今回は国内で博士号を取得された後に日本企業で研究職を勤め、現在はハーバード大学メディカルスクールで研究をされている荒井健氏にインタビューを行った。企業を辞職してアカデミアでの研究を選ぶまでの経緯や、アメリカの研究制度や大学院の実情についてお話を伺った。
キャリアチェンジ:企業の研究職からアカデミアへ
まず、企業からアカデミアへと研究の場を移された理由について伺った。
「理由は2つありました。
1 つ目の理由は私の専門分野に関係することでした。私が企業で携わっていた疾患領域は、治療薬を開発することがとても難しい領域です。原因はいくつかあるの ですが、その疾患の病態メカニズムに不明な点が多くあることが大きな要因であるとされています。私は病態メカニズムを明らかにするための基礎研究を自分自 身の手で行いたいと思いましたが、企業では色々な制約があり、基礎研究だけを長く続けるのは難しい状況にありました。そのため、アカデミアの研究室でこの 疾患の基礎研究を行うことで、長い目で見て治療薬の開発に貢献しようと思いました。
2点目の理由は、自分自身の中にある研究者としての夢でした。 会社での研究生活は非常に充実していて楽しかったのですが、心のどこかに『自分の考えや仮説に沿った研究を思う存分したい』という気持ちがありました。日 本では難しいことですが、アメリカのアカデミアでは上手くいけば若手研究者でも自分の研究室を持ち、自分の興味のある研究を自分の考えで進めることが可能 です。そのため、非常に悩んだのですが、1点目の理由と合わせ、企業からアカデミアというキャリアチェンジをすることを決断しました。」
この荒井さんの決断に対する周りの人の反応は様々であったが、快く応援してくれる人もいたそうだ。
「企 業からアカデミアに移ることについての周りの反応ですが、意外なキャリアチェンジだと、やや否定的に捉えられることが多かったように記憶しています。た だ、同じ研究グループで働いていた同僚たちや、会社の年配の方々からは、とても暖かいお言葉を頂くことができました。たとえば、研究成果を自分の名前で外 に公表できないというのは寂しいところもあるだろうと理解してくださる方もいましたし、リスクをとって外に飛び出す気概を買ってくださる方もいました。ま た、外で色々と学んで、また会社に戻ってきてほしい、と言ってくださった方もいました。そのようなお言葉は本当に嬉しかった覚えがあります。実は、そう いった方々とは今も連絡を取り合っているのですが、いつも優しい言葉をかけてくださるので、自分は本当に恵まれているんだなと思っています。」
とはいえ、決断までには様々な悩みや不安があったそうだ。
「キャ リアチェンジを決断する前は、会社を辞めることに伴うデメリットが次々と頭に浮かんできて非常に悩みました。特に気になっていたのは、日本の企業を辞めて アメリカのアカデミアに行く場合に、生活の保障が全くなくなる点でした。言い過ぎかもしれませんが、日本企業では基本的には終身雇用となっているため、特 に大きな問題を起こさなければ定年まで安定して勤められます。しかし、アメリカのアカデミアでは、いつクビを切られてもおかしくありません。実際、身近で クビを切られた研究者を何人も見てしまいました。また、お金の話になってしまい恐縮ですが、給与面でも勤めていた会社の方が条件が良いことは分かっていま した。そのため、会社を辞めることで、自分の生活が不安定になるのではないかと、かなり不安になっていました。それに加えて、『自分の能力が通用するのだ ろうか?』という疑問も、キャリアチェンジを決断することを躊躇させる原因となっていました。
考えた結果、『企業からアカデミアに移って研究をしたい』という希望を優先し、目標に沿って頑張ろうと思いました。もしも自分自身の能力が通用しなかったら、そのときにまた考えよう、と思っていたように記憶しています。」
アメリカに来てみると、日本で想像していた以上に研究生活は厳しいと仰る。
