03E. 脳内の情報処理の原理原則

感性を磨き、感覚情報の周波数範囲を広げることができれば、獲得できる情報の「質」が根本的に異なり、それを利用してパフォーマンス向上させることができる可能性があります。しかし、たとえ情報の質が向上したとしても、それらの脳内での処理は原理原則変わらず、これまでと同じように脳内で処理されると考えるべきです。

ここでは、脳内の情報処理 (Information processing) の原理原則について考えてみます。

What-Where-When


私たちの身体の外側の情報、つまり外界の情報、そこには空間的要素だけでなく時間的要素も含まれます(ここでは身体内情報については除外)。これらの要素は相対的にみて、i) 一つ一つのモノや部分部分の要素 (What) と、ii) 空間や場所といった広いスペースの要素 (Where)、そして iii) 時間の要素 (When)の3つに分けることができます。これに関連して、What-Where-Whenの要素の連結(学術的には連合association)した記憶をエピソード記憶 (Episodic memory)、What-Where-Whenが連結していない記憶を意味記憶 (Semantic memory)といい、海馬や海馬傍回 (海馬の周辺領域) での機能の関与が示されています (Eichenbaum et al., 2007; Dickerson and Eichenbaum, 2010)。また、場所をコードする細胞、場所細胞 (Place cell) は、海馬CA1とCA3で見つかっています (O'Keefe and Dostrovsky, 1971; Wilson and McNaughton, 1993)。

Whenという要素、つまり時間という概念ですが、脳内の表現型として捉えるのが難しく、これまでの研究では、どちらかというと、WhatとWhereの要素の比較を中心に発展してきました。Whatという要素は、一つ一つのモノや部分部分といった、英語ではItemという概念で表現することができます。それに相対するものとして、情景や文脈といったContextという概念です。ここで少しややこしいのですが、Contextという概念には、時間的要素が含まれます。これは、情景や文脈、そして全体といったものを把握するには、ある一定の、もしくは特定の時間を要するという理由からかもしれません。

またItemという要素は、自分の立ち位置から近隣の対象、Proximal cueと言い換えることができ、それに対して、自分の立ち位置から遠方の対象をDistal cueと言います。このDistal cueはContextとほぼ同義になりますが、この場合は、時間的要素は含まれません。さらにSpatialな情報とNon-spatialな情報という区分もあり、この場合は、時間的要素は、Non-spatialな情報に含まれます。

以上、まとめますと

Item (what) ― Context (where, when)

Proximal cue (what) ― Distal cue (where)

Non-spatialな情報 (what, when) ― Spatialな情報 (where)

です。

このように敬遠されがちなWhen要素ですが、近年、海馬CA1に時間細胞 (Time cell) という時間感覚をコードした神経細胞が存在することがわかってきました (MacDonald et al., 2011)。

これは簡単に言えば、課題中にある一定時間待たせるというイベントがあったとき、それを繰り返すことで、その待つという時間間隔に合わせて、神経細胞が発火するというものです。待つ時間の最初の方で発火する細胞、真ん中で発火する細胞、終わりの方で発火する細胞といった具合です。さらに面白いのは、待ち時間の設定を長くしたあと、繰り返した場合でも、最初の設定で終わりの方 (10秒後) で発火していた細胞が、"retime"して、新たな設定の待ち時間の終わりの方 (20秒後) に発火するというのです。少しずつ、When要素について解き明かされつつあります。



情報の識別 = バラバラにした情報の統合

それでは、これらの要素や情報処理に基づいて、外界からの情報はどのように認識されるのでしょうか。そのメカニズムについて考えてみます。

さまざまな感覚器や感覚細胞から獲得された情報は、電気信号に変換されて、大脳皮質のそれぞれの感覚野に到達します。このとき、感覚受容器が身体に点在、少なくとも2点存在することで、情報が受容器に届く時間から空間的要素 (What, Where)を獲得し、さらに時間的要素 (When) についても獲得されます。

