳密な発音ではない。それが『主』といった単なる呼称ではなく,固有名であるという認識こそが重要なのである
と述べています。
日本語では「エホバ」が広く使われてきました。1883年発行の漢訳聖書「訓點舊約全書」では,「耶和華」の字に「エホバ」の振り仮名が付いています。「文語訳聖書」(日本聖書協会)でも神の名前が「ヱホバ」と訳されています。現在も国語辞典の見出しに「エホバ」が載せられていて,「〔旧約聖書で〕イスラエル民族が崇拝した唯一最高の神ヤハウェの伝統的な読み方」などと説明されています。(「新明解国語辞典」,三省堂発行)
[3]https://www.jw.org/en/library/bible/nwt/appendix-a/tetragrammaton-divine-name/
そういう訳で、神の名前は、Jehovah、エホバ、ヤハウェ、のどれでも使用可能と言えます。いずれにせよ、Jesus(イエス)という名は Jehovah is Salvation (エホバは救い) (ヤハウェは救い)という意味になります。
ちなみに、神の名前エホバを表す四文字テトラグラマトン(יהוה)は、コロンビア大学の卒業証書に捺されている金箔の seal (The corporate seal of Columbia University[5] [6])で一番上に掲げられ、知恵と啓発は יהוה から来ていることを示唆していると思われます。
[5] https://en.wikipedia.org/wiki/Heraldry_of_Columbia_University#/media/File:ColumbiaSeal.png
[6] https://en.wikipedia.org/wiki/Heraldry_of_Columbia_University
では、エホバという名前は単なる名前なのでしょうか、それともその名前は何かを示唆するものなのでしょうか。ヘブライ語のテトラグラマトンיהוה(YHWH)は הוה (HWH)という動詞から来ていて、
הוה (HWH)という動詞には 「なる」という意味があり、その使役形が יהוה となり、
יהוה (YHWH)という名前には 「彼はならせる」という意味がある
と多くの学者は考えているとのことです[4]。
この「彼はならせる」という意味には、神は目的を果たすために状況に応じてご自分を必要なものとならせる、という意味もあります。事実、モーセが神に名前に関して質問した時、神は New World Translation of the Holy Scriptures の日本語訳で
出エジプト記3:14、15
14神はモーセに言った。「私は自分がなろうとするものとなる」。さらに言った。「イスラエル人にこう言うように。『私はなるという方が私をあなたたちの所に遣わした』」。 15 神はもう一度モーセに言った。「イスラエル人にこう言うように。『父祖たちの神,アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神エホバが私をあなたたちの所に遣わした』。これは永遠に私の名であり,私はこの名によって代々記憶される。
とお答えになっています。
神がご自身をどんな者にならせるかは、エホバの称号に関するサイト[7]で列挙されています。例えば、エホバはご自分を救出者とならせることが出来ます。世界の七不思議の一つ、空中庭園で有名なバビロンの王ネブカドネザルは、ある時、ドラという平野に高さ27メートルの金の像を立て、その金の像にひれ伏さない者は火の燃え盛る炉に投げ込まれることになると宣告しました。ところが、ユダヤ人のシャデラク、メシャク、アベデネゴは、エホバ神に忠誠を保ち、王の神々に仕えず,王が建てた金の像を崇拝しようとしませんでした。それで、ネブカドネザル王は彼らに対して
ダニエル3:15 …………… 直ちに火の燃え盛る炉に投げ込む。一体どんな神が私の手からおまえたちを救い出せるというのか
と言い、彼らを7倍熱くされた炉に投げ込ませました。しかし、
ダニエル3:25 … 「見ろ! 4人の男たちが火の中を自由に歩いている。彼らは全く無傷で,4人目はまるで神々の子のようだ」。
とネブカドネザル王は言い、次いで
ダニエル3:28 ネブカドネザルは言った。「シャデラク,メシャク,アベデネゴの神が賛美されますように。その方は天使を遣わして,ご自分に仕える者たちを救った。彼らはその方を信頼し,王の命令に背いて死ぬことになっても,自分たちの神以外の神に仕えたり,他の神を崇拝したりしなかった。
とネブカドネザル王は認めています。
要点はこうです。エホバを唯一無二の真の神と認め、神に聞き従う者に対して、神エホバはご自分を救出者にならせることが出来ます。特に、上記の例のように、絶体絶命の危機に陥り、命が危険に晒されたなら
ヨエル2:32 エホバの名を呼ぶ人は皆救われる。
とある通り、エホバを全能の神と認め助けを求めることが必要です。
更に、エホバはご自分をある者にならせるだけではありません。エホバという名前の意味には、目的の達成のため、ご自分を何らかのものにならせることだけでなく、人を何らかのものにならせ、物事を導くことも含まれます。
例えば、イスラエル人がエジプトを出てシナイ山のふもとに宿営を張っていた時、エホバは真の崇拝の中心としての幕屋を建造するようイスラエル人にお命じになりました。その時、ベザレルやオホリアブという人たちは幕屋の備品類や祭司の衣服を作ることに関連して任命を受けました。ベザレルとオホリアブは、エジプトで奴隷だった時、れんがを作らされているはずなので、建設の素人だったわけではありません。しかし今度の仕事は、今までのレベルを遥かに超えた超一流の職人の腕が求められます。ベザレルとオホリアブはその責務を果たせるのでしょうか。聖書の答えは
出エジプト記 31:3 彼に神の聖なる力を満たし,あらゆる工芸に関する知恵と理解と知識を与える。
King James Version では
Exodus 31:3 And I have filled him with the spirit of God, in wisdom, and in understanding, and in knowledge, and in all manner of workmanship,
となっています。
ベザレルやオホリアブは幕屋の備品類や祭司の衣服を作ることに関連して任命を受ける前に、技術上の知識や能力を持っていたかもしれませんが、神の霊が『知恵と理解力と知識を彼らに満たした』ので、その仕事を意図された仕方で行なうことができました。その霊、つまり聖なる力は何であれ、彼らがすでに生来持っていた能力や習得した知識を増し加えて強化させました。しかし、彼らの努力を成功に導いたのは、神の霊、神の聖なる力です。
ベザレルやオホリアブは、今までは想像さえ出来なかった事を成し遂げ、それは自分の能力を遥かに超えた事であることを認識出たでしょう。彼らは、自分は実はすごいのだと舞い上がるのではなく、神の霊(聖なる力)に導かれて神からの啓発と助けによって成し遂げることが出来ていると認識できたでしょう。エホバという名前の意味するところ、「目的の達成のため、人を何らかのものにならせ、物事を導く」とはそういうことなのです。
特に、エホバ神に近づき、エホバ神を親しく知る努力をし、エホバ神を信頼する人を、エホバはご自分の友とならせます。そして、エホバはその友が自分の能力を遥か超えた、想像すらできなかった事柄を成し遂げられるようにされます。それはひとえにエホバのお陰です。神の名前エホバはそのような素晴らしいことを意味しています。
2025.7.31 冠詞の意義 (その2)
2025.4.14付の冠詞の意義(その1)で the + 単数名詞 で述べられている the ant という表現は、特定の個体のアリを指すのではなく、アリという種全体の総称表現で、アリというカテゴリー全体における典型的な性質に言及していることを説明した。仮に、アリの事をa + 単数名詞 で an ant と表現していたなら、アリというカテゴリーに属するあらゆるメンバーを指すということがChatGPT で説明された。ですから、格言6章6節でアリの事を、an ant とか ants ではなく、the ant と書かれていた深遠な意義を垣間見ることが出来ました。
今回も冠詞の意義に関しての理解を深めたいと思います。題材となる文はナタナエルがイエスについて語ったことのNew World Translation of the Holy Scriptures の日本語訳で
ヨハネ1:49 それでナタナエルは言った。「ラビ,あなたは神の子です。イスラエルの王です」。
という文です。ここでは、イエスの事を神の子と述べていますが、時として、『イエスが神の子と呼ばれているのはなぜですか』という質問が提起されます。しかし、これを日本語で質問されて困るのは、アダムも神の子とルカ3:38で言及されているという点です。加えて、天使も神の子(天使たちは神の子たち)とヨブ1:6で述べられている。それで、イエスだけでなく、天使とアダムも“同じ”神の子と呼ばれているので、イエスが神の子と呼ばれていることと、アダムや天使が神の子と呼ばれている事には違いがあるかどうかという疑問が生じます。
それでは、ヨハネ1:49を英語で見てみましょう。New World Translation of the Holy Scriptures では
John 1:49 Na·thanʹa·el responded: “Rabbi, you are the Son of God, you are King of Israel.”
King James Version では
John 1:49 Nathanael answered and saith unto him, Rabbi, thou art the Son of God; thou art the King of Israel.
となっていて、イエスが神の子であることを the Son of God と述べて、定冠詞“the”が神の子に付き、子が son ではなく Son と大文字となっていて、the Son of God となっている。一方、天使やアダムに関しては小文字の son が使われていて、彼らが the Son of God と述べられることはありません。
イエスが the Son of God と他の神の子たちを異なって表記され、大文字のSでタイトルのようなものを示唆しているので、ここでの定冠詞“the”が唯一無二の事をあらわす為に用いられている可能性があると推察することが出来ます。
この面での定冠詞の用法に関する英語の ChatGPT の説明を日本語に訳すと
特定の文脈での独自性:時には、「the」が特定の文脈内での唯一性を表現するために使われます。これは、その名詞が設定した範囲内で唯一の存在であることを強調します。例えば、「He is the man of the hour.(彼は今最も重要な人物だ)」という場合、「the」はその人物がその瞬間において唯一重要な人物であることを示しています。
歴史的または伝説的な独自性:「the」は、歴史や伝説で唯一無二となった有名な人物、場所、物事を指す際にも使われます。例えば、「The Great Wall of China is one of the Seven Wonders of the World.(万里の長城は世界七大奇跡の一つです)」のように、万里の長城はその存在が象徴的でユニークであるため、「the Great Wall」と呼ばれています。
まとめると、名詞の前に置かれる「the」は、その名詞がユニークまたは唯一であることを示す役割を果たします。そのユニークさは、一般的または普遍的、または文脈的な意味合いで表現されることがあります。使用するフレーズは、話している内容の広い文脈によって異なり、その名詞を他のものから際立たせる役割を果たします。
というようになります。加えて、“AI による概要”では、
唯一無二の名詞には定冠詞「the」を使用します。…ただし、この「唯一無二のthe」の原則は必ずしも厳密ではないようです。たとえば、ロンドンにある時計台は「Big Ben」と呼ばれ、唯一無二の存在であるにもかかわらず「the」をつけません。また、医学誌など、個々の定期刊行物(journal)は唯一無二の存在ですが、誌名には「the」がついていたり、ついていなかったり、まちまちです。
と指摘してもいます。英語は厳密な科学とは違います。
聖書の他の場所でもイエスの事を the Son of God と述べています。例えば、イエスご自身、ご自分の事をNew World Translation of the Holy Scriptures で
Matthew 9:6 However, in order for you to know that the Son of man has authority on earth to forgive sins—” then he said to the paralytic: “Get up, pick up your stretcher, and go to your home.”
King James Version では
Matthew 9:6 But that ye may know that the Son of man hath power on earth to forgive sins, (then saith he to the sick of the palsy,) Arise, take up thy bed, and go unto thine house.
と述べています。マルコやペテロもイエスの事を、New World Translation of the Holy Scriptures で
Mark 1:1 The beginning of the good news about Jesus Christ, the Son of God:
Matthew 16:16 Simon Peter answered: “You are the Christ, the Son of the living God.”
King James Version では
Mark 1:1 The beginning of the gospel of Jesus Christ, the Son of God;
Matthew 16:16 And Simon Peter answered and said, Thou art the Christ, the Son of the living God.
と述べて、イエスの事を一貫して the Son of God と言っています。
では、イエスが唯一無二の神の子として、他の神の子たちであるアダムや他の天使たちと異なり、イエスが唯一無二の存在となっているとどの様に説明できるでしょうか。
唯一無二の存在である一つ目の理由が、New World Translation of the Holy Scriptures では
Revelation 3:14 “To the angel of the congregation in La·o·di·ceʹa write: These are the things that the Amen says, the faithful and true witness, the beginning of the creation by God:
King James version では
Revelation 3:14 And unto the angel of the church of the Laodiceans write; These things saith the Amen, the faithful and true witness, the beginning of the creation of God;
と記述し、イエスは「神による創造の初めである者」ということを明らかにしています。イエスはこの点で唯一無二の存在です。
イエスが唯一無二の存在である二つ目の理由は、New World Translation of the Holy Scriptures では
Colossians 1:16 because by means of him all other things were created in the heavens and on the earth, the things visible and the things invisible, whether they are thrones or lordships or governments or authorities. All other things have been created through him and for him.
King James version では
Colossians 1:16 For by him were all things created, that are in heaven, and that are in earth, visible and invisible, whether they be thrones, or dominions, or principalities, or powers: all things were created by him, and for him:
となっていて、目に見えるものも、目に見えないものも、すべてのものがイエスによって創造されたと述べています。イエスはこの点でも唯一無二の存在です。この点に関して、聖書Q&A (Bible Questions Answered)[1] は
神はイエスと一緒に,天使たちや宇宙など,他のすべてのものを創造しました。(啓示 5:11)神とイエスが協力したことは,ある面で設計者と施工者の関係に似ています。設計者は設計図を描き,施工者は設計図どおりに建設します。
と分かりやすく説明しています。イエスに科学をほんのごく僅かでも教えてもらえるなら、なんと計り知れない真理を垣間見られるでしょう!
イエスが唯一無二の存在である三つ目の理由が、New World Translation of the Holy Scriptures で
John 1:1 In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was a god.
と説明されています。神はイエスを通して他の天使たちに指示や情報を伝達していたという点で、唯一無二の存在です。その様な意味で、イエスのことを聖書は「言葉」と呼んでいます。一方、神が人間に対して話す際は、代弁者として、イエスだけでなく、他の天使たちも用いられました[1]。
この様に、定冠詞“the”が唯一無二のものを表すという理解は、それによって表明されていることにどんな深い意味があるのかを探求するよう真理を愛する人を促すものとなります。実際、定冠詞のこの面を理解するのは私達にとって真の益になります。New World Translation of the Holy Scriptures では、イエスはご自分の事を
John 14:6 Jesus said to him: “I am the way and the truth and the life. No one comes to the Father except through me.
King James version では
John 14:6 Jesus saith unto him, I am the way, the truth, and the life: no man cometh unto the Father, but by me.
と述べています。ここで明らかにされているように、『イエスは道、真理、命』で、イエスを通してでなければ誰も神のもとに行くことは出来ないのです。この事の意味は下のウエブサイト[2]で説明されています。ここで、簡潔に言い換えると(簡潔すぎるかもしれませんが)
1 エデンの園で Adamと Eve が神から禁じられた実を食べて神に反逆した結果、人は神から疎外された状態に陥りました。しかし、イエスを通してのみ神に近づく事が可能になり神と和解することが出来るようになったという意味で、イエスは唯一無二の道(the way)です。この道を歩むには、イエスの足跡に倣って人生を歩まなければなりません。(ペテロ第一2:21 皆さんはこうした道に招かれました。キリストでさえ皆さんのために苦しみ,その歩みに皆さんがしっかり付いてくるよう手本を示しました)
2 イエスは、メシアに関する聖書の預言を全て実現した唯一無二の方であり、それによって、聖書の預言は真理であることを証明したので、イエスを唯一無二の真理(the truth)と呼ぶことが出来ます。
3 イエスを通してのみ、私たちが「真の命」、永遠の命、を得られるという意味で、イエスは唯一無二の命(the life)です。この命には、イエスにだけ死んだ人たちを新しい地に復活させる権威が与えられているということも含まれます。
この様に、定冠詞が唯一無二の事を表すということを理解することには大きな意義があります。
2025.6.30 現在完了形の意義 (2)
ここの雑談ラボ 2023.5.23 “現在完了の意義とは”[1] というコラムで、現在完了の継続用法(過去の状態や出来事が現在まで続いていることを意味する)と完了用法(過去の状態や出来事が現在の状況に影響を与えていることを意味する)を簡潔に説明し、
英語は過去の状態が現在も継続しているかどうかに強い関心を払う言語ということが出来ます。今風に言うと、現在完了の継続用法を時制として他の時制と区別している英語は sustainability (持続可能性)を考え方として意識している言語と言えます。
と結論付けました。
一方そのコラムでは、現在完了の経験用法(過去から現在までで経験していることを意味する)は殆ど説明しなかった。今ではAIによる概要がよくできているので、AIによる現在完了時制を復習した後、その大切な意義の別の面に注目したい。AIによる現在完了の説明は以下の通りです
AI による概要
現在完了時制は、過去のある時点から現在までの動作や状態を表す英語の時制です。have/has + 過去分詞で表され、継続、経験、完了・結果の3つの主な用法があります。
現在完了時制の主な用法:
1. 継続 (継続用法):
過去のある時点から現在まである状態が続いていることを表します。例:「I have lived here for five years. (ここに5年間住んでいます。)」
2. 経験 (経験用法):
過去から現在までの間に何かを経験したことがある、ということを表します。例:「I have been to London twice. (ロンドンに2度行ったことがあります。)」
3. 完了・結果 (完了用法):
過去の行動が完了したこと、またはその結果が現在に影響していることを表します。例:「I have just finished my homework. (ちょうど宿題を終えたところです。)」
現在完了と過去形の違い:
現在完了:
過去の出来事が現在に影響を与えている、または過去から現在までの状態を表します。
過去形:
過去のある時点での出来事を表し、現在とは切り離された過去の出来事を表します。
現在完了時制は、日本語にはない概念なので、具体的な例文を参考にしながら、それぞれの用法を理解することが大切です。
さて、現在完了時制の極めて重要な意義を例証するために用いる英語の例文となる教材は、New World Translation of the Holy Scriptures の ヨハネ3章13節で、暗闇に紛れてこっそりとイエスを訪ねてきたニコデモにイエスが語った言葉です。
John 3:13 Moreover, no man has ascended into heaven but the one who descended from heaven, the Son of man.
となっています。この日本語訳の参照資料付き聖書では
ヨハネ 3:13 そのうえ,天から下った者,すなわち人の子のほかには,だれも天に上ったことがありません。
となっています。ここで用いられている英語の表現 no ~ but … には 「…以外、誰も~でない」という意味があり、but … は except … (…以外) という意味で用いられています。実際幾つかの別の英語の聖書では、but の代わりに except が用いられています。
さて、ここで極めて興味深い質問が生じます。すなわち、ヨハネ3章13節をイエスが述べた時,イエスはまだ地上にいて,天に上ったこと(ascend)はありませんでした。つまりその時までイエスは天にまだ戻っていったことが無かったので、『イエス以外は誰も天に上ったことがない』というヨハネ3章13節のイエスの言葉は矛盾している、もしくは間違いではないのかという疑問です。それに対する回答がものみの塔2006年6月15日号[2]に簡潔に載せられて
どんな人間もその点(天に関する事柄)について教えることはできませんでした。その時点で天にいたことのある人はほかにおらず,王国に入ることについて説明できる人はいなかったからです。イエスは唯一の例外でした。イエスはニコデモにも他の人にも教えることができました。ご自身が天から下って来たので,そうした事柄について人々に教える資格を有していたのです。
とあります。
このコラムでは、以上の点を、現在完了時制という英文法の観点から考えたいと思います。ヨハネ3章13節の have + 過去分詞という現在完了形 have ascended を経験用法(…したことがある)と解釈して、『イエス以外だれも天に上った経験はありません』と訳すと、イエスはその時点でまだ地上から天に上っていったことが無いので、イエスは矛盾した、もしくは間違ったことを言っていることになります。
一方、ヨハネ3章13節の have ascended を現在完了形の完了用法である結果を表す(過去の状態や出来事が現在の状況に影響を与えていることを意味する)と解釈すると、どうなるでしょうか?『だれも天に上っていない(no man has ascended into heaven)』という過去の状態が結果としてどの様に現在に影響を与えているでしょうか?イエスがこの言葉を語られた時は、その時がイエスにとって現在で、その時点より過去において、人間はそれまで天に上ったことがありませんでした。それで、人間はだれも天の事を知ることが出来なかったので、天の事柄を教えることが出来る人が誰もいないという結果になっていました。だれも天に上っていない結果は、イエス以外(but [=except] the one who descended from heaven)に適用されます。
一方、イエスはヨハネ3章13節にあるように、『天から下った者』なので、天の事柄を知っていて教えることが出来るのです。教えることが出来る者はイエス以外にいません。ヨハネ3章13節でイエスはご自身の事を the Son of man と述べていますが、ここでの定冠詞 the は唯一無二の存在を意味する時に用いられる the と言えます。(この the の用法は後で更に説明したいと思います。)それで、イエスはヨハネ3章13節で、暗闇に紛れてこっそりとイエスの下に来たニコデモにイエスから学ぶように促していたと思われます。実際続くヨハネ3章21節でイエスは光の所に来るように、つまりイエスの下に来て学ぶように促しています。
この様に文法的に考察し、ヨハネ3章13節の have ascended は現在完了形の経験用法ではなく、完了用法である結果を表す(過去の状態や出来事が現在の状況に影響を与えていることを意味する)と解釈すると、イエスの言っていることの意味が見えてきます。あなたはどう思いますか?経験用法だと思いますか、それとも完了用法である結果を意味していると思いますか?
