「文七元結」の達磨横町

文七元結、唐茄子屋政談でユーメーな達磨横町って何処だったんでしょうね。 2008/9/10 9/14UP

噺の成立

聞いた演者

本所の達磨横町,左官の長兵衛宅は?

これでおしまい、、、

八百松楼

酒屋 小西

鼈甲問屋はどこ?

佐野槌を探せ!

長兵衛を上座に?

佐野槌から吾妻橋の道順

吾妻橋は俗称でした

お久帰る

歌舞伎

文七元結の店は?

三遊亭圓朝作

四代目圓生

初代三遊亭圓右、

四代目橘家圓喬、五代目圓生

に受け継がれる。

小三治 馬生 志ん生 志ん朝 談志 圓楽

これはあっさり「文七元結」の舞台を歩くに書いてありました。ので元ネタを探しました。

じゃ面白くないので、古地図にプロットしてみました

上から

小梅の水戸様:集金に行った

八百松:有名料亭

枕橋:掏られた?所。昔は源兵衛橋と云った。

細川の賭場:近所なのね

酒屋の小西:このへんか?

達磨横町:の裏店でしょう

長兵衛の家はちょっと不明?

http://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/library/news/tosyokannews2008/files/tosyokannews2008.06.pdf より

向島地図

水戸家下屋敷は現在墨田公園となっている

長家平面図

枕橋より浅草を望む

八百善で修行した人が開いた有名料亭

江戸時代には、寛永18年(1641)に関西からの下り酒屋として小西弥兵衛が芝口(新橋)に酒屋を開いた。老舗です。

横山町三丁目の鼈甲問屋近江屋卯兵衛の手代

(圓生)横山町二丁目(志ん朝)

白銀町三丁目の近卯と申します鼈甲問屋(圓朝)

石町二丁目・近惣(志ん生) 日本橋の近惣(馬生)

といろいろですね。

京町一丁目角海老楼 圓朝「佐野槌」と圓朝が演じた記録もある。

江戸町二丁目の角 馬生

江戸町を右に曲がって左(一丁目) 小三治

京町二丁目 志ん生 志ん朝

なかなか店の名前の書いてある図が無い。

出所不明の遊郭の図(文明に新吉原なんて無いぞ)

天明のまちがいだす。

実は現在も実在

日本橋地図 万惣は須田町

角海老,松葉屋,三浦屋は実在。佐野槌は??

ねずみがチューチュー(佐平次ネタ先行発表)

実は、小三治が正解。明治10年の地図に載ってました。

吉原のお勉強

吉原年表

明治の吉原写真

二代広重。東都新吉原一覧では江戸二

江戸一が正解。

とおもったら。二代広重の東都新吉原一覧に江戸二に名前が出ていた。文政9年〈1826年〉 - 明治2年9月17日1869年10月21日〉ていうことは、江戸一から江戸二へ移転したのか?

桂平治さんの話の中に

「すげぇなぁ、うちの師匠(志ん朝)。芝居だよな。あの吉原のおかみさんが長兵衛に意見する所、わざと上座に座らせるんだよ。いたたまれない様子が伝わるよなぁ」志ん橋

と書いてありますが、はたして出入りの職人を上座に座らせるでしょうか?確かにおかみは目線を上から下へ動かし廊下(通常入り口は下手ですが)から部屋に入れてますが、自分が座を動いたとは思えません。おかみも自室なら自分上座に居るはず。客間に通したとも思えない。

上下も長兵衛が下です。お久はおかみの右隣に座っていて(下手)長兵衛にとっては上座に居る。話すときも下を向いている。

と考えるのが普通でしょ?おせーて!

圓朝版では百両を2年で返す約束をしてます。

佐野槌を出て、大門をそこそこに、見返り柳を後にして、土提の道哲、待乳山、聖天町、山の宿、花川戸を過ぎ、吾妻橋

土提の道哲

かつて西方寺が日本堤にあったころ、小塚原の刑場に引かれていく囚人を日本堤の土手で念仏を唱えながら見送っていた和尚が高尾と恋仲になったという「道 哲」で、道哲の人情の厚きに感激し、その果ては恋に落ち入ったと伝えられているそうです。道哲の開基した寺が「西方寺」で、西方寺そのものを「土手の道哲」と呼んでいたそうです。

西方寺は吉原遊女の投げ込み寺であった。

刑場は 浅草元鳥越橋際から西方寺近所、日本堤上り口に移された(1645頃)、1667までには小塚原へ移転した。

この辺 塩見鮮一郎の本を読みましょう。目から鱗。

江戸期には正式には大川橋、俗称 東橋。

明治になって吾妻橋

1769年(明和6年)4月に浅草花川戸の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、着工後5年で完成。

刺青揃い、三枚のできたての四つ手駕籠

新品!の駕篭を頼んだんだね。赤岩or平松かな?

