オーストリア帝国の皇女がブラジルのポルトガル王家に嫁ぐのを契機に、1817年、オーストリアの学術調査チームがブラジルに派遣されました。その一員ヨハン・ナテラーは、ブラジル帝国独立(1822年)の後も調査を続け、1833年にアマゾン流域の異なる2地点でそれぞれ”ウツボ型の魚”(ウツボやデンキウナギなどと同じく”カラムル”と呼ばれていた)を採集しました。これが後にレピドシレン・パラドクサ(南米肺魚)とされる標本です。
当初ナテラーはこれを魚類と考えていましたが、1835年にヨーロッパに帰還した後すぐに、この2点の標本をウィーンの爬虫類学者フィッツィンガーに見せました。フィッツィンガーはこれを水生の”爬虫類”(現在の両生類に相当)と判断し、レピドシレン・パラドクサと命名しました。
(うろこ=「レピド」、両生類の一種=「サイレン」、逆説的=「パラドクス」。「逆説的なうろこサイレン」)
1837年、ナテラーはこのフィッツィンガーの見解を支持する形で、「爬虫類(両生類)」として、レピドシレン・パラドクサを記載しました。
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レピドシレンの発見の数年後の1835年、 西アフリカの英領ガンビア(当時)でトマス・ウィアーが「カムボナ」と呼ばれる地中で夏眠する不思議な魚を採集しました。
この標本は1837年6月にロン ドンに送られ、解剖学者のリチャード・オーウェンは、”プロトプテルス・アンギリフォルミス”(原鰭魚、ウナギ型の)と命名しました。これが現在のプロトプテルス・アネクテンスです。
しかし既にナテラーらの論文で爬虫類として発表されていたレピドシレンとの類似が判明したため、オーウェンは1839年に分析の詳細を発表し直すことにしました。オーウェンは、その席で、ガンビアの標本はレピドシレン・パラドクサとは別種であることを示した上で”レピドシレン・アネクテンス”(レピドシレン、近縁種の)と命名し直し、さらに、ガンビア標本もナテラーのアマゾンの標本も、両者ともに「魚類」であると主張しました。
また、この発表でオーウェンは、アガシーの化石魚ケラトドゥスCeratodus(1937年記載)の歯の構造との類似性を指摘しました。後にこれらは、既にセジウィックとマーチソンによって記載(1828年)されていた化石魚類ディプテルスなどと共に、歯板を共通形質に持つ化石魚類の分類群としてまとめられ、肺魚類Dipnoiとされました(ミュラー,1844年)。オーストラリアからケラトドゥス類の現生種が発見される(1869年)以前に、既にレピドシレン類との関連性が明らかにされていたということになります。
しかし実は、この“発見”よりも約100年も前の18世紀中頃、既に西アフリカのアフリカハイギョはアダンソンによって採集され、「トバル」という現地での名称でパリ博物館に収められていました。(アダンソンはリンネ式の命名法ではなく、現地語名で表記していました。そのため、リンネ式で表記することに統一された分類学の世界では、最初に報告されたトバルではなく後にリンネ式に命名されたアネクテンスの方が正規の分類として扱われています。)
アダンソンは当初はナマズの仲間としていたようです。これがレピドシレン類の新種であり、リンネ式の命名法で「レピドシレン・トバル」として分類されたのは、1855年になってからのことです。(カステルノが南米肺魚の新種を報告した際に分類されました。)分類学上、アネクテンスが受容され、トバルの名はアネクテンスのシノニム(異名同種)として消滅しました。
1842年から、ベルリン大学のミュラーらの後援のもとモザンビーク(当時ポルトガル領)の生物相の調査を行っていた動物学者ヴィルヘルム・ペータースが、1844年にザンベジ川河口近くの町ケリマネで新種のハイギョを発見し、新種とするならばリノクリプティス・アンフィビアと命名するとしました。これが現在のプロトプテルス・アンフィビウスと呼ばれる種の論文記載とみなされています。ただし疑わしい点があります。
モザンビーク
発表当初からアネクテンスと同一種として扱われたため「レピドシレン・アネクテンスのケリマネ標本」などとも呼ばれました。しかし、1868年にシュナイデルがケリマネ標本のうち肋骨数の少ない標本をアネクテンスとは別種とする見解を示し、これをプロトプテルス・アンフィビウスとしました。異論も多かったのですが、後にアフリカハイギョに複数の種を認める見解が有力になったことで支持する声もあり、さらに1951年にパーシーらがケニアで採集した小型肺魚について1954年にトレワヴァスがこれをプロトプテルス・アンフィビウスとして発表しました。これらの事情により、現在のケニア産小型肺魚は、プロトプテルス・アンフィビウスと呼称されています。パーシーの後すぐにソマリアからも同一種が発見されました。
ただ、ケリマネ標本の一部がケニア小型肺魚の標本と同種であという解釈には慎重である必要があります。また、当のトレワヴァス自身が、ケニアの小型肺魚の報告に際してケリマネ標本とは直接比較していないという事を記しています。