2025.5.31 言葉の威力
「私はコメは買ったことがない。支援者の方々がたくさんコメを下さるので、まさに売るほどある。私の家の食品庫には」との日本の大臣の発言が、国民の怒りの炎を燃え上がらせた。この大臣は国の備蓄米を放出することによって急騰しているコメの価格を下げようとしていたが、結果は真逆で、米価が上昇し続けて前年比2倍以上になっている最中、受けを狙っての発言だったという。しかし、受けるどころか、結果は真逆で、火に油を注ぐ結果となり、3日後の5月21日に辞任に追い込まれた。
軽率な発言は想像以上の惨事をもたらし得ることを、この事は例証しているが、昔からよく知られている事でもある。例えば、New World Translation of the Holy Scriptures の日本語訳で
ヤコブ3:5、6
5 同じように,舌は体の小さな部分ですが,大いに自慢します。ご存じの通り,ごく小さな火が大きな森を燃やしてしまいます。 6 舌は火です。体の器官のうち,舌は不正で満ちています。
King James Version では
James 3:5,6
5 Even so the tongue is a little member, and boasteth great things. Behold, how great a matter a little fire kindleth!
6 And the tongue is a fire, a world of iniquity: so is the tongue among our members, that it defileth the whole body, and setteth on fire the course of nature; and it is set on fire of hell.
とある。想像してみてください。タバコの火や小さな焚火が原因で手に負えない大きな山火事が起きるのと同様、舌によるごく僅かな発言がいわゆる炎上を引き起こし、どうにもならない大きな山火事のようになって悲惨な結果をもたらしうるのです。
上記の大臣の発言は酷いと非難するのは容易ですが、程度の差こそあれ、失言は誰にでもある。それで、この大臣の発言を反面教師とし、舌の誤用による炎上を避けるために助けになり試す価値のある幾つかの指針として何があるか考えてみた。
根本的指針は
格言15:28 正しい人は答える前に心の中で思い巡らし,
という格言ですが、話す前に一体何を思いを巡らしたらよいのかと困ってしまうかもしれません。正しいことをただ言っても相手に拒否されるという経験もおありでしょう。この点での基本的指針は
コロサイ4:6 塩で味付けされた快い言葉を語るように心掛けましょう。そうすれば,誰に対してもどのように答えるべきかが分かります。
塩で味付けされていない、まるでお湯に入っているラーメンを出されても、食べたいとは思わない。一方、しょっぱすぎても食べられません。同じように、こちらの発言が、いわば塩で味付けされていて、相手にとって味わい深いものであるなら、こちらの発言を相手は喜んで取り入れるでしょう。では塩で味付けされた言葉で、美味しいと思ってもらうために、どんな原則を活用できるでしょうか?
最初の原則は
Eph. 4:29 Let a rotten word not come out of your mouth, but only what is good for building up as the need may be, to impart what is beneficial to the hearers.
相手を築き上げる(building up)、親切で、ポジティブで助けになる、相手にとって有益な(beneficial)言葉を心掛けることです。それには empathy という特質、つまり相手の立場に立って物事を見たり感じたりするということが必要かもしれません。どこから始めるかは、相手によって異なります。建物を建てるように、まず土台をしっかり据えてから築き上げ(build up)なければならないかもしれません。もし相手との共通の土台があるなら、相手の知識、経験、理解力によっては、1階部分からではなく、2階部分から築き上げたらよいかもしれません。いろいろ質問すると、的確に判断できるかもしれません。
二番目の原則は
格言12:18 心ない発言は剣のように突き刺し、賢い人たちの舌は人を癒やす。
無思慮な言葉が相手の心を傷つけてしまうことがある一方、良い言葉は相手の心を癒す力があります。相手に対する思いやりや気遣いは、相手をさわやかにします。気落ちしている人のネガティブな面や失敗ではなく、良い点、ポジティブな面に注目し、励ましの言葉をかけることが出来ます。話す時か聞く時かを識別して、こちらから話すのではなく、相手の話すことによく耳を傾けて聞くだけでよい場合もあるかもしれません。
言葉を発する際にこれらの点を完璧にもしくは十分に行うことが出来なくても、ガッカリする必要はありません。New World Translation of the Holy Scriptures の日本語訳で
ヤコブ3:2 私たちは皆,何度も過ちを犯します。言葉で過ちを犯さない人がいれば,それは完全な人で,体全体を制御できます。
King James Version では
Jas. 3:2 For in many things we offend all. If any man offend not in word, the same is a perfect man, and able also to bridle the whole body.
となっていて、私達は皆不完全であって、言葉の点で完璧さを望むことは到底出来ません。言葉の点でつまずくことがあり、こけてしまっても、再び立ち上がって前へ進んでいかなければなりません。それで、言葉を発する点で失敗しても、諦めずに改善を心掛け、聞く人の恵みとなる言葉を発する努力を続けることが大切かと思います。
2025.4.14 冠詞の意義 (その1)
前回は、単数形か複数形かを意識しないと思いのほか重大な結果につながることに言及した。今回は the + 単数名詞 の意義について考察したいが、そうするにあたり次の文について考えてみましょう。題材となる文は New World Translation of the Holy Scriptures の日本語訳で
格言6:6 怠け者よ,アリの所へ行け。そのやり方を見て,賢くなれ。
という文です。この文のニュアンス及び文脈から怠け者と対比されているアリは勤勉だと格言6:6は述べていることが分かる。しかし、アリは働き者だというと、「一生懸命に働くアリもいれば、怠惰で働こうとしないアリもいるよ。」と反例(counterexample)を挙げて異議を唱える人もいます。
確かに、個々のアリを見るならば、一生懸命働いているアリもいれば働いていないアリもいます。それでは、格言6:6を英語で見てみましょう。New World Translation of the Holy Scriptures では
Proverbs 6:6 Go to the ant, you lazy one; Observe its ways and become wise.
King James Version では
Proverbs 6:6 Go to the ant, thou sluggard; consider her ways, and be wise:
となっていて、アリの事を the + 単数名詞 という形で the ant と述べている。
では、the + 単数名詞 のthe ant という表現は何を意味しているのでしょうか?英語で the + 単数名詞 という形には様々な意味があるが、その意味の一つに『典型、本質、抽象的性質を表すことができます』と“AI による概要”は説明している。更に、ChatGPT に日本語で質問すると次のような説明が返ってきました。
1. the + 単数名詞 の総称表現
「the + 単数名詞」という表現は、一般的にあるカテゴリー全体を指すために使われることがあります。この場合、「the」は特定の個体を指すのではなく、その名詞が示すもの全体を意味します。
例:
The tiger is a dangerous animal.
(虎は危険な動物だ。)
この場合、「the tiger」は「虎」という動物全体を指しており、個別の虎ではなく、種全体を意味しています。
種全体を表す表現には a + 単数名詞 もあるので、the + 単数名詞 と a + 単数名詞 の違いを理解するために、ネイティブの英語に精通しているネイティブ英語のChatGPT に説明してもらうために、英語で質問しました。何と Great question! と ChatGPT に褒められました。そして、返ってきたのは The best explanation I have ever had です。
You said:
How does the expression “the dog” as a generic term differ from the generic term “a dog”?
ChatGPT said:
Great question! The expressions "the dog" and "a dog" can both be used generically in English, but they have slightly different nuances. Here's the breakdown:
1. “A dog” (Indefinite Generic)
Usage: Refers to any member of the category. It introduces an unspecified, typical example of the category.
Implication: It’s like saying "any dog" or "a typical dog."
Example:
A dog is a loyal companion.
→ This means any dog, generally speaking, is a loyal companion.
2. “The dog” (Definite Generic)
Usage: Refers to the category as a whole, as if the entire class were represented by a single, typical member.
Implication: It’s more about the species or type than an individual. Slightly more formal or abstract.
Example:
The dog is a loyal companion.
→ This refers to the species dog, not a specific one, but the class as a whole.
Subtle Difference in Tone or Register
“A dog” feels a bit more informal or illustrative—you’re bringing in a typical example.
“The dog” feels more formal or generalizing—you’re making a broader, more categorical statement.
Another Example:
A lion is dangerous. (Think: any lion)
The lion is dangerous. (Think: the species, as a whole, is dangerous)
So, both are used generically, but:
“A dog” = any dog, a typical example
“The dog” = the whole class/species of dogs
以上が native 英語の ChatGPT による説明でした。総称表現に関して要約すると、「A dog」はそのカテゴリーに属するあらゆるメンバーを指し、特定されていない典型的な例を紹介するものです。一方、「The dog」はカテゴリー全体を指しており、まるでそのクラス全体がひとつの典型的なメンバーによって代表されているかのように表現しています。なお、一般的には、冠詞なしの複数名詞でその種全体を表します。
さて本題に戻って、アリは働き者だという聖書の教えに対して、「一生懸命に働くアリもいれば、怠惰で働こうとしないアリもいるよ。」と反例(counterexample)を挙げて異議を唱えられた場合は、
聖書におけるここでのアリは the ant という the + 単数名詞 で表現されており、特定の個体のアリを指すのではなく、アリという種全体の総称表現で、アリというカテゴリー全体における典型的な性質に言及している
と結論付けることが出来ます。
それでは、種としてのアリの典型的な性質として勤勉さを挙げることが出来るのでしょうか?ウィキペディア(Wikipedia)、働きアリの法則[1] によると
よく働いているアリと、普通に働いている(時々サボっている)アリと、ずっとサボっているアリの割合は、2:6:2になる。
よく働いているアリ2割を間引くと、残りの8割の中の2割がよく働く蟻になり、全体としてはまた2:6:2の分担になる。
よく働いているアリだけを集めても、一部がサボり始め、やはり2:6:2に分かれる。
サボっているアリだけを集めると、一部が働きだし、やはり2:6:2に分かれる。
と簡潔にまとめている。
[1]https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%8D%E3%81%8D%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87
サボっているアリとよく働いているアリの割合が同じ2割と聞くと、アリが勤勉であるという印象を受けないかもしれませんが、科学技術振興機構のサイト[2]によると
働くアリだけの集団は一斉に疲労がたまって集団が維持できなくなったのに対し、働かないアリもいる集団は、反応閾値が高い怠け者アリも働き者アリが疲れると最後は「交代要員」として働き始めるため、より長く維持できることがはっきりした
と述べて、サボっているアリはサボっているのではなく「交代要員」として待機していることが分かる。
[2] https://scienceportal.jst.go.jp/newsflash/20160219_01/index.html
例えば、サッカーの試合で、先発できる選手は11人で、残りの選手はベンチで交代要員として座って待機しています。それなのに、ある人が、『ハードワークしない選手は日本代表に呼ばないと言っているのに、試合中にベンチに座っている選手はハードワークしていないで、サボっているのに代表に呼ばれているのは矛盾しているのではないか』と森保監督に抗議しても、森保監督は多分ニッコリと笑うだけで通り過ぎていくことでしょう。日本代表選手はハードワークして勤勉だと広く認められています。同じように、交代要員で待機しているアリをサボっていると非難するのは理不尽だと思います。
「アリの所へ行って、そのやり方を見て」アリを観察すると、一生懸命働いている光景を目にします。AI による概要によると、『アリは自分の体重の5~100倍もの重量を持ち上げたり、引っ張ったりすることができ、昆虫の中でも屈指の力強さを持って、体重の300倍を超える力を発揮して、40cm近く離れたところまで弾き飛ばすことができる』と報告している。それで、アリというカテゴリー全体における典型的な性質として、『力持ちの働き者という特質があり、アリは勤勉であると言える』というのが私の観察です。
2025.3.24 単数形と複数形の致命的な違い: 翻訳 ≈ Mission Impossible
日本語のほとんどの名詞には複数形がない。しばしばこの事で困ったことがあるが、最近次のような極めて重い質問を受けたことがある。
聖書はテモテ第二3章1節で “しかし,このことを知っておきなさい。すなわち,終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来ます。” と述べて、終わりの日(単数)である世界体制の終結の期間の今は対処するのが非常に困難な危機的時代と言っている一方、
ヨハネ11:24 マルタは言った。「終わりの日の復活の時に彼が生き返ることは知っています」。
とも聖書には書いてあり、終わりの日(単数)は復活が起きる時とも聖書は述べている。現在が終わりの日(単数)である一方、今復活が起きていないのはおかしいのではないか?
極めて当然の疑念です。そこで、英語でそれぞれの部分を見てみましょう。テモテ第二3章1節は New World Translation of the Holy Scriptures では
2 Timothy 3:1 But know this, that in the last days critical times hard to deal with will be here.
King James Version では
2 Timothy 3:1 This know also, that in the last days perilous times shall come.
とthe last days という複数形になっていて、一定期間の終わりの日々、つまり終わりの時代に言及している。一方、ヨハネ11:24に関しては、New World Translation of the Holy Scriptures では
John 11:24 Martha said to him: “I know he will rise in the resurrection on the last day.”
King James Version では
John 11:24 Martha saith unto him, I know that he shall rise again in the resurrection at the last day.
とthe last day という単数形になっていて、復活はthe last days ではなく the last day に起きると書かれて区別されている。
単数形の day に関して、私はペテロ第二3:8の次の言葉を連想します。
ペテロ第二3:8 愛する皆さん,このことを見過ごしてはなりません。エホバにとって1日は1000年のようであり,1000年は1日のようです。
神にとって1000年は 1日 a day (単数形)の様なものだということです。The last day に関する New World Translation of the Holy Scriptures の study note では this “last day” is associated with a time of judgment, which will apparently correspond to the Thousand Year Reign of Christ when he will judge mankind, including all those resurrected from the dead. と解説されていて、終わりの日はキリストの千年統治の時の事となっている。その時に復活が起きるのです。この事が何故可能か
https://www.jw.org/en/jehovahs-witnesses/memorial/ を英語で参照してください。日本語は下記のリンクからご覧いただけます。
元々英語では日本語におけるような深刻な疑念は生じないでしょう。それで、New World Translation of the Holy Scriptures の最新の日本語訳では
テモテ第二3章1節 このことを知っておきなさい。終わりの時代は困難で危機的な時になります。
となっていて、日本語でも「終わりの日」と「終わりの時代」を区別して誤解が生じないようにしています。
ここで見過ごしたくない本質は、翻訳はほぼ Mission Impossible な時があり、その場合は、語感やそこに示されているスピリットを把握するために翻訳元の言語で理解した方が良いという点です。翻訳はあくまでも approximation に過ぎないという点を忘れるべきではないです。完璧な翻訳を望むのは現実逃避的としか言いようがありません。
具体的な例を考えてみましょう。「吾輩は猫である」を I am a cat. と訳すのはとても悲しいです。英訳はほぼ不可能と言っていいです。あえて違いを表すのであれば
吾輩は猫である I AM A CAT.
わたいは猫なんですね~ I am A CAT.
俺が猫だ I am a cat.
拙者は猫なのですよ I AM a cat.
と訳し、違いを不完全に表すことぐらいしかできません。
日本語のように単数と複数を区別しない思考パターンをしっかりと身に着けた人が、単数形と複数形の違いに鋭敏になるよう期待するのも非現実的なのかもしれません。日本語の時制に関しても、現在完了形とか過去完了形というものがありません。例えば、「田中は東京から出発し、佐藤は京都から出発したのであった。」という文を英語で考えてみましょう。田中、次に佐藤の順に出発したなら、出発したことは両方とも英語で過去形になります。一方、「佐藤が京都から出発した」ということを過去完了で書いているなら、佐藤の方が田中よりも先に出発していたことをさりげなく簡潔に暗示していることになります。日本語では時制だけでこのように区別することは出来ません。
更に、日本語には冠詞が無いので、英語における、定冠詞、不定冠詞、冠詞の有無、などの違いを把握するのは日本人にとって非常に困難です。今は、AI翻訳があるから外国語学ぶ必要ない、と感じている人も多いと思います。しかし、翻訳の限界を無視するなら、致命的な誤解が生じる危険性があります。それで、外国語で書かれたものを本当に理解するには、その外国語の思考の型や文化的な背景を学ぶ必要があります。ですから、AIが翻訳してくれるとしても、外国語学習は必要です。まず、翻訳して頭でいろいろと理解しますが、「百聞は一見に如かず」と言います。それで、翻訳された内容をイメージするには、その事を表現しているビデオをいくつか見るならば、より一層、翻訳された事柄が表しているスピリットや感覚をより良く把握できると思います。
言語の違いは大きな影響を及ぼしています。例えば、45分の英語の講義や話を日本語でするには、それより30%長い約1時間必要なことが多いです。(数学はそうでもないと思いますが) 英語の Turn left. を日本語で言うと「左へ曲がれ」となりますが、この日本語を言うには英語の約2倍の時間がかかるように、日本語で言う方が時間がより多くかかる場合がほとんどです。更に、日本語の聖書のページ数は英語の聖書のページ数より約20%も多いです。歌詞でもその傾向があります。英語の歌を日本語にして歌うと、英語の歌詞の1/3くらいの情報量の日本語の歌詞にしかならないです。つまり、日本語にする場合は2倍から3倍長い歌になることになりますが、そうすると元の英語の歌とは全く違う曲になることでしょう。
この様に考えると、日本語は、情報伝達手段として、英語よりも優れているとは言えないかもしれません。 むしろ、日本語は芸術的な言語で、写実主義というよりもむしろ、ルノワールやモネなどの印象派の絵画の様な特性を持った言語だと私は思っています。更に言うと、日本語は、具体的というよりも、抽象的、象徴的な傾向があるという印象です。(この点は、数学に有利かもしれません。) 例えば、川柳や俳句などがこの範疇に入ると思います。私は毎年サラリーマン川柳を楽しみにしていて、深い感銘を受けています。外国では物事を明瞭にはっきりと詳しく言う傾向にあり、軋轢を生みがちですが、日本は思いやりがあり、平和的です。
結論として、外国語を学びましょう。特に英語は国際語なので、世界と情報交換するのであれば、AIに任せっきりにするのではなく、英語を学び、英語の思考パターンを理解したうえで、AI翻訳を助手として使いましょう。(英語は国際語だが、数学は、人間が考案した言語というよりもむしろ、宇宙共通の言語になり得るだけでなく、目に見えない空間を含めた普遍的な空間における共通言語になり得るので、数学も考えを表す言語としてしっかり学びましょう。)(ちなみにこのコラムをGoogleで英語に翻訳させると Mission Impossible になっているみたいです。)
2025.2.28 宝探し
経済や政治及び異常気象による災害や農作物への影響などの不確実性が増大し、想定外の事が頻発する世界に今私達はいます。その様な不確実性が高まる状況で、「規則が列挙されているだけのマニュアル通り、もしくは経験則に従う」では対処しきれない世界になっています。その様な状況で役立つのが聖書に載せられている Proverbs (格言)です。何故格言がお薦めか、格言の目的がNew World Translation of the Holy Scriptures で
Proverbs 1:3, 4
3 To acquire the discipline that gives insight,
Righteousness, good judgment, and uprightness;
4 To impart shrewdness to the inexperienced;
To give a young man knowledge and thinking ability.
