研究内容

これまで、統計力学の基礎的な問題を中心に研究を行ってきました。より具体的なテーマとしては、これまで

などを扱ってきました(上記以外の研究もいろいろと行っています)。以下では、それらの内容の中からいくつかを選んで簡単に説明します。

(なお、以下の説明における文献番号は、出版論文のページの数字と対応しています)

(最終更新:2022年5月)

●小さい系の熱力学

通常の熱力学はマクロな系を対象としており、物理量のゆらぎは無視できるほど小さい状況を取り扱います。これに対し、ブラウン運動するコロイド粒子や生体内の分子モーターなどの小さな系では、熱ゆらぎの影響を無視することが出来ず、物理量も激しくゆらいでいます。こうした激しいゆらぎは全く出鱈目に生じているものではなく、実はさまざまな非常にきれいで普遍的な関係式を満たすことが明らかになってきています。例えば「ゆらぎの定理」や「Jarzynski等式」はその代表例です。ゆらぎの定理は、第二法則や揺動散逸定理など、従来から知られていた熱力学、非平衡統計力学の関係式をそのコロラリーとして与えてくれる関係式で、非平衡統計力学に重要なブレイクスルーを与えてくれたものです。

私は、ゆらぐ小さい系の熱力学の枠組を用いて、さまざまな新しい熱力学の関係式を模索しています。


情報熱力学

情報熱力学は、小さい系の熱力学に情報理論を組み込み、測定とフィードバックを行う複合系における熱力学を考察している一分野です。「マクスウェルの悪魔のパラドクス」は情報熱力学が必要となる代表例で、通常の熱力学の枠組で考えると第二法則が一見破れたように見えてしまいますが、測定のフィードバックによる情報の変化まで考慮することで、拡張された第二法則やその他熱力学関係式を回復することができます。これがSagawa-Ueda関係式として知られているものです。

しかし私の研究以前には、情報熱力学を適用するには「測定のタイミング」と「フィードバックのタイミング」が外部の制御によって完全に分離されている必要がありました。情報熱力学の重要な応用先として、分子モーターや生体内の情報処理などが考えられていましたが、生体内の系は外から操作されているわけではなくいわば自律的に測定とフィードバックを行っているので、このままでは情報熱力学(特にそのゆらぎの理論)を適用することが出来ませんでした。これに対し私は、一つ一つの遷移のレベルで熱力学の関係式が成り立つ「部分エントロピー生成」という量を導入し、これを利用することで、自律的な場合を含めた一般の情報処理における熱力学関係式の導出に成功しました[2]。これにより、生体内の系などにおいて、どのように情報が使われているのかを議論する枠組みを整備することが出来ました。これを利用して、自律的な情報処理を行う系についての様々な性質も明らかにすることが出来ました[3,5,7]。


効率とスピードのトレードオフ関係

熱機関の効率上限がカルノー効率で与えられることは、今から200年ほど前にカルノーによって明らかにされています。また、準静的過程でカルノー効率が達成可能であることも示されています。しかし、準静的過程以外でカルノー効率は達成可能なのか、つまり有限のスピード(パワー)の熱機関が達成可能であるか、という問題は、直感的には「達成できない」のが明らかであるように見えるにもかかわらず、これをきちんと示すことは出来ておらず、カルノー以来の未解決問題として残されていました。

この問題に対し私は、情報熱力学の研究で導入した「部分エントロピー生成」に着想を得る形で、一般のマルコフ的な熱機関に対し、効率とスピードの間に普遍的なトレードオフがあることを示すことに成功しました[6, 16]。特にそのコロラリーとして、有限パワーとカルノー効率が両立しないという禁止定理が得られました。この結果は、長年の未解決問題に終止符を打つとともに、熱力学ではこれまで扱えていなかった「スピード」という要素を熱力学に組み入れる重要な結果であると考えています。ここでの結果を利用して、状態変化に対するコストを考える「速度限界(speed limit)」の古典系に対する議論を展開するなどの発展も行っています[14, 17]。

●孤立量子系の熱平衡化

孤立した量子多体系を非平衡状態にして放置すると、系は唯一の平衡状態に緩和します。これを熱平衡化、あるいは熱化と言います。ほとんどすべての量子多体系は熱平衡化することが数値実験や実験で確かめられていますが、可積分系など一部の系は熱平衡化しないことも知られています。与えられた系は熱平衡化する/しないのか、何が熱平衡化の有無を決めるのか、熱平衡化はどのように理解すべき現象なのか、といった問題が、この領域では活発に研究されています。


固有状態熱化仮説(ETH)に対する反例の構成

熱平衡化に対する有力な仮説として、固有状態熱化仮説(ETH)というものが提案されていました。ETHは「ハミルトニアンのすべてのエネルギー固有状態は熱的である」という仮説です。ETHが成り立てば熱平衡化が証明できること、数値計算により多くの非可積分系でETHの成立が示されたこと、ETHの成り立たない系は可積分系などの熱平衡化しない系しかこれまで知られていなかったこと、などにより、ETHは熱平衡化の必要十分条件ではないか、ということが予想されていました。