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1851年、ウィーン自然史博物館のヨハン・ヘッケルのもとに、スーダンのハルツームから上流に向かった地域(ゴンドコロ、現在のジュバ付近)における伝道拠点作りをしていたオーストリア帝国領スロベニア出身のイグナツ・クノブレヒャー(ノブレハ)司教から、白ナイル産のハイギョがもたらされました。この標本は、新種の肺魚、プロトプテルス・エチオピクスとして報告されました。(ヨハン・ヘッケルは、ナテラーと共に、ウィーン自然史博物館の魚類学の基礎を築いた人物です。同じくナイルのポリプテルス・エンドリケリも彼が記載しました。)
しかし当初より、エチオピクスは新種ではなく単にアネクテンスが大きく成長したものとする反対意見も存在しました。南米に1種「レピドシレン・パラドクサ」、アフリカに1種「レピドシレン・アネクテンス」という解釈です。
実はこのエチオピクスの“発見”以前に、白ナイル産肺魚はフランス人技師で探検家のアルノー(アーノ、Arnaud)によって既に欧州にもたらされていましたが、新種レピドシレン・アルナウディとしてカステルノによって種の記載がされたのはエチオピクスより遅れて1855年のことです。したがって、標本としては先行するのですが、アルナウディはエチオピクスのシノニムとして分類から名称が消滅しました。
アルノーは1840年からの遠征で北緯4°51′のゴンドコロと命名される拠点が築かれる地点付近まで到達しました。この探険の際に得た白ナイル産の肺魚(48.5cm)の標本が、1843年4月にパリ 博物館に収蔵されました。
※スーダンの研究者によりナイルから切り離されたワジの一部にプロトプテルスの生息が確認されており、染色体数に基づきそれがエチオピクスではなくアネクテンスであるとの報告があります。それぞれの種の分布に関しては現在に至っても未だ謎多き状況です。
クノブレヒャー司教は1849年に北緯4°10′まで到達しました。ヨーロッパ人としてナイル遡上の記録はアルノーらの記録を超えて、当時の最高記録となっていました。一旦欧州へ戻りその後ハルツームに帰還したばかりの司教と面会したのがアメリカ人旅行作家のベイヤード・テイラーでした。司教のナイル上流への探検に同行は叶いませんでしたが(テイラーは1851年、ナイルを北緯12°30′まで旅行)、1852年に司教が再び上流へ向かいゴンドコロに伝道拠点を建設している頃、テイラーはイギリスからインドのカルカッタ、さらには中国へと向かい、1853年4月マシュー・ペリー提督(海軍代将)の艦隊の船に乗って、7月、日本の浦賀を訪れました。
タンザニア
1843年から1847年にかけて、約5年間の歳月をかけて南米大陸をリオデジャネイロ~リマ~パラと往復横断した自然科学者のカステルノは、様々な動植物を採集しましたが、その中にはレピドシレンも含まれています。この旅には、後に肺魚とポリプテルスの胚発生を記録することになるバジェットも同行していました。
1855年に出版されたカステルノの南米探険の成果報告の中には、新種のレピドシレンとして、レピドシレン・ディシミリスが掲載されています。(他にも数多くの南米の生物が色彩豊かに描かれています。)また同時に、カステルノはハイギョに関してはイクチオサイレン目として分類し、その下にレピドシレンを5種置きました。それぞれ、パラドクサ、アネクテンス、ディシミリス、トバル、アルナウディです。
(ただし、のちに主流となった分類は、後者3つを廃して前者2つに統合する分類です。)
カステルノはその後、シャム(タイ)に滞在した後、オーストラリアに行きます。そこでオーストラリア肺魚発見の報に接し、さらに偽標本事件に巻き込まれることとなります。(後述)
1859年に、ダーウィンの「種の起源」が出版されると、進化論争は激化し、社会現象にまでなりました。ダーウィンはカモノハシと共にレピドシレンを「生きた化石」として取り上げました。
1869年、オーストラリアの大農場主で政治家のフォースターが、バーネット川に生息する大きくてピンクの身を持つ魚で地元では「バーネットサーモン」と呼ばれている魚を、親交のあったオーストラリア博物館のクレフトに紹介しました。
これが化石魚ケラトドゥス(セラトーダス)に酷似することをクレフトは見抜き、ケラトドゥス・フォルステリと命名して地元紙に発表しました(1870年)。クレフトは、これが魚の形をした”両生類”であることを強く主張しました。クレフトの標本は大英博物館のギュンターの元へ送られ、解剖・分析されました。(彼はこれは魚であるとしました。)
※権威ある学会での発表ではなかったことからか、大英博物館のオーウェンは意図的にクレフトに言及するのを避けていたようです。