と書かれています。 King James Version では
Proverbs 1:3, 4
3 To receive the instruction of wisdom, justice, and judgment, and equity;
4 To give subtilty to the simple, to the young man knowledge and discretion.
となっています。簡単に言うと、洞察力、判断力、明敏さ、思考力、知恵、思慮深さなどを得るために格言を読むことが出来ます。これらの能力は不確実な事象や想定外の出来事に遭遇した時に、賢明に行動する助けとなり、あなたの掛け替えのない宝となります。聖書を初めて読むなら、まず格言から読み始めることを推奨します。
しかし、言うが易し 行うが難し。実際、New World Translation of the Holy Scriptures の日本語訳でも
格言2:3,4
3 さらに,理解力を叫び求め,識別力を求めて声を上げるなら,
4 銀を求めるようにそれを求め続け,隠された宝を探すように探し続けるなら,
と述べて、銀を求め続けるように、理解力、識別力、知恵、洞察力、思考力などを獲得していくように諭されています。
銀を探し求めるようにとは何が関係してくるか、銀鉱石(silver ore)に関して少し知識が必要かもしれません。銀の鉱石が地中どれくらいの深さにあるかに関して Missouri Department of Natural Resources は420メートルもの深さまで掘って採掘していると報告しています。[1] ChatGPT も“銀は通常、地下数百メートルから数千メートルの深さに存在しています”と答えます。それで、銀を探し求めるように知恵や理解力を得るには、掘り下げる必要があると推察できます。つまり、格言の表面的な理解でなく、深い理解が要求されます。例えば、読んだ格言を、問題を解決したり決定を下したりする際にどのように活用できるか、じっくり考えたりして理解を深めることが出来ます。格言は原則で、それを実生活のどんな場面にどの様に適用するかは思考力を働かせる訓練が必要です。
ところで、銀の鉱石を実際に見たことがある人はそれほど多くないと思います。それで、銀鉱石(silver ore)の写真とビデオのリンクを貼っておきます。[2], [3] 銀鉱石には銀の他に様々な金属も含まれているため、銀鉱石を見つけてもそれが銀鉱石であることが分からないかもしれません。汚い石だと思い捨ててしまうかもしれません。それで、銀を得るには、識別力も必要です。それには銀を他の金属と区別して、取り出すことも要求されます。
[3] https://www.youtube.com/watch?v=Wu0HsOJ29ZU
識別力(discernment)とは、銀鉱石の銀を他の金属から見分けて銀を得るのと同じように、物事の違いを見分けて賢明な道を選択する良い判断力のことです。識別力があるなら、危険を見分けたり予測したりして、可能な限り危険を避けるようになります。識別力があるなら、黙っている時と,話す時を見分けて、余計なトラブルを避ける一方、相手を励ますチャンスを逃すことはありません。識別力があるなら、攻撃的な言葉や性急な行動の結果と温和で謙遜な行動の結果の違いを見分けます。 聖書の格言の書は、その様な識別力を獲得する助けとなります。それには思考力を働かせて格言を深く熟考する努力が必要ですが、そうする価値はあります。隠された宝を見つけた時のように、格言の深い理解は大きな喜びをもたらすでしょう。
2025.1.27 正常性バイアス
2025年1月7日、米国カリフォルニア州LAの西部地区に位置する the Pacific Palisades などの3地区で、山火事が相次いだ。BBC[1], NBC[2], JW.org[3] などでは風の強さは 時速160km (風速おおよそ毎秒44.44メートル)にも達し、山火事は瞬く間に広まったと報道されました。
AP通信によると、急速に広がる炎で、逃げる時間がほとんど無かった[4]と報じている。山火事は時速23kmにも上ることがあると推定されている。[5] 当時は時速160kmの風が吹いていたので、もう少し早いスピードで山火事が広まった可能性もある。Google Map による小樽から札幌までの直線距離の測定で表示されるのは、おおよそ32kmとなるので、時速23kmの山火事の場合、小樽で山火事が発生してから約1時間30分で札幌にまで広がることになる。小樽で山火事が発生したとのニュースを札幌で聞いて、『小樽は遠くだからここは大丈夫』と普通思うかもしれません。この反応は正常性バイアス呼ばれていますが、ここは大丈夫と思って外を見たら、強風の時は、すでに近くの札幌の山が燃えている可能性があります。最悪の場合、札幌の町の一部に火の手が及んでいるのを見て唖然としてしまうかもしれません。
1995年1月17日で6434人の犠牲者を出した阪神・淡路大震災[6]で、特に神戸市は壊滅的な被害を被り4564人が死亡し不明2人となった。それで、災害対策にかなり明敏になっている神戸市のサイトでは、正常性バイアスに関して詳しく説明し、それに対する対策方法も載せている。[7] 是非、神戸市のサイト[7] で確認していただきたいが、神戸市のサイトによると、正常性バイアスとは、異常を正常の範囲内のことと捉えてしまう錯誤で、パニックに陥らないように心の安定を保つメカニズムだが、危険が迫っていても、危険だと認識せずに逃げ遅れるという、マイナスに働くことがある、と解説している。そして神戸市のサイトでは、正常性バイアスを次のように優れた方法でまとめている。
例えば、建物の非常ベルが鳴っていても、「また、誤報だから大丈夫だろう」と思い込んだり、火災が発生している際に薄い煙であるから「まだ安心だ。そう大きくはならないだろう」と避難せずに、逃げ遅れてしまうというものです。
正常性バイアスは、同化性バイアスと同調性バイアスで構成されていると言われています。
(1) 同化性バイアス(異常を背景の中に埋没させてしまう錯誤)
→じわじわと変化する事に対しては、気付きにくい心理状態。
例:津波が迫ってきていたとしても、潮位の変化が緩やかな時には避難をしない。
(2) 同調性バイアス(集団の規範に従ってしまう錯誤)
→集団と異なる行動を取りにくい心理状態。
例:周りの人が逃げていないから、自分も逃げなくても大丈夫だと思う状態
[7] https://www.city.kobe.lg.jp/documents/54168/kobe-disaster-prevention-leader-text-chapter5.pdf
実は、正常性バイアスの症状に言及している箇所が New World Translation of the Holy Scriptures にはあります。日本語訳では次のようになっています。
ペテロ第二3:4‐7
4 こう言うでしょう。「約束されていた彼の臨在はどうなっているのか。私たちの父祖が死の眠りに就いた日から何も変わっていない。全てのものは創造の始めの時と全く同じではないか」。5 彼らは故意に次のことを無視します。昔から天があり,神の言葉によって地は水から出て,また水に囲まれて,しっかり立っていました。 6 そして,それによって当時の世界は洪水に見舞われ,滅ぼされました。 7 同じ言葉によって,今ある天と地は火で滅ぼされることになっています。神を敬わない人々の処罰と滅びの日にそうなります。
King James Version では
2 Peter 3:4-7
4 And saying, Where is the promise of his coming? for since the fathers fell asleep, all things continue as they were from the beginning of the creation. 5 For this they willingly are ignorant of, that by the word of God the heavens were of old, and the earth standing out of the water and in the water: 6 Whereby the world that then was, being overflowed with water, perished: 7 But the heavens and the earth, which are now, by the same word are kept in store, reserved unto fire against the day of judgment and perdition of ungodly men.
となっています。
西暦一世紀のエルサレムが滅びる6年前に使徒ペテロは、滅びに関する警告を与えていましたが、ペテロ第二3章4節にあるように、人々は大きな変化は起きない、大丈夫と考えると指摘していますが、これは正常性バイアスの一例です。そして、この正常性バイアスの対策として6節で言及されているのはノアの日の大洪水を教訓とすることです。ノアの時代、ノアは大洪水が来ると警告しましたが、当時の人々は“その様な大きな災害は来るはずがない”と考えて注意を払いませんでした。その様に反応して災害に対して準備できていなかったので、当時の暴力的な社会は滅びました。
それで、ノアの日の大洪水など無かったと過去の教訓を無視しないことが大切です。神戸市は過去から学んで、対策を立てています。個人的には、正常性バイアスの一例として、ロシアのウクライナ侵攻を挙げることが出来ると思います。当時、専門家たちの多くは、ロシアは単なる軍事演習をしているので、ウクライナに侵攻しないとTVなどで発言していましたが、これは正常性バイアスの影響もあったと思います。しかし、当時のバイデン大統領が、ベラルーシとウクライナの国境にロシアが輸血のための車両を配置し血液を準備したので、単なる軍事演習ではなく、ロシアはウクライナに侵攻すると米国のTVで発言していた。これを聞いていて、ロシアのウクライナ侵攻の可能性は限りなく100%に近いと私は思った。この時に、正常性バイアスに対処する一つの方法は、行動するための納得できる理由だと考えた。しかし、侵攻することはほぼ100%確実で、侵攻が間近に迫っていると分かっても、いつ侵攻を始めるか分からないので、仮に自分がウクライナに住んでいて、移動することが可能な状況だとしても、侵攻前に直ぐに行動出来たか自信はない。ウクライナ国外に旅行に出かけるとしても、旅行の期間を一週間にするのか、それともかなりの費用をかけてそれ以上の期間にしなければならないのか、前もって計画を立てておかないと、迷います。
LAでの山火事からも同様の教訓を引き出すことが出来るでしょう。今年のLA近郊での山火事のようにあっという間に危機が目の前に迫ってきて、明確なガイダンスや指示が間に合わない場合、前もって準備してどう行動するか決めていないと、直ぐに冷静に対処するのが難しくなるかもしれません。その様な場合、他の人に決定してもらうことは期待できません。自分で決定しなければなりません。
上記の神戸市のサイトでも、
様々な危機的場面に対して「この状況の時には必ずこうする」という事前行動計画(自分の中での行動計画)を作っておく事が効果的です。
と効果的な対策方法を載せている。
どの様に具体的に事前計画を立てるかに関しては、2017年の「目ざめよ!」という雑誌でも、前もって準備することの大切さを指摘し[8]、どんな備えをしたらよいか具体的な例を挙げている[9]。東京の米国大使館でも具体的な準備のビデオをアップロードしている。[10]
[10] https://x.com/ACSTokyo/status/1301415572358402048?mx=2
それで、私個人としては、上記のサイトで提案されている、Go Bag (非常用持ち出し袋) を用意することに加えて、逃げる時間がほとんどない火災時などに備えて、カード、スマホ、マイナンバーカードなどのID等、重要なものを入れておく緊急用の小さな鞄をPCデスクの下に置いて、数秒で逃げられる態勢を整えておくことにした。もちろん時間がある時には Go Bag をもって避難することもできるので、その準備も更に入念にすることにした。
2024.12.31 心を明らかにする
AIの時代に突入した今年、心の大切さを強調したCM をTVでよく見た。「その心大事にしたいです」という発言に、AI ロボットは「心?」と質問し、相手は「そのうち分かるよ」と答えるCMである。(多分賃貸アパートのCMと思うが、どこの会社の何のCMかは覚えていない。しかし、CM自体は実に印象深い。)
それで、AIは心を読めるかどうか、ChatGPTに質問してみた。その答えがこれ。
AIは人間の心を直接「読む」ことはできません。AIは感情や意図を直感的に理解したり、心の状態を感じ取ったりすることはできません。しかし、AIは膨大なデータを分析し、人間の言葉や行動からパターンを学ぶことができます。そのため、特定の状況における感情や意図を予測することはできます。
例えば、テキストや音声のトーンを分析することによって、AIはその人が怒っている、悲しんでいる、喜んでいるといった感情をある程度推測することが可能です。しかし、これは単なる予測に過ぎず、AIが実際に「感情を持つ」わけではなく、感情の背後にある複雑な人間の心の動きを理解することはできません。
簡単に言うと、AIは心の状態を正確に「読む」ことはできませんが、人間の言動から一定の情報を引き出し、反応を予測することはできるということです。
要するに、AIは感情や心を持つことが出来ないが、相手の心の状態を推測することは出来るということ。
相手の心が本当に分かり、心が明らかになればいいが、それは至難の業。しかし、心を明らかにする方法のヒントがシメオンという名の高齢の人がマリアに語った言葉に示唆されています。その言葉は New World Translation of the Holy Scriptures の日本語訳で
ルカ2:34,35
34 また,シメオンは2人のために祝福を願い,母親のマリアに言った。「この子が選ばれたのは,イスラエルの多くの人が倒れ,あるいは立ち上がるためであり,この子は非難の的になります。 35 (そうです,長い剣があなたの心を刺し通します。)多くの人の本当の考えが明らかになるためです」。
と書かれています。 King James Version では
Luke 2:34,35
34 And Simeon blessed them, and said unto Mary his mother, Behold, this child is set for the fall and rising again of many in Israel; and for a sign which shall be spoken against;
35 (Yea, a sword shall pierce through thy own soul also,) that the thoughts of many hearts may be revealed.
となっています。
大学では、不明瞭さや曖昧さを排除し、明快にはっきりと分かりやすく論理的に書くように訓練されます。聖書でも理解しやすく、簡明に書かれている場合もあれば、とても分かり難く不明瞭に書かれている箇所もあり、どうしてその様な書き方をしているのか戸惑うこともあります。その様な不明瞭な個所で、ある人は「これはおかしい。矛盾している。こういう書き方をしている本は読む価値がない」と結論を出して、聖書を退ける人もいます。これは、宝石の「原石」を発見しても、みすぼらしい石だと考え、その価値を認識できずに捨て去ることに似ています。しかし、聖書の他の複数の個所と照らし合わせると、意味が明瞭ではっきりとしてくることがあります。あたかも、濃霧で視界がきかない状態から、明るい光の下で濃い霧が晴れて、視界がはっきりとして見通せるようになることと似ています。それは、努力して原石を磨き上げその美しさを発見するのにも似ています。
聖書はそのような不明確な個所を含めることにより、それを読む人の心の状態が明らかにされます。その人が、偏見や先入観を抱かず、どれほど真理を愛しているか、それともかたくなな心で真理を受け入れる余地がないかが、明らかになります。こんな書き方は大学では学びません。
論文を書く時には曖昧な方法はとれませんが、日常生活での利用価値は絶大だと思います。例えば、自分のネガティブな点を話し、相手がどの様に反応するかに関して『曖昧さ』を残して、相手がどの様にでも取れるようにしておき、ポジティブにもしくはネガティブに反応するか、相手の反応で相手の心を探れます。聖書を真似てという訳ではありませんが、ChatGPTで実験してみました。実験結果は以下の通りです。
ChatGPTに対する質問
私の失敗に関して話し、相手がどの様に反応するかに関して『曖昧さ』を残し、相手がどの様にでも取れるようにしておき、相手の反応によって、相手の私に対する評価や考えをどの様にして知ることが出来ますか?
ChatGPT said:
ChatGPT
あなたが「失敗」に関して曖昧に話し、相手の反応を通じて相手のあなたに対する評価や考えを知る方法は、確かに相手の性格や価値観を探る一つの手段となり得ます。曖昧さを残すことで、相手がどのように解釈するかによって、相手の本音や深層心理を知ることができる可能性があります。しかし、このアプローチには注意すべき点もあります。
1. 曖昧にする方法の構造
まず、あなたが「失敗」について話す際に曖昧にするポイントをいくつか考えます。曖昧さを持たせることで、相手の反応がどのように変化するかを観察するのです。
例:失敗に関する曖昧な表現
具体的な内容を避ける: 「実は、最近ちょっと失敗しちゃって…でも、あまり詳しく話すのもなんだか気が引けて。ちょっとしたことで、うまくいかなかったんだけど…」というように、具体的な状況や詳細は言わずに、感情や結果だけを伝える。
感情のみに焦点を当てる: 失敗そのものの内容よりも、自分がどう感じたかに焦点を当てる。「すごく悔しかったし、反省してるんだけど、なんだかどうしても納得できない部分もあって…」というように、あなたの内面的な反応や心情を共有する。
このような曖昧な言い回しを使うことで、相手がどのように反応するかによって、相手の考えや評価を間接的に知ることができます。
2. 相手の反応から得られる情報
相手の反応によって、あなたに対する評価や考え方を知ることができます。以下のような反応を観察することで、相手がどう思っているのかを推測できます。
(1) 共感や理解を示す反応
「それは辛かっただろうね」 といった反応があれば、相手はあなたの気持ちに共感していると考えられます。相手はあなたの立場や感情を理解し、支えようとしていることが伝わります。
「私も似たようなことがあったよ」 という反応は、相手が自分自身の経験を通じてあなたの状況を理解しようとしている場合です。この場合、相手は自分の失敗体験を共有することであなたとの共感を深めようとしている可能性があります。
(2) アドバイスや問題解決を試みる反応
「次はどうするつもり?」 や 「それならこうしたらいいかも」 といった具体的なアドバイスをしてくる場合、相手はあなたの失敗を問題解決の機会と捉えている可能性があります。つまり、相手はあなたを前向きにサポートしようとしており、あなたの成長を重視しているという評価が感じ取れます。
このような反応は、相手があなたの「失敗」を単なる過去の出来事ではなく、改善すべき「問題」として捉えていることを示唆しています。
(3) 軽視や無関心の反応
「まぁ、誰でもあるよね」 や 「そんなこと気にしない方がいいよ」 といった反応は、相手があなたの失敗を軽視している、または深刻に捉えていないことを意味します。このような反応が出た場合、相手はあなたの「失敗」や「感情」に対してあまり関心を持っていないか、あなたに対してあまり深く考えていないことが読み取れます。
反応が薄い場合や関心がなさそうな場合、その人はあなたの失敗を気にしていないか、あなたの悩みに対して鈍感である可能性があります。
(4) 否定的または批判的な反応
「それ、ちょっとおかしくない?」 や 「失敗を繰り返すのは良くないよ」 といった反応は、相手があなたの失敗に対して否定的に感じている、またはあなたを批判的に見ていることを示唆しています。相手は、あなたに対して厳しい評価をしている可能性があります。
もし相手が批判的な反応を示す場合、その人はあなたの失敗を教訓としてではなく、単なる失敗として捉え、あなたに対する期待を低く見ているかもしれません。
3. 相手の反応を分析する
相手の反応を受けて、あなたの行動や言動に対する相手の評価を推測する方法は次の通りです:
共感的反応が多ければ、相手はあなたを理解しようとしており、感情的にサポートする意図があると捉えます。
問題解決的な反応が多ければ、相手はあなたに対して建設的で前向きな評価をしており、あなたが失敗から学び成長することを重視していると考えられます。
無関心・軽視的な反応の場合、その人はあなたに対して感情的な投資が少ないか、あまり気にしていないということです。この場合、あなたの評価を低く見ているか、あまり深く関わりたくないと感じている可能性もあります。
批判的な反応の場合、その人はあなたに対して期待していることが高いか、失敗に対して厳しい立場を取る人であることがわかります。
4. このアプローチを用いる際の注意点
誤解を招かないように: 曖昧な表現を使うと、相手が本当にあなたの意図を理解できているか不確かになります。誤解を避けるためにも、反応を受けた後にフォローアップすることが重要です。
相手に依存しすぎない: 相手の反応だけで自分の評価を測るのではなく、自分自身の価値や自己評価も重要です。相手の反応を知るために自分を曖昧にすることが、必ずしも自分にとって有益とは限らないので、その点は心に留めておいてください。
このアプローチは、相手の評価を知るための一つの方法として有効ですが、注意深く行動する必要があります。
『相手の反応だけで自分の評価を測るのではなく、自分自身の価値や自己評価も重要です。』ごもっとも。他の人からの評価がその人に対する価値基準にされがちな社会において、自分が信じる行動規範や価値基準をしっかりと保っているは大切です。この答えが来るとは思いませんでした。
『このアプローチは、相手の評価を知るための一つの方法として有効ですが、注意深く行動する必要があります。』という点にも同意します。相手にだけ話した失敗談が多くの人に知れ渡り、他の人からの信頼を失い、他の人から馬鹿にされるという危険もあるからです。この事にもChatGPTはよく気づきました。ChatGPTは「やるな~」と思いますが、質問で書いた心を探る方法では限界があるのも確かです。一方、聖書が読む人の心をどれほど鋭く明らかにするかに関して、聖書自身がこう述べています。
ヘブライ4:12 神の言葉は生きていて,力を及ぼし,どんな両刃の剣よりも鋭く,人の外面と内面,骨と骨髄を分けるほど深く刺し通して,心の中にある考えや願いを明らかにすることができます。
この聖句に関する New World Translation of the Holy Scriptures の study note では「神のメッセージに対するその人の反応は、その人が何を考えているかを明らかにすることがあります。しかし、神の言葉の力はそれ以上であり、その人がそのように考える理由、すなわちその根底にある意図までも明らかにすることができます。」とあります。何と凄まじい神の言葉の威力!
2024.11.29 すべての事には時がある
1965年、The Byrds の「Turn!Turn!Turn!」[1]という曲が、全米ビルボード・ホット100チャートで1位になりました。[2] この曲を作ったのはPete Seegerで、ジュディ・コリンズも彼と一緒にこの曲を歌っています。[3] 英国でも、メリー・ホプキンがこの曲を歌っていました。[4] 注目すべきは、この曲の歌詞は伝道の書3章から取られていることです。聖書の言葉を歌った曲が全米で1位になっただけでなく、国際的なヒット曲になりました。私も子供の頃この歌を歌っていました。
[1] https://www.youtube.com/watch?v=xVOJla2vYx8
[2] https://en.wikipedia.org/wiki/Turn!_Turn!_Turn!