大伝馬町の「赤岩」、浅草茅町「江戸勘」、芝口の「初音屋」、吉原の平松、浅草の伊勢屋、新宿大木戸の高砂屋

日本橋辺から吉原大門までが金二朱、三枚なら三朱、四枚なら一分、

本郷から市ヶ谷までが百文、

浅草橋目付前から神田明神下までが夜駕籠四百文、

市ヶ谷御門外から日本橋玄冶店までが夜駕籠七百文、

六郷川前から観音(鮫洲《さめず》観音)前までが夜駕籠五百文、

飛鳥山から柳橋までが二朱と二百文 などという記録が残っている。一割りや二割りの酒手

2010/7/13赤坂ACTシアターにて観劇。

平成19年に新橋演舞場で勘三郎さんとこの『人情噺文七元結』を作り上げた時の脚本で。(山田洋次)

三遊亭円朝 口演

榎戸賢治 作

山田洋次 補綴

落語三遊派宗家 監修

一、人情噺文七元結

左官長兵衛 中村 勘三郎

女房お兼 中村 扇 雀

手代文七 中村 勘太郎

お久 中村 芝のぶ

角海老娘分お光 中村 鶴 松

鳶頭伊兵衛 片岡 亀 蔵

和泉屋清兵衛 坂東 彌十郎

角海老女房お駒 片岡 秀太郎

二、鷺娘

鷺の精 中村 七之助

広重

写真

蔵前駕篭

三遊派宗家って誰だ?

今回の歌舞伎では角海老、五十両、吾妻橋ではなく川端、小間物屋和泉屋清兵衛の手代、長兵衛は本所割下水に住む、酒屋小西はなし、和泉屋で場面はなし。小梅でなく向島の本田様屋敷に掛取り、

女将から博打も酒も断てといわれる。

文七が五十両を「こんなもの!」と投げつけようとする、気がついて振り上げた手を見上げる。志ん朝さんとおなじ。

円朝が口演した人情噺を元に、榎戸賢治が脚色し、明治35年(1902)に歌舞伎座で五世尾上菊五郎が初演

麹町 貝坂 圓生 志ん生 志ん生 小三治

麹町六丁目へ文七元結の店を開いた 圓朝

初代円右では麹町隼町

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現在の貝坂

文七元結をさがせ

元結の歴史

飯田説

地元では桜井文七をひいきにしてます。

守貞漫稿説

其角が知っているのだから桜井文七ではない

麻布永坂下文七元結発祥説

麻布の資料より

紙の名前

雁金文七説

其角の頃の暴れ者

鳶魚説

人名ではない

和紙を撚る時に使う銭車に使う銭の枚数七文

和紙を撚りをかけるのに使った?

水引の作り方

摎(こき)元結?

江戸語でモットイと発音する元結は、髪のもとどりを束ねる具のことで、組み糸や麻紐や細布の類だったが、江戸初期に和紙の平元結ができ、寛文 (1661─72)ごろに縒《よ》り元結が起きて、大いに普及した。幅一寸ほどに切った杉原紙・奉書紙・丈長紙を、長さ二、三丈ほどのこよりにして水に浸 し、上げて車で撚りをかけながら、布で水分をとる。水をこく、つまりしごくので、摎(こき)元結ともしごき元結ともいうのだが、水分を引くところから、水引き元 結ともいう。これに、布海苔《ふのり》と胡粉《ごふん》を練り合わせたものを塗って乾かし、仕上げに米糊を塗る。適宜の寸法に切って使う。すぐれた美観か ら、結髪だけでなく、装飾にも用いられた。進物などにかけ結ぶ水引がこれである。

太宰春台の『独語』にも、「寛永(1624-44)の比までは、婦女細き麻縄にて髪を束ねて、その上を黒き絹にて巻きしに、そ の後麻縄をやめて、紙よりにてゆう、越後の国より、粉紙にて元結紙というものを作り出して、海内の婦女皆之を用ゆ、それより絹にてまく事やみぬ、我が父ま さしく是をみしとてかたりき」とある。寛文(1661-73)に摎元結(こきもとゆい)が提供された。文七元結のように精巧ではなかったろうが、結髪の形 式を多様化した効力は偉大なものである。

延宝(1673-81)にはキンカ元結という細いのが出来、天和・貞享(1681-88)の浮世草子には隠し元結というのがある、元結はますます繊細になったらしい。

一般論としては

文七元結は、文七紙という真白な艶のある上質の杉原紙を使ったこき元結のことで、「文七」は紙すき職人の名だとも、引きの強い下野《しもつけ》産の文七紙だともいわれる

あたりが無難か?

