ひやかし

小三治師の「お茶汲み」のまくらででてくる「素見」「ひやかし」

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小三治のお茶汲みテキスト

http://www.geocities.jp/yamar_yoshi/essay-rakugo60.html

「そういうボロ綿のようなものにするために、大きな樽に水を入れて、そこに使われた紙を入れて暫く冷やかすと、ほどけてきてボロ綿が出来てくるんです。」

▲「樽」で古紙をふやかすって言ってますが、樽は保存貯蔵の密閉蓋付きのものなので「桶」ですだ。

http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/02/kaisetsu2.html

「そうやって浅草紙を作ってたのが、今の浅草の、馬道を吉原の大門の方へ行く途中の、あれは、すき、、、、、なんて云いましたかね、あの町名は。。。。。

<中略>

でも、職人たちは、数奇屋町、、、数奇屋町ですね、そこから来る人は、ヒヤカすだけですから、そうなるってぇと、花魁たちもひどいことを云うんですよ。」

▲数寄屋町はちがいます。「馬道を吉原の大門の方へ行く途中の、あれは」髪洗橋の交差点と勘違いしてるでしょう。

ついでに数寄屋町。不忍池と春日通りのあいだ、湯島に近いあたりのようです。

http://www.tctv.ne.jp/mkim/s-sukiya.html

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◆浅草紙、江戸から昭和の再生ちり紙についてhttp://homepage2.nifty.com/t-nakajima/column66.html

貞享4(1687)年の「江戸鹿子」に「紙すき町

◆江戸旧聞 江戸のリサイクル事情 http://www12.ocn.ne.jp/~kyubun/risa.htm

◆学研のページですだ。 http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/02/index.html

紙屑拾いと紙屑買いは別の職業。紙屑拾いは非人。

◆嘉永の地図http://map.goo.ne.jp/history/map.php?st=100&kr=16

◆田原町1丁目あたりが浅草紙の発祥の地だそうで。嘉永の切絵図にはカミスキ町はない。俗称みたい。

だんだん繁華になって山谷方面へ移行した模様。いつ頃から山谷堀になったかはわからない。

http://taito-culture.jp/city/landscape/si_asa003.html

◆山谷堀写真有り。 http://signal9.exblog.jp/m2007-03-01/

山谷堀紙洗橋の写真。現在も交差点名あり。現在の東浅草一丁目

◆足立区立郷土博物館に紙漉場再現されているようです。

http://www.geocities.jp/enza2002jp/edo-dou18.htm

◆浅草田原町 まちしるべ

この地は昔、浅草寺領の田圃であった。当時は紙漉(かみすき)を業とするものがいたので紙漉町といわれていた。その後、多くの人が住むようになり、寛文の頃(1661〜1672)には町が形成されたことから、三丁にわけられ浅草田原町と称した。町名は、もと田畑であったことにちなむという。

明治5年、三丁目が雷門通りをはさんで南北にわけられた。南側はこれまでどおり浅草田原町三丁目とし、北側は浅草北田原町三丁目となった。その後、昭和9年に一丁目の南側を浅草寿町三丁目に割譲して町域が定まった。

http://www.tctv.ne.jp/mkim/a-tawara.html

◆江戸切絵図延宝四年版(1676)には”カミスキ丁”の町名が記録されており

http://www12.ocn.ne.jp/~kyubun/risa.htm

江戸切絵図延宝四年版は発見できなかった。

◆『都市における資源循環システムの再編と地域社会の変動』

「第2章 再生資源回収業者の変遷」 浦野正樹(早稲田大学文学学術院教授)

http://www.waseda.jp/prj-sustain/Kaken2003-04/p1ch2.pdf

これによると、『王子製紙株式会社他1973『製紙業の100年 紙の文化と産業』に

2-1-2 再生資源回収業の前史と原型

(1)古紙回収業者

江戸時代における浅草紙は、すでに寛文(1661~73年)延宝の頃から浅草周辺で

製せられていたらしく、カミスキ町なる名称は享保年間(1684~88年)に早くも見

えるが今の田原町に続く辺りが発祥地で、それが漸次今戸、山谷の方面に及んだと言われ

ている。

元禄時代(1688~1704年)の作『江戸真砂六十帖』には、日本橋馬喰町

において紙販売業を営む紙屋五兵衛が浅草紙と称してくず紙を漉いた下等の塵紙を売り始

め、非常に繁昌したとの記録がある(東資協、1999:13)

