はじめに

技術というものは、原則として没個性的である。だれでもが、順序をふんで練習してゆけば、かならず一定の水準に到達できる、という性質をもっている。それに対して、研究だとか勉強とかの精神活動は、しばしばもっとも個性的・個人的ないとなみであって、普遍性がなく、公開不可能なものである、というかんがえかたがあるのである。それは、個性的な個人の精神の、奥ぶかい秘密の聖域でいとなまれる作業であって、他人にみせるべきものではない……。

しかし、いろいろとしらべてみると、みんなひじょうに個性的とおもっているけれど、精神の奥の院でおこなわれている儀式は、あんがいおなじようなものがおおいのである。おなじようなくふうをして、おなじような失敗をしている。それなら、おもいきって、そういう話題を公開の場にひっぱりだして、おたがいに情報を交換するようにすれば、進歩もいちじるしいであろう。そういうようにしようではないか、というのが、このような本をかくことの目的なのである。(梅棹忠夫『知的生産の技術』P8)


今から半世紀も前、梅棹忠夫という学者が次のようなことを考えた。「独創的な研究も、学習も、論文作成も、所詮技術に還元できるんじゃないの?」「そこに精神性だとか天才性だとかを認めるやつって頭悪すぎだろ」

そして、数多の人がこの思想に共感し、その技術を追い求めた。

Memo on the Electron (MoE) は、それに対する私の回答である。MoEでは、メモをテキストファイルの形式で保存し、それをファイラで管理する方法を取る。最適解となる技術はきっと、この方向性の延長線上にあるだろうと、私は確信している。