ウガンダ
宿泊地:カンパラ、パクワチ
首都カンパラには複数の丘があります。
坂道が多い町です。
バイクタクシーにのると、路地を上ったり下ったり斜めに折り返したりと方向感覚も狂います。
大抵旅行先では道を記憶して後で記憶の整理のために地図に書き出すのですが、カンパラではちょっと無理でした。
(あとからGoogleマップで眺めてよしとします)
ウガンダでは、スワヒリ語は一応は公用語となっているのですが、むしろ英語の方が通じる状況です。
ただ近年、義務教育にスワヒリ語が加わったので、全国民がスワヒリ語を解する状況になる日も近いとのことです。
首都カンパラの人たちは、ガンダ語(ルガンダ)を話します。
出国前に色々と言葉についても調べていたのですが、ウィキペディアのガンダ語の項目が、まるで文法学習書かというような気合の入った充実度で驚きました。
挨拶と数詞だけ覚えてから行きました。
数詞のルールで一部わからないところがあったので、最初に泊まったホテルの給仕に教えてもらいました。
ホテルで食べたティラピアの丸揚げ、カレーピラフ付きです。
このサイズの魚を丸ごと出すというのはどうかと思いますが、味は見た目通りでフツウに美味しかったです。
ぶつ切りの切り身じゃないのは、ホテルなので見栄えにこだわっているのだと思います。
泊まったホテルの裏手が長距離バスのターミナル(各社乗り入れ)でした。
大きな会社の長距離バスは、それぞれ自前のターミナルから発着するので別の場所です。
目的地のパクワチの町へは大手2社が朝・昼・晩の便を出していました。
晩の便は襲撃に遭う確率が高くなるそうなので、朝の便が一番良いようです。
日の出とともにカンパラを出てても、都市部の渋滞を抜けるまでに明るくなってしまいます。
都市部を抜けるとあとはずっとスイスイ。
ひたすら北上。
草木と畑、草木と畑、草木と畑、<町>、草木と畑、草木と畑、草木と畑、<町>、草木と畑・・・
ずっと同じような風景が続きます。
そして、少し下って速度もゆるみ、突然のナイル川登場。
濁流、激流、迫力満点。
車を止めて写真撮影の時間をとって欲しいくらいの気持ちですが、当然、橋は撮影禁止で見張りの兵士も立っています。
短い橋をあっという間に通り過ぎました。
さらに北上すると、幹線道路が西と北に分かれます。
パクワチへは西へ進みます。
これといった目を引く地形も建造物もなく、「マーチソン・フォールズ国立公園」の北側を回り込むように進みます。
ちなみにマーチソンは最初に記載された化石肺魚のディプテルスの発見者の一人で、デボン紀の命名者です。後に王立地理学会の会長になります。
探検家のサミュエル・ベイカーがこの地域を探検した際に、滝に地理学会会長の名にちなんで「マーチソン・フォールズ」と命名しました。
サミュエル・ベイカーの波乱万丈の人生の歴史はとても興味深いものです。
ベイカーは今回の私の旅行の目的地のアルバート湖を発見した人物です。狩猟のために日本にも来ています。
※ちなみにその頃の日本は明治時代で、ちょうど世界旅行中のグラント元アメリカ大統領が訪日して明治天皇とお酒を飲み交わしていた頃です。
パクワチ:
昔は「西ナイル地方」と呼ばれていた地域に含まれます。
町の入口に鉄橋があり、この橋でアルバートナイル(一旦アルバート湖に入ったナイル川がアルバート湖から再び川になる)を渡って町に入ります。
警備の兵士が何人も見張っています。
パクワチ滞在中は、ガイドのウガンダ人に「橋は絶対に撮影するな」と念押しされました。
内戦中、この橋は突破されなかったとのエピソードを聞きました。
交通の要衝。
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補足:関連エピソード
「西ナイル」は「(名目上)トルコの最南端」でした。トルコってこんなに南まであったのと驚いてしまいますが、この地に探検家を送り出して領有権を主張したエジプトが当時「名目上」オスマン・トルコ帝国の属領だったからです(実態は既に独立国家でしたが)。
