「舟徳」の櫓の音

四万六千日。舟が櫓となって徳さんがこいでいる時に櫓のきしむ音が入っています。

http://www.esnips.com/playlist/358054fb-c5f5-4558-bb35-f77b646b2851

舟徳 金原亭馬生.mp3

舟徳 柳家小三治 小三治特選ライヴ 3 (キングレコード).mp3

舟徳 春風亭昇太.mp3

夢金にも音アリ

夢金 三遊亭金馬.mp3

夢金 三遊亭圓生 櫓音あり.mp3

じゃ三十石は?

三十石 三遊亭圓生 櫓声39_20.mp3

三十石夢の通路 米朝 吉朝?.mp3

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春風亭小柳枝の舟徳を末広亭で聞いた時、扇子を櫓に見立てて漕ぐ際、よじって「ギーッ、 ギーッ」と音を出していた。

初めてみてびっくりし思わず一人で拍手してしまいました。でも音源持ってません。誰か!

いかにちゃんと聞いていなかったか判るというもんですね。

ブルーさんの予測で馬生の舟徳が見つかりまして、あとは芋ずる式に「櫓の音」を探しています。

それにつけても 夏の舟徳ってすっきりするもんですね。

まずはここ

噺の成立

隅田川の噺

柳橋

猪牙舟

竹屋の渡し

竹屋のおじさん

大桟橋

名所江戸百景

三十石船

落語「船徳」の舞台を歩く

(写真からリンクしてるとこも見るとよい)

この辺詳しく調べたらきりがないですわ。

以前、圓生の水神、から三囲神社の三柱鳥居とか調べたら

終わらなくなってしまいました。

幕末の初代志ん生作の人情噺「お初徳兵衛浮名桟橋」発端を三遊亭円遊(初代)が滑稽噺に改作。

隅田川の橋がでてくる噺

舟徳解説サイト

地図

明治の柳橋

ちゃんとおかみさんが送り出してます。

江戸深川資料館に原寸復元の船宿&猪牙舟あり〼

待乳山聖天の所 。吾妻橋より上流

竹屋という船宿があったためといわれ、、、

文政年間(1818年~)頃には運行されており、昭和8年(1933年)の言問橋架橋前後に廃された

小三治ののでは「橋の上と芸者が行きます」と厩橋(1874年明治7年完成、柳橋より1.2km程上流、明治には駒形橋、蔵前橋は無い)が出てくる。ので竹屋の渡しの人といってもこのいそがしい日に船頭さんや渡し守が歩いていたのではないと思う。主人か隠居かな。

そもそも「竹屋の渡し」と呼ばれたのは、付近にあった茶屋の名に由来するともいわれいわれるので、茶屋のおじさんかも。

志ん朝、竹屋のおじさんを見上げていなかった。土手を歩いていたのだろうか、どちらにしても徳さんは上流に向って漕いでいるので、おじさんは本所側ではない。

鯉昇では、ちょっとだけ上を見ていた。

サゲも徳さんががお客に乗って岡に上がろうとする。客が”質屋”の息子と聴き「客まで流した」

吾妻橋の一つ下流に架かっている駒形橋の西詰めに小さなお堂が有り、これが駒形堂。 ここに大川に突き出た桟橋が有った。

おみやげに七味唐辛子。 薬研堀不動院

江戸時代からの老舗「中島屋」

有名な薬味屋。東京・浅草寺の門前「中島屋(薬研堀)」、長野・善光寺の門前「八幡屋」、京都清水寺の門前「七味家」

「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」

三十石船と食らわんか船

枚方宿の三十石船 「鍵屋資料館

くらわんか舟を復元

「くらわんか」が今でも名物!って悲しくないか?

枚方市

江戸ではうろうろ舟が墨田川に出とりました。

香港ではいまでもあるのかなー。

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音に付いて一言づつ、、、

舟徳

夢金にも隅田川を渡るところありますので、

ここからは番外編

さらに おまけ

小柳枝の聞いた

小さんの舟徳

鯉昇の舟徳 2007落語研究会

初代三遊亭 圓遊が改作した時、新暦か旧暦かちょっと判りませんけど。

旧暦として7/9の潮汐

旧暦では必ず上弦ですのであまり干満ありません

下げ潮は11:00から14:00なので暑い盛りっていうので真昼間だろうから上げ潮ってこたぁないでしょう。

新暦なら年が知れないとぜんぜん判りません。

付き馬は無かった?