[3] https://www.youtube.com/watch?v=n0xzyhoeu1Y
[4] https://www.youtube.com/watch?v=fjEu5vlRfiY
New World Translation of the Holy Scriptures の伝道の書は日本語訳で
伝道の書 3:1 何事にも時がある。この地上の全ての活動には時がある。
と訳されています。King James Version では
Ecclesiastes 3:1 To every thing there is a season, and a time to every purpose under the heaven:
となっています。
すべての事には時があるとはどういう事でしょうか?その意味の一つを紐解くうえで役立つ言葉が続く2節に記されています。
伝道の書 3:2 植えるのに時があり,植えられた物を引き抜くのに時がある。
となっています。この聖句に関して Watchtower 2009年3月1日号では
Farmers know that for every crop, there is a right time for planting it. What if a farmer ignores that simple fact and plants a crop at the wrong time or season?[5]
と質問が提起されています。もしあなたが家庭菜園で作物を植えようと思っていたのに、忙しくて植えるのに良い時を逃してしまったら、「あの時に植えていればよかった」と後悔することでしょう。一方、植えるのに良い時などないと言い張っていては、収穫は望めないでしょう。何事にも時があるからです。
何事を行うにも良いタイミングがあるということが分かっていても、その良いタイミングや時を見定めるのが難しい場合も多々あります。それで、株を買ったり売ったりするのに良いタイミングなどないと言いう人もいます。一方、このサイトでは、「何事にも時がある」というスタンスを取っています。言い換えるならば、何事にも定められた時があり、株価は上昇トレンドと下降トレンド、横這い(揺らぎを含む)、というように分類することが出来る: 上昇する時、下落する時、方向感のない時というように株価にも時を定めることが出来るというのがこのサイトのスタンスです。
当サイトでの短期のトレンドを Shortwave Trend under Uncertainty Principle という短波で定義していますが、Rectified Theoretical Value under Uncertainty Principle (RTV) で短波トレンドの転換点(turning point)を探ろうともしています。しかし、例えば RTV が上昇から下降に転じた時にそれを短波トレンドの転換点の始まりと見なすのは早計すぎます。単なる押し目かもしれません。ここが資産レベルに応じた投資戦略が物言う時です。ベクトル場で定義できるレンジと Cumulative Trend で定義できるレンジで上限地帯、下限地帯、中間地帯をそれぞれ特定し、転換点と判定する前に、上限地帯に来た時に投資資金の一部を短期利食いするのか、もしくは下限地帯に来た時に押し目買いするか、中間地帯近傍で揺らいでいる時にどうするか、時を見定め資金事情に応じて作戦を立てるというのが当サイトのスタンスの一部を成しています。
ベクトル場による直近の上限は一番上の横線でピンク色の点線です。ピンク色の点線は一時的な判断で、後で変更されます。何故ならシグナルが弱い中での判断だからです。なので上限という判断は後に破棄されます。中間点は上から2番目の横線で茶色の点線です。下限は上から3番目の茶色の横線です。RTVはまだ下降していないので、11月27日時点で、転換点を考える時ではないと思います。
Cumulative Trend による上限は upper bound、下限は lower bound、中間地帯は neutral zone で示されていて、ベクトル場によるものと大きな違いはありません。それらが上限地帯、下限地帯、中間地帯を形成すると考えます。しかし、RTVはまだ下降していないので、11月27日時点で、それらの地帯(zone)を用いて転換点を考慮し始める時ではないと考えています。
2024.10.31 虚数の実生活での意義: 私達が見て把握できる空間には存在していない数の現実の生活における意義 (後半)
米国に投資をしている人は、7月4日が米国の株式市場の休日であることを知るようになります。そして、その日は米国の独立記念日という重要な日だと分かるかもしれません。American Center Japan によると、英国からの独立は、1776 年7 月4 日 第2 回大陸会議により採択された 「13 のアメリカ連合諸邦による全会一致の宣言」 によるとのこと。植民地の独立声明を起草するために、ジョン・アダムズ、ベンジャミン・ フランクリン、トマス・ジェファソン、ロバート・R・リビングストン、およびロジャー・シャーマンが指名され、実際に文書を執筆したのはジェファソンとのこと。[1] この独立宣言には次のような有名な文言が含まれています。
We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness. [2]
この宣言をAmerican Center Japan は次のように翻訳しています。
われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等で あり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているという こと。
この独立宣言で『すべての人は不可侵の権利を与えられて平等に造られている』という考えが心の琴線に触れる言葉で言い表されています。しかし19世紀のフランスの小説家オノレ・ド・バルザックは「平等であることは当然の権利かもしれぬが,それを実現させ得る権威は皆無である」[3] [4]と述べて、人間の平等という理念の実現が人間の政府には手の届かないところにあることを認めています。
[1] https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2547/
[2] https://www.archives.gov/founding-docs/declaration-transcript
[3] https://wol.jw.org/en/wol/pc/r1/lp-e/1200276567/2/0
[4] https://wol.jw.org/ja/wol/pc/r7/lp-j/1200276567/4/0
平等という概念を数学的に表現すると = という記号で客観的に表すのが自然かもしれません。例えば、男性が義務教育を受ける権利を実数 x で表し、女性が義務教育を受ける権利を実数 y で表すならば、男女平等の概念からすると x = y となります。つまり、男性が義務教育を受ける権利と女性が義務教育を受ける権利は等しくなければなりません。男性の義務教育を受ける権利は、義務教育受けることが出来る男性の人数 r を義務教育の年齢に達している男性の人数 t で割って数値化することが出来ます。この数値化のより、男性が義務教育を受ける権利 x は実数r とt の関数 f と考えることが出来
x = f(r, t) = r/t
と表記できます。同様に、義務教育受けることのできる女性の人数を実数 u、義務教育の年齢に達している女性の人数を実数 s とすると、女性が義務教育を受ける権利 y は
y = g(s, u) = u/s
という関数 g で表記されている分数 u/s で定義することが出来ます。男女平等の概念は x = y と表すことができますが、男女問わず、すべての人に対する公正の概念も考慮すると x = y = 1 となるべきです。つまり、義務教育の年齢に達している人数=義務教育受けることができる人数となり、義務教育の年齢に達している人すべては義務教育受けることができるとなっているべきです。
平等を実数で定義すると、平等とは同じ数になることを意味します。しかし、実数は異なる数の集合体なので、異なる数では大小関係が成立し、平等という概念が目に見える数である実数の空間全体に本来備わっていません。平等という概念を目に見える空間で実数として有意に考慮するには、上記の例のように real-valued functions(実数値関数) f と g を実数上に定義する必要があります。しかし、多くの場合このことは非常に難しく時として恣意的です。私達が存在している実数という空間自体には平等という概念が本来(inherently)備わっていないということが、目に見える空間において平等を定義するのが根本的に困難な理由です。ましてや、平等を実現することは至難の業です。
一方、複素平面(complex plane)においては虚数単位 i が全ての虚数に備わっています。複素平面では、記号 = で平等という概念を表すというよりもむしろ、すべての虚数には虚数単位 i が備わっているということが平等を意味します。この平等の概念のおかげで、複素数は大小の順位付けをすることが出来なくなります。複素数は多様性の集合体で、それぞれの複素数は他の複素数と違っており、どちらが大きいか小さいかを比べることは出来なく、それらが異なっている(多様である)が、同じ虚数単位 i が備わっているということが平等を意味します。それで、複素平面という空間には平等という概念が本来(inherently)備わっていることになります。
複素数はそれぞれが異なって多様であるが、同じ虚数単位 i が備わっているという点で平等であるということは、平等の本質だと思います。つまり、平等は多様性を考慮し認める(Equality allows for variety)ということです。この点に関して、Watchtower 2002年1月1日号では次のようにコメントしています。
平等であるといっても,それは完全に画一化されているという意味ではありません … 個々の人は, … それぞれ異なる能力を持っています。しかし,そうした違いが,人を高めたり低めたりすることはありません。むしろそうした違いは,結果として喜ばしい多様性を生み出します。自分にある才能はいずれも神からの賜物であり,それゆえに優越感を抱く理由は一つもないということを,それらのクリスチャンは認識しています。[5][6]
例えば、化学者とクラシックの演奏家は、単に異なっているのであって、本質的にどちらが優れているのかを比べることは出来ません。一方実数にこだわると、収入の大小で優劣を決定しようとするかもしれませんが、その比較は普遍的でも本質的でもありません。
[5] https://wol.jw.org/en/wol/d/r1/lp-e/2002001#h=20:0-21:537
[6] https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2002001#h=20:0-21:282
前回2024.6.30で、聖なる力を虚数単位 i で表し、同じ聖なる力のそれぞれ異なった働きを、実数 yと虚数単位 i を掛け合わせた虚数 yiで表しました。結果として、「複素数は順序付けすることができない」(厳密にいうと複素数体は順序体ではない)ので、虚数の大小関係は成り立たなくなりました。
故に、聖なる力を虚数単位 i として複素平面にて考慮に入れると、平等が本質的に備わることになります。一方、複素平面を考えに入れずに、実数だけで平等を考慮すると、平等は把握し難くなります(elusive)。人が神とその聖なる力から疎外された存在になることはとても悲しいことではないでしょうか。
2024.9.10 危機の時代における分析ファイルのリスク管理と危機管理
前回、リスク管理は言うまでもなく、危機管理も重要であることを主張しました。投資において危機対策をしっかりとしておくなら、ポジティブなmindsetでいることが出来、パニックになって振り回されマーケットの餌食になることはないでしょう。むしろ、危機をチャンスとすることも出来ます。
今は、火山の噴火、地震、津波、感染症、戦争の拡大、異常気象、食糧不足など様々な危機の可能性があります。前回、テモテ第二3章1節から今は危機の時代だと指摘しました。そこでは、
2 Timothy 3:1 But know this, that in the last days critical times hard to deal with will be here.
と書かれています。今の時代は確かに、対処するのが難しい危機の時代ではないでしょうか。しかし、the last days (終わりの日)とは一体何の終わりかと疑問に思うかもしれません。危機を凌駕するポジティブなことが何かあるのでしょうか?
いったい何が終わるのかに関して、日本語で
英語で
とてもシンプルに説明しています。疑問に思うことや、質問したい場合は
日本語で
https://hub.jw.org/request-visit/ja/request
又は、英語で
https://hub.jw.org/request-visit/en/request
無料の聖書レッスンを通して、尋ねてみるのはいかがでしょうか?
今は、ハッキング、ランサムウェア、PCやSSDとその他の外部メディアの故障などの電子的なリスクや危機もあります。私が開発した不確定性原理下での株価分析モデルに関して、リスクとは、分析モデルのファイルが外部流出するリスクとそれらを保存している機器が故障するというリスクです。
どの様に“個人として”リスク管理しているかというと、
① ネット接続になっているPC本体やクラウド上に分析モデルのファイルを決して保存しないというルールに則ってEXCELを設定し、分析モデルのファイルはネットに接続されていない外付けのSSDと複数の外部メディアに保存して、ハッキング、ランサムウェアのリスクに備えています。PC本体が壊れた場合にすぐに対応できるように、予備のPCも用意しています。
② 分析するごとに、PCがネット非接続になっているかを確認してから、外付けSSDをPC本体に接続します。
③ 分析が終わると、アップデートされたグラフをPC本体に保存してから、アップデートされたファイルを複数の外部メディアに保存し、それらの外部メディアと外付けSSDをPC本体から取り外します。その様にして、SSDやその他の外部メディアのいずれかが故障するリスクに備えています。
④ 外付けSSDとその他すべての外部メディアがPCに接続されていないことを確認してから、PC本体からグラフをアップロードします。
危機管理において、危機とは、分析ファイルが盗まれ外部流出してしまうことです。たとえ、ファイルロックされたSSDやその他の外部メディアが外から侵入されないとしても、思わぬ手法で分析ファイルが盗まれロックが解除されるという危機を想定しています。企業と違い一個人の場合はその可能性は殆ど無いのですが、盗まれてロックが解除されてしまった場合を、私は危機と定義しています。
盗まれたファイルが最初から最後まで自動でプログラムの実行が可能ならば、ファイルは実質的に盗まれたことになります。しかし、プログラムの一部を手動にして、どの様に無数のプログラムを実行したらよいのか外部の人が分からないようにしているならば、盗まれたファイルは使い物になりません。それで危機管理として、分析モデルを初期分析、中間分析、最終分析の3段階に分け、それぞれの段階で複数のプログラムの幾つかを単純ではない手動にし、プログラムによらない手動のプロセスを一部導入しています。Screenshots なども使用不可にして手動の仕方をcapture 出来ないようにしています。 要するに、盗まれたファイルのロックが解除されても、外部の人がプログラムの実行の仕方が分からなくなっていることを危機管理としています。
更に、この方法によって、最終分析だけを考慮することを排除し、必然的に初期分析と中間分析結果を参照することになり、マーケットの状態をより一層的確に把握するよう促されるという利点もあります。加えて、この危機管理はボケ対策ともなっています。
2024.8.31 投資と危機管理
2024年8月5日月曜日、日経平均株価(日経225)が前営業日である8月2日金曜日の終値から4451.28円下落し、下落率12.4%で終えた。これは、米国株急落が世界に飛び火したブラックマンデー翌日の1987年10月20日の日経平均史上最大の下落率14.9%に次ぐ、史上2番目の下落率となった。
8月5日の日経225は前場一時2,500円を超える下げになったものの、前引けは1,662円安だったので、前引けから大引けで2789円下げたことになる。実際、後場、特に大引けにかけてつるべ落としのフリーフォールだった。8月20日付け日経新聞、 “「ストップ安800社」恐怖増幅 緩和を過信、投げ売り殺到”[1] という記事では、
全上場銘柄の2割相当の約800社が制限値幅の下限(ストップ安水準)まで下げる異常事態。保有株を「売れなくなる恐怖」がさらなる売りを誘発する悪循環に陥った。
大量の先物売りが発生し、5日午後に推計約5千億円の売りを出した。
とパニック売りや投げ売りが出たことを記録している。
[1] https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB13A5E0T10C24A8000000/
この様な狂乱相場で、個人投資家はどう行動したかに関し、2024年8月28日付の日経新聞の “新NISAで人気の投信、相場動乱で慌てて売却か”[2] という記事の中で、
新しい少額投資非課税制度(NISA)で人気が高い投資信託の売買動向をみると、慌てて投信を売却し、投資をやめたのではないかとも考えられる状況が明らかになった。
と報告している。個人投資家は幾ら儲けたかのか、資産を何倍にしたのかをいつも強調しています。リスクをハッキリと認識していないのは投資とは言い難いですが、インターネット上で投資におけるリスク管理の事を目にすることはあまりありません。年金などの機関投資家はリスク管理が出来ているが、個人投資家はオール・カントリーの投信をリスク管理としているのかと思っていたら、上記の記事では、オルカン投信が資金流出額の第二位にランクされている。明確にリスクをコントロールしている自覚はあまり強くなく、どれくらい儲けられるのか損するのかで判断しているのではないか。円安トレンドの下では、為替ヘッジによるリスク管理の意識も高めていないように思う。2024年8月28日付の日経新聞の “投資信託の価格変動リスク、「標準偏差」で確認を”[3] という記事の中では、
投資信託で長期運用する際には、リターンだけではなく、リスク(値動きの振れ幅)をみることが大切だ。投資信託の価格変動リスクを測る統計指標である「標準偏差」をみることで、相場の下値のめどをイメージできて、安定した気持ちで資産運用ができるだろう。
とアドバイスをしている。私もリスク管理は課題の一つで、特にどの様にリスクをコントロールするか新しい方法を考案中です。リスクをハッキリと認識することは、投資では必須です。
[2] https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB23AZB0T20C24A8000000/
[3] https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB136K70T10C24A8000000/
上記の記事でリスク管理に関して
「標準偏差」をみることで、相場の下値のめどをイメージできて、安定した気持ちで資産運用ができる
と指摘している。確かにそうだが、危機管理という面が投資に欠けていると思う。危機管理(crisis management)で想定されるクライシスとは、自然災害、感染症、戦争など。Rescuenow[4] というサイトでは
危機管理の目的は、危機的状況においてその影響を最小限に留めるとともに、いち早く復旧して平時の状態に戻すことです。つまり、企業にとって重要な資産や情報を守り、事業継続を確保することが求められます。
と分かりやすく説明しています。この定義を投資に当てはめると、投資における危機とは、戦争、パンデミック、自然災害などの危機的状況が生じ、株式市場でストップ安が数日続くなどして売ることが出来ず、株価が半値以下になって(もしくは大暴落して)初めて売買が成立し値段が付くこと。危機管理の目的は、半値以下になった(もしくは大暴落した)資産を、いち早く大暴落前の水準まで戻すことです。
[4] https://www.rescuenow.co.jp/blog/column_20230508
今は、火山の噴火、地震、津波、感染症、戦争の拡大、などの危機の可能性が大いにあります。New World Translation of the Holy Scriptures でも
2 Timothy 3:1 But know this, that in the last days critical times hard to deal with will be here.
King James Version では
2 Timothy 3:1 This know also, that in the last days perilous times shall come.
となっていて、今の時代は対処するのが難しい危機の時代であることを証ししています。本当に危機に対する対応策を真剣に考えておくことは必須と考えています。
8月30日付け日経新聞、 “株安でも慌てない シニア世代の資産引き出し法”[5] では、
すべての資産を有価証券で運用している人はほとんどいないと思います。預金を万一の場合の資産、いわゆるバッファー(緩衝材)資産として保有するなら … 株価急落といった一時的な事態に対応する資産の役割もあるはずです。
と述べています。これは、高齢層にとって、危機が生じて株式への投資資金が暴落した場合にはある程度有効かもしれませんが、かなりストレスが生じる方法だと思います。私は、株価指数への投資資金が、ストップ安が何日も続いて売ることが出来ず、例えば十分の一になってしまった場合でも、危機管理を発動して、資産価値を元の水準にいち早く戻す戦略を構築しています。この方法は、私としては他に聞いたことが無く、殆どの人はこの方法を知らないと思いますが、それを明らかにすると、その方法を見いだしているごく少数の人には大いに迷惑になるかもしれないので、その方法はトップシークレットとします。若い人達の場合は、この方法を使わずに、資産をまた増やしていけるでしょう。いずれにせよ、危機が生じて株式への投資資金が半減した(大暴落した)場合、如何にいち早く大暴落した資産をまた増やしていくか、作戦を立てて、危機に備えておくことは欠かせないと思います。危機管理がしっかり出来ているなら、暴落しても慌てることなく、チャンスとして生かせると思います。
[5] https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB2122C0R20C24A8000000/
2024.7.31 投資と辛抱強さ
相場が急騰している時にFOMO (fear of missing out) という言葉をよく耳にする。ウイキペディアによると、FOMOとは「取り残されることへの恐れ」と定義されている。株式市場において FOMO は上昇相場に乗り遅れることへの恐れから、急騰している株やETFを買う行動を示唆している。
このFOMO に動かされて投資すると、結果として焦って買うことになりかねず、決して辛抱強い投資行動にはなりません。一方、辛抱強さ (patience) は New World Translation of the Holy Scriptures の Study Note によると、calm endurance (冷静な忍耐力) のことを意味します。焦らずに冷静に目的をもって投資する辛抱強さは重要です。例えば、日経225で6月から7月にかけて尖塔の様な値動きがありました。急騰した時に煽られて忍耐できなくなり、乗り遅れまいと FOMO に動かされて買った人はその後の急落で少なからずのダメージを受けたでしょう。更に、急騰場面で買ってしまった後、急落場面で冷静に忍耐できなくなり、パニック売りをしてもあまり良いことはありません。
FOMO を回避する投資方法の一つとしてドルコスト平均法がありますが、辛抱強さをその主要な特徴としているわけではありません。何故なら、株価がかなり高騰している時や急落し始めた時でも、一定金額で定期的に前もって決められた通りにルーティン買いすることがあるからです。たまたま急騰直前と急落後に定期的な買いが出来て、結果としてパフォーマンスが一時的にすこぶる良くなったとしても、そのハイパフォーマンスは偶然で持続可能ではありません。ドルコスト平均法は、割高過ぎるとか、お買い得というような相場観や評価基準がない人にとっては良い方法かもしれませんが、積立投資を始めて間もなくバブル崩壊が判明した場合には、利益が出るまでかなりの我慢が強要されるでしょう。
一方、当サイトは辛抱強い投資手法の範疇に分類されます。例えば最も単純な方法として、下のS&P 500 のベクトル場のグラフにおいて、上昇局面で青色のベクトルの矢印の先端近くまで上昇してきた時は我慢して買いを控えると、その後ベクトルの矢印の端から少し離れた近傍でかなりの高い確率でより安く買えるチャンスが出てくるので、辛抱強さは報われます。下落局面では、割安感からの買いを我慢して、赤色のベクトルの矢印の先端まで待つことにより、その後ベクトルの矢印の部分の近傍でかなりの高い確率でより安く買えることになります。要するに冷静に我慢できれば、その一つ一つの辛抱強さの積み重ねが報われるという訳です。(実践的には、更に洞察力も取り入れると、より効果的になる)正に、New World Translation of the Holy Scriptures の日本語訳で
ヤコブ 5:11 私たちは,忍耐した人は幸せであると考えます。
書かれている通りになると私も考えます。
2024.6.30 虚数の実生活での意義: 私達が見て把握できる空間には存在していない数の現実の生活における意義 (前半)
2024.5.28 より高速のPCの方が計算時間が少なくて済むわけではない
先日(5月10日)Dellから『お客様の情報がアクセスを受けたことが明らかになりましたが、影響を受けた情報は限定的であり、大きなリスクはないと考えています』とのemail が来た。アクセスされたデータの内容は、氏名、所在地、Dell製ハードウェアと注文情報(サービス タグ、製品説明、注文日、関連する保証の情報など)となっている。
この文面からすると、『大きなリスクの可能性は否定出来なく、普通のリスクは覚悟して下さい』とも解釈できる。
私が使っている PC に関しは、別にトップシークレットではないので、明らかになっても問題とはならない。
デスクトップは Windows 11 Pro
Processor: 13th Gen Intel(R) Core(TM) i9-13900K
Installed RAM: 32.0 GB
言語は英語です
価格はとても高いが Max Turbo Frequency 5.80 GHz
が魅力だったので、購買を決めた
ラップトップは Windows 11 Pro
Processor: 13th Gen Intel(R) Core(TM) i9-13900HX
Installed RAM: 16.0 GB
言語は英語です
価格はとても高いが Max Turbo Frequency 5.40 GHz
が魅力だったので、購買を決めた
この2台のPCはそれまで使っていたMax Turbo Frequency 4.60 GHz のPCを5,6台買える値段だが、計算時間を短縮出来ると思い購入した。しかし、不確定性原理に基づいてトレンドを計算するのに要する時間が今までと同じ。私のプログラムの書き方のせいかもしれませんが、計算時間を短縮するためには、お金よりも、優れたプログラムを書ける知恵の方が重要ということなのでしょう。高いから良いという訳ではないというのは富の不確実性の一例で、1 Timothy 6:17 で言及されている uncertain riches,「富の不確実性」と Ecclesiastes 7:12 で言及されている advantage of knowledge 数学的に言うと、 知恵>お金 という真実性を物語っているとしか言いようがありません。
しかし、予想もしないことはこれでおしまいではありませんでした。何とWindows11 や Microsoft 365 のアップデートごとに、高性能・高価格のPCの計算時間が長くなりました。そして遂に Excel で不確定性原理に基づいてトレンドを計算すると、5GHzを超える高性能・高価格のPCの方が4.6GHzの相対的に低性能・低価格のPCよりも20%多く時間がかかるようになりました!何てこと!より高速のPCの方が計算する時間が余計にかかるのです!!!