発見の歴史のほうで書きましたが、レピドシレン・アルナウディやポリプテルス・アルナウディの標本を入手したアルノーもエジプトが派遣した遠征隊としてナイル上流を探検しました。サミュエル・ベイカーもそうです。当時は探検した地域は探検家を派遣した国がその地域の領有権を主張しました。
現在の南スーダンにほぼ相当するエリアは「赤道州:エクアトリア」としてオスマン・トルコ帝国(の属国のエジプト(とスーダン))に編入され、ベイカーはその総督に就任しました。
太平天国の乱を鎮圧した常勝軍で知られるチャールズ・ゴードンが次の総督になります。ゴードンはスーダン総督を経て、辞任後はイギリスへ帰国します。(次の総督はエミン・パシャ(ドイツ系ユダヤ人医師でオスマン帝国領内で活動していた人物)です)。
その後スーダンでマフディー戦争が起き、ゴードンが鎮圧のため派遣されるもスーダンのハルツームで戦死します。英雄の死にイギリスの世論と政界は大きく揺れました。
脱出したエミン・パシャを救出するための遠征隊が組織され、それを率いたのがヘンリー・モートン・スタンリー(スタンレー)です。スタンリーはリヴィングストンを「発見」した探検以降は探検家として主にベルギー王の下でコンゴ川流域を探検し、その地域をベルギー王の支配下に置く結果を導きました。
スタンリーの遠征隊はコンゴ経由で、1888年4月アルバート湖南西岸のカヴァリにて、エミン・パシャとの合流に成功します。(「救出」が目的だったもののエミン・パシャは困難な状況になかったことや、スタンリーの同行者が引き起こした諸問題(ジェムソン事件)などが、この遠征の評価を複雑なものとしました。)
紆余曲折の後、1890年、スタンレーとエミン・パシャはバガモヨに到着しましたが、エミン・パシャがうっかり怪我をして療養のため現地に留まる必要が生じたため、スタンリーはエミン・パシャを連れての凱旋を果たせませんでした。
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(アルバート湖)
(アルバート湖の魚)
そして目的のアルバート湖にやってきました。
私はアフリカ各地へ旅行に行っても自分で魚を採集せず見るだけなのですが、それでも色んな立場の人が色んな名目で絡んでくることがあります。
ここでは宿泊したロッジのマネージャーが非常に有能で、予め必要となりそうな関係各所へ連れ回してくれたので何のトラブルもなく過ごせました。
役所の役人、漁協か市場の代表、漁村の村長、などなど。
私はあまり魚全般詳しくないので「コイとナマズとパーチと、、、」と低解像度スタートです。
それぞれのマニアの方は写真をひと目見ただけで、きっとすぐにビビッと詳細な情報まで脳に浮かんでくるのでしょう。
どんな種がいるのか、さらには同じ種でも分布地域ごとの違いやら何やら。
私は事前に準備していた情報をプリントしていった紙と見比べて、ゆっくりざっくり種の同定をしてゆき、それから漁師に現地呼称を教えてもらいました。
パクワチで話されている主要言語は「アルール語」です。一部の漁師は「ジョナム語」の話者でした。
同じ魚でもそれぞれの言語で違う名前で呼んでいるのが興味深いです。
(いずれ「ウガンダの魚類」のページにリストにしてまとめる予定です)
(非常にゆっくりとではありますが、更新を続けたいです)
(アルバート湖湖畔の漁村にて)
パクワチより北側はアルバート・ナイル
アルバート・ナイル河畔の漁村にて、厚い脂肪層を持つがために皮を回収される直前のデンキナマズ
アルバート・ナイル河畔の漁村にて
アルバートナイル河畔の漁村にて
アルバート・ナイル河畔の漁村にて
アルバート・ナイル河畔の漁村にて、ポリプテルス・セネガルス「オテルテル(アルール語)」
アルバートナイル河畔の漁村にて、肺魚プロトプテルス・エチオピクス「ルトゥ(アルール語)」
(アンコーレ牛の放牧)