※発見に関して同じドイツ系のギュンターやアガシーとの手紙のやりとりがなされています。ギュンターはクレフトを発見・命名者として尊重し、ケラトドゥス(セラトーダス)であることも認めケラトドゥス・フォルステリの名称を追認し、小型のものについてはケラトドゥス・ミオレピスとしました(ミオレピスは後にシノニムとして消滅しました)。
※学会との確執の深かったクレフトは後にその職を追放されますが、人種資料の日本人女性の裸の写真を所持していたことを猥褻物として非難されたことも解雇理由の一つだったそうです(Porn, pigs and poltergeists: museum's dark past out of shadows, Richard Macey, October 12 2002)。解雇の際は椅子ごと放り投げられたといいます。
※クレフトと対立していた博物学者のマクレイは、1874年に発足したニューサウスウェールズ州のリンネ協会初代代表となります。マクレイは1881年に『Descriptive Catalogue of Australian Fishes』(オーストラリア魚類の記載目録)全2巻を出版します。
このころ、シャム(タイ)滞在を終えたカステルノはオーストラリアのメルボルンに移っていました(1864年から1877年まで)。化石魚の生き残りの発見という大ニュースに湧く中で、オーストラリアハイギョが発見されたのと同じクイーンズランド州で 1872 年8月に、珍しい標本(実は幾つかの魚を組み合わせた偽標本)がブリスベン博物館のシュタイガーにもたらされ、スケッチがカステルノに報告されました。カステルノは新種の ガノイン鱗を持つ魚としてオムパクス・スパチュロイデスとして1879年に論文記載してしまいました。
アフリカ大陸初横断(前述のモザンビークのケリマネが終点)で知られる著名な探検家のデイヴィッド・リヴィングストンは、肺魚の情報も記録しています。
1871年3月30日にリヴィングストンはルアラバ河畔のニアングウェに到達したものの、カヌーの 手配に手間取り足止めされていました。その頃の日記に肺魚についての記述があります。
4月18日、「レピドシレンは「セムベ」と呼ばれている。」
5月16日、「肥えていることを見せるため、レピドシレンはポットの中から首元をつかんで持ち上げられている。」
この後、市場で奴隷商人たちによる襲撃・虐殺があります。
※前述のとおり、当時はアフリカハイギョは「プロトプテルス」と呼称する見解と「レピドシレン」と呼称する見解がありました。
10月24日頃、リヴィングストンはルアラバ川から引き返してウジジに戻ります。タイミングよく数日後の10月3日に新聞記者(のちに探検家)のヘンリー・モートン・スタンリー(スタンレー)がウジジに到着し、リヴィングストンを無事「発見」しました。「リビングストン博士でいらっしゃいますか?」のシーンとして知られています。翌年の1872年2月、2人はタボラで別れ、スタンリーは帰国し、リヴィングストンは探検を続けます。
リヴィングストンはタンガニーカ湖の東岸を南下します。キランドに入る前日、10月17日「私たちは泥の水たまりにたくさんのレピドシレンを見つけ、ハゲタカの群れがそれを捕らえて食べていた。男がその1匹を槍で刺したが、鱗がついており、尻尾は共喰いで食いちぎられていた。体長は2フィートほどで、背骨の近くに黄色い興味深い卵巣のような部分があった。肉は美味かった。」と書かれています。
※「卵巣のような部分」は卵巣ではなく、脂肪組織を指しているのではないかと思われます。
その後リヴィングストンはバングウェル湿地で亡くなります(1873年5月1日)。
コンゴ自由国(ベルギー王領、当時)で新種のハイギョが採集され、ベルギーの博物学の権威ブーランジェの元にもたらされました。
1900年に、この新種のハイギョはプロトプテルス・ドロイと命名されました。”ドロイ”の名称は同郷ベルギーにおいて、化石肺魚の系統進化の研究を行ったルイ・ドローの名にちなんでいます(ドローは恐竜の二足歩行型での復元や「進化不可逆の法則」の提唱で著名)。ドローの名がつけられたのは、新種のハイギョが過去最も椎骨の数の多いハイギョであったことと、ドローが肺魚類の系統の歴史には椎骨の増加がみられると主張していた事が符合したことによります。
また、ブーランジェは、アフリカハイギョはすべてプロトプテルス属に分類されるとし、さらに複数の種(アネクテンス、アンフィビウス、エチオピクス、ドロイの4種)を認めました。基本的にはこの見解が、現在も継承されています。
アフリカ各地で東西冷戦を背景とする独立戦争の嵐が吹き荒れた1960年、その直前までベルギー領コンゴ広域で魚類調査を行っていたブリュッセル自由大学のマックス・ポールらは、複数のハイギョの亜種を報告しました。
コンゴ川流域の広域に分布するプロトプテルス・エチオピクス・コンギクス、さらに、コンゴ川の河口域付近で採集されたプロトプテルス・エチオピクス・メスメケルシーのほか、コンゴ上流域(からザンベジ川流域にかけて)に分布するプロトプテルス・アネクテンス・ブリエニーが、亜種として報告されました。