これに対し私は、非可積分で熱平衡化するが、ETHを満たさない系を無数に構成する「埋め込みの方法」を示し、この予想を否定的に解決しました[9,11,13]。埋め込みの方法は、一般には非可積分である複雑なハミルトニアンに、狙った状態を有限温度のエネルギー固有状態として埋め込んであげる方法です。この方法を用いることで、熱平衡状態ではない狙った状態をエネルギー固有状態に持つ非可積分なハミルトニアンを好きなだけ得ることができます。この方法は、最近活発に研究が行われている「量子多体傷跡状態(quantum many-body scar)」を一般的に取り扱う枠組みにもなっています。特に、量子多体傷跡状態が最初に発見されたPXP模型は、AKLT状態を埋め込んだ模型であることが示せます[18]。


熱平衡化の決定不能性

冒頭にも書いたように、「与えられた系が熱平衡化するか否か」というのはこの分野における一つの中心的な問題です。熱平衡化の有無を決める一般定理・一般手続きが発見されれば、この問題は解決されます。しかし、一般的な形での判定基準は見つかっていませんでした。

私はこの問題に対し、通常のアプローチとは全く異なり、理論計算機科学の手法を用いて「熱平衡化の有無の判定問題」がどの程度難しい問題なのかを解析しました。その結果、熱平衡化の有無の判定問題は、一般的な形では決定不能な命題であることが証明できました[26]。特に、系が1次元、並進対称で最近接相互作用のみであり、観測物理量が一体物理量の並進和、初期状態が直積状態という極めて簡単な状況設定でさえ、熱平衡化の有無は決定不能であることが示されました。この結果は、熱平衡化の有無は一般的な形では解決できない問題であるという、予想外の事実を証明したものです。なお、この証明過程では、計算機で解くことのできる任意の課題を熱平衡化現象に埋め込むことができるということを示しており、熱平衡化現象が予想されたよりもはるかに複雑かつ豊かな物理を内包する現象であることも示唆しています。

●非可積分性の厳密証明

Heisenberg模型やXXZ模型などの(量子)可積分系は、厳密な数理物理の立場から非常に活発に研究されています。可積分系は、多数の局所保存量を持つことが示されています。一方、ほとんどすべての量子多体系は非可積分系であることが信じられています。しかし、この期待にもかかわらず、具体的な量子多体系が非可積分である(局所保存量を持たない)ことは、数値実験などからは強く信じられていたものの、これまで厳密に示されたことがありませんでした。

私は、XYZ模型にz磁場をかけた系(以下XYZ+磁場系)を考察し、このXYZ+磁場系が局所保存量を持たないことを厳密に証明しました[21]。証明は、可能な局所保存量を一般的な形で書き出し、それがハミルトニアンと交換するという条件から、実際には係数がすべてゼロになってしまう(そのような局所保存量が存在しない)ことを示すというボトムアップの方法で証明しました。この手法はまだ一般的な形にはなっていないものの、他のいくつかの非可積分系にも適用できることが確認できており、その一般的構造を明らかにしていくことが課題です。

●量子熱力学・リソース理論

リソース理論は、許される操作のクラスが指定され、その下で与えられた量子系の状態を別の与えられた状態に変換できるか否かを考察する研究領域です。もともと量子情報分野で発達してきた研究領域ですが、特に許される操作のクラスとして熱力学的な操作を選んだものは「量子熱力学」と呼ばれています。


量子熱力学における熱力学第二法則の回復

熱力学的な操作(ギブス保存写像)の下での変換可能性は、古典系の場合にはいろいろな結果が得られていました。補助系を用いない場合や、「自身は変化しないが変換を助ける系」である触媒系を用いた場合には、熱力学第二法則以外の新たな原理的制限が現れることが明らかになっていました。一方、触媒を用いたうえで、さらに系と触媒の間にわずかな相関ができることも許した場合には、熱力学第二法則のみで状態変換の必要十分条件が完全に特徴づけられることも明らかになっていました。しかしこれらの結果は古典系に限られたもので、量子系の場合にどうなるかは全く分かっていませんでした。

私は、弱く相関した触媒を用いた場合の熱力学的な操作(ギブス保存写像)による量子系の変換可能性が、古典系の場合と同じく熱力学第二法則のみで完全に特徴づけられることを証明しました[24]。この結果は、熱力学第二法則の不変性を量子系の場合にも改めて確証させるものです。この証明では、古典系の場合の証明方法とは全く異なるアプローチを用いています。ここで考案された証明方法はかなり汎用性が高く、量子熱力学以外のリソース理論における変換可能性の特徴づけにも広く応用されています。


コヒーレンス(asymmetry)のリソース理論

エネルギー保存する操作のみが許されている状況を考えると、この操作だけでは、エネルギー固有状態間のコヒーレンスを新たに生み出すことはできません。エネルギー保存する操作のみが許される状況での変換可能性は、コヒーレンス(正確にはasymmetry)のリソース理論と呼ばれています。コヒーレンスについては量子熱力学とは状況が異なり、相関した触媒を用いても、インコヒーレントな状態はインコヒーレントな状態にしか変換できないことが証明されていました。そのため、コヒーレンスの変換可能性は、量子熱力学よりもさらに制限が強いのではとも思われていました。

これに対し私は、複数の相関した触媒を用いる場合を考えました。その結果驚くべきことに、複数の相関した触媒を用いると、任意の変換が可能になる、つまり完全にインコヒーレントな状態から完全にコヒーレントした状態への変換も可能になる、ということが分かりました[28]。この結果は、複数の相関した触媒を用いた場合には、コヒーレンスは全く状態変換の障壁にならないということを示唆しています。コヒーレンスは量子論を特徴づける一つの量ですが、この結果は量子性に対する我々の理解を深めるとともに、新たに解明すべき課題も多数提示するものです。