このことは、New World Translation of the Holy Scriptures 日本語訳の
伝道の書9:11 私はこの地上で次のことも知るようになった。足の速い人がいつも競走に勝つわけでも,強い人が戦いに勝つわけでもない。また,賢い人がいつも食事にありつけるとは限らない。知的な人が裕福になるとも,知識がある人が成功するとも限らない。なぜなら,思いも寄らないことがいつ誰にでも起きるからだ。
King James Version では
Ecclesiastes 9:11 I returned, and saw under the sun, that the race is not to the swift, nor the battle to the strong, neither yet bread to the wise, nor yet riches to men of understanding, nor yet favour to men of skill; but time and chance happeneth to them all.
ということを思い起こさせる。「速い人がいつも競走に勝つわけでもない」という所に、『より高速のPCの方が計算時間が少なくて済むわけでもない』という言葉を付け加えたいくらいですが、駄目でしょうか?
しかし、話はこれで終わりではありません。「思いも寄らないこと」がまたしても起こりました。先日Microsoft 365 をアップデートしてVersion 2405, Build 17628.20044 にした途端、上記の高性能のPCで不確定性原理に基づいてトレンドを計算する時間が、買ったばかりの時と比べて1.5倍もかかるようになってしまった。高性能にしたばかりに計算に1.5倍の時間がかかるとは笑い事ではない。今後はCPUが4.6GHzに達しているなら低性能・低価格のPCの方を買うことにする。
2024.4.15 桜の季節
最近、ニュースで東京などの桜が映し出され、美しい日本の桜を堪能できます。それで、下のリンク[1]からも、美しい花の写真を見ていただきたい。(サイトへの接続には少し時間がかかります)
[1] https://www.arbolapp.es/en/species/info/prunus-dulcis/
美しい桜の写真かと思うかもしれませんが、アーモンドの花の写真です。桜とアーモンドの花を見分けるのは難しいですが、アーモンドの方が早咲きです。
ところで、アーモンドなどのナッツ類は皆さんお好きでしょうか?私も大好きですが、厳密にいうとアーモンドはナッツではありません。ここで、ChatGPTにアーモンドを英語で説明してもらいましょう。
ChatGPT
Almonds are technically seeds found within the fruit of the almond tree (Prunus dulcis). So, botanically speaking, almonds are seeds. However, in culinary terms, almonds are often categorized as nuts because of their similar nutritional profile and uses in cooking and baking. So, while almonds are not true nuts in botanical terms, they are commonly referred to as nuts in everyday language and culinary contexts.
このChatGPTの説明は正確です。それで、ChatGPTにこの英文を日本語に訳してもらいました。
ChatGPT
アーモンドは、植物学的にはアーモンドの木(Prunus dulcis)の果実内に見られる種子です。そのため、植物学的にはアーモンドは種子です。しかしながら、料理学的な観点では、アーモンドは栄養価や料理や焼き菓子への用途が類似しているため、しばしばナッツに分類されます。したがって、アーモンドは植物学的な意味で真のナッツではありませんが、日常的な言語や料理の文脈では一般的にナッツと呼ばれています。
そうです。植物学的にはアーモンドは種子、果実にある種子です。
しかし、アーモンドはただ単なる種子ではありません。New World Translation of the Holy Scriptures の創世記43章11節で
Genesis 43:11 So Israel their father said to them: “If it must be so, then do this: Take the finest products of the land in your bags and carry them down to the man as a gift: a little balsam, a little honey, labdanum, resinous bark, pistachio nuts, and almonds.
King James Version では
Genesis 43:11 And their father Israel said unto them, If it must be so now, do this; take of the best fruits in the land in your vessels, and carry down the man a present, a little balm, and a little honey, spices, and myrrh, nuts, and almonds:
となっていて、イスラエルの土地の the finest products の中にアーモンドが含まれています。 単にとても良い産物と言っているのではなく、英語では最上級の the finest とか the best という言葉を用いて、アーモンドをイスラエルの最高の産物に含め、アーモンドの価値を聖書は際立たせています。
実際、アーモンドは健康に良い影響を及ぼします。例えば、『アーモンドを1日42粒ずつ3週間以上摂取すると、コレステロールと血糖値、血圧が有意に下がったという報告があります。つまり、アーモンドには心血管疾患リスクを下げる働きがある』と日経BP[2]が報告しています。
[2] https://special.nikkeibp.co.jp/atclh/NXR/22/glico0527/
私は、アーモンドミルクを毎日飲み始めてから、明白なほど肌に良い効果が現れました。それで、今も、アーモンドミルクを飲み続けています。下のリンク[3]によると、アーモンドに豊富に含まれるビタミンEには抗酸化作用があり、肌の健康に役立ち、 皮膚の健康維持に貢献するビタミンB2も豊富に含まれているそうですが、私の場合ははっきりと実感できています。
[3] https://tsuboya.net/blogs/blog/nutritional-secret-of-almonds
ところで、東京ではそろそろ桜も終わりになるでしょうが、北海道はまだこれからです。(今年の予測は、4月後半から5月初旬です) 北海道の桜の名所の一つに、函館の五稜郭があります。五稜郭自体はヨーロッパにもあり、函館の特別の名所と主張できないかもしれませんが、これほど桜が咲き誇った五稜郭は世界的にも無いのではないでしょうか?下のリンク[4]から、世界的にも珍しい、桜が咲き誇った五稜郭の写真を見ることが出来ます。
2024.3.17 無限大 (その3)
前回、イエスは神と同じように無限大に生き続け、両者とも永遠に生き続けるが、神とイエスは同等ではない事を指摘した。その理由として、イエスには始まりがあるが、神には始まりがないので、神の存在年数は方が無限大に長くなることを、数列を通して説明した。この点でもイエスは神と同等と考えず謙遜さを示し、その事は神から高く評価されたことを指摘した。
しかし、イエスは死んだのに何故永遠に生き続けることができるのかと不思議に思うかもしれません。その点に関して、New World Translation of the Holy Scriptures では
1 Peter 3:18 For Christ died once for all time for sins, a righteous person for unrighteous ones, in order to lead you to God. He was put to death in the flesh but made alive in the spirit.
King James Version では
1 Peter 3:18 For Christ also hath once suffered for sins, the just for the unjust, that he might bring us to God, being put to death in the flesh, but quickened by the Spirit:
とあり、イエスは死から命へと復活したと聖書は述べています。ここで肝要なのは、イエスの復活のエビデンスということになります。それで、イエスの復活の証人として、諸国民への使徒パウロの証言に注目したいと思います。パウロは、「パウロとも呼ばれるサウロは聖なる力に満たされ,エルマをじっと見て」(使徒13:9)とあるように、クリスチャンになる前はサウロと呼ばれていました
まずパウロの背景を考慮いたしましょう。New World Translation of the Holy Scriptures の日本語訳で
使徒 22: 28 それに対して軍司令官は言った。「私はこの市民権を大金を払って得たのだ」。パウロは言った。「私は生まれながらのローマ市民です」
フィリピ 3:5 私は生後8日目に割礼を受けており,イスラエルの子孫,ベニヤミン族の者,ヘブライ人から生まれたヘブライ人です。律法に関しては,パリサイ派でした。
とあります。パウロは生まれながらのローマ市民という特権ゆえに、いわば上流階級に属していました。加えて、パウロは「律法に関しては、パリサイ派」でしたので、ユダヤ人としても申し分のない家系でした。さらに、
使徒22:3 「私はユダヤ人で,キリキアのタルソスで生まれましたが,この都でガマリエルから直接教えられ,先祖の律法について厳格な教えを受けており,今の皆さんと同じように神に対して熱心です。
ガラテア 1:13,14 皆さんは,私がユダヤ教徒だった頃の振る舞いについて聞いています。私は神の会衆を激しく迫害し,荒らしていました。 14 そして,多くの同年代の同胞よりもユダヤ教に打ち込み,はるかに熱心に父祖たちの伝統に従っていました。
とあり、パウロは今の大学相当の教育を受けており、ガマリエルの優秀な生徒として、将来が約束されていました。「[私は]多くの同年代の同胞よりもユダヤ教に打ち込み,はるかに熱心に父祖たちの伝統に従っていました」とあるので、パウロも将来の成功を目指して、一生懸命努力していました。パウロは、将来を有望視されて人脈も申し分なく、出世街道をひたすら進んでいたことが分かります。[1]
ユダヤ人がイエスを死刑に処した後、イエスの弟子たちは迫害の対象となっていました。パウロもその流れに乗ります。クリスチャン会衆に関して
使徒8:3 一方サウロは,会衆に手荒なことをするようになった。次々と家に侵入しては男性も女性も引きずり出し,牢屋に送った。
使徒9:1,2 サウロは,なおも主イエスの弟子たちを脅し,殺そうと意気込んで,大祭司の所に行き, 2 ダマスカスにある会堂への手紙を求めた。この道に従う人を見つけたら,男性も女性も縛ってエルサレムに連れてくるためだった。
とあるように、パリサイ派の一員としてパウロは発足したばかりのクリスチャン会衆を激しく迫害し、キリストの弟子たちを一掃しようとしていました。それで、使徒9:2にあるように、クリスチャンになる前のパウロ(=サウロ)は、キリストの弟子を迫害しようと、ダマスカスへ向かっていました。正にその時、驚くべき事が起きます。こう書かれています。
使徒9:3-5 サウロが旅をしてダマスカスに近づいた時,突然,天からの光が彼の周りを照らし, 4 サウロは地面に倒れ,「サウロ,サウロ,なぜ私を迫害しているのですか」と言う声を聞いた。 5 サウロが,「主よ,あなたはどなたですか」と言うと,答えがあった。「イエスです。あなたは私を迫害しています。
パウロはイエスが復活しているのを目の当たりにします。この事に関してある人たちは、パウロは精神が錯乱していただけだと主張しますが、その主張に関するエビデンスを提出できません。パウロは成功している人で、更なる高みを目指して、今で言うところの出世街道を邁進中で、イエスの弟子たちを猛烈に迫害していました。その様な成功と明るい将来を捨てて生き方を180度方向転換し、迫害されて命を危険に晒す覚悟をするには、余程の事が起き、その方向転換が絶対に正しいという確信がなければなりません。前述の使徒9章の出来事は、サウロは自分が間違っている一方、イエスの追随者たちの証言していた事柄(イエスが復活したことを含む)が真実であると確信させるエビデンスであったと言えます。
(100歩でなく)1京歩譲って、一時的にパウロの精神が錯乱して勘違いをしていたとしましょう。もしそうならば、パウロがイエスの弟子であり続けることの sustainability (持続可能性)という問題を考慮しなければなりません。パウロはクリスチャンになってから何を実際に経験したでしょうか?コリント第二にこう記録されています。
コリント第二 11:23‐27 彼らはキリストの奉仕者ですか。私は狂人のように言いますが,私の方がはるかに優れた奉仕者です。私の方がたくさん働き,多く拘禁されました。数え切れないほど殴打され,何度も死にかけました。 24 ユダヤ人たちからむちで39回打たれたことが5度, 25 棒で打ちたたかれたことが3度,石を投げ付けられたことが1度,難船したことが3度あり,一昼夜海上を漂ったこともあります。 26 何度も旅をし,川での危険,強盗の危険,同胞からの危険,異国の人々からの危険,町での危険,荒野での危険,海での危険,偽兄弟からの危険に遭い, 27 苦労して働き,眠れない夜を何度も過ごし,飢えと渇きを覚え,食べ物が何もないことがよくあり,寒さに震え,着る物がないこともありました。
一時的な熱狂であれば、パウロがキリストの追随者になった後にコリント第二に詳述されている途轍もない苦難を経験すると、パウロの様な教養のあり論理的な人はイエスの弟子でい続けるのは割に合わないと考え、イエスの弟子でいることを辞めるのはごく自然といえます。
では、なぜパウロはイエスの弟子でい続けることが出来たのでしょうか?その持続可能性についてパウロ自身に証言してもらいましょう。パウロは『普通を超えた力が私たちから出るのではなく,神から来る』ということをコリント第二 4:7で明らかにしてから
コリント第二 12:10 私は,弱いところ,侮辱,窮乏,迫害,困難を,キリストのために喜びます。私が弱い時,私には力があるからです。
と述べて、神から力を得ているので、苦難を乗り越えられるだけでなく、イエスに従い続けることの喜びを保てると証ししています。これが sustainability (持続可能性)となっています。とても信じられないと思うかもしれません。しかし、
フィリピ4:7 そうすれば,神からの平和が,キリスト・イエスを通して皆さんの心と考えを守ります。その平和は人間の理解をはるかに超えています。
とあるように、神からの平和が、パウロの心と考えを平安で喜びの満ちたものにするのです。苦境に立たされ苦しんでいる時、正にその時に平穏と喜びに満たされるならば、その突然の変化はそれを経験する者にそれは神からの平和であることを確信させます。これは確かに人間の理解をはるかに超えたものかもしれません。
しかし、ある人はパウロという1人だけの証言では不十分だと主張するかもしれません。では、コリント第一の次の言葉に注目してください。
コリント第一15:3-7 私が皆さんに伝えた最も大切な点の中に,私自身も学んだ事柄があります。それは,聖書にある通りキリストが私たちの罪のために死んでくださり, 4 そして葬られ,聖書にある通り3日目に生き返らされ, 5 ケファの前に現れ,それから12人の前に現れたことです。 6 その後,キリストは一度に500人以上の兄弟の前に現れました。その中には死の眠りに就いた人がいるものの,ほとんどは今も生きています。 7 その後,キリストはヤコブの前に,それから全ての使徒たちの前に現れました。
イエスの復活を目撃した人が500人以上いるのです。そして、イエスの復活に懐疑的だった人たちは、実際イエスの復活を目撃した500人以上の人達にそのことを尋ねて、彼らに証言してもらうこともできました。彼らはイエスの復活について証言すると、あざけられ、殺される危険があることを分かっていながら、イエスが復活したことを人々に伝え続けました。復活が事実だったからこそ、勇敢に自分たちの主について証言することができました。
では、イエスはどこにいるのでしょうか? 啓 1:18で、イエスは自分を、『生きている者です。私は死にましたが、見なさい、今は生きていて、永遠に生き続けます。そして,死と墓の鍵を持っています。』と描写しています。このことに関して、
使徒7:55,56 しかしステファノは聖なる力に満ち,天を見つめて,神の栄光と神の右に立つイエスを目にし, 56 こう言った。「見てください。天が開いて,人の子が神の右に立っているのが見えます」。
と書かれているように、イエスは天で永遠に生き続けます。イエスは一度死にましたが復活し天におられます。そして、イエスはご自分の死を思い起こすように命じています。それは Memorial of Jesus’ Death と呼ばれるもので、イエスの死が私達にも関係があることを思い起こすものとなっています。このことに関しては、下のリンクから情報を得ることが出来ます。
https://www.jw.org/en/jehovahs-witnesses/memorial/
2024.2.29 無限大から無限大を引くとどうなるか
2024.1.31 無限大
2023.12.31 有事の食卓 イモ中心に
北海道新聞12月9日付ウエブ版に「有事の食卓 イモ中心に」という記事が掲載された。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/951075/
その記事は
“近年はコロナ禍だけでなく、ウクライナ危機や異常気象といった予測不可能な事態が相次ぐ。自国内の供給を優先するため、農産物や肥料などの輸出を規制した国は、農林水産省によると2022年以降で約50カ国に達した。食料を輸入に依存する危うさは既に表面化しつつある。”
と指摘している。
そもそも日本の食料自給率が極端に低いので、農水省の試算によると、深刻な食糧危機の際、国内で自給できる食材のみで作った献立はイモ類中心となるそうです。一方、上記の記事には
“東大大学院の鈴木宣弘教授(農業経済学)は「食料安全保障を強化したいのなら有事対応を考える前に、平時からの備えとしても自給率向上を急ぐべきだ」と苦言を呈する。”
という点も記載されている。
コロナのような感染症の蔓延だけでなく、ウクライナやパレスチナでの軍事衝突に加えて、中南米での油田に関する紛争の危機、アジアにおいても武力衝突の可能性などがある。更に、異常気象や自然災害による凶作もあり、食糧価格の高騰にとどまらず、食糧不足を憂慮せざるを得ない。この様な状況にぴったり当てはまる言葉が New World Translation of the Holy Scriptures にある。日本語訳では
ルカ 21:10,11 それからイエスは言った。「国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がります。 11 大きな地震があり,あちらこちらで食糧不足や流行病があります。また,恐ろしい光景や天からの大きなしるしがあります。
King James Version では
Luke 21:10,11 Then said he unto them, Nation shall rise against nation, and kingdom against kingdom:
11And great earthquakes shall be in divers places, and famines, and pestilences; and fearful sights and great signs shall there be from heaven.
戦争、紛争、大きな地震、食糧不足、流行病の様な事を一括して対処するのは難しいので、主の祈りで祈り求めている the Kingdom of God が地に来る必要があるということです。
食糧危機は必然だと思います。国に全部を任せておくのは心もとない。それで個人として真剣に対策を講じることにした。ネットを見ると保存食は5年保存可能なので、2024年から毎年1か月分の保存食を買って備蓄していくことにした。そして食糧危機や自然災害がまだ起きていない場合は、備蓄していた5年目の保存食を大よそ一年かけて食べて、廃棄処分にしないようにする。必ず消費して無駄にしないので、保存食の選択にも慎重を期すようにしたいが、ネットを見ると結構値段が高い。しかし、これは保険の様なものだと割り切って、毎年1か月分の保存食を買って備蓄していくことを決めました。
2023.11.29 怒りをコントロールする
分断された世界では、怒りを引き起こす出来事が頻発します。そして、その怒りはまるで感染症の様に世界中に蔓延します。確かに、義憤を感じる人は、良い事を大切にしている人でしょう。しかし、怒りを感じる時に強烈なインパクトを与える言葉があります。New World Translation of the Holy Scriptures では
Ecclesiastes 7:9 Do not be quick to take offense, for the taking of offense lodges in the bosom of fools.
伝道の書 7:9 すぐに腹を立ててはならない。腹立ちは愚かな人の胸にとどまる。
King James Version では
Ecclesiastes 7:9 Be not hasty in thy spirit to be angry: for anger resteth in the bosom of fools.
とあります。「腹立ちは愚かな人の胸にとどまる」とあるので、怒り続けて怒りが心の中に宿るなら、その人は愚かな人になるという事です。怒ることが悪いというよりもむしろ、怒り続けて怒りが心に根を下ろすなら、その人は愚鈍な者の範疇に入るのです。これは相手というよりはむしろ自分に言い聞かせる言葉で、ギクッとします。怒りをコントロールできなくなると、理性的な判断が難しくなり、感情に任せて行動する事は深刻な事態を招きかねず、賢明な事ではありません。
「すぐに腹を立ててはならない」ともあります。すぐに怒らないようにするにはどうしたらよいのでしょうか?