それぞれの脳内の感覚野では、より詳細な情報の構成成分が識別されます。例えば、視覚情報であれば、一次視覚野を通過したあと、形や色、動体といった構成成分をコードする次なる階層の局所を通過することで識別されます。つまり、獲得された情報の細かい構成成分の識別は、まず、i) その構成成分をコードする脳内の局所領域が存在しているかどうか、そして、ii) そこを通過しているかどうかが重要であり、これらが明確でない限り、認識できていることにはならないというわけです。

このようにさまざまな感覚情報は、それぞれ一種類の感覚情報という脳内での枠組みの中で、情報の構成成分をコードする階層の数に応じて、バラバラにされてしまいます。

その後、すべての感覚情報は、現在のところ、ItemとContextという2つの要素に収束されていくと考えられています。ここで興味深いのは、これらの要素は、最終的に海馬を頂点とするピラミッド型の階層構造 (Hierarchy) で統合されていくと考えられている点です (Felleman and Van Essen, 1991; Van Essen et al., 1992; Burwell and Amaral, 1998)。それらの情報は、大きく分けて2つの経路、i) 側頭葉に向かうWhat経路と ii) 頭頂葉に向かうWhere経路に分かれることが知られています。

i) のWhat経路では、側頭葉から海馬傍回(正確には嗅周皮質から外側嗅内皮質)へと情報が流れます。一方、ii) のWhere経路では、頭頂葉から海馬傍回(正確には海馬傍皮質/嗅後皮質から内側嗅内皮質)へと情報が流れます。そして、それぞれの情報は、嗅内皮質でオーバーラップしつつ海馬に入力され、Item-in-Contextという形になり、情報が統合されます (Reviewed by Eichenbaum et al., 2007; Sauvage, Nakamura et al., 2013)。さらに興味深いのは、海馬内部のDG, CA3, CA1それぞれにおいても、What経路とWhere経路が明らかに保持されていることです。このように海馬では、情報が統合されると同時に識別されるわけですが、実は、そのような表現よりも、情報の統合 (Information integration) と情報の識別 (Information discrimination) とは、同じ意味である、つまりここでは、同義語である、といった方が正しいと思われます。

すなわち、情報の識別とは、いったんバラバラになった情報の構成成分を、一つずつ組み立てながら、過去の記憶と同じかどうかを識別しながら、外界の情報について認識していく、これこそが脳内での情報の統合 (= 情報の識別) と言えるわけです。


ここで述べたいのは、先ほど感性についての話がありましたが(リンクはこちら)、たとえ感性を磨き、情報の周波数範囲が広がったとしても、当然のことですが、脳内でその情報をバラバラに分けて、それらを統合する (= 識別する) 作業を行わなければ、残念ながら、その新規の感覚情報を生かしていること、利用していることにはならない、ただの妄想である、ということです。これはたとえ意識下であろうと、無意識下であろうと。

しかし、逆の言い方をすれば、これまで経験したことのない新規の感覚情報をバラバラにして、それらを統合する作業さえできれば、我々はその新しい感覚情報を生かせる、つまりその作業の工程自体がすでに生かしていることになり、その新しい感覚情報を利用できていることになる、と考えられるのではないでしょうか。今後、さらにこれらの考えを深めていきたいと思います。

部分で捉えるか、全体で捉えるか

次に、物事を深く理解していくアプローチについて、考えてみます。

物事を理解する、物事を深く理解しようとする場合、常に議論の的となるのは、一つ一つのモノや部分部分を捉えて話を展開させていくか、それとも情景や景色など含めた全体の流れを捉えて話を進めていくか、というものです。これは、まさに情報処理におけるItem vs. Contextというものに匹敵します。