信州飯田に於ける文七元結の説話である。桜井文七は元禄二年(一六八九)飯田箕瀬に居を構え飯田元結の改良につとめ光沢ある丈夫な品を作る事に成功した。 江戸芝日陰町に店を開いてその販路を広め飯田元結の名を天下にとどろかせた。

幕末にかかれた喜田川季荘の「守貞漫稿」(近世風俗誌)には文七元結につい て、文七元結と云うあり是は紙の名也、至って白く艶のある紙なれば此の紙にて製するを上品とす、云々。又或は文七は元結を製する人の名、其角が隣にて製之 と云は非なるべし。と云っている。

飯田では元結を始めていくらもたっていなかった時だった。信州飯田の長昌寺の供養塔の主は過去帳では「顕心院 庭小樹柏居士」で宝暦三年(一七五三)七月四日逝去とのことだから元禄の其角に知られた文七元結の頃はまだ子供だったことになる。したがって其角の云う文 七とは同一人物ではなさそうである。

其角 寛文元年7月17日(1661年8月11日) - 宝永4年2月

麻布の紙漉を調べている内に麻布永坂下文七元結発祥の地の記述を見つけ、調べを進めた。

私は、文七と云う人物と思って調査を進めたのです が、(世事談)と云う江戸時代の書物に文七と云うは元結を作る紙(杉原紙)の印の名である麻布永坂の文七元結は文七と云う者の拵へる杉原紙の印なりと記し てある。之によると文七と云うのは元結職人の名ではなく原料紙の名の様であるが(類柑子)宝井其角の句集の句によると人の名としか思われない、尤も其角の 文七は当時名うてのあばれ者雁金文七をさすものと思われる。句集に「文七にふまるな庭のかたつむり」があります。其角の隣家で元結を拵へる処があった様です。

雁金文七からでたものという説も捨てがたい。雁金文七は、元禄十五年(1702)に処刑された、浪速五人男の頭目で、寛保二年(1742)の武田出雲作の人形浄瑠璃『男作五雁金《おとこだていつつかりがね》』では、すでに美男の髪結という役柄になっている。 文楽人形の代表的な頭《かしら》(頭部)の一つである「文七」は、この所演の成功から定着した呼称で、豪快と憂愁を併せ持つ、松王丸・安倍貞任・斉藤実盛・熊谷直実・武智光秀などに使われるが、これらの人物に一貫しているのは、強靱性と悲壮美である。

『類柑子』に、文七という者とあるより、基角が茅場町の家近き辺に、さる名の元結摎がいたようでもあるが、この者の字は、筆耕の誤りで、無いのがよろしい と思う。原文も、者の字を抜い読んで、なんの差し支えが無い。それをそのままにしておいて、基角の時代に文七という者が居たとしても、文七元結はその男か ら起こったのではない。「摎元結、寛文の頃より起る。紙捻(ひねり)を長くよりて水にひたし、車にて撚りをかけて水をしごく、ゆえにしごき元結なり。ま た、文七元結というあり、是は紙の名なり、至って白く艶ある紙なれば、この紙にて製するを上品とする」(『近代世事談』)寛文から摎元結があったというの は、無稽(むけい)な説とも思われぬ。

文七元結は銭車で紙を捻り、その銭車が、背面に「文」の文字のある寛永通宝の中で、一番重みのある銭を選ん で六枚七枚重ねたのであったから、「文七」という名が出たのではなかろうか。我々は人名でもなく、紙の名でもなく、銭車の名称だと思うと共に、文七元結と は、捻った元結、細い元結のことと考える。

江戸の生活と風俗(鳶魚文庫23 中公文庫)

「紡錘車(ぼうすいしゃ)」弥生時代から使っていた

参考:

http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/korenaani/a/022.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A1%E9%8C%98

これって原始的方法で糸車じゃなかったのかなー

1. 原紙の巻き取り和紙を幅1.5センチ程度のテープ状に裁断し、水分を施して縒り機で二度縒りをかける。

力いっぱい引っ張っても切れないほど芯の強い紙糸が出来上がらなければならない。

こだわりの京都手こぎ水引だそうだ。

糊を水引の上にのせて、引っ張りながら後ずさりして作っていきます。このような製法から、「水引」と言われるようになったと言う説もあり

舟を漕ぐの「こぎ」なのでした。

こよりマニア?

三代目歌川広重『東京名所之内京橋通リ之真景』明治の絵ですが、右手の看板に文七元と描いてありました/〜

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