江戸時代を通じて浅草、山谷方面はもっとも広く紙漉が行われ、かつ同地から産する紙

が特に古紙使用の漉き返し紙、いわゆる浅草紙として価格の低廉によって広く知られても

いた(東資協、1999:13)

しかし間もなく、徳川吉宗の享保の改革(1716~45年)とともに、屑物その他の取締り

は厳しくなり、享保八年(1723年)古鉄買に焼印札(鑑札)が渡されている。また更にこ

の年、質屋、古着屋等の人別帳を提出するよう命令し、組合設置を指示したと記録されて

いる。その対象は質屋、古着屋の他に古着買、小道具屋並びに唐物質屋、古鉄店売並びに

古鉄、古道具屋であった。

慶応から明治初年にかけて、江戸は頻頻と大火に見舞われ、全国的には連年の大凶作で、

農民の暴動や都市での打ち壊しが相次ぎ、土地を離れた農民や貧民が都市に集中流入し、

貧民街(スラム)を形成した。やはり江戸時代の当時から、再生資源のその低廉さ、使用

済みのものを扱うその性質上、貧民街に再生資源回収業が成立することが多かったようで

ある(東資協、1999:16)

明治初期から中期にかけては、建場業に関する記録、文献等はほとんどないが、浅草紙

の産地の周辺や、紙屑買いの多くが居住するスラム街の周辺にその多くが営業しており、

営業内容は江戸から引き継いだ古道具、古着、古金、紙屑、ボロ等が主力の何でも屋的な

ものであった。しかしその後、明治末期から大正初期ごろと推測されるが、収拾人からも

買出人からも買う兼営のものから、バタ建場(収拾人)と町建場(買出人からの買い入れ

を主とするもの)にはっきり分かれるようになった。

明治17年(1884年)6月に開設された上野駅は、貧しい東北の農民たちを都市に流入さ

せる役目を果たし、駅周辺、上野公園不忍池付近、浅草等の繁華街は、おびただしく廃棄

される紙屑、ボロ等の一大供給源であり、浅草、下谷には屑買い、屑拾いが定着し、古物

商、建場が林立した。これらの屑紙を原料として加工する漉き返し紙の製紙工場と原料問

屋は、田原町、今戸橋、三ノ輪付近に進出し、産出した再生品は江戸時代に続いて浅草紙

として東京名物の一つに数えられた。

明治後期になると、近代産業は造船、紡績、鉄鋼と急激に発展した。明治25年(1892

年)頃には、各種工業の発達とともに再生資源の種類も多くなり、業にたずさわるものも

自然と増加し、店舗も浅草の地から隣接地の下谷区入谷町、竜泉寺、万年町方面にまで及

んだ。

2-3-1 景気変動

(1)江戸時代 前述のとおり江戸時代に入り、都市において漉返し紙の需要が増加した。

資料によると、 特に南足立郡・千住村では紙漉きが盛んに行われており、享保の頃(1716−1736)

問屋組 合をつくってからはさらに生産が伸びている。また、浅草の田原町一体、

東本願寺東門前通りなどでも漉返しが行われ、もとは農民の余業であった漉返し業が本業となっていった。

その地域は紙漉町の名で知られ、貞享年間(1684—1688)の江戸絵図などにもその町名が 記されていることから、

江戸初期には漉返し紙が漉かれていたと推測される。(王子製紙 1973:60)。

みっけた!

◆グーグルアースで1680増補江戸大絵図みると田原町一丁目に並んで○○すき町とかいてます 。

▲ひやかしの言葉が出来た頃はカミスキ町ではなく山谷堀あたりの紙漉がひやかしてる間に吉原にいった。田原町からだと遠いし。元禄のころでは超高級すぎて職人にはふさわしくないっす。