今回は法曹界で仕事をされているYさんにお話を伺った。今でこそ高い専門性が要求される世界に身をおいているが、博士課程までは理学系の研究科で宇宙の研究をされていた。宇宙理論の最前線から法曹界に身を転じたYさんにその経緯を伺った。
(諸事情により今回はインタビューを受けていただいた方の本名は伏せさせていただきます。どうぞご了承ください。)
幼少から学部まで:自然への興味
自分を取り巻くこの世界がどのような仕組みで出来上がっているのか知りたい、そういう想いは誰もが持っている欲求の一つである。今回お話を伺ったYさんもそうした人の一人である。
「昔 から理科は好きでした。漠然とした興味ですが、中学、高校と進学するにつれてより関心が強くなりました。高校では中学と比べて高度な知識を教えてもらうこ とができたので、自然が段々と解き明かされていくのがおもしろかったことを覚えています。データと理論を用いて自然の摂理が解き明かされていくことに対す る関心はこの頃からあったのだと思います。」
自然に対する好奇心はこの頃から強かったそうだが、同時に法律に対する関心も持っていたという。
「あ まり明確なものではありませんが、自分の中で法律に対する興味があったことも確かです。学校が一方的に決めた校則に従わなければならないということがどこ から出てくるのか、その目的と内容にバランスはとれているのか、といったところに疑問を持ちました。そしてその延長として、世の中で皆が守らないといけな いと言っている法律はどうなのか、といったことを考えたのがきっかけだったと思います。」
法律と、自然科学に共に興味があったため、大学に進学する際は法学部に進むか、理系に進むかで選択肢は2つあった。しかし、法律に対する関心は漠然としており、明確なイメージを持てなかったため、それまでの興味に従って自然科学を専攻とすることに決めた。
「東 大には進学振り分け(編者注:東大特有のシステムで、学部2年から3年に進学する際に専門とする学部を決定する制度。理系から文系に進むことも可能。)が あるので、大学に入ったあとに法学部に進学することも可能でしたが、理学部に進み、自然科学を専攻にすることにしました。」
大学院時代:宇宙理論の最前線と,法律
Y さんは学部卒業後、大学院も理学系の宇宙理論を専門とする研究室へ進学した。「無」から創生し、インフレーション期およびビッグバンを経て137億年の歴 史を有する現在の宇宙、そしてその未来までを研究の対象とする、日本でも屈指の環境に身を置いて研究を続ける日々だった。大学院まで進学して自然科学を研 究することが、Yさんにとってどのような意味をもっていたのか伺った。
「大学院まで進学して宇宙理論を学んだのは、純粋な知的好奇心です。宇宙理 論を専門に選んだ時点で、実社会への応用はあまり考えませんでした。実際、宇宙理論をそのまま応用して社会で食べていくのは困難ですし。私は純粋に宇宙が どのようになっているのか、自分の周りの世界がどのような仕組みで成り立っているのかを知りたかったのです。」
幼い頃から持ち続けていた自然に対する好奇心はこうした形で満たされつつあった。とはいえ、法律への興味をすっかり失っていた訳ではなかったと語る。
「大学院に入って宇宙研究の最前線の成果や理論を相手にした日々が続いたことには満足しており、充実した毎日でした。しかし同時に、法律への関心もまだ失って はいませんでした。そこで法律の勉強の手がかりとして始めたのが宅地建物取引主任者資格試験(宅建)の勉強です。法律をそれまで専門的に勉強したことはあ りませんでしたが、当時は賃貸マンションを借りていたので、部屋の貸し借りなどで自分にも身近な法律であれば学びやすいかなと考えました。」
宅建の勉強を始めたのは博士課程1年目のことだったという。すると、これまで学んできた自然科学とは異なる世界におもしろさを覚えたという。
「そ れまでどっぷりと宇宙理論の世界につかっていたからこそ、自分が全く知らなかった世界が新鮮で勉強する意欲がかき立てられました。そして、学習を進めるう ちに、社会において人々が規律を保ち公平に生活できるよう、法律が考え抜かれて作られているという点に驚きを覚えました。」
法律の興味深 さに気づき、博士課程2年目には将来の職業として法曹界を意識するようになったという。市販されている本を用いての自学自習の日々が始まった。司法試験も 視野には入れ始めていたものの、本分は大学院生であり、研究に割かねばならない時間も当然あった。このため、なかなか勉強する時間はとれなかったが、それ ほどせっぱ詰まっていた訳でもなかったとYさんは話す。
「今から振り返ると、当時あまり焦らなかったのは、法律を新鮮な気持ちで勉強できていたことと、司法試験の大変さをまだよく分かっていなかったためかもしれません。」
大学院卒業後:企業への就職
大学院卒業後の進路には研究室に残留、企業への就職、司法試験の勉強に専念、という3つの選択肢があった。
「法 律の勉強をしたかったことも確かですが、それまで学生として大学に長く身をおいていたため、社会を見てみたい気持ちもあり、就職することを考えました。司法試験もそんなにすぐに受かるものではないですし、収入の面からも就職という選択肢を選びました。あと、研究室の卒業生は必ずしも研究の世界だけではな く、実社会に出て働いている人もいました。ですから、研究室ではアカデミア以外の進路についても自然に受け止められており、私自身も就職という選択肢を自 然に意識したのだと思います。」
