01_緒言

学問の世界から議論が消えつつある時代であるといわれる。研究者は、堀出した一個の骨から喧々諤々の議論を経て恐竜の全体像を復元するよりも、骨そのものに一人うっとりと見惚れることを選択する時代になった。

そうした現状を克服すべく、多分野を架橋した共同研究の必要が叫ばれ、実際にさまざまな試みがなされているが、必ずしも目にみえる成果を生み出していない。

問題はなにか。それは複数分野からの参入と熱い議論を呼び起こすようなテーマの不在である。学際的研究を必然とする斬新な視座の欠如である。

「空間」は多くの可能性を秘めたテーマである。聞くものの想像力をかき立てる言葉である。この研究会が、文系・理系の垣根を超えた若い研究者諸君によって提起されたことも、うれしいことだった。

これまでの二回の研究会で、「空間」はただの虚無ではなく、そこに豊かな可能性が封印されていることを参加者全員が実感できた。あとは、この空間をどこまで多彩な色と香りで埋め尽くすかである。

私も久しぶりに熱くなった。この研究会から、世界に発信できるような新たな学問分野を立ち上げていきたいものである。

佐藤弘夫(日本思想史学)


人文学、ことに歴史学は資料学である。この場合の資料は、人間が遺した文化的痕跡あるいは表象と言い換えてもよい。人間の過去の営みは何らかの素材を通して知られる。それゆえ、資料を読み解くためには、その成り立ちを知ることが求められる。対象とする資料の特性を十分に知り、資料の種類に応じたスキルを身につけることが学問の基本であることは、美術史学においても同様である。歴史学が資料学である限り、分野を超えて研究をおこなうことはなかなかに難しい。

そのように考えていた時、「空間史学」という研究会への誘いを受けた。このように切り取ると、その歴史学は「空間」を通して歴史を知る、つまり「空間」を歴史資料とする分野となる。そのため、空間の特性を知り、それを扱うスキルが求められる。

私はこの15年ほど「美術の場」をめぐる問題を考えてきた。美術が生まれ、使われ、伝えられる場とはどのようなものかという関心である。この関心から「空間史学」に近づくならば、「美術の場」もまた歴史資料としての空間には違いないと思い当たる。

この場合の空間は、美術と文字という一次資料から構成されたメタ資料である。歴史的空間がそのまま遺ることはまずないから、空間は必ず既存の資料に基づいて構成される。したがって、空間を資料として扱うスキルは、特定の分野に固有のものにはならない。というよりも、空間を資料として扱う十全なスキルはまだ存在していないに違いない。

「空間史学」研究会が大きな可能性を持つのは、まさにこの点にある。歴史資料としての「空間」とは何なのか、「空間」は歴史的にどのように語られるのか、既存の分野が智恵を出し合ってそれを追究する。この魅力的な作業が長く続き、豊かな実りとなることを過去二回の研究会は予感させてくれた。今後の展開を期待してやまない。

長岡龍作(東洋・日本美術史学)


建築史・美術史・思想史といった隣接領域分野の研究者たちと、「空間史学研究会」という学際的研究会の場を立ち上げた。テーマは「空間の歴史」。

建築史学では、建築の意匠・構造にくわえ、背景となる社会や文化までも問う。仏堂を例に取ってみても、そこに奉られた仏像はもちろん、まわりを荘厳する絵画、堂内で行われる儀礼、全体を包括する仏教理念、仏堂を運営する檀越や僧侶たちの思惑や政治など、解くべき問題は多岐にわたる。ゆえに、先に挙げた隣接領域分野と切磋琢磨する機会も、必然的に多くなる。

このような事情は、建築史学に限った話では決してない。このようなわけで、「空間」をキーワードに研究会をやることになった。使い古された言葉だと一蹴すること無かれ。使い古されてきたからこそ、いろんな分野で多義的に使われてきたのだ。

そんな予感が、見事に的中した。2010年11月、同研究会の第一回目が行われた。日本思想史の先生と私が発表に臨むと、そこにさまざま意見が飛び交った。こうも「空間」の解釈が異なっているとは! こんな刺激を得られるからこそ、領域横断的な研究会は止められない。詳細は現場にて。奮ってご参加下さい。

野村俊一(日本建築史学)