Itemという情報処理を突き詰めていくと、どんどんとPattern separation過程にバイアスがかかっていきます。これは情報処理がますます厳格で、厳しくなっていき、一見正しいように見えますが、程度が過ぎると、Type II Error (False negative) に陥ってしまうことになります。Type II Errorとは、厳格さばかりを追求するあまり、すでに従来の基準を満たしているにも関わらず、基準を満たしていないと判断してしまう統計用語です。これは、もはや正しいことを言っておらず、間違っているわけです。非常に重要なのは、このとき、もうすでに「誤りとなっていること」に気づけるかどうかです。従って、Itemという情報処理においては、厳格さのバランス、つまりどこまで細かい点を見るかという線引きがとても重要です。本来の目的は何か、というように常に原点回帰が必要となります。

これは、例えば、ヒトの移動、飛行機の移動という力学を考えるときに、話が発展しすぎて量子力学を用いるようなものかもしれません。

一方、Contextという情報処理を突き詰めていくと、さらにPattern completion過程にバイアスがかかっていきます。これは、話の合理性、つまり、ストーリーの大きな流れからこうなるという納得感がますます強固になり、それにより、細かな違いについて見落としがちになります。そして、細かいところをうまく補完していくような曖昧さの絶妙なバランスがあればいいのですが、場合によっては、勢いに任せるような舵取りとなっていきます。従ってその弱点は、Type I Error (False positive) に陥ってしまう点で、これはType II Errorと相対する誤りです。しかしながら、大きな目的を明確に掲げて、大筋を把握しながら納得できるようなストーリーを組み立てていくという観点からは、けして侮ることのできないアプローチです。

ここで突拍子もないかもしれませんが、佛教用語の「小乗と大乗」の意味合いと重なってきます。皆さんがご存じなのは、小乗佛教と大乗佛教という言葉だと思いますが、これらは仏さまを探究するアプローチの違いを意味しています。ここで今回の話に合わせると、Itemという情報処理は、厳格さや形式を重んじる「小乗」であり、Contextという情報処理は、ストーリーの筋を重んじる「大乗」と言うことができます。

それぞれの弱点に関して、小乗は「形式や規則に囚われすぎて、動きがとれず、融通の利かなくなる傾向が著しい」一方、大乗では「独りよがりの空理空論をもてあそぶ、生意気な軽薄なものになりがち」(安岡正篤, 1997) と言われているのも興味深い点です。

そして、「小乗学ばずして大乗に至れるわけがない」さらには「小乗を正しく行えば必ず大乗に通じる」(安岡正篤, 1997) と言われるように、細かい部分を厳しく見つめるスタンスを取る一方で、しっかりと納得感を持って、全体の中で話のつじつまを合わせて進めていくという冷静さバランス感覚こそが、最終的に物事の「真理」に到達できる着実なアプローチと言えるわけです。

このようなアプローチは、佛教の世界に限らず、研究や教育はもちろん、ビジネスやプロスポーツなどあらゆる分野で当てはまり、応用価値の高いことは間違いありません。

Type II Errorに至らない見極め

ここで、じっくりと考えてみると、最も重要なポイントは「いかにしてType II Errorに至らずに見極めることができるか」という点に尽きるかと思います。厳密にやりすぎて、厳しくしすぎて、方向性がズレてないか、目的を見失っていないか。それが確認できれば、一歩進んで、再び厳密さを求めて繰り返す。この舵取りこそが、真理へと到達するための手掛かり、と言っても過言ではないのではないでしょうか。

結局のところ、「ここで言っていることは、当たり前の話をしているだけだ」「当たり前の話をただ難しい言葉を使って、こねくり回しているだけだ」と思う方がいらっしゃるかもしれません。しかしながら、実体験として、物事に対して深く探究していくと、ここでの指摘は予想外にも盲点になっていることがあり、けして軽んじるべきではないと感じています。実際に我々研究者において、Type II Errorに陥ってがんじがらめになっているケースをよく目の当たりにします(私自身も含めてです)。

上記の2つのアプローチについて、冷静になって考えてみれば、これまで気づきもしなかった面白いひらめきや発見に巡り合うことができるはずです。

2つのアプローチの絶妙なバランス、そこから生まれるひらめき、発見。これらができるのは、まだまだ人間の、人工知能AIには持ちえない奥ゆかしさ、素晴らしさであるように思います。


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