格言14:29 すぐに怒らない人は優れた識別力(discernment)があり、短気な人は愚かさをあらわにしている。
とあります。識別力が必要です。Oxford Languagesでは discernment を the ability to judge well と定義しています。つまり、良い判断をする能力のことです。Merriam-Webster では discernment を the quality of being able to grasp and comprehend what is obscure と定義しています。つまり、見抜いて把握し理解する能力と言えるかもしれません。
では怒った時、どの様に識別力を働かせたらよいのでしょうか?レッドフォード・B・ウィリアムズ博士は「アメリカ医師会ジャーナル」(JAMA)誌(英語)の中で,自分の怒りを客観的に診断し,その怒りを手なずける事が特に重要で,「(1)この状況は自分にとって重要か?(2)自分の考えや感情は、客観的事実に照らし合わせると、妥当なものか?(3),この状況を改善して、怒りを持たないようにする事ができるか?」と自問するよう勧めていることが2002年2月8日号「目ざめよ!」のp24で報告されている。
さらに、
格言19:11 洞察力があればすぐに怒ることはない。過ちを見過ごす人は美しい。
とあります。洞察力(insight)が必要です。では怒った時、どの様に洞察力を働かせたらよいのでしょうか?表面には表われていない,他の人の言動の背後にある理由を理解する努力をするならば、洞察力を示せるでしょう。例えば、
『疲れていたり,具合が悪かったりしたのだろうか。ストレスを感じていたのではないだろうか』と考えて、相手の本当の動機や気持ちや状況を理解しようと努めましょう
と2012年3月号の「目ざめよ!」で提案されています。
その様に洞察力を示すなら、温和に対応する事が出来るでしょう。
格言15:1 温和な答えは激しい怒りを遠ざけ,痛みを生じさせる言葉は怒りを引き起こす。
と書かれている通りです。
識別力、洞察力、温和さをいつも完璧に示すということは不可能ですが、これらの特質を示す努力をすることには大きな価値があると思います。
2023.10.31 憎しみと怒りの連鎖
最近の出来事は憎しみと怒りの連鎖を容易に引き起こしかねない。憎しみの連鎖による敵意や怒りは破壊的な結果をもたらしてきている。
確かに怒るのももっともなこともあるが、理不尽な場合もある。怒りや憎しみは吐き出したほうが良いと主張する人もいるが、現在の国際情勢に面して、そのように主張しても悲劇が増幅されるだけ。銃社会の国では銃撃による死者が絶えなく、学校ですら教師が銃を携帯すべきと主張される。SNSでは怒りによる誹謗、中傷が後を絶たなく、ヘイトクライムを助長さえする。怒りを吐き出してあおり運転するのは命を危険に晒す。
重要なのは、怒りや憤りにどう対処するか。例えば、賄賂を贈り成功している人を見て憤り、そのような成功は砂上の楼閣だと結論することは、その人を有害なことから守る益がある。一方、賄賂を贈り成功している人を見て、「ずるいじゃないか」と憤り、自分も賄賂を贈ることにして、自分だけが逮捕されるという悲劇もある。
不公正に怒り、そのような不公正を反面教師とするのは、平和な関係を促進する。しかし、不公正に怒り、仕返しをしてやると喧嘩を仕掛けると、破壊的な連鎖反応を容易に生じさせる。
一方、体は自動的に怒りや憎しみに反応してしまう。住友ファーマ健康情報サイト によると、怒りを感じると自律神経が乱れ、血流の悪化を招き、活性酸素が発生し体がいわば錆びていく。怒りは吐きだした方がいいとも言われているが、自律神経が長時間乱れる原因になるとのこと。
https://healthcare-sumitomo-pharma.jp/health_column/jobigaku/vol089/
怒ると体に異変が起こるが、この体の異変にどう対処したらよいのか?上記のサイトによりと、頭にくることがあっても、まずは黙って6秒程度あけるという「アンガーマネジメント」を推奨している。
New World Translation of the Holy Scriptures でも
格言15:1 穏やかな答えは激しい怒りを静め,きつい言葉は怒りをあおる。
と書いてある。怒ったまま直ぐに言葉を発するよりも、冷静になってから発言するほうが賢明だ。
また、作り笑いでも口角をあげるだけで、怒りを和らげる副交感神経が作用してリラックスできるとも上記のサイトは指摘している。New World Translation of the Holy Scriptures でも
格言14:30 穏やかな心は体に良く
格言17:22 喜びにあふれた心は良い薬になり
と書いてある。実際、怒ると6時間以上免疫力が下がり、他者へのいたわり、慈しみといった感情を抱くと、24時間以上免疫力が高まるという研究結果を President Online は報告している。
https://president.jp/articles/-/54420?page=1#goog_rewarded
日経新聞電子版では、「怒りっぽい」グループのほうが「温厚・寛容」グループよりも、心臓発作や脳卒中を引き起こす頸(けい)動脈肥厚が多くみられという米国立老化研究所による研究結果を引用し、米ウォールストリートジャーナルが「怒りの感情は、心臓発作を起こすリスクを通常より8.5倍も高める」という研究結果を報じていることも、指摘している。
https://www.nikkei.com/nstyle-article/DGXMZO05269880W6A720C1000000/
これらの方法で世界から憎しみと怒りの連鎖をなくすことはできないが、少なくとも自分個人のところで怒りの連鎖を食い止め、怒りによる健康の悪化から自分を守ることができる。
2023.9.29 理路整然と間違える
2023.8.26 イエスの幾何級数的な考え方の意義
2023.7.31 イエスの言葉に見られる幾何級数的な考え方
数学は、物事を理解するための洞察を提供することがあります。その一例として、数学はマタイ18章21、22節のイエスの言葉を理解する助けになります。
New World Translation of the Holy Scriptures のマタイ18章21、22節では、
21 その時,ペテロが来て言った。「主よ,仲間が私に罪を犯すとき,何回許すべきでしょうか。7回ですか」。 22 イエスは言った。「いいえ,7回ではなく77回です。
と訳されています。21節で書いてある罪を犯すとは sin の事で、不完全さゆえにときおり犯す間違いで、神の特性,方法,規準,ご意志に反する事柄を行う事です。ペテロは7回まで罪を許せばよいのですかとイエスに尋ねた時、イエスは7という数字を繰り返して77回(77 times)ですと答えたと New World Translation や Byingtonでは訳されています。ここで使われている77回というギリシャ語の表現は seventy times seven と英語に訳すことが出来ますが、このギリシャ語の表現は二通りの解釈が可能で 70 + 7 = 77 もしくは 70 ∙ 7 = 490 を意味します。
では77 回 と 490 回のどちらなのでしょうか?創世記4:24に出てくる“77”というヘブライ語はセプトゥアギンタ訳のギリシャ語では英語に直すと seventy times seven と表現されます。([1] New World Translation of the Holy Scriptures, study edition を参照) それでこのギリシャ語の表現は77回を意味している可能性の方が高いですが、数学的に考察するとどうなるでしょうか?
[1] https://www.jw.org/en/library/bible/study-bible/books/matthew/18/#v40018022
7と77という数字を見て数学に通じている人はすぐに 7, 77, 777, 7777, … という数列を連想するでしょう。この数列の任意の数字は、級数
7(1 + 10 + 100 + 1000 + 10000 + 100000 + …)
を用いて表現できます。例えば、
7 = 7(1)
77 = 7(1 + 10)
777 = 7(1 + 10 + 100)
7777 = 7(1 + 10 + 100 + 1000)
というようにこの数列の任意の数字を級数で表記できます。
それで、この級数のコアの部分は
1 + 10 + 100 + 1000 + 10000 + 100000 + …
= 100 + 101 + 102 + 103 + 104 + 105 + …
ということになります。これは数学では、a geometric series (幾何級数、または等比級数)と呼ばれるものです。この場合は、一桁ずつ増えていく級数で、1では十分でなく、一桁増やして、もう 10 を足し、合計 1 + 10 = 11 にする。しかし、10 を足したのでは十分ではなく、一桁増やして、もう 100 を足し、合計 1 + 10 + 100= 111 にする。これを、限界を定めることなく、繰り返していくと
1 + 10 + 100 + 1000 + 10000 + …
というよう級数で表記できます。とても秩序だった級数です。
このコアの級数に7を掛けると
7(1 + 10 + 100 + 1000 + 10000 + 100000 + …)
= 7 + 70 + 700 + 7000 + 70000 + 700000 + …
という幾何級数になります。前節の reasoning をイエスの述べたことに適用し、拡張すると、7(100) = 7回許したのでは十分でなく、一桁許す回数を増やして、もう 70回許し、合計 7 + 70 = 7(100 + 101 ) = 77回許す。しかし、許す回数を70増やしたなら、増やす規模を一桁拡大して、許す回数を700増やし、合計 7 + 70 + 700 = 7(100 + 101 + 102) = 777回許す。要するに、70増やしたなら今度は700増やし、700増やしたのなら今度は7000増やす。これを繰り返していくと、限界を定めることなく許していくという級数
7 + 70 + 700 + 7000 + 70000 + 700000 + …
= 7(100 + 101 + 102 + 103 + 104 + 105 + …)
を得ることが出来ます。これは主の祈りのforgive us our sins, for we ourselves also forgive everyone who is in debt to us (Luke 11:4) を思い起こさせます。この祈りをする回数に限界が定められていないことは、sins を許すことに限界が定められていないことを意味します。この sins を許していくことに限界を求めてはいけない事に幾何級数は呼応します。
ペテロが、「77回です」と言われた後に、「では77回だけでいいのですね」と仮に尋ねたなら、イエスは「いいえ、777回です」と答えたと私は思いますが、ペテロは察しが良くてそれ以上質問しませんでした。いずれにせよ、数学はイエスの考え方を洞察するのに役立ちます。
一方、上記の足し算を掛け算に変更すると、
7 ∙ 70 ∙ 700 ∙ 7000 ∙ 70000 ∙ …
となります。しかし7を70倍にして、490回許したなら、今度は700倍にして、343000回許す、などとすると、肝心の7という数字が合計回数から消えて、7という数字を繰り返すことの意味が消えてしまいます。よって、7を繰り返すという意義が薄れてしまうのが、7の70倍、すなわち490回許すという解釈です。一方、77回許すと解釈すると、7を繰り返す(許すことを繰り返す)という意義がはっきりと伝わってきて、sins を許していくことに限界を求めてはいけない事を洞察できます。
この様に、数学は、物事に対する理解力と洞察力を促進させ、有意義なことが分かります。
2023.6.26 アウシュビッツ・ビルケナウとマサダの要塞跡
ポーランド南部に位置するオシフィエンチム市(ドイツ名アウシュビッツ)にアウシュビッツI強制収容所跡が保存されている。アウシュビッツII‐ビルケナウ強制収容所跡 は隣接するプジェジンカ村(ドイツ名ビルケナウ)にある。これら二つの強制収容所はアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所(Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau)として知られている。([1]と[2]を参照)
ちなみに写真やドキュメンタリーなどでしばしば登場する“死の門”に至る鉄道引き込み線はアウシュビッツII‐ビルケナウにあります。有名な“ARBEIT MACHT FREI”(働けば自由になる)というスローガンがBを逆さにして掲げられている門はアウシュビッツIにあります。
強制収容所跡のアウシュビッツIとアウシュビッツII‐ビルケナウは第二次世界大戦中のホロコーストを切々と証言し、毎年1月27日に強制収容所解放を記念する式典も催されている。これらの強制収容所で犠牲になったのはユダヤ人、ポーランド人、ナチス政権に忠誠を誓うことを拒んだドイツのエホバの証人達などである。([3]を参照) そして70年以上経った今、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所跡は “ホロコーストは無かった” と言い出す人達に対する 明白な反証 となっている。
アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所跡がホロコーストの史実性を疑いの余地がないほど証明しているのと同様、1900年以上経たマサダの要塞跡も、ある重要な史実性を立証している。マサダとは死海に面するイスラエルの地名で要塞という意味があります。(場所と地形は[4], [5], [6], [7] を参照)
[5] https://whc.unesco.org/en/list/1040/video/
[6] https://en.parks.org.il/reserve-park/masada-national-park/
マサダは西暦1世紀の悲劇の場所です。西暦66年にローマ帝国に対するユダヤ人の反乱が起き、ガルスの率いるローマ軍がエルサレム(Jerusalem)に侵攻し、ユダヤ戦争が勃発。しかし、1世紀の歴史家ヨセフスによると、エルサレムが陥落しそうになったにもかかわらず、ガルスは突如エルサレムから退却。これによって、クリスチャンはエルサレム市外へ逃げることが出来ました。その後、ティトゥス指揮下のローマ軍が再び攻めて来て、先のとがった杭で城塞を築き、全長7.2㌔に及ぶ柵を周囲に巡らし、およそ5か月にわたる攻囲の末に、西暦70年エルサレムは悲劇的に陥落しました。一方、熱心党員を中心とした967人は包囲を逃れ、マサダに立て籠もりました。マサダの地形故にローマ軍は攻めて来られないと考えたのかもしれませんが、ローマ軍はマサダの西側の崖を埋め立ててスロープを造り、そこからマサダを攻略する作戦を立てました。そして西暦73年、ローマ軍はユダヤ人の最後の砦となったマサダ山頂の要塞を攻め、立て籠もっていたユダヤ人は玉砕し、ユダヤ戦争が終結しました。(マサダの歴史は[8], [9], [10] を参照)
[8] https://en.wikipedia.org/wiki/Masada
[9] https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200003646?q=%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%83%80&p=par
[10] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%83%80
アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所跡や他の強制収容所跡がホロコーストの残忍さを全世界に証言している一方、当時の多くのユダヤ人の命を救った勇敢な行為は史実として世界的には見過ごされています。同様に、マサダはユネスコ世界文化遺産として保存され、イスラエルの人気のある観光スポットとなっている。その一方で、1世紀のエルサレムの滅びに際して、ユダヤ人の命を救った出来事も史実として一般的に見過ごされています。
前者のケースは、杉原千畝の「命のビザ」です。([11]を参照) ここで再び杉原千畝が何千人ものユダヤ人の命をどの様に救ったかを説明する必要がないほど、彼の自己犠牲的で人道的勇気ある行為は、今や日本ではよく知られている。しかし、杉原千畝が自分の立場を危うくしてまでユダヤ人を救ったことは、1969年までユダヤ人社会では知られていませんでした。([12]を参照) そして、杉原千畝は本国の指示に従わなかったことで、日本では彼の勇気ある行動は中傷されました。日本で杉原千畝の名誉が回復されたのは、彼の死後の2000年です。([13]を参照) しかし、アウシュビッツの事は知っていても、杉原千畝の事は知らない、というのが世界の実情ではないでしょうか。
後者のケースは、New World Translation of the Holy Scriptures の Luke 21:20, 21に記されている。
Luke 21:20, 21 “However, when you see Jerusalem surrounded by encamped armies, then know that the desolating of her has drawn near. 21 Then let those in Ju·deʹa begin fleeing to the mountains, let those in the midst of her leave, and let those in the countryside not enter into her,
King James Version では
Luke 21:20, 21 And when ye shall see Jerusalem compassed with armies, then know that the desolation thereof is nigh. 21Then let them which are in Judaea flee to the mountains; and let them which are in the midst of it depart out; and let not them that are in the countries enter thereinto.
となっています。
ルカ21章20,21節では、エルサレムが軍隊に囲まれたら、エルサレムとユダヤ(Ju·deʹa)から出て山脈地帯(the mountains = 山々、山地、山脈)へ逃げるようにイエスは前もって警告していました。マサダは山脈の一部ではなく要塞なので、イエスによるとマサダに逃げても助からないことになります。実際、エルサレムにいたクリスチャンはガルスが撤退した後すぐに、ヨルダン川を渡り、ユダヤ(Ju·deʹa)から完全に離れている山地(山脈の丘陵地帯)に位置するペラ(Pella)へ逃げて助かりました。([14]を参照) ([15]の地図によるとJudea は数字6を中心とするとその広範な周辺地域を含む。Pella は数字2の右にあるDecapolis の左下にあります。)
[14] https://wol.jw.org/en/wol/d/r1/lp-e/1990761#:~:text=The%20terrible%20flood,The%20Jewish%20War.
[15] https://www.jw.org/en/library/books/jesus/map-where-jesus-lived-taught/
それにしても、『エルサレムが軍隊に囲まれたら、どうやってエルサレムから逃げ始められるのか』、とイエスの言葉を聞いた当時の人々は不思議に思ったかもしれません。実際、エルサレムがガルスによって攻囲された時は、山脈地帯へ逃げるのは不可能だったでしょう。しかし、全く予想外にガルスが撤退した時は、イエスの指示に従う時が来たことをクリスチャンは識別できたのでしょう。イエスの警告に聞き従う事は命を救うことになりました。この命を救う出来事も史実ですが、一般の歴史からは見過ごされています。かけがえのない教訓が歴史に埋もれたまま広く知られないでいるのはとても残念です。
(西暦70年のエルサレムの悲劇的な滅びのドラマ化されたビデオは英語では[16]、日本語では[17]で視聴できます。)
[16] https://www.jw.org/en/library/videos/#en/mediaitems/VODMoviesBibleTimes/pub-ivwf_x_VIDEO
2023.5.23 現在完了の意義とは
日本語には英語のpresent perfect(現在完了)に厳密に対応する時制が無いため、中学や高校で英語を習った際に、なかなか現在完了時制の感覚を掴むことは難しかったかもしれません。それで、一つのクイズを通して、現在完了時制がなぜ役立つかを検証してみたいと思います。
最初に、present perfect tense(現在完了時制)を ChatGPT で簡単に説明してもらいました。以下が、ChatGPTによる簡潔な説明です。
英語の現在完了時制は、過去から現在までに完了したことに焦点を当てる文法形式です。
この文法形式は、「have/has + 過去分詞形」という形で構成されます。例えば、次のような文があります。
"I have finished my homework."
この文の意味は、「私は宿題を終えました。」という意味になります。つまり、過去のある時点で宿題を終えたことが、現在までの状況に影響を与えていることを表しています。
(上記の説明は簡潔すぎます。私の追加説明: 現在完了の完了用法は、「すでに…してしまっています」とか「今ちょうど…し終えたところです」という意味合いがあります。
例えば、 I have already finished my homework. 「私は既に宿題を終えてしまっています。」という意味になります。過去のある時点で宿題を終えたことが、現在までの状況に影響を与えていることを表していて、例えば、「それで今は、ショッピングに行けます」とか、「それで、宿題をやりなさいと私に言わないでください」と続けて言うことが出来ます。
更に、already ではなく just を使って、I have just finished my homework. 「私はちょうど宿題を終えたところです。」という意味にすることもできます。つまり、「過去に宿題をやり始めて、今ちょうどその宿題をやり終えて完了したところです」という意味合いです。現在の状況に影響を与えているということは、いま宿題から解放されて、「それで、今あなたを手伝えます」とか、「それで、今からそちらへ行けます」というようなことを、続けて言うことが出来る。)
また、現在完了時制は、過去の出来事について、その結果が現在まで続いていることを示すためにも使用されます。例えば、
"I have lived in Tokyo for five years."
この文の意味は、「私は東京に5年間住んでいます。」という意味になります。つまり、過去から現在まで、私が東京に住んでいるという事実が示されています。
以上のように、現在完了時制は、過去から現在までの時間の経過によって起こった事柄について、その影響や継続性を表現するために用いられる文法形式です。
(上記の説明は「… したことがある」という意味の現在完了の経験用法が欠けているので、ChatGPTに説明を加えるように依頼しましたが、根本的に完了用法とそれほど大きな違いはないと思うので、簡潔な説明としては、割愛しても良いと最終的に私も判断しました。)
Thank you, ChatGPT! さて、英語の例文となる教材は、2750年以上も前の紀元前732年頃にエルサレムにてヘブライ語で書き終えられたイザヤ書の西暦2013年の英訳です。
扱う英文はNew World Translation of the Holy Scriptures では
Isaiah 13:19,20 And Babylon, the most glorious of kingdoms, ①The beauty and the pride of the Chal·deʹans, Will be like Sodʹom and Go·morʹrah when God overthrew them. ②She will never be inhabited, ③Nor will she be a place to reside in throughout all generations. ④No Arab will pitch his tent there, And ⑤no shepherds will rest their flocks there.
King James Version では
Isaiah 13:19,20 And ①Babylon, the glory of kingdoms, the beauty of the Chaldees' excellency, shall be as when God overthrew Sodom and Gomorrah. ②It shall never be inhabited, ③neither shall it be dwelt in from generation to generation: ④neither shall the Arabian pitch tent there; ⑤neither shall the shepherds make their fold there.
これは紀元前732年における将来のバビロンに対する預言なので、未来形で書かれています。このバビロン倒壊の預言はその約200年後の紀元前539年にペルシャのキュロス王がバビロンを制圧した時に成就したので、現在から観ると過去の出来事になります。
では、クイズです。
質問: Isaiah 13:19,20 に出てくる①~⑤の文は預言なので、それぞれ未来時制で書かれていますが、現時点ではすでに過去に生じた出来事となります。では、①~⑤の文を現時点で評価した文にすると、過去時制ではなく、現在完了時制になるのは何番でしょうか?