おかめ団子の蒲団

馬生さんの音は極自然にいかにも扇子の音

小三治の音は低く扇子ではないように思える。

以外と細かいところにこだわって別の細工があるのかも?

櫓に縄かけて外れないようにしたりしてるし。昭和53年5月16日、新宿安田生命ホール

高座の木の板が鳴っている。だって舟濃いでないときも音してますわ。

昇太:受けねらいっすね。

金馬がやってたんですね〜!ビックリ

ドンドンと音するのはなんだろう?どうやっているのかぜんぜん不明。

なんと圓生さんも。

扇子の音以外にも「チチチ」ともう一つ音が入っています。何だろう?

圓生さんの三十石で船頭歌のあとに櫓の音を声で出しています。めずらしいぞ。

米朝師の三十石で これは吉朝の声だよね。

なんか今になって聞くと泣けてきますね。

DLサイトで発売になったので聞いてみた、マイクに近いのか櫓の音が大きすぎ!

ちょっとあざとく感じられます。発売するのは演者もちゃんと編集に立ち会った方がいいだす。寄席ではとてもすばらしく聞こえました。

竿を流さず、振り回します。

こうもり傘ではなく竿で石垣を客に突いてもらい竿が挟まっちゃう。

土手から女の子が見てないですか?

引け潮なので端の方が漕ぎいい。上りになるのでよけいくたびれちゃう。

上げ潮なのでくたびれて流れても桟橋近く迄たどり着く。

金沢では今でも旧暦四万六千日だそうです。

http://www.data.kishou.go.jp/kaiyou/db/tide/suisan/suisan.php気象庁の潮汐データ2008上弦

『守貞謾稿』巻之二十二』

昔、新吉原に通ふの游客は専ら庸馬(やというま)にのりて行く。すなはち馬士、小諸節を唄ひ行く。専ら土手の弘願山専称院の辺に て、馬より下り行く。大門まで馬にて行くもの稀なり。今世の四手駕は必ず大門に到り下る。大門、おゝもんと訓ず。だいもんと訓ぜず。今世の人、皆知る所と いへども、後人のために注す。日本堤(土手と云ふ)に呼次番屋あり。夜行あれば人ごとに柝(たく)を打つ。元禄中より駕多くなりて軽尻馬衰へ、今はこの馬 更に廃せり。

明暦三年(1657)一月の大火で元吉原が全焼し、八月から営業を始めた新吉原は日本橋から遠く、馬で通った者が多かった。ただ四年後の寛文元年 (1661)には馬での吉原通いは禁止されている。

「守貞謾稿」も京伝の「昔の遺言」の説をあげ次のように云う

附馬は今もこの事ありて、名もつけうまと云ふなり。土手馬と云ふ船頭のこと、今は廃してこれなし。今は山谷堀に船宿多し。また寛 文二年の書、馬駄賃を載すれども、すでに寛文元年の府命に、三谷傾城買ひの輩の馬および駕籠に乗り往くことを禁止あり。しかれば、わづかに一年のこととい へども、往時を誌せしならん。

町人が町中で馬に乗れたのか?武士ですら与力は馬に乗れたが同心は馬は不可であった。

出典 http://rakugo-fan.at.webry.info/201408/article_1.html

志ん朝師匠の「おかめ団子」には辻褄の合わないところがある。

おかめ団子の主人が蒲団を買うためのお金を 渡そうとするところである。多助は出された五両に対し、三両あればなんとかなると言う。大風で客足も少なく早じまいしたおかめ団子の店の売り溜めが八十貫 文。母親のために柔らかい蒲団を買うために必要な銭はその半分の四十貫文としている。江戸時代の初めの頃は一両が四貫文であったが、その後は概ね銭は安 い。一両、六貫文から六貫八百文ほどである。三両では二十貫前後で、五両でも三十貫から三十四貫文ほどある。五両でも蒲団買うのに必要とい う四十貫文には足りない。

蒲団がいくらしたか判らないが、いくらなんでも高すぎるぞ。

ふとん3枚が100両!!!http://www.chiang-mai-hotels-online.com/futon/10_1.html