大学院進学時には研究を直接応用して社会に役立てることを考えていたわけではないと話していたYさんだが、実際に企業を周り、就職活動を行った際はそうした考え方はなかなか理解をしてもらえず苦労したこともあったという。
「博 士まで進むと、専門性を活かすような就職を企業からも求められることが多いのです。あるいは、博士というだけで遠ざけられることまでありました。就職活動 時、博士課程修了予定という点を伝えると、『当社の業務内容に合致した人のみが採用の対象となります』と言われたりもしました。でもこれは問題ですよね。 博士課程まで出た人が大学院の専門とは直接関係がない分野に進んでもいいと思うのですが、社会はなかなかそれを許容しない。そういう意味では、博士課程ま で出ている人材の活かし方には疑問をもっています。実際、私の周りの卒業生を見ても、博士課程まで出ているということだけでその人柄・能力に疑問符がつく ような人は全くいませんでした。」
最終的に、Yさんは縁のあったIT企業に就職を決めた。
「企業で働いてみると、思っていたとお り、アカデミアとは異なった刺激を受ける日々でした。大学とは違って周りにいる人たちの多様性が増えて、様々な人が時には協調しながら、そして場合によっ ては対立することもある環境で仕事をする生活は、改めて法律の意義を考える機会になりました。会社に通いつつ、法曹界への憧れが強まったのは確かです。」
その後、仕事をしながら司法試験の勉強を続けていたが、勉強に専念するために3年間勤務したIT企業を辞職、その年の司法試験に合格し、法曹界で活躍される現在に至る。
大学院での学びについて
法曹界に身をおかれている現在の立場から、大学院で宇宙理論を研究した経験を振り返って、Yさんは次のように語る。
「宇 宙の研究を大学院までやっていて、それから法曹界で仕事をしていると、『宇宙と法律は全く違う世界ではないですか?』という質問をよく受けるのですが、基 本的な思想体系は全く一緒だと感じています。宇宙の研究をする際は、ある観測で得られた結果をこれまでの理論体系に照らし合わせて考察を重ね、新しい予想 を立てるという手法がとられます。おそらくこれはほかの自然科学系の研究でも同様ではないでしょうか。法律の世界でも、現実の世界で生じている個別の事象 を、既存の法律に照らし合わせて判断が下されます。そして、似たような事例を多数扱った結果として、法体系のほうに矛盾が生じていると判断されれば、そち らの修正が検討されることもあります。」
大学院で得られるのは専門的な知識だけではないとYさんは続ける。
「大学院では特定の事 象を自分なりに、しかし独りよがりにならずに捉え、探求するための訓練を受けることができると思います。未知の事象に対峙した際に、既存の知識を参考にし ながら対象を解き明かしていくプロセスは、大学での研究だけではなく、研究の現場を離れた実社会でも応用可能なはずだと思います。そういう基本的なスキル を身につける場として大学院を考えてもいいのではないでしょうか。また、こうした研究の環境は、会社だと様々な利害関係が影響してしまいますが、アカデミ アでは学問の自由も保障されていますし、一番自由な環境で研究に専念することができると思います。もちろんアカデミアでも様々な要素が研究には影響します が、少なくとも企業のように研究内容が実社会にすぐに応用できないからという理由で予算を削られるということはありません。逆に、大学院生にとってアカデ ミアの弱点は時間が限られていることです。時間が限られているために、どうしても研究内容に制約が出てきてしまいます。とはいえ、期限をきらないと研究が 進まないという側面もあるので、モチベーションの維持という意味では合理的であるともいえますが。大学院卒業後の進路に関しては、それまでの研究内容と仕 事が直結しているのは、それはそれでもちろんいいと思います。しかし、人生は限られているのですから、様々なことを経験するには、異なった分野に進むこと も必要だと考えています。」
今後のキャリアパス
現在日本で勤務されているYさんだが、この夏から海外の大学院に留学される予定である。現在、知的財産に関わる仕事に携わっているが、留学先でも知的財産を始めとして不当競争や独占禁止法などをさらに専門的に学ぶ予定だそうだ。
【Y氏】
法曹
東京大学理学部物理学科卒業。
東京大学理学系研究科物理学専攻修了(理学博士)。
IT企業勤務を経て司法試験に合格。
2008年夏より留学予定。
【編集後記】
法律と物理のいずれの体系も、複雑な対象を解き明かすために緻密な論理により構築されていることは想像に難くない。しかし、双方の世界をともに経験されているYさんが、両者が基本的に同じ思想の基に体系づけられていると断言されたのが極めて印象的であった。
既 存の知識体系を用いて対象の把握と分析を行い、必要に応じて知識体系そのものの再構築を行うという一連のプロセスはいかなる分野でも共通して行われてお り、大学院における研究もその一つである。どのようなキャリアパスを歩むにせよ、博士課程を卒業する学生は大学院で専攻した分野における論理展開の能力の みならず、それを一般化して異なった分野においても応用することを意識しておく必要があるのではないかと感じた。