「ア メリカに来てみると、デメリットとして考えていたことが、予想よりも厳しいということがわかりました。恥ずかしい話なのですが、会社に所属しているという ことがどれだけ安全な立場にいることかということを、当時の自分は全く理解していませんでした。今はアメリカのアカデミアという保障の全くない環境で研究 をしており、健康面か研究面のいずれかに問題が生じたら、その時点で生活がかなり厳しくなることがよくわかります。また、最近ではポスドクとしてアメリカ に来た外国人研究者が自分の研究室を持つのはかなり難しい状況です。私の周りにも、とても悲惨な状態に陥っている研究者が何人もいます。そういう人を見た り、アカデミア研究者の厳しい現状を聞いたりすると、自分は今後どうなってしまうのだろうかと、とても不安になることがあります。ですが、未来のことはあ まり心配しすぎても仕方がないので、とりあえず今のところはアメリカに来た2つの目的である『治療薬の開発に貢献できる研究成果を出す』と『自分の研究室 を持つ』ということに向かって集中しようと思っています。」
企業を辞することによるデメリットもあった一方で、荒井さんはアメリカのアカデミアにおける研究生活を送ることで得ているものもまた大きいと考えられている。
「アメリカのアカデミアで研究者となるメリットですが、私は主に2つのことを考えていました。
1 点目は、研究の方向性を自分の考えである程度決めた上で、自分で出した研究成果を自分の名前で公表できる点です。実は、私はアメリカに来て最初の1年半は 予想もしなかった酷い『トラップ』にかかってしまい、色々と苦労していました。ですが、その後は運よく持ち直し、今では小さいながらも自分の研究費をいく つか獲得して比較的自由に研究が出来ているので、1点目のメリットは享受できているかなと思っています。
2点目としては、様々な人と出会う機会が 増えるメリットを考えていました。日本の企業の場合は、大きな規模の会社で研究職をしていると、若手の研究者が外部の人と出会う機会はそれほど多くありま せん。しかし、アメリカのアカデミア研究者は、大学や研究室に所属しているとは言え、基本的には一人一人が『フリーランス』のような立場にいるので、活動 の自由度は日本の企業研究者よりもずっと大きいです。実際、こちらのメリットは予想以上に大きく、これまでに様々なバックグラウンドの人と出会うことがで き、会社にいたときよりも幅広い視野で物事を考えられるようになってきていると思っています。」
荒井さんにご自身の決断をどのように評価されているのかを伺った。
「会 社を辞めてアメリカの大学に来るということは、メリットとデメリットの両方があるので、この選択が正しかったかどうかは今もわかりません。ただ、こちらに 来て色々と勉強になっているのは事実ですし、研究生活もそれなりに充実しているので、キャリアチェンジをしたことについて後悔はしていません。ですが、も し今の自分が、会社を辞めるかどうかで迷っていた自分にアドバイスをできるとしたら、『アメリカに来る前にきちんと事前準備をしておくように』と言うと思 います。」
あらかじめ進めておく準備として、アメリカの社会や研究システムについて知っておくことを荒井さんは勧められている。
「日 本とアメリカでは、生活面は当然のこととして、研究面でも異なることが数多くあります。そのため、それらの違いに関する情報は事前に出来るだけ仕入れてお いた方がいいと思います。自分で体験してみないとわからないこともあるのですが、今の時代は書籍やネットなどを利用すれば、日本にいてもアメリカの実情を それなりに把握することができます。ですが、当時の私は仕事の引継ぎや引越しの準備などで時間をとられてしまい、事前の情報収集にはあまり力を入れていま せんでした。そのため、最初の頃はかなり大きな失敗もしてしまいました。現在の私にとって頭を悩ませている問題は、『充分な研究費を獲得する』と『独立し たラボを早く持つ』の2点なのですが、これらについても日本にいる時にもう少し細かい情報を仕入れておくべきだったと反省しています。今は、日々の実験を しながら、こういったことを考えるのにも時間を割かないといけない状況なので、『アメリカの研究システム』についての知識を日本にいるときに仕入れておけ ば、これまでの自分の研究生活はもっと効率的であっただろうなと思います。
先ほど触れたように、日米では研究システムが異なります。日本の方が良 い面もあるのですが、アメリカの方が優れている点も多くあります。そのため、アメリカには一時的な滞在として来る研究者でも、アメリカの研究システムを正 確に把握しておけば、日本に帰った後でも役に立つことがあると思います。というのも、現在の日本のシステムでは、日本人の『優秀な面』を必ずしも全て活か しきることが出来ていないように感じることがあるからです。」
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