答え:
「彼女(バビロン)は決して人の住む所とはならず、いつの時代までも居住地にはならない」とあります。決して(never)とかいつの時代までも(throughout all generations)という表現は、紀元前539年にこの預言が成就して以来ずっと続いて、なんと2500年以上経った今も居住地ではないことを意味します。これは、過去の状態(居住地となっていない)が2500年以上も経った現在も続いている事を意味するので、現在完了の継続用法です。それで、答えは②と③です。②は She has never been inhabited since 539 BCE. ③は Nor has she been a place to reside in. となります。
下線部①、④、⑤は、現在時制、現在完了時制いずれかにすることが出来ることを示唆する言葉はありませんので、過去時制となりますが、現在の状態を確認するなら、現在形も可能かどうか判断できます。
ところで、イザヤ書に記録されている預言が約200年後に成就し、その後バビロンが人の居住地にならないという預言が2500年以上もの間成就し続けているとは驚異的ですが、現在も居住地になっていない事を確認する必要があります。今は、海外に実際に行かなくても、グーグルマップや youtube で海外旅行を経験できる。それで、今回は、グーグルマップと youtube でバビロンを訪れてみましょう。
最初に、古代バビロンの廃墟(Ancient Ruins of Babylon)を上空から俯瞰してみましょう。
1932年当時の発掘されたバビロン。本当に廃墟です。
https://www.youtube.com/watch?v=Jt3yNfU_gg8
現在はユネスコ世界文化遺産です。下のユネスコのサイトで、現在のvideo と写真gallery を見ることが出来ます。
https://whc.unesco.org/en/list/278/
下のサイトでも古代遺跡バビロンの現在の動画を見ることが出来ます。
https://www.afpbb.com/articles/-/3234056
バビロンが人の居住地にならないという聖書の預言が2500年以上もの間成就し続けている事を確認できました。現在も成就しているとは本当に驚異的な預言です。この様に、英語は過去の状態が現在も継続しているかどうかに強い関心を払う言語ということが出来ます。今風に言うと、現在完了の継続用法を時制として他の時制と区別している英語は sustainability (持続可能性)を考え方として意識している言語と言えます。
2023.3.30 エピゲノムと老化
ハーバード大学のシンクレア博士が学術雑誌CELLの2023年1月12日号[1]で、老化時計を早めたり、細胞の老化を逆行させたりすることが出来ると発表した。
[1] https://www.cell.com/cell/fulltext/S0092-8674(22)01570-7
[2] https://hms.harvard.edu/news/loss-epigenetic-information-can-drive-aging-restoration-can-reverse
TIME誌[3]の説明によると、老化の研究はDNAの変異に焦点を当てるのが一般的だが、シンクレア博士はエピゲノム(epigenome)に焦点を当てて研究したそうです。全ての細胞は同じ遺伝的青写真(設計図)を持っている一方、エピゲノムがそれぞれの細胞にどの遺伝子のスイッチをONにしてどの遺伝子をOFFにするかの指示を与えて、ある細胞を皮膚の細胞にし、別の細胞を脳細胞にしたりする。シンクレア博士はInformation Theory of Agingなるものを提唱し、老化の 主な 原因は細胞が機能し続けるのに必要な重要な指示を失う結果であると主張している。ちょうどPCが壊れたソフトをバックアップコピーで再インストールするように、シンクレア博士とその研究チームはエピジェネティックの指示(epigenetic instructions)のバックアップコピーを再起動(reboot)させ、細胞を老化へと向かわせる壊れた信号を消する方法を開発した。
[3] https://time.com/6246864/reverse-aging-scientists-discover-milestone/
いわば再インストールによって老化時計を逆戻りさせ、若返りを可能にさせる。その様に老化のプロセスを逆戻りさせることによって、心臓病やアルツハイマーの大部分は治療できるそうです。結論として、老人を見てもその人を年老いた人とは見ずに、壊れたシステムを再起動する必要のある人と、シンクレア博士は見なしているとの事です。
ゲノムを解読することにより、生命の設計図が莫大なデジタル情報としてもたらされていると[4]で指摘されているので、PCソフトを再インストールするように老化時計を逆戻りさせることは理にかなっている。
[4] https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/story/newsletter/keywords/01/04.html
若返りが可能であることは今から大よそ3500年前にヨブ記でも指摘されていました。 New World Translation of the Holy Scriptures によると
ヨブ 33:25 彼の肉体を若い頃よりも元気にし,彼を活力にあふれた若い日々に戻そう。
King James Version によると
Job 33:25 His flesh shall be fresher than a child's: he shall return to the days of his youth:
となっている。数十年前の昔は「若返りが可能と」言ったなら、笑われるのがオチだったろうが、科学が発達した今では、若返りは夢物語ではなくなった。
科学の一般常識として、生物学を専攻しなかった人も、DNAについて知っている。最近はゲノムに関してもニュースで出てくる。そして、今後はエピゲノムも科学の一般常識として必須になってくると思う。それで、DNA、ゲノム、エピゲノムの基本的知識を整理しておきたい。
最初にエピゲノムをシンプルにイメージしてみましょう。ひとつの細胞の中にたくさんの種類の遺伝子があり、「使う遺伝子」と「使わない遺伝子」があります。例えば筋肉の細胞では、筋肉を作るための遺伝子や、脳から「筋肉を動かせ」という命令を受け取るための遺伝子は必要ですが、食べ物を分解するための遺伝子は必要ありません。エピゲノムとは、簡単に言うと「どの遺伝子を使い、どの遺伝子を使わないかを決めるスイッチ」のことと[5]で解説されています。
次に、それぞれの用語の意味を[6]から引用しますが、そこに載せられている図を見ながら読むと分かりやすいです。
[6] https://www.rhelixa.com/knowledge/cell-shape/
塩基: A・T・G・Cの4種類がある。
DNA : 2重らせんの間に塩基が並んだもの(塩基配列)
遺伝子: タンパク質を作るときのアミノ酸の順序を指定する情報。DNAの塩基の並び方で表されている。
すべてのDNA配列が遺伝情報を持っているわけではなく、遺伝情報を持っている部分と持っていない部分があります。遺伝情報を持っている部分のことを「遺伝子」と[7]で簡潔に説明されています。
[7] https://bio-sta.jp/beginner/genomedescription/
ヒストン: DNAを巻き取っているタンパク質の名前
ヌクレオソーム: ヒストンにDNAが巻きついた状態
クロマチン: ヌクレオソームが数珠のように並んでいる状態
DNAがヒストンに巻きついたままでは、塩基配列が読み取れない。それで、DNAの読み取りたい部分、つまり使う遺伝子、をヒストンから離して、オープン・クロマチン状態にし、使わない遺伝子はDNAのその部分をヒストンに巻きつけておく、ということです。([6]の図を見ると分かりやすい。)
染色体: 顕微鏡で見える。DNAが巻かれて折りたたまれて形作られているもの。
ゲノム: ある細胞のDNAすべての情報。塩基の並び方で表されている。
ゲノムとは「DNAの文字列に表された遺伝情報すべて」のことと[8]でも簡潔に説明されている。
[8] https://gan-genome.jp/cause/what.html
DNAはヒストンというタンパク質に巻きついていて、その巻きつき具合を調べることがエピゲノムの一つ。つまり、数珠つなぎになっているクロマチンがどの程度ほどけているかということが、遺伝子の使い方と密接に関係する情報であり、エピゲノムの本質の一つになっていると[6]で説明されている。
これらの全体像は『生命の起源』[9]という雑誌に次のように的確にまとめられています。
“DNAが用いるのは4文字です。A・T・G・Cの配列の違いによって,コドンと呼ばれる様々な“単語”が作られます。コドンが連なると,遺伝子という“文章”になります。遺伝子一つは,平均して2万7,000文字から成っています。遺伝子と,各遺伝子間の長い領域が組み合わさり,染色体という“章”が出来上がります。そして,23の染色体がゲノムという1冊の“本”,つまりヒトの全遺伝子情報を形成します。”
この事はNew World Translation of the Holy Scriptures の次の言葉を思い起こさせる。
Psalms 139:16 Your eyes even saw me as an embryo;
All its parts were written in your book
Regarding the days when they were formed,
Before any of them existed.
日本語訳では、詩編139編16節
あなたの目は胎児の私を見ました。私のあらゆる部分があなたの書に書かれました。それらが形作られる日々のことが,まだどの部分もできていない時に書かれました。
King James Version によると
Psalms 139:16 Thine eyes did see my substance, yet being unperfect; and in thy book all my members were written, which in continuance were fashioned, when as yet there was none of them.
詩編139編16節で「私のあらゆる部分があなたの書に書かれました。」とあるが、ここでいう書はゲノムという一冊の本だと分かる。このゲノムという本にあるエピゲノムを詳しく調べることにより、老化時計を逆戻りさせ、病気を治療できることがシンクレア博士によって示されたのはとても興味深い。人間の力だけでは限界があるものの、老化の大部分を理解できるようになるのは意義深い。
2023.2.28 海洋生物の衝撃波
最近マッコウクジラのニュースが続いた。1月にはオスのマッコウクジラが大阪湾の淀川河口近くで見つかり、その後死んでしまったことが、大きくニュースになった。2月に入ると、4日に石巻市の北上川河口にマッコウクジラの死骸が漂着した。マッコウクジラの大きな頭部には脳油という脂の袋があり、その脂が流失することによる漁業被害が懸念されていた。
TBS・NEWS・DIGに載っていた日本鯨類研究所の茂越敏弘氏の説明を要約すると、マッコウクジラは脳油を潜水の道具として用いるだけでなく、音響レンズとしても使い、暗い深海で自分やエサの位置を測り、衝撃波を生じさせエサとなるイカを失神させ捕食するそうです。
人間は科学の粋を究めて、深海の圧力に耐えうる潜水艦でしか深海に辿り着けないのに、マッコウクジラは深海の圧力に耐え、ソナー(sonar)を備え、衝撃波という武器を用いて捕食することが出来る。何という奇跡!興味を持ったので、マッコウクジラについて少しだけ調べることにした。
深海の圧力に対しては奇網が重要な働きをしているようです。2022年9月22日付のScienceに掲載されたカナダ・ブリティッシュコロンビア大学の調査によると、クジラなどの海洋哺乳類の奇網(retia mirabilia)と呼ばれる、静脈と動脈からなる巨大な血管網が、心臓から全身に血液を送り出す大動脈と脳に血液を供給する血管系の間に位置し、クジラの脳にかかる圧力の実に97%をカットしているとのこと。(このメカニズムをすぐに理解できる人は凄いと思う。)
一方、脳油に関しては、どの様にして脳油を獲得するに至ったかは分からず仕舞い。どの様にして脳油を使うかに関しては通説があるみたいです。潜る時は、脳油が入っている脳油袋の中を通っている2本の鼻の穴に冷たい海水を入れて脳油を冷やし固めて重りとするそうです。浮上する時は、脳油の周りの毛細血管に、温かい血液を送り固まった脳油を温めて溶かすとの説が一般的なようです。
また、Kenneth Norris などの海洋哺乳類生物学者達の研究によると、マッコウクジラは脳油を音響レンズとしても用い、自分で発生させた音波を収束させて衝撃波を発生させてイカを失神させ捕食するとのことです。衝撃波を使って獲物を失神させるとは、人間の科学技術を凌駕している。私としては、衝撃波を発生させてクマを失神させるディバイスがあれば、登山を安心して楽しめていいと思うのだが、人間の科学技術はその領域にまだ到達していない。残念。
更に調べると、テッポウエビはハサミを素早く閉じる際にプラズマの閃光を伴う衝撃波を発生させ獲物を気絶させたり、サンゴ礁に巣穴を掘ったりすることもあるそうです。人間の岩盤掘削技術などよりも効率的な科学技術だ!プラズマ衝撃波で岩盤掘削できれば北海道新幹線工事に大いに役立っただろう。
人間は衝撃波を海洋生物の様に効率的で有益な技術として用いることが出来ているとは言い難いが、テキサスA&M大学の機械工学者たちはテッポウエビから着想を得て、さらに優れたプラズマ衝撃波を発せされるディバイスを開発中らしい。これはバイオミメティクスの一例です。ウィキペディア(Wikipedia)によると、バイオミメティクス(英: biomimetics)とは、「生物の構造や機能、生産プロセスを観察、分析し、そこから着想を得て新しい技術の開発や物造りに活かす科学技術」の意と定義されています。
正にこれは New World Translation of the Holy Scriptures 日本語訳の
ヨブ 12:7,8
7動物に聞いてみたらどうか。動物は教えてくれるから。空の鳥にも。鳥は知らせてくれるから。 8 大地を観察してほしい。大地は教えてくれるから。海の魚も知らせてくれる。
King James Version による
Job 12:7, 8
7 But ask now the beasts, and they shall teach thee; and the fowls of the air, and they shall tell thee: 8 Or speak to the earth, and it shall teach thee: and the fishes of the sea shall declare unto thee.
を思い起こさせる。
人間の科学技術をその効率性と有用性において凌駕するマッコウクジラやテッポウエビの衝撃波は遺伝情報という設計図によるのだが、これが偶然に出来たと考えるのが道理にかなっているのだろうか?DNAという文字を使って遺伝子という文章を書く。出来上がった文章が、科学者が書く論文より優れているのは偶然と考えるのは理性的なのだろうか?それとも、設計図を書くには高度な知性を要すると考えるのが理にかなっているだろうか?
続くヨブ12:9では、この様に述べられている。New World Translation of the Holy Scriptures の日本語訳によると
ヨブ12:9 これらも全て,知っているではないか。
エホバの手によって造られたことを。
King James Version によると
Job 12:9 Who knoweth not in all these that the hand of the LORD hath wrought this?
2023.1.6 数学の演算:掛け算、割り算は絶対的な真理か
2022.12.27 建て前と本音
先日、ネットに興味深いビデオと記事が載っていました。
https://www.youtube.com/watch?v=kPD392gJ9e0
https://news.yahoo.co.jp/articles/ee9cd6440e318d0137aae40ac33278031964dc1a
「1月1日は日本の祝日です。その日は日曜日で5日ぶりに雨が降りました。」という文章で 日 という漢字が7回出てくるが、7回とも全部違う読み方になるので、日本語は impossible (どうにもならない、ありえない)という事なのでしょう。
私にとって impossible なのは、多くの日本人の心に深く植え付けられている、建て前と本音の文化です。米国にはこの建て前と本音の文化が無いので、建て前を英訳するのは難しいですが、最初に私の頭に浮かんだ英語は diplomatic statement (社交辞令)です。何故なら、米国の政治家や実業家も建て前と本音を使い分けている人が少なからずいるからです。ちなみに、ネットで調べてみると、建前 は英語で what he is supposed to say というのがあり、当を得ている英訳だと思います。
https://eikaiwa.dmm.com/uknow/questions/1566/
一方、本音 は英語で what he or she really thinks or feels と英訳されている場合が多いようです。
建て前の厄介な点は、本当はどう思っているか尋ねても、模範的な答えの建て前しか返ってこないことにあります。いわば、忖度するだけ。本音は、親友同士のもの、というのが日本の文化に深く根付いているという印象です。建て前は礼儀正しい美徳で、建て前と本音を使い分けない人は下のビデオでも言及されている“ヤバい”人なのでしょう。
建て前と本音も impossible と私は思うのですが、さらに impossible な日本語として次のビデオも載っていた。
https://www.youtube.com/watch?v=V0qPE2fVKSE
立場が上の人にあることするように言われた場合に、それは良くない場合でも、反論せずに、「分かりましたと言って、しなければいい」というアドバイスを昔に受けたことがあります。この「分かりました」も「(分りました) そうします」と「あなたの言っていることは分りました (検討しましょう、多分そうしないけど)」の2通りに解釈できるらしいですが、相手は前者を意味していると思うでしょう。もし、相手が「分かりました」と言って、しないでいたら、私はその人を信頼しません。「分かりました」も建て前と本音の違いを表す言葉だと思います。
この点で私が指針としているのは New World Translation of the Holy Scriptures の
Matthew 5:37 Just let your word ‘Yes’ mean yes, your ‘No,’ no, for what goes beyond these is from the wicked one.
King James Version によると
Matthew 5:37 But let your communication be, Yea, yea; Nay, nay: for whatsoever is more than these cometh of evil.
です。YesはYes、NoはNoの方が、気を使って疲れ果ててしまわない分、いいと思います。思慮深さを示して接する必要がありますが、私はYesはYes、NoはNoとします。しかし、これも日本ではヤバい人の範疇に入るのだと思います。
2022.11.28 ナッジ
先日テレビを見ていたら、ナッジという手法が日本の自治体などで活用されていることを知った。ナッジ(nudge)とはOxford Languages によると prod (someone) gently with one’s elbow in order to attract attention. となっていて、『注意を引くために、肘で親切に突くこと』という直接的な定義になっていますが、より広義な意味としては、Cambridge Dictionary によると encourage or persuade someone to do something in a way that is gentle rather than forceful or direct となっていて、『あることをするように、強制的にではなくむしろ親切に説得するか励ますこと』と定義されています。
ネットで調べると、“『ナッジ』の意味は、「より良い選択を後押しするために、小さなきっかけをつくること」です。強制するのではなく、自発的に選択させるためのアプローチを指します。“と下記のウエブサイトで定義されている。
https://sports-for-social.com/3minutes/nudge/
別のサイトでは、“望ましい行動をとれるよう人を後押しするアプローチ … 人が意思決定する際の環境をデザインすることで、自発的な行動変容を促す” と定義されている
上記のサイトではナッジの活用例としてスウェーデンで行われている「思わず登りたくなる」階段がYouTube ビデオが掲載されていて、興味深い。
このビデオを見て、すぐに登山のことを考えた。親子が一緒に登山をするとします。もし親が山に登るよう子供に強制し、子供が嫌がっているのに強く𠮟りつけ、無理やり登山に連れていくなら、それはその子供を登山嫌いにさせる最も効果的な方法の一つだと思います。十中八九、その子供は登山が大嫌いになるでしょう。
もし、雪崩や落雷の危険が大いにあるのに無理して強行して子供を登山に連れて行き、死にそうになるなら、子供はもう二度と登山に行きたくないと思うのは当然でしょう。以前、私は強風で崖から吹き落されそうな中を単独登山していて、崖の淵を経由するルートで頂上に着いた時に、親子が強風に飛ばされないようにしゃがみ込んでいるのが目に入りました。私は滅多なことでは登山中他の人にアドバイスすることはありませんが、この親子はこれから崖の方を通って下山すると思い、思わず、「崖沿いはとても風が強く、吹き飛ばされる危険があるので、行かない方がいいですよ」と言った。その時の子供の表情を今でも思い出すことが出来る。それまで、強風と闘っている険しい表情の子供の顔が、笑み満面になった。あの喜びに満ちた子供の笑顔を忘れることはできません。私はその時心の中で、「良かったね」と言った。親は(父親と母親が相談しながら)どうするか迷っていたのでしょう。その親子は安全なルートで下山していった。大人にとっては大丈夫でも、子供は怖がっているのに、もし仮に、無理やり崖のルートで下山を試みていたら、その子供は登山嫌いになっていたでしょう。強制的に行わせることは知恵の欠如の表れだと思います。
ナッジを取り入れる利点の一つは、強制して𠮟りつけて行わせるのではない点にあります。一方、自発的に行わせることは簡単ではありません。動機づけの強さと持続可能性が問われるからです。この事に関する指針の一つになると私が思っているのは King James Version の
Matthew 11:28-30
28 Come unto me, all ye that labour and are heavy laden, and I will give you rest. 29 Take my yoke upon you, and learn of me; for I am meek and lowly in heart: and ye shall find rest unto your souls. 30 For my yoke is easy, and my burden is light.
