江戸の魚河岸

江戸の魚河岸は、江戸初期から関東大震災までの間、日本橋北詰の東側と芝の海岸(芝浜)にあった。

http://www.asahi-net.or.jp/~uk5t-shr/sakana-koyomi.html

魚河岸四百年。元禄時代、需要増加と魚価の高騰で魚河岸はかつてないほどの繁盛。「朝千両の商い」といわれた。

http://www.sakanaya.co.jp/history/

江戸の河岸 魚以外もたくさんある、http://www.sumidagawa-fune.jp/kashi/

江戸の河岸と水運

http://www.shimasho.co.jp/koamicho-history.html

関東一帯の塩は、幕府の保護のもとに下総の行徳塩に依存していました。

「中川番所」は、河川交通路に設けられた川船改めの関所で、江戸へ出入りする人と物資の査検を行いました。

油問屋史 http://www.abura.gr.jp/contents/shiryoukan/rekishi/rekitop.html

房州 富山町史 一割船とは押送船の一称で、一割船営業を営む者を一割元と呼んだ。押送船で翌朝江戸着。

http://www.mboso-etoko.jp/dictionary/article.php?flg=2&code=1041

館山 享保6年(1721年)以降、江戸へ入る船は浦賀の番所で検査を受けることが義務付けられましたが、魚の鮮度を保つために時間を争う押送船は、浦賀を素通りする特別の許可を受けていた。漕ぎで一昼夜、順風で帆走すると10時間で江戸に着く。

http://enjoy-history.boso.net/book.php?strID_Book=0014&strID_Page=028&strID_Section=02

黒汐資料館 勝浦 http://www.rinkaisou.com/html/siryoukan.htm

下総鮮魚街道。銚子の魚を江戸に。

夕方鮮魚を船積みして銚子の利根川口を出発、利根川の中流まで約80キロを遡り、早朝陸揚げして馬に積み替え、江戸に近い江戸川の河岸場に運び、再び舟で江戸川を下って江戸に輸送するとい方法です。ただし積み出してから三日目の早朝までには江戸必着

http://www.tante2.com/namakaidoh.htm#1

布佐より浦部~平塚~河原子~冨塚~佐津間~金ヶ作~門前(現在の八柱駅付近)~陣ヶ前を通り、千葉大学園芸学部横の一丁目坂を下り、終着の松戸納屋川岸に達する。

布佐揚げの魚は新道に集中するようになり、いつしか鮮魚街道(なま街道)とよばれるようになった。

さらに納屋川岸から再び御用有運送船に積み込まれ、江戸川を下り、本行徳の前を通過し、当代島の手前で新川掘(これは徳川幕府が行徳浦安地域の塩田で作られた塩を江戸の運ぶために掘られたといわれています)に入り、中川番所前をすぎ、小名木川を経て隅田川に出て、日本橋川を上り、江戸・日本橋小田原町の魚河岸に達しました。

鮮魚輸送中は魚の鮮度を落とさないように笹の葉が使われました。

生きた魚は血を抜き、笹の葉を敷いた竹篭に入れれば数日はもち、さしみにもできたといいます。死んだ魚はえら・わたを抜き、笹の葉でサンドイッチのようにくるみ、竹篭に入れて送ったといわれています。