で、New World Translation of the Holy Scripturesの日本語訳では
マタイ 11:28-30
28 疲れていて,荷を負い切れない人は皆,私の所に来てください。そうすれば,爽やかにしてあげましょう。 29 私と共に働いて,私から学んでください。私は温和で,謙遜だからです。あなたたちは爽やかさを感じるでしょう。 30 私と共に働くことは心地よく,私が負わせる荷は軽いのです」。
となっている、イエスの言葉です。
比喩的な意味で、登山中ザックの重さに辟易している時に、温和で優しい親切を受け、爽やかにされることほど嬉しいことはない。温和で爽やか、これがカギになると思います。親子で登山する際に、計画の時点から、子供に参加させるのはナッジの始まりになると思う。子供が花に関心があるなら、その山にはどんな高山植物があるのか子供に発表してもらい、花の写真撮影場所も目星を立ててもらう。登山中の食べ物や飲み物も子供の好みを考慮に入れて決定する。綿密な計画を立て、それを実行し、登頂し、下山した後も、露天風呂で爽やかさを味わうなどして、達成感を子供に経験させるのも登山を好きになるようナッジする一つの方法かと思います。そして、この事は登山に限った事ではなく、その様な訓練は、子供が成長していく過程で山のような障害や困難を勇気と理性を持って乗り越えていく上での、大きな助けにもなると思います。
2022.10.25 運動(体を動かすこと)の価値
日経Gooday2022年6月1日付記事『日本人のがんの4割は予防できる 環境や生活習慣がカギ』を2022年10月13日付日経新聞電子版で読むことが出来た。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC262Z60W2A920C2000000/
その記事で、私が注目したのは、がんとリスク因子の因果関係を示した図7。そこには、エビデンスに基づく科学的根拠として、運動が大腸がんのリスクをほぼ確実に下げることが示されていた。図7は国立がん研究センターにおいてなされた「科学的根拠に基づくがんリスク評価とがん予防ガイドライン提言に関する研究」に基づいて作成されています。注目すべき点の一つは、がん罹患率を上昇させる数多くの要因が挙げられている一方、唯一がんの予防要因として挙げられているのが「運動」。
運動、体を動かすこと、ストレッチ、ウォーキング等の体に及ぼす良い効果は昔から主張されてきました。今では、長く座りすぎているとスマートウォッチが警告してきて、立ち上がって体を動かすように促されます。
今回、運動が大腸がんのリスクを軽減させることが科学的にも裏付けられたわけですが、適度な運動が有益なことは、人間の造りからも分かります。例えば、New World Translation of the Holy Scriptures を見ると
Genesis 1:27,28
27 And God went on to create the man in his image, in God’s image he created him; male and female he created them. 28 Further, God blessed them, and God said to them: “Be fruitful and become many, fill the earth and subdue it, and have in subjection the fish of the sea and the flying creatures of the heavens and every living creature that is moving on the earth.”
King James Version によると
Genesis 1:27,28
27 So God created man in his own image, in the image of God created he him; male and female created he them. 28 And God blessed them, and God said unto them, Be fruitful, and multiply, and replenish the earth, and subdue it: and have dominion over the fish of the sea, and over the fowl of the air, and over every living thing that moveth upon the earth.
となっています。創世記1章27節によると、人は神に似た特性を表すことが出来る様に造られていて、物理学を理解し発電所や様々な乗り物を考案することが出来、化学を理解しゴムや洗剤や医薬品など様々な化学製品を製造し、医学を理解し病気を治すことが出来ます。歌を歌ったり楽器を奏でたりして音波を発生させ音楽を楽しむことが出来ます。詩や物語を書いたり、話をしたりして、読む人や聞く人を感動させることが出来ます。大自然の風景を見て美しいと感じ、汚い場所を不快に感じたり、他の人を許したり、自分の力を振りかざすことなく謙遜さを示すという様な神に似た特性も発揮することが出来る様に造られています。そして、28節によると、人は地球をエデンの園の様にして管理し動物の世話をするように造られているという事です。
ここでポイントとなるのは、地球を楽園の様に管理し動植物の世話をするには、体を動かすことが要求されるという点です。つまり、ある程度の運動をするように人体は造られているという事になります。この事を真剣に考慮する人はあまりいないと思います。私も過去10年以上、コンピューターで計算させるための計算式と、それを実行するためのプログラムを書いて、ランダムな現象からトレンドを抽出するために、パソコンの画面を見ながら座ってばかりで運動不足の生活をしてきました。その結果、ハッキリと分ってきた点は、人は体を動かさないとダメだという事です。体を動かさないと、体が硬くなり、血の巡りが悪くなり、腰が悪くなり、肩凝りという概念が無かった若い頃と違ってこれが肩凝りというものかと苦しむようになりました。座ってばかりで、体を動かさないと、様々な点で健康に良くないと実感するようになった。人は体を動かすように造られているという事を痛感するようになりました。
勿論、高齢の人や、体が不自由な人は、体を動かさなくても移動できる手段や、体を使わなくても家事ができる家電は必須でしょう。しかし、まだ元気に体を動かせるのに、そうしないなら、健康に良くないと感じるようになりました。去年のこの時期は減塩を目標に設定し、健康を促進させることに成功してきたので、今年は、減塩に加えて、特に冬季に運動不足にならないという目標を掲げることにしました。
毎日出来れば良いのですが、朝はフロアーを拭くかワックスがけ、もしくは掃除機掛けをして、体を温めて一日を始める。昼は、昼食の後ストレッチング。スーパーに関しては一度に買う品目を減らし歩いて行く頻度を増やす。夜のニュースを見るときは、椅子に座らず、フロアーでストレッチしながら見る。雪かきの頻度を増やす。これらを冬季の運動プログラムとして実行し、健康を損なう確率を減少させる。それでも運動不足となるなら追加プログラムを真剣に考慮し、冬に体を動かすことに真剣に取り組むことにしました。
2022.9.19 キュービット と 素数
2019年10月23日、グーグルが、世界最高速のスーパーコンピューターで計算すると1万年かかるとされている計算問題を、量子コンピューターで3分20秒で解くことに成功し世界に衝撃を与え、量子コンピューターが注目を浴びるようになった。量子コンピューターに用いられている単位として、量子ビットとも日本語で呼ばれている、キュービット(qubit)というものがある。Qubit は quantum bit の略語で、量子情報の基本単位である。この基本単位キュービットという言葉は、聖書に出てくる キュービット(cubit) という単位を連想させる。Qubitという言葉が cubit を参考にして生まれたのかどうかは分からないが、今回は、キュービット(cubit) と 素数 のかかわりをノアの箱船に関連して考察してみることにした。
自然数(正の整数 1,2,3,4,5,6,7 … )の内、2 以上の自然数で、正の約数が 1 とその数自身のみであるものを素数と定義されている。素数を挙げていくと、
2, 3, 5, 7, 11, 13, 17, 19, 23, 29, 31, 37, 41, 43, 47, 53, 59, 61, 67, 71, 73, 79, 83, 89, 97,…
と続いていき、素数のリストの一部は、以下のリンクから確認できる。
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_prime_numbers
素数に関して特筆すべきことは、2 以上の自然数は、素数の積で表せるゆえに、素数は2以上の自然数の基本単位になっているという点です。例えば、 51という自然数は3と17という素数の積で表せる、51=3x17。これ以上、2 以上の自然数に分解できない。何故なら、3も17も素数だから。 30という自然数は2と3と5という素数の積で表せる、30=2x3x5。42という自然数は2と3と7という素数の積で表せる、42=2x3x7。この様に、2 以上の自然数を素数の積で表すことを、素因数分解と呼ばれています。素数は分解できないので数の原子とも呼ばれることがあります。
さて、次はノアの箱船に関する キュービット(cubit)です。New World Translation of the Holy Scriptures を見ると、ノアの箱船の寸法は
Genesis 6:15,16
15 This is how you will make it: The ark should be 300 cubits long, 50 cubits wide, and 30 cubits high. 16 You will make a window for light for the ark, one cubit from the top. You should put the entrance of the ark in its side and make it with a lower deck, a second deck, and a third deck.
King James Version によると
Genesis 6:15,16
15 And this is the fashion which thou shalt make it of: The length of the ark shall be three hundred cubits, the breadth of it fifty cubits, and the height of it thirty cubits.
16 A window shalt thou make to the ark, and in a cubit shalt thou finish it above; and the door of the ark shalt thou set in the side thereof; with lower, second, and third stories shalt thou make it.
となっています。まとめると、箱船は、長さが300キュービット(cubits)、幅が50キュービット(cubits),高さが30キュービット(cubits) となります。そこで、これらの寸法を素因数分解すると
長さ 3x 2x5 x2x5
幅 5x 2x5
高さ 3x 2x5
となります。箱船は素数2,3,5で構成されていて、箱船の基本ユニットは
長さ 3x 2x5
幅 5x 2x5
高さ 3x 2x5
と見なし、この基本ユニット10個、 2x5=10 、で一つの箱船となっていると数学的に考えることが出来ます。そういうわけで、私がこの箱船を建造しなければならないとするならば、長さ30 cubits =3x2x5、幅50 cubits =5x 2x5、高さ30 cubits =3x 2x5 を1ユニットとして建造し、この1ユニットを10個造って、それぞれを繋ぎ合わせて箱船にします。しかし、長さ140メートル、幅30メートルの真っ平らな場所があり、そこには非常に長い、例えば70メートル以上の、真っ直ぐな樹脂の多い木が十分にあるならば、まず底の部分を造ってから、その上に10個のユニットを一つずつ組み合わせていきます。つまり、条件次第で、臨機応変に作戦を練ります。
さて、Genesis 6:15,16 では、箱船の寸法が規定されていますが、どの様な手順で造るかは明らかにされていません。もし、手順なども規定されているならば、その通りに造れば良いわけです。しかし、もし規定されてないならば、創意工夫して思考力を働かせて造ることになります。正解は一つではないでしょう。正解はこれだと言い張るような独断的な思考は避けなければなりません。ただ、箱船は内側と外側をタールで塗るようGenesis 6:14で指定されています。箱船の寸法を大まかにメートル換算すると、長さは133.5メートル,幅は22.25メートル,高さは13.35メートルで、高さと長さの比率が1:10、幅と高さの比率が5:3となります。それで、箱船を完成させてから、船底の外側にタールを塗ることは不可能なので、その様な手順は避けなければならないですが、それ以外は自由に創意工夫を凝らして造ることが出来ると楽しいと思います。そして、素数を土台に造るのはとても秩序立った方法で、一つのユニットを造るのに慣れていけば、楽しく匠の技を培いつつそれ以降のユニットも造れると思うので、私は数学的に素数をベースに造ります。ちなみに、
① 箱船は3階建て(3という素数)になっていて、船自体が一層頑丈になる
② 箱船の高さと長さの比率が1:10になっていることは,船体の安定性に資するもので,転覆を防ぐ効果がある
と以下で説明されています。
https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/102007008?q=%E3%83%8E%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%AE%B1%E8%88%B9&p=par
2022.8.29 Reasoning と Practical Wisdom
Reasoning を日本語に訳するのは難しいと思うのですが、日本では一般的に、推論、論法と訳されています。Reasoning を英語の国語辞典で調べてみると、
Oxford Languages では the action of thinking about something in a logical, sensible way
Merriam-Webster では the drawing of inferences or conclusions through the use of reason
となっています。つまり、論理的に考えて、結論に至る理由を熟考するプロセスが reasoning には必要です。
日本では、reasoning よりも、コンセンサスやある分野で権威とみなされている人と自分より立場が上の人の 意見 に従うのが良いこと当然のことと見なされ、これが日本人の『空気を読む』という文化の基盤を成しています。つまり、『誰々が言っているから、…です』という論法、理由付けです。しかし、この文化は米国では通用しないです。私が米国の大学で学んでいて、ある助教授と話をしていた時に、私はある権威者の見解を述べたところ、その助教授は “So what?”と切り返してきました。『それがどうしたの』という意味です。その時、これがアメリカなのだと思いました。米国では、その分野の権威者の見解を単に引用しても通用しない。その見解が なぜ 適切なのか、理由を明快に述べなければ到底受け入れられないのです。
しかし、reasoning するだけで上手くいくとは限りません。それで、今回は reasoning を practical wisdom と関連付けて考えて、reasoning の意義を評価してみたいと思います。まず、practical wisdom とは直訳すると 実際的な知恵 となりますが、日本では一般的に 実践知 と訳されていて、意味は 実際の場面において賢明で健全な判断を下せる能力のこと と説明されていますが、これは分かり易い説明の一つだと思います。
(https://plaza.umin.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/practical.html を参照)
それで、reasoning を practical wisdom と関連付けるのに役立つ一つの例を考えてみます。
New World Translation of the Holy Scriptures の Matthew 15:21-28 に出てくる興味深いやりとりです。日本語訳が出ているので、日本語訳を引用します。
マタイ15:21-28
21 イエスはそこを去り,ティルスとシドンの地方に行った。 22 すると,その地方のフェニキア人女性が来て,「主よ,ダビデの子よ,憐れみをお掛けください。娘が邪悪な天使に取りつかれ,ひどく苦しめられています」と叫んだ。 23 しかしイエスは,一言も答えなかった。それで弟子たちが来て,言った。「この女性を追い払ってください。後に付いてきて,ずっと叫んでいます」。 24 イエスは答えた。「私は,イスラエル国民の迷い出た羊の所にしか遣わされていません」。 25 しかし女性は来て,イエスに敬意を表し,言った。「主よ,お助けください!」 26 イエスは答えた。「子供たちのパンを取って小犬に投げ与えるのは正しくありません」。 27 女性は言った。「そうです,主よ。けれど,小犬も主人の食卓から落ちるパンくずを食べます」。 28 そこでイエスは言った。「素晴らしい信仰です! あなたの願う通りのことが起きますように」。すると,娘はその時,癒やされた。
マタイ15章22節では、このフェニキア人の女性は、娘を癒やしてほしいとイエスに頼みます。
イエスの論法は24,25節で
「私は,イスラエル国民の迷い出た羊の所にしか遣わされていません」
「子供たちのパンを取って小犬に投げ与えるのは正しくありません」
というものです。つまり、イスラエル人(子供たち)に与えられるべきもの(これには癒しも含まれるが、パンとして表現されている)を彼らに与えずに、異邦人(小犬)に与えるのは正しことではない、という論法です。
しかし、この女性はイエスの論じ方を用いて考え、reasoning し、27節で
「そうです,主よ。けれど,小犬も主人の食卓から落ちるパンくずを食べます」
と論じます。彼女は、「そうです」と言ってイエスの述べていることの正しさを認めてから、イエスの力はあまりにも偉大なので、比喩的に言って、パン本体を頂くには及ばず、食卓から落ちるパンくずにあずかるだけでも娘は癒されると reasoning しています。
これは、対峙する人の論法を用いて、相手を論破することよりも優れています。この女性の様に、相手の reasoning を適用して、相手のポジティブな面を際立たせ、それがまさに自分が求めていることにも適用できることを示して、相手に敬意を示すと共に自分の目的を果たし、その後も互いに良い関係を保てるという点で、対峙している人の reasoning を用いて相手を論破し打ち負かすことよりも優れています。この様な reasoning はまさに practical wisdom の模範例だと思いませんか?
このフェニキア人の女性は様々な面でイエスに対する信仰を示したので、イエスはこの女性に「素晴らしい信仰です!」と言ってこの女性を褒め、求められたことを行いました。(英語では、“O woman, great is your faith.”と倒置による強調という文法手法を用いて、この女性の信仰の素晴らしさを強調しています。) このフェニキア人の女性の様に、相手との意見の相違がある場合、相手の論じ方を用いてreasoningし、その reasoningを用いて相手の優れた点に焦点を当て、その優れた点を自分が述べていることにどの様に適用できるかを明らかにするというreasoningです。これぞまさに reasoning による practical wisdom の模範例だと私は思います!
2022.7.28 分裂した世界における個人のスタンス
最近の分裂した世界の影響を受けて、相手の攻撃的で否定的な言動に、同じように反応してしまうことが良く観察されます。つまり、自分の考えや行動が、他の人々の敵対的言動にコントロールされているという現象です。
一番分かりやすく例えれば、サッカーの試合で、対戦相手の挑発的なプレーや言葉に対して、怒り立ったまま行動しイエローカードやレッドカードを受けてしまい、挑発した相手は思う壺だとニタニタ笑っている場面かと思います。ワールドカップでさえ、そうした事があります。(その様な挑発に乗る選手は日本代表に選ばれていないと観察しています)このような作用と反作用ほどシンプルではありませんが、それと似たことが今の分裂した社会で垣間見られます。サッカーの試合では、相手の挑発的な言動に対して、ニコッと微笑むと、相手のフラストレーションがマックスに達しそうな反応を見ることが出来て、面白いですし、相手の調子が狂うこともあります。ポイントは、相手の敵対的な発言や行動に自分が同じように反応するならば、自分が相手の言動に支配されコントロールされているという点です。
そうした際に個人レベルで適用できる一つの原則は New World Translation of the Holy Scriptures を見ると
Romans 12:21 Do not let yourself be conquered by the evil, but keep conquering the evil with the good.
King James Version によると
Romans 12:21 Be not overcome of evil, but overcome evil with good.
となっています。要するに、悪い言動に征服されてはいけないことと、そのような悪を良い言動によって征服するという点です。
もちろん、状況次第では良い振る舞いで克服することが困難な場合もあるでしょう。サッカーを仮定として用いると一番分かり易いのですが、サッカーのアウエーの国際試合に応援に行ったら、対戦国のサポーターがこちらの応援に挑発的になるとしましょう。それでも試合後、対戦相手のサポーターからの誹謗や罵倒にも拘らず、スタジアムのごみ拾いなどの良いことを行ってから帰ろうと考えていると、相手国のサポーターがフーリガンの様に暴力的になってこちらを攻撃しようとしましょう。そのような場合は、攻撃されるのを回避するために、周りの清掃を諦めてすぐにスタジアムを後にしなければならないでしょう。そういう時でも、相手の非常に悪い振る舞いに心を乱され続けて、相手にコントロールされ続けるのではなく、むしろ冷静さを保ち、ポジティブで建設的な良いことに思いを向けた方が賢明かと思います。例えば、その国で出会った美味しい食べ物の写真をインスタとか twitter に投稿するとか、日本でも試してみたい、その国の良かった面に思いを巡らして、一部の暴力的なサポーターの影響をいつまでも受けないように心がけることができるでしょう。そのようにして、建設的で善い事柄で不当で破壊的な行為を克服するように努力できるかもしれません。何よりも、悪にコントロールされて征服されてしまわないことで、心の平安を保てるのは非常に価値あることだと思います。
2022.6.14 塩分摂取量
4月26日付の北海道新聞によると、キリンホールディングスと明治大学の宮下教授が、舌に電気刺激を与えた際に感じる「電気味覚」を活用する「塩味を1.5倍増幅する箸」共同開発した。
日本食は塩分量が比較的多いので、減塩食にするためには、これはとても良いと思う。私も昨年の秋に、昼食と夕食にラーメンを食べた後、血圧を測って衝撃的な高い数値が出てショックを受けた。冬は、摂取した塩分を汗で排出することがあまりできないことも一因で、血圧が高めになるので、薬のお世話になる前に食生活を改善することにした。ネットで調べたら、WHOは一日の塩分量5g、日本の厚労省は一日の塩分量6gを推奨している。
さらに調べて、「塩」という言葉でNew World Translation of the Holy Scriptures を検索すると
Colossians 4:6 Let your words always be gracious, seasoned with salt,
King James Version によると
Colossians 4:6 Let your speech be alway grace, seasoned with salt,
となっており、塩で味付けされた快い言葉を語るように心掛けるようにと、塩に関して良い面に言及。しかし、New World Translation of the Holy Scriptures では
Ezekiel 47:11 It will have swampy places and marshy places, and these will not be healed. They will be abandoned to salt.
King James Version によると
Ezekiel 47:11 But the miry places thereof and the marishes thereof shall not be healed; they shall be given to salt.
ともなっており、癒されないここと塩に病みつきになる(塩を取り過ぎる)ことを関連付けている。確かに、Salt Sea = Dead Sea。塩を摂取し過ぎることが怖くなって、減塩を決意した。
私の食べていたラーメンの麺の食塩量が2.5gでスープが7.5gなので一日2食ラーメンを食べたら、20gになりWHOの推薦量の4倍にもなるので、スープを半分残しても塩分過多になる。麺に塩分を2.5g入れても、保存にはよいが味に関しては関係ないと思う。食生活を吟味し塩分摂取量が厚労省の一日6gの目安よりもかなり多いことが判明。血圧が高めで気になっていたので、血圧が正常に戻るまで、ラーメンは極力食べないようにすることに加えて、一日の塩分摂取量5gを目標にすることにした。スパゲッティは麺自体には塩分が殆ど含まれていないので、ラーメンの代わりにスパゲッティにすることにした。乾麺の蕎麦も塩分が殆ど含まれていないのがあるので、ラーメンの代わりになるが、そばつゆは少々塩分量が多いのが欠点。
実際の一日の塩分摂取量は平均6g前後になり、減塩に慣れてきたら、冷凍食品やレトルト、スーパーの総菜などは塩味が強すぎると感じるようになった。昨年12月から減塩して3ヶ月後、血圧は上の方は平均130前後に安定してきた。現在、平均120前後になってきて、高血圧から脱出できた。特にシャワーを浴びた後とか、スーパーに歩いて行って血流がよくなった後血圧を測ると平均110前後になる。しかし私の場合、むくみが改善したことの方が減塩効果として大きいように思える。一方、減塩で足がつりやすくなるのではと心配していたが、連休中の40kmのサイクリングで、強烈な向かい風の中でも足がつる兆候皆無で快調。人によって減塩効果は当然違うだろうが、私はこれからも一日の塩分摂取量の目標5gを維持していく。しかし、「塩味を1.5倍増幅する箸」が発売されたら、目標の5g達成のため多分買うと思う。